toriiyoshikiさんの昨日の「脱原発」論の続きです。 toriiyoshikiさんは今日の記事では続けて以下のように書いています。

福島の山菜を食べたいのはぼくも同じだが、こういう「国策」に乗せられイノセントにお先棒を担いでいる人(プロのライター?)を見ると暗澹たる気分になる。後段のことさら補償問題に関連づけた展開を見れば、イノセントに見せているだけかもしれないが… 「福島のものを食べてはいけない」と主張している人と、避難を強いられるなかで補償の打ち切りを懸念する人は、一部は重なり合うにしても全然別の層だと言っていい。そこをこの川口マーン惠美という女性は混同している。耳打ちされて素直にそう書いたのか(素人)、意図的に混同させたのか(業者)? 昨日も書いたことだが、こういう両極端 の言説がメディアを席捲する現状は実に不幸である。誰よりも福島の人たちにとって。結論がまるっきり相反する両者の言説は、現実の福島の人たちのことを基本的に考えていない点で奇妙に一致している。

ついでに書いておくと、山菜ツァーの発案者として川口氏の文章に出てくる東京工大原子炉工学所の
澤田哲夫(引用者注:ウィキペディアでは「澤田哲生」)さん、地域メディエーターの半谷輝己氏は多少存じ上げている。澤田氏は原発事故直後テレビでメルトダウンはあり得ないという論陣を張って「有名」になった方であり、南相馬で除染ボランティアとして汗を流されているときにお会いした。半谷氏は双葉町出身で、地元で帰還促進の論陣を張ってきた方。(略)こう書いたからといって、ぼくはお二人を「原子力ムラのエージェント」だなどと決めつける気はない。ぼくの印象では、お二人とも真摯で真面目な方である。しかし、例えば半谷氏の活動には福島県が補助金を出していた。他にも「活動資金の出どころ」はあるはずである。そう考えると、今回の「福島の山菜を食べるバスツアー」の背景も多少気になってくる。ぼくは澤田氏や半谷氏の話にきちんと耳を傾け、受け止めようと考えているが(略)、同時に彼らが期待されている役割を福島の現状をめぐる「構図」=全体像のなかで見極めようと考えている。口幅ったいが、それがジャーナリストというものである。

川口マーン惠美氏はいくつかの著書もある学者で、ドイツの脱原発を批判的に検証した本も出しているらしい。しかし、「構造」に対する批判的視角は全く持ち合わせていないようだ。このイノセントな文体は「地」なのか、それとも「芸」なのか? いずれにせよ、こういうご時世には有象無象が蠢くものである。原発事故の直後、東大医学部の
中川恵一氏は放射線の安全性を周知することは「思想戦」だとのたまって、「少なくとも科学者の台詞じゃねえなあ」と俺を呆れさせたものだが、いま福島をめぐって起きているのはまさに「思想戦」なのだと思う。(toriiyoshiki Twitter 2015年5月15日
 
toriiyoshikiさんの「こういう両極端の言説がメディアを席捲する現状は実に不幸」という認識、「結論がまるっきり相反する両者の言説は、現実の福島の人たちのことを基本的に考えていない点で奇妙に一致している」という認識、「いま福島をめぐって起きているのはまさに『思想戦』なのだと思う」という認識に同感の思いを強くします。
 
しかし、私は、その「思想戦」はもう何年もやってきたようなつもりでいます。その結果、「被批判者たちのあまりの常識的にものを見る目のなさ、科学的思考力の欠如にあきれ返って、そうした彼ら、彼女たちになにを言ってもしかたがない、と批判する気力さえ萎えてしまっている」ことについては昨日の記事の冒頭の一文でも述べておきました。だから、toriiyoshikiさんの「いま福島をめぐって起きているのはまさに『思想戦』なのだと思う」という認識については同感の思いを強く持つものの、あわせてその「思想戦」の困難さをも思います。
 
といっても、その「思想戦」とは、結局のところ「君には常識はありや否や」というシンプルなものでしかないものです。「常識」とは「人間に広く共通する自明な意識」を意味するのであれば、その「思想戦」の終結はそう遠くない時期にくるはずです。そうでなければならない、と強く思っています。以下に福島の問題を主題にした絵本作家の松本春野さん、社会学者の開沼博さん、南相馬市立総合病院・神経内科医師の小鷹昌明さんのそれぞれの論を紹介した記事を再録しておきます。「いま福島をめぐって起きている『思想戦』」の一食の糧になれば幸いです。
 
【山中人間話】
関連記事
Secret

TrackBackURL
→http://mizukith.blog91.fc2.com/tb.php/1290-bf08c6ed