キョウ 水と空

【権力監視の番犬に】
米ジャーナリスト、
ウオルター・リップマンは「新聞とは何か」という問いにこう答えた「新聞は"政府の"ではなく、民主主義の番犬(ウオッチ・ドッグ)である」。民主主義を守るために、すなわち国民を守るために、権力を監視する番犬としての使命を新聞は負う、との意味だ。
政府は、しばしば国民の利益に反する政策を取り、民主主義を踏みにじって暴走する。だから国民は権力監視の番犬を擁して、自らを守らなければならない。その番犬の役を新聞が果たそうという気概がリップマンの言葉にあふれる。その気概こそがジャーナリズムの神髄だ。だが、メディアはもろ刃の剣だ。民主主義を守るための不可欠の機能を有しながらも、一歩間違えば、権力に利用され、民主主義抑圧の道具に堕す危険性をはらむ。リップマンが「"政府の"ではなく」と言い添えたのも、その警告だ。

メディアに番犬としての自覚が求められる。番犬が仕えるべきは国民である。決して政府の番犬に成り下がってはならない。新聞週間(15~21日)の今、日本のメディアすべてが、あらためて自問すべきだろう。自分は番犬の使命を果たしているかと。ひたすら民主主義に忠実に、国民の知る権利にこたえるために走り続ける、疲れを知らぬ、誇り高き番犬でありたい。(
長崎新聞「水や空」 2015年10月17日

【論を興し民主主義を体現する存在でありたい】
本紙論説・特報面の「時代の正体」シリーズについて、記事が偏っているという批判が寄せられる。それには「ええ、偏っています」と答えるほかない。偏っているという受け止めが考えやスタンスの差異からくるのなら、私とあなたは別人で、考えやスタンスが同じでない以上、私が書いた記事が偏って感じられても何ら不思議ではない。つまり、すべての記事は誰かにとって偏っているということになる。あるいは、やり玉に挙げられるのは安倍政権に批判的な記事だから、政権の悪口ばかり書くなということなのかもしれない。これにも「でも、それが仕事ですから」としか答えようがない。権力批判はジャーナリズムの役割の一つだからだ。それは先の大戦で新聞が軍部や政権の片棒を担ぎ、非道で無謀な侵略と戦争を正当化し、美化した反省に基づくものでもある。そして私たちはいま、権力の暴走を目の前で見せつけられるという歴史的瞬間のただ中にある

シリーズを始めたのは2014年7月15日、安倍晋三内閣が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に踏み切った2週間後のことだ。憲法上許されないとされてきたものが、解釈をひっくり返すことでできるようになる。憲法という権力に対する縛りを為政者自らが振りほどき、意のままに振る舞うさまは暴走の2文字がふさわしかった。権力の暴走はしかし、歯止めになり得なかったジャーナリズムの存在意義を問うてもいた。私たちは何を見落とし、何を書き逃してきたのか。「時代の正体」なる大仰なタイトルはその実、時代を見通す目を持ち得なかった自分たちのふがいなさの裏返しにほかならず、遅ればせながらの再出発をそこに誓ったつもりだった。暴走はいま、加速し、拡大の気配さえみせる。政権に不都合な報道をするマスコミを懲らしめるべきだと与党議員が息巻く。安全保障関連法を強行採決によって成立させる。果ては国会前で抗議デモを続けてきた大学生に殺害予告が届く。それは異論を封じ込め、排除する風潮が政治によって醸成、助長された帰結であるに違いなかった。

言論の幅が狭まれば民主主義は根元から揺らぐ。そうであるなら、私たちが直面しているのは、新聞記者である以前に社会を構成する一員としてどのように行動するのかという問題であるはずだ。民主主義の要諦は多様性にある。一人一人、望むままの生き方が保障されるには、それぞれが違っていてよい、違っているからこそよいという価値観が保たれていなければならない。それにはまず自らが多様なうちの一人でいることだ。だから空気など読まない。忖度(そんたく)しない。おもねらない。孤立を恐れず、むしろ誇る。偏っているという批判に「ええ、偏っていますが、何か」と答える。そして、私が偏っていることが結果的に、あなたが誰かを偏っていると批判する権利を守ることになるんですよ、と言い添える。ほかの誰のものでもない自らの言葉で絶えず論を興し、そうして民主主義を体現する存在として新聞はありたい。(
神奈川新聞「カナロコ・オピニオン」 2015年10月16日

【山中人間話】

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