今日、辺見庸の以下の言葉が胸に応えた(正確には堀田善衛の『時間』の言葉というべきかもしれないけれど)。
 
日録1-7」11月4日付け(改行、強調は引用者)。
 
「……数は観念を消してしまうのかもしれない。この事実を黒い眼差しで見てはならない。また、これほどの人間の死を必要とし不可避的な手段となしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学ほどの差がある……」。
 
黒い眼差し。どういうことだろう。一人一人の死と何万人もの死。むずかしいアナロジーではない。「これほどの人間の死を必要とし不可避的な手段となしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ」。それはそうである。わかりきったことだ。「戦争によって、日本人の運命と人間の運命が非情にためされ、人間のいとなみの一切が日常的な安定を失って問題化したとき、まともに、誠実にこの問題に対決しようという作家は、いやでも観念的にならざるをえなかった」と、堀田善衛の生前に、佐々木基一は文庫で『時間』を解説した。くだらない。じつにくだらない。
 
堀田さんはおおようなひとだったのだろう。凡百の物書きが自著をあれこれ評するのをとくにこばみはしなかった。「問題化」「この問題」とはなんだ。「戦争によって、日本人の運命と人間の運命が非情にためされ、人間のいとなみの一切が日常的な安定を失って問題化したとき……」とは、よくもまあ、いけしゃあしゃあと言えたものだ。南京大虐殺とはそういう「問題」か。観念的にならざるをえなかった、だと? ばかな。政治家、教育者だけでなく文芸家までもがこのていどの認識だったから、みろ、いまや南京大虐殺などなかった、中国のでっちあげだ、という言説が堂々とまかりとおるようになったのだ。佐々木は南京大虐殺を戦争一般の「問題」とし、「日本人の運命と人間の運命が非情にためされ」たテーマとして、大虐殺のあまりにもリアルな事実をそっくり生き埋めにして、ものごとをエセ文芸的に処理しようとした。佐々木はその意味であざとく、政治的だった。
 
『時間』は、じつのところ、すこしも観念的ではないのだ。堀田は酸鼻をきわめた事実から逃げてはいない。事実に分け入り、立場を入れ替え、思考の錘鉛を闇に深くおろしたのだった。逃げたのは評者らである。「……数は観念を消してしまうのかもしれない。この事実を黒い眼差しで見てはならない。また、これほどの人間の死を必要とし不可避的な手段となしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学ほどの差がある……」。これは簡明でうごかざる真理ではないか。この簡明にして不動の真理を、敗戦後の社会が、天皇個人をふくめ、どれほど「わがこと」としてとらえたか、どれほど彼我の傷をわが手でなぞったか、記憶をどれほど必死で反芻したか、外形の傷を内面の生傷として、どれほど永く深い受傷として、感じつづけ、痛みつづけ、悼みつづけ、傷を傷としてもちつづけたのか、これらすべてを、どれほど切実に後代に語りついだのか。否。否だ。まったく否だ。
 
私はそのとおりだと思う。とりわけ次の箇所。

「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ」(堀田善衛『時間』)。「この簡明にして不動の真理を、敗戦後の社会が、天皇個人をふくめ、どれほど「わがこと」としてとらえたか、どれほど彼我の傷をわが手でなぞったか、記憶をどれほど必死で反芻したか、外形の傷を内面の生傷として、どれほど永く深い受傷として、感じつづけ、痛みつづけ、悼みつづけ、傷を傷としてもちつづけたのか、これらすべてを、どれほど切実に後代に語りついだのか。否。否だ。まったく否だ」(辺見庸「日録1-7」2014/11/04)。
 
対して、以下のような文章は実に軽薄な文章だと思う。しかし、書いた当人は「正義」だと思っている。やりきれない軽薄さだ。曰く。
 
「この3連休の赤旗まつりはのべ15万人を集めたとの事。ああ行きたかった(T T)/一方、昨日取り上げた「安倍ドラム」問題はまだまだ長引いております」と書いて、次のニュースを引く。「共産党、赤旗まつりで『安倍叩き』 首相顔写真入りドラムを叩く(4日付J-CASTニュース)/2014年11月1~3日の3日間、日本共産党は東京都江東区の夢の島公園で『第41回 日本共産党の赤旗まつり』を開催した。志位和夫委員長によるスピーチはもちろん、各地の特産品販売や音楽イベントなどでにぎわい、3日間で約15万人を動員する盛り上がりを見せたという。/その中で物議をかもしているのが、安倍晋三首相の顔写真をデザインしたドラムを叩く催しだ。党期待の若手、吉良佳子参院議員がその様子をツイッターで紹介したことで瞬く間に拡散され、ネットでは『ちょっとやりすぎでは』と批判を集めてしまった」。そして、次のように批判する。「ええと、物を知らないネトウヨに教えておくけど、米ブッシュ大統領の時代にはイラクで記者がブッシュ大統領に靴を投げた事件を元にしたゲームがあったのですが。(略)という訳で、安倍ドラムのちょび髭は全く持って正しい限りです」。
 
たとえ模造品であろうと、「首相顔写真入りドラム」のような実物の代用品であろうと言論の自由としてある人の「精神のありよう」や「思想」を批判するのではなく、人を「モグラ叩き」のモグラ扱いにしてなにが「正しい限り」であるだろう。そのメンタリティは「早く首つれ朝鮮人!」「朝鮮人は呼吸するな!」「よい韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ!」と叫ぶ在特会のそれとなんら変わるところはない。あるいは日の丸を林立させて得意げにデモ行進する右翼のメンタリティとなんら変わるところはない。まさに「仮想集団リンチ」の一態様。この記事の筆者はその誤りに気づいていない。それ以前にこの「ドラムレクチャーなう」なるものは「赤旗まつり」のイベントのひとつとして考案されたものだという。私は戦後(とりわけ「現在」)の共産党の著しい劣化を思う。
 
堀田善衛の言うように「(南京虐殺で)死んだのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ」という認識を持つとき、たとえそれが「にっくきA」であろうと、人は「一人一人の生」をいたぶるような行いには向かわないだろう。また、辺見の言うように「敗戦後の社会が、どれほど彼我の傷をわが手でなぞったか、記憶をどれほど必死で反芻したか、外形の傷を内面の生傷として、どれほど永く深い受傷として、感じつづけ、痛みつづけ、悼みつづけ、傷を傷としてもちつづけたのか」という内省に向かおうとするとき、たとえそれが「にっくきA」であろうと、人は「一人一人の生」をいたぶるような行為はしないだろう。
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