弁護士の徳岡宏一朗さんが4月19日付けのご自身のブログに「アニメ版マララ 女性の権利と教育のために」という記事を書いています。「娯楽」のジャンルの記事として書かれているものですからほんとうは批評の食卓には供したくないのですが、そういうことは一応承知の上で、やはりひとこと言っておかねばならないように思います。というのも、同ブログ記事の全体が昨年のノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんを買いかぶりすぎる体の記事になっているからです。

そういうことでいいのか? いいはずがない、というのが以下の私の論の出発点です。
 
昨年のマララさんのノーベル平和賞受賞以来、左翼メディアの「赤旗」を含めて日本のメディアの多くはマララさんの同賞受賞を賞賛する記事一色ですから、マララさんの同賞受賞を批判でもしようものならクレーマーだのあまのじゃくなどのレッテルを貼られかねませんが、「リベラル」、あるいは「リベラル・左派」を自負する論者であるならば、少なくとも以下の事実は知っておくべきことがらだと私は思います。その上でマララさんの同賞受賞をどのように見るか。その人の「リベラル」度の真価が問われることになるでしょう。
 
第1。マララさんの2013年の米国訪問の際の国連スピーチを書いたのは広告代理店EdelmanのJamie Lundie氏だという信憑性のある記事があること。


第2。広告代理店のEdelmanはマララさんの活動のコーディネートを2012年からはじめ現在5名からなるチームが同コーディネートを担当していること。


 
注:ウィキペディアの「マララ・ユスフザイ」の「支援者」の項にも上記と同様の説明があります。
 
上記の事実からは広告代理店なるものにサポートされたマララさんの国連スピーチとはなにか? という当然否定的な疑問が生じてくるでしょう。そして、同国連スピーチがノーベル平和賞受賞の際の評価の対象になっているのだとすれば、そうしたレベルのノーベル平和賞受賞とはいったいなにか? という疑問も当然生じてきます。
 
若者時代から壮年時代にかけての放浪の旅を通じてアジアや中東地域の人々の暮らしに対する知見の深い写真家で作家の藤原新也さんの下記の論はそうした疑問の発生地点に私たちを連れ出し、マララさんの生育の地のパキスタンという現場の視点から私たちに疑問の解法の糸口を提供してくれる貴重な論になっているように思います。藤原さんの視点とは以下のようなものです。
 
マララさんのノーベル平和賞の受賞にはさまざまな批判がある。イスラム国台頭の最中、対イスラム過激派共闘へのプロパガンダとされた感は確かに否めない。というより絶妙のタイミングだったと言える。(略)マララさんの場合は欧米の価値観や欧米主導の政治のイコンとなるにはこれ以上にない”道具立て”を所有していた。そしてまた少女はその”お膳立て”に十分すぎるほど応えている。私は彼女を見ているとついインドやパキスタンの旅を思い出してしまう。なぜかあっちの方にはこういう小娘がよく居るのだ。エリートの子供で、学校の成績のよいらしい歳の端もいかない10代の小娘が自信たっぷりに大人顔負けの饒舌な口調で(稚拙な)論理を振り回す。まるで街頭の香具師ではないかと思えるほど口八丁手八丁だ。その過剰な自己主張は一体どこから出ているのだろうと思うことがある。日本にあまりこういった10代の小娘がいないので想像がつかないだろうが、旅の中でこういう手合いが出てくると辟易する。話に調子を合わせていると、自分の都合のいいように話をねじ曲げ、人の優位に立とうとする。マララさんもここのところ欧米世界の要請に応えるように自己ヒーロー化に向かっての言葉の脚色がエスカレートしている。もともと彼女の存在が世の一部に知られたのは彼女の住む地域がタリバン運動に席巻され女性の教育が禁止されたおり、イギリスのBBCの依頼によって現状をブログに書いたことがきっかけだった。彼女はその時、スクールバスでの通学にビクビクしている、という発言をしている。そしてそのコメントによって彼女は特定され、狙撃された。わずか11歳の子供である。ビクビクしているとの発言であっても現地の状況を考えると勇気ある発言であり、それは彼女の偽りのない本心だろう。その折の狙撃される前の彼女のポートレイトを見て私は汚れのない綺麗な子だとも思った。
 
だがそれから6年、彼女は欧米の”マララ・ヒーロー化計画”に応えて饒舌と脚色をエスカレートさせて行く。その真骨頂がノーベル平和賞の授賞の弁の中で出て来た以下の文言である。「私には黙って殺されるか、発言して殺されるかしか選択肢がなかった。だから私は立ち上がって発言してから殺されようと思った」まさに世界を唸らせるサビの効いた文言である。情報の溢れるこの情報化社会においては象徴となるような有効なワンコピーが功を奏すと言うことを十分心得たフレーズでもある。ひよっとしたら広告代理店が一枚噛んでいるのではないかと思わせるほどの出来映えである。ふとそう思うのは授賞の弁を全文読んでみると非常に優等生的平板なものでありながら、このフレーズだけが全体から浮いたように”高等”だったからだ。いやかりにそれが彼女自身が作った”コピー”であったとしても、あの”ビクビク”から”殺されようと思った”のわずか6年の間に彼女の身に何が起こったのか。それはそのわずか6年の間の少女のポートレイトの変化に現れていると写真家の私は見る。(藤原新也 Shinya talk 2014/10/14
 
「あっちの方にはこういう小娘がよく居るのだ」という藤原さんの感想。そして、「わずか6年の間の少女のポートレイトの変化に現れている」と見る写真家の眼は、耳(眼)を澄ませて聴いて(見て)おくべき現地の知見に基づく貴重な感想だといえるでしょう。
 
次にやはり中東地域に造詣の深い作家の田中真知さんのノーベル平和賞受賞前の2013年にマララさんが国連本部で行ったスピーチの感想。感想は「タリバーン幹部からマララへの手紙」と題されています。
 
昨年10月にタリバーンに頭を撃たれたパキスタンの16歳の女性マララ・ユスフザイ。やっと怪我から回復した彼女が、さる7月12日にニューヨークの国連本部で行ったスピーチは感動的なものとしてメディアで大きく取りあげられ、「マララさんにノーベル平和賞を」という動きまで起きているという。それはテロリズムや暴力によって子どもたちが教育の機会を奪われることがないように先進諸国に支援を求めるとともに、暴力ではなくペンによって戦うことを訴える内容だった。そのマララに宛てて、数日前、パキスタンのタリバーン運動(TTP)の幹部アドナン・ラシードが書いたという反論の書簡が公開された。アドナンは、このような事件が「起きてほしくはなかった」とする一方、「タリバーンは教育そのものに反対しているわけではなく、あなたのプロパガンダが問題とされたがゆえに、あなたを襲撃したのだ」と書いている。その反論や弁明にはいいわけがましい印象を受けるのもたしかだが、この書簡には西側諸国が主導してきたグローバライゼーションに対する、彼らの切実な危機感がよく表れているように思った。日本語の報道の多くは「こんな書簡が公開された」というだけで、内容には深くふれていない。
 
アドナンは書いている。「英国が侵攻してくる前、インド亜大陸の教育程度は高く、ほとんどの市民は読み書きができた。人びとは英国人士官にアラビア語やヒンドゥー語、ウルドゥー語、ペルシア語を教えていた。モスクは学校としても機能し、ムスリムの皇帝は莫大な資金を教育のために費やした。ムスリム・インドは農業、絹織物産業から造船業などで栄え、貧困も、危機も、宗教や文化の衝突もなかった。教育のシステムが高貴な思想とカリキュラムに基づいていたからだ・・・。(略)「あなたが世界に向けて語りかけている場所、それは新世界秩序をめざそうとしているものだ。だが、旧世界秩序のなにがまちがっているのか? (新世界秩序を唱える人びとは)グローバルな教育、グローバルな経済、グローバルな軍隊、グローバルな貿易、グローバルな政府、そしてついにはグローバルな宗教を打ち立てようとしている。私が知りたいのは、そうしたグローバルな計画の中に予言的な導きというものが入り込む余地があるのかということだ。国連が非人間的・野蛮というレッテルを貼ったイスラム法の入る余地はあるのかということだ。・・・(略)「正直に答えてほしい。もしあなたがアメリカの無人機によって銃撃されたのだとしたら、はたして世界はあなたの医学的容態に関心を示しただろうか? 国の娘だと呼ばれただろうか? キヤニ陸軍参謀長があなたを見舞いに来たり、メディアがあなたを追いかけたり、国連に招かれたりしただろうか? 300人以上の罪のない女性や子どもたちが無人機(ドローン)攻撃によって殺されてきた。でも、だれも関心を示さない。なぜなら、攻撃者たちは高い教育を受けた、非暴力的で、平和を愛するアメリカ人だからだ。・・・(略)
 
この書簡に述べられたことに筋が通っているかどうかはべつとして、マララをめぐる過度な報道に西側のプロパガンダ臭が最初からついてまわっていたのはたしかだ。マララが11歳のときからつけているという反タリバーン的な内容の日記が2009年にBBCラジオで流されたことがきっかけで、彼女は反タリバーンのオピニオンリーダーに祭り上げられた。そこには彼女の通っていた学校を運営する、詩人でもある彼女の父親の影響も当然強いだろう。だが、彼女の意見はパキスタン国内でかならずしも支持されているわけではなく、国連スピーチのあとは西側メディアの賞賛とは裏腹に、パキスタンのオンラインサイトは、マララのスピーチに対する反発のコメントであふれかえったという。(略)
 
気の毒な少女が平和や教育の大切さを訴えれば、だれだってそれを表立っては批判しにくい。実際、マララという少女は勇気ある、高潔で、賢く、まっすぐな女性なのだと思う。しかし、だからこそ問題なのだ。問題はマララのスピーチの中にあるのではなく、そうしたまっすぐな子どもをプロパガンダの宣伝材料にする、というやり口にある。そうした少女が国連のスピーチで世界の賞賛を受け、ノーベル平和賞候補にまで祭り上げられる陰で、米軍の無人機による攻撃で昨年だけで300人以上、これまでには2000人以上が殺され、しかもそのほとんどが民間人であるという事実(米軍はそれを事実と認めていないが)はほとんど顧みられていないとは、どういうことなのか?(略)
 
たしかにいえるのは、このグローバル化の進んだ世界では、西洋的な教育と学校が自由や平等や平和をもたらすという考え方が、かならずしも正しいとはいえないことだ。現在いわれている自由も平等も平和もイデオロギーでしかない。エジプトでも一時期いわれていたが、女性が髪をおおっているヴェールをひきはがすことが、はたして「自由」といえるのか、ということだ。圧倒的な強者たちの中に弱者が「この世界は平等なのだから」と追いやられ、自由競争にさらされたら、ひとたまりもない。(以下、略)田中真知「王様の耳そうじ」2013年7月19日
 
引用しておきたい記事はまだまだあります。が、あまりに長くなりますので引用はこれで終しまいにします。が、ここまでの事実の紹介と引用だけでもマララさんのノーベル平和賞受賞を賞賛する記事一色という日本の報道の現状は、田中真知さんのいうところの「西側諸国が主導してきたグローバライゼーション」に浸食されたところの多い報道になっていることがおわかりいただけると思います。
 
さて、マララさんのノーベル平和賞受賞をどのように評価すべきか。少なくとも賞賛一色で塗りつぶすことは道理のあることではないということだけは共通の知見になりえたのではないでしょうか。そこからマララさんという少女の評価を改めて考えていくことが「平和」の問題を考えていくことにもおそらくつながっていくことにもなるのだと私は思います。
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