以下は、辺見庸の「転向者」論の紹介であるとともに私のいまの拭いがたい疑問であり、また、さらには大きなひとつの問題提起でもあります。

たねまくひと
 
辺見庸「日録1-8」(2015/02/21)から。
 
なにか、喉もとまででかかっていて、ことばにならぬうちにサッと消えてしまうもの。なにか、とても大事な手がかり。資本と権力にとって左翼運動など、じつのところ、コバエのように「小さな迷惑」以上のものではなく、とりわけ1936年以降は、おおむねコントロール可能なものであった、という。共産(社会)主義運動参画者は、権力の意のままに、ほとんど自動的に、法則的に、陸続として思想転向してくれたのだった(引用者注:辺見はその例を2月10日から20日にかけての「日録」に記しています)。転向者らはニッポンの権力構造をヌエのように多重化し、〈無中心〉化した。軍部や国家主義者は、その野望を実 現するために、大資本をひつようとした。おなじように、大資本は、資本のために、ただそれだけのために、国家主義、天皇制と天皇崇拝、軍国主義、すなわち「戦争」と狂人たちをひつようとした。われわれにはそういういう過去があるげんざいは、つまり、そのくりかえしではないか
 
引用者注:
 
辺見は、上記で、「転向者」論を論じながら、権力にとって「コントロール可能な」左翼の存在について語っています。いまのこととして、私が拭いがたく、激しく違和を持っていること。象徴的にいえば、権力の経産省前九電前のテント撤去に対して激しく抵抗する「左翼」的な意志をこれ以上ないほどまでに声高に顕示しながら、一方で平然とたとえば実質的な原発推進政党でしかない民主党や維新に一票を投じるその姿勢とはなにか? そうした自身の思想に矛盾を感じない「反原発」とはなにか? またさらに、そのことを批判しない「反原発」運動とはなにか? 権力にとって、1936年以降に遡る「コントロール可能な左翼」とはそういうものではなかったか、と私は激しく訝しみます。

が、その私の「訝しみ」はほとんど通じません。ニッポン社会の「ファシズム」化はそこまで進捗している、というのが私の悲しい現実観察。それも、この地点は、帰還不能地点(ポイント・オブ・ノーリターン)というべきではないか、と訝しむ私の現実観察。これではこの国の革新運動はほんとうにおしまいになってしまうのではないか、という。私の観察では、その現実に共産党も加担している。そういうときに「もうとりかえしがつかないかもしれない」という思いの強度は強まる。

辺見のいう「
転向者らはニッポンの権力構造を多重化し、〈無中心〉化した」ことの意を私たち(「左翼」に限らない歴史の同伴者たらんとする人)はおのれの胸に手を当てて考えてみる必要がある。その「多重化」と「無中心化」は政治革新を一層困難な地点に追いやっている。そのことに思い当たるまでおのれの胸に手を当ててよくよく考えてみる必要がある、と私は思う。そこからしか歩は進まない。 

辺見庸「日録1-7」(2015/02/10)から。

じつに簡単なことだ。あの、世にもおぞましいヘイトスピーチを、表ではいかにも困ったふりをして、裏でしっかりとささえているのが自民党である。そのトップが毎日、ジュクジュクと分泌している毒液が社会の全域を腐食しているというのに、かれの支持率は50%以上だという。目下、全的崩落のただなか。もうとりかえしがつかないかもしれない。とりかえしがつかないだろう。けふの声、ことば、身ぶりをどうするか。by the way、佐野学は1929年6月、上海で検挙され、1932年、東京地裁で治安維持法違反で無期懲役の判決。1933年、鍋山とともに獄中から、かの有名な「共同被告同志に告ぐる書」と題する転向声明書を発表。官憲はそれをマス刷りして獄中の党員らにくばって読ませたというから、むかしから権力ってのは、よっぽど反権力の上手をいっていたのだ。緻密で周到、勤勉、陰湿かつ執拗。で、転向声明は、コミンテルンの指導を拒否、今後は天皇制を尊重した社会主義運動をすすめる、という、な、なんと申しませうか、超奇抜な内容。佐野はかくて、1934年5月、懲役15年に減刑され、控訴審判決確定、1943年10月に出獄。にしても、「共同被告同志に告ぐる書」には、いまさらたまげるほかない。曰く

「労働階級の大衆は排外主義的に興奮しているのでない。彼らは不可避に迫る戦争には勝たざるべからずと決意し、之を必然に国内改革に結合せんと決意している。之を以って大衆の意識が遅れているからだと片付けるのは大衆を侮辱するのみならず、自ら天に唾するものだ」「我々をかかる自覚に導いた第一衝撃は、我々の民族が満州事変以来当面した国家的出来事である。それは我々の胸にあるーー日本人の誰の胸にもある、共産党員の誰にもあるーー日本人意識を目覚ました。……我々は日本民族が、独立不羈の大民族として人類の社会生活を充実的に発展させた過去の歴史的民族的誇りを感じ日本民族の優秀性について確信を獲得した」「我々は『君主制廃止』のスローガンの大誤謬であったことを認めて、きっぱり捨てる。皇室に対し我々の認識が著しく一面的なりし事、大衆が皇室に対し抱く社会的感情と全く背馳するものであったこと……を潔く承認する。民族的統一と社会的発展とを如実に表現した日本国家は、民族を形成する広汎な勤労大衆の下から力を基礎として築かれている特質が著しく階級と階級との露骨に闘い合う組織体でなかったし、外部に対し奴隷生活をしたことが一度も無い。皇室の連綿たる存続は日本民族が独立不羈に、しかも人類社会の発展段階を正常且つ典型的に発展し来った民族歴史を事物的に表現するものだ。皇室がかくも統一的な民族生活の組織体としての国家の中枢たることは極めて自然である」

云々。これからまた、こうなるのでせうか。すでにそうなっているという説もある。前後左右裏表のわからない妖怪がたくさん横行している。
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