ヒナゲシ ヒナゲシ

【大阪都構想狂騒で問われたものは「民主主義の質」ではなかったか】
大阪市民を二分した「都構想・住民投票」の狂騒は、いったいなんだったのだろうか。問われたものは、大阪都構想の当否でも大阪市の解体の是非でもなかったようだ。実は、民主主義の質が問われたのではなかろうか。(略)大阪都構想賛成派の市民は、新自由主義派や右翼ばかりではない。大阪の現状に不満を募らせた多くの人々が、これが大阪発展の青写真と煽られ、その展望に賭けてみようという気持にさせられたのだ。
ベルサイユ体制に鬱屈していたドイツ国民がナチスの煽動に乗って、ヒトラーを支持した構図と似ていなくもない。昭和初期の不況に喘いだ日本国民が「満蒙は日本の生命線」というフレーズに心動かされた歴史を思い出させもする。さて、問題はここからである。一人ひとりが責任ある政治主体として維新から示された「青写真」や「展望」をじっくり見据えて自分の頭で判断しようとするか、それとも、人気者が香具師の口上さながらに語りかける政治宣伝にお任せするか、そのどちらをとるかなのだ。生活の困窮や鬱屈の原因を突きつめて考えるか、考えるのは面倒だからさしあたりの「既得権権者攻撃」に不満のはけ口を提供するポピュリストに喝采を送るか、という選択でもある。前者を本来的な民主主義、後者を擬似的民主主義と言ってよいだろう。あるいは、理性にもとづく下からの民主主義と、感性に訴えかける上からの煽動による民主主義。成熟度の高い民主主義と、未成熟な民主主義。正常に機能している民主主義と、形骸だけの民主主義。独裁を拒否する民主主義と、独裁に根拠を与える民主主義。本物の民主主義と偽物の民主主義、などとも言えるだろう。今回の狂騒が意味あるものであったとすれば、民主主義の質について考える素材が提供されたということであったと思う。(澤藤統一郎の憲法日記 2015年5月20日

【私たちは「橋下徹」におさらばできたのか】
映画監督の想田和弘さんが上記の澤藤統一郎弁護士の所論とほぼ同様の感想を書いています。以下、マガジン9に発表された記事をピックアップしておきます。私は澤藤統一郎弁護士の所論にも想田和弘さんの所論にも同感するものです。


私たちは「橋下徹」におさらばできたのか
(映画作家・想田和弘の「観察する日々」
マガジン9 2015年5月20日)
 
大阪市を廃止し分割する構想が、住民投票によって僅差で否決された。拙著『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)やツイッターなどで繰り返し申し上げてきたように、橋下徹という政治家は日本の民主主義にとっては脅威であり、危険な人物である。そして彼が強硬に押し進めてきた大阪市廃止分割構想は、多くの地方自治や行政学の専門家が指摘するように、リスクばかりでメリットが見出せない、本来ならば議論の俎上に上がろうとする時点で退けられなければならなかった「トンデモ構想」である。したがって、それが住民投票で否決され、橋下氏が政界引退を表明したことは、大阪にとっても日本にとっても朗報である。少なくとも「大惨事がとりあえずは避けられ、首の皮一枚でつながった」という意味では、喜ぶべきことであろう。正直、僕もホッと胸をなでおろした。「毎日新聞」(電子版)は「さらば橋下徹劇場」)などという見出しで、かなりセンチメンタルな記事を発表している。
 
しかし、である。私たちは本当に「橋下徹」とおさらばできたと言えるのであろうか。そのことを冷静に考えると、残念ながら「否」と言わざるを得ない。 まず、「賛成」の得票の大きさである。たまたま約1万票の差で構想は否決されたが、有効投票の半数近い69万4844人は賛成した。大阪市民がその総意として構想に「ノー」を言ったとは、到底言い難い結果である。そのことは重く受け止めなければならない。民主主義は「勝ち負け」ではないのだ。また、橋下氏のさばさばした笑顔での敗戦の弁が、「潔い」だの「無私」だの「すがすがしい」などと評され、好感を持って受け止められているのを目にすると、薄気味の悪さを感じてしまう。例えば、堀江貴文氏は橋下氏の記者会見について、「すごい、すごいですよ、よくこんな会見できるなって」とテレビ番組でコメントしたようだし、脳科学者の茂木健一郎氏は、記者会見での橋下氏の言葉や態度から彼を「公に奉仕した人」だと誤解し、「さわやか」だと賞賛した
 
だが、僕に言わせれば、橋下氏ほど政治を私物化してきた人は、なかなかいない。そもそも大阪市分割構想でさえも、頭の良い彼が本気でそれが大阪のためになると考えていたとは、到底思えない。身も蓋もない言い方をするならば、彼は結局「自分が勝つため」に分割構想や住民投票を道具として利用しようとしたにすぎない。要は橋下氏は自らの威信を試す私的な勝負事に、大阪市民の膨大な税金と時間とエネルギーを空費した。それが今回の住民投票の本質だと思うのである。そのことは、当の記者会見における橋下氏の言葉をちょっと注意深く分析するだけでも明らかだ。彼は府知事と市長を務めた期間を 「大変幸せな7年半」だったと述べ、僅差での否決を次のように評した。「こんな最高の終わり方ないじゃないですか。ボロカスにやられたらシュンとするけど、こんなありがたいことないですよ。本当に悔いがないし、総力戦でやってくれて、最後結論がこうなって、これはトップとしてありがたい話はないです。本当に納得できる」(ハフィントンポスト日本版)桜を愛し「散り際の美学」を持つ日本人の琴線には、思わず響いてしまう「さわやかさ」である。実際、もしこれがオリンピック選手か何かの敗戦の弁であれば、僕も惜しみない拍手を送ったことであろう。
 
だが、橋下氏は政治家である。政治はスポーツではない。これまでの橋下氏の言動を考えれば、素直に感動してはいられないはずだ。なぜなら彼は、大阪市廃止分割構想を「大阪再生のラストチャンス」だと煽り、それが実現しなければ大阪はダメになるとさえ主張していた。もし橋下氏が本当にそう信じていたのなら、住民投票で構想が否決された今、その結果を厳粛に受け入れつつも、大阪市の将来を本気で心配するのが自然なのではないだろうか。にもかかわらず、橋下氏は「本当に悔いがない」などとにこやかに述べた。構想に未練などなさそうである。このことから導き出される推論は、橋下氏がそもそも自分の構想を信じていなかった(嘘を言っていた)か、大阪の将来などどうでもよいか、のいずれかであろう。いずれにせよ、橋下会見が醸し出す「すがすがしさ」とは、彼があくまでも個人的な人生史を振り返って「本当によくやったな、オレ」などと自己満足するすがすがしさなのであり、「公に奉仕する」者の言葉では断じてないのである。
 
会見で露わになった橋下氏の民主主義観にも、僕は改めて強い違和感を覚えた。彼は記者から「70万人という賛成の数を見ても、引退の気持ちに変化はないか」と問われて、次のように述べた。だってそれはもう、政治ですから。負けは負け。ここは公務員と違うところです。きのうの街頭演説では戦を仕掛けたわけですから。『叩き潰す』と言って叩き潰された。民主主義、大変素晴らしいですよ。メディアも含めて徹底議論した。負けたのに命を取られない政治体制は、日本はすばらしい。僕はこのまま生きて別の人生を歩めるわけですから。絶対に民主主義は是が非でも守らなくてはいけない。そのためには報道ですよ。報道の自由は絶対に守らないといけない。僕もメディアにはやいのやいの言ってるけど、報道の自由が民主主義を支える根幹ですから。メディアの皆さんにも頑張ってもらいたいし、素晴らしい政治体制だと思いますね」(ハフィントンポスト日本版
 
橋下氏は、構想反対派の急先鋒である藤井聡京大教授を出演させたテレビ局に抗議文書を送るなど、報道の自由を露骨に侵害してきた。その彼が、自らの行為を棚に上げて報道の自由を語る。また橋下氏は、「独裁が必要」「選挙はある種の白紙委任」などと公言し、赤狩りを彷彿とさせる思想調査を強引に行うなど、民主的理念や制度を絶えず攻撃してきた。その彼が、民主主義を「素晴らしい政治体制」と持ち上げる。これまでの橋下氏の言動を知る者からすれば、こんな笑止千万の欺瞞を受け入れるわけには到底いかないのだが、それにつけても気になるのは彼の戦闘的で幼稚な民主主義観である。橋下氏は民主主義=多数決であると単純化してとらえ、民主政治のプロセスを多数決に勝つための勝負事であると勘違いしているようである。だが、デモクラシーは戦争でも博打でもない。それは自立した個人がそれぞれの利害や意見や価値観をすり合わせ、なんとか妥協しながら、時間をかけて合意形成を図っていくための政治体制である。最後は仕方なく多数決を取り、勝つ側と負ける側が出るけれども、それでも少数派の権利が守られ、「敗者」が出ないことを目指すのが民主主義なのである。
 
しかし、残念なことに現代の日本には、橋下氏のように民主主義を多数決であり闘争であると(漠然と)誤解している人が多いように僕は感じる。だから橋下氏のお粗末な民主主義観は、割とすんなりと多くの人に受け入られてしまうような気がしてならない。というより、彼の民主主義観に同意する人が多いからこそ、橋下氏はこれまで7年半も首長の地位についてきたのだし、政党を作って短期間に一大勢力をなし、国政にも重大な影響を及ぼしてきたのではなかったか。つまり私たち主権者の貧しい民主主義観こそが、私たちが住民投票での否決をもってしても「橋下徹」とおさらばできない、本当の理由なのである。
 
それにしても、橋下徹という政治家は、本当に油断がならない計算高い人物である。これまでも常にそうだったが、ダメージコントロールに恐ろしいほど長けている。橋下氏が政治生命をかけた大阪市廃止分割構想が否決されたことは、彼の人生にとっても最大の危機であったはずである。ところが彼は、記者会見で日本人の心の奥底に潜む「散り際の美学」に訴える言葉を連発することで、ピンチをチャンスに変え、おそらくかなり大勢の日本人の心を自分につなぎとめることに成功してしまった。かつて「民主主義は感情統治」とツイートした橋下氏の本領が、またもや土壇場で発揮されてしまったのである。記者会見における、記者たちと橋下氏の甘ったるいやりとりを読んでいると、人質事件などの被害者が加害者に同情や好意を寄せる「ストックホルム症候群」を思わず連想してしまった。
 
いずれにせよ、マスコミによって大々的に取り上げられた彼の記者会見は、たしかに橋下劇場の「第一幕」の終了を告げたのかもしれない。だがそれは、おそらく同時に「第二幕」の開幕をも告げている。彼はさすがに次の大阪市長選には出馬しないであろうが、テレビのコメンテーターなどとして、下手をするとこれまで以上の影響力を政治や世論に行使することになるであろう。そして再び「橋下待望論」が強まり、好機が到来するならば、橋下徹氏は政治家としても復活するのではないだろうか。あれだけ集中砲火を浴びて失脚した安倍晋三首相が、数年後には何事もなかったかのように首相に復活できた国である。橋下氏の政治家復活など、「普通の女の子になりたい」と言って引退したキャンディーズのメンバーが復活したのよりも(古い!)、お茶の子さいさいだと思う。実際、ジャーナリストの田原総一朗氏はBLOGOSのインタビューに答え、早々に「住民投票は勝者なき戦い。橋下徹が政治家をやめることには反対だ」などと述べている。その論旨はめちゃくちゃで、大阪市廃止分割構想のことを詳しく検討した形跡すらなく、田原氏のことが逆に心配になってしまうのであるが、橋下待望論はすでに世の中に出回り始めているのである。

【山中人間話】
関連記事
Secret

TrackBackURL
→http://mizukith.blog91.fc2.com/tb.php/1296-811c1bf9