キョウ ムンク

【パルタイに人間はいるのか】
クリスマス前に共同通信の後輩たちと酒をのむことになった。たぶんわたしの「生前葬」みたいなもの。そこでもかならず話題になるはずである。
倉橋由美子ふうに言えば「パルタイ」のこと。ボケるいっぽうのこちらはつい忘れかけるが、まわりはなぜだかとても気にしている。「あれ、どうなりましたか?」「もうやらないんですか?」ときかれる。

「あれ」ってなんだろう。「やる」ってなんだ。ぼくもじつはよくわからない。まわりもこの問題の「質と所在」をしっかりとわかってはいないだろう。問題の「質と所在」となると、共産党の小池副委員長もどうなのだろうか。「パルタイ」はいまだにのっぺらぼうだとおもう。のっぺらぼうをいちいち気にしていたら生きてはいけない。だが、のっぺらぼうぐらい怖いものはない
商人はのっぺらぼうに肝を冷やす。そのことを言うと、蕎麦屋がふりかえる。「それって、こんな顔ですかい?」と。二重におどろかされる。「なにもないこと」にだ。怪奇は「ある」ことにではなく、なにも「ない」ことなのだ。ないことぐらい怖いことはない。

「赤旗」のインタビュー・ドタキャン事件で、小池副委員長は「遺憾です」と言ったという。イカンってなんだろうか。主語も目的語もない。なぜないのか。なぜ言えないのだろうか。パルタイに人間はいるのか。善かれ悪しかれ、人間がいるのか。そう問うわたしのほうがおかしいのか。法外なのですか。

おい、パルタイよ、ふりむけよ。ふりむくぐらいしてみろよ。わたしに、おまえはのっぺらぼうか、と問われたら、「それって、こんな顔ですかい?」とふりむいて、ありていな顔をみせるってのが最低限の礼儀じゃないのか。越年する気か。

編集者M君から電話。対談原稿でわたしがphenomenonのことを「フィノメノン」と表記していることを、「フェノメノン」ではないかという。ぅわたすぃ「うーん、そっかあ、フェラチオがフィラチオじゃ感じでねえしな」。M君「……」。これだからパルタイもふりむかないわけだ。でも、フェラチオではなく「フィノメノン」ママとする。(
辺見庸「日録1」2015/11/30

Blog「みずき」:「日録1」2015年11月14日付けの項に「抑制的ながらわたしの下品なユーモアを解し、しかし、あくまでも礼儀正しいので・・・おもわず歳を訊いたら、こともなげに28だという」云々というくだりがあります。「フェラチオ」は辺見の「下品なユーモア」に違いないでしょう。しかし、現在の「パルタイ」はその「下品なユーモア」がドタキャンの理由になるとでも思っているのだろうか? パルタイはいつ「燕雀安んぞ」の人物群の集団(徒党)になりおおせたのか? はじめからか? 私はそうではないと思っています。戦前の日本共産党の指導者のひとりで読売新聞記者だった市川正一検挙後の法廷陳述で述べた「日本共産党員となった時代が自分の真の時代、真の生活である」(『日本共産党闘争小史』 1932年 非合法出版)という言葉はおそらく市川という人間の心の奥底からこみあげてくる本心の言葉だった、と私は思っています(市川はやがて日本の敗戦直前の1945年3月に53歳で獄中死します)。現在の「パルタイ」にその市川のイノセンス(一途に日本の政治の根底的な変革を願う精神。その精神はもとより「人間」的なものであるはずです)を引き継ぐ者はもはや存在しないのか? 「パルタイに人間はいるのか」という辺見の問いに応ええない現在の「パルタイ」を日本共産党のために私は憂う。

【山中人間話】
 
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