ルコウソウ
ルコウソウ
【「福島は危険でなければならない」とでもいうような倒錯した主張】
福島では「検出限界を高くしたり、計測時間を故意に短くして、
NDという結果を出す工作をしている」などというデマを流布し、そういうデマによって「反原発」を主張しようとする卑しい人間がいることがぼくには許せない(略)。ぼくたちが依拠すべきは「事実」と「合理的思考」の2点であるべきだと思う。結論(例えば「反原発」、あるいは「安倍政権批判」)が同じだからといってデマに与してしまえば、それは東電や安倍政権を批判する資格を失うことを意味していると思う。(略)福島原発事故による環境汚染は幸いなことに当初懸念されたよりも少なくてすんだ。それはまさに「不幸中の幸い」とも言うべきことである。その事実を福島の人たちのために素直に喜ぶことができない「反原発派」がいること自体がぼくには全く信じられない。(略)常々思っているのだが、放射能に対する恐怖に依拠した「反原発」は脆弱である。それは福島の汚染が懸念されたほどではないという事実が明らかになってきたときに、そのことを喜ぶどころか、感情的にその事実を否定するしかなくなる。そして、真の被害者である福島の人たちを疎外し、結果的に差別する。(略)南相馬市立総合病院などの調査によって、子どもたちのセシウムによる内部被ばくがほぼゼロになっていることが明らかになってきている。一方、安斎育郎氏らの実測で、現に福島で暮らしている人たちの年間追加被ばく量(外部被ばく)が概ね1~2mSvに収まっている現状も明らかになった。1~2mSvの追加被ばくということは、北欧やフランスなどの人々が自然放射線によって被ばくしている量より遥かに低い。もちろん「絶対安心」などとは言えないし、データのない初期被ばくの問題も残るが、今後、深刻な健康被害が発生する可能性は当初懸念されたより低くなってきているのが現実だ。(略)そのときに、健康被害に対する恐怖感のみに依拠した「反原発」は説得力を失う。(略)非合理的で感情的なだけの言説には議論に耐えうる客観性がない。(略)都合の悪い現実に目を瞑り、「福島は危険でなければならない」とでもいうような倒錯した主張を行うケースも実際に出てきている。ぼくも非難されることが少なくないが、40年以上最前線で反原発行動を続けてきた安斎育郎さんですら「御用学者」などと罵られる始末だ。こうなると宗教のようなもので、普通の人たちの感覚と遊離し、そして何より現実に福島で暮らしている人たちを傷つける。(toriiyoshiki(NHK-ETVディレクター)Twitter 2015年8月11日

【戦地を必死に生き抜いた人のひしゃげた左腕のリアリティー】
以前、93歳の男性を診察したことがある。左腕がひしゃげていた。機関銃でやられたという。戦地を必死に生き抜いた人だった。平和と豊かさが身近にある私たちは、戦時下の不条理や貧困、差別と抑圧をどれだけのリアリティー(現実感)を持って語れるのか、と感じた。一連の安全保障法制の審議にはいくつか問題がある。一つ目は手続きが適切かどうかだ。多くの国民が反対しているか、理解していない法案が国会を通過するシステムには問題があるのではないか。私も「どこへ連れて行かれるのか」と戸惑っている。二つ目は従来の「専守防衛」から、(集団的自衛権の行使を認める)国連憲章51条を中心とする枠組みへ大転換するのに、政府から国民に説明がないことだ。集団的自衛権の行使を名目に、他国への軍事介入が繰り返された歴史は枚挙にいとまがない。結果として自国民の生命を危険にさらし、民間に多くの被害を出したことは歴史から明らかだ。三つ目は、政府が想定するリスク要因が具体的に何なのかが説明不十分ということだ。人権を規制しかねない法律を「念のため」という発想でつくることは禁じ手だ。今回の国会審議の発議の判断は適切だっただろうか。私は(高知県出身の自由民権運動の指導者)
植木枝盛の「人民は国家をつくるの主人にして、国家は人民につくられし器械なり」という言葉に共感する。現行憲法の根幹にはこの発想があるが、昭和の戦争時代にこの発想はなかった。「国民は国家の道具にして、国家は国民に君臨する」という時代だった。憲法は国民が守らされるものではなく、国民が国に守らせるものだ。日本人は国民主権と政府のあり方を、真剣に考えていかなければいけない。(色平哲郎 「信濃毎日新聞」2015年8月11日


【山中人間話】


永原 純
河添氏は驚いてみせるだけではなく、はっきりと「鄭さんバッシングを止めろ」と主張せよ!
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