キョウ あべ5

Blog「みずき」:この8月26日から28日にかけて行われた日経とテレビ東京による世論調査によると安倍内閣支持率は62%で、昨年の同時期の支持率(最低)と比べると26ポイントも上昇しています。ちなみに日経電話世論調査の昨年下半期の安倍内閣支持率は7月35%、8月41%、9月36%、10月37%、11月45%、12月44%。「今日の言葉」はこの安倍内閣支持率の急上昇についてのkojitakenさんの感想です。このkojitakenさんの感想に民進党の蓮舫代表選候補の「野党共闘」路線に関する見解をつけ加えておきます。蓮舫氏は次のように言っています。「(次の衆院選で参院選と都知事選の)延長線で同じ戦いをすることはあり得ません」、と。このようにすぐに壊れてしまう、共闘の土台さえつくりえなかった「野党共闘」路線をさも政治革新の切り札のように得々と語っていた者は誰でしょう? 共産党の志位氏(委員長)や小池氏(書記局長)にほかならないでしょう。私はkojitakenさんと同じことを言わなければなりません。「リベラル・左派」たちよ。なんたるざまか、と。

【また、そのあげくが安倍晋三の独裁力のさらなる強化だ】
昨日(8/29)、職場で日経を見ていたら、
安倍内閣の支持率が62%に上昇し、一昨年以来となる高い数字を記録したという。支持率の底はもちろん昨年半ばに安倍政権が国会に提出した安保法案が憲法学者たちによって違憲と指摘されたことを受けて批判を浴びた頃だったが、そのあとの経過を思い出すと、「リベラル・左派」たちは「安保法案は通ってしまったが、若い世代から『SEALDs』という希望の星が出てきた。負けたけど勝ったようなものだ、良かった良かった」、「参院選には負けたけど、『野党共闘』が功を奏して1人区で11勝できた。負けたけど勝ったようなものだ、良かった良かった」、「都知事選には負けたけど、自公の推す増田寛也も負けた。良かった良かった、とまでは言えないにしても最悪の事態は免れた」などと能天気に気炎を上げ続けてきた。そのあげくが安倍晋三の独裁力のさらなる強化だ。なんたるざまか。(kojitakenの日記 2016-08-30

【補記】
こうしたkojitakenさんや私のような「リベラル・左派」批判を「リベラル・左派」の当事者はどのように受けとめているのでしょう。あるいは受けとめようとしているのでしょう。以下、その「リベラル・左派」の当事者のひとりとしての中野晃一さん(上智大学教授)の意見を聞いてみましょう。中野さんは私たちのような意見を「正直、説教モードの人たちにはもううんざりしています」と言っています。そして、参院選や都知事選の反省は「うんざり」で終わらせてしまって、稲田朋美防衛相にターゲットを絞った次なる闘争戦略を得々と述べていきます。こういう姿勢ではまた同じ過ちを繰り返すでしょう。私たちはまた言わなければなりません。「リベラル・左派」たちよ。なんたるざまか、と。
キョウ あべまりお キョウ きょうぼうざい

【「共謀罪」が創設されれば限りなく恣意的に運用されかねない】
リオ五輪・閉幕の日、
土管から飛び出した「マリオ」ならぬ安倍晋三首相。この8分間のパフォーマンスに税金12億円を投入! ああ「もったいない」。それどころか安倍首相は「ゴジラ」さながらに、とつぜん鋭い歯をむき出し、カギ爪を上にあげ、私たちの前に立ちふさがり始めた。「共謀罪」の導入だ。改憲勢力3分の2をバックに、「共謀罪」創設法案を9月の臨時国会に提出する。10年以上も前、小泉政権が3度にわたって国会に提出したが、廃案となった法案を、4年後の東京五輪を視野に、テロ対策強化を名目にして復活させる。だが今でもテロ行為を未然に防ぐ法律はある。こじつけだ。もともと犯罪行為は、具体的な実行によって、被害や危険が生じた場合に罪が問われる。「心の中で思い、皆で話しあったこと」を理由に処罰はできない。ところが今回の「共謀罪」は、沖縄の新基地反対や脱原発などの市民団体が、「路上にシットインして警察車両を止めよう」と話し合い、何らかの準備をすれば、組織的威力業務妨害を適用し処罰されかねない。さらに警察は犯罪の相談や合意を証明するために、室内盗聴や監視カメラの設置など、日常的な監視を続けるだろう。このあいだの参院選で、大分県警・別府署が民進党選挙事務所の敷地に、隠しカメラを設置していた事件でも証明済み。「共謀罪」が創設されれば、対象犯罪は600以上、限りなく恣意的に運用されかねない。(Daily JCJ 2016年08月28日

【山中人間話目次】
・安倍内閣支持率が62%に上昇。この国の底知れない世論なるものの不毛を思う
・東村高江 地元紙記者強制排除問題。日本新聞労連も抗議声明
・沖縄県に「県公安委員会、県知事、県議会の政治的罪責について包括的に論じ」る声が高まる(高まらなければおかしい)ことを期待する
・山田廣成(立命館大学理工学部教授)という阿房列車の人のヘイトスピーチ的屁理屈にただ暗然とする
キョウ るいぼなばると

【わかったようでわからない論の行方について】
 
内田樹がツイッターでマルクスの「ルンペン・プロレタリアート」考をつぶやいている。

『マルクスの『
ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』はルイ・ボナパルトというどこから見ても二流の政治家がそれにもかかわらず政財官、メディア、ブルジョワ、ルンペンプロレタリアートからの圧倒的な支持を集めて20年にわたって「革命の祖国」に皇帝として君臨した歴史的事実を論じたものです。』(8月21日)

『マルクスがそれについて長い考察(実にすぐれた書物です)を書いたのは、マルクスの知性をもってしても「どうしてあんな二流の政治家が大きな顔ができるのか・・・」が十分には解明できなかったからです。』(同上)

『「ルンペン・プロレタリアート」というのは「プロレタリアでありながら、みずからの階級的利益を損なう政治的立場を熱狂的に支持する」人たちがどうして「そんなこと」をするのかマルクスにもうまく理解できなかったという消息を伝えております。』(同上)

内田樹の上記の「ルンペン・プロレタリアート」考の前提には、

『「金以外の
インセンティブ」で動く政治家しかスケールの大きな事業はできません。でも、それって「イデオロギー」か「宗教」しかないんですよね。安倍政権は「金」で財界を巻き込み、「イデオロギー」で右派を集め、「宗教」で日常運動を作っているのになんであんなにスケールが小さいんだろう。』(同上)

という認識がある。

しかし、内田は、
安倍晋三の評価を誤っている。安倍は「金以外のインセンティブ」で動く政治家ではない。彼のインセンティブは金であり、名誉であり、権力である。その欲は総べてカネに帰結する。彼が「スケールが小さい」のはカネで動く政治家でしかないからである。内田は、そんな明白なことを、わざわざマルクスの「ルンペン・プロレタリアート」考を持ち出し、わかったようでわからない論を展開する。

わかったようでわからない論は
ペダンチックな装いを外せば結局わからない=論理不明瞭の論ということでしかない。そして、論理不明瞭の論は人の態度を保留にさせる。すなわち、そこからなにごとの行動の観念も発生しない。人畜無害の論になるほかない。人を煙に巻くのがうまい内田樹らしい論だ。人畜無害だから、日和見を旨とする学者らしき人々は安心して少し辛口に見えるのを幸いにしてその論をリツイートする。どうやらフェミニストらしい20世紀イギリス文学を研究する女性の研究者もこの内田の論をリツイートしている。いまの学者と言われる人たちの水準をよく示している。いまの大学では正統なマルクス論は論じられることはなく、内田的なわけのわからないマルクス論だけが流通していく。これがいまの大学の水準だ。こうした大学の学者たちが昨年、「安全保障関連法に反対する学者の会」なるものを結成した。なにごとが起こることも、なにごとも生まれるはずもない。これがいまの学者近辺の学問と称するもの=思想と称するものの状況ということである。(東本高志 2016年8月28日

【山中人間話目次】
・象徴天皇制論議の基礎のひとつとしての毎日新聞朝刊文化欄の「原武史・北田暁大対談」の全文
・25年間務めた北海道新聞社「セクハラ自殺」問題が法廷の場へ 問われる人権への姿勢
・TBSテレビ「報道特集」の「反テロ戦争」特集での米国人インストラクターの忘れられない言葉-太田昌国
キョウ こうしつ

Blog「みずき」:本日づけ(8月27日)の毎日新聞に天皇の「生前退位発言」に関する「本格的論評の代表格というべき」(澤藤統一郎さん評)原武史さんと北田暁大さんの対談が掲載されているようです。私はネットでしか毎日新聞を読んでおらず、かつ、「無料で読める今月の上限10本」制限を超えているので、澤藤統一郎さんの論評を通して同対談の要旨をご紹介させていただくことにしようと思います。

【「平成天皇制」――これはむき出しの権力だ】
8月も終わりに近い。8月は戦争を語り継ぐときだが、同時に天皇制を論ずべきときでもある。71年前の敗戦は、軍国主義と戦争の時代の終焉であったが、同時に野蛮な神権天皇制の終焉でもあった。しかし、軍国主義と臣民支配の道具であった天皇制が廃絶されたわけではない。日本国憲法下、象徴として残された天皇制は、はたして平和や人権や国民の主権者意識に有害ではないのだろうか。今年(2016年)の7月から8月にかけて、天皇の「生前退位発言」が象徴天皇制の問題性をあぶり出した。歯の浮くような、あるいは腰の引けた俗論が続く中、8月も終わりに近くなって、ようやく本格的な論評に接するようになった。本日(8月26日)の毎日新聞朝刊文化欄の「原武史・北田暁大対談」は、そのような本格的論評の代表格というべきだろう。ネットでは、下記URL(
)()で読める。これは、必見と言ってよい。この時期、この二人に対談させた毎日の企画に敬意を表するが、見出しはいただけない。「中核は宮中祭祀と行幸 象徴を完成させた陛下」「踏み込んだ『お気持ち』 天皇制を再考する時期」。この見出しでは読者を惹きつけられない。しかも、対談の真意を外すものだ。もとより、原も北田も「陛下」などと言うはずもないのだ。見出しは、対談の毒を抜いて砂糖をまぶして、読者へのメニューとした。しかし、対談の中身はそんな甘いものではない。歯ごたえ十分だ。全文を読んでいただくとして、私なりに要約して抜粋を紹介したい。

対談者の関心は、まずは今回の天皇発言の政治性にある。このような政治的発言を許してしまう、象徴天皇制というものの危うさと、これに的確な批判をしない時代の危うさに、警鐘を鳴らすものとなっている。冒頭の北田発言がその要約となっている。北田「天皇の『お言葉』で皇室典範改正につながるかもしれません。実質的に天皇が法を動かすということは日本国憲法の規定に反する明確な政治的行為でしょう。しかし右も左もマスコミも、心情をくみ取らないわけにはいかないという論調。立憲主義の根幹にかかわることなので、もっと慎重に議論が進むと思っていたのですが……。」さらに、中心的なテーマは、象徴天皇制がもはや憲法をはみ出すものになっているという批判である。原は、今回の天皇発言を「玉音放送」に擬してこう言う。原「今回のお言葉の放送は、いろんな意味で1945年8月15日の『玉音放送』と似ています。玉音放送は臣民という言葉が7回出てくる。今回も国民という言葉が11回出てきた。…昭和天皇が強調したのは、ポツダム宣言を受諾しても、天皇と臣民が常に共にある『君民一体』の国体は護持されるということ。今回も『常に国民と共にある自覚』という言葉が出てきます。玉音放送の終わり方は「爾(なんじ)臣民其(そ)レ克(よ)ク朕(ちん)カ意ヲ体(たい)セヨ」、つまり臣民に向かって自分の気持ちを理解してもらいたい、と。今回も「(私の気持ちが)国民の理解を得られることを、切に願っています」で終わっています。」これに、北田が共鳴し、さらに原が敷衍する。北田「政治・立法過程を吹っ飛ばして国民との一体性を表明する。今、天皇が憲法の規定する国事行為を超えた行動ができることについて、世の中が何も言わないというのは、象徴天皇制の完成を見た思いがします。」原「今回衝撃的だったのは、憲法で規定された国事行為よりも、憲法で規定されていない宮中祭祀と行幸こそが『象徴』の中核なのだ、ということを天皇自身が雄弁に語ったことです。」北田「憲法に書かれていないことが私の使命なんだ、と。相当に踏み込んだな、よく宮内庁は止めなかったなと驚きました。止められなかったのか。天皇の記号としての機能は今、より純化され、強固になっています。多くの国民が政治的な存在と思っていないことが最も政治的なわけで……。」 北田「天皇の政治的な力を見せつけられました。『空虚な中心』どころではない。」原「より能動的な主体として立ち上がってきた。」

対談者の批判は、左派・リベラルにもおよぶ。北田「左派リベラル系の人の中にも、天皇制への視点が抜け落ち『この人なら大丈夫』と属人化されている。それほど見事に自らを記号化してきた成果が今回の肯定的な世論に表れているのでは。」原「実は国体が継承されているんじゃないか。昭和との連続性を感じます。イデオロギッシュだった国体の姿が、より一人一人の身体感覚として染み渡っていくというか、強化されているのではないか。こうした行幸啓を続けることで、いつの間にかそれが皇室の本来の姿のように映るようになった。北田「すごい発明ですよね。平成天皇制。自戒を込めていえば、私も天皇について断片的に本を読むくらいで、強い関心を持っていませんでした。しかし今回のお言葉で目が覚めました。『これはむき出しの権力だ』と。天皇家、天皇制とは何なのかを徹底的に再考する時期だと思います。」若い北田の「すごい発明。平成天皇制」「これはむき出しの権力だ」という感性を私も共有したい。そして、原にも北田にも、世論を覚醒せしめる本格的な論稿を期待する。(
澤藤統一郎の憲法日記 2016年8月27日

【山中人間話目次】
・永原純さんの東京新聞天皇賛美社説批判
・高江の機動隊投入問題。アリの一言氏の翁長知事と沖縄地元紙琉球新報、沖縄タイムス批判。
・崔勝久さん(OCHLOS)の「慰安婦問題に対する、ある韓国人のコラム」紹介
・会長への立候補は認めないー岩手県海区漁業調整委員会の暴挙-澤藤統一郎の憲法日記
・非常勤医師逮捕の不当性について――柳原病院[東京都足立区]の訴え

キョウ どくさい

Blog「みずき」:「民主主義が独裁への道を開くことになりかねない」という藤原帰一さんの危惧については、「『喝采』による『民主主義的な感情』による独裁の民主的正統性による権威付け」の過程を考察したドイツの法学者、カール・シュミットを引いた弁護士の森川文人さんの短評もあります。合わせて参照されれば「民主主義と独裁」がなにゆえに関係するのか。その関係性についての理解も深まるものと思われます。

【民主主義は独裁への道を開くことになりかねない】
小学校の先生に教わった民主主義とは、要するに多数決のことだった。ほんとうに多数決がいちばんよい制度なのか、その頃から疑問だった私は、どうして多数決がいいんでしょうと先生に質問したことを覚えている。先生は質問に答える代わりに、どこがいけませんかと私に質問を返した。民主主義と多数決を同じものにすればどんな問題が発生するのか、小学校五年生の私は答えることができなかった。半世紀経ったいまも自信はない。でもあえて答えるなら、多数決だけの民主主義から取り残されるのはマイノリティーの問題だと思う。多数決によって選挙や議会の投票結果が決まったとしても、負けた側がその決定に従わなければ制度は成り立たない。今度は負けても次の機会には自分が勝つことが期待できるのであれば、自分に不利な決定を受け入れることもできるだろう。だれが多数派で誰が少数派かが固定していない場合、多数決は必ずしも不合理な制度ではない。それでは、国民の一部に過ぎない少数民族とか宗教など、人口が少ないために国内社会の多数となることができない人についてはどうだろう。民族や宗教によって差別されることがなく、それが政治の争点となっていなければともかく、民族や宗教の違いによる差別が厳しい場合には紛争の発生は免れない。政治社会の決定が多数決によって行われ、その多数決が多数派の考えばかりを反映するなら、少数派が迫害の排除を求めても成果は期待できない。制度によって解決ができないのであれば、力に訴える人も生まれてしまう。多数決だけに頼る民主主義だけでは多数派と少数派が共存する社会をつくることは難しい。欧米諸国における民主主義は、決して多数決だけを指すものではなかった。森政稔氏が「
変貌する民主主義」(ちくま新書)で触れているように、現代の民主主義は自由主義を源流として、そこに民主政治という統治の仕組みが加わったものとして捉えることができる。もし民主主義が政治権力を多数派の手に委ねるだけのものであるなら、民主主義が独裁への道を開くことになりかねない。民主政治の前提は多数派と少数派の別を問わない自由な公共社会である。(略)既に自由主義は、自分の自由とともに他者の自由を認める制度ではなく、国家が市場から出て行けば自由な社会が保たれるという観念となって久しい。いま民主主義は、自由な公共社会における統治の仕組みではなく、多数派が少数派を排除する制度の別名に変わろうとしている。(藤原帰一「朝日新聞 時事小言」2016年8月24日

【山中人間話目次】
・国民の自信と誇りを高めるオリンピック報道?~NHKの国策翼賛体質はここにも~ 醍醐聰のブログ
・自称「民主主義者」の呆れるばかりの目の不確かさについて 
・WPはトランプ支持を表明したジュリアーニ元NY市長の言動がおかしく、陰謀論満載の話ばかりをするので「お医者さんに行くべきだ」と諭している
・サンダースが「私たちの革命」という新しい組織を立ち上げた
キョウ ひろしま6

Blog「みずき」:広島市立大学広島平和研究所所長を6年間つとめた浅井基文さんの「広島への思い」はいま、「私たちは、大江健三郎氏の『ヒロシマ・ノート』で理想化されたヒロシマを今日に至るまで「現実にある広島」と勝手に思い込んでいます。しかし、現実の広島は、「非核3原則と「核の傘」」の絶対矛盾にも正面から異議申し立てするだけの認識と勇気を持ち合わさず、オバマ訪広をひたすら歓迎するだけの、日本の他の大都市と何の変哲もない土地に成り下がってしまっている」、と断罪するまでに到っています。このように「わが広島」を断罪しなければならない浅井さんの無念は察するにあまりあるものがあります。浅井さんはその無念の思いを重ねて次のようにも言います。「日本国内では、オバマ大統領の「核の先制不使用」発言に飛びつき、これを評価する傾向があります」。「しかし、このような議論は、アメリカの核戦略の本質を踏まえない、「木を見て森を見ず」の典型と言わなければなりません」、と。オバマ大統領の「核の先制不使用」発言を評価する傾向のひとつの典型例としては先日ご紹介した田中宇さんの論などをあげることができるでしょう。私は浅井基文さんの無念の思いに共感します。それは、浅井さんの問題提起をしっかりと受け止めるということでもあるでしょう。

【日本国内の世論状況は絶望的なまでに「甘っちょろい」】
7月30日付のコラムで、「オバマ氏は任期の最後に「核の先制不使用を含む核政策の重要な調整」を検討しているといいます。広島訪問で刺激を受け、「核なき世界」という初心に立ち返る衝動に駆られたのかもしれません」と指摘し、しかし、「オバマ氏の核政策の再検討は共和党の強硬な反対に直面しており、安易な期待は禁物です。それに「先制不使用」は、米国内のみならず、米国の「核の傘」にしがみつく安倍政権、韓国・朴政権の強い反発で実現できない可能性が高いと考えざるを得ません」とも指摘して、日本国内が安易な「期待」を持つことは早計だという私の判断を示しておきましたが、その後の流れは私が指摘したように動いているようです。「先制不使用」に関しては、アメリカ国内では、共和党は当然のこととして、米軍部さらにはケリー国務長官なども反対していると報道されています。安倍首相も、ハリス米太平洋軍司令官との会談の中で、「朝鮮に対するデタランスが弱まる」ことを理由として反対したことが伝えられました(ただし、8月21日付朝日新聞によれば、安倍首相はそういう発言を行ったことを否定。もっとも自らの考えを示すこともなし)。(略)

日本国内では、オバマ大統領の「核の先制不使用」発言に飛びつき、これを
評価する傾向があります。そして、これに抵抗する安倍首相や外務省を批判することにつながっています。しかし、このような議論は、アメリカの核戦略の本質を踏まえない、「木を見て森を見ず」の典型と言わなければなりません。確かに、すでに指摘したとおり、朝鮮半島における核戦争の危険性を少しなりとも減らす可能性があるという点で(また、その点に限って)、オバマの思いつき発言を肯定的に評価する余地はあります。しかし、朝鮮を敵視し、朝鮮をして極度に警戒させ、身構えさせるという点で、2期にわたるオバマ政権はそれ以前の政権に勝るとも劣らない強硬な政策を行ってきましたし、その政策は、「核の先制不使用」が仮に実現したとしても、微動だにしないのです。金正恩政権が核開発と経済建設の並進路線を戦略として据え付けたのは、オバマ政権の対朝鮮敵視政策に最大の原因があります。また、オバマ政権がミサイル防衛政策を積極的に推進してきたことは、ロシアそして今や中国の警戒感を高め、核軍拡競争再発の引き金になろうとしています。「核のない世界」というビジョンを打ち出したオバマに期待を抱き、広島を訪問したオバマに核廃絶への誠意を確認しようとする日本国内の世論状況は絶望的なまでに「甘っちょろい」のです。

私は、広島で仕事をした6年間、日本人の曖昧を極める核意識について考え続けました。広島には日本人の曖昧な核意識を正す答があるのではないかという期待もありました。しかし、結論から言えば、「広島は日本の縮図」であるということでした。私たちは、1960年代に書かれた大江健三郎氏の『
ヒロシマ・ノート』で理想化されたヒロシマを今日に至るまで「現実にある広島」と勝手に思い込んでいます。しかし、現実の広島は、「非核3原則と「核の傘」」の絶対矛盾にも正面から異議申し立てするだけの認識と勇気を持ち合わさず、オバマ訪広をひたすら歓迎するだけの、日本の他の大都市と何の変哲もない土地に成り下がってしまっているのです(略)。今回のオバマの「核の先制不使用」という思いつき発言をめぐって国内で起こっている現象も、要するにこれまでと何の変わりもありません。私としては、せめて以上に紹介した核デタランスに関する基本的論点を基礎に据えた、私たちの核意識を根底から問い直す議論が起こることを望むのですが、それはやはり「高嶺の花」でしょうか。(浅井基文のページ 2016.08.25

【山中人間話目次】
・「極秘メモ」が語る加害企業救済の手口と「水俣の教訓」 - アリの一言
・NHKスペシャル<日本人はなぜ戦争へと向かったのか> 第3回 「“熱狂”はこうして作られた」
・長崎原爆朝鮮人被爆者追悼早朝集会メッセージ:高實康稔-Peace Philosophy Centre 
キョウ もりかわすいめい

Blog「みずき」:「今日の言葉」は森川すいめいさんの言葉と森川文人さんの言葉のアンサンブル。その中に言葉と言葉をつなぐ私の説明が少し入り混じっています。モザイク模様。モザイクも一葉の絵画。その絵画の価値は、それこそ「自分はどう感じ、自分はどう反応するか」で決まる、と思っての「今日の言葉」です。


【三宅洋平と安倍昭恵の「対話」は対話たりえるか
弁護士の森川文人さんは森川さんの甥の森川すいめいさんの『
その島のひとたちは、ひとの話をきかない 精神科医、「自殺希少地域」を行く』という著作から以下の言葉を引用しています。

「相手のことば、行動、変化を見て、自分はどう感じ、自分はどう反応するかが決まる。それによって相手をどうこうしようとはしない。自分がどう変わるかである。その変わった自分を、またその相手は見ることになる。その相手はまた、変化した自分を見て、それに反応するようにして変わっていく。「自分がどうしたいか」それだけである。それだけでいい。「この島のひとたちは、ひとの話をきかない」と、外の島からきた若者は言ったのだが、それは、この島の本質と思われた。対話をしていくこと。ただ対話をしていくこと。相手を変えようとしない行動。しかし、結果として何かは変わるかもしれない。ただ対話する。変えられるのは自分だけである。」

そして、森川さんは、甥の森川すいめいさんの言葉の対極にある言葉として安倍首相夫人の昭恵氏の以下の言葉を
引用しています。

「『どんなに甘いと言われようが、バカだと言われようが、私はどんな人とも仲良くなれると信じている。世界が平和になるためには、まずは日本のなかが、心ひとつに。和を以て貴しと為す。三宅洋平さん、公邸でお待ちしてます!』との投稿メッセージが安倍首相の夫人昭恵氏から発信され、そこから『対話』が始まったとのこと。」

そのうえで森川さんは「
三宅洋平さんと安倍昭恵さんの対話」を次のように批判します。

「対話」というあり方を否定するわけではありませんが、こと国家権力(そう、暴力を我々から取り上げ、合法的に独占している国家権力と、です。)とことを構えるのであれば、それなりの気構えと難事に当たっているという意識を持つべきであり、「なんでも対話で解決する」なんて抽象的に言われると、この「世界」の非和解的な不平等化の現実を知っているのかい?そして、さらには、厳しい刑事法廷での「対決的対話」を知っているのかい?と言いたくはなるのです。(
森川文人のブログ 2016-08-24

【山中人間話目次】
・この50年の間の社会の右傾化、とりわけサヨクの右傾化は凄まじい。
・TBS「報道の魂 米軍が最も恐れた男~あなたはカメジローを知っていますか?~」「カメジロー沖縄の青春」と加藤哲郎さんの「新たに発見された「沖縄・奄美非合法共産党文書」について」
・SEALDs関連問題についての核心をついた問題提起(ブログ評価は別の問題です)
・根拠不明な情報の発信の危険性について
・田中利幸さんの今年の広島、長崎の平和集会参加、広島現代美術館「1945年±5年」展見学などの報告。
・東村高江、地元紙記者強制排除問題。沖縄県マスコミ労組協議会が抗議声明
キョウ かんし

Blog「みずき」:昨年の2015年7月3日づけの沖縄タイムスに掲載された神奈川新聞記者が書いたコラム記事(タイトルは沖縄タイムス編集部がつけたもので、「神奈川新聞の記者が見た辺野古「監視」の現場」)ですが、「今日」のことにも通用する論点といってよいでしょう。ジャーナリストとは本来馴らされていくことに本能的な危惧を感じる人種の謂いではなかったか。しかし、いまはそのジャーナリストの本能的な「危機(を感じる)精神」はほとんど失せてしまった。どこに行ったか? そうしたジャーナリストの自問自答がここにはあります。そして、その自問自答をジャーナリズム、ジャーナリストへの読者の信頼の担保として私は支持します。

【素人の質問だったのかもしれない。だが、素人であり続けたいとも思う】
好奇の視線が、周囲の記者から向けられているような気がした。6月12日、沖縄防衛局長の記者会見。私は一つの質問をした。「辺野古での警戒監視活動に当たっている方がビデオカメラを回しているのはなぜなのか。理由を教えていただきたい」前日、辺野古の海で取材をした際に、沖縄防衛局が雇う民間警備会社の社員にビデオカメラで撮影された。同局が示す「臨時制限区域」には入っておらず、激しい抗議活動が行われているわけでもなかった。撮影をする理由、カメラを取材陣に向ける目的を聞きたかった。同局の職員は「安全確保のために、警戒の一環で行っている」と説明したが、撮影する理由にはなっていないと考え、後日あらためて正式な回答をもらうことにした。会見終了後、地元の県政記者クラブに所属すると思われる全国紙の記者が声を掛けてきた。「ビデオ撮影は日常茶飯事。当たり前に行われ過ぎていて、沖縄にいるとおかしいと思わなくなってしまう」その一言に、好奇な視線を感じたのはそのためだったのかと納得がいった。沖縄ではもはや「当たり前のこと」で、それをあえて聞く記者はいないのだと。記者11年目。取材時に、理由も示されず、カメラを向けられたことは一度もない。辺野古の海で初めて自らが「監視の対象」となったとき、不快な思いと怒りがこみ上げた。本来であれば異常といえる行為が、日常のように繰り返されている。「沖縄では権力が露骨に表れる」。以前、沖縄タイムスの記者に言われた言葉が思い出された。私の質問は、素人の質問だったのかもしれない。だが一方で、素人であり続けたいとも思う。辺野古の地元漁師は言った。「撮られた画像がどうなっているのか。俺らは調べたくても調べられない」画像の取り扱いはどうなっているのか。沖縄防衛局には、新たに一つの質問を含め、回答をもらうことにした。(
沖縄タイムス 2015年7月3日

【山中人間話目次】
・「知事は賛否明言せず」(「沖縄タイムス」2016年8月22日)ということでよいのか?
・北海道医療大学教授の向谷地生良さんの相模原障害者施設殺傷事件の背後には現在のニッポン社会の悪質な言葉や言説の氾濫があるという指摘
・田中宇さんのオバマ賛辞の論への違和
キョウ まっかーさ2

Blog「みずき」:アリの一言氏はこの文章の「結語」を「天皇明仁の「生前退位」問題で、天皇制美化が強まっているいま、「国体=天皇制護持」のために沖縄をアメリカに売り渡して軍事基地化した天皇裕仁の歴史的責任(略)を忘れるわけにはいきません」という指摘で結んでいます。「今日の言葉」のポイントはまさにそこにあるといえるでしょう。


【「1945-1946」は沖縄にとって「空白の1年」ではなかった】
20日夜放送されたNHKスペシャル「
沖縄空白の1年~〝基地の島”はこうして生まれた」は、沖縄戦直後のアメリカ軍や連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の占領政策を描きました。それを象徴するのが、マッカーサーの「アメリカ軍による沖縄の占領に日本人は反対しない。なぜなら沖縄人は日本人ではないのだから」(番組では説明はありませんでしたが、1947年6月27日のアメリカ人記者との会見での発言)という言葉で、番組はそこで終わりました。マッカーサーの沖縄差別政策は事実ですが、番組には決定的な欠陥がありました。それは、「〝基地の島”はこうして生まれた」の核心的回答、すなわち沖縄を軍事基地化するうえで果たした日本、とりわけ天皇裕仁(昭和天皇)の責任をまったく捨象したことです。そもそも沖縄戦自体、戦争終結を提言した「近衛上奏」(1945年2月14日)に対し天皇が「もう一度戦果を挙げてから」と終戦を引き延ばし、「国体=天皇制」維持のための時間かせぎに沖縄を「捨て石」にしたものでした。そして戦後、初の帝国議会選挙(45年12月)で、沖縄県民は選挙権をはく奪され、新憲法の議論、採択から完全に排除されました。

天皇裕仁はマッカーサーとの
第1回会談(1945年9月27日)以降、自らの戦争責任が東京裁判で追及されるのを回避し、同時に新憲法に「天皇制」を残すことに腐心しました。先のマッカーサーの「アメリカ軍の占領に日本人は反対しない」発言の約1カ月前(47年5月6日)にも、天皇裕仁はマッカーサーと会っていました。「彼(天皇ー引用者)は…安全保障の問題に強い関心を示した。元外交官の松井明によれば、天皇が最高司令官に『米国が日本を去ったら、誰が日本を守るのか』と尋ねたところ、マッカーサーは日本の国家的独立をあっさり無視して、われわれが『カリフォルニア州を守るごとく日本を守る』と答え、国際連合の理想を強調したという。…彼はすでに…日本は沖縄をアメリカの広大で恒久的な軍事基地にすることで守られると考えていたのである」(ハーバート・ビックス著『昭和天皇(下)』講談社学術文庫)

マッカーサーの「日本人は反対しない。沖縄人は日本人ではないから」発言が、この時の天皇裕仁との会談(天皇の発言)と深くかかわっていたことは間違いないでしょう。それを証明する事実が、その3カ月後に露呈します。天皇裕仁の「
沖縄メッセージ」(1947年9月20日)です。天皇は宮内庁の寺崎英成、GHQのシーボルトを通じてマッカーサーと米国務長官に次のような意向を伝えたのです。「天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである」(『昭和天皇実録』)これがやがて「サンフランシスコ講和条約第3条」(1951年9月調印)による沖縄の軍事基地恒久化へつながったことは改めて言うまでもありません。「1945-1946」はけっして沖縄にとって「空白の1年」ではありませんでした。そこにはアメリカの軍事占領政策とともに、それと呼応した、いやむしろそれを誘導した天皇裕仁と日本政府・議会の沖縄差別・植民地政策が連綿と続いていたのです。天皇明仁の「生前退位」問題で、天皇制美化が強まっているいま、「国体=天皇制護持」のために沖縄をアメリカに売り渡して軍事基地化した天皇裕仁の歴史的責任(略)を忘れるわけにはいきません。(アリの一言 2016年08月22日

【山中人間話目次】
・「1945ー1946 沖縄 空白の1年〜 “ 基地の島 ” はこうして生まれた〜」「NHKスペシャル」2016.08.20.放送
・辛淑玉さん、いいこと言っているのですがね
・平安名純代さんの「何か変化が起こる時、その背後には事態を動かした「人」がいるものです」
・むのたけじさん追悼再放送「 伝説のジャーナリストの遺言」
キョウ おきなわ10

Blog「みずき」:辺野古・違法確認訴訟に関して、先日の仲宗根勇さん(元裁判官、沖縄在住)に続いて澤藤統一郎弁護士(東京在住)も多見谷寿郎裁判長の訴訟指揮に深甚な疑義を提起しています。翁長知事と沖縄県弁護団はこのおふたりの革新的法曹のベテランの問題提起をどう受けとめるか? あるいは受けとめうるか? その誠実な対応が問われています。

【極めて問題の大きな訴訟指揮が行われている】
国が沖縄県を訴えた「辺野古・違法確認訴訟」が昨日(8月19日)第2回口頭弁論で
結審した。7月22日提訴で8月5日に第1回口頭弁論。この日、判決までの日程が決まった。そして、決まった日程のとおりわずか2回の期日での結審。9月16日には判決言い渡しとなる。異例の早期結審・早期判決というだけではない。極めて問題の大きな訴訟指揮が行われている。果たして公正な裁判が行われているのだろうか。納得しうる判決が期待できるのだろうか。(略)この間における国の協議拒否の姿勢の頑なさは尋常ではない。代執行訴訟の和解は今年の3月4日金曜日だった。誰もが、これから県と国との協議が始まる、と考えた。ところが、土・日をはさんで7日月曜日には、国は協議の申し入れではなく、県に対して「承認取消を取り消す」よう是正の指示を出している。国は、飽くまで辺野古新基地建設強行の姿勢を変えない。「代執行訴訟における和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとしているではないか。県は一貫して国との間に真摯な協議の継続を求めており、不作為の違法と評される謂われはない」とするのが県の立場。衆目の一致するところ、先行した代執行訴訟での原告国の勝ち目は極めて薄かった。

この訴訟での国の敗訴で国が辺野古新基地建設を終局的に断念せざるをえなくなるわけではないが、国にとっては大きな痛手になることは避けられない。裁判所(福岡高裁那覇支部・多見谷寿郎裁判長)は、強引に両当事者に和解案を呑ませて、国を窮地から救ったのではないのだろうか。国は敗訴を免れたが、埋立工事の停止という代償を払わざるをえなかった。以来、工事は止まったままだ。国は新たな訴訟での勝訴確定を急がねばならない立場に追い込まれている。裁判所の審理促進は、このような国の立場を慮り、気脈を通じているのではないかと思わせる。裁判所が異様な審理のあり方を見せたのは、まずは被告となった県側が答弁書を提出する前に争点整理案を提示したことである。裁判の大原則は当事者主義である。裁判所は両当事者の主張の範囲を逸脱した判決は書けない。だからまずは両者の言い分によく耳を傾けてからでなくては争点の整理はできない。答弁書提出前の争点整理など非常識で聞いたことがない。これではまるで昔のお白州並みだ。原告の審理促進の要望に肩入れしていると見られて当然なのだ。(
澤藤統一郎の憲法日記 2016年8月20日

【山中人間話目次】
・澤藤統一郎さんの「『辺野古・違法確認訴訟』ーはたして公正な裁判が行われているのか」全文
・伊勢﨑賢治よ。なにを言ってやがる
・太田昌国さんの「深沢七郎よ、ふたたび・女性天皇論の台頭を前に」
・平安名純代さんの沖縄の「草の根の闘い 米で共感」(沖縄タイムス8月21日付)の記事
キョウ おきなわ10

Blog「みずき」:翁長沖縄県知事はもはや辺野古新基地建設反対運動のリーダー足りえないことは明白になっているというべきではないか。辺野古裁判闘争の一連の経過はますますそのことを明白化している。アリの一言氏が今回の「違法確認訴訟」の事例を通して指摘していることもそういうことでしょう。翁長県知事を誕生させる原動力となったオール沖縄体制の認識の甘さがいまになってどうしようもない形で露呈化している、というのがいまの沖縄の現実ではないか。私たちはその現実から目をそらすべきではないでしょう。


【尋問で明らかになった翁長知事の安倍政権への屈服姿勢】
「辺野古埋立承認取り消し」をめぐり国が沖縄県を提訴した「違法確認訴訟」は19日結審し、来月16日に判決が出ることになりました。この日は翁長雄志知事に対する本人尋問が行われました。尋問やその後の記者会見であらためて明らかになったのは、翁長氏の政府(安倍政権)に対する卑屈な屈服姿勢でした。「本人尋問で翁長知事は、新基地建設問題を解決するため国と協議する重要性を強調。…和解後の国との協議について『本質的な議論はなかった』と指摘」(20日付琉球新報)しました。そして、「約1時間40分に及ぶ尋問を終えると笑みをこぼし『裁判所に協議の重要性を伝えることができた』と落ち着いた表情を浮かべた」(20日付沖縄タイムス)といいます。裁判所に対して、国との協議の「重要性」とその不十分さを訴えたことで笑みをこぼすほどの満足感を得たようです。おかしな話です。協議が不十分だと裁判所に訴えて何が解決するでしょうか。訴えるべきは協議相手の国(安倍政権)ではないでしょうか。不十分だというなら、なぜその場で国に抗議し、「本質的な議論」をしよう提起しなかったのか。なぜ言うべき時に、言うべき相手に、言うべきことを言わなかったのか。翁長氏が実際にやったことは、まるで逆の政府への迎合でした。

例えば7月21日の政府・沖縄県協議会。菅官房長官は記者会見で、「和解条項の趣旨に照らし、あす(7月22日)地方自治法に基づき(沖縄県を)提訴すると伝えた。…(翁長)知事からは『異存はない』との発言があった」(7月22日付琉球新報)と明らかにしました。この時のようすを19日の尋問で翁長氏自身がこう述べています。「15分という時間、集中協議の中でとても話し合える時間ではない。もっと時間下さいという話したら、精いっぱいだから、15分で勘弁してくださいと。その中で発言の順序決まって、話の内容も決まった。異論もあったが、政府が提訴しますよというのはもともと聞いていたから、事実確認レベルで『はい』と言った」(20日付琉球新報)政府の言うままになって、「はい」と言ったと認めています。こうした翁長氏の姿勢に対し、19日の尋問後の記者会見で、「県側のアプローチが足りなかったのでは」という当然の質問が出ました。これに対し翁長氏は、「それを言われたら。あなたは国家権力を知らない」と質問した記者に対して気色ばみ、こう言いました。「あのとき(政府・沖縄県協議会ー引用者)は信頼関係も大切だから、基地の問題は言うなと言われているとはあそこ(協議会後のぶらさがり会見ー引用者)では言えなかった。これを言ったらまたどういう波及効果が出てくるのか。だから国と県の大きさの違いというのを踏まえながらの話でご理解をいただきたい。言いたい放題言えるなら、もう少しましなもの(協議ー引用者)になっているのではないか」(20日付琉球新報)

これは驚くべき発言です。①政府・沖縄県協議会で政府から「基地の問題は言うなと言われてい」た②その「信頼関係」を大切にして記者会見では言わなかった(政府の指示通りにして情報を隠ぺいした)③もし指示に従わなかった場合の「波及効果」を心配した(報復を恐れた)④「国と県の大きさの違い」を踏まえる必要があるーというのです。なんという卑屈な屈服でしょうか。卑屈なだけではありません。「国と県の大きさの違いというものを踏まえ」なければならないとは、「国と地方自治体は対等」とする改正地方自治法の基本精神に反すると言わねばなりません。これが「国家権力」を知っている、根っからの「保守」である翁長氏の実体です。こうした知事のもとで、辺野古、高江など沖縄に新基地を造らせないために、安倍強権政権と正面からたたかうことができるでしょうか。(
アリの一言 2016年08月20日

【山中人間話目次】
・辺野古違法確認訴訟が結審、来月16日判決
・仲宗根勇さん(元裁判官)の国の翁長知事を相手方とする違法確認訴訟の問題点の解説と沖縄県への問題提起(再掲)
・文芸評論家の加藤典洋と作家の高橋源一郎の「天皇陛下」観
キョウ おばま8

Blog「みずき」:春名幹男さん(元共同通信特別編集委員、早大客員教授)が「オバマは本当に被爆者の心に寄り添ったのか」と自らに発問した上で、「オバマ広島訪問」に隠された米国のほんとうの意図を明らかにする論攷を書いています。春名さんは、もともとの本職はジャーナリストらしいタッチで事実を積み重ねた上で、オバマ訪広の真の意図は、日本をこれまでどおりにアメリカの従属的位置に置くための対日心理戦略の一環でしかなかったことを明らかにしています。「アメリカが原爆を投下した事実さえ認めなかった」、「反戦を掲げて就任しながら、2期8年の最初から最後まで戦争を続けた唯一の大統領として来年1月退任する」というのは、春名さんのオバマ評価のしめくくりの言葉です。

【森さんには米側、坪井さんには日本側の通訳と別々に通訳がついていた】
日米間の打ち合わせで双方が最も神経質にやりとりしたのは、大統領と被爆者の交流の場面とみられる。最終的には、オバマ大統領が被爆者の
森重昭さん(79)を抱きしめたシーンが、大統領の広島訪問を象徴する「絵」になった。恐らく、歴史的にも今後繰り返し使われるシーンになるだろう。だが、この場面には演出があった。大統領と交流する被爆者に選ばれたのは、森さんと日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の坪井直代表委員(91)だった。米側は事前に、森さんを「親米」、坪井さんを「反米の可能性も」と色分けしていた可能性がある。それが証拠に、森さんには米側、坪井さんには日本側の通訳、と別々に通訳が付いていた。最初に話した坪井さんの言葉を聞いて、大統領は体をくねらせ、笑顔を見せた。来たばかりなのに「大統領退任後も広島に来てください」と注文を付けられ、笑ってごまかしたのではないだろうか。だが、被爆死した米兵捕虜12人の遺族を取材した森さんには優しくねぎらい、抱き寄せた。最初から親しく話そうとしたようだ。米側はこれで成功、と考えたのではないか。

スピーチをまとめるなどの中心的な役割を担ったのは、オバマ・ホワイトハウスの
スピンドクターベン・ローズ国家安全保障問題担当副補佐官だった。彼の公式の任務は、「戦略広報兼スピーチライター」だ。この人物、実はオバマ広島訪問発表の直前に、深刻なスキャンダルに見舞われていた。5月5日付『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』に掲載された「オバマ外交政策の権威と化した、上昇中の小説家」と題する記事で、昨年のイランとの核合意をめぐる広報で、合意に至った経緯を作り話をまじえた「物語」に仕立て上げ、反核団体を使って合意を宣伝した事実を自慢げに明らかにした。インタビューでは「ワシントンの記者たちは何も知らない」と彼自身、記者たちを小バカにしていた。今年39歳。小説家を志望し、ニューヨーク大で文学を学んだ後、ハミルトン元下院外交委員長補佐官として米同時中枢テロ独立調査委員会などの調査と報告書作成に携わった経験を経て2008年大統領選以来、オバマ氏のスピーチライターを務めてきた。彼は広島スピーチでも創作した。通例の手続きに従って、ローズ氏が大統領の意見を聞いて第1稿を書き、国務・国防・エネルギーの関連各省、中央情報局(CIA)などに回覧して、問題箇所を削除してもらい、最終稿をまとめたと伝えられている。このスピーチの中で多くの被爆者が違和感を覚えたのは最初の部分だった。「空から死が降ってきて世界は変わった」と、アメリカが原爆を投下した事実さえ認めなかったことだ。ロシアと張り合って大統領の広島訪問を実現し、スピーチで米世論を刺激しなければ及第点。そんな表現を入れ、抽象論で終始しても日本人は喜ぶ――とでも考えたのだろうか。

共同通信の報道によると、長崎の2016年
平和宣言起草委員会では、「原爆投下を自然現象のように語り、過ちを認めていない」などとする批判が出た。当初の宣言案では、大統領が森さんと抱き合った姿を「人々に感動を与えた」としていたが、反対の意見が出て、「感動」の表現は削除されたという。やや場違いな表現だが、日本人として一矢を報いたと言えるかもしれない。帰国後、ローズ補佐官は自分のブログに、大統領が自ら直前までスピーチ原稿を推敲していた、として手書きの書き込みが入ったペーパーをアップした。ローズ補佐官の狙い通り「大統領が自ら関与」、とほとんどのメディアが報道したが、別にヒューマンな内容に変わったわけではなかった。オバマ大統領は、特に人道主義者ではない。反戦を掲げて就任しながら、2期8年の最初から最後まで戦争を続けた唯一の大統領として来年1月退任する。(春名幹男 Foresight(フォーサイト) 2016年8月19日

【山中人間話目次】
・春名幹男さんの「『オバマ広島訪問』に隠された米国の意図」という論攷
・澤藤統一郎さんの「へそまがり宣言」の論に呼応する内橋克人さんの「日本型同調主義」批判の論
・いまもなお太平洋戦争が要因となった精神疾患で療養中の患者は13人いる。数十年間退院できないケースもあるとみられる
・仲宗根勇さん(元裁判官)の国の翁長知事を相手方とする違法確認訴訟の問題点の解説と沖縄県への問題提起
・かつてサイードは「知識人」について次のように言った
キョウ さがみはらじけん7

Blog「みずき」:辺見庸相模原事件考。誰も言わないこと、見ていないところに光を当てて、そのの下の鋭角、あるいは鈍角の面をあぶり出していくというのが辺見の論の特徴ですが、今回は辺見も同事件の相をつかみかねているようです。「のどもとにせりあがってきているものはある。それを言葉にしようとする。言葉がボロボロとくずれる。その”芯”を語ろうとしても、どうしてもうまく語りえないだけでなく、わたしの内奥の穴が、仮説という仮説をのみこんでしまうのだ」、と。辺見に限らず私たちに残された人間の方途としては「夜中に思わず嗚咽」してしまうことくらいでしょうか。それくらい今回の事件の性質は語り難く、語り得難い諸相を持っています。私たちは沈思して、いまはしばらく辺見の語るところ、語り得難いところに耳を澄ましてみることにしたいと思います。辺見の「すべての人間は障害者である。」というD.cultureのインタビュー記事もよろしければご参照ください。


【誰が誰をなぜ殺したのか(下) ――痙攣する世界のなかで 】
目をそむけずに凝視するならば、怒るより先に、のどの奥で地虫のように低く泣くしかない悲しい風景が、世界にはあふれている。「日本で生活保護をもらわなければ、今日にも明日にも死んでしまうという在日がいるならば、遠慮なく死になさい!」。先だっての都知事選の街頭演説で、外国人排斥をうったえる候補者が、なにはばからず声をはりあげ、聴衆から拍手がわいたという。
かれは11万4千票以上を得票している。わたしの予想の倍以上だ。これと相模原の殺傷事件の背景を直線的にむすびつけるのは早計にすぎるだろう。けれども、動乱期の世界がいま、各所で原因不明のはげしい痙れん症状をおこしているのは否定できない。あの青年が衆院議長にあてた手紙には、愛と人類についての考えが、こなごなに割れた鏡のかけらのように跳びはねている。「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意……」の文面が、ガラス片となって目を射る。「全人類が心の隅に隠した想い」とは、ぜんたいの文脈からして、重度障がい者の「抹殺」なのである。障がい者 は生きるに値せず、公的コストがかかるから排斥すべきだというのが、人びとが「心の隅に隠した想い」だというのだろうか。これが「愛する日本国、全人類の為」というのか。ひどい、ちがう!と言うだけならかんたんである。凶行のあったその日も、その後も、世界はポケモンGOの狂騒がつづき、テレビは「真夏のホラー(映画)強化月間」に、リオ五輪中継。リアルとアンリアルのつなぎ目がはっきりしない。そう言えば、善意と悪意の境界もずいぶんあいまいになってきた。障がい者19人を手ずから殺めた青年に、犯行の発条(ばね)となる持続的な悪意や憎悪があったか、いぶかしい。戦慄すべきは、殺傷者の数であるよりも、これが「善行」や「正義」や「使命」としてなされた可能性である。

惨劇の原因を、たんに「狂気」に求めるのは、一見わかりやすい分だけ、安直にすぎるだろう。「誰が誰をなぜ殺したのか」の冷静な探問こそがなされなければならない。世界中であいつぐテロもまた「誰が誰をなぜ殺したのか」が、じっさいには不分明な、俯瞰するならば、人倫の錯乱した状況下でおきている痙れんである。そうした症状はなにも貧者のテロのみの異常ではない。米軍特殊部隊は2011年、パキスタンでアルカイダ指導者
ウサマ・ビンラディンを暗殺したが、その前段で、中央情報局(CIA)のスパイがポリオ・ワクチンの予防接種をよそおってビンラディン家族のDNAを採取していたことはよく知られている。ワクチン接種がポリオ絶滅のためではなく、暗殺のために利用されたのだ。結果、パキスタンでポリオの予防接種にあたる善意の医療従事者への不信感がつのり、反米ゲリラの標的となって殺される事件がことしもつづいている。ポリオ絶滅は遅れている。それでも米政府はビンラディン殺害を誇る。「米国の正義」を守ったとして。正義と善意と憎悪と "異物" 浄化(クレンジング)の欲動が、民主的で平和的な意匠をこらし、世界中で錯綜し痙れんしている。7月26日のできごとはそのただなかでおきた、別種のテロであるとわたしは思う。あの青年は "姿なき賛同者" たちを背中に感じつつ、目をかがやかせて返り血を浴びたのかもしれない。かれが純粋な「単独犯」であったかどうかは、究極的にかくていできはしない。石原慎太郎元東京都知事は、前世紀末に障がい者施設を訪れたときに、「ああいう人ってのは人格があるのかね」と言ってのけた。新しい出生前診断で "異常" が見つかった婦人の90%以上が中絶を選択している――なにを物語るのか。「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の二分法的人間観は、いまだ克服されたことのない、今日も反復されている原罪である。他から求められることの稀な存在を愛することは、厭うよりもむずかしい。だからこそ、その愛は尊い。青年はそれを理解する前に、殺してしまった。かれはわれらの影ではないか。(辺見庸「琉球新報」2016年8月12日

【山中人間話目次】
・【記事写真】辺見庸の「相模原・津久井やまゆり園事件」誰が誰をなぜ殺したのか(下)
・内野光子さんの「私の歌壇時評」~歌人は、沖縄とどう向き合うのか
キョウ さがみはらじけん6  
Blog「みずき」:辺見庸相模原事件考。誰も言わないこと、見ていないところに光を当てて、そのの下の鋭角、あるいは鈍角の面をあぶり出していくというのが辺見の論の特徴ですが、今回は辺見も同事件の相をつかみかねているようです。「のどもとにせりあがってきているものはある。それを言葉にしようとする。言葉がボロボロとくずれる。その”芯”を語ろうとしても、どうしてもうまく語りえないだけでなく、わたしの内奥の穴が、仮説という仮説をのみこんでしまうのだ」、と。辺見に限らず私たちに残された人間の方途としては「夜中に思わず嗚咽」してしまうことくらいでしょうか。それくらい今回の事件の性質は語り難く、語り得難い諸相を持っています。私たちは沈思して、いまはしばらく辺見の語るところ、語り得難いところに耳を澄ましてみることにしたいと思います。辺見の「すべての人間は障害者である。」というD.cultureのインタビュー記事もよろしければご参照ください。

【誰が誰をなぜ殺したのか(上)――惨劇がてりかえす現在】
わたしらは体に大きな穴を暗々(くらぐら)とかかえて生きている。その空しさにうすうす気づいてはいる。しかし突きとめようとはしない。穴の、底なしの深さを。かがみこんで覗きでもしたら、だいいち、なにがあるかわかったものではない。だから、アナなどないふりをする。空しさは空しさのままに。穴は穴のままに、ほうっておく。いくつもの穴を開けたまま笑う。うたう。さかんにしゃべる。穴ではなく愛について。ひきつったように笑い、愛をうたい、空しくしゃべる。黒い穴の底に、愛がころがり落ちていく。
相模原の障がい者殺傷事件の容疑者はとっくにつかまっている。だが、誰が、誰を、なぜ殺したのか―― この肝心なことが正直よくわからない。のどもとにせりあがってきているものはある。それを言葉にしようとする。言葉がボロボロとくずれる。白状すると、わたしは夜中に思わず嗚咽してしまった。闇にただよう痛ましい血のにおいにむせたのではない。人間にとってこれほどの重大事なのに、その”芯”を語ろうとしても、どうしてもうまく語りえないだけでなく、わたしの内奥の穴が、仮説という仮説をのみこんでしまうのだ。それで泣けてきた。惨劇からほのかに見えてくるのは、人には①「生きるに値する存在」②「生きるに値しない存在」―― の2種類があると容疑者の青年が大胆に分類したらしいことだ。この二分法じたいを「狂気」と断じるむきがあるけれども、だとしたら、人類は「狂気」の道から有史以来いちども脱したことがないことになりかねない。生きるに値する命か否か―― という存在論的設問は、じつのところ古典的なそれであり、論議と煩悶は、哲学でも文学でも宗教でもくりかえされ、ありとある戦争の隠れたテーマでもあったのだ。

たぶん、勘違いだったのだろう。自他の命が生きるにあたいするかどうか、という論議と苦悩には、これまでにおびただしい代償を支払い、とうに決着がついた、もう卒業したと思っていたのは。それは決着せず、われわれはまだ卒業もしていなかったのである。あらゆる命が生きるに値する―― この理念は自明ではなかった。深い穴があったのだ。考えてもみてほしい。あらゆる命が生きるに値すると無意識に思ってきた人々でも、おおかたはあの青年への来たるべき死刑判決・執行はやむをえないと首肯するのではなかろうか。つまり「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の種別と選別を、間接的に受けいれ、究極的には後者の「抹殺」をみんなで黙過することになりはしないか。だとしたら......と、わたしは惑う。だとすれば、死刑という主体の「抹殺」をなんとなく黙過するひとびとと、「抹殺」をひとりで実行した彼との距離は、じつのところ、たがいの存在が見えないほどに遠いわけではないのではないか。少なくとも、われわれは地つづきの曠野にいま、たがいに見当識をなくして、ぼうっとたたずんでいると言えはしないか。


ナチズムは負けた。ニッポン軍国主義は滅びた。優勝劣敗の思想は消え失せた。天賦人権説はあまねく地球にひろがっている。だろうか? ひょっとしたらナチズムやニッポン軍国主義の「根」が、往時とすっかりよそおいをかえて、いま息を吹きかえしてはいないか。7月26日の朝まだきに流された赤い血は、決して昔日の残照でも幻視でもない。「一億総活躍社会」の一角から吹きでた現在の血である。それは近未来の、さらに大量の血を徴してはいないか。あの青年はいま、なにを考えているのだろうか。悪夢からさめて、ふるえているのだろうか。かれにはヒトゴロシをしたという実感的記憶があるだろうか、「除草」のような仕事を終えたとでも思っているだろうか。生きる術(すべ)さえない徹底的な弱者こそが、かえって、もっとも「生きるに値する存在」であるかもしれない―― そんな思念の光が、穴に落ちた彼の脳裡に一閃することはないのだろうか。(辺見庸「琉球新報」2016年8月11日

【山中人間話目次】
・【記事写真】辺見庸の「相模原・津久井やまゆり園事件」誰が誰をなぜ殺したのか(上)
・太田昌国さんの言う毎日新聞の鈴木琢磨記者像
・ニッポンのメディアはこの国をどこに誘おうとしているのか ――朝日新聞とNHKの「天皇」報道への危惧
キョウ 由布院2

Blog「みずき」:澤藤統一郎さんは「ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない」と言われますが、私はこの澤藤さんの 「へそまがり宣言」に賛同、同調します。私はかつて(14年前)筑紫哲也さんに大分県知事選への出馬を要請する手紙を書いたことがありますが、そのとき筑紫さんが湯布院のミニコミ誌に「異物に対する抵抗力」について書いていたこと、私と筑紫さんの共通の友人に「私は怠け者だ。365日稼動の知事職などつとまらない」と語っていたことに対して「いわれる意味において、私も怠け者は大好きなのです。いま、怠け者こそ知事になるべきだとも思います。先のインタビュー記事にあった『異物に対する抵抗力』は怠け者ほど強いのではないでしょうか」と応答したことがあります。もちろん、ここでは知事云々の件は関係ありません。その上で筑紫さんへの応答に「怠け者」とあるところを「へそまがり」という言葉に換えて澤藤さんにお贈りしたいと思います。「異物に対する抵抗力はへそまがりほど強いのではないでしょうか、と。ただ、もうひとこと欲しかった感は否めません。

【私の「へそまがり宣言」】
有史以来連綿として、一つの妖怪が我が物顔に日本の社会を徘徊している。最近、むやみにその妖怪の威勢がよい。――妖怪の名は「
同調圧力」。この妖怪、別名を「長いものには巻かれろ」「出る釘は打たれる」とも言う。「附和雷同」「寄らば大樹」「地頭には勝てぬ」「ご無理ごもっとも」などという渾名もある。この妖怪は毒気を撒き散らし、その毒気は空気感染する。多くの人をして「みんなと同じでなければ、生き苦しい」「はみ出すのは恐い」「ボッチは耐えられない」「イジメを傍観できなければ、イジめる側に付かざるをえない」と思わせている。日本のあらゆる支配構造が、この妖怪との神聖な同盟をむすんでいる。政治・経済・教育・メディア・学問、どの分野においてもだ。アベ政権、自民党、象徴天皇制、神社庁、日本経団連、NHK、新聞協会、民放連、JOC、教育委員会、PTA、学級、町内会…、いずれもこの妖怪と結び、この妖怪に生け贄を差し出して見返りに与っている。現代の日本において、およそこの妖怪の毒牙による被害を被らなかった者がどこにいるだろうか。この「妖怪・同調圧力」は理性や知性を目の仇として忌み嫌う。自立した個人の敵であり、民主主義の攪乱者であって、全体主義の温床にほかならない。これまでの日本社会の歴史は、多数派による少数派に対する同調圧力に、少数の側が果敢と異を唱え困難な抵抗を試みた闘争に彩られている。多くの場合、少数派はあえなく敗れている。もともと、闘い我に利非ずなのだ。多数派とは、現体制であり、現体制を支えるイデオロギーの担い手である。多数派に与していることは、安全で安心であって、多数派との角逐は面倒であるだけでなく、常に孤立と排斥の危険を背負い込むことになる。(略)その言論が、自らが多数になるのに有効か否かを斟酌しない。この立場を「へそまがり」という。へそまがりは、自分の言論が社会にどう受け容れられるかを斟酌しない。ひたすら正論を吐き続けることで、「妖怪・同調圧力」と対峙する。勝てる見込みがあるかどうかは、視野の内にない。青くさい、へんくつ、などの陰口を意に介さない。へそまがりは、徒党を組まない。孤立を恐れない。そして、へそまがりは、けっして社会におもねらない。どんな権威も認めない。権力には徹底して抗う。それなくして、「妖怪・同調圧力」と対峙する方法はないものと信じるが故だ。(略)へそまがりは孤独であるが、孤独恐るるに足りず。国家にも、資本にも、天皇制にも、メディアにも、町内会にもなびかない「へそまがり」バンザイ。そう、自分に言い聞かせて、「へそまがり宣言」とする。ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない。ひとり、へそまがり精神を貫徹するのみ。(澤藤統一郎の憲法日記  2016年8月17日

【山中人間話目次】
・核先制不使用反対問題。米国のサンダースら米民主党上院議員との対比で安倍晋三のあまりにも愚かしい愚行を思う
・「フォイエルバッハに関するテーゼ―」と中野重治の「おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな」の詩
・ニッポンへの発言 キーワード 中上健次の熊野へ!=中森明夫(毎日新聞 2016年8月16日)
・ゾルゲ事件と伊藤律――歴史としての占領期共産党(覚え書き)加藤哲郎
キョウ はいせん

Blog「みずき」:今回も
加藤哲郎さんの広範な情報をカバーするリンク力(情報収集力)の凄さには圧倒されます。まさに加藤さんはインターネットの利点をフル活用した情報政治学の極北に位置する政治学者と言っても過言ではないでしょう。その加藤さんの史料を駆使した「日本国憲法第1条~9条も、象徴天皇制も自衛隊も、1945−52年の日本占領期=米英・ソ中にとっての世界再編期に創られ、歴史的にかたちづくられました。冷戦史の文脈での問題は、天皇個人ではなく世襲天皇制、災害救援の自衛隊ではなく米国軍事戦略下で活動する「軍隊」です」という指摘は重要です。象徴天皇制論議は抽象的なイデオロギー論争としてではなく、戦後史の史実に基づいて議論されるべきものでしょう

【昭和天皇自身が米軍基地存続を求め、沖縄を切り捨てていた】
8月15日です。この日が「
終戦記念日」とされるのは日本だけで、韓国ではこれが植民地からの解放記念日=「光復節」になります。米英など旧連合国の多くにとっては、71年前の1945年9月2日の戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印がVJ Day(対日戦勝記念日)で、旧ソ連・中国・モンゴル等の場合はその翌9月3日であることは、佐藤卓巳さん『8月15日の神話』『東アジアの終戦記念日』(いずれも、ちくま新書)などで、広く知られるようになりました。71年前のポツダム宣言受諾の米英への回答は、8月14日でした。8月15日は、いわば、「玉音放送記念日」でした。ちょうど65年前、1951年の8月は、朝鮮戦争の真っ最中でした。4月に原爆使用を含む中国への攻勢を主張した日本占領の最高責任者マッカーサーは解任され、リッジウェイに代わりました。9月には、サンフランシスコで対日講和条約が結ばれ、同時に、日米安保条約で米軍基地の存続が決定されます。敗戦国日本の独立が、ようやく認められましたが、ソ連や中華人民共和国が加わらない「片面講和」といわれ、沖縄の米軍直接占領統治は手つかずでした。沖縄県ではいまも、サンフランシスコ講和条約が発効した52年4月28日を「屈辱の日」とよびますが、2013年に安倍内閣は、この日を「主権回復の日」にして、沖縄県民の「屈辱」を隠蔽し、在日米軍施設の74%沖縄に集中させたままです。
 
65年前の
サンフランシスコ講和は、外交的に見ると、時の吉田茂首相が米国国務省顧問ジョン・ダレスと渡り合い、米軍駐留を許しながらも「軽武装」での主権独立を獲得し経済発展を可能にした寛大」なものと評価されました。知識人等の理想主義的「全面講和」論に対する老獪な現実主義的選択と言われました。しかし米ソ「冷戦」の緊張時で、朝鮮半島では「熱戦」の真っ最中です。講和条約と安保条約そのものに、米国の対ソ世界戦略が貫かれます。こうした問題を綿密に検討した柴山太『日本再軍備への道』(ミネルヴァ書房、2010年)を再読して、占領とは終戦ではなく敗戦であり、軍事的には戦争の総仕上げであることを、思い知らされました。2段組750頁の大著には、4半世紀かけて米国・英国・日本で収集された公文書・機密文書が第一次資料として用いられています。1951年夏、米国は、ソ連との第3次世界戦争勃発を想定していました。ホワイトハウスでは、8月15日付けで「1951年における日本への共産側攻撃の可能性」と中ソの大規模対日侵攻能力が、トルーマン大統領のもとで検討されていました。サンフランシスコで講和会議が始まる前日、9月3日、東京のGHQ・G2 (参謀二部)では、ソ連は極東で最大15個の原爆を保有し、その戦略爆撃目標は①立川、②横田、③釜山・横浜・佐世保、東京・横須賀と想定され、「第7番目の攻撃目標ながら、GHQ司令部がある第一生命ビル上空で原爆が爆発すれば、米軍の指揮系統や命令組織は壊滅状態になり得る」と対抗核使用をシミュレーションしていました(同書、345頁)。

日本の外交的「独立」は、想定された
第3次世界大戦ソ連の対日核攻撃・北海道侵攻への対抗を含む、当時の米国世界戦略の一環でした。日本側は、その全体像も核軍事作戦計画も知らされずに、軍事的要衝基地にされました。朝鮮戦争勃発時に作られた警察予備隊も、米軍指揮下で国内治安維持ばかりでなく対ソ防衛にあたる「軍隊」としての性格を刻印されていました。やがて保安隊・自衛隊へと、人員を増やし装備を拡張していきます。かつて統治権と一体で天皇に託されていた「統帥権」=軍事大権は、事実上米国に移管されました。昭和天皇自身、米軍基地存続を求め沖縄を切り捨てていたことは、その後の研究でも柴山氏の書物でも、確認されています。最近、平成天皇のビデオメッセージをめぐって、「第二の玉音放送」とも「第二の人間宣言」とも言われ、「象徴天皇制」論議が始まりました。日本国憲法第1条~9条も、 象徴天皇制も自衛隊も、1945−52年の日本占領期=米英・ソ中にとっての世界再編期に創られ、歴史的にかたちづくられました。冷戦史の文脈での問題は、天皇個人ではなく世襲天皇制、災害救援の自衛隊ではなく米国軍事戦略下で活動する「軍隊」です。今日、大新聞の号外が出たそうです。戦没者追悼式典でも安倍内閣閣僚の靖国神社参拝でもなく、地球の裏側のオリンピックでの日の丸と銅メダルだとか。街ではパチンコ屋の駐車場がいっぱい。南スーダンでのPKO犠牲者速報でなかったことで、良しとすべきなのか。1937年とも、1951年とも比較したくなる、10年ぶりの日本での憂鬱な夏です。(加藤哲郎のネチズン・カレッジ 2016.8.15

【山中人間話目次】
・辺見庸の天皇制に関する2年前の所感――天皇制の底流にある「優越民族観念」とその湿った襞について
・高江ヘリパッド中止求め決議 米国初、最大規模の退役軍人の会
キョウ とうじょうひでき

Blog「みずき」:水島朝穂さんの論を読んでいてはじめに目にとまったのは「天皇は疲れている」「一体誰が天皇を疲れさせ、このような不自然な形式と内容の「おことば」を発せざるを得ない状況にさせたのか」という一節です。水島さんは今回の天皇の「生前退位」に関する「玉音放送」の背後には明確な仕掛け人がいることを察知しているようです。ただ、それがどのような仕掛けなのか。いまのところ誰もわかりません。しかし、水島さんは、暗にそれは宮内庁側の安倍内閣への仕掛けであるかのように匂わせています。それはともかく、水島さんの説は、天皇の「生前退位」肯定説のように見えます。それはとりもなおさず象徴天皇制肯定説になるほかなく、私としては異論のあるところですが、水島さんが北海道大学の西村裕一准教授のを「冷静な筆致で、この問題を論ずる際に必要な視点と論点を鋭く提示している」と評価しているところを見ると、天皇の「生前退位」の議論にあたり、天皇の「お気持ち」を切り離し、国民が自律的・理性的に判断をする国民主権原理が貫徹されるようにするべきだという同准教授とほぼ同様の考え方をとっているものと見られます。水島さんの論は現行の憲法制度を前提にする限り、有意で民主的な論ということができるだろう、というのが私の評価です。


【天皇の内閣に対する不満の表明に等しい「おことば」】
「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(略)最初に聞いたときに耳に残った言葉は「個人」と「家族」。そして頻繁に出てくる「務め」(7回)と「象徴」(8回)。「天皇の務め」「象徴の務め」「象徴天皇の務め」という使い分けのなかから浮かびあがるのは、象徴天皇制への徹底したこだわりである。(略)さて、1800字あまりの「おことば」を読むと、これまで天皇が語ったものにはない焦燥が感じ取れる。『
南ドイツ新聞』が二度も使った「天皇は疲れている(müde)」という表現に引きつけていえば、一体誰が天皇を疲れさせ、このような不自然な形式と内容の「おことば」を発せざるを得ない状況にさせたのか、ということである。そのことに触れる前に、まず「おことば」の内容に関わって感想を述べておこう。日本における新聞・雑誌などにおける専門家の議論などはほとんど読んでいないので、あくまでも「おことば」に即して私が気づいたことを記していく。(略)天皇自身がこの「おことば」で、「現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したい」として、「個人」という言葉を使った。現行の皇室典範では一般に、天皇という、生きている限りその地位から離れることを許されない人が、「公的」な場で語る限り、「個人的見解」を自由に述べることは許されない。だが、1946年の「天皇の人間宣言」からちょうど70年。これを2016年の「天皇の個人宣言」とまでいうかどうかはともかく、強い決意をもって「個人」という言葉を使ったことだけは間違いないだろう。

次に注目されるのは、「天皇の高齢化に伴う対処の仕方」として、「国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくこと」について、明確に「無理」と断定していることである。そもそも憲法上に根拠のない「象徴としての行為を限りなく」拡大してきたのは歴代政府であり、その「ご公務」の異様な多さが、高齢となった天皇に巨大な負担となってのしかかるというジレンマを生んだわけである。天皇はその解決法として、「行為」の漸進的縮小の方向を拒否した。これは天皇の「行為」に対して「助言と承認」(憲法3条)をなす内閣に対する不満の表明に等しい。さらに、「おことば」のなかで驚かされるのは、未成年の天皇や重病などによる機能不全の場合に置かれる「摂政」(憲法5条)の可能性をはっきりと否定したことである。その理由は、摂政を置いても、「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」として、「務め」を果たせぬまま死ぬまで天皇でいるのはごめんだという強い意志が示されている。それは、安倍政権の周辺から聞こえてくる、「摂政で対応する」という動きに対して、明確に「ノー」を突き付ける結果になった。「象徴」という言葉が繰り返し使われ、日本国憲法のもとでの象徴天皇を「守り続ける責任」という表現も見逃せない。別のところでは、「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくこと」が強調されている。ここに、「象徴」に加えて自民党「改憲草案」が打ち出す「天皇元首化」に対する危惧の念が潜んでいるのではないか。(略)

今回の「おことば」の問題について論じる場合、北海道大学の
西村裕一氏の論稿が重要である(略)。冷静な筆致で、この問題を論ずる際に必要な視点と論点を鋭く提示している。その指摘を受ければ、「天皇の意向」を勝手に忖度、推測、想像して論ずることには抑制的であるべきだろう。だが、いま私は外国の地にいて、日本の状況をリアルに認識することができないなか、この「直言」を書いたことをご理解いただきたい。(水島朝穂「今週の直言」2016年8月15日

【山中人間話目次】
・敗戦の日に想い起こす原爆の詩歌- 醍醐聰のブログ 2016年8月15日
・聖断拝す 大東亜戦争終結 昭和二十年八月十四日-きょうの蔵出しNHK
・武田泰淳『北京の輩に寄するの詩』(1938年11月『中国文学月報』)から
キョウ あさいもとふみ

Blog「みずき」:どちらも中国問題のエキスパートという点では日本有数の論者と言ってよいおふたりだと思うのですが、浅井基文さん(元外交官、政治学者)の紹介する中国の言論状況と阿部治平さんの紹介する中国の言論状況に私は決して小さいとはいえない懸隔のようなものを感じます。私は以前、浅井さんと阿部さんの論を比較して次のように述べたことがあります。「私は中国での教員生活の長い阿部治平さんの論攷と元外交官で政治学者の浅井基文さんの論攷を比較して考えてみることがしばしばあります。もちろん、どちらも中国問題のエキスパートですが、阿部さんの目は中国の庶民にそそがれているのに対して、浅井さんの目は中国の政権サイドや同国では主流の学者や編集者が発した公的・私的見解にそそがれているように見えます。中国情勢を判断するに際してどちらも重要な視点には違いありませんが、当然ながら政権サイドの論は自己の弱点をさらしてまで真実を述べることはまずありませんので浅井さんの目の確かさは信頼しながらも、その浅井さんの視点の欠けているところを思ってどうしても不満が残ります」、と。「今日の言葉」の浅井さんの論攷は私のそのかねてからの疑問の一端を解き明かしてくれるものといってよいでしょう。なるほど。浅井さんはこれまで、以下のような理由で「中国側論調を努めて紹介」する論攷を書いていたのか。しかし、浅井さんの「主体的意図」は理解できるものの、浅井さんと阿部さんの論攷の懸隔についての私の疑問はこれで氷解しきったわけではありません。

【アメリカのプリズムを通した日本人の国際観の脆弱性と貧困】
私が
このコラムで中国側論調を努めて紹介するのは、私の過去の経歴とも関係があるのはもちろんですが、私の主体的意図としては、アメリカのプリズムを通して国際情勢を眺めることに慣らされている日本人の国際観が実は「完全無欠」からほど遠いこと、国際情勢を正確に認識するためには、他者感覚を大いに働かせて、様々な角度から物事を見る目を養う必要があること、そのためにはアメリカと対極的な国際情勢認識に立脚する中国人の国際観を理解する必要があること、そして、好むと好まざるとにかかわらず、日本にとっての国際関係において末長く、中国はアメリカと同じ比重を占める国家であり続けること、したがって中国の国際情識・国際観といっても決して一括りにできるものではありません。「中国は共産党独裁だから、その支配下にあるメディアの言論も官製で、画一的に決まっている」と思っている日本人は多いのですが、そういう見方は実態から大きく隔たっています。特に、中国外交の方向性を規定する前提となる国際情勢認識に関しては極めて活発な言論状況があります。 今回紹介する8月13日付の北京青年報所掲の馬暁林(新華社出身で、ブロガーの連合サイトである博聯社総裁)署名文章「東北アジアにおける駆け引き 新冷戦警戒」は、韓国におけるTHAAD配備をめぐる中韓関係尖閣紛争をめぐる日中関係という、中国の東北アジア外交におけるもっとも機微な問題を正面から取り上げて論じたものです。その内容は、私が度々取り上げる環球時報社説などとは一線を画したものであることは、一読していただければ直ちに明らかでしょう。ちなみに、こういう言論状況が中国に存在することは、「お上」の顔色を窺う「自主規制」が横行する日本国内の言論状況より健康的であることを物語っていると思います。(浅井基文のページ 2016.08.14

【山中人間話目次】
・澤藤統一郎さんの「象徴天皇への敬意を強制する『社会的同調圧力』」批判はその「同調圧力」の半面の批判でしかない
・私と都藤邦さんの「前原氏、野党共闘を評価-雑誌『世界』 今後も「進化」」という赤旗記事を読んでの感想と応答
・武田泰淳『土民の顔』全文――『日中の120年―文芸・評論作品選』全5巻(張競、村田雄二郎編。岩波書店)
キョウ きゅうちゅう

Blog「みずき」:辺見庸の「忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!」の補記2と補記3を説明を兼ねたリンクをつけた上で「今日の言葉」(1)と(2)として転記しておきます。辺見はこの補記考で天皇の「内在」発言をさらに掘り下げて考察しています。「忠良ナル汝アホ臣民」にとっては必見です。

【忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!(補記3)】
たそがれどきに皇居のあたりをあるくと、ひどく馬糞くさいときがある。にほひは、こちらからカシコキアタリへの流れではない。馬糞臭はうたがひもなく、あちらからこちらへとただよってくる。やれありがたや、ありがたやと馬糞のにおいを胸いっぱいすっているのかどうかはしらぬが、
ドジンどもはだれも文句を言わない。逆ならどうなのだ。こちら側の馬のクソ、ひとのクソのにほひが禁中にながれこんだら、連中、少しもさわがず、歌でも詠むといふのか。 秋風は 涼しくなりぬ 馬並(な)めて いざ野に行かな 萩の花見に 道々クソをひりつつ…。ありえない。旧内務省のエトスをうけつぐ当局と地域住民が、皇居ではなく、人民の側からのクソ異臭遮断に血道をあげるだろう。新憲法担当国務大臣だった金森徳次郎は敗戦の翌年の国会答弁で、天皇を「国家の象徴とし、あこがれの中心として将来も敬愛することは日本人の高い道徳的教養でなければならない」と答弁している。慶べ、これらはいま、ついに全面的に実現されたのだ。マスコミは「オキモチ」「オコトバ」だけでなく「御下血」「御失禁」「御脱糞」「御放尿」「御放屁」「御認知(御ボケ)」までをも、推奨される皇室用語として「記者ハンドブック」に追加するかもしれない。そして天皇(制)を崇拝する「高い道徳的教養」をそなえたものどもが、ヒノマルや旭日旗をふって「朝鮮人は死ね!」「朝鮮人は息するな!」とわめくのだ。だが、かれらをなめてはならない。

農本ファシスト超国家主義者の橘孝三郎はたいへんな理論家であり、街頭で「朝鮮人は死ね!」などと叫んだりはしなかったらしい。しかし、五・一五事件に参加し「やむにやまれぬ至情」とか「聖なるか賊か是か非か問ふ勿れ、ただひたすらに祖国抱きて」とうたった。これについてあるひとは書いた。「いかなる行動も、至情から出ている限り、彼自身においては正当である」(藤田省三天皇制国家の支配原理』1966年)。至言である。「聖なるか賊か是か非か問ふ勿れ、ただひたすらに祖国抱きて」――の「祖国」は、「勅命」「大君」「組織」「党」「会社」「天命」などと代替が可能である。「聖なるか賊か是か非か問ふ勿れ、ただひたすらに祖国抱きて」の精神は、このドジンコクにあってはかつて、左右の政治勢力(共産党も反共産党系も)の別ない、殺人をも許容する「至情主義」であった。天皇制に骨がらみ馴致されたその心性は、いまも基本的には変わっていない。どうかおどろかないでいただきたい。障がい者殺傷事件のあの青年について、わたしは「いかなる行動も、至情から出ている限り、彼自身においては正当である」のセンテンスと「聖なるか賊か是か非か問ふ勿れ、ただひたすらに祖国抱きて」の、じつにバカげた一首をおもったのだ。7月26日未明の惨劇は、あの青年の「至情」の結果であり、まぎれもない蹶起でもあった。あれは倒錯した社会がこしらえた、未来を徴す血の影絵でもあった。その社会に、スメラギよ、あなたは「内在」し、なおも深く「内在」しつづけようというのか。(辺見庸「日録」2016/08/12

【山中人間話目次】
・7月26日未明の惨劇は倒錯した社会がこしらえた、未来を徴す血の影絵でもあった
キョウ きゅうちゅう2
那智大社の展望台より熊野灘を望む

Blog「みずき」:
辺見庸の「忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!」の補記2と補記3を説明を兼ねたリンクをつけた上で「今日の言葉」(1)と(2)として転記しておきます。辺見はこの補記考で天皇の「内在」発言をさらに掘り下げて考察しています。「忠良ナル汝アホ臣民」にとっては必見です。

【忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!(補記2)】
豊葦原の千五百秋の瑞穂のクニの、ドジンどもは、某ドジン系紙の世論調査によるならば、こう思ったのだそうだ。スメラギが「生前退位」のオキモチを示唆したことは「よかった」と。そう答えたものが、ドジンぜんたいの93パーセントを占めた。だからどうしたというのだ。では、ドジン系紙幹部に問う。相模原の障がい者殺傷事件の青年は、死刑判決が相当と思うかどうか世論調査をしたら、やはり93パーセント以上のドジンどもが「イエス」と答えるのではないか。それはなにを意味するのか。そらみつ倭の国を秋津島とふこの弧状ドジン列島においては、天皇制賛美と死刑制度賛成が黯然といまも並立しつづけている。なぜか?スメラギはかんがえたことがあるだろうか。あなたは、「賎視」や「不浄視」と天皇制の関係について、一個のまともなひととして、深く思いをいたしたことがあるのだろうか?「視」され「不浄視」された被差別地域の人民は、スメラギと同様に、生物学的には霊長目・直鼻猿亜目・真猿亜目・狭鼻下目・ヒト上科・ヒト科・ヒト亜科・ヒト族・ヒト亜族・ヒト属・ヒトであるにもかかわらず、あなたやあなたの父たちに一指でも触れることは言わずもがな、車列を沿道にたって見送ることさえ許されなかった。

中上健次はせめても率直であった。天皇制があるから差別が生じる。たんじゅんな事実である。そのような趣旨のことを生前ボソッとつぶやいた。同感である。相模原の障がい者施設は、なぜ相模原にあったのか。なぜ東京都千代田区ではないのか。豊葦原の千五百秋の瑞穂のクニの絞首刑は、スメラギ夫婦の誕生日、宮中の重要行事日程、慶弔日とかさならないように、かつ断乎として執行されているのはなぜか。「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」――これは、反転させれば、「賎視」「不浄視」「穢れ」といったドジン的因習の永続を宣言したにひとしい。(略)スメラギさんよ、スメラギを利活用する犯罪的政治家どもよ、「社会に内在」するのは、以上のような、とてつもない理不尽と貧困、それらと戦う意思をついえさせる「国民統合の象徴」という擬制だ。したがって、生前退位ではなく、生前廃位せよ。石牟礼さんよ、柄谷よ、あの方々は「善いひとだ」ではすまないのだ。ところで、リオ五輪が終わったら、まちがいなくくるだろう、あれが。絞首刑の執行が。たぶん、豊葦原の千五百秋の瑞穂のクニのドジンどもの、ほぼ全員が、あっけらかんと知らぬふりをするだろう。(辺見庸「日録」2016/08/11

【山中人間話目次】
・中上健次はせめても率直であった。天皇制があるから差別が生じる。たんじゅんな事実である
・沖縄の基地問題は米国も当事者――米市民団体「ベテランズ・フォー・ピース(VFP)」の訴え
キョウ いまい

【「エセとホンモノを見分けることができない目」の氾濫現象は誰が招いたか】
極右の
稲田朋美を持ち上げて、自らを「中道左派」などと自称しているやからがいます。駒崎弘樹という病児保育のNPO法人の代表をしているという人物です。子どもの貧困問題や LGBT問題など福祉や人権問題に関わるスローガンを掲げていさえすれば、その内実は問われることもなく、自称「中道左派」で通用する。あるいは「なんとなくリベラル」の仲間入りをする ――そんな風潮がいまの世の中では罷り通っています。共産党や社民党などこれまで「革新」と呼ばれてきた政党とそれに連なる市民団体がエセとホンモノを見分けることができず、そういう構図を許しているからです。例はいくらでもあります。こういう構図を許していては、「汚れっちまった」世の中はますます腐りきっていくばかりでしょう。

もうひとつの例。この「伊方原発をとめる大分裁判の会」の集会で座ってあいさつをしている右端の人物は弁護士の
河合弘之氏でしょう。この河合弘之さんは脱原発弁護士(これも自称)として著名であることは私も認めますが、一時期、エセ「脱原発」を唱えていた、かつ、右翼議員団体「大阪維新の会」を指揮していた橋下徹(元大阪府知事、大阪市長)の下で「大阪府市統合本部」の特別参与をしていた人物です。それだけではありません。彼がきわめつきの保守思想の持ち主であることはこれまでの彼の経歴からも明らかです。 こういう人物が主導する(あるいは顧問弁護士として仰ぐ)脱原発のための裁判の会とはなんでしょう? 脱原発の方向そのものが危うい方向に傾いていくことは明らかです。

実例があります。以下では、河合弘之氏は「原発メーカー訴訟の会」の乗っ取りを企図する者として同会原告弁護団長の
島昭宏 弁護士とともに厳しく糾弾されています(ここでは直接の被告訴人は島昭宏弁護士ひとりですが、島氏とともに同会弁護団の共同代表をしていた河合弘之氏も厳しい糾弾の対象になっていることは同ブログ記事の文面を読めば明らかです)。そして、ここでもこうしたエセとホンモノを見分けることができない構図を許している団体のひとつが共産党大分県委員会であることは以下のブログ記事からも明らかです。共産党の右傾化の悪しき影響は地方レベルにおいてもはかりしれないのです。(東本高志facebook 2016/08/12

【山中人間話目次】
・極右の稲田朋美を持ち上げて自らを「中道左派」「病児保育NPO法人代表」などと自称しているやからがいる
・もうひとつの例
・世界の富の偏在が一目でわかるマックス・ガルカの地図
キョウ からたに キョウ しいいいんちょう  
Blog「みずき」:辺見庸の8月8日の「天皇メッセージ」に関してのニッポンのスメラギ、内閣、政党、メディア、国民批判。結論として辺見はそれらのすべてを総称して「おまえらは最低のクズ、カス、クソッタレだぜ」と批判しています。私も同意します。以下の要約では外していますが、ここで辺見は「バカでやみくもに忠良なる汝臣民」を代表させて、かつて左翼知識人の代表と目されていた柄谷行人を登場させています。現代ニッポンの知的退廃を「象徴」する事象として登場させたのでしょう。この辺見の演出にも私は同意します。なお、天皇の「内在」発言については辺見は次のように書いています。「ポイントは「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」にあるのである。朕らはもはや象徴ではなひのだ」、と。辺見の批判は、象徴天皇制が実質的に「象徴」のない天皇制に変容しているいまのニッポンの事態を鋭く衝いています。

【〈かれらの血〉とわれらとの関係/無関係性とある種の怖気と戦き】
忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!(Blog「みずき」:8月8日の記に「共産党も天皇制を支持しておるぞ。バカマスコミは挙げて國軆の精髄と美質を宣伝しまくり、皇室をとことん賛美しておるぞ。(略)おまえらは最低のクズ、カス、クソッタレ」とあります)このたびのオキモチ発表は、たんなる偶然にせよ、相模原の障がい者殺傷とあい前後して生じた底昏い「事件」だとおもう。両者にはいかなる関係もないと言えば言えるけれども、殺傷事件の血煙ごしにオキモチを聞き、あるいはオキモチ発表の茫とした不気味さから重度障がい者の殺傷事件を想ってしまうのは、どうにもいたしかたのないことだ。象徴と言われようが天皇制は天皇制なのであり、〈かれらの血〉とわれらとの関係/無関係性をふりかえるとき、あるしゅの怖気と戦きをともなうのはなぜか。障がい者の施設はいつも〈かれら〉の居住区から遠ざけられた。昭和天皇が各地を「巡幸」したとき、ヒノマルをうちふる子どもたちの前列には、きまって「健康および体格優良」なる児童がたたされた。現在の天皇の旅でも、当局は事前に、精神障がい者や認知症患者らを外出させないよう沿道の地域に直接間接、工作しているといわれる。スメラギにまつわることどもの湿った「襞」には、不可解な精神がうめこまれ、それじたい、しずやかに狂(たぶ)る 波動である。このクニのゼノフォビア(xenophobia)は、おしなべて、こよなくスメラギを愛する。異様なほどに。スメラギはオキモチ発表にさいし、なぜそのことに言及しなかったのか。〈朝鮮人は死ね、朝鮮人は息するな〉――などと、だんじて言ってはならぬ、皇祖皇宗は半島よりきたやもしれないのだからと。

スメラギが「
いきいきとして社会に内在し」ているとは、どういうことか。みずから「内在」を言うとは、スメラギよ、とてもおかしい。スメラギさんよ、あなたは虚構なのだ。虚構にすぎないのだ。卑怯で卑小な、ずるがしこい権力者たちがこしらえた、哀れなフィクションなのだ。そのようなものとして仮構された〈存在〉兼〈非在〉なのだ。われらとおなじ、そして奇しくも、障害者殺傷事件の青年と同様の、霊長目・直鼻猿亜目・真猿亜目・狭鼻下目・ヒト上科・ヒト科・ヒト亜科・ヒト族・ヒト亜族・ヒト属・ヒトであるにもかかわらず、虚構たることを強要されたひとなのだ。であるなら、オキモチはやはり「お肝血」(Blog「みずき」:8月8日の記に「オキモチって、どう書くか知ってるか。「お肝血」である。戦火でうしなわれたおびただしい「お肝血」」とあります)であるべきであり、スメラギはいつの日かついに、ヒトとして解放されなければならない。したがって「お肝血」発表では、退位ではなく廃位の希望を、すなわち、天皇制廃止の意向を言うべきであった。逆であった。スメラギはスメラギになりきり、権力者の思惑どおり、虚構を現実ととりちがえていた。ヒトであるならば、極右大臣たちへの認証式を欠席すればよかったのだ。「お肝血」とはそういうことだ。さて、障害者殺傷事件の青年も、スメラギを敬愛していたのではないか。(辺見庸「日録」2016/08/10

【山中人間話目次】
・オバマ演説を無条件に評価する一文のある長崎市の「平和宣言」を私は評価できない
・志位氏の天皇の「『お気持ち』はよく理解できる」発言は、「心優しい天皇」「親しみのある皇室」イメージのまきちらしを「左」から支えるもの
・筑紫哲也さんの古巣の朝日新聞批判――朝日新聞の感度はここまで鈍っている
・山にはまれびとが棲むという伝承がある。山の日はそれぞれにひっそりとあった方がよい
キョウ てんのう9

【「万世一系の天皇家」などという東京新聞の右翼的論説を斬る】
toriiyoshikiさん(ETVディレクター・ハーフリタイア)は
ツイッターで次のように言います。「東京新聞まで一見「たわけた」としか言いようがない社説を書いているのを見ると、まだまだこの国には「菊のタブー」が厳然としてあるのだと暗澹たる思いがする」、と。その東京新聞の社説を見てみました。社説の末尾に次のようなくだりがあります。「万世一系の天皇家が千五百年、あるいは二千七百年にわたって統治者であり続けた歴史は世界に類がない」。しかし、「万世一系」という語は、「大日本帝国憲法第一条に「万世一系ノ天皇」とあるが、学問上は、皇位継承がもとより「一系」であったか疑問視される」(wikipedia「天皇」)体のものです。いまどき天皇の家系について「万世一系」などと用いるのはどこかの右翼紙か天皇制至上主義者に限られるでしょう。その語を平然と社説に用いている。「たわけた」としか言いようがないのです。東京新聞にはたしかに「こちら特報部」の報道など見るべき報道も少なくありません。しかし、一方で、長谷川幸洋(論説副主幹)などの超保守主義者や新自由主義者たちも相当数幅を利かせている振幅の大きい新聞社です。東京新聞を一面的に進歩的なメディアなどと評価するべきではないでしょう。むしろ、危険なメディアであると評価するのが適切です。昨日の東京新聞の社説はそのことを示しています。(東本高志facebook 2016年8月10日

【山中人間話目次】
・弁護士の澤藤統一郎さんの大人の「左派」の天皇「生前退位」論
・天皇の収録ビデオを流すだけで特番の横並びという異常さ 主権在民が軽くなる - 弁護士 猪野 亨のブログ 
・内海信彦さんの「転向」の認識についての私の賛否
・世に倦む日日のツイートもYosuke Okutomiなる人のツイートも菅野完なる人のツイートもアホかとしか言いようのないもの
・志位氏の天皇の「『お気持ち』はよく理解できる」発言は、「心優しい天皇」「親しみのある皇室」イメージのまきちらしを「左」から支えるもの
・ZEDさんのブログの韓国メディアの天皇アキヒト讃歌批判。恐るべき韓国メディアの現状の報告です
キョウ てんのうせい4

Blog「みずき」:本日の天皇の「生前退位」に関するビデオメッセージを承けて共産党委員長の志位氏はツイッターで次のような発信をしています。「高齢により、『象徴』としての責任を果たすことが難しくなるのではないかと案じているというお気持ちは、よく理解できます。政治の責任として、『生前退位』についての真剣な検討を行うべきだと思います」、と。同じ天皇の「生前退位」問題について評論家の太田昌国さんは「天皇という地位に留まったままで、彼が何を言おうと何をしようと、それは、真の民主主義に悖る天皇制を護持し延命させるための口実としてしか機能しない。「生前退位」の意向とて、その例外ではない」と述べていますが、象徴天皇制をどのように見るかについて太田さんと志位氏との認識の差異は天と地ほどの違いがあります。象徴天皇制を「真の民主主義に悖る」と見るかどうかの差異というべきものです。私は太田さんの認識の方が明らかに正しいと思いますが、象徴天皇制評価に関して共産党もかつては太田さんと同様の見方をしていたのです。「今日の言葉」はその共産党の思想的後退を鋭く指弾している16年前のさざ波通信編集部の言葉です。16年前の指摘ですが「今日の言葉」として適切だと私は思います。

【かつて共産党は天皇条項を「反動的条項」と言い切っていた】
今回の決議案(Blog「みずき」:
第22回大会決議、2000年9月20日)において、天皇問題については次のように述べられている。「日本共産党は、当面の日本の民主的改革において、憲法の進歩的条項はもとより、その全条項をもっとも厳格に守るという立場をつらぬく。この立場は、わが党が野党であっても、政権党になったとしても、同じである。わが党がめざす民主連合政府は、政府として、憲法第99条にもとづいて現行憲法を尊重し、擁護する立場にたつ政府である。天皇制についても、いまわが党がもとめているのは、憲法でさだめられた国政への不関与(第4条)、国事行為の範囲の限定(第6・7条)などを、厳格に守ることである。21世紀の日本の未来を、より大きな視野で展望したときに、社会の発展にともなって、憲法も国民の総意にもとづいて発展することは、当然のことである。天皇制も、国民主権との矛盾をはらんだ存在として、永久不変の制度ではありえない。」

わが党は「憲法の進歩的条項はもとより、その全条項をもっとも厳格に守るという立場」だそうである。自衛隊の活用論を唱えることで、すでに憲法の「全条項をもっとも厳格に守る」という主張は空しいものになっている。それに加えて、この決議案における天皇条項に対する態度は何とおよび腰なのだろうか? 天皇制が国民主権に反するとはっきり言うことさえできず、「矛盾をはらんだ」といった婉曲表現しか用いていない。そして、天皇制の廃止は民主主義革命の目標の一つとして明確に綱領のなかで書かれているにもかかわらず、この決議案においては、獲得目標としてではなく、あたかも21世紀の長い長い時間(100年もある!)の中で自然と日程に上ってくるものであるかのように書かれている。18世紀か19世紀の遺物にすぎないこの時代錯誤の反動的制度に対する何と臆病でうやうやしい態度であることか

15年前に行なわれた
第17回党大会の決議はいったい天皇制について何と言っていたか、思い起こしてみよう。「わが党は戦前の「翼賛政治」に反対した唯一の党として、戦後の憲法制定時、専制的天皇制支配を排し、徹底的な民主化を要求する見地から、天皇の象徴化など現行憲法の反動的条項に反対し、主権在民をもりこませるなど、より民主的な憲法を実現するために奮闘した。反動勢力が憲法改悪、天皇の元首化をくわだてている今日、憲法制定時にわが党のとった態度の正しさは、いよいよ明白となっている。」(『前衛 日本共産党第17回大会特集』89頁)天皇条項を「反動的条項」と言い切り、憲法制定時にそれに反対したことの「正しさは、いよいよ明白となっている」とこの決議は述べている。この問題をめぐっても、現在の党指導部の陥っている堕落の深刻さがよくわかる。(さざ波通信編集部 2000/10/26-28

【山中人間話目次】
・今日8日の午後3時からビデオメッセージという形での天皇の「生前退位」表明がある
・全国の記者諸氏に告ぐ。“お言葉”や首相コメントの前で思考停止になってはいけない
・平安名純代さんの「『連帯』を装った加害者(安倍昭恵、三宅洋平)の行動を沖縄は容認しません」
・坂井定雄さん(龍谷大学名誉教授:中東政治、元共同通信記者)のトルコ・クーデター未遂事件エルドアン大統領陰謀説
キョウ さくらたい  
Blog「みずき」:ここに描かれている挿話は私もこの何十年かの間に切れ切れに聞いてきたことです。宇野重吉の弟子の米倉斉加年さん(はそう自称していました)と一度会食したことがありましたが、そのときにも彼の口から宇野重吉の戦時中の苦難の断片を聞いたことも思い出しました。私の中のその切れ切れの記憶が今回の醍醐聰さんの文章によって一軸の絵のつらなりになったような気がします。私はまだ「さくら隊散る」は未見なのですが今度一度観てみようと思います。私もかつて演劇を志したこともあるのです。

【目黒の五百羅漢寺で開かれた「被爆71年 桜隊原爆忌」】
昨日、目黒の五百羅漢寺で開かれた「被爆71年
桜隊原爆忌」に参加した。(略)「桜隊原爆忌」の第1回は1975年10月19日。参加者52名。1981年以降、毎年8月6日と定着したという。9名全員が命を奪われたというが、約半数が宿舎でほぼ即死と見られ、生き延びた人々のその後の消息はバラバラだった。(略)今年の「桜隊原爆忌」の特徴は、碑前祭のあと、桜隊の記録映画「さくら隊散る」(新藤兼人監督、1988年作品)が上映されたことだった。生き延びた丸山定夫園井恵子高山象三仲みどりの被爆後の消息と最期の姿を再現するとともに、彼らにゆかりの人々の生前の証言が随所に織り込まれ、緊迫感がみなぎる作品だった。丸山定夫の名優ぶりと剛毅な中にも繊細な人柄を語った千田是也滝沢修ら、園井恵子の魅力を語る宝塚歌劇団の同僚、2ヶ月後に結婚しようという言葉を残して高山象三と別れたという当時の恋人、遠路上京して母の実家に着いた仲みどりを診察した東京帝国大学の医師・医学生などの証言は誠に生々しく、貴重な原爆受難記録にもなっていた。また、長椅子に横たわった宇野重吉が戦時中、大政翼賛会文化部に呼び出され、国策への忠誠を誓う誓約書に署名をさせられた屈辱を何度も語る姿が痛々しくも、表情に悔しさがにじみ出ていた。と同時に、そうした戦時中の屈辱的体験について、今なお口をつむぐ文化人がいかにおびただしいことかと想像もした。

それにしても、映画を見終えて脳裏に刻まれたのは、丸山定夫、高山象三、園井恵子、仲みどりの最期の姿の共通性である。日を追うごとに髪の毛がごそっと抜け落ち、布団、ベッドの上で水を求めてのたうちまわる姿、吐血とともに息を引き取る姿・・・・どれも被爆死のむごたらしさを赤裸々に伝えるシーンだった。こうしたシーンをみて私は、
オバマ大統領の広島訪問を実現するための譲歩かのように「広島の被爆者は謝罪を求めない」という物言いが広まったことを思い起こした。しかし、それが被爆者の今となってはの一面の心情ではあっても、本心であろうはずがない、いわんや、無念の死を強制された被爆者の本意を代弁するかのように語り広めるのは死者に対する冒涜であるという思いを再認識した。核なき世界を求める未来志向? 自らが犯した人道に対する罪と向き合わず、不都合な過去から顔をそむけて何が未来志向か! むごたらしい被爆死、無念の被爆死のリアルな実態を直視し、そこからこみ上げる恨み、憤怒に突き動かされ、それらを昇華した平和へのエネルギーこそ、この先、1人の被爆者も生まないための運動に向かう本物の未来志向ではないのか? 過去と未来を身勝手に切り分けるな! 貴重な記録映画を残した関係者、桜隊の被爆死を慰霊し、その実相を伝える活動に務めておられる方々の尽力に深い敬意を覚えた。(醍醐聰のブログ 2016年8月7日

【山中人間話目次】
・Blog「みずき」の現代日本のフェミニストへの疑問
・Blog「みずき」の小池百合子を「リベラル」と評価する江川紹子批判
・kojitakenさんの小池当選を示したテレビ画面に拍手を送った楊逸(ヤンイー。芥川賞作家)批判
・ZEDさんの田中宏氏(一橋大名誉教授)批判
・浅井基文さん(政治学者、元広島平和研究所所長)の広島平和式典批判
・内藤正典さん(同志社大教授)のルモンド紙記事「日本政府、ナショナリストを防衛相に任命」評
キョウ おばま5  

Blog「みずき」:8月6日という日にふさわしい言葉として半澤健市さん(コラムニスト)と高村薫さん(作家)の言葉を挙げます。

【なぜ、あの日広島には怒りの声一つなかったのか】
高村薫の連載「作家的覚書」のタイトルは、「
2016年のヒロシマ」であった(『図書』、岩波書店、16年8月号)。彼女はオバマ米大統領の広島訪問を、「私にはひどく不思議に感じられた」と書いている。私(半澤)は、高村のわずか一頁の短文に共感するところが多かった。その一部を抜萃して紹介する。文章全体の三分の一ほどになる。

「一日本人として、大きな違和感とともに、「なぜ」と自問せずにはいられなかった。なぜ、あの日広島には怒りの声一つなかったのか。なぜ、誰ひとりとしてアメリカの原爆投下を非難しなかったのか。戦時下とはいえ一般市民が史上初の原子爆弾の実験台にされ、想像を絶する地獄絵図を味あわされたことの怒りと恨みは、戦後の平和の下で行き場を失っただけで、けっして消え去ってはいない。そう思い込んできた私にとって、抗議行動どころか歓迎ムード一色だったオバマ氏の広島訪問は、いろいろな意味で戦後の日本人の在り方への思いを揺るがすものとなった。ヒロシマ・ナガサキは核兵器の悲劇のシンボルとなる一方、苦しみの主体だった被爆者たちと日本人の怒りは漂白され、核兵器廃絶の理想を語る言葉だけが踊る。核のボタンを持参して平和公園に立ったオバマ氏と、怒りを失った被爆地の姿が、くしくも核兵器に溢れた世界の現実を表している。」(
半澤健市「リベラル21」2016.08.06

【山中人間話目次】
・土山秀夫「“神話”信じる米国民 原爆は戦争を終わらせたか」(長崎新聞 2007年8月4日)
・決断なき原爆投下 ~米大統領 71年目の真実~
・バラク・オバマは広島へ何しに来るのか―高村薫の文章に共感する-半澤健市「リベラル21」2016.08.06
キョウ とちじせん12

Blog「みずき」:政治学者の浅井基文さんは野党共闘のあり方を「戦術的共闘」と「戦略的共闘」という2つの次元に区別し、その上で「今回の東京都知事選挙における統一候補擁立は、参議院選挙における野党共闘をさらに進めるという野党4党の基本認識の一致だけが先行し、その上で4党が一致できる「勝てそうな」候補者を探すという、ドタバタの戦術的共闘」でしかなく、「戦術的共闘と戦略的共闘という二つの次元を明確に意識し、整理した上で「共闘」を組み立て」えなかったことが今回の鳥越陣営の都知事選惨敗の原因であった、と分析しています。ここで浅井さんのいう「戦略的共闘」とは、「21世紀の日本が取るべき進路・目標」のことで、「その進路・目標に関する各野党内部、野党間及び「市民勢力」の立場・考え・政策を付き合わせ、徹底して議論を闘わせ、その上で一致できる最大公約数に基づいて、主権者・国民に訴えていく共闘を組み立てるということです」。先日の「今日の言葉」での森川文人さん(弁護士)の問題提起と共通するところが多い問題提起です。革新者の問題提起は似通うというのが私の所感です。同じ方向をめざそうとしているわけですから当然といえば当然ということでしょう。

【日本政治を根本から主権者・国民の手に取り戻す道筋】
今回の東京都知事選挙における統一候補擁立は、参議院選挙における野党共闘をさらに進めるという野党4党の基本認識の一致だけが先行し、その上で4党が一致できる「勝てそうな」候補者を探すという、ドタバタの戦術的共闘でした。(略)各党の内部矛盾を無視してしゃにむに突っ走ったのですから、惨敗に終わったのはある意味必然だったと言えるでしょう。参議院選挙及び東京都知事選における最大の教訓は、戦略的目標を共有しない戦術的共闘の限界ということです。私が言う「戦略的目標」というのは、「21世紀の日本が取るべき進路・目標」ということです。そして、戦略的共闘というのは、その進路・目標に関する各野党内部、野党間及び「市民勢力」の立場・考え・政策を付き合わせ、徹底して議論を闘わせ、その上で一致できる最大公約数に基づいて、主権者・国民に訴えていく共闘を組み立てるということです。 野党内部における徹底した議論の必要性をも含める必要性は、民進党内の共産党との共闘をめぐる岡田代表と「右バネ」勢力との対立、あるいは、「鳥越擁立先にありきで、宇都宮氏に立候補断念を迫った共産党の強引な手法」について考えれば直ちに理解されるでしょう。

ちなみに、「徹底した議論を尽くす」ということはデモクラシーが生命力を持つ上での大前提であり、その命綱ですが、日本の政治土壌を考えるとき、実は極めて難しい課題です。自民党にしても民進党にしても、政権・権力の座につくことを至上課題とし、それだけを一致点とした様々なグループの寄合所帯です(思想信条は二の次、三の次)。ですから、民進党の寄合所帯的性格は「共産党との共闘」というテーマをめぐって直ちに露呈するのです。(略)徹底した議論を尽くすというデモクラシーの基本からいうと、公明党及び共産党についても別の問題があります。それは基本的に「上意下達」の組織であって、党内デモクラシーが欠落(言い過ぎ?)していることです。しかし、政党政治に代わる有効な仕組みが現れない限り、日本の各政党が以上の課題を克服することは、日本政治が真にデモクラシーを実現するための欠くべからざる前提条件です。(略)
参議院選挙では、安倍政治の暴走で危機に直面している日本の立憲主義を守るということが、野党共闘における柱だったし、そのことが野党共闘に求心力を持たせたことは間違いありません。その限りでは、戦略的共闘の要素が原初的に含まれていたことは否定できません。しかし、私が言う「戦略的目標に基づく戦略的共闘」というのは、憲法、内政、安保、外交のあらゆる分野で日本が直面する基本問題について、各政党内部及び各政党間で徹底した議論を闘わせ、その過程を通じて得られた最大公約数に基づいて、主権者・国民に訴える共闘体制を組み立てるものでなければなりません。そういう真摯な取り組みのみが、自公政治に最終的に引導を渡し、日本政治を根本から主権者・国民の手に取り戻すことができるのです。(浅井基文のページ 2016.08.04

【山中人間話目次】
・日本政府、ナショナリストを防衛相に任命-ルモンド 8月3日 Philippe Mesmer (東京特派員)
・美濃加茂市長事件控訴審で見えてきたもの 郷原信郎
・ヒューマンライツ・ナウの「タイの新憲法案及び国民投票の手続きについて重大な懸念を表明する」声明
キョウ とちじせん11

Blog「みずき」:以下は、政治学者の浅井基文さんの東京都知事選における鳥越陣営(リベラル・左派)の敗因の分析です。浅井さんはその敗因の要因を民進党、共産党、社民党、宇都宮陣営それぞれが抱え持つ「病理」に還元する形でそれらの問題性を論じています。「宇都宮擁立を強く推したのは社民党の福島副党首をはじめとするいわゆる市民団体であった」とする指摘は、福島氏のお連れ合いである弁護士の海渡雄一氏が「宇都宮健児 希望のまち東京をつくる会」の代表をしていたことなどからもさもありなんと思わせるものがあります。浅井さんのその指摘が真であれば(私は真だろうと思いますが)、社民党は、公式には鳥越氏を支持しながら、その裏側では宇都宮氏を推すという背理を犯していたことになります。「野党共闘」ははじめから崩れるべくして崩れていたのです。ここからはその背理の理路の必然として「野党共闘」とはそもそもなにか、という話に移らざるをえませんが、その本質論の話は浅井さんの「今日の言葉(2)」で語られることになります。

【野党共闘の「一枚岩」という前提の虚構性と脆さについて】
今回の都知事選挙での主要3候補の得票数は次のとおりでした。(略)参議院選挙東京選挙区での主要政党候補の得票数は次のとおりでした。(略)以上の数字から、直ちに以下の事実が分かります。第一に、小池及び増田両候補の得票合計数は参議院選挙での自公3候補の得票合計数を140万票以上上回っていること。第二に、鳥越候補の得票数は、同候補を支援した民進・共産・社民3党の候補が参議院選挙で得票した合計数を130万票以上下回っていること。以上の2点から分かることは、今回鳥越候補を支援した政党の参院選立候補者に投票したかなりの部分(130万票以上)が小池または増田候補に流れたと見られることです。そして、事前の各種世論調査結果及び様々な報道から判断するとき、その原因としては、以下の要素が働いたことが分かります。一番大きい要素としては、参議院選挙で190万票以上を獲得した民進党が、知事選挙期間中から、共産党との共闘の是非をめぐって深刻な内部対立が起こったことがメディアで広く報道されており、民進党支持者の中の「反共」層(連合を含む)が小池または増田候補に投票したと判断されることです。第二に、本来は比較的堅いはずの共産党支持層ですが、前の2回の都知事選挙で共産党が中心になって擁立した宇都宮健児氏が今回も立候補に最後まで意欲を持ち続け、最終的に断念したものの、鳥越候補に対する支持を明確にしなかったことが、参議院選挙で共産党候補に投票した人々の投票行動に影響を与えた可能性があることです。第三に、参議院選挙では9万4千票弱しか獲得しなかった社民党ですが、私がある会合で社民党の内部事情に詳しい人から直接聞いたところによると、宇都宮擁立を強く推したのは社民党の福島副党首をはじめとするいわゆる市民団体であったとのこと(私の情報源はこれだけですので間違っていたらお許し下さい)で、参議院選挙で社民党候補に投票した人々の投票行動にも影響があった可能性があります。

このように、鳥越支持の主要3党それぞれに複雑な内部事情が働いたのですから、同候補に勝ち目はなかったことは容易に理解できます。つまり、民進・共産・社民などが一枚岩になってはじめて自公と互角以上に戦えるというのが参議院選挙結果の示しているところですが、そういう前提が崩れた状況下では到底勝負にならなかったと言えるでしょう。(略)

さらにつけ加えるならば、民進党の岡田代表が投票日直前というおよそ考えられないタイミングで9月の党代表選への出馬断念を表明したことは、彼自身の政治家としての識見のなさ(政治家としての資質の問題)を露呈しただけでなく、彼の行動に呆れ、怒った少なくとも一部有権者の投票行動に影響を及ぼしたことも間違いないでしょう。また、宇都宮氏の態度も一部有権者の投票行動に影響を及ぼしたことは間違いないでしょう。宇都宮氏が鳥越氏の応援に登場しなかったことに関する本人の説明(略)によれば、いわゆる「女性問題」に関する宇都宮氏の質問に対する鳥越氏の回答内容が不十分であり、人権問題を一貫して重視してきた宇都宮氏としては納得がいかなかったからとされています。この報道が正しいとするのであれば、私としては宇都宮氏の行動には納得できません。そもそも、選挙の最中に週刊誌(しかも名うての「暴露もの」を手がける2つの週刊誌)がこういう問題を持ち出すことが政治的悪意によるものであったことは明らかです。宇都宮氏の行動は、そういう週刊誌の行動に客観的に加担し、正当性を与えてしまっています。また、宇都宮氏の行動は、少なからぬ有権者の投票行動に影響を及ぼす公人としての責任意識が伴っていなければならなかったはずですが、宇都宮氏の発言からはその意識を窺うことができません。(
浅井基文のページ 2016.08.04

【山中人間話目次】
・斉藤美奈子さんの「本音のコラム」(東京新聞 2016年8月3日)の急所の主張について私は全面的に反対です
・孫崎享という人はリベラルでも左派でもない。保守の別働隊にすぎない
・蓮舫という女性政治家は定見のない御身大事の人でしかないことを証明した8月4日の時事の記事
キョウ おーるおきなわ3

Blog「みずき」:沖縄の民主勢力(オール沖縄)の激しい「右傾化」を危惧する(ここにも共産党の「右傾化」の影響が当然尾を引いている)。法を無視して暴虐の限りを尽くすあまりに理不尽な沖縄・高江のヘリパッド建設強行に反対しない「オール沖縄」とはいったいなにか。何者か! 「アリの一言」ブログ氏の怒りの問い。


【「高江にはノータッチだ」というオール沖縄の志の存否を厳しく問う】
安倍政権による沖縄・高江の
ヘリパッド建設強行は、「もはや日本は『法治国家』の名に値しない」(2日付琉球新報社説)ほどの暴挙であり、沖縄と「本土」の民主的世論を結集して建設を阻止することが急務です。そんななか、奇妙な事態が起こっています。沖縄の新基地建設を阻止するために結成されたはずの「オール沖縄会議」が、「高江」についてはノータッチで反対はしないというのです。いったいどういうことでしょうか。問題が露呈したのは、沖縄県議会で「ヘリパッド建設を強行に進めることに対し厳重に抗議するとともに、建設を直ちに中止するよう強く要請する」という「意見書」(7月21日)が翁長県政与党(社民党、共産党、社大党など)の賛成多数で採択される過程でした。「『県議会で反対決議を』という市民の声を受け、与党や経済界でつくる『オール沖縄会議』は緊急の会合を開催。ただ、結成の目的は辺野古阻止のため、オール沖縄会議としては高江には触れない結論に至った」(7月29日付沖縄タイムス)「オール沖縄会議」は「辺野古」のために結成したものだから、「高江」にはノータッチだ、というのです。こんなバカな話はありません。同会議は確かに「辺野古新基地建設阻止」を前面に掲げ、「翁長知事を支え」るとして発足したものです。しかし同時に、その「設立趣意書」(2015年12月14)にはこう明記されています。「オスプレイの配備撤回、普天間基地の閉鎖撤去、県内移設断念を求め政府に突きつけた2013年の『建白書』の精神を基軸に(する)」「新基地建設を阻止し、明るい未来の扉を開いていく」

高江ヘリパッドの主な目的はまさにオスプレイの訓練です。「オスプレイの配備撤回」を要求するなら、高江のヘリパッド建設に反対するのは当然です。そして言うまでもなく、高江ヘリパッドは米軍の「新基地」です。翁長知事は「オスプレイが訓練するというのもはっきりしているので、こうしたことの説明がないままに着工するべきではない」(7月23日付琉球新報)と言いながら態度を明確にしていません。というより、「
SACO合意を着実に実施する」(同)としてSACO合意にあるヘリパッド建設を容認する姿勢を示しながら、市民や県政与党の手前、あいまいな態度に終始しているのです。「オール沖縄会議」が「建白書」の実現、「新基地建設阻止」を「設立趣意書」でうたいながら、高江にはノータッチだというのはなぜか。ヘリパッド建設を容認する翁長氏と歩調を合わせるためにほかなりません。これが「翁長知事の闘いを全面的に支えていく」(設立趣意書)ということでしょうか。同会議の共同代表である稲嶺進名護市長、高里鈴代基地・軍隊を許さない行動する女たちの会代表(もう1人の共同代表は呉屋守将金秀グループ会長)は、「高江には触れない」という「結論」に異論はないのでしょうか。同会議の意思決定は、いったいどこで、どのようなプロセスで、どのような議論を経ておこなわれるのでしょうか。「高江」について稲嶺氏や高里氏はどのような主張を行ったのでしょうか。「オール沖縄会議」は、辺野古、高江を含めあらゆる「新基地建設阻止」の立場に立つのか、それとも翁長氏と一蓮托生の「翁長後援会」に終始するのか。その立場がきびしく問われています。(アリの一言 2016年08月02日

【山中人間話目次】
・金平茂紀の新・ワジワジー通信(17)】理不尽な、あまりに理不尽な 高江着手 胃液逆流の思い
・多くの人たちが脱出口のない政治の状況に絶望し、虚無という空っぽの魂を抱いて生きている
・内野光子さん(歌人)の応答への応答――小さなつながりが小さくない希望になる
・戦時中の日本による残虐行為を「なかった」と否定し、核保有を検討すべきと主張するマジキチが防衛大臣になっちゃった、と英タイムズ紙
・イスラエルのハーレツ紙は「ネオナチ関係者が日本の防衛大臣に」と
キョウ ストライキ

Blog「みずき」:ここで森川文人さん(弁護士)は今回の都知事選の評価に関して誰も言わないことを指摘しています。小池氏も鳥越氏も国防を必要とする自衛論者であるという点では変わりがない。それゆえ、今回の都民の政治選択は、いわば「五十歩百歩」の選択というものでしかなかった。その結果として共産党や民進党の支持層の票が小池氏に流れたという側面もあるのではないか、と。重要な視点であり、かつ、指摘だと思います。森川さんはさらにそこから進んで「日和見主義に見えるリベラルに変わる『立ち位置』を明確にした政治思想と実践の重要性」を説きます。それが今回の都知事選の敗北の反省を生かす、ということではないか、と。革新の立場からの今回の都知事選評価としてもっとも本質を突いた指摘、というのが私の評価です。


【小池氏と鳥越氏という「五十歩百歩」の選択が小池氏に流れた】
改憲を求める「日本会議」国会議員懇談会の元副会長で、元防衛相の小池百合子氏が59.73%と高い投票率の下、2912628票と都知事選を「圧勝」。そして、「無所属」で立候補した小池氏に「党派超えて得票」がされたということで、
民進党の支持層の28%、共産党の支持層19%も小池氏に投票したとのことです(略)日々の暮らしが厳しい中、政治的な関心よりも生活=経済に目を向けざるを得ず、強く、頼り甲斐のあるようなイメージやムードに惹かれる・・・。日本の「リベラル」の意味は今一つはっきりしません(略)が、今回の野党共闘がリベラルの結集であるなら、とりあえず「反安倍政権ならリベラル」というところでしょうか。「なんとなくリベラル」という話は以前も書きましたが、そもそも、民進党は改憲政党ですし、基本的に「個別的自衛権」は仕方ない、というのが「リベラル」の発想ということだと思います。そうでなければ共闘などできないでしょう。「日和見主義」とは、いわば情勢を見て長いものに巻かれよ、という発想ですが、今の日本のリベラルの状況は、ここでいう「日和見主義」に近いものがあると思います。

小池氏は、バリバリの国防論者ですが、鳥越氏も国防を必要とする自衛論者であることは変わりません。その他の点でも、本質的に異なる政策が明示できたのか疑問です。体制内で「まあまあこの辺りで」が「反安倍リベラル」の本質だったとすれば、いわば「五十歩百歩」の選択として「野党」の支持層も小池氏に流れたのではないでしょうか。この「日和見主義」については、昨今、各国でも顕著な排外主義的なナショナリズムとの「合流」が歴史的に危ぶまれています。「日和見主義と社会排外主義との経済的基礎は同一のものである。すなわち、労働者と小ブルジョアジーのごく少数の特権層の利益がそれであって、彼らは自分たちの特権的地位をまもり、また「自」国のブルジョアジーがあるいは他民族を略奪することにより、あるいはその大国としての有利な地位を利用することによって手に入れた利潤のおこぼれをもらう自分たちの「権利」をまもっているのである。」「日和見主義と社会排外主義との思想的=政治的内容は同一のものである。すなわち、階級闘争のかわりに階級協力、革命的闘争手段の放棄、「自国」政府の困難を革命のために利用するかわりに、困難な状態にある「自国」政府への援助、これがそうである。」(レーニン『
社会主義と戦争』)

別に、だから、今すぐ革命だ!などというつもりはありません。ただ、あまりにも「階級」的な利害の対立が誤魔化され、もしくは、自ら目をそらし、曖昧なまま階級協力=労使協調=ニッポン頑張れ、に流れようとする今、日和見主義に見えるリベラルに変わる強烈な階級視点を押し出すことは改めて必要だと思います。「ヒトラーの日和見主義は、ストライキ戦術により、意のままにふるまわされている。ストライキ戦術により、都市や地方の経済生活はすべて麻痺させられ、有産階級−ヒトラーは彼らの中から支持者を獲得している−の利益も、その心臓部に打撃を加えられている。・・・ストライキ戦術こそが、ナチスの突撃隊の背後に加えられた致命的な打撃となっている。」(『
クーデターの技術』クルティオー・マラパルテ)マラパルテは、これを1931年、つまりナチスの政権獲得前に指摘していますが、この時点での「ストライキ戦術」の重要性・有効性が指摘されているのは示唆だと思います。現在の韓国やフランスのゼネスト状況は、まさに99%側の私たちの直接の声の表れです。今、日本の私たちにも必要なのは、議論を深め、曖昧な日和見主義を改め、「立ち位置」を明確にした政治思想と実践だと歴史は教えてくれている思います。(御苑のベンゴシ 森川文人のブログ 2016-08-02

【山中人間話目次】
・都知事選、小池氏に幅広い支持 朝日新聞出口調査:朝日新聞デジタル 
・kojitakenさんの都知事選総括(2)――左翼・左派・リベラルの理非曲直の問題
・猪野亨さん(弁護士)の「桜井誠氏が11万票を集めた意味」の分析