弁護士の澤藤統一郎さんがご自身のブログに同期の友人という札幌の郷路征記弁護士を登場させて「一人ひとりを尊重する運動スタイル」の大切さと「自分の言葉で語り、自分のスタイルで活動」することの大切さについて論じています。そこで主張されているところはもちろん大切な視点も含まれていますが、私には気がかりなところも少なくありません。その私にとって気がかりなところを澤藤統一郎弁護士と郷路征記弁護士に「見えていない」視点と名づけてみます。以下、そのことについての私の感想です。
その論で澤藤弁護士は同期の友人の郷路弁護士が「若者の行動にいたく感激した」と送ってきたメールをまず読者に紹介します。そのメールには以下のように記されていたようです。
 
「SEALD’sのスピーチとコールがメチャカッコいいと思っています。こんなカッコのいい若い女性の口から、「アベハ ヤメロ」、「コクミン ナメンナ」、「センソウシタガル ソウリハイラナイ」等という激し い言葉が飛び出してくると、私の理性は霧消してしまって、聞き惚れてしまいます。」
 
私が澤藤統一郎弁護士と郷路征記弁護士に「見えていない」視点と第一に気がかりに思うところは「こんなカッコのいい若い女性」の問題に関してです。郷路弁護士の視点はいま問題になっている「SEALDs(シールズ)の美女が可愛い!戦争・徴兵制・安倍晋三に反対する若者たちの姿」というNAVERまとめの女性差別の目線とほとんど変わるところがないように私には思われます。なにが変わるところがないのか?

この女性差別の目線について「若かった頃」という感想を書いた女性の作者は次のように述べています。
 
「女性は、あらゆる視点でジャッジされるが、とくに、「美しさ」「若さ」については、肯定的にジャッジされる。若くて美しいと伝えることは良いこととされる。伝えられることも良いこととされる。わたしは若くて(たぶん)美しかった頃、それでもやっぱりそのことを言われるのがいやだった。反応に困ったからだ。なぜ、この男の人は、なんにも関係ないときに、美醜の話を持ち出すのだろう?なぜ、この人は、自分が美しいとか美しくないとか、言いだすのだろうか?わたしは男の下心というものがよくわからないくらい幼かったけれど、いやな雰囲気は伝わって来た。」
 
「わたしはちやほやされることもあったし、されないこともあった。その間、わたしが思っていたことは「いつも、わたしはわたしなのに」「どうして、状況によって評価が変わるのだろう」「わたしの本質を見て!」と思っていた。人に話せば、「本質を見てというのは甘えだ」と言われた。わたしは、若く美しい女だったから、わたしの言葉は誰も聞かず、わたしの胸の大きさや、からだの形や、顔の様子ばかり気にされた。もし、ものを言って、聞いてもらえたのは、「若い女だからなんだろうか」と思った。悲しかった。」
 
「わたしは社会運動に参加したことがあった。今のように大規模なものではなかったから、比べられないのだけれど。そのとき、彼らは自分の言葉を届けるために、自分の若さを差し出した。その若さはあっと言う間に消費された。わたしはその様子を見ていた。盛り上がり、消費され、忘れられた。効果的に、広告的に、キャッチーに、と。そうしたものは、効果的に、広告的に、キャッチーに受け入れられたけれど、終わるのも早かった。効果的に忘れられた。疲れていくことも。」
 
「今思えば、わたしは「使えるものは使う」という価値観に反発したかったのだ。 若さも美しさも、自分のためだけに使いたかった。そういられる世界をつくりたかったから、社会運動に参加したかったのだ。若さも美しさも誰のためでもない、消費されるものでもないと、今だっていつだって伝えたい。わたしは使えるものになんてなりたくなかった。そう言えるための言葉を手にしていなかったときから。そして、その上で、今は心の狭さも感情の動きも判断も、自分の一部だから愛している。だから自分を差し出すこと自体をわたしは拒否できる。」
 
この女性の「悲しさ」や「疲れ」を澤藤弁護士と郷路弁護士はどのように受けとめられるでしょうか? その女性の「悲しさ」や「疲れ」を自分の問題として理解できるのであれば(もちろん、性差の違いはありますが)、おそらく「こんなカッコのいい若い女性の口から」云々などという評価は出てきようがないように私には思われるのですがいかがでしょう? それが私の第一の気がかりなところです。
 
この「SEALDs(シールズ)の美女が可愛い!戦争・徴兵制・安倍晋三に反対する若者たちの姿」というNAVER まとめには「社会運動に参加する女性を、かわいいだのかわいくないだのと論評するような視点こそが、これまでに多くの女性を社会運動から疎外してきたのだが」などなどのさまざまな批判があるのですが、同時に、上記のNAVER まとめはシールズの一参加者が独断でつくったもののようで、同じシールズ参加者の次のような批判もあります。「これは女性から反発されますね。やめたほうが賢明かと」「女性かどうか関係なく反発されるでしょう。コメントも馬鹿にしてんのかって感じですね」(こたつぬこ)。しかし、郷路弁護士の視点はこのシールズ関係者の視点にも及ばない単純な「感動」の発露以上のものには私には見えません。
 
澤藤弁護士と郷路弁護士のシールズ評価で第二に気がかりなところは、以下の郷路弁護士の感想に関してです。
 
「日曜日、コンピューターの前に座って、ずっとSEALDsの動画、ツイッター等を追いかけてきました。そして、強く心を揺さぶられました。奥田愛基君は「30万人を集めましょう」と言っていましたが、可能性があるかもしれません、彼らなら。ネットにアップされている彼らのスピーチは、素晴らしいと思いました。」
 
「スピーチをしている人は、みんな、自分で考えたことを、皆に訴えようと誠実に展開している。押し付けている感じはまったくない。悲壮感などの余分な感情もない。驚くほど、しっかりしている。こんな素晴らしい若者たちがいるなんて、本当に希望を持てます。」
 
しかし、奥田愛基さんを中心的なリーダーのひとりとするシールズの理念について以下のような異議申し立てがあることをおふたりの弁護士はご存知でしょうか? ここではふたりの異議申し立ての視点を要約してご紹介しておきます。
 
おひとり目。鄭玹汀(チョンヒョンジョン)さん(東大大学院で日本の民衆運動を学ぶ。現在、京大研修員)
 
「いまは広範な諸勢力を結集することが重要な時ですが、運動のさらなる発展のために、問題点を取り上げ、一緒に考えていきたいと思います。(略)SEALDsの運動方針には、正直言って失望を感じています。それについて少し書いてみたいと思います。ナショナリズムが若者の間に広がっていることに、まず驚きました。SEALDsは日本が世界、特に東アジアでより強いリーダーシップを発揮することを主張しています。たとえば「北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮するべきです」「特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります」といいます。東アジアで日本が主導権・先導力を発揮すべきだというのは、保守政治家などが主に唱えていることで、「軍縮・民主化の流れをリードしていくポテンシャルがある」というのは、独善的かつ傲慢な姿勢のあらわれといわざるをえません。また、SEALDsによれば「中国は政治体制こそ日本と大きく異なるものの、重要な経済的パートナーであり、いたずらに緊張関係を煽るべきではありません」(「opinion」欄より)と、「国益重視」の外交を打ち出しており、果たしてこれが「学生運動」なのか、納得できません。
 
最も驚いたのは、日本の戦争責任に関するSEALDsの基本的な立場です。彼らは次のように主張します。「歴史認識については、当事国と相互の認識を共有することが必要です」「先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります。私たちは、対話と協調に基づく平和的かつ現実的な外交・安全保障政策を求めます」「歴史認識については当事国との相互の認識を共有」という極めて抽象的で曖昧な表現を用いて、SEALDsは次のように主張します。日本はすでに「侵略の反省を経て」「平和主義/自由民主主義を確立した」といいます。しかし日本は過去の侵略戦争についてきちんと謝罪したことも反省したこともなく、平和主義と自由民主主義を「確立」したこともありません。彼らの無知と無自覚に、「危惧」を感じているのは私だけではないでしょう。」
 
おふたり目。須永貴男さん(日本国憲法施行の年に生まれる)。
 
「SEALDs(略)は、自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクションです。担い手は10代から20代前半の若い世代です。私たちは思考し、そして行動します。」と始まるSEALDsの目指す方針について、冒頭の「私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。そして、その基盤である日本国憲法のもつ価値を守りたいと考えています」という部分で、どうしても次を読み進めなくなる。なぜなら、日本国憲法施行の歳に生まれ、「戦争を否定し、国民が主権を保持し、個人の基本的な人権が保障される社会」を示した日本国憲法の理念の下に教育や政治が行われ、社会が作られるという思いがいつも裏切られる現実を見ながら、私は戦後70年の歳を重ねてきたからだ。(略)
 
シールズの皆さんに言いたい。「戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。」この部分は、まず、討論をしなおしてほしい。自由民主党は、戦後70年、「日本国憲法の理念」に基づく「自由と民主主義」を封じ込め続けた。そして「アメリカの自由と民主主義」の政治を実行し続けた。皆さんがいう「この国の平和憲法の理念は、いまだ達成されていない未完のプロジェクトです」この点は全くそのとおりだと思う。その上で、戦後70年この実現を阻んできた「自民党政治」を終わらせ、アジアの人々とアジア・太平洋戦争の悲惨な体験を共有し、2度と侵略戦争を起こさない」と誓うとき、すべての世代とアジアの人々が同じ反戦の声をあげることができる。これは、韓国梨花女子大に学び、日本の東京大学大学院で、日本の民衆運動を学び、今も研究を続ける、鄭玹汀さんの指摘を読んだ上で、言いたいことの一端である。
 
上記の老人世代(と言ってよいのかどうか)の日本の男性と若者世代の韓国の女性のおふたりの異議申し立てにについて澤藤弁護士と郷路弁護士はどのような感想を持たれるでしょうか? 「彼らのスピーチは、素晴らしいと思いました」「こんな素晴らしい若者たちがいるなんて、本当に希望を持てます」と感動するだけで「本当に希望を持て」る社会が実現するのでしょうか? 

私にはそうは思えません。少なくともおふたりの真摯な問題提起は私たちが今後の日本の平和の問題を考えるにあたって再考に値する問題提起というべきではないでしょうか。
 
そうした問題であるべきものをこちらの記事を読んでいただければおわかりいただけると思いますが、問題提起された側のシールズ応援団の界隈から鄭バッシング現象なるものが生じています。そして、そのバッシング現象はいまだに続いているもようです。こうした事態を長い間民主主義社会の実現のために活動をしてきた弁護士としてどう思われますか? 繰り返しになりますが少なくとも私は「感動」を拡散し、分けあうだけではほんとうのところの平和の実現は半歩も進みはしないだろうと考えているのですが、私の見方は悲観論にすぎるでしょうか?
 
Blog「みずき」注:上記は「戦争法阻止運動に新たな広がりの可能性ー自分の言葉、自分のスタイルのさわやかさ」(澤藤統一郎の憲法日記 2015年7月24日)を読んだ感想として書いているものです。
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