一昨日の2月9日、参議院議員会館において「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」の発表記者会見が開かれましたが、その「声明」は当初、同声明に賛同する人は「みなさん『賛同者』という位置付け」でとりくみを始めたものが途中からその賛同者のひとりの今井一氏の恣意的な修正によって「賛同者」と「支持者」に差別化されてしまった問題点については8日付け本ブログの「今日の言葉」欄の引用者注で指摘しておきました。同引用者注を改めて記事にしたものは以下のとおりです。
 
引用者注:想田和弘さんが叩き台を書いた今回の言論の自由のための声明そのものには賛成です。が、このとりくみの背後にいる今井一という人を私は信用しません。彼は単なる「運動屋」にすぎないというのが私の評価です。たとえば想田さんが「みなさん『賛同者』という位置付け」ですと言っているものを事務局的な役割をになっているとしても賛同者のひとりにすぎない今井氏が越権的に「みなさん賛同者」を「賛同人」と「支持者」に差別化してしまうのは文字どおり差別を生み出しかねない禍根を遺してしまいそうです。「翼賛体制構築に抗する表現者」たちの思想とはそういうものか、が問われています。そういうことでいいのですか? 想田さん。
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1169.html
 
さて、同「声明」作成の経緯について、私と同様の問題点を感じた人はほかにもいらっしゃったようで、想田さんが自身のツイッターにその問題提起者のFonzyさん(他にもう1名)との問答と思われますがアップされています。今回の「声明」作成の経緯について参考になると思われますので想田さんのこの問題のとらえ方として整理したうえで本ブログにもアップしておきます。
 
想田和弘Twitter」(2月10日)から。
 
・分かりにくくてすみません。もちろん審査はしませんし、できません。表現者と考えるかどうかは自己申告制です。
 
・すみません、事務局の方はとにかく膨大な量のメールをボランティアで処理されているので、ひとつひとつのメールをじっくり読む余裕がないようです。いただいたメールの不明な点を問い合わせる作業で、昨日も徹夜だったと聞きました。
 
・そのような事情もあって、行き違いが生じてしまったのかなあと推察しております。しかし現場の方には落ち度はなくて、ここまでメールが殺到する事態を想像できなかった僕らに責任はあります。その点をご理解いただけると嬉しいです。
 
・現在、賛同者や応援者を募る方法をメールではなくhttp://change.orgに移行することを検討中です。僕も含めて全員がボランティアで組織も資金もなくやっていることですので、不備はあると思いますがご容赦いただけると幸いです。
 
・そうでしたか、それは大変失礼しました。僕も想像でものを言ってしまいました。@Hajime Imai:想田さん、メールはきちんと読んでますよ。読んだ上で、(例えば、詩を書いてるとかダンスをしているとか)行なっている表現活動を具体的に記して再送して下さいとお願いしました。眠る時間を削って読んでいる者としては心外です
 
・今井さんの会見での発言の真意はご本人に確かめて欲しいのですが、いわゆる「言論人」と「一般人」を途中から分けたのは、賛同してくださる方からのメールが一度に殺到して処理しきれなくなったことが最大の理由です。僕はそう聞いていますし、そう理解しています
 
・また、「言論人」「表現者」かどうかなどは誰にも審査できません。したがっていまでも自己申告制です。ご自分を「言論人」「表現者」と考える方はどなたでも「賛同者」として名を連ねていただけます。むしろ「応援者」という選択肢が増えたとお考えください。

引用者注:上記で今井氏は、「(例えば、詩を書いてるとかダンスをしているとか)行なっている表現活動を具体的に記して再送して下さいとお願いしました」と求再送の理由を釈明していますが、「自己申告制」であるならば、その「自己申告」を良とするべきで求再送までして賛同申込者の「肩書」を再確認する必要はない、というのは引用者の意見です。
 
僕自身は「言論人」と「一般人」を分けることそのものに積極的な意義を感じません。むしろ人間は誰もが言論人であり表現者であるし、あらねばならないと考えています。したがってカテゴリーを分けることには消極的でした。
 
しかし、メールを処理する担当の方は仕事の合間にボランティアでやっておられ、徹夜でメールの処理をされていると聞いて「分けない」ことにこだわることはできませんでした。少しでもご負担が軽減するならと、分けることを是といたしました。ご理解いただければ。
 
おっしゃることはよくわかります。僕も同感ですので。これを教訓に、次回はその考えをもっと大事にできるよう工夫したいと思います。今回は苦肉の策でこうなりました。批判は甘受しますが、完璧を期すのは難しいです。最初から70点を目指しています。
 
これは決して嫌味ではなく提案なのですが、私たちがこうした動きをしたのは、別に私たちが「特別」だからではありません。Fonzyさんと同じ資格でやっています。ですから「私ならもっとこうするのに」と考えるなら、運動を自ら作られることを提案します。
 
そうやって市民が主体的に積極的に動きを作っていくことが、デモクラシーを豊かにしていくことにつながると思います。Fonzyさんが私たちの動きに違和感を感じられたこと。それは大事な「気づき」なんです。それをご自分の運動にぜひ活かしてください。
 
ちなみに、僕は「観察映画」と呼ぶ方法論でドキュメンタリー映画を作っていますが、それは既存の作り方に違和感と反発があったからです。「俺ならこうするのに」というエネルギーのおかげで自分なりの方法論を発見しました。「違和感」は大事なのです。
 
一つ言い忘れました。二分法そのものに疑問とのご指摘はその通りだと思うのですが、現実にはいま最も自粛の圧力を受け危機にあるのは職業的な「言論人、報道人、表現者」なんですね。だから彼らにこそ積極的に名を連ねて欲しいという思いもあったと思います。
 
・アップされました。声明文を出した意図や発端となった出来事などについて書いています。→意見の多様性を確保するために│映画作家・想田和弘の「観察する日々」 |マガジン9
 
上記の想田さんの「弁明」を読んでも、8日の私の問題提起を変更する必要を感じません。今井一氏の記者会見発言もビデオで観てみましたが、今井氏は不必要に有名「作家」「報道人」の「声明」賛同をブリーフィングすることのみに熱心で、「人間は誰もが言論人であり表現者であるし、あらねばならない」という想田さんの思想との乖離は明らかなように私には思われます。「翼賛体制の構築に抗する」民主主義者としてはいかがなものか、というのがビデオを観たうえでの私の感想です。
 
やはり「声明」言いだしっぺのひとりの古賀茂明氏も7日付けのツイットで以下のように述べています。
 
「わずか1週間ですごいことになってますね。未掲載だけど、上野千鶴子、荻原博子、孫崎享、前泊博盛、青木理、森永卓郎、福岡政行、石坂啓氏らも続々参加。」
 
同「声明」に有名言論人が「続々参加」表明することはもちろん有意義で、それ自体に私は異議があるわけではありませんが、強調するところが違っているのではないか? そういうことよりも強調すべきは多くの無名有名を問わないかつてない「表現者」の参加の問題だと私は思うのですが、今井氏や古賀氏の言質にそういう思想を見出すことはできません。

なお、参考として、同「声明」に関して賛同人募集のとりくみの発端となったと思われるいくつかのツイットも拾っておきます。
 
昨夜の報道ステーションでの古賀茂明さんの[I'm not Abe]発言。よくぞ言ったと思った人は多いはずなのに、テレビ朝日には「けしからん」「辞めさせろ」の電話とメールが多数寄せられているようだ。「よかった」「続けて」と思う人は電話してそう言いましょう
 
「国家の一大事だから今は政権批判を控えろ」という言説には全く賛同できない。そんな言い分を認めてしまったら、仮に日本が他国と交戦状態にでもなったときに政権批判ができなくなってしまう。それは翼賛体制に入ることと同義。むしろ国家の一大事にこそ自由な批判ができなくては危なくて仕方が無い。
 
日本に政権批判を自粛する空気が広がる中、安倍氏は人質事件を利用しようとしている。為政者にとって、なんと都合の良い国民性なんだろう。→邦人人質問題で再び集団的自衛権論議 http://on.wsj.com/1uULBIi
 
僕のツイートに対して、「いま安倍政権を批判すれば、テロリストを利するだけ」というレスが来ました。そうおっしゃる人は、もし日本が他国と戦争になったときには、確実にこう言うでしょう。「いま自国の政権を批判すれば、敵を利するだけ」。そうやって翼賛体制が作られていくのです。
 
想田さん 現状に疑問を感じ、まともな姿勢を維持しているのは大手紙の中でわずか。その一例が東京新聞のこの記事です。
【有事の政権批判はご法度なのか 自粛の野党 メディアは擁護も】
憎しみと暴力の連鎖から生まれた最悪の結果に絶句するしかない。この結果が、さらなる憎しみと暴力を引き寄せる原因になるのではないかと心配している。
 
ISIS「イスラム国」による人質事件をめぐる状況について、翼賛体制構築に抗するという「声明」を準備し、言論や報道、表現に携わる方々の賛同を募っています。今のところ宮台真司、岩上安身、田中龍作、古賀茂明、今井一さんらが賛同者。 http://ref-info.com/hanyokusan/
 
山の中に四日いるあいだに世間ではいろいろなことが起きているようです。テレビも見ない、新聞も読まない生活でしたが、世論の「政権支持」同調圧力は高まっているようです。人質問題については想田和弘さんが言論の自由のためのアピールを提言しましたので、僕も賛同人として参加します。
 
なお、もう一点。「kojitakenの日記」ブログが2月11日付けで以下のような意見を述べていますのでご紹介しておきます。
 
声明を否定はしないが、政権批判は個人個人がやるほかないと思う。そして、具体的に自らの言論が弾圧されたと思ったら、逐一それをアピールすることだ。こんなことを書きたくなるのは、古賀茂明や中島岳志を私が好まないせいもあるかもしれない。古賀茂明は、「脱原発の元官僚」として売り出した当時から、新自由主義的な主張がウリで、古賀が2011年に出した著書を本屋でページをめくってみたら、安倍晋三が第1次内閣時代にやろうとした「公務員改革」に肯定的に言及していたので、アホらしくなって本を閉じた。(略)
 
古賀茂明のような新自由主義者や、ことに中島岳志のような右翼と「リベラル・左派」との「共闘」を進めていく過程で危惧するのは、「『右』も『左』もない」と主張する人間が「村八分」的な動きに走ることであって、(略)あの「『右』も『左』もない」の言論は、それ自体ファシズムの萌芽を含んでいたと思う。(略)だが、気持ち悪い「『右』も『左』もない」的風潮はその後も続いた。2011年6月に参加した、新宿の「脱原発デモ」で、当時14歳の少女だった自称「B級アイドル」藤波心が、無伴奏で「うーさーぎーおーいしー、かーのーやーまー」と歌い出した時、強い違和感を持った。(略)ほどなくして藤波心が「『右』も『左』もない脱原発運動」に担ぎ出されたことを知った。

今回、後藤健二氏の支援者たちが同じ歌を歌っている映像がテレビのニュース番組で流れた時、2011年6月の藤波心を思い出した。良い気持ちはしなかった。「辺見庸ブログ」の1月30日の「日録」を読んで、その違和感を思い出した。辺見は、

「ああ、また孕んだのだな。そのくりかえし。ウサギオイシカノヤマ……とかハナハサク……はやめたまえ!その歌はキミガヨとともに、反世界の呪わしい弔歌であることに、まだ気がつかないのかね。安倍君、ぼくは君と君のコクミンがきらいだ。」

と書いた。ファシズムは、政権側のみならず、政権やその行為に反対する人たちの間にも浸透しつつあるのではないかと感じる。
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