作家というのは一般にそういうところがあるものだと思うけれども、ものを斜交いから眺めて少し気の利いたことを言って、なにかしらを言ったつもりになるところがある。たとえば高橋源一郎の場合がそうだ。高橋は言う。

「後藤健二さんの本を読み、彼の言葉を探した。後藤さんは、強い信念と高い志を持った人だったことがわかる。とてもかなわない。そんな後藤さんの死はとても悲しい。悲しいけれど、死者を比べることなんて愚かだということはわかった上で、なお、ぼくには湯川遥菜さんの死の方がもっと悲しい気がする。」

「湯川さんのことを少し調べた。少しだけわかった。湯川さんは、思慮深くもなく、場当たり的に行動する、特にはっきりした思想も持たない、いろんなことに失敗した人だった。つまり「ふつうの人」だった。ぼくも大して変わらない。彼を攻撃している人だって同じなのに。だから悲しい。ただ悲しいだけだ」、と。(
高橋源一郎Twitter:2月3日)。
 
世間はいつもなにかを神格化しようとする。神格化の対象を求めている。その危うさの空気のようなものをとっさに掴みとる力はさすがに作家ならではと思うけれども、高橋の意図は明らかだ。世間は後藤健二さんの死の悲劇性を強調する。悲劇性を強調することがおのれが「良心」的であることの証しでもあるかのように。しかし、その精神のありようは俗人のそれでしかない。ひとことでいって自己陶酔のそれ。その自己陶酔と後藤さんを英雄視する視線はおそらく精神病理学的には一直線上の関係にある。

高橋は、その危うさを、湯川さんは「『ふつうの人』だった。ぼくも大して変わらない」と言って、湯川さんの側に立つ素振りを見せる。
 
しかし、後藤健二さんを英雄視しているのは高橋自身ではないか。そのことは高橋の「後藤さんは、強い信念と高い志を持った人だったことがわかる。とてもかなわない。そんな後藤さんの死はとても悲しい」云々の言葉で明らかだ。

私は、そういう高橋の言葉より、高世仁さんの「後藤さんの神格化はその役に立たない」という言葉のほうに信をおく。

今日の言葉(2月4日):
後藤
さんが亡くなったから書くが、後藤さんの取材行の背景をもっと知りたいと思う。(略)後藤さんが「イスラム国」行きをめざしたのは、常岡さんの9月の「イスラム国」取材が大きな影響を与えたからではないか。常岡さんは、8月の湯川さん拘束を受けて、彼の裁判のために「イスラム国」に招かれてシリア入りした。残念ながらある事情で湯川さんには会えずに帰国した。このときの取材は、私がプロデュースし、9月にメディアで大きく扱われた。10月はじめ再度湯川さんへの接触を求めて常岡さんがシリアに向かおうとしたとき、彼は「私戦予備・陰謀罪」なる法律で「参考人」とされガサ入れを受けて、「イスラム国」への旅行はもとより、接触できなくなった。後藤さんが「イスラム国」入りを目指すのは、この直後である。「イスラム国」が只者でないことは後藤さんはとっくに知っていただろう。それなのに、シリア人コーディネーターの制止を振り切って「イスラム国」入りしたのはなぜか。テレビ番組の放送日程が決まっていたからではないかというのは、フリージャーナリストの安田純平さんだ。25日にシリア入りして29日に帰国する予定というのは通常のフリーの行動様式ではないという。きわめて無理な日程だというのだ。実際、後藤さんがよく使っていたシリア人の案内人には、「1週間戻らなければ家族や関係者に連絡してくれ」と言い、何が起きてもシリア人をうらまないと異例のメッセージを残していた。後藤さんは一日10万円の保険に入っていたとビデオ映像で語っていたが、今回もそうだとすれば、どこかのメディアが「依頼」したと思われる。かなり無理をした「イスラム国」取材の背景に何があったのか。この行動の後追いは、後藤さんを貶めるためではなく、今後の教訓にするためなのだ。後藤さんの神格化はその役に立たない。(高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-02-03
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