昨日の「山中人間話」で、私は、大分市の高崎山自然動物園の「シャーロット騒動」について猪野亨弁護士の「『英国王室に不敬だ』『日本の恥』『皇族の名前を動物につけられたらどう思うのか』だそうです。(略)このようなことを問題にすることこそおかしい。皇族、王室を絶対のものとして扱うこと自体に寒いものを感じざるを得ません。そこにあるのは権威だけを笠に着た横暴な振る舞いがあるだけなのですから」という言葉を引用した上で、「そうなのですが、それ以前に王室や皇族が“あこがれ”の対象となるという風潮自体が「個人の尊厳」(人間の平等)という人としてあるべき当然の観点から見ておおいに問題というべきですね」というコメントを述べておきました。
 
以下は、私のその「個人の尊厳」に関連しての問題提起に則しての「シャーロット騒動」余滴です。
 
本日の朝日新聞の「天声人語」はその「シャーロット騒動」をユーモアの問題として次のように書いています。
 
イギリス人はユーモアが好きだ。苦しいときほど必要だと考えるらしい。第2次大戦中、ロンドンはドイツ軍の空襲を受けた。動物園に爆弾が落ちたときは、タイムズ紙が「しかし、猿たちの士気はいささかも衰えていない」と書いたそうだ。考えてみると、これは「猿たち」が利いている。猿山を眺めれば、彼らがわれわれに最も近い動物であるとよく分かる。ゾウやキリンではあまり面白くない。古びた話を、大分市の高崎山自然動物園の赤ちゃん猿の命名騒動に思い出した。英王室に誕生した王女と同じシャーロットと名づけたら、「失礼だ」という批判が山と届いた。これも猿ゆえだろう。ウサギやカピバラなら、騒動にはならなかったと思われる。ではカバはどうかと問われると困るけれど、ユーモラスではある。英王室の広報は鷹揚(おうよう)に「赤ちゃん猿の命名は動物園の自由です」と語る。結局、名前はそのままと決まった。「失礼」を案じた人たちも、先方の対応に少し気が楽になっただろうか。ロンドン空襲に話を戻せば、半壊したある百貨店は「本日より入り口を拡張しました」という看板を出したそうだ。やせ我慢で繰り出した泣き笑いのユーモアに、お国柄を見る思いがする。そういえばきのうは、英国にとって対独戦の勝利から70年の日だった。健やかなプリンセスの誕生から世界注視の総選挙と、英国発のニュースが続く。日本の皇室ともゆかりの深い王室である。美しい5月の慶事を、遠くより祝福申し上げる。(「天声人語」2015年5月9日
 
しかし、私に言わせれば、今回の「シャーロット騒動」はたしかにユーモアの問題でもありますが、それ以上に「個人の尊厳」の問題をどのように考えるかという問題です。それが私の昨日のコメントの意味です。しかし、本日の「天声人語」を見る限りそのような問題意識はありません。皇室や王室を特別なものとして遇するその姿勢は前近代的なエモーションというべきものです。先進的であり続けること、新しい時代の課題を担うジャーナリズムの精神とは無縁なエモーションといわなければならないでしょう。
 
本日の朝日新聞には「子ザルに『シャーロット」、決着の経緯は… 海外も注目」という記事も掲載されています。その中で今回の「シャーロット騒動」に関していわゆる識者の意見も取材されているのですが、そのメディアの取材に対してリベラルの立場からの意見を求められることの多い田島泰彦上智大教授(メディア論)は「今回のケースが誰かを傷つけたり、権利を侵害したりしていないとして『名付けは親しみがわく話。決定した動物園側はむしろ市民感覚があった」と述べています。この田島教授の「市民感覚」という言葉も私には今回の「シャーロット騒動」の本質を見損なっている論のように見えます。
 
一方、弁護士の清水勉さんは、今回の「シャーロット騒動」に関して「市長は応募者に責任を転嫁している」という誰も指摘しない大切な指摘をしています。曰く
 
賛否両論、出るだろう。気になるのは、大分市長が名前の変更をしないとした2つの理由。1つは、多くの方につけてもらった名前というもの。これは決め手にならない。命名募集のとき、「いちばん多かった名称に決める」と宣言していないかぎり、最終的に決めるのは命名募集をした側。責任も命名募集をした側。市長は応募者に責任を転嫁している
 
私もそのとおりだと思います。ときに脱線することもあるように私には見えますが、清水弁護士のいつもながらの慧眼というべきでしょう。
 
また一方、弁護士の徳岡宏一朗さんは、日本の皇室と英国の王室を区別してダブルスタンダードの意見を述べる(だろう)タカ派の人気ブロガーの「二枚舌」批判として「じゃあ、上野動物園で今度生まれたチンパンジーの名前が「カコサマ」でもアリ!なんだな?」という意見を述べています。
 
しかし、私は、この徳岡宏一朗さんの論にも若干の異論を述べておきたいと思います。それは、リベラル・左派の弁護士の徳岡弁護士をしてもやはり「王室や皇族が“あこがれ”の対象となるという風潮自体」を問題視しえない(「『カコサマ』でもアリなんだな」というのはやはり「皇族」を特別視しているということでしょう)「市民感覚」の持ち主でしかないように見えるからです。朝日の「天声人語」子も、リベラル派の田島泰彦上智大教授も、リベラル・左派の徳岡弁護士も前近代的なエモーションとしての「市民感覚」を問題視する視点を持ちえていないということ。それは現在の天皇を「民主主義」の人、「平和主義」の人として評価し、「象徴天皇制」という制度と「民主主義」という制度との矛盾を問題視しえない思想とも決して無関係ではないでしょう。
 
今回の「シャーロット騒動」を通じて浮かび上がってきた「市民感覚」なるものに私は逆にいまや忘失の危機にあるといってもよい「戦後感覚」という戦後世代の創出した新しい感性を改めて対置してみたいという誘惑にかられます。
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