カノコユリ
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【社会運動の右傾化と自浄作用の喪失という病】
<誰でも参加できる><敷居が低い><右も左もない>といった触れ込みは3・11以降の脱原発運動において特に強調された感があるが、その実態は社会運動における保守化、右傾化、国民運動化であった。それがあろうことか
反差別・反レイシズムという、それと根本的に相いれない領域にまで入り込んでいく過程こそが「カウンター」運動の1つの側面としてあった。新大久保で在特会に対して掲げられるプラカードのなかには「日の丸が泣いている」「真の愛国ちゃう」「理性愛国」など殊更にナショナリズムを煽る文言や、果てには「五族協和」というメッセージまで登場した。そして深刻なのは、このような事態に対して運動内での批判によって改善されるどころか批判に対して恫喝的態度により萎縮させ、これらのメッセージが並ぶことすらも「多様性」として片付けられていった自浄作用のなさであろう。天皇制反対を唱える運動に襲撃を加え、「拉致被害者を救え」と総聯に街宣を仕掛ける「我道会」なる右翼団体を立ち上げるに至った集団が「カウンター」内部から現れたことも書き留めておきたい。反差別、反レイシズムを謳いながら同時進行的にナショナリズムを煽る運動は、ヘイトスピーチ問題を植民地主義的暴力という本質からずらし、日本の名誉を傷つける「醜聞」にすり替えてしまう。それはこの運動の展開において、為政者にとっては都合の良い道筋であったのではないか。昨年8月に朝日新聞が日本軍性奴隷制についての過去の報道の検証記事を掲載した際、政治家、メディアは一体となって「日本の名誉を傷付けた」と朝日新聞を非難したが、ヘイトスピーチについても全く同様の発言が出ていることは注目されるべきである。(略)被害者そっちのけで国家の「名誉」や「誇り」、「国益」こそがヘイトスピーチによって傷付けられるものとして優先されている。ヘイトスピーチ規制論と歴史修正主義がいまや日本の名誉回復運動、国益増進運動として両立している状況はおぞましい。かかる状況に対して社会運動の側こそが厳しく目を光らせるべきであるにもかかわらず、運動すらこれと共犯を結ぶ反動をその内に抱え続けているのが現状である。(朴利明「ヘイトスピーチをめぐる運動における右傾化について」『人権と生活』(vol40、2015.6)(鄭玹汀 2015年8月6日

Blog「みずき」:朴利明さんはいまの日本の市民運動、あるいは社会運動のありようについて「深刻なのは、このような事態に対して運動内での批判によって改善されるどころか批判に対して恫喝的態度により萎縮させ、これらのメッセージが並ぶことすらも「多様性」として片付けられていった運動内の自浄作用のなさであろう」と指摘してします。私は朴利明さんの指摘に深い嘆声とともに同意します。私がいままさに直面しているのが朴さんの指摘されている恫喝の声と批判の声の違いすらも聴き取ることのできない運動内の自浄作用のなさの問題だからです。しかし、「運動内」といっても、その「運動内」を形成しているのはひとりひとりの「個」です。いまの事態は、正しく言うならば、そのひとりひとりの「個」がひとりひとりの「個」として自浄作用を喪失している事態というべきではないか。戦後70年、いわゆる「革新」運動(教師たちの戦後の教育運動を含みます)は、「民主主義」というものはほんとうはひとりひとりの「個」の精神とともに形成されていくものだということ、「おのれの内面から出た心情の表現」として「民主主義」という精神もあるということをひとりひとりの「個」に根づかせることに失敗した。その失敗の結果として「いま」という事態があるのではないか。
 
以下は、エッセイストの半澤健市さんの文章からの孫引きですが、臼井吉見(文芸評論家、1905~87)にある戦後の風景について語った「戦没者追悼式の表情」というエッセイがあります。私の上記の現在の社会運動、市民運動批判を先取りしている「革新」運動批判としてご紹介しておきたいと思います。
 
臼井は政府主催の第二回戦没者追悼式に出席したある戦争未亡人の「エヤ、戦争どう思うってすか? なに、やらねばならなくてやったんだべからナス。アン、仕方ねぇことだったべと思ってるナス。戦死した家、皆気の毒だったナス。オレばかりでなくナス。オレより苦労した人、まだいっぱいいるベモ」という発言を紹介した上で次のように述べています。
 
「このあきらめぶりは、戦前と寸分の変わりもない。/十九年かかって、モトノモクアミに仕立ててしまったということ、これをすべて反動勢力のしわざにしてしまうわけにはいくまい。その勢力がものを言ったことを疑うものではないが、責任はむしろ革新勢力にあるのではないかと思われてならない。浮き足だって突っ走り、自分の金切り声に自分で酔い、口を開けば、ソレ戦争にナル、ヤレ戦争につながるの一点ばり、そのすべてが逆用されたといえば、言い過ぎであろうか。/適時に、ぬからずクサビを打ち込むこと、ここからは断じて後戻りさせないという、派手ではないが大事なクサビ打ちの仕事を革新勢力はやって来たかどうか。職業柄、日教組などは、その適任者のはずなのに、これがまっさきかけて突っ走ったのだから話にならない。/戦没者の慰霊祭などは、とっくの昔に、革新勢力の提唱で、国民の名において実行すべきではなかったか。その犠牲によって、日本が近代国家に生れ変り、軍国主義を捨て去ることのできたゆえんをはっきりさせて感謝するほかに、戦没者の霊を慰める道などあろうはずがない。しかるに、戦没者が、あたかも悪事を犯したかのようで、その遺族が、肩身の狭い思いをしなければならぬようなふんいきをかもしだしつつあったのは、どこのだれだったか。たまには胸に手を当てて考えてみるがよい。(略)僕は、先日来、テレビで甲子園の野球見物をしている。この選手たちは、すべて戦後の生まれとか。/あの残虐愚劣きわまりなかった戦争を、話としてしか知らない者どもが、ここまで育ってきたかと思うと感無量だった。こうしてすべては忘れられ、モトノモクアミに化していくのだろうか。まさか?」

【山中人間話】
どこでも…そう、暗くなって…
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