テンキ10

Blog「みずき」:以下の太田さんの指摘に同感です。しかし、「期待できそうに」なくとも一歩踏み出さないことには「国政が動くこと」は絶無です。私たちは「期待できそうに」なくとも一歩を踏み出さなければならないと私は思います。「絶無」の状態を恒常化させるわけにはいかないからです。太田さんの発言はそのためのサジェスチョンとして私は受け止めました。

【日本国の「民主主義」は沖縄への痛覚の思いを根本的に欠いてきた】
日本国の暴力装置が国外に殺し合いに行くことを「合法」化する安保法案は、反対運動の高揚にもかかわらず、安倍政権・一部支配層によって19日、強行的に成立させられました。反対運動の周辺では、次期参院選に向けた野党(革新政党と保守政党・右派政党)との間の選挙協力の話などで色めき立っています。が、何よりもまず、この間の安保法案廃案を求める平和運動の思想的な質について、問い直す必要があると、私は思います。
国会前での安保法案反対運動の中心にあって、連日メディアを賑わせていたのが、学生を中心とする運動体SEALDsであったことは周知のとおりです。そのSEALDsのHPの声明文に は、「戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。そして、その基盤である日本国憲法のもつ価値を守りたいと考えています」、「日本の自由民主主義の伝統を守る」、「戦後70年間、私たちの自由や権利を守ってきた日本国憲法の歴史と伝統」、などの文言が掲げられています。これについて私は拙ブログ上で、SEALDsの声明文が言う「この国」「日本」からは沖縄が除外されているのではないか、という疑問を呈し、「戦後70年、日本国の民主主義が一貫していかに欺瞞的なものだったかを、現在沖縄で行われている闘いは私たちに突き付けています」と書きました。(略)

戦後の日本国の「平和」は、沖縄の軍事要塞化を条件として成り立ってきました。日米の支配層が憲法九条の存在を黙認してきたのも、この条件があってのことです。沖縄の「日本復帰」後四十数年を経ても、この基本構造には変化がありません。しかも、日本国の「民主主義」なるものの大勢は、憲法制定当初から沖縄を除外しながら、要塞化の負担(絶えざる暴力と戦争の恐怖)を今にいたるまで沖縄に押し付け続けてきたことを、恥じようともしません。日本社会が従来こうしたことの痛覚を根本的に欠いてきたからこそ、「戦後70年間、私たちの自由や権利を守ってきた日本国憲法の歴史と伝統」とか、「私たちは、平和国家であることのありがたみを噛みしめ、次の世代に受け継いでいこう」とかいうおめでたい
文言が、自然に若者の口をついて出てくるのでしょう。

さらに問題なのは、こうした発想が、日本の平和運動の中でたいして問題にもされず許容されていることです。安倍政権が安保法案を強行的に成立させた今こそ、それに対決すべき平和運動・社会運動の側は、自己の拠って立つ思想の質について沈思し、運動の目的・方向を改めて確認する必要があるのではないでしょうか。上記のような独善的な発想が堂々とまかり通るようでは、仮に革新政党を含めた野党勢力が結集してみたところで、戦後70年に渡って日米両国が沖縄に押し付けてきた不正を取り除くべく国政が動くことなど、期待できそうにありません。(
大田 英昭 2015年9月23日

【山中人間話】

日本国の暴力装置が国外に殺し合いに行くことを「合法」化する安保法案は、反対運動の高揚にもかかわらず、安倍政権・一部支配層によって19日、強行的に成立させられました。反対運動の周辺では、次期参院選に向けた野党(革新政党と保守政党・右派政党)と...

Posted by 大田 英昭 on 2015年9月22日
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