醍醐聰さん(東大名誉教授)が今年の2月末までNHK経営委員会の委員長職務代行者をつとめていた上村達男さん(早稲田大学教授)の「NHKの再生はどうすれば可能か」(『世界』6月号)という論文を読んだ感想をご自身のブログに書いています。

今年の2月末までNHK経営委員会・委員長職務代行者を務めた上村達男氏の論文「NHKの再生はどうすれば可能か」(雑誌『世界』2015年6月号に掲載)を読んで、いろいろ考えさせられた。籾井NHK会長の資質、個人的見解に触れた部分など賛同できる箇所も少なくなかった。しかし、上村論文が一番強調しようとしたNHK再生論は、NHK存立の生命線といえる政治権力からの自主自立を強めるどころか、むしろ、危うくする内容を随所に含み、共感よりも危惧を抱いた。以下、上村論文に関する私の感想をメモ風にまとめておきたい。上村論文は冒頭で、同期の経営委員(本田勝彦委員、長谷川三千子委員)に対する世間の「誤解」を正そうとする「気配り」を示している。(醍醐聰のブログ「『他者への思いやり』を装った『自分への思いやり』~上村達男氏の新稿を読んで」2015年5月16日
 
醍醐聰さんの感想は「他者への思いやり」を装って『自分への思いやり』を述べる言論人の言論人としての惰弱を指摘して重要なのですが、ここでは長文につきその論の全文の引用は避けます。ここで引用しておきたいのは、醍醐さんによってその言論の惰弱を批判されている上村達男さんの卑怯惰弱の論を「リベラル」という評価のある自身の発行する雑誌に肯定的に掲載している雑誌『世界』の民主主義的な精神のひとかけらも見られない新稿紹介の文です。次のようなものです。
 
「NHKは、どうなってしまっているのか。権力から独立し、権力を監視し、視聴者=主権者・市民のために奉仕すべき公共放送としての任務を、本質的に理解できない人物が会長として就き、ひたすらに政権の意向を忖度しながらの舵取りが進んでいる。/籾井会長の就任以前からNHKの経営委員をつとめ、今年2月末で退任した上村氏が、あまりに不適格としか言いようのない籾井氏の言動を率直に振り返りつつ、NHKの再生のために何が必要なのかを、上村氏の専門家としての蓄積と良心の上にたって提言する。」
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2015/06/091.html
 
上記ブログ記事における醍醐聰さんの指摘と比較してこの記事を書いた雑誌『世界』の編集者(部)の無知蒙昧ぶりは開いた口が塞がらない体のものというほかないでしょう。

醍醐聰さんの上村論文批判は次のようなものでした。
 
上村論文は冒頭で、同期の経営委員(本田勝彦委員、長谷川三千子委員)に対する世間の「誤解」を正そうとする「気配り」を示している。しかし、(略)長谷川氏について、委員就任前の言動を取り上げ、それが経営委員としての資格要件に適う者かどうかを議論するのは当然のことである。(略)
 
経営委員に就任前、長谷川氏の言動はどのようなものだったか? 長谷川氏は『正論』2009年2月号に「難病としての民主主義」と題する小論を寄稿したほか、『月刊日本』2013年6月に掲載された論稿では、「『すべての国民は、個人として尊重される。』日本国憲法第13条冒頭のこの一文が、いかに異様な思想をあらはしてゐるかといふことに気付く人は少ない。」「『個人』などといふ発想に基づくのではない、『人の道』にかなった憲法こそ、われわれが求めてゆくべきものであらう」と述べている。

民主主義を「難病」と貶め、基本権人権の尊重を謳った日本国憲法を「異様な思想」と侮蔑する人物が、放送を健全な民主主義の発達に資するよう規律することを放送に携わる者の職責と定めた「放送法」の目的とまったく相容れない資質の持ち主であることは明らかである。このような異様な時代錯誤的な資質の持ち主が公共放送の監督・議決機関のメンバーとしてふさわしいかどうかを議論することに何の問題もないどころか、大いに必要である。(略)

経営委員就任後、長谷川氏は、上村氏が言うように「公平な立場で発言、行動されている」のかというと、公表された経営委員会議事録を読む限り、とてもそうはいえない。むしろ、籾井会長に批判の矛先が向きかけた時、それを遮るような発言をしたことがしばしば見られた。

また、長谷川氏は、NHK経営委員に任命された翌2014年1月6日の『産経新聞』のコラム欄に「『あたり前』を以て人口減を制す」というタイトルの一文を寄稿した。その中で長谷川氏は日本の人口減少問題に触れて、「『性別役割分担』は哺乳動物の一員である人間にとって、きわめて自然なもの」、にもかかわらず、「男女共同参画社会基本法」で謳われたように、出産可能期間中の「女性を家庭外の仕事にかりだしてしまうと、出生率が激減するのは当然のこと。日本では昭和47年の「男女雇用機会均等法」以来、政府・行政は一貫してこのような方向へと個人の生き方に干渉してきた、と男女共同参画社会への流れを「性別役割分担」社会に巻き戻すよう促す時代錯誤の見解を公にした。

こうした異様な考えの持ち主が「公共の福祉に関して公正な判断ができる」人物とは思えないし、男女平等、共生という民主主義の理念を広めるためにNHKを監督できる資質を備えた人物とは到底思えない。

私は先日、本ブログにおいて、岩波書店内で起きている言論の自由を声高く主張すべき出版社がいま真逆に言論の自由を封殺している事態(「岩波」就業規則改悪問題)を批判する記事を書きましたが、その「岩波」の内実の悲惨さは、このような惰弱な言論を惰弱として看破することのできない『世界』編集部そのものの見る目のなさを一瞥するだけでももはやこれ以上の論証は必要ないほど明らかな事態というべきでしょう。こうして内部から言論の自由は自壊、崩壊していくのです。戦前もそうでした

この点について、思い出す言葉として、辺見庸の以下の指摘を附記しておきます。
 
「状況の危機は、言語の堕落からはじまるのです。丸山眞男は『知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリストの転向からはじまる』と書き、歴史が岐路にさしかかったとき、ジャーナリズムの言説がまずはじめにおかしくなると警告しました。この言葉は一九五六年のものですが、言語の堕落、言説の劣化、ジャーナリズムの変節は、いまのほうがよほどひどいし、それらが全体として状況の危機を導いている。」(辺見庸 『単独発言―私はブッシュの敵である』 2001年)

もちろん、「言語の劣化、ジャーナリズムの変質」は、いまの方が2001年とはくらべようもないほどさらにひどくなっています。
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