ハマユウ
ハマユウ
【「民衆と女性」の視点に立った深い思索】
戦後の日本には真摯な自省とともに再出発を模索する思想的試みも存在した。その代表的な例として、歴史学者・
石母田正の『歴史と民族の発見』(1952)を挙げることができる。近隣諸民族への侵略戦争が無残な敗北という結果に帰結した日本近代の歩みを、「歴史の主体とは」という問題意識から探求したものである。本書のケースと扉にはコルヴィッツの作品「犠牲」が掲げられている「民衆と女性の歴史によせて」と題された本書第3章に「母についての手紙―魯迅許南麒によせて」という文章が収められている。許南麒とは、「火縄銃のうた」で知られる在日朝鮮人詩人である。石母田は戦前、旧制高校で社会科学研究会のメンバーであったことから「アカ」の嫌疑を受けて警察に拘留され、無期停学処分を受けたことがある。この時、無神論者で思想的には進歩的であった彼の父は、出世が台無しになると、ひどく腹をたてて彼を叱った。一方、教育がなく保守的だった母は、決して叱らず、正しいことを行うことを人に恥じる必要がないことを彼に確信させたという。「近代的」な思想の持ち主である父がブルジョア的立身出世主義に毒されているのに対して、「封建的」な母が自分と子供たちの人間性を外部と父親の権力から守るために努力し抵抗した。このような「民衆と女性」の視点に立った深い思索をもって自国の歴史を反省的に洞察しなければならない、というのである。この記述は私に、私自身の母を連想させた。そういう感慨を抱くのは私だけではあるまい。日本でも韓国でも、ドイツでも世界のどこにあっても、母たちはそのように必死に子どもを抱きしめて来た。コルヴィッツの「犠牲」はそのような母たちへの讃歌である。ただ、私にはそのように母を讃えることへの躊躇と苦い思いがあること事実だ。まかり間違うと、子供である自分、男である自分による母の二度目の利用、搾取になりかねないと思うからである。現代を生きる私たちは、コルヴィッツをただ「感動的」に消費するだけではいけない、ということであろう。(徐京植(ソ・ギョンシク)「ハンギョレ」2015.07.17

【山中人間話】


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