ジャコウアゲハ
ジャコウアゲハ

《トルコ沖で移民らを乗せた船が転覆した後、海岸に打ち上げられた男児の遺体を写した写真が、大きな反響を巻き起こしている》(AFP3日付)。というよりも、私にはひとり歩きしているように見えます。「難民」問題という悲劇と重ねられてコラージュが施されている。「難民」問題はたしかに打ち棄てられたままになっている国際政治の死活的課題といってよいものです。しかし、と私は思います。「社会は人の死をどんな形でも利用してはいけない」。(Blog「みずき」 2015年9月5日)
【共感をもってその人の生を見なおすことしか残った者にはできない】
かつて、伯母が一人いた。 (略)最近、この死んだ伯母と話すことが多い。生きているうちに話したいことはたくさんあったが、ぐずぐずしているうちに伯母はあちら側へ転居してしまった。今ならば対等に話もできるし、聞きたいこともある。(略)このところ死についてよく話す。なにしろ一度死んでいるのだから、この話題で議論になると伯母の方がずっと有利だ。(略)

「私は個人として生きて、個人として死んだ。これは大事なことだった。社会生活は人間にとって大事なものだけど、でも社会が立ち入るべきでない部分も人生には少なくないんだから」

なるほどね。でも、社会が死に意味を与えることもあるでしょ。個人の死に社会が意味を乗せてしまうことは少なくなかったよ。米兵に撃ち殺された農婦の死や、警察官によって殺されたデモの参加者の死は、どうしても一人の死という以上の意味を持ってしまう。いわば死よりも葬儀の方が大きい。

「そう(と、死んだ伯母は言うのだ)、残された人の立場は死んだ当人とはまた違うから。自然の災害で死ぬんならばまだ納得するけれど、他の人間の悪意や過失による死は、残された者としては受け入れにくいかもしれない社会が死を大きく仕立てなおしてしまう。自分の死に過剰な意味を乗せた上で自殺する人さえいる。それでも、死の意味は死んだ当人の中にとどまるんじゃない? 遺族といえども それを肩代わりするはできない。それが死の救いってものなんだけど」

それじゃ、残された者はどうすればいいわけ?

「死んだ人はもう死んでいるわけだから、後から出てきて弁明もできない。死んだ者の気持ちはわからない。それなら、社会は人の死をどんな形でも利用してはいけないでしょう。もともと人は決して大義のために死ぬわけじゃなくて、それぞれにひっそりと小さな個人の死を死ぬのよ。そこに生者の勝手な都合を上乗せしてはいけない。誰かの死をテコにして、社会を変えようとしてはいけない。死の瞬間だけでその人の人生を意味づけるようなこともやっぱりいけない。共感をもってその人の生を見なおすことしか、残った者にはできないし、それで充分なんじゃないかな

こういう問題を残して、伯母はまた向こう側の世界に帰ってゆく。
池澤夏樹「亡き伯母との会話」1993.8.18

【山中人間話】

安倍ヤメロ!

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