キョウ ハンガリー動乱
ハンガリー動乱

Blog「みずき」:辺見は言います。「フォイエルバッハでもいい。『……悩みのない存在は存在のない存在である。悩みのない存在は、感性のない・物質のない存在である』の、簡明で深遠なくだりを、青くさい昔の青年のようになぞってみたかった。これはとても大事なことだ。とてつもなく大切だ」、と。また、「ぼくは共産党からなにものかに『分類』され、あげく、不可視の暴力をうけた、とおもう。そうおもう、なにがしかの権利がある」とも。

いまからでも遅くはありません。共産党は辺見の問いに真摯に向き合うべきではないか。「これはとても大事なことだ。とてつもなく大切」なことだ、と私も思います。今回の問題は「理念」の問題というより「信」の問題というべきものです。いま、共産党の「信」が問われているのです。政治の初歩的な問題としての「民信無くば立たず」(「論語」顔淵。社会は政治への信頼なくして成り立つものではない)という事態が問われているのです。その政治の初歩の「信」(倫理)すら共産党及び共産党員は喪失してしまったのか、ということが問われている。そういう事態なのです。共産党のいう「国民連合政府」構想も結局は「民」の「信」の問題でしょう。そのことに共産党及び共産党員は一刻も早く想到するべきです。そして、いま、共産党及び共産党員の「知性」の真偽が問われている事態でもあることにも一刻も早く想到するべきでしょう。

以下、辺見庸「日録2」(2015/12/11)から。

「現世紀は私を、時間の夜明けの方へ、カオスの最後の日々の方へ連れてゆく。物質が呻きはじめるのが聞こえる。無機物の呼声が空間をよぎってゆく。私の骨は先史の闇に沈んでゆき、私の血は最初の爬虫類たちの血管に流れはじめる」。といった終末的話を、ニッポン共産党のだれかと、近くの居酒屋で、できたら小一時間ほどしてみたかっただけなのだ。いやしくも〈前衛党〉なのだものE.M.シオランくらい読んでいるインテリがいくらかはいるだろう。

この〝ことばのテロリスト〟のハンガリー事件論と日本共産党員のハンガリー動乱論にどのくらいの開きがあるのか、たしかめてみたかった。「今日、諸文明の老衰というテーマでならば、ひとりの文盲でも、その戦慄において、ギボンニーチェシュペングラ―に肩を並べることができるだろう」と、なぜ、シオランが言ったか、きみらの党のだれかと話してみたかった。シオランがダメだというなら、フォイエルバッハでもいい。「……悩みのない存在は存在のない存在である。悩みのない存在は、感性のない・物質のない存在である」の、簡明で深遠なくだりを、青くさい昔の青年のようになぞってみたかった。これはとても大事なことだ。とてつもなく大切だ。きみらはいくらなんでも『経済学・哲学草稿』くらいは読んでいるだろうね。「事物世界の価値増大にぴったり比例して、人間の価値低下がひどくなる」とは、マルクス主義者であると否とを問わず、絶対的な真理だ。

きみらの党の機関紙は、
永山則夫の作品をこれまでいちどとして紹介したことがないという。信じられない!『無知の涙』も『木橋』も紹介しなかったなんて。殺人を犯した者の作品はどんなにすぐれていても、どんなに深い問題をなげかけていても、党員および共産党支持者は読むな、というのか。それがきみらの世界観か。人間観か。ひとはたんなる1票なのか。そんなことでは『将来の哲学の根本命題』も『経哲草稿』も、ましてやシオランなどわかりはしないだろう。ひととしてそれはあまりにも悲しいことだ。きみらの党の機関紙は大道寺将司の最新句集『残(のこん)の月』を読者に紹介してくれるだろうか。きめつけてはいけないが、たぶん紹介しないのだろう。しかしながら、それはすばらしい句集だ。読んだら息がとまるほどすごい俳句なのだ。読者が知るべき本を紹介しないのは、べつに法律違反じゃない。だが、ぼくにはこうも見えるのだよ。口封じ、目隠しだ、と。畢竟、ひどい暴力だ、と。

きみらの党の機関紙がぼくにインタビューを申しこんでおいて突然中止したことは、なんども言うが、べつに大したことじゃない。週刊金曜日の「知らぬ存ぜぬ」も、大事件とは言えないかもしれない。知人のなかにも、あまりこのことにこだわると「変におもわれるかも……」というひともいる。わたしじしん、ときどきじぶんを「変におもう」。けれども、「変におもわれるかも……」と辟易気味の知人のことを、わたしはこのごろなんだかとても嫌いになった。うんざりする。永山や大道寺の作品を紹介しないのは、直接の暴力ではないけれども、本質的には、直接の暴力より手ひどい暴力だとわたしの目にはどうしても映る。おかしいだろうか。くらべれば、ぼくのことなどずいぶん些細だ。が、これも暴力だとぼくはかんじている。ぼくは共産党からなにものかに「分類」され、あげく、不可視の暴力をうけた、とおもう。そうおもう、なにがしかの権利がある。この夏、国会前でくりひろげられた「非暴力と統制と秩序」のページェントの陰画面には、きみらの党も大いにかんけいする国家暴力との積極的融合(野合)がいやでも見える。それこそが怖ろしい真性の暴力だったのだ。(
辺見庸「日録2」2015/12/11
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