フランスの風刺週刊紙シャルリー・エブドに対する襲撃事件から始まった連続テロ事件は、その後2件の立てこもり事件となって、一昨日の9日、フランス警察当局が2カ所の現場でほぼ同時に強行突入を図ることによって一応終息しました。一般人の犠牲者は少なくとも17人に上るといわれています。こうしたテロ事件が断じて許されるものではないことは論を待ちません。わが国においても言論機関がテロの標的になったということからシャルリー・エブド襲撃事件に発した言論の自由への暴力的な挑戦(テロ行為)を批判する声は圧倒的で、かつ、激しく強いものがあります。全メディアあげての批判といってよいでしょう。
 
一例として本日11日のDaily JCJ(日本ジャーナリスト会議)の「今週の風考計」の論評を引用してみます。
 
「フランスの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃に始まる連続テロ事件は、3容疑者の射殺と20人に及ぶ死傷者を出し、発生3日目に終結した。言論の自由を暴力で封殺する行為は、いかなる理由であれ許されない。テロ実行の容疑者はイエメンの「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」からの指示だという。フランス国内でイスラム嫌悪が一段と強まるのは必至だ。憎悪と報復の連鎖を生む社会─その温床や土壌をなくしていく、国際的な取り組みが緊急な課題となっている。フランスはイスラム教徒500万人(人口の8%)を抱えるEU最大の国家だ。そのうえ国内の若者たちは、経済停滞と高い失業率、貧困に苦しめられ、そこからの脱却を願ってか、過激派組織「イスラム国」に多く参加しているのも事実だ。・・・・」
 
その他のメディアの論評。
 
「風刺を含めた言論に対して抗議する権利は誰にでもある。だが、その手段はあくまでも言論でなければならない。テロなどの暴力を用いることは言語道断である。報復テロはいかなる理由であれ、正当化することはできない。」(琉球新報社説 2015年1月9日
 
「どんな理由であれ、表現や言論に暴力で対抗することは、絶対に許されるものではありません。」(東京新聞社説 2015年1月9日
 
「「表現の自由」か「宗教への冒とく」かという問題はあるにせよ、暴力は断じて許されない(毎日新聞社説 2015年1月9日
 
「襲撃された週刊新聞「シャルリー・エブド」は、風刺画を売り物にしていた。1面に載る作品を各号ごとに眺めると、「過激にして愛嬌あり」の外骨の方針がだぶる。挑発的だったとの声もあるが、上品、下品、穏健、過激、いずれも「言論」である。民主主義の根幹へ向けた暴力は断じて許されるものではない。そのうえで、フランスの劇作家で俳優だったサシャ・ギトリという人の言葉に気をとめてみたい。「無礼な言葉はかつて目的を達したことがなく、憎しみは常に目標を乗り越えてしまう」(『エスプリとユーモア』岩波新書)。犠牲者を悼みつつ、世界にイスラム教徒全体への過激な表現がうねるのを懸念する。自由が成熟した社会だからこそ節度を保ちたい。憎悪をあおる過激さは、外骨の反骨精神とは似つかない代物である。」(朝日新聞天声人語 2015年1月9日
 
以下、見出しのみ。
 
・フランス週刊紙襲撃―言論への暴力を許すな(朝日新聞社説 2015年1月9日
・パリ新聞社銃撃 表現の自由に挑戦する蛮行だ(読売新聞社説 2015年1月9日
・表現の自由へのテロは断じて許されない(日本経済新聞社説 2015年1月9日
・仏紙銃撃テロ 表現の自由は揺るがない(産経新聞主張 2015年1月9日
・私たちの意志は疑念や憎しみでは揺るがない―ハフポストフランス版編集主幹アン・シンクレアと全編集者(ハフィントンポスト 2015年01月08日
・【パリ銃撃】「私はシャルリー」言論の自由の象徴、ペン掲げ世界で追悼デモ(The Huffington Post 2015年01月09日

個人ブログから。
 
・フランス風刺週刊誌襲撃:ドイツでの哀悼と抵抗の光景「風刺には全てが許される。ただ死ぬことだけは許されぬ」(明日うらしま 2015年1月9日
・世界の隅々に「JE SUIS CHARLIE(私はシャルリー)」の声を響かせよう(澤藤統一郎の憲法日記 2015年1月9日
・フランスでの連続テロ事件を断固糾弾する(五十嵐仁の転成仁語 2015年1月11日
 
上記の天声人語や毎日新聞の社説に見るようにわが国のメディアの仏紙銃撃テロに対する批判は一方向的なものではありません。柔軟に対象とおのれを見つめようとする批評精神が見られないこともありません。しかし、私には決定的に欠けている視点があるように見えます。その視点とはなにか。ヨーロッパにおけるムスリムとイスラムの状況に造詣の深い内藤正典さん(同志社大学教授)の本日のTwitter発言は次のようなものです。
 
「私は、フランスが表現の自由に節度を持つべきだとは思はない。存分に言論の自由を主張すればよいと思う。しかし、それを推し進めればするほど、全く異なるパラダイムの中にいるムスリムとは、溝を深めることになる。フランス共和国の論理とムスリムの論理が衝突するだけであることは早く認識すべき。啓蒙圧力で、ムスリムが啓蒙されることはない。フランスの人々は、神から離れることで自由を得、ムスリムは神と共にあることで自由を得ると、双方とも確信しているから。一方、ムスリムといっても、行動様式はフランスのルールに合わせてきた圧倒的多数の人たちは「自分はテロなど支持しない、自分はフランス市民であることを自覚している」と言い疲れている、うんざりしている。いちいち踏み絵を踏まないとお前たちに居場所はないと言われているように感じている。だからこそ、フランス社会が一層啓蒙圧力を強めるならば、これまでフランス市民として、フランス共和国に対して何の悪意もなく暮らしてきたムスリム移民を疎外し、追い詰めることになるだろう。そこから、第二第三のテロリストが生まれることになる。」(2015年1月11日
 
上記で内藤さんが指摘していることは、欧米諸国はこれまでイスラム教徒に対する殺戮、差別、排斥をどれだけ繰り返してきたかを自省せずに今なお軍事力による市民の殺害を繰り返している。そうした状況の中で単に「表現の自由」や「テロとの戦い」を声高に主張しても欧米諸国とイスラムとの暴力の応酬は避けられないということです。内藤さんは断乎として次のように言います。「言論の自由は何物にも代え難い基本的権利である。西欧社会では、ペンと紙で戦う。それを銃で封じる蛮行は断じて許せない。だが、それならアフリカや中東で、武力によって紛争に介入することも止めなければならない。左手がやっていることを右手は知らないと言い張るようなものだからである」、と。私が上記で「決定的に欠けている視点がある」と言っているのもそういうことです。
 
元『噂の眞相』編集長でジャーナリストの岡留安則さんもシチュエーションは異なりますが、これまでの自身の体験から次のように言っています。
 
「言論・表現の自由は最大限に保障されるべきだが、北朝鮮やイスラム国家を扱う場合には、それ相応の覚悟が必要だという事だろう。そもそも、言論の自由を基本原則にしていない国やテロ集団を風刺する場合には、民主主義のルールを声高に叫んでも意味を持たないケースも多い。筆者も編集者としてさまざまなトラブルを経験してきたが、裁判で訴えられる以外に右翼団体やヤクザ組織からは、有無を言わせぬ暴力行為の洗礼を受けたことがある。言論の自由は金科玉条ではないのだ。」(「東京-沖縄-アジア」幻視行日記 2015年01月08日 

以下、シャルリー・エブド襲撃事件に関しての内藤正典さんの7日以来の言説を参考としてピックアップさせていただこうと思っているのですが、その前に「私はシャルリー」という言葉を引く言論の自由擁護の論説についても若干のことを述べておきたいと思います。「私はシャルリー」論者は以下の「街の弁護士日記」主宰者の岩月浩二弁護士の指摘を耳に留めていただきたいものだと思います。フランスにおけるユダヤ風刺とイスラム風刺の法的処罰に関しての極刑と寛容という天と地ともいえるほどの決定的な違いについての指摘です。
 
「フランスは72年にはヘイトスピーチ規制を導入したヘイトスピーチ規制の先進国である。しかし、初期はともかく、少なくとも最近のフランスは反ユダヤ表現には厳しく対処する一方、イスラム風刺(侮辱)には寛容だ。というか、無神経でさえある。ユダヤ風刺は摘発対象になるから、これを売りにするような新聞社はありうるはずもない。しかし、イスラム風刺は売りになるのである。」
 
「容疑者はアルジェリア出身のイスラムだという。ヘイトスピーチ規制は旧植民地出身者に対する差別表現には寛大で、旧植民地出身者に対する侮辱表現を、表現の自由として保護すべき言説に分類する。」
 
「フランスの事態は、ヘイトスピーチ規制先進国で、植民地出身者に対する差別表現がまかり通り、差別表現が表現の自由によって守られているという事態を暴いた。国連が主導する「ヘイトスピーチの法的規制」は、ナイーブな人権派が理解するような人権保護装置とは似て非なるものである可能性がある。人権保護のためとして国際的に拡散される言説が、対テロ戦争継続の巧妙な道具に転用されている可能性に留意すべきである。」
 
「フランスにおけるユダヤ差別表現に関するヘイトスピーチ規制は、日本では想像できないほど厳しい。以下のような事例(引用者注:反ユダヤ主義的発言については人種的憎悪煽動罪、人種的侮辱罪等が適用されるフランスの裁判事例)と比べれば、シャルリー・エブド社が、繰り返していたとされる表現を、表現の自由に属するとして擁護するのはあまりにもバランスを欠いている。ヘイトスピーチ規制が、社会条件や政治のありようによっては、逆に人種差別を帰結するという皮肉な事態が生じているように見受けられる。」「街の弁護士日記」2015年1月10日 

この岩月浩二弁護士が指摘する事態について内藤正典さんは次のように言います。

イスラム教徒もテロが憎むべき犯罪であることなど当然理解しています。暴走し暴力に向かう信徒をなくすには、宗教を諧謔や嘲笑とすることもレイシズムであるという認識を持たねばなりません。他人が命に代えても守りたいもの散々嘲笑するなら、ジャーナリズムもレイシズムに加担することになります。

以下、「内藤正典Twitter」発言(2015年1月7日~11日)抜粋。
 
2015年1月7日
「シャルリ・エブドに対するテロ。表現の自由と信仰への侮辱は、永遠に平行線。信仰への侮辱に怒る人に表現の自由を理解しろと言っても全く通じない。ただし、犯人がイスラム主義過激派だとするなら、預言者やイスラムに対する暴力的応答を抑止できないことも理解しなければならない。日本政府関係者「日本も要警戒範囲に入った」TBSニュース23。日本が要警戒になるとしたら、集団的自衛権を行使して米国の対中東政策に追随した時である。暴力の応酬。やりきれない思いだが、大見得切って表現の自由を主張するなら、軍事力で中東に介入し、市民をも犠牲にするやり方を止めなければならない。フランスが、ライシテ(一応、世俗主義と訳す)を共和国の原則とするのは、フランスの歴史そのものであって何ら否定すべきことではない。しかし、聖俗分離の観念がないイスラム教徒にライシテを押しつけても絶対に通じない。ムスリムがスカーフを着用してリセに通うことを禁止し、公的な場での顔を覆う「ブルカ」禁止と罰則まで定めた。だがブルカはアフガニスタンの衣装でフランスで着用している人はほとんどいない。一種の見せしめ的刑罰まで科してムスリムの服装に干渉する姿勢は、イスラムに敵対的とみなされても仕方ない。」
 
「イスラムがどうこう言う以前に。誰しも本当に愛している人や物でも、あからさまに否定され、侮辱され続けたら怒る。ムスリムにとってイスラムの始祖ムハンマドは何者にも代え難い敬愛の対象。それでも表現の自由に暴力で応答するなと言ってもよいが、母集団が15~16億。10万人に1人がテロで一矢報いるとしても1万5000人に達する。冷静に考える必要がある。実際、酷い侮辱や差別を受けながら、イスラム過激派なるものがテロを起こす率は極めて低いのである。世界の人口の4人に1人にあたる信仰者を力で押さえ込むのか、対話による共生を志向するのか?」
 
「こういう事件が起きるとイスラムの不寛容が必ず論じられる。だが、不寛容な側面が表に出てくるのは、植民地支配を詫びることもせず、今なお軍事力による市民の殺害を繰り返しているからではないかー欧米諸国がそれを自省しない限り暴力の応酬は続く。フランス共和国がライシテを原則としているのだから、イスラム教徒もフランスに暮らす限りその憲法原則を守れ。その通り。だが、第一世代の移民は信仰実践に無関心だった。世代が代わるにつれ、イスラムの再覚醒が進んだは何故か?フランスで教育を受けた世代が何故、信仰実践に熱心になったのか?長年にわたってフランス社会は、その答えをイスラムの後進性に見出そうとした。だが、再覚醒する若者を創り出したのがフランス自身ではないかと疑ってみようとはしなかった。イスラム自体に、聖俗分離の観念はない。社会のある部分は宗教と無関係でなければならないと言われたとき、行動様式が世俗化しているムスリムはそれに合わせる。しかし、一度、再覚醒してしまうと、聖俗分離を受け入れなくなる。だからこそ、なぜ彼らを再覚醒させてしまったのかを考える必要がある。テロが決して許されない犯罪であることぐらいイスラム教徒は百も承知している。「イスラム教徒だからテロを起こす」のではない。継続的に差別や攻撃にさらされれば、民族集団であれ、宗教集団であれ、暴力的な応答が起きることは避けられない。冷戦終結後、欧米諸国からすぐに出てきたのは、次なる脅威はイスラムだという主張だった。93年にはハンチントンが「文明の衝突?」で、欧米諸国の政治家と軍産複合体にとって実に都合の良い話を持ち出したではないか。そのころから今日まで、中東・イスラム世界だけでなくヨーロッパでも、イスラム教徒に対する殺戮、差別、排斥がどれだけ繰り返されたかを自省せずに、「表現の自由」や「テロとの戦い」を主張することが、どれほど彼らに嫌な思いをさせてきたかを知るべきである。」
 
「言論の自由は何物にも代え難い基本的権利である。西欧社会では、ペンと紙で戦う。それを銃で封じる蛮行は断じて許せない。だが、それならアフリカや中東で、武力によって紛争に介入することも止めなければならない。左手がやっていることを右手は知らないと言い張るようなものだからである。」
 
2015年01月08日
「宗教は選択的なものであって個人の自由意志にゆだねられる。したがって、イデオロギーと同様、非難することも侮辱することも言論の自由のうちに入る。繰り返しになるが、イスラム教徒にとってはこれが通用しないのである。その点で、両者は共約不可能な関係にあることを非イスラム教徒の側は認識する必要がある。啓蒙の圧力をかけたり、武力を行使して市民を傷つければ、「水と油だ」と思い込むイスラム教徒を増やすだけである。そうなれば、実際に率は極め低くても母集団が十億を超える人びとの中から暴走する若者が出ることをとめられない。」
 
2015年01月09日
「嫌なら帰れというのは、極右国民戦線の常套句である。最大の懸念は、テロリストに法の裁きを受けさせることにとどまらず、不人気なオランドとオバマがタッグを組んで、中東への軍事介入を強めることである。「テロとの戦い」がさらなる暴力を生み出し、イラクやリビアやシリアを破壊したことを忘れてはいけないと思う。風刺画でテロかよ、というツイートもたくさんある。その通りだ。だが、西欧諸国の表現の自由、言論の自由でも、人種を侮蔑できるか?民族を嘲ることが許されるか?実は、歴史の中で、西欧といえども、タブーは存在する。問題は、宗教に関しては、人種や民族とは違うと思い込むこと。改宗ムスリムの場合はイスラムを選んだのだが、ムスリムの家に生まれた場合はムスリムになってしまう。北アフリカからの移民の多くはこのケース。彼らに、ムスリムなんかやめてしまえば、というのは人間やめたら、というように聞こえることを理解してほしい。(確信して無心論者になった人を除き)従って、ムスリムであること、というのはトルコ人であるとか、モロッコ人であるという民族への帰属と同じくらい、抜くことができない属性であることが多い。移民たちが、ムスリムとして覚醒してしまうと、もはやフランス共和国との衝突を覚悟せざるを得なくなる。(暴力的衝突を必ずしも意味しない)だからこそ、たかが風刺画といっても、彼らの信仰にとって絶大な尊敬の対象であるムハンマドを軽侮するのは、ムスリムにとって人種や民族を嘲笑されたも同然になってしまう。」
 
2015年01月11日
「私は、フランスが表現の自由に節度を持つべきだとは思はない。存分に言論の自由を主張すればよいと思う。しかし、それを推し進めればするほど、全く異なるパラダイムの中にいるムスリムとは、溝を深めることになる。フランス共和国の論理とムスリムの論理が衝突するだけであることは早く認識すべき。(略)フランス社会が一層啓蒙圧力を強めるならば、これまでフランス市民として、フランス共和国に対して何の悪意もなく暮らしてきたムスリム移民を疎外し、追い詰めることになるだろう。そこから、第二第三のテロリストが生まれることになる。」
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