【天皇の発言と臣民根性について】
天皇の発言が話題となっています(引用者注:こちらの拙記事もご参照ください)ので、この点についてもう少しお話しさせてください。私は、本来人間は平等だという常識的な考えもっていますから、天皇という貴種が存在するなどとは思いもよりません。天皇を特別な存在とし、血筋故に貴いとか、文化的伝統を受け継いだ尊敬すべき人格だとかという虚構を一切認めません。(略)天皇の存在を可能な限り希薄なものとして扱うこと、最終的にはフェイドアウトに至らしめること、それが国民主権原理の憲法に最も整合的な正しい理解だと私は思っています。「象徴天皇は、存在しても特に害はないのではないか」というご意見もあろうかと思います。しかし、私は違う意見です。今なお、象徴天皇は危険な存在だと思うのです。その危険は、国民の天皇への親近感があればあるほど、増せば増すほどなのです。国民に慕われる天皇であればこそ、為政者にとって利用価値は高まろうというものです。

先ほど、
高屋窓秋という俳人のご紹介の中で、嫌いなものは「奴隷制」というお話しがありました。奴隷制とは、人を肉体的に隷属させるだけでなく、精神的な独立を奪い、その人の人格的主体性まで抹殺してしまいます。奴隷根性という嫌な言葉があります。奴隷が、奴隷主に精神的に服従してしまった状態を指します。客観的には人権を蹂躙され過酷な収奪をされているにかかわらず、ほんの少しのご主人の思いやりや温情に感動するのです。「なんとご慈悲深いご主人様」というわけです。奴隷同士が、お互いに、「自分のご主人様の方が立派」と張り合ったりもすることになります。旧憲法下の、天皇と臣民は、よく似た関係にありました。天皇は、臣民を忠良なる赤子として憐れみ、臣民は慈悲深い天皇をいただく幸せを教え込まれたのです。これを「臣民根性」と言いましょう。明治維新以来、70年余にわたって刷り込まれた臣民根性は、主権者となったはずの日本国民からまだ抜けきっていないと判断せざるを得ません。天皇制とは、日本国民を個人として自立させない枷として作用してきました。臣民根性の完全な払拭なくして、日本国民は主権者意識を獲得できない。天皇制の呪縛を断ち切ってはじめて、個人の主体性を回復できる、私はそう考えています。(澤藤統一郎の憲法日記 2015年4月26日
 
【鈴木耕氏と『マガジン9』について】

引用者注:上記の想田和弘さんのツイートによれば「保坂展人氏がダブルスコアで自民・公明推しの候補に圧勝・再選」した模様です。それを昨日、鈴木耕さんは「現職の区長が接戦を演じている」とツイートしています。選挙前の世論調査で「接戦」と報じられている選挙戦で「ダブルスコア」で決着することはまずありえません。左の事態が示していることは鈴木耕さんはウソを言ってまで保坂展人氏を応援したということです。選挙戦で候補者を褒めちぎることは許容されますがウソを言ってはいけません。本人はもちろん、候補者の信用を貶めることにもなります。選挙運動そのものについても不信を増幅させる効果しか持ちません。私は鈴木耕氏を批判する記事を書いたことがありますが、鈴木氏の思想は安物の似非リベラリストの思想というほかありません。こういう人がウェブ紙の『マガジン9』の編集委員なのですからその『マガジン9』の質も当然疑われることにもなります(私はとうに『マガジン9』は見離していますが)。
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