5月23日付けのエントリで、私は、toriiyoshiki(アイヌ語で「宿酔い」の意)さんの以下のようなツイートの言葉を紹介しました。
 
いずれにせよ、こういうご時世には有象無象が蠢くものである。原発事故の直後、東大医学部の中川恵一氏は放射線の安全性を周知することは「思想戦」だとのたまって、「少なくとも科学者の台詞じゃねえなあ」と俺を呆れさせたものだが、いま福島をめぐって起きているのはまさに「思想戦」なのだと思う。(略)何を根拠に、あるいは何を意図して、こうした暴言をばら撒くのか?…ぼくは40年来の反原発派だが、このようなデマ体質の「反原発」(あるいは「脱原発」)派には激しい憤りを禁じ得ない。本当になんと情けない「脱原発」なのかと思う。こんなの「脱原発」ではないのはもちろん、「放射能恐怖症」ですらない。単なる「福島恐怖症」ないし「福島忌避症候群」。こんな連中が「脱原発」を叫ぶことが、どれだけ「脱原発」を遠ざけていることか。本当に頭にくる。ぼくは原発は可能な限り早く廃絶すべきだと思っている。だが、根拠なき「福島差別」や、闇雲な恐怖感の流布を通してそれを実現したいとは思わない。福島産米が「毒入り」なんぞという低劣なデマを通して「脱原発」を主張しているのを見ると、「脱原発」が排外主義の一変種に矮小化されたと頭にくる。(toriiyoshiki 2015年 5月20日
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そのtoriiyoshikiさんは以下のような言葉を発信する人でもありました。
 
「公共放送NHKは、戦後初期の理想の時代が生んだ素晴らしい存在、残すべき価値のある公共財だと思っています」…今回、わずか一期でNHK理事を退任することになった元ディレクターの退任挨拶である。こう書き出した後に(略)放送ガイドラインを引用した上で彼はこう続ける。「戦前の日本放送協会は、体制べったりで、政府が右といっても左、という勇気を持たなかった。…人々に真実を伝えず、悲惨な戦争へ突入するお先棒を担いだわけです。それが、どれだけ人々に悲惨な結果を招いたことでしょう」「その深い反省の思いから、そして放送のもつ影響力をいい方向に使い、国民に民主主義を広めようと、公共放送が構想されたわけです。 そして、健全な民主主義発展という使命達成には、自主自律、『不偏不党』の立場が必要不可欠だとされたのは当然のことです」(略)「…世界には独自の価値観を持った多様な人々が生きていることや、社会にも多様な価値観が存在することを示すこともまた、公共の大切な使命なのです。… 戦後70年の節目の今年、私たちはもう一度、この公共放送の原点ともいうべき使命を再確認し、肝に命じるべきです」「歴史の教訓にしっかりと学ぶべきです」

とこう書いて、彼は自ら人事担当として採用した若い世代に希望を託す。「彼らが現場にいる限り、公共放送の理念は決して揺らぐことはありません。彼らは、たとえ大きな力が真実を曲げようとしても、決して屈しない勇気と志を持っていると私は信じています」… 書き写していてぼくは涙が出そうになった。ここに書かれていることはごく当たり前のことで、本来ならわざわざいうまでもないことだ。それを敢えて退任の挨拶で言わざるを得なかった彼の静かな怒りがふつふつと伝わってくるのである。実は、この(元)理事はよく知っている男である。彼の硬骨が疎まれて、わずか一期で退任を迫られることになったのだろうとぼくは“邪推”する。だが、彼の退任挨拶は、現場では幹部の指示により「周知せよ」との指示とともに全員に回覧された。ぼくはそのことに一抹の希望を託したいのである。政治家が何を言おうと、トップがどうあれ、俺たちの現場はそう簡単には負けない。潰されはしない。その「志」だけは信じてほしいと思うのである。「肝に銘じるべき」という言葉がひとしお身にしみる夜である。(toriiyoshiki Twitter 2015-04-21
 
toriiyoshikiさんが正義感と鋭敏な感受性を持つ硬派のジャーナリストであることは上記の2本の文章をお読みいただけただけでもおわかりいただけるものと思います。そのtoriiyoshikiさんが「福島」をめぐる問題を「思想戦」の問題だと言っているのです。なにが「思想戦」の問題なのか。以下、上記のtoriiyoshikiさんの問題提起の続きとしての佐倉統さん(東京大学教授。科学史、科学技術社会論)の開沼博著『はじめての福島学』の書評のご紹介です。

【ぼくたちは、なんと狭量な人間になってしまったのだろうか】
東日本大震災の年に『
「フクシマ」論』で衝撃のデビューを果たし、以後、被災地の「内側」からのメッセージを全力で発信し続けてきた著者の、震災から4年目にしての新境地。元来彼は質的な調査を身上としてきた人だが、この本ではたくさんの統計データをもとに、一部で流布している福島のイメージがいかにズレているかを分かりやすく解説している。たとえば、福島県は農業県のイメージがあるが、実は一次産業従事者は1割以下で、二次産業が3割、三次産業6割である、など。研究者が自分のスタイルを変えるというのは、相当な覚悟と努力が必要な一大事である。そんな「変身」を開沼にもたらしたのは、震災後4年間の経験だったようだ。全国各地での講演会やメディア出演の際の反応は、福島の姿がほとんど知られていないという現実を、彼に突きつけた。基本的に前向きのトーンを保ってはいるものの、行間からは、開沼の静かな怒りや、かすかな諦念が、ほの見える。福島を政治問題化するな。事実を認識せずに結論先にありきで語るな。福島に住んでいる多くの人たちに迷惑をかけるな。どうして、こんな初歩的で常識的なことが分かってもらえないのか。難しいことではないはずだ。この本を読み、虚心坦懐にデータを受け入れればよい。自分の限られた経験や感覚だけに基づいて何ごとかを主張することは、やめよう。その代わりに開沼が提案するのは、科学的な前提にもとづく限定的な相対主義である。最低限の客観的事実を共有し、その上で、各人の価値観の違いを容認し、できれば共存すること。基本的なことである。だが、それすらできなくなっているとは、ぼくたちは、なんと狭量な人間になってしまったのだろうか。この先の福島学は、日本学は、どこへ向かうのだろうか。(佐倉統「朝日新聞」2015年5月24日

附記:

【山中人間話】
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