はじめて得心のいくピケティ論(あるいは「ピケティブーム」論)にふれることができたような気がしています。マルクス経済学近代経済学の両方に精通しているほんものの経済学者ならではのピケティ論で凡百のピケティ論とはくらべものにならない説得力があります。私はいわゆる流行ものは胡散臭さが先に立って読まない主義なのでピケティの『21世紀の資本』も読んでおらず、胡散臭さが先に立っても当然その胡散臭さのゆえんを述べる術もなく、放置していましたが、もちろん管見の限りということではありますが、はじめて得心のいく(あくまでも「胡散臭さのゆえん」についてということでしかありません)ピケティ論にふれて紹介させていただくことにしました。一応、本ブログ左側の「今日の言葉」欄にいつものように86字×10行程度に要約して引用しようとしましたが、盛田さんの本論攷は要約では説明しきれません。以下に全文を引用して「今日の言葉」とさせていただくしだいです(強調は引用者)。

アフリカの朝、または夜、または昼  
 
異常なピケティブームを支える経済学の貧困
(盛田常夫(在ブダペスト、経済学者)「リベラル21」2015.02.25)
 
分厚い経済学の専門書がベストセラーになり、各紙誌が特集を組むなど異常な熱狂を呈している。簡単に読めそうもない高価な書物が10万部以上も売れるのは異常としか言いようがない。知的好奇心の旺盛なサラリーマンが読もうとしているのか、話題になっているからとりあえず買ってみたのか。いずれにしても、行き詰まった経済政策への啓示が見つかるかもしれないと期待してのことだろう。それは金融緩和と物価上昇目標しか語ることが出来ない「経済学の貧困」への不満の現れでもある。
しかし、専門家が、「ピケティの主張は資本(資産)の収益率rが経済成長率gよりも大きい(r g)に尽きる」と一言で要約しては、推理小説の結論が知らされたようなもので、読者は大著を読み通す意欲をなくすというものだ。もっと深遠な結論や将来への啓示を求める読者は肩透かしを食らい、大著は書棚を飾るだけになる。大概のブームと同じように、大山鳴動して鼠一匹というところか。
 
学問ではあるが、科学と言えない経済学
ほとんどの理論分析にはまず初めに結論的仮説があって、あたかも帰納的にその結論が得られたかのように論理や数値を整えて、モデルや理論を完成させる。前提と論理に合理性があれば、そこから推論される結論は真とみなされる。これが学問的方法である。現代の数理経済学もこのような手法をもちいることで、経済学の科学性が担保されると考えている。しかし、自然科学や工学と同じ手法を用いたからといって、それが経済学の科学性を裏付けることにはならない。この点の認識が現代経済学、とくに数理モデルを扱う学者に希薄である。ピケティも当初は数理経済学の研究者としてアメリカに渡ったが、数理経済学の世界があまりに現実経済への関心を失っていることに失望し、資本主義経済の長期的動態の研究へと向かったとされている。もっとも、歴史的動態分析のベースにある理論モデルの考え方は、現代経済学の主流派が依拠する新古典派理論であり、『21世紀の資本』と題していてもマルクスの『資本論』の手法とは何の関係もない
さて、モデルや理論分析から得られた結論が、現実的に有意な真実性をもっているか否かは、結論を導く論理性とまったく別の事柄である。モデルの前提が十分に現実を反映しているものでなければ、モデル分析はただの「論理の遊戯」になってしまう。現代の数理経済学のほとんどのモデル分析は「頭の体操」の域をでないものだ。
物理学では自然界の一部分を実験室で再現することによって、小さなモデルで普遍的(少なくとも地球規模)な結論を出すことを可能にしている。真空状態での光速、原子を結合する力、あるいは電気工学の誘電比率などは実験で確かめることができ、それを普遍的な法則として世界(宇宙)の理解に役立てることができる。この実験で本質的なことは、宇宙的世界と同質の世界が実験室でも再現できることだ。しかも、自然科学の法則は数百年数千年どころか、ビッグバンから現代までの数百億年単位で有効だと考えられる。
これにたいして、経済学の世界では、現実経済の価値評価ですら、その比較が意味ある時間は10年程度に過ぎない。産業構造が変わってしまうと、比較の妥当性は急速に失われる。にもかかわらず、自然科学の分析のように、経済学が数百年の経済動態を比較可能であるかのように繕うのは、それだけでもう科学の名に値しない
そもそも国民所得あるいは国民資本という概念は、質が異なる種々の経済活動を抽象数値化した(一定の約束事にしたがって、共通尺度で捉えた)ものだ。異なる経済活動を一つのスケールで表現しようとすれば、当然のことながら、多くのことが分析対象から捨象されてしまう。それでも、同時代同時期の経済活動ならまだしも比較は可能だが、産業構造がまったく異なる時代同士の比較など、ほとんど不可能に近い。質的に違うものを無理やり同質のものと仮定することでしか、単一スケールに還元できない。そのようなスケールが持つ現実解明性(科学性)はきわめて限られている。しかし、多くの数理経済学者はそのようなことに無頓着で、経済学の価値カテゴリーが自然科学のカテゴリーと同じ程度の普遍性と真実性をもっていると考えている。これほど大きな誤りはない。数理経済学者がどれほどノーベル賞を受賞しても、経済学の現実理解が深まらないのは当然のことである。
そもそも数百年の経済統計が現実を正しく反映していると仮定すること自体が誤りである。国民所得統計の構築が本格的に始まったのは、第二次世界大戦以後である。さらに、現在の国連標準形式にまとめられたのは、ここ40年程度の出来事にすぎない。現在のGDP統計ですら、自然科学のレベルからみれば、きわめて信頼性の低いアバウトな統計にすぎない。こういう現実を忘れて、統計調査態勢も整ってもいない時代の統計数値に依拠して、あたかも数百年の経済統計が信頼に足り得るものであり、その歴史的動態分析から有意な結論が導かれると考えるのは間違っている。
残念ながら、ピケティが使っている長期経済統計に、歴史的現実を正確に解明する科学的な信頼性はないと言わざるを得ない。
 
フィクションから構築される現代経済学
アメリカの主流派経済学からピケティを批判する視点は、全く別様なものである。
新古典派経済学のマクロ生産関数から出発して計算すると、資本と労働の代替の弾力性の値(σ)と資本/産出率(β)に依存して、産出量に対する資本の収益率は高くなったり、低くなったりする。資本の収益率は経済の成長率よりも高いというピケティの主張は、σおよびβの上昇という前提によって導かれているから、σβが逆の値をとれば、ピケティとは逆の結論が導かれる。アメリカの主流派経済学者がピケティの主張を覆すために、σβの数値の検証を行っているのは、こういう理由からである。ピケティが新古典派モデルを前提に論を進める限り、この種の批判を避けることはできないが、他方で長期統計からこの二つの数値を確かめることは不可能である。ピケティ批判の妥当性は判定不能で、水掛け論の域を超えることはない。
そもそも新古典派のいうマクロ生産関数、資本あるいは労働とは何か。それらはすべて経済学者の頭の中に存在するフィクションであり、実在するものではない。経済カテゴリーの実体的関連性を無視してモデルを展開しても、意味ある結論は得られない。ピケティにおいても、資本と富(資産)の概念区別が明確ではないのは、概念規定に無頓着な新古典派理論に依拠しているからだろう。
国民経済全体を集計した資本や労働という概念に数理的操作可能な形式をあたえることができても、それで現実関係性が明らかになることはない。集計された資本(K)と労働(L)の代替の弾力性(σ=△L/K)/w/r))など(wは賃金、rは利潤)、モデル構築のために必要なフィクションの域をでない。そもそも各事業体の資本と労働の代替の弾力性ですら意味ある計算ができないのに、その概念をマクロ経済にそのまま適用できると考えるのは、あまりにナイーヴすぎる。数理モデルを扱う学者にとって、操作対象となる概念の現実関連性などどうでもよいことで、モデルから自らが想定した結論が導き出されれば、それで十分なのだ。こういう学者は応用数学者であっても、経済学者とは言えない。
現代経済学のマクロ分析はこの種の現実妥当性に欠けるフィクションから構成されているから、現実分析には役立たない。学問的手法をとってはいるが、社会理解を目的とする社会科学としてはほとんど役に立たない。
 
門外漢に政策提言を求める愚
現代経済が膨大な富を生み出し、生産に使用されない経済余剰が、各種の金融投資の形態をまとって世界を駆け巡っていることは誰もが直感的に感じているところだろう。資本主義経済が莫大な経済的余剰を生みだし、それが非常に少数の人々の手にあり、世界を動かしている。経済理論の世界で、この実態を明瞭に解明した分析は皆無である。何も百年単位の歴史を遡って、収益率と成長率を調べる必要はない。現代の富の蓄積と偏在、その仕組みを暴く分析こそ、政治経済学の課題だ。しかし、経済学はそのような政治経済学の方向を向いていないばかりか、そのような分析を散文経済学と見下し、数理モデルを構築することに懸命になっている。しかし、虚構の概念を幾らこね回しても、現実経済を深く理解することはできない。
日本にちょっとだけ滞在する学者、しかも現代経済の分析家でもないピケティに、日本経済の処方箋を求めるのはいただけない。日本は欧州経済ともアメリカ経済とも異なる独特な特徴をもっている。アメリカと同様に個人の可処分所得の水準が高く(再分配率が低く)、したがって個人消費のレベルが高いにもかかわらず、アメリカと違って社会保障制度のレベルが非常に高い。その代償として、国家の債務が膨れ上がっている。こういうシステムはいずれ大きな転換を迫られる。そういう問題への熟考なしに、日本に生活したことのないピケティから、「消費税引き上げは間違っている」という答を引き出すのは賢いことではない。聞かれた方も、思いつき的に答えるのはきわめて無責任だ。
もっとも、ピケティに限らず、名声を得た経済学者は熟知しない問題についても、気の利いた回答を与えることができると自負するようになる。実際のところ、あらゆる問題に処方箋が描けるほど、経済学者は器用でも賢くもない。「アベノ」何とかをヨイショする学者も、政治家に取り入りおだてられ、すべてを知っているかのように振る舞って話しているだけのことだ。
他方、アメリカや日本と異なり、欧州経済、とくにフランスや北欧の経済におけるGDPの再分配率は50%をはるかに超えている。これらの諸国の消費税は19~25%の範囲にあり、さらに北欧諸国の自動車諸税も日本から比べれば異常に高く、乗用車の価格は日本の倍以上もする。北欧の集合住宅では、洗濯機の共同使用もふつうに行われている。個人消費を抑制し、GDPを国庫に集中させて社会保障を支えている。明らかに日本とは全く異なるシステムが機能している。ピケティに日本経済への処方箋を求める前に、母国フランスの再分配率が5割を超えるのに、どうして経済格差が広がっているのかを説明してもらう方がよほど参考になろう。再分配率が高くても、歴史的に積み上がった相続資産、脱税、裏経済、あるいは国外に秘匿させた富が、経済格差を縮める障害になっている。そういうフランス経済と日本経済を同じ視角で見ては、事の本質を見誤ってしまう。
政治家が自分の都合の良いようにピケティを解釈・利用しようとするのは勝手だが、経済学者も自らの名声に溺れて、普遍的な処方箋を描くことができるという傲慢に陥ってはならない。科学性に欠け、イデオロギーに近い学問である経済学を生業とする者は、もっと謙虚になるべきだ。それは「アベノ」なんとかをヨイショする学者を含めて、一般的に言えることだ。

附記:
なお、盛田常夫さんの「ピケティ論」のほかに感心した「ピケティ論」として木村剛久さん(編集者。「海神日和」ブログ主宰者)の「ピケティ『21世紀の資本』短評」があります。『21世紀の資本』の大概を知るにはやはり木村さんの「ピケティ『21世紀の資本』総まとめ」が有用です。木村さんにはピケティ各論として「累進資産税の提案──ピケティ『21世紀の資本』を読む(9)」などなどもあります。 
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