先月末来の古賀茂明さんの「報ステ発言」騒動は、本来次元を異にするはずの2つの問題が「報ステ発言」問題としてひとくくりにされて論じられることが多いため、本来対峙すべき要素のない者同士が対峙したりという非常にわかりにくい展開を示しています。本来次元を異にするはずの2つの問題とは、ひとつは権力のメディアへの言論の圧力の問題とそれに対峙するメディアの側の言論の自由はどうあるべきかという問題です。もうひとつは権力を批判する際の言論の質の問題というべきものです。
 
報ステの番組における古賀さんの権力批判の言論の質はその批判の重大性(結果として「電波ジャック」と評される事態)のわりには番組の中で口頭で指摘された根拠は「うわさ」程度のものでしかなく、中立的な視聴者に「古賀さんの指摘はもっともだ」と納得させるには十分なものとはいえませんでした。以上、私がここで問題にしているのは古賀さんの番組中の「言論の質」の問題です。それを根拠の薄弱性は不問に附したまま「政府の圧力批判は当然だ」として古賀氏を一方的に擁護する論がある層で強くありました。これでは事実として古賀さんの主張がそのとおりであれば断固として古賀さんの側に立たなければならないと考えている人たちの層を分断させる役割しか果たしません。これらの人たちはなによりも「事実」を重視しようとする人たちだからです。これらの人たちにやみくもに「古賀さんが正しい」と主張しても通じるはずがありません。これが本来次元を異にするはずの2つの問題をひとくくりにしてここで問われるべき問題を複雑にしているという問題です。
 
結果として権力のメディアへの言論の圧力の問題よりも、古賀氏の論、もしくは古賀氏の「電波ジャック」の態度は正しいかどうかという相対として瑣末な問題にメディアでの議論の論点の多くはすり替わってしまいました。こうした状況を招いてしまった責任はどこにあるのか、あるいは誰にあるのか。私として思い当たるのは以下に述べる人たちの論のありようです。
 
内田樹さん(思想家、翻訳家)はつい先日、「政府の言論人への圧力」について次のような批判を述べていました。
 
言論への圧力は「反政府的な意見を言い続けてきた人間」には無効で、「自分に圧力がかかるはずはないとたかをくくってきた来た人間」において選択的に有効だというのは、ほんとうにその通りだと思います。政府が僕の言論を弾圧してくれば、それは「僕の言ってきたことが正しかった」ことを反論の余地なく証明してくれるだけです。圧力を受けて腰を抜かすのは「別に反政府的なことを自覚的に言った覚えはなく、みんながしてるから、『そういうこと』を言っても書いても平気だと思ってしていた」連中です。悪いけどいまの日本のメディアは「みんなが批判するときは一緒に批判し、みんなが批判するのを手控えたらすぐ止める」という人たちで埋め尽くされております。そういう人のことを「ジャーナリスト」と僕はもう呼びたくありません。このあといずれ安倍政権は崩壊すると僕は確信してますけれど、いま御用記事提灯記事を書いている諸君は、そのときには今度は「安倍政権の失政を徹底検証する」というような記事を書くのです。必ず書きます。(内田樹Twitter 2015年4月20日
 
その内田樹さんの批判は「批評」という性質の核心をついたもので、私は、「内田樹氏の論は一般論としては正論だと私も思います。では、内田氏の古賀茂明氏評価はどういうものか? 私には古賀氏は『反政府的な意見を言い続けてきた人間』には見えないのですが?」という注をつけた上で本ブログの「今日の言葉」欄に引用しておきました。
 
その古賀茂明さんの「報ステ発言」に関して想田和弘さん(映画監督、ジャーナリスト)は19日付けのツイッターで以下のような発言をしています。内田さんはその想田発言をリツイートしていますから、上記の内田発言は想田発言に呼応しての意見表明のように見えます。だから、私も、上記の内田発言について「では、内田氏の古賀茂明氏評価はどういうものか?」という注をつけました。

上記の想田さんの「セカンドレイプ」発言は、古賀さんの「報ステ発言」を完全に古賀さんに寄り添う形でなく少しでも批判する者は「セカンドレイプ」者とみなす。すなわち、古賀さん批判は決して許さないというご本人にはその気はなくとも非常に居丈高で傲慢な声明になっているというほかありません。それを「リツイート」している内田樹さんも同罪といわなければならないでしょう。

さすがに「セカンドレイプ」という発言はないものの、上記の想田さんの「声明」とほぼ同様のことを述べている人はいわゆる「左派・リベラル派」と呼ばれている人たちの中にも少なからずいます。その「左派・リベラル派」の弁護士のひとりの徳岡宏一朗さんは先日あった日本外国特派員協会での古賀さんの記者会見の後のフジテレビの女性レポーターと古賀さんとのやり取りの中で自身を「(政府と)戦う人」と規定し、自身の「報ステ発言」の不十分さといたらなさには思い到らない古賀発言を肯定する立場から以下のように紹介しています。これも古賀発言を「善」とする立場で、古賀さん批判は決して許さないとする想田さんの思想の位置とたいして変わらないところにいる立場だといわなければならないでしょう。
 
フジテレビ:先ほど会見の中でもおっしゃられていたように、圧力をかける側は圧力だと思っていない前提で、きっと呼んでいるだと思います。
古賀:いやいや。圧力をかける側は、相手がどう思っているのかを考えながら行動すべきだ、と私は言っているんですよね。あなたたちは一生懸命、政権側に立って、質問されているでしょう。それが僕には、全然理解できない。あなたは(政権と)戦う気はないんですか。
フジテレビ:それは時と場合によると思いますけど。
古賀:時と場合?
フジテレビ:はい。
古賀:じゃあ、戦わないって決めたら、そうやって戦う人を追い詰めるために質問するんですか? これ全部、(他のカメラも)撮ってますよ。あなたもね。Everyone says I love you ! 2015年04月17日
 
もうひとりの「左派・リベラル派」の例は2年前まで大学の現役教授だった人の発言です。この人も古賀発言を一方的に「善」とする立場から次のように発言します。「古賀発言」問題に関する思想的位置は想田和弘さんや内田樹さん、徳岡宏一朗さんと五十歩百歩というところです。すなわち、上記で述べた古賀茂明さんの「報ステ発言」の言論の質の問題点に思い到らない人たちだということです。
 
6日の毎日は古賀氏とテレ朝の言い分の双方を相当詳しく伝えている。これに対して、しんぶん赤旗は未だに記事としては扱っていない。同じ6日にコラム「きょうの潮流」で取り上げただけだが,そのスタンスはむしろ古賀氏に批判的なフレーズの方が勝っている。やや古賀よりのフレーズ「安倍政権に辛口の言葉」があるものの、「視聴者への配慮も欠き違和感を覚えたとの声も」と、第三者の「声」に名を借りて古賀氏にネガティブな視線を投げかけている。(略)今回の件も、いわば行儀の良さを過度に偏重する「しんぶん赤旗」の姿勢が表れた結果ではないか。そのような構えでは、表現や行動の幅も限られる。そしてこの「危機の夏」をどうにもできないと思う。結果責任を自覚し、戦略・戦術を組み立てなければならない。(ペガサス・ブログ版 2015-04-14
 
さて、上記の古賀茂明さんの「報ステ発言」の言論の質の問題点に思い到らない人たちに対して、そのことに思い到る人はどういうことを言っているか。ここではジャーナリストの田畑光永さんの「大きな思い上がりと小さな思い上がり」という論と写真家で作家の藤原新也さんの論をご紹介しておきます(藤原さんの論は再掲)。ここでははっきりと古賀さんの「言論の質」が問題にされています。
 
最近の出来事を簡単に整理すれば、3月27日のテレビ朝日「報道ステーション」でコメンテーターの元通産官僚・古賀茂明氏が番組降板に至った経緯を述べたのに合わせて、「菅(義偉)官房長官をはじめ官邸のみなさんにはものすごいバッシングを受けてきた」と発言したのが一件。(略)都合4件が最近の出来事である。私見ではこの4件の当事者の行動にはいずれも問題がある。順番に見ていこう。まずテレビ朝日での古賀氏の発言について。世上では古賀氏の出演終了についてご本人とキャスターとのやり取りも云々されているが、そんなものは見っともないだけのことでどうでもいい。問題は古賀氏の「官邸からバッシングを受けた」という発言である。これはいけない。古賀氏には思い上がりがあったのではないか。「自分が言えば、世間の人はそのまま信じてくれて、政府の圧力でテレビを降ろされた気の毒な人と思われる」という思いあがりである。しかし、政府当局者がそんなことを言われて、黙っているはずはない。菅官房長官が反論するのは当然である。だから古賀氏は官房長官を名指しで批判するなら、「いつ、どこで、どういうバッシングがあったのか」をきちんと言わなければならない。それなしの批判は誹謗中傷にすぎない。したがって非はまず古賀氏にある。では菅発言には問題はないか。「事実無根」というのは、古賀氏が具体的な事例を言わなかったのだから、本人が事実無根と思うならそのように発言することは彼の権利である。けれど次の「放送法という法律がある」以下の言葉は権力を笠に着た明らかな脅迫である。政府に電波を割り当てる権限があり、それがなければ放送局が成り立たないことを盾にとって、「オレに言いがかりをつけるなら免許を取り消すぞ」と言っているのと同じである。これは悪質である。権力を笠にだれでも自分に従わせようという安倍政権の思いあがりがそのまま出た発言である。古賀氏の幼稚な非とは比べものにならない。リベラル21 田畑光永 2015.04.21
 
テレビ業界に異分子粛清の嵐が吹き荒れているようである。その異分子とは現政権をつつがなく運営する上において都合の悪い知識人やコメンテーターのこと。(略)その消された象徴的存在がテレビ朝日の「報道ステーション」でコメンテーターをやっていた元経済産業省官僚の古賀茂明だが、その降板騒ぎのあった数日後に古賀と親しい Hに電話を入れた。彼は降板騒ぎのあった日から数日は古賀といっしょだったらしい。Hは電話の向こうで情けないと言っていた。彼が情けないと感じているのは江川紹子やニュースウイーク編集長の竹田圭吾や有田芳生などひごろ安倍政権と距離をとっている人間もこのたびの古賀の言動に異を唱えていることらしい。その異を唱える根拠はふたつある。古賀がテレビの生放送内でテレビ朝日の早河会長が菅義偉官房長官や官邸の意向に沿って自分が降ろされたと発言したことに確たる裏付けがなく、そういった軽率な行動はかえって敵に塩を送ることになる。私憤を公器をつかって晴らすべきではない。の二点である。確かにあそこまでカミングアウトするのであれば、アナウンサーの古館の横やりに途中で発言を控えるのではなく、生放送なのだからそのまま確たる証拠を提示するという覚悟と用意周到さが必要だが、それがなかったことは”弱かった”と言わざるを得ない。だがこの古賀の発言を”私憤”と一蹴して、せっかくの問題提起を葬り去る動きは同意できかねる。なぜなら私はあれは公憤に見えたからである。かりにひとりの表現者(コメンテーター)が公器の中で歯に衣着せぬ発言をし、それが現政権の怒りを買い(かつて安倍とメシを食った早河)のトップダウンで彼が降板させられたとするなら、それは表現の自由という自由主義社会の根幹を揺るがす出来事であり、かりにその矢面に彼が立ったことでそれを江川らが私憤と片付けることは自らの首を絞めることになるからである。ということはそれが私憤ではないと証明する意味においても古賀は自分の発言の根拠を示す必要があるということだ。(藤原新也「Shinya talk 」2015/04/04
 
長くなりましたので、古賀茂明さんの「報ステ発言」評価と天皇の「お言葉」評価の関連性については明日改めて書くことにします。
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