アサガオ2

「今日の言葉」は劣化した「リベラル」の現状を象徴するものとしてご本人には失礼ながらジャーナリスト(元共同通信論説副委員長)、伊藤力司さんの言葉をあげておきます。もちろん、反語としてのそれです。
【劣化した「リベラル」の言葉として】
雨模様の8月30日国会議事堂を包囲した12万の人々に世界的音楽家の
坂本龍一さんは、ラウドスピーカーを通じて語った。「僕たちにとって、イギリス人にとってのマグナカルタ、フランス人にとってのフランス革命に近いことが、ここで起こっているんじゃないかと強く思っています。一過性のものにしないで、あるいは仮に安保法案が通っても終わりにしないで、行動を続けてほしいと思います。僕もみなさんと一緒に行動してまいります」永田町から霞ヶ関の道路と言う道路を埋め尽くした老若男女がひしめく映像とこの坂本スピーチに接して、私は戦後70年とうとう日本に民主主義革命が成ったと確信した。「平和」「国民主権」「人権」を盛った日本国憲法が、われわれ日本人に本当に定着したのだ。(略)

戦前の日本で特高警察に拷問・虐殺された
小林多喜二をはじめ、多くの先覚者が苛烈な弾圧を受けながら民主・人権・平和の闘いを続けたことをわれわれは忘れてはならない。こうした闘いの伝統があったからこそ、この日本で民主主義と平和憲法が息づいたのである。冒頭で紹介した坂本龍一さんの言葉をもう一度かみしめよう。安倍政権の「戦争法案」に対してやむにやまれぬ思いで集まった老若男女に訴えた言葉だ。それは戦後70年にして本当の民主主義が日本に定着したことを意味する。明治、大正、昭和を通じて中江兆民大杉栄吉野作造美濃部達吉らの先覚者が、日本に民主主義を定着させようと苦闘した歴史があった。

一見マッカーサー司令部から「与えられた」民主主義のようにも見えたが、今こそ日本に定着した民主主義に誇りを持とう。(略)仮に今国会でこの法案が可決されても、アメリカの戦争に加担することを拒否する日本国民の闘いは終わらない。われわれはようやく、主権者は国民であること、言論・集会・表現の自由を保証する基本的人権を保証し、さらに交戦権を否定した日本国憲法の価値に目覚めたのだ。これまで政治活動とは無縁を任じてきた老若男女のひとりひとりが、国の運命を決めるのは自分たちだと決意して立ち上がったのだ。(
伊藤力司「リベラル21」2015.09.12
 
Blog「みずき」:伊藤さん。あなたの所与とする信条でもあるだろう「民主主義」とはたったこれっぽちのものか。つまり、「国会議事堂を包囲した12万の人々」にただ胸キュンするたぐいの坂本龍一的なエモーショナル民主主義にすぎないものか。このときの坂本龍一のアジテーションについては以下のように評価する人たちもいます。

「坂本龍一氏のスピーチは、ビートたけし氏の態度と逆方向だが、これも紋切り型。マグナカルタや仏大革命に比べるなんて、酔っ払い過ぎている。誇張ほど弱いものはないよ」(堀茂樹慶大教授

「坂本龍一氏演説:法案ひとつで絶望し、デモをみれば革命を連想するという極端さが、これまでの停滞の原因で、一部に過激派が混じるだけで全体が信頼を失う脆弱さの理由では。デモの訴えかける先は結局のところ国民だというのに」(
小野昌弘インペリアル・カレッジ・ロンドン上席講師

伊藤さんの認識はなんとも軽い(軽薄)ものだと私も思います。これが「リベラル」を自負する人の言葉か、と現在「リベラル」が立っている位置を情けなくも思います。

今回の「国会議事堂包囲」の中核となったSEALDs(シールズ)と行動を共にしている人の中には
警察・自衛隊礼賛者がいたり暴力的なブルドーザーデモの扇動者がいたりもします。そういうものをしも「民主主義者」とひとくくりにしてよいものか。伊藤さんの認識のそこかしこに「思想」と「認識」の不十分さ、いたらなさを感じます。

「不服従で抵抗することと非暴力主義は完璧に一致しています。民衆のエネルギーを管理して操作する、まるで広告屋のようなプロパガンダを用いながら「非暴力」主義を僭称する人々は、民衆を羊のように捉え「低い」レベルに留めおいて、外部注入的に操作するファシストのやり口に近づいていることに気付かないのでしょうか」(内海信彦さん

という指摘もあります。

【山中人間話】

 変革の主体に求められるのは芸術的な想像力です。フランスの農民運動にみられる、こうした想像力に富んだ実力行動こそ不服従非暴力主義の典型です。陰険な自称非暴力主義者たちが、偽りの善意を装って「法」と「秩序」を守って、整然と予定調和的に行動する...

Posted by 内海 信彦  on 2015年9月10日
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