盟友の瀬戸内寂聴さんもそうだが、戦前の日本を識っている年齢の方々は口をそろえて今の日本の空気は戦前の似ているという。
 
私は終戦の年の生まれだから当然戦前の日本の空気は知るよしもないが、戦前に似ているということは「戦争に向っている」ということであり、戦後70年の平和を享受して来た私たちには今ひとつその危機感にリアリティを感じない。
 
まさか戦争など起きるわけがない。
 
まさか徴兵制などが復古するわけはない。
 
そんな感覚が頭のどこかにある。
 
私の場合もそういった一抹の気分がないわけではない。
 
だが、昨今の日本の状況を見ると、それが即戦争に結びつくかどうかは別として”異様”な空気があの御嶽山の蒸気のように、とくに言論界に充満しつつあると思わざるを得ない
 
集団的自衛権や秘密保護法の強権的立法化はもとより、福島第一原発事故以降年々強くなる傾向にある原発批判封殺。民俗排他運動(ヘイトスピーチ)の過激化とそれに対する政府要人の黙認。
 
この8月には国連人種差別撤廃委員会が日本政府に対して、ヘイトスピーチ(憎悪表現)問題に「毅然と対処」し、法律で規制するよう勧告する「最終見解」を公表したが、これを政府は無視しているばかりか、一部の人間は国連が極左の巣窟となっているというようなトンでも発言をしている。
 
いま自分と意見を異にする者の声を聞く耳を持たないばかりか、それを敵視し、攻撃的な挙動に出る風潮が醸造されつつある。
 
まさに異様な空気感である。
 
こういったバランス感覚の喪失というものは先のトークでも触れたように911に端を発する世界的傾向であり、就中日本においてよりそういった傾向が顕著になったのはひとつには311の大災害に原因があると私は見ている。
 
つまり日本全体をひとつの人体として考えるなら、私たち日本人は手負いである。
 
右の肩口から腰のあたりまで、つまり体の5分の1に大きな痛手を負っている。
 
さらにその半身の一部は原発災害によって欠損し、放射能によって膿んでもいる。
 
そういった大きな病に侵された人体(人間)が健常者と同じようにそこに健全な精神が宿るとはなかなか思い難い。
 
そしてその人間(日本人)の行状を観察するに、そういった外部から攻撃(震災と原発)に曝され、手負いになった私たちはいま国民レベルの被害妄想という精神の病を抱えているように思われるのである。
 
そしてその被害妄想の癒えないまま、私たちは追い打ちかけられるように、さらなる自然の攻撃に曝されている。
 
一人の個人が他者からの攻撃によって大きなダメージを背負うことによって生じるトラウマがのちに他者への攻撃的変成となって吹き出すことは私たちはさまざまな事件現場で目撃するわけだが、昨今の日本人(特定のというべきか)の自分と異なる他者の存在を許さない攻撃性は未曾有のダメージによって手負いとなった人間の中に宿ってしまったきわめて異様な挙動と言っても過言でないだろう。
 
問題はこの異様な状態が局部世界にとどまらず、政権からマスメディアまで、本来中庸とバランス感覚によって社会に一定の規矩を示さなければならない世界までに及んでいることである。
 
このことを象徴するのが朝日新聞の誤報問題に端を発する”メディア粛清”とも言える官民一体となった一連の動きだろう。
 
朝日新聞の誤報はかつてあった”サンゴ事件”のようにみっともない。しかしあらゆるメディアは必ず誤算による誤報を犯しているのであり、ここのところの一連の政権の対抗メディアと目される左派系のマスメディア抹殺の動きは意図的であり集中砲火的である。
 
それでなくともその前段には国営放送であるNHKは政権の意図的介入によって骨抜き状態となっている。残るは”邪魔なヤツ”は”もの言う”マスメディアということになる。
 
石原慎太郎は朝日新聞の廃刊を声高に叫び、この意図的な流れはここ数日、同じ朝日系列のニュースステーションの誤報問題にもお呼び、一部には番組打ち切りという人心誘導的ガセ情報まで流され、右系週刊誌「週刊文春」はお手盛りの知識人有名人のがん首を並べ、ほぼ一冊まるごと朝日バッシングに情熱を燃やしている。
 
私には今日の新聞の47名の火山死を告げる報道と、その下の我を失ったかのようなアグレッシブな攻撃性の週刊誌見出しが一対となって見えるのである。
 
これを異様な空気と言わざるして何と言うだろう。
 
フランスの哲学者ヴォルテールはフランスに封建政治が蔓延する中「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉を発した。
 
だが日本は今自分と反対の意見を持つ者は敵であり許さないという、このヴォルテールの言葉とは真逆の時代を突き進もうとしている。
 
寂聴さんはある時私に今という時代は大政翼賛会が勢いを増したあの時に似てるわねぇ、と言ったことがある。
 
だが私は戦前の空気というものを知らない。
 
その意味において、こういった手負いの身体が生む異様な空気を読む上において、あの時代を知る先達の言葉に耳を傾けることは今必要なことのように思える。
 
件の「週刊文春」の対抗メディアバッシング特集だが、大半の知識人有名人が大政翼賛的とも言える檄を発する中、1930年生まれで戦前の空気を知る、元「週刊文春」や「文藝春秋」の編集長を歴任した作家の半藤一利さんのみがゆいいつ中庸的意見を述べていたのは救いだった。
 
                           ◉
 
今「週刊文春」を筆頭に、読売、産経などあらゆるメディアがワッショイ、ワッショイと朝日批判を繰り広げている。
 
私は昭和史を一番歪めたのは言論の自由がなくなったことにあると思っています。
 
これがいちばん大事です。
 
昭和6年の満州事変から、日本の言論は一つになってしまい、政府の肩車に載って、ワッショイ、ワッショイと戦争に向ってしまった。
 
あの時の反省から、言論は多様であればあるほど良いと思うのです。
 
私のような爺いが、集団的自衛権や秘密保護法に反対と堂々と声を出せることは、大変ありがたいこと。
 
こういう声が封じられるようになったら終わりです。
藤原新也 2014/10/02
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