キョウ 高ボッチ

Blog「みずき」:「権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ」という辺見の指摘は抽象論のレベルではおそらくそのとおりでしょう。が、「中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない」とまでご託宣してよいものか? 辺見のご託宣は安倍内閣の延命に結果として手を貸すことにならないか? 辺見が「妥協なき徹底的反戦主義の可能性」を想定して、その長期戦になるであろう長いスパンの闘いに比して安倍内閣の長短などたいした問題ではないと思っているのだとすれば私はそれは違うと思う。

ひとりの狂気(すなわち「人格」)が歴史を誤作動させたことはこれまでもあった。ヒトラーがいなければ別のヒトラーが現われたであろうということは「真実」といっていい仮定といえるでしょうが、ヒトラーという人格がアウシュヴィッツの悲劇を招来させたというのも歴とした事実です。

「安保法制」を早急に破棄するためにはどうすればよいか? この問いから私たちは出発する必要がある。辺見の問いはその旅立ちの懐中の中に忍ばせておくべきものではないか。旅立ち前に懐中は開くものではない、とは私の思うところです。


【「われわれ」の内面にはドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいる】
権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。
権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」ベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。(辺見庸「日録1」2015/11/11

【山中人間話】

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