キョウ 東京新聞5

【加賀百万石の民衆が遺した「泣き一揆」お地蔵さん】
金沢市教育委員会名の立て札が立てられている。「
七稲地蔵 安政5年、米価高騰の際、7月11、12日の夜、宇辰山に登り生活難を絶叫した罪により刑死した7名の冥福を祈り建立された地蔵石像…」どの藩でも農民に対する過酷な収奪は常のことであったが、幕末の時期には藩財政の逼迫から苛斂誅求は甚だしいものとなった。100万石の加賀藩も、例外ではなかった。
ペリーが浦賀に来航して天下大騒動となった5年後の1858(安政5)年に、加賀藩に未曾有の大一揆が起こる。これが「安政の泣き一揆」と言われるもの。「泣き一揆」とは、一揆参加者一同が泣いて窮状を訴えたからだという。(略)当時既に資本主義流通経済が一定の発展段階にあった。藩政と結託して米の流通を支配した政商は、資本主義的合理性を遺憾なく発揮した企業行動に出た。凶作に付け込んで米の買占めや売り惜しみに徹したのだ。そのため米の価格が高騰し町方の庶民生活は困窮した。農民は米を収奪された挙げ句に自らの食にも困窮する事態となった。この年の7月11日夜2000人の一揆参加者が金沢城に近い卯辰山に登り、城に向かって米の開放を求めて声を上げた。最も効果的なシュプレヒコールと彼らが考案したフレーズが、「泣き一揆」の異名をとるものとなった。卯辰山から金沢城まで直線距離でおよそ1.7km。泣くが如く叫ぶがごとき彼らのコールは、風に乗って城内にも重臣たちの屋敷にも届いたとされている。藩主らの耳にも直接届いたというそのコールは、「ひだるいわいや~っ」「ひもじいわいやぁ~ 米くれまいやぁ~」などというものだった という。これが、「泣き」のコールという所以なのだ。この泣き一揆の効果はてきめんだった。直ちに藩の御蔵米500俵が放出され、投機でつり上げられていた米の値段を下げる命令も出された。藩当局は一揆の要求を一部なりとも容認せざるを得ないと判断するとともに、一揆の拡大を恐れての迅速な対抗策を打ち出したのだ。こうして、一揆は一定の成功を収めて終息する。

その後、藩権力は藩の法制に従って、7月26日一揆首謀者7名を捕縛。その内2名が獄死し、残る5名を打ち首とした。多くの人の窮状を救うために、まず自ら立ち上がり、人を励まし、策を練り、先頭に立って実行した7人が、定法に従って覚悟の死を遂げたのだ。この7人の霊を祀るため、明治期に卯辰山の山道に七稲地蔵が建立され、1908(明治41)年に浄土宗寿経寺に寄進されて山門前に安置され、今に至るも民衆の尊崇を受けている。今隆盛を極める金沢観光の目玉ではない。しかし、華やかなりし加賀百万石が遺したものは、工芸・芸能・食文化だけではない。民衆の苦難もあり、民衆の抵抗もあり、権力の弾圧も、その事蹟を忘れまいとする民衆の心根を表す。(
澤藤統一郎の憲法日記 2015年10月29日

【社会運動に対する官憲の弾圧のやり口は百年前からたいして変わっていない】
「男性は人混みにわずかな空間ができたのに気づいた。『こっちが空いてるよ、と周囲の参加者に知らせるために腕をほどいて手招きをしました』『扇動だ』。背中越しに機動隊員の叫び声が響き、シャツのえりをつかまれ、路上に倒された。『何が起きたか分からなかった。複数の機動隊員に蹴られたり殴られたりした』。眼鏡は外れてフレームが大きく曲がった。逮捕されたのは午後九時ごろだった。」(東京新聞 2015年10月29日)明治時代、【
兇徒聚集罪】というのがあったのを思い出した。「兇徒多衆ヲ嘯聚シテ暴動ヲ謀リ官吏ノ説諭ヲ受クルト雖モ仍ホ解散セサル者首魁及ヒ教唆者ハ三月以上三年以下ノ重禁錮ニ処ス」(旧刑法第136条)、「兇徒多衆ヲ嘯聚シテ官庁ニ喧閙シ官吏ニ強逼シ又ハ村市 ヲ騒擾シ其他暴動ヲ為シタル者首魁及ヒ教唆者ハ重懲役ニ処ス」(同137 条)。足尾鉱毒被害に抗議する渡良瀬農民の大挙東京への示威請願行動(1900年)や、日露戦後の東京での社会主義者たちのデモ(1906年)などに適用された。1907年に「騒擾罪」に移行。 社会運動に対する官憲の弾圧のやり口は、百年前からたいして変わっていない。(大田英昭 2015年10月30日
 
【山中人間話】

日野市役所の封筒に印刷してあった「日本国憲法の理念を守ろう」の部分が「すみ塗り」されるようになりました。

Posted by 永井 浩 on 2015年10月24日
屋代 聡 @yashirosatoru 3時間3時間前民主主義が凄まじい勢いで溶解してゆく。日野市役所の封筒に印刷してあった「日本国憲法の理念を守ろう」の箇所が墨塗りされるということは、日野市の担当者(市長)が、「日本国憲法の理念を守ろう」という言葉について、次のいずれかの判断を下したのであろう。①憲法理念の順守という発想は政治的であり、中立的表現ではない。②憲法理念など守る必要はない。おそらく日野市長は「憲法理念を守ろうという表現は、憲法改正という選択肢を見えにくくしており、政治的に中立ではない」などと言い訳するだろうが、今、普通に使われている「日本国憲法の理念を守ろう」と記された封筒を墨塗りする行為によって、まさに日野市の偏向ぶりが露わになっているのである。
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