「今日の言葉」(「私」と総選挙)は弁護士の澤藤統一郎さんの「1歩も進めず2歩後退 第3極は4分5裂」の論と歴史学者の保立道久さんの「総選挙、政治には絶対はないが、社会には絶対というものがある。」という論からの抜粋です。
 
おふたりともこの10年の政治(2005年小泉郵政選挙、2009年政権交代選挙、2012年民主党自爆、第3極乱立、自民大勝選挙)を振り返って、自公政権に対抗すべき民主党、第3極への選択が「不毛の選択」であったことの謂いを説いています。私たちは「不毛ではない選択」を選択することはできるか。その選択は、愚劣かつ危険きわまりない(そのことは多くのメディアの批判が続発している今回の「アベ自己チュー解散」でも明らかです)「政治」の限りを尽くす安倍政権を終焉させることができるかどうか、の選択であろうと思います。
 
1歩も進めず2歩後退 第3極は4分5裂
(澤藤統一郎の憲法日記 2014年11月24日)から。
 
ここ10年ほどの総選挙結果に表れた有権者の投票行動は、小泉劇場を舞台とした郵政選挙(2005年)で自民党に走り、一転してマニフェスト選挙(2009年)で民主党に向かい、前回自爆解散による総選挙(2012年)で自民党に戻ったかの印象を受ける。議席の推移からだけだとそう見えるが、しかし実は前回12年選挙では、民主党から自民党への票の回帰はなかった。自民党政権は、見かけほどに強くはないのだ。この点の見定めが肝要である。(略)
 
郵政選挙までは自民にとどまっていた有権者の民意は、いったん熱狂的に民主に向かって政権交代を実現したが、民主に裏切られた民意は民主党から離れたものの自民には戻っていない。12年選挙の結果を見る限り、有権者の自民離れの長期傾向は一貫して継続しており、民意はけっして自民を支持してはいない。12年総選挙間の自民の「大勝」は、有権者の積極的支持によるものではないのだ。にもかかわらず自民が圧倒的多数の議席を獲得したのは、民主が沈んだことによる相対的な有利を、絶対的な議席数の差に反映した小選挙区制のマジックの効果である。その、民主の凋落をもたらした大きな要因として、民主離れの票の受け皿となった第3極の存在を無視し得ない。
 
安倍自民を右翼政党と表すれば、12年選挙における石原・橋下の「維新」は極右というほかはなく、中道・民主から極右・維新への1000万票の流れは、政治の重点を右に傾けた片棒をになっている。しかし、彼ら第3極の基盤も脆弱である。12年選挙で54議席を獲得した「日本維新の会」は、「維新の党」と「次世代の党」に分裂した。既に当時の勢いはない。18議席を獲得した「みんなの党」も分裂し、このほど解党を決議した。みんなを割って出た「結いの党」が維新の党と合流したが、到底党内の統一が保たれているようには見えない。あきらかに、有権者は戸惑っている。自民の長期低落傾向は、自公政権の新自由主義的政策への批判の表れである。目先を変えての集票にも限界があり、いったんは雪崩を打って民意は民主党政権を作り上げた。しかし、民主党の裏切りに、民意は第3極に期待した。その結果が、民主党の凋落と、小選挙区効果による自民党圧勝であった。
 
安倍自民の延命も、第3極の議席の維持も、真に民意の望むところとは考えがたい。とりわけ、自覚的な安倍政権批判票を第3極に流出させてはならないと思う。第3極とは、日本の軍事大国化をさらに推し進める輩と、経済格差や貧困をさらに深めようとする新自由主義者の連合体ではないか。けっして、安倍政権への批判の受け皿たりうる資格はない。自民はだめだから民主へ、民主もだめだったから第3極へ、というのが前2回の総選挙に表れた民意漂流の姿である。この流れを断ち切ろう。幸いにして、第3極は四分五裂の状態である。このような無責任政治集団に、貴重な票を投じてはならない。
 
総選挙、政治には絶対はないが、社会には絶対というものがある。
(保立道久の研究雑記 2014年11月24日)から。
 
総選挙ということである。選挙のときの政党選択は、基本的に、その時の最大の社会的問題にそって判断するべきものであると考えるが、今回の場合の絶対条件は、第一に沖縄の人々が、普天間基地の撤去について、県知事選挙で示した要求をどう考えるか、第二は東日本太平洋岸地震の被災地域の復旧と原発の大事故をどう考えるかであろう。この問題は原発の廃棄を選択するかどうかである。(略)この二つは沖縄県知事選福島県知事選という直近の選挙の結果と政党の動きに関わるから、ここを基準として考えることが適当であろうと思う。
 
沖縄では先日の知事選挙において、翁長那覇前市長が県民全体の33パーセントの支持率で当選した(投票率64パーセント)。仲井真前知事に10万票の差をつけた圧勝である。」衆議院選挙では、この知事選の確認団体が協同で、日本共産党・社会民主党・生活の党そして県議団からなる選考委員会で決定されたという元県議会議長、自民党県連顧問の仲里氏の四人を全衆院選挙区に立て、全員当選を目指すことが確定した。
 
問題は福島だが、この10月の県知事選挙では、内堀雅雄前副知事を自由民主党、民主党、維新の党、公明党、社会民主党が支援し、元宮古市長の熊坂義裕氏を日本共産党、新党改革が支援し、内堀氏が全県民の30パーセントの支持率で当選した(投票率46パーセント)。熊坂氏と井戸川克隆氏、さらにほか3人の候補は脱原発を主張したが、熊坂氏は全県民の8,3パーセントの支持率にとどまり、井戸川氏などもふくめて全県民の14パーセントの支持率にとどまった。当選した内堀氏も県内原発の全基廃炉をいうが、自民党・民主党の支持をうけながらのものである。(略)
 
政治の基本は政党選択である。ここからすると、今回の全国選挙、衆議院議員選挙における政党選択は日本共産党を選択するという狭い範囲に狭められる。いわばお寒いことではあるが、これが日本の政治の現実である。民主党という選択肢は、この党がここ10年やってきたことからしてまったくありえない不毛の選択である。また問題は社民党であって、この党は、沖縄では役割を果たしながら、なぜ福島県知事選で、上記のような選択をしたのか。この党の責任は大きい。(略)日本共産党については、あくまでも政治組織、社会の利益を代表する組織であって、いわゆる「世界観政党」ではないことを確認してほしいし、そういう意味での「ただの」政治組織に徹っしてほしいし、そうあるべきことは明らかなことだと思っている。
 
丸山真男古在由重との対談に後記して「周知のようにマルクス主義の世界観においては、哲学と科学と革命運動とが三位一体をなしている」(『丸山真男対話編』1)と述べているが、すでにそういう時代ではないはずである。(略)社会・自然・人文諸科学をこえた独自な「マルクス主義哲学」なるものは存在しえない、必要がないということは、19世紀以来の経過のなかで、すでに明らかではないかというように、私は思う。論理学と「弁証法」があれば十分だとは思わないが、私は、フォイエルバハキルケゴールバタイユなどの哲学が好きで、それで少なくとも当面は十分であると思う。必要なものは、マルクスのみでなく、上記のような哲学者の考えたであり、さらに禅宗を初めとした東洋思想や神話をふくめた自然思想を含め、すべてはそれらのその先にあると思う。少なくとも歴史学者としてはそういうことである。
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