キョウ かとうしゅういち

Blog「みずき」:弁護士の澤藤統一郎さんは一昨日の石原慎太郎の弁明会見を見て、日本特有の「天皇制」という無責任体制(丸山眞男)の体系に思いを馳せざるをえなかったようです。

『天皇は、大日本帝国の唯一最高の統治権者であり、大日本帝国軍隊の唯一最高の統帥権者であった。そればかりでなく、天皇は日本国創造の神の万世一系の子孫であると称する神的権威であった。この最高の権力・神的権威である天皇陛下の命令・統帥なしには、日本国とその軍隊は対外戦争はできなかった。そして日本国民は、天皇に無条件絶対の忠誠をささげるよう、教育され、あるいは強制されて、あの戦争にしたがった。こういう地位にある天皇裕仁に、戦争責任がないなどとは、ふつうの人間世界に通用するはずのない論理である。しかし、それが日本では通用している。「天皇は立憲君主として、政府や大本営など、輔弼(天皇をたすける)機関が適法に決定して天皇の裁可を請うたことを、裁可しなければならなかった。したがって責任はすべて輔弼者にある」というのが、天皇裕仁自身の論理であり、また天皇に戦争責任なしとするすべての人の論理である。』(井上清『天皇の戦争責任』)

こうして澤藤さんは井上清の論を援用した上で一昨日3日の石原慎太郎の弁明会見を批判します。

「昨日(3月3日)の石原慎太郎弁明会見における石原の「責任」の語り口の軽さもここに原因していると言ってよい。石原の無責任ぶりは、天皇(裕仁)の亜流であり、その自己免責の理屈は、井上のいう「天皇裕仁自身の論理」の借り物である。(略)石原は「最高責任者として裁可したことに関しては責任があるが、私一人というよりも行政全体の責任だ」「総意として上がってきたものを認可した。議会も是とした。責任はみんなにある」とした。その文脈で、「つかさつかさで」という言葉を5度使い、あとは「知らない」「聞いていない」「分からない」と9度繰り返したそうだ。これは、まさしく「一億総懺悔」ではないか。」

そして、澤藤さんは結論として次のように言います。

「いまさらにして思う。このような人物を知事にして持ち上げてきた都民の責任を。石原とは較べものにならない、超弩級の天皇の責任回避に目をつぶってきた国民の責任を。石原にだけ、「責任逃れ、恥さらしではないか」と言うことに、「何か、割り切れない」ものが残るのだ。」

かつて加藤周一はこの日本型「無責任体制」を「大勢順応主義」(日本的コンフォーミズム)という日本人の精神構造の側面から明らかにしたことがあります。

『時間における「今」の強調は、時間の全体に対しての部分の自律性(自己完結性)の強調と考えることもできる。したがって空間における「ここ」の重視、さらにはここ=限られた空間を構造化するのに全体の型よりも部分の質に関心を集中する態度と呼応するだろう。「全体から部分へ」ではなく、「部分から全体へ」という思考過程の方向性は、「今=ここ」の文化の基本的な特徴である。』(『日本文学史序説』)

かつての丸山や加藤が行った同様の問題提起をいま澤藤統一郎さんが継承してしていることになるのだと私は思います。

・石原の無責任と、天皇の戦争責任免責論 - 澤藤統一郎の憲法日記 2017年3月4日

【山中人間話目次】
・kojitakenさんの現況感想は共産党議員の国会質問を肥大化して評価するメディアと「革新」なる世間の論調とは一線を画しています
・徳岡宏一朗弁護士の「第2の森友学園事件」という非常によくまとまった読みやすい記事と写真
・清水潔さん(日本テレビ報道局記者・解説委員)も「森友学園」問題に関するNHK報道批判
・毎日新聞の「時の在りか 1強栄えて吏道廃れる=伊藤智永」と言う記事は「1強栄えて報道廃れる」と言うべき記事ではないか
・辺見庸の「つれあい」発言はどうやら辺見の可愛がっている愛犬のことだったようです
・森田千里さんという「インドヒマラヤの花」をこよなく愛する人