本ブログの「今日の言葉」の2015年1月6日と7日の記録です。

ニホンズイセン


・Mとはなす。正月休みあけで故郷から帰ってきた「街のひと」のインタビューって、戦後70年なにもかわっていない。いや、戦中も戦前もおなじだったかも。「温泉に入っておせち食べてゲームとかして、のんびりしました」。うそつけ。「認知症の親の介護でもうヘトヘト。だって、戸棚にウンコいれてたりするんですよ。最後はキレて、バカヤロウってどなっちゃいましたわ」とか「親に手をあげっちゃって自己嫌悪です。もう最低……」とかないのか。あるさ、いくらでも。あっても編集で消される。日常は完璧に偽造される。M「かのじょの目にはなにがみえてるんだろう……」。視界がまぼろしに占拠されている。それは、いわば、普遍的だ。(
辺見庸「日録1-1」2015/01/05)

・資本主義の行き詰まりがあちこちで語られ始めている。「新しいフロンティアの創造による成長」に限界が見え、投資先を失ったカネは投機に回り、その結果、過去に蓄積した資本ばかりが肥大を続け、働き手の賃金所得は低迷する。資本と所得の収益差によって格差は広がり続けると警告した
トマ・ピケティの『21世紀の資本』が話題になるのも、そんな危機感の表れだろう。ただ、行き詰まり状態は共通でも、これを打開しようと動き回る資本の収益確保のあり方は国ごとに異なる。日本で猛進しているのは、働き手の賃下げ依存による収益の確保だ。空腹のタコは自らの足を食べ、やがて は本体も食い尽くすと言われているが、社会の足である働き手に手を伸ばした「タコ足型資本主義」が、いま私 たちの足元を掘り崩そうとしている。日本は、主要先進国の中で、1990年代半ば以降、賃金が下がり続けている稀有な国だ。グローバル化が原因なら他の国も同じ傾向をたどるはずだが、他の先進国では、景気の回復とともに賃金は回復している。原因は、経済危機が起こるたびに労働の規制緩和による賃下げで対応する「賃下げ依存症」」(拙著『ルポ雇用劣化不況』参照)が起きているからだ。日本は1970年代のオイルショックと1980年代の円高不況を二つの賃下げで乗り切った。過労死も引き起こした正社員の長時間労働による単価切り下げと、こうした男性世帯主に扶養される女性の極端な低賃金パート労働だ。海外から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とほめそやされ、この手法が成功体験となった結果、日本社会はその後、経済危機が起きるたびに、労働の規制緩和を通じた労働集約的な低賃金労働の強化を繰り返してきた。ブラック企業」は、労働集約的な働き方の強化こそ唯一の道と突き進んできた社会の行きついた先といえる。(竹信三恵子WEBRONZA」2015年01月05日)

・個人編集し、2007年秋に刊行開始した「
世界文学全集」(河出書房新社)全30巻が完結したのが11年3月10日。翌日、東日本を大震災が襲った。被災地を歩き、かくも災害の多い列島に暮らす日本人とは何者かを考えた。それを知るには日本文学しかないと、再び全集の旅に出た。古典を読み込むうち「我々は平和な民。主題は色恋と自然観が多い」と痛感したという。話題は、文学シーンの最前線を走る作家や詩人たちに古典の現代語訳を依頼したことだ。「源氏物語」は角田光代さん、「方丈記」は高橋源一郎さんといった具合。「訳は時代とともに変わるから、国文学の専門家ではなく、日本語で悪戦苦闘する皆さんにお願いした。まずは古典の面白い世界に入ってきてほしい」。自身は「古事記」を訳し、昨秋に全30巻のトップをきって刊行。神話や歌謡から成る複雑な文学をスピーディーな現代語に置き換えてみせ、大きな話題となっている。近現代作品の収録基準は「僕がすがってきた丸谷才一さん(12年死去)の文学観」。知的で都会的で粋、そして伝統と冒険が混在するモダニズムだ。とはいえ中上健次石牟礼道子さんら「辺境の文学」に各1巻を充てるなど、池澤色は濃い。近年、一部の保守政治家らの発言に危機感を抱く。「ツイッターなど軽いメディアをひたすらあおる。ちゃんと本を読み、知的な方法で世界を構築しましょう。若い人にその手段を提供したい」(毎日新聞「ひと:池澤夏樹さん」 2015年01月07日
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