ギボウシ 
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【反動としての知性への敵視が凄まじい】
反知性主義」という言葉があるが、いまの自民党が「主義」という言葉に値するかどうかは疑問。しかし領袖が知性の欠如を自覚し、おそらく強烈なコンプレックスがあり、反動としての知性への敵視が凄まじい。右に倣えでみんな知性をかなぐり捨てるのか。高村さんやあるいは橋下さんのような人を見ていると、弁護士はロジカルな存在だという幻想が木っ端微塵に吹っ飛んでしまうな…。例えば田中角栄のような人は、学歴がなくても「地頭」がよかったのだろうという気がする。しかし、いまは学歴がパッとしなくて地頭も悪そうな「七光り」組が権力の蛮刀を振りまわしている。それが怖い。ぼくは「学歴」なんぞになんの価値も見出していない人間だが、それでもそう思うのだから、怖い。ここまで「知」や「教養」「論理性」のようなものがないがしろにされている時代は記憶にない。もうほとんど60年を生きてきて、物心ついてから一貫して社会的関心を強く持ち、世の中を見つめ、それを商売にもしてきたぼくがいうのだから、ま、ある程度は信用してもらっていいのではないか。最低限の知性、言い換えれば「合理性の尊重」を前提としない「民主主義」を「衆愚政治」と呼ぶはずである。「衆愚」が横行する時代には、理屈にもなんにもなっていないタワゴトでも、それを声高に叫ぶ奴が最終的に勝利をおさめたりするものである。なぜこうもメチャクチャをやる自民党が選挙で勝つのか…それも個別政策については、集団安保も、原発再稼働も、ほとんどが反対多数だというのに。信頼に足る野党がないからだ、という奴もいる。しかし、それこそが最悪の思考停止というべきである。「より悪い選択」をする理由はどこにもないのだから。安保にしても、憲法「改正」にしても、原発再稼働や一連の労働規制の撤廃にしても、自民党の政策が広く世論の支持を受けているというなら諦めもしよう。しかし、そうではないのだから、多数派日本国民の思考停止、民主主義を自ら投げ出すに等しい愚行は厳しく批判しなければならないと思う。「歴史の審判」なんぞ悠長に待っているバヤイじゃないぞ。(toriiyoshiki Twitter 2015年6月15日

【補遺 一読者の借問に答えた古山高麗雄の短編】
古山高麗雄(に)「過去」というエッセイがあり、これに、いたく感心しました。ほんとうのことが語られていると思ったのです。(略)〈私が強制連行されたのは、東南アジアである。中国大陸の帝国陸軍と東南アジアの帝国陸軍とでは、どこが同じであったろう、どこが違っていただろう。私は中国大陸で、帝国陸軍がどんな非道を行なったかを、自分の目で見ているわけではない。けれども、各地でひどいことをしたと思っている。話を聞いてそう思っている。話は中国人からも聞き、中国から帰還した帝国陸軍の兵士からも聞いた。その話に誇張があり、あるいは、ときには嘘も混じっていることがあったとしても、私は中国大陸での帝国陸軍の非道は、ひどいものであったに違いない、と思っている。〉「私が強制連行された」という書き出しが強烈です。そう、徴兵とは、まさに国家による強制連行にほかならなかったのです。たとえばテレビなどで、池上彰が「靖国神社は国のために命を捧げた戦死者を祀っている神社です」などと、得意げに解説しているのをみて、ぼくはそこはかとない違和感をおぼえていましたが、その正体が、わかったような気がします。国は敗戦の責任をとりませんでした。みずから責任をとらないまま、あるいは国民から敗戦の責任を問われないまま、日本国の処分を占領国であるアメリカにゆだねたのです。何ら戦争の責任を明らかにしなかった国と、それを引き継いだ歴代の支配者が、国の「強制連行」によって戦死した何百万もの兵士を「国のために命を捧げた」として称える奇妙な光景が、この国ではいまだにつづいています。(略)ぼくは戦争を知りません。しかし、母と結婚するはずだった叔父は、広島の原爆で亡くなっています。戦争を知らないといっても、戦争はすぐそこにあったのです。戦争の実態を伝えることを自虐史観だと批判する人は、戦争が正義だと思っているのでしょう。積極的平和主義というニュースピーク語は、平和は戦争であり、戦争は平和であるという考え方にもとづいており、戦争は正義だとする絶対観念に毒されています。今回の安保法制が、国の交戦権を認め、憲法改正を先取りするものであることは明らかです。戦争が忘れられかけていること。戦争の語られ方がおかしくなっていること。一読者の借問に答えた古山高麗雄の短編は、そのことを痛切に思い起こさせてくれました。(海神日和 2015-06-11

【山中人間話】
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