ハンゲショウ
ハンゲショウ

【「言論の自由」は何のために存在するのか?】
「言論の自由」について思うことを述べる。 繰り返し書いていることだが、たいせつなことなので、もう一度書く。 言論の自由とは私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。ただそれだけのことである。だが、ほとんどの人は「言論の自由」を前段だけに限定してとらえており、後段の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件を言い落としている。 私は「言論の自由」が持続可能な社会的規範であり続けるためには、後段の条件が不可避であろうと思う。 「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件のどこがそれほど重要なのか。それはこの条件が「敬語で書かれていること」である。それは擬制的に「理非の判断を下す方々」を論争の当事者よりも「上に置く」ということである。「私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。私の言うことが正しいので、他人による理非の判断はもとより不要である」と考える人間は「言論の自由」について語る資格がない
かつてフランスで歴史修正主義をめぐる論争があった。ロベール・フォーリソンという「自称歴史家」が「アウシュヴィッツにガス室は存在しない。なぜなら、それを証明するナチスの公文書が存在しないからである。ユダヤ人は感染症で死んだのである」という奇怪な論を立てた。その書物の序文をノーム・チョムスキーが書いた。チョムスキーは「私はこの著者の論に賛成ではないし、論証も不備であると思う。しかし、どのように人を不快にする主張であろうと、それを公表する権利を私は支持する」と書いた。私はそれを読みながら、つよい違和感を覚えた。チョムスキーの言葉は論理的には一見正しそうに見えるが、実践的には無理があると思った。そこには「誰でも自分の言いたいことを言う権利がある」という原理だけが声高に語られていて、なんのためにそのような権利が保障されているのかについての考察が欠如しているように思えたからである。「言論の自由」は何のために存在するのか? それは「理非の判断をお任せできる人々」を出現させるために存在する。言論の自由さえ確保されていれば、長期的・集団的には必ずや正しく理非の判定が下る。というのは事実ではない。「理非の判定を下しうる人たち」は今まだここにはいない。だからこそ、その出現が懇請されているのである。そのために「言論の自由」はある。そのため「だけ」にあると言ってもよい。(略)

今問題になっているのは、「国民は長期的・集合的には必ずや適切な判断を下すだろう」という「国民の叡智」に対する信認の存否である。いくつかの新聞を挙げて「つぶれた方がいい」と言った人間はその新聞の読者たちに向かって「おまえたちは新聞に騙されているから、間違った判断を下すだろう」と言っているのである。 「私が代わりに判断してやるから、お前たちは私が『読んでもよい』というものだけ読んでいればいい」と言っているのである。ここに「理非の判定を下す人々」への敬意を見出すことはむずかしい。「理非の判断を下す人々」の判定力を信じない人、「自由な言論が行き交う場がなくてはすまされない」とは考えない人たちがいる。それはしかたがない。けれども、彼らが「言論の自由」を汚す権利を「言論の自由」の名において要求することを私は許さない。(
内田樹の研究室 2015年07月01日

【山中人間話】
Blog「みずき」注:もちろん、私も応援します。が、しかし、
という記事を今日か明日中にアップします。
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