ダグラス・ラミスさんの辺野古ゲート前行動に参加した40人余りの人たちがたまたま乗り合わせた「辺野古バス」スケッチ。いまの翁長県政の現状を先の知事選で同氏を支持した人たちはどう見ているか。ウチナンチューたちがふつうにいま考えていることの素朴な(素朴だからよく伝わる)ウォッチになっていました。

本ブログでもダグラス・ラミスさんの「辺野古バス」スケッチをピース・フィロソフィー・センターブログから借用してご紹介しているのですが、そのとき、実は、ダグラス・ラミスさんだからこそのもうひとつのエピソードもご紹介しておこうかとも思ったのですが、ZEDさんの意見が少しきつめで素朴な話に少しきつめの話はバランス的に不調和かもしれないと思って、あえて割愛してしまった話をいまここでさせていただこうと思います。それは「9条にノーベル平和賞運動」問題に対するダグラス・ラミスさんの反対意見と立ち位置のご紹介です。ZEDさんのブログから引用させていただきます。
 
 
前略。

「9条にノーベル賞運動」が黒歴史扱いして全く語ろうとしないエピソードが一つあるのを御存知だろうか。日本ではもちろんそうだし、これにイカれて協力運動が起こっている韓国でもほとんどと言って良いほど黙殺されている。そのエピソードとは、ダグラス・ラミスに協力を求めて拒絶された件だ。この事は韓国の京郷新聞(笑)のコラムでラミス自身が明らかにしているのだが、これを日本で紹介した例というのを筆者はこれまで見た事がない。筆者も大分前に気付いてネタにしようと思っていたのだが、色々と他のネタに押されて忘れていた。この際なので御紹介したい。
 
どうも「9条にノーベル賞運動」をやってる会やそこの構成員達には「俺らの運動にはどんな奴でも賛意を表して当然」という思い上がった意識があるように感じられる。何しろ日本会議神道政治連盟に入っているバリバリ改憲派(笑)の長島忠美金子恭之まで賛同議員に加わり、「保守・進歩を問わぬ(右も左もない)韓国の社会元老」達までもが賛同して「9条の会鷹巣直美(この運動を始めた主婦)を共同受賞者に」と推薦するくらいなのだから、ますますその傾向は強くなっているだろう(と言うか、極右改憲派の長島だの金子だのがこんな運動に入って来た時点でおかしいと思わないのかという話なのだが)。なので、協力を拒絶されたりすると、そうした事例を極度に恥じて黒歴史とばかりに「封印」してしまうのではないか。
問題のダグラス・ラミスのコラムは以下リンク先を参照。
 
「ダグラス・ラミスコラム」沖縄基地と日本憲法9条の未来(韓国語記事)
 
この記事で核心とも言うべき部分を以下に翻訳抜粋する。 
 
同紙29面(琉球新報2014.04.12 訳者注)にはノーベル賞委員会が日本国憲法9条のノーベル平和賞候補申請を受け付けたという記事が載った。ここで「受け付けた」というのは278ある他の申請者と共に候補として挙げてくれたという意味だ。数ヶ月前に私は、善意でこの運動を始めたある若い女性の電話を受けた。私は長くも辛い対話を通じて、なぜその運動を支持しないのか説明した。まずそれは自己満足の側面が強い。申請に参加した人達は憲法9条支持者であり、したがっていかに間接的にやる事だとしても、彼ら自らを受賞候補に自薦するように見える。第2にさらに重要なのは、私が以前にこのコーナーで書いたように、世論調査の結果で日本人の51%が憲法9条を支持すると答えながらも、81%が日米安保条約を支持すると出た。安保条約に反対する人間は11%に過ぎない。憲法9条を支持する大多数が安保条約を支持するという意味だ。この人達は平和に献身するのではない。むしろ戦争が起こった場合、他の誰かが彼らの代わりに戦ってくれるのを望む。それは理解出来なくもないが、賞をもらうほどのものではない。そして米軍基地を日本、大部分は沖縄に置いておく根源こそが安保条約だ。辺野古に新基地を建てようという圧力の裏にも安保条約がある。
 
憲法9条の終末?
翌日からほぼ毎日この新聞には自民党政府の「解釈による」憲法9条変更計画に対する記事が載った。仔細に説明するまでもないが、日本政府は戦争・戦争の威嚇・戦争準備を放棄させる9条に対する解釈を、戦争を遂行して・戦争威嚇をして・戦争準備をする意味に変えようとしているというのだ。我々はこの驚くべき論法の前例をジョージ・オーウェルの有名な小説「1984」で「戦争は平和だ」という政府スローガンに見る事が出来る。ノーベル賞委員会が日本国憲法9条に賞をやろうとするなら急いだ方がいいだろう。
 
「9条にノーベル賞運動」はものの見事にラミスに振られた訳で、日本の護憲・平和運動でもそれなりに知られたラミスに一蹴された事実はまさに運動の「黒歴史」となったのである。この記事に出て来る「善意でこの運動を始めたある若い女性」というのは多分間違いなく鷹巣直美当人の事ではないか(「運動を始めた」人物というのだから)と思う。
 
いずれにせよ、この運動の馬鹿馬鹿しさはラミスの言う「自己満足」の「自薦」、「日本人の多数が日米安保条約を支持」という指摘で十分明らかなのではないか。憲法9条の文言を変えずとも解釈改憲でいくらでも日本は海外派兵や戦争が出来るし、実際にそうしようとしている。それにノーベル平和賞をやって何の歯止めになる? むしろ「これは平和の為」という大義名分を与えてしまうだけなのは明白だろう。一番痛い所を突かれた訳だが、それでも考えを改める事なく運動を続けているというのは、鷹巣ら運動の主導者が色々な意味で後に引けなくなっているという事を意味している。9条にノーベル賞を受賞させる事だけが正しい道だと本人も狂信的に信じ込んでしまっていたり、あるいは自説の間違いに気付きながらもノーベル賞の名誉欲に取り付かれたか…。要するに「ノーベル賞欲しい病」またの名を「笹川良一症候群」「池田大作症候群」とでも言うべき病に取り付かれたという事か。それ以前にノーベル賞自体がクソだとは思わないのだろうか。
 
もっともラミス最後の一文「ノーベル賞委員会が日本国憲法9条に賞をやろうとするなら急いだ方がいいだろう」だけはいささか意味不明で的を外していると思うが。オバマやEUの平和賞と同じで、賞などやらぬが最上である。
 
鷹巣直美は運動の「有名人オルグ」の過程でダグラス・ラミスに電話し、それでものの見事に「玉砕」し、その「戦禍」を人に知られぬよう隠したという訳だ。あたかも大本営発表のように。「9条護憲派」のはずが、あたかも旧日本軍・日帝のごとき「玉砕」「大本営発表」「歴史隠蔽」というのも実に皮肉な話ではある。
 
なお、「『9条にノーベル賞』運動」問題については本ブログにおいてもこれまで3本の記事を書いています。あわせてご参照いただければ幸いです。
 
「憲法9条」問題以前の問題としての「ノーベル賞」と「勲章」について ――「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」としてサルトルはノーベル文学賞を辞退した。私はサルトルのその言葉に深く共鳴する(弊ブログ 2014.10.05)
共産党よ、こうした野合でしかない呉越同舟を「一点共闘」などというべきではない!――ZED氏の「9条にノーベル賞」運動は「待ちぼうけ」の論(続)(弊ブログ 2014.05.27)
関連記事
Secret

TrackBackURL
→http://mizukith.blog91.fc2.com/tb.php/1165-a5b74a7f