「イスラーム国」北大生渡航未遂問題でいまや「時の人」となった感のある中田考さん(元同志社大学教授。イスラム法学)と池内恵さん(東京大学准教授。イスラム政治思想)は東大文学部イスラム学科の先輩(一期生)と「一回り下の後輩」という間柄のようです。その先輩と後輩の間柄の中田さんと池内さんが「イスラーム国」、あるいは「イスラーム教」問題をめぐってちょっとした論争をしています。いま、ちょっとした論争と述べましたが、ちょっとした論争でも「イスラーム」問題を理解するための本質的な問題が孕まれているように思います。興味深い論争ですので下記に転記して、ご紹介させていただこうと思います(強調と改行は引用者)。

避難民キャンプ 
ミャンマー西部、ロヒンギャ避難民キャンプと子どもたち
 
先に自身のフェイスブックというグラウンドで論争をしかけたのは(ご自身にその意図がなかったとしても)池内恵さん。以下のとおり。
 
「イスラーム国」に関連して、またも朝日新聞で中田さんが登場。宣教活動フル回転ですね。近代社会を成り立たせる自由で平等な規範の根拠には自由主義がありますが、イスラーム教はその自由主義の重要な部分を否定しています。そのような思想・信条を信じ・語る自由を自由主義は認めます。ただしある制限の中において。
 
こういった当たり前のことを、なぜ西欧政治思想が専門の先生方は発言しないんだろう? 当たり前すぎて言ってもカッコ良くないから? また、西欧諸国でのイスラーム教徒のへの「迫害」とされる制限についても、一部にはもちろん差別や偏見や格差の問題がある可能性があるが、自由主義の基本的規範をあからさまに認めない人々が出てきたからそれを規制する動きが出てきているということを、なぜ考慮しないのだろう。思想研究者としても、西欧地域研究者としても、失格なんじゃないか。そもそも西欧政治思想研究者は地域研究者という意識がないから、テキストだけ読んでいて、それがどう現実社会の規範として生きており刷新されているかを忘れがちなのではないか、と思う。
 
中田さんは、もともと「人間が考え出した自由なんて意味ない、神が下した正しい宗教を信じる自由の方が優越する」という立場なんだからそれはそれで信仰の自由なのでいいのですが、西欧政治思想で飯を食ってきた人たちは、ちゃんと挑戦を受け止めないと駄目だよ。私のように西欧政治思想の自由主義の潮流については教養課程のゼミで読んだだけの人間がなぜ論じないといけないのか。もちろん私が書いているのはごくごく基本的なことです。「基本的なことに過ぎない」とか言わないでね。オタク的卓越性を競っている場合ではないのである。というか肝心な時に発言できない研究者って何?
 
そういった思想的な研磨をせず、単に日本社会の大勢として「変な格好をしている怪しい奴が危ない集団と一緒になっているから黙らせろ」といって排除して終わり、大学やメディアの反体制論者が逆に実態と異なる思い入れを投影して称賛していると、国内的には内にこもってカルト的だったり破壊衝動がある人を呼び集めることになるかもしれないし、国際的には過激化と迫害が両方生じたと受け止められてしまう。それをぎりぎり避けられるかどうか、市民社会の内実が問われています(「池内恵フェイスブック」2014年10月24日
 
以下は、同じく池内さんのフェイスブック上における中田考さんの反論的コメント。
 
ご活躍、同慶の至りです。貴兄の文を読んでいると、知的誠実性の重要さ、を再確認させられます。日本のオリエンタリズムもそういう段階にはいった、ということでしょう(まだ、それ以前の啓蒙段階のような気もしないでもありませんが)。
 
一点だけ、事実認識の誤りを訂正しておくと、私は、西欧は言うまでもなく、ムスリム社会でもカリフ制が再興されるまではイスラーム法は適用できない(ので当然すべきではない)、という立場です。この点において、私はイスラーム国家とカリフ制を連続的にとらえるムスリム同胞団、アルカーイダ、イスラーム国とは違い、カリフ制以外には、いかなるイスラーム的に正当性を有する国家も認めないHizb al-Tahrirの立場に立っています。これは拙著『イスラーム革命の本質と目的』の78-79頁でめいげんしており、その英語版、インドネシア語用版、アラビア語版でムスリム世界に対しても発信してきたことです。
 
人々の日々の生活に直接に関わる可能性のある政治思想研究で、些末な問題に拘泥するスコラ学的解釈は抜きに問題の根本を大掴みにする、という方法論は正しいと思いますが、重要なテキストを読み込み厳密に読解することも怠らないで欲しいと思います。特にサラフィーの理解には法学とアキーダ(信条)をセットで理解する必要があるので、迂遠に思えてもアキーダも押さえる必要があります(私自身を研究対象にするならスーフィズムも不可欠ですが、そんな気はないですよね)。
 
一点だけと言いながら、ついでにもう一点だけ苦言を呈させてもらうなら、貴兄のイスラーム政治思想の分析には、言葉の語用論的意味の理解が不十分に思えます。特に「過激」「教条的」言辞を特徴とするサラフィージハード主義者の言説と行動の関係は言葉の語用論的意味理解を欠くと、その現実も含意も見誤ります。
 
これはサラフィー・ジハード主義者の内部で参与観察したことがない外部者には難しいことは難しいですが、知識と知性と良識を総動員すれば克服できない困難ではないはずです。
 
貴兄には不本意かもしれませんが、この場に乱入し、「宣教」に利用させてもらったこと、お詫びいたします。今後も精進されますように。アッラーのお導きを。(「池内恵フェイスブック」2014年10月24日
 
以下は、上記の論争を読んだおふたりの感想。
 
・私は信仰を持っていませんが、信仰を持っているひとを侮辱することに同意しません。その信仰が、あるいは信仰実践の様態が、正しいとか誤りだとかという評価をするなら、少なくとも信仰について謙虚に学ぶ姿勢を持つべきだと思います。(「内藤正典Twitter」2014年10月24日
 
・理解なんて到底できない、ということを理解するのも大事な理解:自由主義者の「イスラーム国」論・再び~異なる規範を持った他者を理解するとはどういうことか http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-219.html …(常岡浩介「中田考Twitter」2014年10月24日
 
私は常岡さんのいう「理解なんて到底できない、ということを理解」した上で、そのことを前提にして議論することの重要性を思います。なお、内藤さんのいう「私は信仰を持っていませんが、信仰を持っているひとを侮辱することに同意しません」という意見には私も同意します。池内さんは宗教(イスラーム教)に対する揶揄が少しすぎるというのが私の印象です。
 
なお、中田さんの上記の池内論攷批判には中田さんの頭の中に下記のような池内さんの論攷も伏線としてあってのことかもしれません。
 
先日の「イスラーム国」への北大生参加問題で、すっかり「サブカル」として日本でごく少数のフリンジな方々に受容されかけていることが明らかになったイスラーム教ですが、そこで注目を集めているのが「カワゆいカリフ制」などと言ってウェブ上のマニアから、内田樹氏のような頭の軽い現実感の薄い軽率な居座り系文系知識人にまで(前者と後者は同一かもしれないが)高く評価されてしまっていた中田考氏が、朝日新聞からウェッジにまで、左右対極のメディアに取り上げられてしまっているところが、イスラーム教をめぐる日本の言説に特徴的な問題であろうと思います。
 
中田氏は元同志社大学神学部教授←日本のキリスト者って、ダメだよね。彼が文章で明確にしている原理主義的な真意を読み取れずに、「中田先生は過激派を批判してくれる本当のイスラーム法学者だ。彼こそ「対話」の相手だ」と思って彼を鳴り物入りで迎えたが、彼には別のアジェンダがあるので、やがてジハードに参加するために自主的に辞任して旅立ってしまわれた。数名の改宗学生を後に残して。同志社大学神学部に子供を入れたら、先生に折伏されてイスラーム教徒になって帰ってきた、という親の気持ちはいかばかりか。しかし日本において思想も信仰も自由なので、私は中田考氏の発言や行動を倫理的に悪いとする根拠はないと考えますし、刑法上も、法に触れないぎりぎりまでをきちんと分かってやっている、「近代法上の良き市民」であると思います。実際日常においては、他の学者と比べてはるかに穏和で分け隔てのない方です。暴力・権力・コンプレックスの塊のような学者先生方に悩まされてきた私にとっては、中田さんは「数少ない害のない先輩」という印象があり、その印象はこの事件を経ても変わっていません。
 
ゆくゆくは変な大事件を起こしかねないような人を周りに集めて(勝手に集まってきて)、「ジハード」という一応脈絡のあることをやらせているがゆえに未然に発覚したので、被害を最小限にとどめたとも言えるでしょう。また、中田氏は日本向けにサブカル的な要素を取り入れた宣教をしており(彼自身がサブカル好きなんだろう)ますが、中田氏のイスラーム法学者としての本来の仕事は、アラブ世界で有力な説や歴史上正統性のある説を踏まえた、イスラーム教徒にとって反論のしがたい、多くの人にとっては反論する気もない、まっとうなものであると認識しています。中田さんは正統な伝統主義的なイスラーム法学を勤勉に学ぶことをずっとやってきて、日本出身者として例外的にその道を極め、国内で追随する人はいないと思います。
 
しかししばらく見ない間に、日本で信仰を広めるにはいくら正統派の議論をしてもだめで、日本的サブカルを介在しなければならないと気づいてそちら方面に力を入れていたようです。日本とイスラーム世界の壮大なギャップに自ら落ち込んで生まれた稀有な人材であると思います。そのイスラーム教解釈が異教徒という他者にとっては、「善意」であれども差別的で抑圧的になることを、私は問題と思っています。それについて彼は「神が定めた抑圧なんだから仕方がない。異教徒は抑圧の下で生きるのが幸せなのだ(神が定めた生き方なのだから)。もっと幸せになりたければ改宗の自由がある」という立場であるため、話が通じません。
 
また、「抑圧はほかにもあるだろ。独裁政権とか、日本にだって右翼政権があり、格差社会があり、学界には嘘つきの左翼学者・転向した偽イスラーム学者とか、欺瞞とうそがいっぱいある。お前はそれを逐一批判してきたのか?」といったたぐいの話を持ち出して(あくまでイメージですが、ほぼこんな感じ)議論を逸らすこともあるようですが、これはイスラーム法学者が日本という敵意に満ちた(と認識している)場所で宣教を行うために必要な戦術と考えているのではないかと思います。
 
その意味で中田氏自身の基準では嘘は言っていないが、読み手にとってはうっかり真に受けると危険という言説ではあります。まあ日本社会の多数派は彼のことを単に奇矯な人物としか見ないでしょうけれども、全世界の趨勢とか、日本社会の見えない周縁で何が起こっているかとかを考えると、そういう人はそういう人で、自分の常識を一度考え直してみても無駄ではないでしょう。もちろん、日本の常識を疑ってみてもいい、ということは内田何とかさんみたいに無責任に言葉の上で「ラディカル」に全否定して見せたりその反動でよく知らない外部の絶対主義・原理主義を支持してみせろと言うことではまったくないです。
 
内田某のアレは、紙の無駄です。多分中田さんもそう思っているんじゃないですかね。嘘はいけないが、信仰を広めるために、勝手に誤解して自己の願望を投影してくるバカな有力知識人を利用するのはイスラーム法学的に許容される行為だ、と中田さんは自分の中で正当化して内田さんと付き合っているんだと思いますよ。もちろん日本社会には内田さんのような愚行をまき散らす自由があるんだ、ということをこのブログでは何度も書いております。バカなことを言って「バカだな」と言われたら「抑圧だ」と騒ぐのは止めてください。(「池内恵フェイスブック」2014年10月10日
関連記事
Secret

TrackBackURL
→http://mizukith.blog91.fc2.com/tb.php/1042-ae48da21