キョウ 流砂

以下の、辺見庸「日録1」の2015年11月18日付けの文章を私は「辺見庸の志位和夫共産党委員長への手紙」と名づけたいと思います。志位共産党委員長には辺見庸の新著『1★9★3★7』に関して「赤旗」紙上での対談の呼びかけに応えていただきたいと私も心から思います。この対談が実現すれば共産党員、共産党支持者だけでなく、地下茎のような存在として少なくなくニッポンのこちらかなたに遍在しているであろう「左派・リベラル」の有志の人たちにも歓迎されるに違いないと私は確信します。

以下、辺見庸「日録1」(2015年11月18日付)から(改行はBlog「みずき」)。
 
劈開(へきかい)ということばがある。裂きひらくことだ。とくに、方解石や雲母などについて、結晶が一定の方向に割れたり、はがれたりして、平面を現すことを言うらしい。ひとや組織には劈開ということばはもちいられない。けれども昔から、政治組織や政治党派を劈開してみたら、なにがみえてくるのか……といった突拍子もないことを想像(妄想)する癖がぬけない。組織の結晶度がかたければかたいほど、劈開面の紋様は他との異動と変化にとぼしく、種々様々であるべきひとの顔も見えにくかろう、というのがわたしの仮説だ。

日本共産党機関紙「赤旗」のわたしにたいするインタビュー中止(ドタキャン)にさいし、この党を劈開するといったいなにが見えてくるのか、とまたも想像してしまった。説明・釈明・弁明・謝罪なき一方的ドタキャンを、ま、こんなもんでしょう、と苦笑いですますきもちもある。共産党なんてどうせそんなもんだよ、と割りきる気分だね。だが、一方で日本共産党に〈人間的例外〉を待つ(待ちたい、待つべき)という、甘い期待ではないけれど、好奇心のようなものもわたしは捨ててはいない。

問答無用の例外なき〈断定〉こそ、スターリニズムの許すべからざる犯罪であった。岩波現代文庫時間』(堀田善衛)の末尾は、「人生は何度でも発見される」である。主人公の中国人は南京大虐殺の惨禍ののちでも「人生は何度でも発見される」と言うのだ。志位さん、そうおもいませんか?あなたとわたしは歳もちがうし生き方もちがう。かんがえかた、好きな映画、好きな音楽もちがうかもしれないし、おなじものを好きかもしれない。志位さんのすべてがわたしとことなっていても(そんなことはありえようがないけれど)、わたしはあなたを一個の人間存在として、口はばったい言いかたですが、みとめる。一個の人間存在としてみとめるということは、対話可能ということだ。つまり、わたしは志位さんや個々の共産党員と、会話が不可能なのであり、だから物理的に排除すべきであるとはまったくかんがえていない
 
ただ、わたしは言うだろう。「共産党」を名のるということは、じつにものすごいことなのだ、と。「共産党」の名のもとに、ひとを組織し、率い、議論し、たたかい、それでもなおかつ、主体的で自由な一個の人間存在でありつづけるということは、じつにじつに大変なことですよね。そうかたりかけるだろう。そうした文脈から、わたしは志位さんに問う。あなたがたはなぜ、いったんは申しこんだわたしへのインタビューを、急きょ中止することにしたのか?なぜ中止の理由を、わたしおよび党内外に(本日午後5時にいたるも)、率直に説明しないのか?この沈黙はやや傲岸不遜ではないか……そう吐き捨てたくなる衝動をわたしはおさえている。

志位さん、「戦後民主主義」などという美言をかんたんに信じるにはあまりにも濃い泥闇をわたしは漕いで、ここまで生きながらえてきた。
伊藤律・元日本共産党政治局員を、あなたはご存じだろうか。妖しい魅力のある人物だ。1980年、北京空港で「伊藤律さんですか?」と、かれにさいしょに声をかけた記者はわたしだ(Blog「みずき」:附記)。いまの若い党員は、ながく中国で収監されていたかれの名前も、ぶったまげるほかない経歴も知らないだろう。かれの顔をまじかに見、かれの声を耳にして、わたしは涙がでそうなほど感動した。そのときいらい、ニッポン近・現代史の基本テーマは、天皇制と日本共産党、思想転向と公安警察だ、と直観したのだ。

志位さん、これらをあなたと話してみたいのですが、無理だろうな。それから、2004年の
第23回党大会で改定された「日本共産党綱領」の、「一、戦前の日本社会と日本共産党」についても貴兄のご意見を聞きたいが、これもかなわぬ話だろうね。このなかの「(二)党は、日本国民を無権利状態においてきた天皇制の専制支配を倒し、主権在民、国民の自由と人権をかちとるためにたたかった」という箇所につき少しく吟味してみたいのですが、いかがでしょうか。

じつは、こうしたことをすべて念頭に、拙著『
1★9★3★7』(イクミナ)は書かれたのです。志位さん、わたしたちは徹底的に率直でなければならない。「赤旗」がわたしへのインタビューをとつぜん中止した事実を、志位さん、あなたはご存じでしたか?理由はなんですか?ほんとうのわけは、ひところの国会前のデモを、あまりにも「権力迎合的」だとわたしが口汚く非難したからではないですか。そのことをみとめれば、問わず語りに、あそこには「まっさらの若者たち」だけでなく、共産党や民青の〝別働隊〟が多数入っていた事実を承認することになるので、あなたがたは卑小な沈黙をきめこんでいるのではないですか。

いや、いいのです。わたしは〝別働隊〟が潜りこんでいようと、〝純粋な若者〟を偽装しようと、いわばあたりまえのことだし、ましてニッポン近、現代思想・精神史がふくみもつ天皇制と共産党の役割にくらべれば、そんなことは屁のように小さなことだ、とおもっているのです。にしても、党はあまり変わらんな……と感じるのです。やっぱりつくづく「
人間というものはたまらない」と。

志位さん、これはだれのセリフか知っていますか。「人間というものはたまらない」けれど、ひとを十把一絡げに断じる愚をおかさないように、わたしはいま、じしんになんども言いきかせております。志位さん、わたしと『1★9★3★7』について「赤旗」紙上で対談をしませんか。多くの読者がそれを望んでいます。朝日も毎日も讀賣もできない企画です。わたしは半身不随でヨロヨロではありますが、代々木にでむき、あなたと真摯に『1★9★3★7』について話します。どうでしょう、「人生は何度でも発見される」とおもいませんか。志位さん、日本共産党史上、もっとも例外的に自由で勇気ある委員長になる気はないですか?
辺見庸「日録1」2015/11/18
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