キョウ 流砂

この国にブログやフェイスブックなどのいわゆるパーソナルメディアは厖大にあるのですが、日本共産党の機関紙「赤旗」の辺見庸へのインタビュー・ドタキャン事件について言及しているパーソナルメディアは検索エンジンで探してみても一、二・・・と数える程度しかありません。その最大の理由は、共産党という組織の民主主義の問題は、多くの人にとっては共産党というちっぽけな小組織の問題でしかなく、今日的なニッポンの民主主義の重要問題として認識されていない。多くのパーソナルメディアの主宰者にとってはかつての1パーセント未満政党としての共産党という組織の民主主義の問題はあくまでもニッポン政治の「辺境」の地の問題でしかない。だから、関心もない、ということがあるでしょう。

しかし、パーソナルメディアを駆使している研究者や弁護士やジャーナリストの数、また、自身を民主主義勢力の一員と自称し、他称されるパーソナルメディアの主宰者の数も厖大なものがあるでしょう。その中には共産党員、共産党支持者も少なくないはずです。そこからもこの問題について言及する声はほとんど聞こえてこないのです。おそらくこの人たちも、今回の「赤旗」のドタキャン事件が現在の政治変革の問題にもつながるすぐれて今日的なニッポンの民主主義の重要問題として認識、把握しえていないということもあるでしょう。

もうひとつ。そこには日本共産党の「民主集中制」という組織原則の呪縛と「党の論理」にからめとられてみずから自粛するという自縄自縛の弊に陥っているということもおおいにありえるでしょう。ともあれ、この問題について言及しているブログなりフェイスブックなりは存在しないかのごとき様相です。

だから、私は、なおさら辺見庸の闘いに呼応して日本共産党の機関紙「赤旗」の辺見庸へのインタビュー・ドタキャン事件をとりあげなければならないと思っています。警鐘はひとつよりもふたつ、みっつあった方がよく聞こえるでしょう。私が辺見のインタビュー・ドタキャン事件の闘いを転載し、掲載し続けるのはそう思ってのことです。
さて、以下は、辺見の昨日(5日)付けの「日録2」と管見の限り数少ない中のひとつの阿部浪子さん(文芸評論家)の辺見庸応援歌(ともに抜粋。強調と改行も引用者)です。

阿部さんはやはり文芸評論家の故平野謙の共産党への闘い(異議申し立て)とのアナロジーで辺見庸の闘いを見ています。阿部さんが例として挙げている当時の共産党副委員長袴田里見の同党からの除名事件については、私も、当時の「赤旗」の「人格の掌をかえすような評価の急変」に大きな違和感を持ったものです。袴田は魚釣りが趣味でしたが、それまで袴田を寸暇を惜しんで幅広い活動をする趣味人として描いていた「赤旗」がその袴田の魚釣りの趣味を党活動のサボタージュの例として連日「赤旗」で叩きだしたのには私もこの党の「デヒューマナイズ」(非人間性)の醜悪さを見せつけられる思いがして嫌悪感に堪ええなかったことを昨日のことのように思い出します。阿部さんの次の言葉が私の胸に沁みました。「人をブジョクしてはいけない。そうする側の人間性が、いま、問われている」。

辺見庸「日録2」(2015年12月5日付)から。

と、おめいたところで、いくら息んでみたところでだ、おまえらに唇をゆがめてヘラヘラ笑われるのがオチだ。じつはおれもクククククと失笑しているのだ。いやはや、おかしくておかしくてしかたがないぜ。ククククク。それなら、みんなして笑おうじゃないか。(略)アベは笑へ。シイも笑へ。キタムラも笑へ。ジンミンは笑へ。ゼンジンミンは笑へ。みんなして笑い死にしようや。ヘラヘラクククククププププ……。「吊せ 人民の敵/ブランコみたいに揺すぶるのがいる/まだ息するのがいるぞなんて最後に頭をたたき割ったのがいる/残酷なかれら」(1956年12月)。大した話じゃない。おれはパルタイに、あんたらの民主的な党議決定により、どのように「分類」されたのか、ちょっと知りたいだけなんだよ。「人民の敵」か。「反党分子」か。「反社会分子」か。それとも「狂犬トロツキスト」か。ヘラヘラクククククププププ……。「信じてくれ/賢い同志たち/これは可笑しい本当に可笑しい/ぼくは哄笑った ぼくの屍体が/笑うほかない屍体の身震いで」(1956年12月)。1956年12月だって!すごいじゃないか。おお、1956年12月。黒田喜夫は「ハンガリヤの笑い」を書いたんだ。おれは2行だけまだ暗記している。「ラコシって誰? あそこに吊下がっているの?/ナジはどこにいるの?」。ラコシは笑った。ナジは声ごと消された。ヘラヘラクククククププププ……。アベは笑へ。シイも笑へ。キタムラも笑へ。ゼンジンミンは笑へ。(辺見庸「日録2」2015/12/05

阿部浪子さんの「辺見庸Ⅱ―わたしの気になる人⑩」から。

辺見庸ブログ」が11月10日から再開した。「私事片々」の写真は、またも、あざやかだ。さまざまな、空のいろと雲のかたちに、かすかに陽が差している。私たちに何かを問うてくる。訴えかけてもくる。とりわけ、わたしは「日録1」の11月14日付のくだりに注目した。「赤旗」の「インタビュー・ドタキャン事件」について、食い入るように読んだのだった。とっさに「はだ寒い」ものをおぼえた。日本共産党って、ちっとも変わっていないじゃないか。ピアノを弾くという志位和夫が委員長になっても、宮本顕治の委員長時代と体質はおなじなのであろうか。共産党の機関紙「赤旗」は、作家辺見庸の新刊『1937』(金曜日)を読者に紹介するため、著者にインタビューを申しこみながら、急きょ、その中止を通告してきたという。この「ドタキャン」をめぐって、辺見庸は「ブログ」に連日くわしく書いている。問われているのは組織の責任だと、わたしは思った。志位委員長と小池晃副委員長は、誠実に応えてほしい。なぜ、中止におよんだのか、「ほんとうの理由」のていねいな説明が必要である。一個の人間にたいしても、独りの文筆家にたいしても人をブジョクしてはいけない。そうする側の人間性が、いま、問われている

文芸評論家で明大教授でもあった平野謙が死去したのは、1978(昭和53)年4月のことだ。もう30数年が経過している。「辺見庸ブログ」の先のくだりを読みながら、ふと、わが脳裏に平野謙の絶筆の文章がうかんだ。「政治の論理と日常の論理」(「週刊朝日」1978.1.27)と題する、『わが文学的回想』(構想社)のなかに収録されている1編だ。平野謙は食道がんの手術後で、死去する4か月前に執筆した。これだけは書かずにいられない。その執念と切迫感が、いまなお、文中からたちのぼってくる。1977(昭和52)年、委員長宮本顕治が、副委員長袴田里見を共産党から除名した。ボロクソにやっつけた。1933(昭和8)年12月から翌年1月にかけて発生した「リンチ共産党事件」いらい、2人は当事者として、切っても切れない結びつきを保ってきた。しかし、この「人格の掌をかえすような評価の急変」に、平野謙は黙っていられなかった。「政治の世界はきびしいものだ、などという常識的な感慨にながされずに、この異和感を率直にみつめれば私どもは意外に厄介な問題の所在につきあたるはずである」と。

さらに、平野謙はその絶筆を、つぎのように結んでいる。「私どもは日常の論理をしかと踏まえて、デヒューマナイズ(非人間化)されつつある政治の論理のゆくすえをみきわめる必要がある。そして、できれば日常の論理と政治の論理とのより高い統一を、一市民の立場からつねに模索する心がまえを忘れたくないものである」と。くりかえせば、現在、平野謙の絶筆から30数年が経過している。辺見庸は、平野謙の子ども世代だ。しかし、平野謙の投げかけた課題は、いまになお、通じることであろう。辺見庸は書く。「中止は党の『思想統制』にひとしいのではないか。問題は重大である」と。そう、「瑣事」ではない。「流砂的な政治状況のいま、これは考察の対象ではある」にちがいない。この「ドタキャン事件」は、重要な問題を私たちにも突きつけているのだと思う。だから、辺見庸が進みでて志位委員長に対話を呼びかけようとするのも道理である。「いまはどんな時代なのか」それについて本音で、辺見庸は、志位委員長と話し合いたいという。トップと話し合いたいなぞ、平野謙にはなかった。辺見庸の弾力的で真摯な姿勢であろう。

辺見庸は、この「ドタキャン事件」を「ただ、なんか不気味なものを感じる」「おかしい」とも、心情的に述べている。30数年前、宮本が側近の袴田をばっさり斬ったことについて、「すさまじい」とか「はだ寒い」とか、当時、一般市民は感じ、受けとめたのにちがいない。平野謙はこれを「一般市民の正常な反応」と書く。しかもそれを、ほとんど自明のこととして書いているようだ。しかし、30数年後のいま、人たちは「正常な反応」を率直に示すだろうか。わたしは気がかりだ。一般市民は、この危機の時代に共産党の「ドタキャン事件」をどう見て、どう感じているのだろう。平野謙はさいごに、「政治の論理」を「一市民の立場からつねに模索する心がまえを忘れてはならない」と、私たちに注意をうながしてきた。一般市民が「正常な反応」を堅持するためには、日常感覚を鈍磨させてはいけない、ともいう。「冷酷無残なことを冷酷無残とも思わずにやってのける」かれらの「非情な政治の論理」は、たえずチェックする必要がある。私たちは、辺見庸が指摘するように、いつも「研ぎすまされた感性」が求められているのではないだろうか。(阿部浪子「ちきゅう座」2015年11月29日
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