キョウ きょうさんとう
政策委員長辞任を表明し、記者会見場を後にする
共産党の藤野保史氏。右は、小池晃書記局長

Blog「みずき」:「今日の言葉」は「アリの一言」ブログ氏の問題提起に尽きます。今回の「事件」は、私は、共産党の引き返し不可能なまでの変質をもっともわかりやすい形で露わにした「事件」として捉えています。そのため掲載した写真も多少いじわるかもしれませんが同党の右傾化を率先して実践してきた小池晃書記局長のそういう意味での側面がわかるようなものにしました。こちらの記事もあわせてご参照いただければ幸いです。 

【藤野保史共産党政策委員長更迭問題】
日本共産党の藤野保史政策委員長が28日、NHK討論番組(26日)での発言を理由に更迭されました。これはその内容、経過ともに、きわめて重大な問題を残したと言わざるをえません。経過をたどってみましょう。「問題」の発端は、藤野氏が「26日のNHK番組で、2016年度予算で初めて5兆円を超えた防衛費に触れ『人を殺すための予算ではなく、人を支えて育てる予算を優先する』と言及した」(29日付中国新聞=共同配信)ことです。この発言に対し、安倍首相が「自衛隊に対する侮辱だ」と攻撃したほか、民進党の枝野幹事長も「関係者に不快感を与える発言」と反発しました。26日、藤野氏は番組放送のあと「コメント」を発表しました。「本日のNHK討論で、軍事費について、『人を殺すための予算』と発言しました。この発言は、安保法制=戦争法と一体に海外派兵用の武器・装備が拡大していることを念頭においたものでしたが、テレビでの発言そのものはそうした限定をつけずに述べており、不適切であり、取り消します」(27日付「しんぶん赤旗」)27日、共産党の志位和夫委員長は、「不適切だ。武器購入が念頭にあったようだが、限定していない。私からも注意した」と述べました(28日付中国新聞=共同配信)。そして28日、藤野氏は小池晃書記局長とともに会見し、政策委員長を辞任(事実上の更迭)したことを明らかにするとともに「おわびコメント」を発表しました。「この発言はわが党の方針と異なる誤った発言であり、結果として自衛隊のみなさんを傷つけるものとなってしまいました。深く反省し、国民のみなさんに心からおわび申し上げます。あわせて選挙をともにたたかっている野党共闘の関係者のみなさん、支持者と党員のみなさんに、多大なご迷惑をおかけしたことをおわびいたします」(29日付「しんぶん赤旗」)(略)

しかし、果たしてそれは共産党の方針と異なっているでしょうか。たとえば、先の衆院北海道5区補選(4月24日投票)で、自民党陣営から「(共産党は)自衛隊反対だなんていっている。いま自衛隊がどれだけ九州(災害救助)で活躍しているか」という攻撃がなされました。これに対し、共産党はこう反論しました。「自衛隊は、憲法9条が保持を禁じた『戦力』にあたるので、日本共産党は、将来的には9条の完全実施(自衛隊の解消)をめざしています。それは戦争のない、軍隊も必要のない世界という平和の理想につながるものです」(4月23日付「しんぶん赤旗」)この反論と、藤野氏の発言と、どこがどれだけ違うのでしょうか。自衛隊は、共産党も認めているように、憲法違反の戦力=軍隊です。軍隊の本質的使命は「人殺し」です。自衛隊員予算を含む軍事費を「人を殺すための予算」と言うことがどうして間違っているのでしょう。(略)

事が藤野氏の更迭だけで済むなら共産党内部の問題としてそれほど騒ぐ必要はないでしょう。しかしそうはいかないところに大きな問題があります。今回の経過によって、「国民」の中には、やっぱり「自衛隊」や「防衛予算」は悪いものではないんだ、批判すべきではないんだ、という印象が残ったのではないでしょうか。藤野氏が「おわびコメント」で「自衛隊を傷つけた」として「国民のみなさんに」謝り、「自衛隊」と「国民」を一体化させているのも問題です。これは「自衛隊・軍事費批判タブー」を助長するものです。これこそが最も問題であり、安倍・自民党の狙いもそこにあることは明白です。臆することなく、「タブー」を打ち破って、声を大にして言わねばなりません。「5兆円を超える軍事費=人殺しのための予算を削って、人を支え育てる福祉・教育予算へ」「憲法違反の自衛隊は解散し、災害救助のための専門組織を」(
アリの一言 2016年06月30日

【山中人間話目次】
小熊英二の論壇時評『21世紀型選挙へ 人との対話が「回路」ひらく』批判
「横浜事件」国賠第1審訴訟敗訴。しかし、闘いは続く。
「生長の家」の「第24回参議院議員選挙に向けて」という声明と私の声明
労働党内でのコービン落とし劇は元労働党党首(元首相)のブレアが背後で仕掛けている
常岡浩介さんのリベラルを標榜する月刊『創』編集長・篠田博之氏への怒りを私は支持する
キョウ ちゅうろきょうどうせいめい2 

Blog「みずき」:浅井基文さんの先日発表された中露共同声明の解説。浅井さんはこの中露共同声明は「アメリカに対して向けられたものである以上に、日本に対して向けられたものと見るべき」だろうと指摘します。浅井さんは中露共同声明の解説でなぜこのような説明をわざわざするのか。「アメリカに好意を抱くものが80%を超え、国際関係に関する報道は圧倒的にアメリカのプリズムを通して見ることに慣らされてしまっている日本国内では、アメリカの危険極まる対外政策及びご都合主義の国際法利用に対して正確な認識がほとんど」ないからにほかなりません。以下、浅井さんの指摘。

【中露共同声明は日本に対して向けられたもの】
21世紀に向けた戦略協力パートナーシップ発表20周年及び
中露善隣友好協力条約締結15周年に際して、プーチン大統領は6月24日-25日に訪中し、中露共同声明、ネット空間発展推進の共同声明、グローバルな戦略的安定強化に関する共同声明(以上の署名者は両元首)そして国際法推進に関する声明(署名者は両国外相)が発表されました。中露共同声明では、中露が一致して「国連安保理が定める枠組みを逸脱した一方的制裁は国際法原則に合致せず、国連憲章が規定する安保理の職権を損ない、安保理の現行制裁制度の効率を低下させ、制裁を受ける国家がふさわしくない損害を被るのみならず、自国領域外で制裁を実施することも第三国及び国際貿易経済関係に対して不利な影響を生む」と認識するという、名指しこそしていないけれども、アメリカの対外政策を真っ向から批判する表明があります(ちなみに、上記くだりに続いて、「中露は、第二次大戦戦勝国、国連創設国及び安保理常任理事国として、第二次大戦の成果を断固として守り、第二次大戦を否定、歪曲及び偽造する企みに反対し、国連の権威を擁護するとともに、ファシズム、軍国主義等の罪行を解除し、解放者を中傷する行動を断固として批判し、世界大戦の悲劇の再演を防止するためにあらゆる努力を行う」という表明もあります。

これは、アメリカに対して向けられたものである以上に、日本に対して向けられたものと見るべきでしょう。プーチン・ロシアがこの点で習近平・中国と同じ認識に立っていることを明示したものとして、プーチンに根拠のない期待を寄せる安倍政権に対するメッセージ性は強烈なものがあります)。このくだりをさらに独立して扱ったのがグローバルな戦略的安定強化に関する共同声明と国際法推進に関する声明ということになります。中国とロシアが足並みを揃えてアメリカの覇権主義に対して断固として立ち向かっていく立場を明確にしたもの(2.の環球時報社説参照)として、これらの声明は極めて重要だと思います。アメリカに好意を抱くものが80%を超え、国際関係に関する報道は圧倒的にアメリカのプリズムを通して見ることに慣らされてしまっている日本国内では、アメリカの危険極まる対外政策及びご都合主義の国際法利用に対して正確な認識がほとんどありませんが、この2つの声明は正確にアメリカの対外政策の本質的問題を批判しています。日本にとっては領土問題、さらに国際関係では朝鮮半島、南シナ海、さらにはシリア問題等々、今後の中露両国の共同歩調が強まれば、アメリカの世界戦略に対して大きなカベとなって立ちふさがる局面もますます増えてくることが予想されます。(
浅井基文のページ 2016.06.28

【山中人間話目次】
【和訳】明大レペタ教授が警告する『自民党憲法改正案の最も危険な10の項目』(総合リンク集)
朝日ジャーナルの復刊 堕落しきった共産党の右傾化体質(3)――山口二郎と白井聡の共産党の「国民連合政府」構想支持
堕落しきった共産党の右傾化体質(2)――木下ちがやと岩上安身の三宅洋平擁護
堕落しきった共産党の右傾化体質(1)――藤野保史政策委員長の辞任問題
この日、ビートルズが初来日したという(1966年)
小林興起という政治家らしいやからと「国民連合政府」構想の関係
屋良朝博さんの「沖縄の基地集中度は74%は誤りで、39%」という在日米軍司令部のプロパガンダ批判
田中宇さんの「英国のEU離脱」論
イギリスのEU離脱国民投票 あらわになったグローバリズムの曲がり角 街の弁護士日記
キョウ てんのう8

Blog「みずき」:内野光子さんの下記の記事には「皇太子時代に5回、即位後5回、沖縄を訪問している。こうした天皇・皇后の沖縄への思い入れは、何に拠っているのか、そこで詠まれた短歌・琉歌(合わせると30首前後になろうか)、そして、沖縄に関する「おことば」を通して検証することにした」とありますが、内野さんのその検証の内容が知りたいところです。近く発行される『社会文学』44号に同論攷は掲載されるということですが、その『社会文学』は私の在所の県立図書館には蔵書はないようです。機会があれば読みたいものです。内野さんの「保守派に限らず、いわゆるリベラル派と称される人々からも、天皇夫妻の短歌をはじめとする様々な発言や振る舞いに、敬意と称賛の声が上がっている事実とその危うさについても指摘した」という点も重要ですね。先日読んだ辺見庸ブログの6月23日付けの記事にも「いまさらながら、文化人、知識人などと呼ばれる人びとの〝天皇賛歌〟、てか、「親天皇回帰」にはおどろかされます」という指摘もあります。こういう声をもっと大きくしていかなければならないと切に思うこの頃ではあります。

【沖縄における天皇の短歌は何を語るのか】
偶然にも、沖縄に出かける日の前日、6月19日、上記の表題で、「
思想史の会」にて報告する機会をいただいた。大学同期の政治思想史専攻の友人和田守さんたちにより丸山真男が亡くなった年に立ち上げられた研究会の由、今年で20年になり、この日は第70回目の研究会だという。和田さんの紹介なので、やや緊張するが、会員の大半は研究者で、企業のOBでその後大学に関係している方もいらっしゃるようだ。少々心細かったのだが、短歌という切り口で、天皇制を見てもらえればと思い、お引き受けすることにした。会場は、法政大学のボアソナードタワーの一室、参加者20人ほどであった。コメンテイターとして原武史さんが参加される由、聞いていたので、久しぶりにお目にかかれるのも楽しみだった。原さんとは、かつて立教大学の五十嵐暁郎さんたちの象徴天皇制研究会で、短期間ながらご一緒した時期があった。私の報告では、皇太子時代に5回、即位後5回、沖縄を訪問している。こうした天皇・皇后の沖縄への思い入れは、何に拠っているのか、そこで詠まれた短歌・琉歌(合わせると30首前後になろうか)、そして、沖縄に関する「おことば」を通して検証することにした。天皇(夫妻)はどういう時期に何を目的に沖縄を訪問し、そこで詠まれた短歌や「おことば」という形でのメッセージは、現実にはどういう役割を担ったのか、についても触れた。

一方、保守派に限らず、いわゆるリベラル派と称される人々からも、天皇夫妻の短歌をはじめとする様々な発言や振る舞いに、敬意と称賛の声が上がっている事実とその危うさについても指摘した。さらに、天皇のこれらのメッセージに沖縄の歌人たちはどう応えたか、については、沖縄からの歌会始への応募・入選の状況と沖縄の歌人たちが天皇(夫妻)を詠んだ短歌を収集、その意味を探った。次に本土の歌人たちが、沖縄を、沖縄の歌人たちの短歌をどのように受け止めたかを、渡英子、小高賢、松村正直の批判から探ってみた。また、沖縄の歌人たちは、それらをどのように受容したのか、しなかったのか、屋良健一郎、名嘉真恵美子、玉城洋子らの発言から検証してみた。原さんからは、
貞明皇后の御歌集には何種類かあって、その作歌経過がわかるものがあり、いまの天皇・皇后の短歌も、公表される前の作歌過程があるに違いないので、そのあたりが解明される必要があるのではないか、とのコメントをいただいた。(略)詳細は、近く、発行予定の『社会文学』44号に寄稿しているので、機会があればご覧いただきたい。(内野光子のブログ 2016年6月27日

【パルタイの、どうにもならない知的荒廃としての「野党共闘」】
Makoto Yasuさん『民進党 福山哲郎を応援しながら/島売りあい子とか、彼女批判する/あなた方を批判したい』:共産党の「選挙目あてのファッショ諸派との野合」を批判する以下の辺見庸の指摘をご紹介しておきたいと思います。

『あるかたからつまらぬ質問があったので書いておく。日本共産党機関紙赤旗による
インタビュー要請・ドタキャン事件についてのわたしの態度はげんざいも0.01ミリも変わっていない。すこし変わったとすれば、この党に以前よりさらに失望したことぐらい。徹底的にダメなのは、この党が相も変わらず、党の内外からの都合のわるい質問、批判を無視、圧殺していることだ。それかあらぬか、君たち日共幹部は、脱いではいけないパンツまで脱いでみせて、みたくもない腐ったイチモツをさらけだしはじめた。選挙目あてのファッショ諸派との野合天皇制にかんする重大な路線転換。わたしの質問には、公式にも非公式にも、なんの回答もなかった。その間、わたしはすこし学んだかもしれない。「あったこと」を「なかったこと」にしてしまう、「集団芸」の薄気味わるい巧みさと、暗黙のうちにみんなでそれをやりとげてしまう手法において、あんたがたはむかしから国家権力あるいはファシストと大差ないのだな、と。けだし情けないのは、みながそれを台本どおりやりぬいて、およそ例外ということがないことだ。『動物農場』の世界をまだはりつけているあなたがたに言うべきことばはない。(略)赤旗のインタビュー要請・ドタキャン・沈黙・無視のプロセスには、権力に目がくらんだパルタイの、どうにもならない知的荒廃がありありとみえる。したがってもう書くにもあたいしない。わたしの立場は0.001ミリも変わっていない。正義ぶるスターリニストは、バカな右翼より、よほど手がつけられないときがある。『1★9★3★7』が、あの連中のあいだでは、事実上の「禁書」となっているらしいことを、わたしは光栄におもふ。』(辺見庸「日録」2016/04/10

「民進党の福山哲郎を応援しながら島売りあい子を批判する」ことができるのは、今回の「野党統一候補」がこうした「ファッショ諸派との野合」の所産でしかないからです。そういうこともあって、すでに宣言していることですが、私はそうした「ファッショ諸派との野合」に加担することはできません。今回の選挙は、私は、「積極的投票拒否権」を行使するつもりです。(
東本高志フェイスブック 2016年6月26日
キョウ まいにちしんぶん

以下の記事は、6月12日付けの弊フェイスブック記事での指摘の続きとなるべきものです。 鄭栄桓さん(明治学院大学准教授、朝鮮近現代史)が「朝鮮人捕虜:米の尋問調書発見…日本支配の過酷さ記録」という毎日新聞の6月10日付け記事の誤報を指摘しておよそ2週間経ちましたが、その誤報を指摘された当事者としての毎日新聞にも、メディアの「誤報」記事の摘出を通じて同メディアの自省と自己淘汰をうながす目的で設立された日本報道検証機構(略称、GoHoo。代表、楊井人文弁護士) にも同記事を訂正する動きは見られませんし、また同記事が「誤報」であることの指摘もありません。

なぜ、これほど明瞭すぎるほどの指摘のある「誤報」記事を毎日新聞はいまだに訂正しようとしないのか?また、なぜ、日本報道検証機構は毎日の同記事が誤報であることを指摘しないのか?

考えられることのひとつに上記の毎日新聞の記事で朝鮮人捕虜に関する米尋問調書の発見者とされている浅野豊美早大教授(日本政治外交史)の以下のような弁明があります。その浅野教授の弁明を精査することもなく無批判によしとして毎日新聞は訂正記事を書かないし、GoHooも「誤報」の指摘記事を書かない、ということであれば、メディアの自殺行為に等しい大問題といわなければなりません。

さて、では、毎日新聞も日本報道検証機構も訂正記事、また「誤報」の指摘記事を書かなくとも済むほどに同浅野教授の弁明は正しいといえるものなのか? 検討してみます。同教授の弁明は以下のようなものです。

浅野豊美氏コメント
『この文章のタイトルと基本説明(冒頭の文書)、ソウル大人権センターの方からのクレームに合わせて変えましたが、彼等は答えを見つけては居らず、質問項目だけを見つけていたようです。答えは私が22年前に見つけ、その関連資料としての、朝鮮人捕虜の個別尋問記録が今回見つかったものです。。ビルマの尋問記録と太平洋の尋問記録を、わざと混同させて、ぼかしているように思えますが、もしも、質問の答えの調書まで見つけていたとしたら、極めて恣意的な報道を2015年2月に行ったということになります。』


しかし、上記の浅野氏のコメントには明らかな論理のすりかえがあります。浅野教授から「彼ら」と言われている今回の毎日新聞の「誤報」の指摘者の韓国の聖公会大学の康誠賢研究教授(社会学)は米側尋問に対する朝鮮人捕虜の「答え」の発見の有無を問題にしているのではありません。康教授がここで問題にしているのは、毎日新聞と浅野教授は今年の「3月、さらに米軍の質問と関連の資料を発見した」(毎日新聞、2016年6月10日付)としているが、そこでいわれている「質問」資料は韓国のメディアによってすでに公表されているものであり、それを「発見した」などという報道は事実に反している、というものです。浅野教授は、その康誠賢研究教授の「『質問』資料は韓国のメディアによってすでに公表されている」という指摘を朝鮮人捕虜の「答え」の発見の有無の問題にすりかえています。きわめて不誠実かつ学者としてあるまじき詐術的な態度といわなければなりません。

毎日新聞と日本報道検証機構は浅野教授のこうした詐術的な論法に欺かれることなく、今すぐにでも「誤報」についてきちんとした訂正記事を書き、また、「誤報」を指摘する記事を書くべきです。それがメディアのあるべき自浄作用のありようというべきではありませんか。また、浅野教授には学者としての真摯な反省を求めるものです。

以上、再度指摘しておきます。
キョウ おなが3

Blog「みずき」:翁長知事は「米軍属による女性暴行殺人事件に抗議する県民大会」を前にした県庁での16日の記者会見で「『海兵隊の撤退』は『全面撤退』ではないと思う」と述べているようですが、この翁長知事の認識は事実に反するでしょう。
2016年5月26日付けの朝日新聞が「在沖海兵隊すべての撤退要求を県議会として決めるのは、1972年の本土復帰後初めて」という沖縄県議会事務局のコメントを取材して掲載していますが、同記事はこの件に関する翁長知事の認識の誤りを示すひとつの傍証になっています。あったことをなかったことのように言う不誠実な態度は沖縄県知事としてはもちろん、辺野古基地建設反対運動のリーダーとしてもふさわしいものではありません。私からもそのことを指摘しておきたいと思います。

【「海兵隊の撤退」要求は「全面撤退」ではじめて一定の意味を持つ】
「慰霊の日」の「沖縄全戦没者追悼式典」(県主催)で翁長雄志知事が行った「
平和宣言」に対し、「人権と平和守る要求だ」(24日付琉球新報社説)などと、全面的に賛美する論調が蔓延しています。しかし、「平和宣言」の内容をリアルに検証するなら、それはとうてい評価できるものではありません。むしろ、重大な後退を指摘せざるをえません。「平和宣言」の中で翁長氏はこう言いました。「日米両政府に対し、日米地位協定の抜本的な見直しとともに、海兵隊の削減を含む米軍基地の整理縮小など…直ちに実現するよう強く求める」これに対し琉球新報は社説(24日付)で「海兵隊削減を『平和宣言』に盛り込むのは初めてだ」「19日の県民大会も海兵隊撤退を掲げた。『平和宣言』に盛り込むのは自然の流れだ」と手放しで評価しています。きわめて奇妙な論説です。県民大会決議が掲げたのは「海兵隊の撤退」。翁長氏が「平和宣言」で言ったのは「海兵隊の削減」。「撤退」と「削減」はまるで違います。その違いを承知の上で、翁長氏が「撤退」から「削減」に変えたことをなぜ見過ごすのでしょう。なぜ批判しないのでしょうか。翁長氏は「平和宣言」で、県民大会決議の「海兵隊の撤退」を、あえて「海兵隊の削減」に後退(変質)させたのです。

21日の当ブログ(「
『海兵隊の撤退』に背を向ける翁長知事」)でも書いたように、翁長氏は16日の記者会見で「『海兵隊の撤退』は『全面撤退』ではないと思う」と、県民大会決議の意味を後退させました。そして、大会当日の「あいさつ」ではさすがに「撤退」の言葉を省くわけにいかず、「海兵隊の撤退・削減」と述べ、2つを並列させました。そして「平和宣言」ではついに「撤退」の方を削除し、「削減」だけにしてしまったのです。「知事は内容を吟味した上で発する平和宣言で『撤退』ではなく『削減』という言葉を選んだ」(24日付琉球新報)と報じられています。「撤退」削除が翁長氏の深謀遠慮の結果だったことは明らかです。「海兵隊の撤退」要求は、「全面撤退」ではじめて一定の意味を持つものです。「削減」ではなんの力にもなりません。米政府ですらすでに在沖米軍海兵隊2万人のうち約9千人を「削減」してグアムなどへ移す計画を持っているのです。参院選に立候補している島尻安伊子氏(自民)と伊波洋一氏の「政策比較表」(22日付琉球新報)によると、「在沖海兵隊」の項目では島尻氏でさえ「削減すべき」と答えているのです。伊波氏の主張は「全て撤退すべき」です。翁長氏の主張がどちらの側に立つものであるか明らかでしょう。そもそも、県民の怒りの要求は、「基地の全面撤去」です。それが「オール沖縄」主催の県民大会決議で「海兵隊の撤退」に後退し、さらに翁長氏の「平和宣言」で「海兵隊の削減」になったのです。この変遷(後退)はきわめて重大であり、けっして容認できるものではありません。(アリの一言 2016年06月24日
キョウ いーゆーりだつ

Blog「みずき」:英国のEU離脱をどう見るか。私には判断しかねることにうろうろしている。経済的な(とりわけ株価の値動きの)視点からのみ見るEU離脱の解説は以下でも批判されているグローバリゼーションの視点でしかなく、本質を衝いているようには見えません。英国在住経験を誇示するたぐいの論説も要は自慢話を超えません。うろうろしたあげくに以下の論説とコメントに英国のEU離脱解読の本質的なヒントがあるように思えました。


【英国のEU離脱をどう見るか】
最終的にどちらが勝つにせよ。階級社会の英国でさえ、経済的に下の階層の人達が、既成の「左派」政党を支持しなくなったということ。結局、離脱問題に関しては、
労働党保守党と一緒になって階級の固定に手を貸したようにみえてしまう。エリートやインテリの思考は合理的なのだが、富や権力から遠い人々は、その合理性を破壊してやりたいという方向に出ている。これは、世界の「先進国」に共通の傾向だろう。原発が危険、戦争などしたくない、格差の拡大は嫌だと考える人が多数を占めていながら、これらの主張に特化する政党に対する「飽き」が来ている。ここを真剣に考えないと日本も危機的な方向に進む。離脱派が勝つ勝たないによらず、ドイツでもAfDPEGIDAのような勢力に大きな力を与える結果となるだろう。従来の対抗軸による政党政治は運営が難しくなり、より、弱い立場の移民や難民には新たな困難にさらされることになろう。スコットランドでは残留が多数を占めている。スコットランド与党のSNPは、労働党よりも社会保障や教育問題について政策が具体的かつ、イングランドに対する対抗意識もあり、昨年の総選挙で全国政党の労働党を食った。党首のスタージョンの無駄のない発言も魅力的だったのだろう。

英国が内向きかどうかの問題ではないと思う。どの国でも、
グローバリゼーションから逃れることなどできないし、それに対する領域国民国家としての必死の抵抗が、今回のEU離脱となって表れている。勿論、国内的には「英国独立」UKIPのような主張がわかりやすいが。領域国民国家の断末魔が、図らずも、国家連合からの離脱というかたちで現れた。大陸側の小国は苛立ちながらも諸国家連合のEUから離れることはできない。しかし、国家主権の弱体化との狭間で揺れ動くことに変わりはないだろう。大陸ヨーロッパは、EUにしがみつくことで「ヨーロッパ的アイデンティティ」を強調し、その結果、押し寄せる難民(多くはムスリム)の排除に向かうだろう。内戦が止まらず、ヨーロッパに滞留する難民は行き場を失うことになれば、イスラムとの関係は悪化する。(内藤正典Twitter 2016年6月24日
キョウ わかもののとうひょう

【生徒を現実の政治から遠ざけていたら投票率はどうなるか】
生徒会で国会解散決議 清陵高 一部はデモに参加〉1960(昭和35)年6月5日付の信濃毎日新聞社会面にこんな記事が載った。その約2週間前。
日米安保条約改定が衆院で強行可決された。抗議する多数のデモ隊が連日、国会周辺に押し寄せていた。記事によると、長野県内の高校で政治問題についての生徒集会開催は諏訪清陵高が初めて。数日前からクラス別に安保問題を討議した。生徒集会は放課後、2日間開き、全校生徒の8割余の約700人が参加。「岸(信介)内閣の即時退陣。正しい民主政治を確立し、国会をただちに解散せよ」と決議した。当時の校長は「生徒たちが安保問題に強い関心を持っているので、時事問題研究ということで集会を許可した」などとコメントしている。この時、17歳で生徒会長だった中林正勝さん(略)は振り返る。「生徒会役員が主導したのではない。今の政治に黙っていられないという生徒の思いが自然に湧き上がった。先生に止められることはなかった」同年6月15日。デモ隊が国会構内に突入して警官隊と衝突、東大生の樺美智子さんが死亡する。集会やデモは県内の他の高校生にも広がった。総務省の年代別投票率統計(略)で最も古いのは67年の衆院選だ。この時、高校時代に政治の季節を体験した20代の投票率は7割近い。これをピークに低下傾向をたどり、直近の2014年選挙では3割にまで落ちたグラフ

下降のきっかけの一つが文部省(当時)が69年に出した
通知だ。〈国家・社会としては未成年者が政治的活動を行うことを期待していないし、むしろ行わないよう要請している〉70年の安保改定を控え一部の生徒の活動が過激化したのを理由に、全ての高校生に校内外を問わず政治活動を禁止した。憲法が保障する集会や言論などの自由には全く触れていない。授業についても、現実の政治的事象は個人的な見解が入り込む恐れがあるので「慎重に取り扱うこと」と教員に縛りをかけた。高校生の活動は「政治」から切り離され、先生は授業で現実の政治問題を取り上げることに消極的になっていく。生徒会がフランスの核実験に反対する署名活動をしようとして学校側に止められるという問題も起きた。あさって19日、改正公職選挙法が施行され、18、19歳が新たに選挙権を持つ。来月10日投開票の参院選から1票を行使できる。文部科学省は昨秋、69年通知を見直した新たな通知を出した。高校生の活動を「期待していない」から「期待される」に転換し、縛りを緩めた。それでもまだ、「禁止」や「制限」が多い。いわく、生徒会、部活動での政治活動は禁止。放課後や休日でも校内での活動は制限か禁止。校外でも学業や生活に支障があると認められる場合などは制限か禁止…。これでは、半世紀前の清陵高のような集会も開けない。
 
愛媛県では昨冬、
全ての県立高校が一斉に校則を改定全ての県立高校が一斉に校則を改定し、校外の政治活動への参加に学校への届け出を義務付けた。「自分の意見を持つことが必要な状況になっているのに、その発信が制限されるのはおかしい」。今月、東京弁護士会が開いたシンポジウムで高校生から声が上がったのも当然だ。教員の言動にも制約が多い。今回の通知は繰り返し「政治的中立」を求め、教員用指導資料は特定の見解を述べることを戒める。違反した場合、罰則を科す法改正も自民党内で検討されている。山口県では昨年、安全保障関連法案を新聞2紙を参考に生徒が討論し、賛否を投票した高校の授業の中立性に疑問があると、自民党議員が県会で追及している。文科省は今週、全国の高校が昨年度行った主権者教育の状況を公表した。内容別(複数回答)では公選法や選挙の仕組みが9割。現実の政治についての話し合いは2割にとどまった。先生が二の足を踏んでいる様子が浮かぶ。生徒を現実の政治から遠ざけ、先生の言動を監視していたら、投票率はどうなるか。歴史が教える。高校で自由に政治を語り合う。そんな環境と文化を育みたい。(信濃毎日新聞 社説 2016年6月17日
キョウ うしだ キョウ うしだ2

Blog「みずき」:私は「世に倦む日日」ブログを総体として評価しません。客観を装いながら主観の勝ちすぎた記事が多すぎるからです。また、筆者の天皇礼賛のスタンスも民主主義者のそれとは思えません。彼の民主主義精神のほんもの度を疑わざるをえません。しかし、ここでの「世に倦む日日」氏のSEALDs及びしばき隊批判。また、具体的な人名を挙げての「新9条」論者、左翼リベラル論者批判は私は正鵠を射ていると思いますし、私も同様の批判を持ちます。殊に具体的な人名を挙げての批判は有益です。ここではいちいちの証明は省きますがすべて根拠のある批判です。なお、同筆者の「新9条」論者、SEALDs、しばき隊、しばき隊学者、左翼リベラル論者、左系マスコミ批判の別の文章はこちらでも取り上げています。ご参照ください。

【最も危険な9条改憲論者】
SEALDsしばき隊が改憲派であるということを、どれだけの左翼リベラルが知っていることだろう。私がSEALDsとしばき隊を批判するのは、彼らが9条改憲派だからだ。しかも、9条2項削除という肝の中身の、すなわち左右の多数で一致ができやすい最も危険な改憲論者だからだ。SEALDsとしばき隊が主張している「9条2項削除」の改憲論は、SEALDsとしばき隊だけが主張しているのではない。SEALDsが出現した直後、歩調を合わせて東京新聞で「新9条」と銘打たれたキャンペーンが始まった。佐藤圭伊勢崎賢治今井一。中身は2項削除。偶然ではないのだ。9条2項を削除する9条改憲論の動きは、左翼リベラルのメインストリームで始まっている。護憲派のはずの面々が改憲派に変わっている。SEALDsとしばき隊。東京新聞の「新9条」キャンペーン。加えて、鈴木耕のマガジン9条が想田和弘を使っての大々的なプロパガンダ。朝日新聞で池澤夏樹も。高橋源一郎全共闘崩れだから、反戦後民主主義、反丸山真男の意識があるのだろう。上野千鶴子にもそれがある。元全共闘に共通している。9条護憲は戦後民主主義の象徴だから、それを忌み嫌うというアパシー。9条護憲の思想を、固陋で頑迷で旧態依然な戦後左翼の態度として否定する新左翼の立場。問題は鈴木耕だよね。社民党に近い人間のはずだが、マガジン9条でやっていることは、まさに9条改憲のエバンジェリズムだ。9条2項削除(=新9条)のイデオローグばかり登場させて洗脳工作させている。想田和弘、伊勢崎賢治、中島岳志など。小熊英二も、9条護憲には否定的な発言をしている。(略)野党が選挙の争点は憲法だと言い、憲法の平和主義を守る戦いだと参院選を位置づけている。だとすれば、野党が惨敗したとき、選挙結果の意味づけはどうなるのだろうか。それを考えると非常に恐い。一気に改憲派が勢いづくのではないか。日中の軍事衝突が危惧され、安保法制が施行されているこのときに。(世に倦む日日 2016年6月22日
キョウ たいせいよくさん
かつての大政翼賛会本部

Blog「みずき」:水島朝穂さんのおっしゃっておられることは要するに「理性と知性を欠いた」首相が率いる安倍政権はあまりに危険すぎる。その安倍政権を打倒するために有権者は参院選挙で「安倍政権NO」を言おう。すなわち、野党共闘候補に投票しよう、ということでしょう。参院選は明日公示されます。水島さんのおっしゃっておられることはわからないわけではありません。しかし、その野党共闘の当事者である政党や同共闘を支持している水島さん自身もその一員である安全保障関連法に反対する学者の会も実質9条改憲論でしかない新9条論者にその居場所を簒奪されているありさまです。さて、仮に安倍政権が「野党共闘」勢力に打倒されたとしてその後になにがくるというのでしょう? 戦前の社会大衆党がそうしたように革新の側から保守にすり寄る大政翼賛会的な9条改憲体制とでもいうべきものがなし崩し的に創られてしまうのではないか。私は参院選後のゆく末にその可能性を見ます。そうであれば大政翼賛会的な状況の待つゆく末づくりに私は加担することはできない。それが私の今回の選択です。いま、このニッポンには選ぶべき政党がないのです。悲しい現実ですが、ここは堪える必要がある。堪えなければならない、というのが私の認識です。
 
【日本の政治はここまで姑息になってしまった】
25年前の今日、つまり6月20日は木曜日だった。この日、私は朝から夜まで11時間以上、この8階の部屋でテレビをつけっぱなしにしていた。600キロ離れたボンの連邦議会で、統一後の首都をボンにするのか、ベルリンにするのかをめぐる最終決定が行われることになっていたからである。(略)合計104人の議員が党派を超えて、「ボン」か「ベルリン」かの態度表明を行った。それはすごい長丁場になった。所定の5分ももたずに短く発言を終える議員、堂々と3、4人分は話し続けた「大物」…。拍手は党派を超えて行われ、発言によっては「〇〇党から散発的な拍手(略)」といった記載があり、決定をめぐって党が割れていることを示唆していた。まさに議会は「ボン党」と「ベルリン党」の二党制と感を呈した。ドイツ議会史における空前絶後の場面だった。(略)日本はいま参議院選挙という、この国の将来を決めるきわめて重要な局面にある。争点隠しのみならず、スキャンダルや「事件」にメディアが集中することで、選挙から人々の関心をそらせる「話題隠し」も行われている。都知事辞任をめぐるメディアの動きは明らかにおかしい。政治資金の使われ方を正していくことが目的でなく、現職を追っ払うことだけが目的のようにみえてしまう。この都知事をいいとは思わないが、「せこい小悪」に報道が集中するのは海外から見ると異様にうつる。もっと「大悪」がいるだろう。それが隠されている。そして、人々の関心を向けさせまいとしているのが憲法改正である。この話題に入らずに、経済問題に特化して選挙を終える。そして憲法改正可能な3分の2以上になる議席を獲得する。日本の政治はここまで姑息になってしまった。ドイツでは、冷戦が終わって、東西ドイツが統一するという歴史を踏んで、統一条約で首都ベルリンと決まってはいるものの、その中身をどうするか。政治が決めねばならない根本的な事柄について、あえて「ベルリンかボンか」という形で、一人ひとりの議員が何らかの発言をした上で決めるという、時間と労力をおしまない姿勢を貫いた。これにはただ驚くばかりである。日本で憲法改正をするというなら、それだけの突き詰めた議論が必要だろう。ドイツは60回も基本法(憲法)改正をしているが、連邦軍の海外出動や対テロ出動(「国内出動」)のための改正はしないで、連邦憲法裁判所の判決や法律改正で乗り切ってきた。これをやるには相当な議論が必要だからである。日本の国会では、いま、首相が理性と知性を欠いた「喧嘩言葉」を使った答弁を繰り返し、議論が成立していない。「熟議の府」、あるいは民主的多数で決めた衆議院の決定をもう一度考え直す「国権の再考機関」の参議院の選挙に、18・19歳の240万人をはじめとする有権者は、 (略)是非とも、今後の自らの人生に大きく関わってくることとして捉え、投票という形で政治に参加していただきたい。(
水島朝穂「今週の直言」2016年6月20日
稲田朋美の巻(1)
https://www.facebook.com/takashi.higashimoto.1/posts/836184469845315

「国民の生活が大事なんて政治はですね、私は間違ってると思います」



稲田朋美の巻(2)
https://www.facebook.com/takashi.higashimoto.1/posts/836185576511871

「この国のために命を捧げる。その覚悟をもう一回取り戻そう」

高市早苗の巻(3)
https://www.facebook.com/takashi.higashimoto.1/posts/836186023178493

「私たち日本人は・・国を護るために命を投げ出して」

麻生太郎の巻(4)

「いつまで生きているつもりだよ」は「高齢者が安心できる環境を整えるという趣旨」


【何が、どう語られるか。誰が、何を、いかに贖うか】

なきがらは茂みに潜み、じっと耳そばだてている。
何が、どう語られるか。誰が、何を、いかに贖うか。
憤怒は爆ぜるか。この痛みは、ただ悼まれるだけか。
ホンドのおためごかしに馴らされるのか。
むくろは茂みで目を見開いている。
爆ぜよ!

辺見庸
2016/06/19 沖縄タイムス
 
キョウ おきなわ7

【号外】「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾!被害者を追悼し海兵隊の撤退を求める県民大会」(主催・オール沖縄会議)が19日、那覇市の奥武山公園陸上競技場をメーン会場に開かれた。6万5千人(主催者発表)が参加し、米軍関係の事件や事故を根絶するため在沖米海兵隊の撤退などを求める決議を採択。会場は被害者への鎮魂の思いと静かな怒りに包まれ、二度と事件を繰り返させない決意を日米両政府に突き付けた。(沖縄タイムス 2016年6月19日 14:00)
キョウ かいご
中村淳彦さん(左)と藤田孝典さん(右)

Blog「みずき」:下記に引用されている竹中平蔵の言葉のフレーズの全文をそのまま引用しておきます。「そもそも日本人は、社会保障に対して誤解をもっています。自分が90歳まで生きると思ったら、90歳まで生きる分のお金を自分で貯めておかないとダメなんですよ。保険は不測の事態に備えるものなんですから。今の日本の問題は、年を取ったら国が支えてくれると思い込んでいることです。そんなことあり得ないんですよ。90歳、100歳まで生きたいんだったら、自分で貯めておく。それがイヤで、国に面倒をみて欲しいんだったら、スウェーデンみたいに若い時に自分の稼ぎの3分の2を国に渡すことです」。こういう人がつい最近まで私たちの国の経済財政政策担当大臣であり、金融担当大臣でした。

【18歳過ぎた美人は売春、認知症は線路】
中村淳彦 僕もかかわっている介護関係の媒体で、竹中平蔵氏が「
老後を普通に生きたかったら何千万かお金を貯めなさい。それができない人は、幸せな老後は諦めなさい」みたいなことをはっきりと言っていて驚きました。
藤田孝典 竹中さんに限らず、そういった論調は広がっています。
中村 そうなると順調に認知症高齢者が増えたら、列車の線路にゾロゾロと認知症高齢者の方々が…みたいなことになりますよね。
藤田 誰もケアしないので、自殺も多発するし、窃盗も多発します。好き勝手やって儲かるならば良しとなると、社会を構成する意味が分からなくなる。
中村 すでに貧困はヒドイ状態なのに、それでもそんな調子となると、本当に荒れに荒れてからでないと上には気づいてもらえないんですかね。本当に、キツいです。18歳過ぎた美人は売春、認知症は線路…そんな社会は嫌だなぁ。まだまだ社会は荒れるでしょうし、藤田さんの仕事は続きますね。
藤田 官僚、政治家、市民が何も気づいてないのです。市民もまだ経済成長に頼っていますし、社会保障を増やすことに思い切れない。知識人の意見は一致して、誰が見てもヨーロッパ型に転換するしか選択肢はないのですが。そうしないと、米国や韓国のように焼け野原になってしまいます。
中村
新自由主義がいかに生き地獄を生み、人間を壊すかは、介護の現場で身に染みました。ヨーロッパ型にして生涯売春とは無縁に生きて普通の老後を送るか、このまま新自由主義を継続してカラダを売り、高齢になったら絶望の姥捨て山に行くか。市民が選択するわけですね。
藤田 そういうことです。福祉関係者は市民に対して、それぐらいの強力な言葉で迫っていく必要があります。やはり現状をもっと可視化して、危機感をもってどちらの道を選ぶのか、国民一人ひとりが真剣に考えて選択するべきなのです。(
中村淳彦藤田孝典「ダイヤモンド・オンライン」2016年6月17日
キョウ ますぞえ2

Blog「みずき」:藤原新也さんの舛添問題と不況問題との相関関係の考察については私はあまり説得力は感じませんが、人々の舛添批判が批判モードからイジメモードに変わっていくうちに舛添都知事の人相の悪さが人々の人相にも伝染してゆき、さらにその人相の悪さは日本人全体を被うモードになりつつあるという考察については現代ニッポンの世相批判として正鵠、さすがと思わせるところがあります。「今日の言葉」とさせていただくゆえんです。「タレントや評論家は舛添ロス症候群の中にある」のかどうかについては私はテレビを見ませんので判断できません。

【不況と不倫と人相の相関関係】
経済学者の間では洋の東西を問わず不況と不倫が相関関係にあるとの定説がある。つまり不況時においては就労者にそのしわ寄せが生じストレスが蓄積し、そのストレスが家庭内に持ち込まれ、夫婦の不仲が生じる。不倫はその二重のストレスのガス抜きとして機能するがゆえに不況時には不倫がはやるという論法である。ということは昨今の芸能界での不倫があとをたたないということは、社会的象徴であり、その水面下で一般の人々の間にも不倫行為が増大しているとも推測される。確かに消費税引き上げ据置きがあらわすように
アベノミクスの失敗はすでに不況の域に達しており、特に中層以下の人々は清貧を強いられている現状がある。だが不況であるにも関わらず企業の内部留保(つまり私服肥やし)は343兆円という天文学的数字に達している。アベノミクスが失敗であったにもかかわらず政権の大企業優遇によって内閣発足した直後から今日まで企業の内部留保は約69兆円の急激増加を示しているわけだ。国民の困窮と大企業の私服肥やしの関係を見ると富める者はますます富み、堕ちる者はますます堕ちるという、まるで社会はトランプの大貧民ゲームの渦中にあるようである。そしてさらに追い打ちをかけるようにそれらの内部留保がタックスヘイブンシステムによって合法的に課税を回避し、そのしわ寄せをまた国民が負うというさらなる大貧民状況。

舛添問題はこういった社会状況の中で起こった。当初、この問題が飛行機のファーストクラス、ホテルのスイートルームといった豪華な海外出張に端を発し、国民の怒りが爆発したことは、今の社会の大貧民構造の中における国民のメンタリティが如実にあらわれたと言える。私個人は一国の首都の長が飛行機のファーストクラスに乗り、ホテルのスイートルームに泊まることに対しまるで犯罪者扱いでもするかのような大騒ぎするというのは違和感を感じていた。というよりこの一件が好況時、あるいはバブル時であったなら、大した問題にもならなかっただろうと思うのである。そういう意味では舛添はある意味で運が悪かったと言える。有り体に言えば国民は不倫に走るかわりに舛添と寝たのだ(略)。そして悪いことに(あるいは好都合にも)叩けば叩くほどこの男からは埃(ほこり)が舞い上がり、日本人の国民性である100%辻褄が合わないと納得しない病と相まって舛添は”時代のサンドバッグ”としての役割を果たしたわけだ。そしてそのサンドバッグがとつぜん目の前から消えて、いま国民および口角泡を飛ばしてきたタレントや評論家は舛添ロス症候群の中にある。

余談だが、つい先日人相に関しての新聞の取材ののちに以下のメールを送った。「舛添問題関連だが、舛添都知事の人相の悪さは言うまでもないが、それを批判するタレントや評論家の人相も日増しに悪くなって来ていると感じる。それは時間が経過し、舛添の表情や声が憔悴して行く中で人々の人相が批判モードからイジメモードに変わりつつあるからだね。かりにこの傾向がタレントや評論家にとどまらず日本人全体を被うモードになりつつあるとするなら舛添問題を契機に日本人全体の人相が悪くなりつつあるということであり、決して無視できない問題だ。要するに人相は関わる人間に伝染するということ。それを心して気おつけなければならないということだ」つまりこの舛添問題の期間中、それにのめり込む多くの人が舛添の人相と似てきたということである。まあ、寝たのだからしょうがないわな。(
藤原新也「Shinya talk」2016/06/16
キョウ へのこ7

Blog「みずき」:「今日の言葉」として引用する仲宗根勇さんの文章のテーマは「沖縄差別の源流と「和解」をめぐる疑惑・今後の闘い」というもので、下記はそのうち「沖縄差別の源流」の部分のさらにその一節に焦点を当てているものです。本文はPeace Philosophy Centreブログにも転載されており、その中で同ブログ運営人の乗松聡子さんは「仲宗根氏は最後から2番目の段落で、もし県が新たな訴訟で敗訴した場合、「県が自ら招いてしまった第9条の拘束を自動的に受けることになるので、その拘束から逃れるためには、新たな訴訟の判決直前に翁長知事が埋め立て承認の撤回をするのが得策」と述べている。これは県が耳を傾けるべき重要な提言ではないか」というコメントを述べています。本文全体のポイントを理解するために乗松さんのコメントを前説としてご紹介しておきます。

【「沖縄差別」という言葉が今日ほど日常的に広く頻繁に語られた時代はない】
沖縄差別」という言葉が今日ほど日常的に広く頻繁に語られた時代は、沖縄の近現代史においてかってなかったことである。近くは、1960年代から70年代初頭にかけての
復帰運動がピークに達した頃の闘争の現場において、本土政府の沖縄に対する理不尽な仕打ちに対し、沖縄の民衆が現在のように「沖縄差別を許すな!」などというシュプレヒコールを唱えることはなかった。その理由は、当時の主流的な復帰運動が抱えた思想原理に内包されていたということができる。つまり、「祖国復帰」(母なる「祖国」への復帰)という言葉に象徴される当時の主流的な復帰思想は、日本国が単一民族国家であることを無意識のうちに前提にして、国民国家の構成員としての沖縄人イコール=日本国民という真正な等式が何の疑問もなく立論され、言わばその等式を前提にしての復帰運動であった。それゆえに、沖縄を含む日本国家の同一民族論に立つこの等式からは「差別」という観念は論理必然的に排除・隠蔽されねばならなかったわけである。しかし、この運動原理の前提とは異なり、沖縄人を異族視する、本土における一般的な民衆意識が広範に存在したことは、当時から現在に至るまで何ら変わってはいない。そうであるがゆえに、国土面積の0.6パーセントに過ぎない沖縄に全国の約74パーセントの在日米軍専用施設を押しつけて恥じない日本政府とそれを支持する多数の日本国民という不条理な構図が続いているわけである。

しかし、「復帰」後40年以上の歳月が流れた現在、復帰に状況変革の夢をかけた沖縄の民衆の政治意識は大きく変容している。「復帰」前後においては、意識的に論じられることがなかったいくつもの論点・視点が公然と浮上してきた。例えば、沖縄人がいわゆる「先住民族」であるか否かが新聞紙上などで論争され、安倍内閣によって平和憲法が弊履のように捨てられている日本から離脱し理想の国家を構想する「琉球独立論」が学問的・運動論的に確かな形で民衆の前に立ち現れている。「
日本会議」などの右翼勢力をバックにした安倍内閣が日本国憲法をクーデター的に解釈改憲して、自衛隊がアメリカの傭兵となって世界中で戦争をすることができる戦争法を強行採決し、沖縄差別の発現である辺野古新基地建設を暴力的に強行する日本国家に対する底なしの絶望がその背景にある。(略)アメリカの「アジア回帰」戦略に呼応して集団的自衛権を現実化する戦争法を強行採決した安倍内閣が、諸々の選挙で示された沖縄の圧倒的な民意を無視し、アメとムチを振りかざして辺野古新基地建設を強行し、配備隠しの果てのオスプレイの配備強行、南西諸島への自衛隊配備を推し進めている現実それ自体、沖縄差別そのものの集中的表現である。同時にそれは、憲法違反状態の小選挙区制と野党分裂が生んだ虚構の多数与党にあぐらをかき、日本国憲法を無視し立憲主義を破壊しつつ明文改憲をもたくらむ安倍内閣による、憲法クーデターともいうべき憲法の危機的状況を意味する。辺野古・高江の闘いは、沖縄の環境と未来を守るとともに、右翼・安倍晋三内閣による世界に冠たる日本国憲法の改悪策動を許さない、平和と人権を守る歴史的な闘いの最前線に位置する。(仲宗根勇「Peace Philosophy Centre」(2016年6月16日)より
キョウ ゆあさまこと
湯浅誠さん


Blog「みずき」:私の記憶では伊田広行さん(ジェンダー研究者)はかつて
湯浅誠さんを大変評価していて大阪で湯浅さんと一緒に広い意味での社会運動のグループを創って活動していました。この頃は湯浅さんも大阪を拠点にしてニッポンを変えていくみたいなことを言っていました。何回か前の東京都知事選で湯浅さんの都知事選出馬への期待が非常に高まっていたときのことです。結局、湯浅さんは都知事選には出馬せず、大阪へ活動の拠点を移しました。その頃と比べると伊田さんは明らかに湯浅批判論者に変容しています。これは伊田さんが節操がないのではなく、湯浅さん自身が節操がなかった結果による伊田さんの見る目の変化といってよいものです。伊田さんはいまは湯浅さんの思想的な欠陥を明確に見抜いているはずです。その眼の現れが以下の文章といえるでしょう。ともあれ、私は伊田さんの以下の文章の論旨に賛成するものです。くしくも東京都知事選のリターン・マッチがいままさに政治の日程に上ろうとしています。

【湯浅さんの論は安倍政権を間接的に擁護してしまっている】
以下のような記事 「
安倍政権は「リベラル」なのか」 があった。そこでは自民党議員を含め4人に聞いている。いろいろな意見があるという意味でバランスをとっているんだろうが、私から見れば「口先に騙されるにもほどがある」という思いだ。とはいうものの、表題に「馬鹿じゃないのか」と書いたが、しかし、実際は、この程度に騙される人が多いのは事実だと思う。そもそも、戦争が近づけば、取引して「リベララルが要求していた」ような「おこぼれがもらえる」事実はある。しかしそれは政権がリベラルなの(では)なく、戦争に協力するおこぼれなのだ。湯浅さんのスタンスには、プラグマティズムがあって、半分、それはリアルだと思うが、民進党の人が言うような政治の土俵も大事な時に、やはり政権に事実上協力的になってしまう危険性があると思う。その点は忘れないことが大事だと思う。また湯浅さんの「安倍政権の経済政策のバックボーンは新自由主義ですが、それは市場の中で有能ならば、女性でも若者でも障害者でも外国人でもかまわない、中高年男性の「既得権益」を剥がしていくという考え方です。」というのは、間違いだと思う。非常に抽象的かつ単純に「新自由主義」をとらえている。現実は、新自由主義とは、他の様々な要素と一体となって存在する。純粋な一般資本主義などないように、もっと多様なタイプの実態としてとらえるべきで、ハイブリッドに様々な要素が合体して今のシステムはある。安倍政権が女性や障碍者の人権を守るといってしまうのは、思想的にも現実的にも間違っており、安倍政権を間接的に擁護してしまっています。(伊田広行「ソウルヨガ」2016-06-14

キョウ ひろしま4 キョウ ひろしま5

Blog「みずき」:「菊タブー」と「タブー」という言葉、久しぶりに聞いたような気がします。かつての「菊タブー」「星タブー」批判勢力がいまは逆に同タブーの補強勢力となっています。「半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。(略)生きよ堕ちよ、その 正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。(略)堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」と書いたのは坂口安吾でした(『堕落論』)。こういうときは安吾の言葉こそふさわしい。

【自分の責任を棚上げにする姿勢でオバマと昭和天皇は共通している】
オバマ大統領が折ったという折鶴が芳名録とともに原爆資料館で9日から一般公開されるなど、「オバマ訪広」賛美が続いています。オバマ氏はその芳名録に、「
核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」と書きました。ところがその舌の根も乾かない7日、オバマ氏はホワイトハウスでインドのモディ首相と会談し、インドの核保有を改めて容認するとともに、新たに「原子力協力の拡大」で合意しました。「被爆地広島で核廃絶への誓いを新たにしたオバマ氏だが、核不拡散政策との矛盾は覆い隠せなくなっている」(9日付中国新聞=共同)。改めてその言行不一致ぶりが露呈しています。核保有・拡大の先頭に立っている自らの責任は棚上げし、言葉だけの「核廃絶」で「広島」をレガシー(遺産)づくりに利用したオバマ氏。その姿は、69年前に同じく広島を訪れた人物と重なってきます。天皇裕仁の広島巡幸です。1947年12月7日、戦後初めて被爆地・広島を訪れた天皇裕仁は、元護国神社前の広島市民奉迎場で市民の「大歓迎」を受け、式典でこう述べました。「本日は親しく広島市の復興の跡を見て満足に思う。広島市の受けた災禍に対して同情はたえない。我々はこの犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」(『天皇陛下と広島』天皇陛下御在位六十年広島県奉祝委員会発行より)侵略戦争の最高責任者であり、国体=天皇制護持のために終戦を引き延ばして原爆投下を招いた自らの責任はまったくほうかむりし、「同情はたえない」「犠牲を無駄にすることなく」とは、よくも言ったものです。オバマ大統領と天皇裕仁。もちろん時代も立場も違いますが、自分の責任を棚上げして「平和主義者」を装う権力者(この時すでに新憲法は発効しており天皇は憲法上「権力者」ではありませんが)の醜い姿は共通です。
 
「歓迎」する「市民」の側にも共通点があります。オバマ訪広に対し湯崎広島県知事も松井広島市長も、いち早く「謝罪の必要なし」と言明し、ひたすら来広を待ち望みました。一方、天皇裕仁の広島巡幸の際も、広島県議会は「感謝決議」をあげ、浜井広島市長(当時)は「願わくは…広島市に深き御心を御寄せ下さいますこと」を願うと、天皇にひれ伏しました。当然「謝罪」してしかるべき権力者に対する「怒り」はいずれも見えません(表面化しません)。天皇裕仁の「戦後巡幸」は1946年2月の神奈川県を皮切りに始まりました。その狙いは、天皇の戦争責任論、さらに退位論を払拭し、天皇の権威を回復することでした。「天皇は危機に瀕した現状を行幸で改善しようと、マッカーサーとGHQの広報担当顧問の積極的な支持のもとに旅行を開始した」(ハーバート・ビックス『
昭和天皇下』)天皇とGHQの狙いは全国で的中しました。それは「被爆地・広島」においても例外ではなかったのです。オバマ氏の訪広を含む今回の来日の最大の狙いは、日米同盟=日米軍事同盟の美化・強調でした。それが参院選に向けた安倍首相の戦略もあったことは、戦争法(安保法)廃止の主張に対し「日米同盟」を盾に反論する安倍氏の演説(8日の山梨など)を聞けば明白です。オバマ氏の訪広を賛美するメディアはそうしたオバマ・安倍戦略の片棒を担いでいると言わねばなりません。天皇・皇室は批判せずひたすら賛美するメディアの「菊タブー」。日米同盟(軍事同盟)=日米安保体制を是認・美化する「星(星条旗)タブー」。69年の時空を超えて、「菊タブー」と「星タブー」が交差しています。(アリの一言 2016年06月11日
キョウ せいちょうのいえ
「生長の家」のデモ

Blog「みずき」:宗教法人「生長の家」の今夏の参議院選挙では「与党とその候補者を支持しない」という声明は画期的なものです。同声明の市井と庶民への浸透の深さによっては自民党の屋台骨さえ揺るがしかねません。この今回の「生長の家」の声明の本気度がどれほどにほんものか。どのような事情で声明発表にまで到ったのか。底辺の信者への浸透度はどれほどのものか。いまの段階では不明なことが多すぎますが、同声明が発表されたこと自体に大きな意味があります。さまざまな疑問はひとまずはカッコにくくっておくことにしてその「信仰の力」を素直に受けとめておきたいと思います。しかし、ここで気になるのは『日本会議の研究』(菅野完、扶桑社刊)という著書が必要以上に声明の中で評価されていることです。同著の著者の菅野完氏は先日、自らのツイッター上の名誉毀損発言に損害賠償を命ずる判決(確定)が出て、ツイッター社からも同氏のツイッターアカウントが凍結されている野間易通が主催するしばき隊の重要なメンバーのひとりであった(または、現にある)人です。それらのことどもの反省のないままに同氏が評価されるとするならば、また別の次元の問題が生じることになってしまうでしょう。私はそこに一抹以上の懸念を覚えます。

【今夏の参議院選挙に対する「生長の家」の方針】
来る7月の参議院選挙を目前に控え、当教団は、安倍晋三首相の政治姿勢に対して明確な「反対」の意思を表明するために、「与党とその候補者を支持しない」ことを6月8日、本部の方針として決定し、全国の会員・信徒に周知することにしました。その理由は、安倍政権は民主政治の根幹をなす立憲主義を軽視し、福島第一原発事故の惨禍を省みずに原発再稼働を強行し、海外に向かっては緊張を高め、原発の技術輸出に注力するなど、私たちの信仰や信念と相容れない政策や政治運営を行ってきたからです。(略)最近、安倍政権を陰で支える右翼組織の実態を追求する『日本会議の研究』(菅野完、扶桑社刊)という書籍が出版され、大きな反響を呼んでいます。同書によると、安倍政権の背後には「
日本会議」という元生長の家信者たちが深く関与する政治組織があり、現在の閣僚の8割が日本会議国会議員懇談会に所属しているといいます。これが真実であれば、創価学会を母体とする公明党以上に、同会議は安倍首相の政権運営に強大な影響を及ぼしている可能性があります。事実、同会議の主張と目的は、憲法改正をはじめとする安倍政権の右傾路線とほとんど変わらないことが、同書では浮き彫りにされています。

当教団では、元生長の家信者たちが、冷戦後の現代でも、冷戦時代に創始者によって説かれ、すでに歴史的役割を終わった主張に固執して、同書にあるような隠密的活動をおこなっていることに対し、誠に慚愧に耐えない思いを抱くものです。先に述べたとおり、日本会議の主張する政治路線は、生長の家の現在の信念と方法とはまったく異質のものであり、はっきり言えば時代錯誤的です。彼らの主張は、「宗教運動は時代の制約下にある」という事実を頑強に認めず、古い政治論を金科玉条とした狭隘なイデオロギーに陥っています。宗教的な観点から言えば“原理主義”と呼ぶべきものです。私たちは、この“原理主義”が世界の宗教の中でテロや戦争を引き起こしてきたという事実を重く捉え、彼らの主張が現政権に強い影響を与えているとの同書の訴えを知り、遺憾の想いと強い危惧を感じるものです。(略)私たちは今回、わが国の総理大臣が、本教団の元信者の誤った政治理念と時代認識に強く影響されていることを知り、彼らを説得できなかった責任を感じるとともに、日本を再び間違った道へ進ませないために、安倍政権の政治姿勢に対して明確に「反対」の意思を表明します。この目的のため、本教団は今夏の参院選においては「与党とその候補者を支持しない」との決定を行い、ここに会員・信徒への指針として周知を訴えるものです。合掌。(
宗教法人「生長の家」 2016年6月9日
キョウ せんかくしょとう

Blog「みずき」:高林敏之さんの所論に関連して、同様の問題意識をもって書かれている以下のおふたりの論攷もあわせてご紹介させていただこうと思います。お1人目は浅井基文さんの「尖閣問題に関する志位・共産党委員長発言に対する疑問」と「尖閣問題:志位・共産党委員長の新論点」という論。お2人目は大分憲法会議の岡村正淳さんの憲法会議宛「意見書」の論。ご参考にしていただければ幸いです。それにしてもかつての「極北」としての共産党の理論戦線からの脱落は目に余るものがあるといわなければならないでしょう。

【植民地主義に反対する共産主義政党の主張とは思えない】
6月10日付東京新聞。この
解説にある通り、尖閣諸島の「接続水域」通過については中国「だけ」に抗議しているという点が重要。海洋法条約では領海ですら「沿岸国の平和、秩序又は安全を害しない限り」という条件で、無害通航権が軍艦を含めて認められている。ましてや「接続水域」や「排他的経済水域」はかかる制約の対象ですらない。(海洋法条約:領海における無害通航)*第19条に「沿岸国の平和、秩序又は安全を害するものとされる」行為について12項目にわたり列挙されているが、あくまでも「領海において」かかる活動に従事する場合が対象。(同上:接続水域)*これはあくまでも「自国の領土又は領海内における通関上、財政上、出入国管理上又は衛生上の法令の違反」を防止・処罰できる水域の規定であり、簡単に言えばかかる法令違反に対する追跡権を認めるものでしかない。接続水域が主権の及ぶ対象であるわけではない(同上:第2条に主権の及ぶ範囲についての定め)。したがって国際法的には、中国の艦船が「接続水域」を航行したからといって「すわ主権侵害!!」と大騒ぎする話ではなく、抗議するような話でもない。それは政府も分かっているわけだ。この記事も最終的には「中国が尖閣諸島の領有権を主張していること」をもって抗議を合理化しているわけだが、いずれにしても「接続水域」は「接続水域」でしかない。海洋法条約に違反する行為が働かれたわけでもないのに、わざわざ世論アピール的に抗議し反中世論を煽動するのはおかしい。「領海」に入ってこないよう通常通りに監視していればいいだけだ。毎度ながら煽り立てるメディアはともかく、共産党までが委員長以下、一緒になって大騒ぎしている始末…。「戦争法」もとい安保法制に反対するのなら、領土ナショナリズムや反中煽動に安易に乗っかってはダメでしょう。

【補足】

志位和夫・共産党委員長のツイート。「接続水域」でこんな談話を出すのも何だと思うが、そもそも沖縄自体が日本に独立を奪われ武力併合された国であるのに、その沖縄県に編入した尖閣を「歴史的にも国際法上もわが国の領土」と言い切れるところが、およそ植民地主義に反対する共産主義政党の主張とは思えない。まあ「我が党は中国にも《北朝鮮》にもモノを言えるぞ」アピールにいそしんだところで、レスに連なっているような反応を煽るのがオチなのだが・・・。(高林敏之フェイスブック 2016年6月10日
キョウ さんだーす9

Blog「みずき」:保立道久さんは本日付けのご自身のブログにも「今日の言葉」として先に紹介したツイッター記事をさらに詳しくした記事を書いています。重複(するところも多い)を厭わずご紹介させていただこうと思います。

【サンダースは今日、オバマ大統領と会って何をいうか】
バーニー・サンダースは今日9日(木曜日)の夕方にオバマ大統領と会う。サンダースは今週早い時期にも行うという報道があったクリントン支持宣言をやめよとオバマに対して要請するのであろう。大統領が民主党党大会前に一方の候補を支持するというのはアメリカ大統領の性格からいってもふさわしくない。これを原則問題として主張するのは当然だろう。同時に私はサンダースがオバマに対してクリントンが侵略と戦争に積極的な政治家であることを明瞭に指摘するだろうと思う。もしオバマが「党内融和のために」クリントンを支持せよなどという要請をしたら、そういう候補を支持せよと言うのかと反論するだろう。7月のフィラデルフィアでの民主党大会での選挙綱領の議論の中心も戦争と平和の問題になる可能性が大きい。今日の独立派のヴィデオニュース「デモクラシー・ナウ」にでてきたサンダース支持でカリフォルニアから下院議員に立候補しているノマン・サルマンがおもに主張していたのも、クリントンが、リビアへの介入をはじめ、オバマのキャビネットのなかでももっとも軍国主義的な行動をとった人物であり、彼女を支持することはむずかしいということであった。サンダースの選挙運動においてもっとも注目すべきなのは、サンダースがイスラエルとイスラエルロビーを明瞭に批判し、イスラエル一辺倒の立場をとらないと述べたことである。これがアメリカの大統領選挙で正面から発言され、サンダースが支持を集めたことの意味はきわめて大きい。イスラエルの人口は約400万人、アメリカのユダヤ人口は500万人といわれるから、この動きは中東の平和にとって決定的な意味をもつ。ともかく、最低、明瞭な平和綱領がでなければクリントンは危険である。アメリカの女性たちの反戦運動団体、コードピンクのツイッターは「ヒラリーは CA で13%のマージンで勝った。いま、我々は、歴史上はじめて、女の鷹が上空を旋回して国家安全の名目に急降下する準備をしているのを見ているのだ(We can now watch the first female hawk pivot right on national security.)」「ヒラリー・クリントンの外交政策は、戦争、軍国主義と侵略の推進である。私たちの平和のための大統領はどこにいる?」と述べている。

たしかに、これが現在のアメリカにとっても世界にとってももっとも根本的な問題だろう。先のノマン・サルマンの発言からしても、民主党大会での選挙綱領の議論の中心議論は戦争と平和の問題になるだろう。中東からの撤兵プランである。国内問題は選挙政策にかいてあっても、弁解と変更が可能な部分がある。しかし、平和綱領はもう少し確実な保障となりうる。逆にいえば、もし明瞭な平和と撤兵の計画を民主党の選挙綱領に書き込めないまま、大統領選挙決定戦でクリントン支持を呼びかける、あるいは否定しないというような態度をとらざるをえないなどということになれば、それは結果としてアメリカの戦争体制を容認することになる。それではサンダースを支持した人びとからも大きな失望を呼ぶはずである。サンダースはそれは十分に分かっているはずだ。しかし、私が心配なのは、サンダースが「戦争は最後の手段」というアメリカでよく聞くの口調を、そのまま繰り返していることである。アメリカ史の研究を一見すれば明瞭なように、19世紀からアメリカは「戦争は最後の手段」といって戦争の道を歩み続けてきた。サンダースはその歴史を知らないはずはない。サンダースは月曜のカリフォルニアの集会で、「アメリカの経済的正義、社会正義、人種的正義、環境的正義」を追究し続けるといった。しかし、アメリカの抱えている問題の根本原因はアメリカの戦争体制にある。この問題に正面から答えなければならない。これはけっしてアメリカの国内問題ではないのだ。サンダースの
今日のツイッターには「私たちの使命はただトランプを破るということではない。それは私たちの国を変えることだ。人びとはただ反対するということでなく、投票にあたいすることを必要としている」とあった。先の動きは分からない。サンダースが秋の大統領選挙に第三党の立場から立候補することは危険が多い。過半数をとれなければ、共和党多数の下院での決選投票にもちこまれることになる。アメリカの大統領選挙は徹底的に二大政党に有利にできている。こういう状態のなかで、サンダースにとって、もっとも分かりやすいのは60年代以来のベトナム戦争に反対するという初心を明瞭に打ち出すことだと思う。(保立道久の研究雑記 2016年6月9日
キョウ さんだーす32

Blog「みずき」:保立道久さんは「今日の言葉」の前段では次のようにも言っています。「画像部分の翻訳「ヒラリーだらけの世の中だけど、あなたはバーニーであれ」。これが支持者の期待だろう。サンダースは明日オバマにあうが、サンダース支持のみで押すのは無理。民主党の選挙綱領の交渉に入るということであろう。どうするつもりか。「ヒラリー・クリントンの外交政策は、戦争、軍国主義と侵略の推進である。私たちの平和のための大統領はどこにいる?」これが現在のアメリカにとっても世界にとってももっとも根本的な問題だろう。サンダースはこれに正面から答えなければならない。コードピンクから。「ヒラリーは CA13%のマージンで勝った。いま、我々は最初の女の鷹が国家安全の名を狙って上空を旋回するのを見ている」これがもっとも正しい現状分析であろう。」

【アメリカの問題の根本原因はアメリカの戦争体制にある】
サンダース氏が明日9日(木曜日)にオバマと会うらしい。サンダースの側から会談を要請したということだから、まずはオバマが示唆しているクリントン支持宣言をやめよという要請であろう。大統領が民主党党大会前に一方の候補を支持するというのはアメリカ大統領職の性格からいってもふさわしくない。これを原則問題として主張するのは当然だろう。同時に私はサンダース氏がオバマに対して
クリントンが侵略主義者、戦争主義者であることを明瞭に指摘すべきであると思う。オバマが「党内融和のために」クリントンを支持せよなどといったら、そういう候補を支持せよと言うのかと反論するこ とである。【サンダース】7月の民主党大会での選挙綱領の議論の中心も中東からの撤兵要求であってほしいと思う。明瞭な撤兵計画を民主党の選挙綱領に書き込めないまま、もし大統領選挙決定戦でクリントン支持を呼びかける、あるいは否定しないというような態度をとらざるをえないことになれば、それは結果としてアメリカの戦争体制を容認することである。もしサンダースを支持した人びとからも大きな失望を呼ぶはずである。

私が心配なのは、サンダースが戦争は最後の手段というアメリカ・イデオロギーの口調を、そのまま繰り返していることである。アメリカ史の研究に明瞭なように、アメリカ帝国は戦争は最後の手段といって戦争の道を歩み続けてきた。サンダースもそれを知らない訳ではないだろう。サンダースは月曜夜の集会で、アメリカの経済的、社会、人種、環境の正義を追究し続けるといった。しかし、アメリカの問題の根本原因はアメリカの戦争体制にある。世界にとってはサンダースの選挙運動においてもっとも注目すべきなのは、サンダースがイスラエルとイスラエルロビーを批判しイスラエル一辺倒の立場をとらないと述べたことである。コー ド ピンクは「
いま、我々は、歴史上はじめて女の鷹が国家安全の名を狙って上空を旋回するのを見ているのだ。ヒラリーの外交政策は、戦争、軍国主義と侵略の推進である。平和のための大統領はどこにいる?」と述べている。これが現在の根本問題だろう。サンダースはこれに正面から答えなければならない。これはけっしてアメリカの国内問題ではないのだ。(保立道久Twitter 2016年6月9日
キョウ されど
その国家は廊下の右奥に立っている

Blog「みずき」:「オバマ訪広」という政治日程はたしかに終了しました。しかし、政治日程は終了しても「オバマ訪広」によって裸体の思想を剥きだしにしたわれわれニッポン人の精神構造の問題は当然終了しているわけではありません。半澤健市さんは言います。「いまこの国に起こっている状況は、『済んだことは水に流す』という我々の精神が、自己表現をしているのではないか」、と。どういうことか? 「核の傘に依存した『平和国家』が、自ら核で戦う「戦争国家」に変身してゆく」。それが「オバマ訪広」によって剥きだしにされたこの国の「自己表現」。「その国家は廊下の右奥に立っている」、と半澤さんは指摘します。


【三度、オバマの訪広歓迎の論理を問う】
バラク・オバマ米大統領の広島訪問は(略)予想どおり私は失望した。オバマの言動と日本側の歓迎一色の双方にたいしてである。(略)私が
過去二回述べてきたオバマの謝罪必要論は、核兵器が絶対悪であるという素朴な戦争観から出たものである。毒ガスが禁止されていて原爆が埒外だという法はない。メディアに出たオバマ歓迎論は、殆どが政治情勢または外交情勢論であった。ドレイの論理に等しい発言が多い中で、私が同感したのは田中利行広島市立大元教授(『東京新聞』2016年5月18日)と、平岡敬元広島市長の発言だ。ここでは平岡発言を紹介する。彼はどう言ったのか。オバマ訪広前の発言だが、今でも全く意義をうしなっていない。2016年5月17日の『琉球新報』のインタビューから抜粋して以下に掲げる。「広島市と広島県、政府も謝罪を求めないとしているが、そう発言するのは死者の声と被爆者の苦しみに向き合っていないからではないか。そう発言した彼らにとっては、被爆がすでに歴史になっている。謝罪問題を素通りして、ただ来てほしいというのは、原爆で亡くなった死者への冒涜だ」。「謝罪を表明するのは外交上、難しいだろう。ならば原爆慰霊碑の前で、そこに書かれていること、つまり『過ち』を認めるべきだ。『あの投下作戦は間違っていた』と。

過ちでない正しい行為であったとするなら、再び核兵器を使ってもいいということになりかねない」。「被爆地は正当化論を絶対に認められない。そして力による平和も認められない。平和は核抑止論でなく外交力に頼るべきだ。特に近隣外交だ。日本は戦争のできない国。原発をこれだけ抱えて戦争できると思う方がナンセンスだ」。「米国は(原発を)手放したくないという。力による平和を信奉しているからだ。(略)核を放棄できない。これでは、北朝鮮と同じ論理ではないか。オバマ氏は被爆者と向き合い、核廃絶へ向け具体的に何をするのかを示してほしい」。』ところで、世論調査によれば
オバマ訪広歓迎が98%だったという。私はこれにも驚いた。ただ一人、評論家の東谷暁が、文化放送のニュース番組(2016年6月5日)で、「私(東谷)は謝罪なしの訪広にはオバマ反対だった。その意味では私は2%に属する」という発言をしていた。いまこの国に起こっている状況は、「済んだことは水に流す」という我々の精神が、自己表現をしているのではないか。私には異様に見えるこの状況は、戦後日本の道程を正確に再現し同時に先を見通しているのではないか。核の傘に依存した「平和国家」が、自ら核で戦う「戦争国家」に変身してゆく。その国家は廊下の右奥に立っている。(半澤健市「リベラル21」2016.06.08
キョウ うちだじゅ
SEALDsと安全保障関連法に反対する学者の会

Blog「みずき」:「きまぐれな日々」の主宰者のkojitakenさんの下記の論と本エントリ下段の「山中人間話」の私の安全保障関連法に反対する学者の会及びSEALDs批判には現在ニッポンの政治、とりわけこれまで「革新」と称されてきたニッポンの政党の底知れない「右傾化」批判という点で通底する認識があるだろうと私は思っています。あわせてご参照していただければ幸いです。そして、現代ニッポンの底知れない政党の「右傾化」への憤りを共有していただければ幸いに思います。

【いま「革新」政治が崩壊の時代に突入している】
政治家たちには「転向」が相次いでいる。少し前には鈴木宗男が娘の鈴木貴子の自民党移籍を画策した。いつまでも民主党(現民進党)にいては将来がないと判断したからだろう。つい最近には、おおさか維新の会が、田中康夫を参院選東京選挙区候補として擁立する意向だと報じられた。鈴木宗男と田中康夫は、いずれも小沢一郎に近いとされた政治家だ。しかし、彼らの「転向」を批判する声は、リベラル・左派、特に7年前の「政権交代」に熱狂した人たちからはほとんど聞こえてこない。鈴木宗男についていえば、先の衆院北海道5区補選で「野党共闘」の池田真紀候補が敗れたのは、宗男票が寝返ったからだとの「慰め」の言説のダシにされただけだ。この俗説を広めたメディアの一つに「日刊ゲンダイ」があったが、これが誤りであることを、私は「
kojitakenの日記」で示したが、「日刊ゲンダイ」の欺瞞に満ちた麻薬的なコンソレーションに自ら進んで騙されようとする人間が続出するほどにも、リベラル・左派の心は弱くなっている坂野潤治の言う「異議を唱える者が絶え果てた『崩壊の時代』」とはこのことだ、との感を最近ますます強めている。坂野潤治はこの言葉を1937年7月7日の盧溝橋事件以降敗戦までの時代に対して使ったが、2013年の毎日新聞のインタビューで坂野は、2012年末の総選挙で第2次安倍内閣が発足して、現代日本も「崩壊の時代」に入ったと語った。(略)

坂野潤治の言葉通り、安倍政権の経済政策はいまや崩壊しつつあるが、この3年間野党が「固定化した格差を縮小する構想を練って」いたかといえば、答えはノーだろう。せいぜい今回の政局で、民進党の岡田克也が安倍晋三の先手を打って国会の党首討論で消費増税延期を提言して得意げになっているくらいのものだ。これではきたる参院選での「野党共闘」の勝利など到底望めないだろう。また、坂野氏の言う「成長による格差縮小」は、多くの経済学者の主張とも共通する、いわば「常識」だと思うが、「リベラル」の間に相も変わらず蔓延していたのは、自身は紛れもない
富裕層の人間である内田樹「脱成長」論だった。現在のリベラル・左派論壇の膠着状況には目を覆うものがある。3年前の記事では、坂野潤治の「あの時(1937〜45年の「崩壊の時代」=引用者註)は戦争に負けて焼け野原になったように崩壊の形が目に見えた。しかし今回はこの国の体制がどういう形で崩壊するのか、その姿すら浮かびません」という言葉を引用した。悪いことに、それは今なお当てはまり続けている、というより、3年前にはあまりピンとこなかったその言葉の実感が、ここにきてますます強まっている。(きまぐれな日々 2016.06.06
キョウ すのーでん

Blog「みずき」:清水勉弁護士は社会派の弁護士です。「明るい警察を実現する全国ネットワーク」の代表をつとめていることがその論よりの証拠です。清水弁護士は私たちの日常の中にある非日常的なものをたびたび発見します。言われてみるとごく当たり前のことにすぎないことが多いのですが、その当たり前のことに私たちは日頃気づかない。そうした日常の所作の発見者です。今回も清水弁護士は自分の耳で聴いたこととメディアの報道の食い違いを発見します。そして、それが今日のメディアの惨状の批判となっていくのです。自分らしさの視点といったらよいのでしょうか。そして、人を等身大に見る。当たり前のことですが、そういう目で見ることの大切さを思います。

【スノーデンの日常と非日常】
2013年に米政府の個人情報収集を暴露した
エドワード・スノーデン元米中央情報局(CIA)職員が、昨日、東大構内で開かれたシンポジウムに、インターネットで画像参加した。わたしは、彼がいまどんな話をするのか関心があったので、彼の発言がある第1部だけ参加した。彼がどのような経緯でNSA(国家安全保障局)から情報を持ち出し、世界に問題提起した経緯は、『スノーデンファイル 地球上で最も追われている男の真実』(日経BP)に、彼が暴露した情報の中身は『暴露 スノーデンが私に託したファイル』(新潮社)に詳しい。彼は、ここでも冒頭に自分は愛国者であると断わりを入れた。これは、ポーズではなく、彼の本心だ。彼は国家を愛するからこそ、国家のためにインターネット上でスパイ活動をしていた。その内容が国家のためになっていると思えるうちはよかった。それがそうではなくなった。国民全員のデータのやりとりを国家が監視するようになってしまった。国家が国民に内緒でこんなことをするなんて。スノーデンはこのままスパイ活動を続けることに我慢ができなくなった。もちろん、それは、いつも政府が国民全員の日々の行動を監視しているということではない。「だから、悪いことをしていない人は心配いらないのだ」という楽観論があるが、これは間違いだ。日々監視しているわけではいけれど、いつでも監視しようと思えばできるという情報環境になっていることが問題なのだ。

ターゲット・サーベイランスメルケル首相も日常会話の通話が盗聴されていた。アメリカ政府はこれを誰に対してでもできる。アメリカ政府はなぜ、そんなことをするのか。安くて簡単にできるから。それに何か役に立ちそうだから。(この感じは日本社会の監視カメラの普及とそっくり。)(略)知り合いのマスコミ記者も幾人か見かけた。彼らは記事を書くのだろうか。紙面に出るだろうか。さて、どんな記事が出るだろうか。ネット上には神戸新聞の記事があった。見出しは、≪スノーデン氏、日本社会に懸念 特定秘密保護法を問題視≫確かにこの話も出てきたが、メインではなかった。(略)≪報道番組の看板キャスターが最近相次いで交代したことなども挙げ「日本の報道の自由は静かな圧力により、危機にひんしている」と述べ、報道の自由を守る必要があると訴えた。≫確かにこのような言及はあった。しかし、スノーデンは特定秘密保護法の専門家ではないし、所詮、だれかに聞いたかどこかで読んでことを言っているだけではないか。スノーデンが言及するのはいいけれど、あえて記事にする部分ではないのではないか。報道番組の看板キャスターが最近相次いで交代したことについても同じ。スノーデンの記事はスノーデンだからこそ語る内容(超監視社会)を報道すべきなのではないか。神戸新聞は自分が書きたい部分を書いたに過ぎない。これは国民の知る権利に応えていないのではないだろうか。(弁護士清水勉のブログ 2016-06-05
キョウ さんや

Blog「みずき」:あるメーリングリストに流れてきた色平哲郎さんの自己レスに目がとまりました。「これはマザーの現代日本へのご指摘。以下、親しい牧師さんから:ネパールを旅したとき、ガイドさんに訊きました。『ネパールにはホームレスは居ますか』答え『ハウスレスはいっぱいいますが、ホームレスはいません。寝る所と、食は家族、親族、友人、地域の誰かが提供していますから。』ハウスはなくても、ホームはあるわけです。現代日本の悲劇はホーム喪失です」。なんの自己レスかといえばマザー・テレサが山谷地域を訪れたときに残した言葉の紹介の自己レスです。マザーの言葉は次のようなものでした。

この世で最も貧しいことは、飢えて食べられないことではなく、社会から捨てられ、自分なんてこの世に生まれてくる必要がない人間であると思うことです。その孤独感こそが、最大の貧困なのです。日本にもたくさんの貧しい人たちがいます。それは、自分なんて必要とされていないと思っている人たちのことです」(
色平哲郎 2016年6月4日)。短い文章ですのでこの言葉をもう少しふくらまそうと思って「今日の言葉」として引用しているのが以下の吉本隆明との対談の中での辺見庸の山谷に関する言葉です。

【彼らはしきりに歩く】
彼らはしきりに歩くんです。途中でも旅館なんかには泊まらずに。また路上生活、アオカンと言いますが、冬場は非常に厳しくて、一週間続ければ病気になると言われています。にもかかわらずこの冬空の下で寝ている。彼らをドヤ(簡易宿泊所)や病院に収容しても、不思議なことに一ヵ月もするともう出たいという男もいるんですね。屋根と暖房があればよさそうなもんだけど、屋内にいる方がどんどん体調が悪くなってゆく。それが路上生活に戻ったとたんに元気になったりするんですね。一月の寒さの中、路上で朝から酒を食らってひっくり返っていて、午後見てもまだひっくり返っていて、このおっさんもう死んじゃうんじゃないかなと思ってどきどきするんだけど、次に日にはちゃんと立って歩いていたりする。私はそういうのを何度見ても、不思議な感動を覚えるんですね。こういう風景は語れば尽きないんですけれど、どうも山谷にホームレスが集まって来るのは、単に景気が低迷しているからとか、企業でリストラが進んでいるからという経済的理由だけではないものを感じるんですね。もっとメンタルなものも理由ではないかと思うんです。さらにいえば、この時代の人間とはこういうものではないか、いわば国家とか、家族とか、会社による束縛を、心底嫌がっているんじゃないか。それらからすべて抜けて「無」になりたがっている者もいるんじゃないか、と。(略)

最近、彼らとの関わりの中で、ほんとに人とも言えないような、土の中から生まれてきたような人間を抱き起こす作業をしたことがあるんです。裸足でしてね。ベルトのかわりに腰に針金巻いて、そりゃひどい臭いです。まだこの手や胸の中に感触が残っているんですが、そのとき感じたのは、憐憫でも同情でもないんですけどね、ある種のいとおしさなんです。まったくの負として、そのように生きているといういとおしさですね。じゃあ、負でない世界にどんな意味があるというのか、私は山谷に行く以前は都心で暮らしていましたが、そこには果たして根腐れはないのか。この消費資本主義の中で根腐れがないかというと、隠蔽しているだけで、地下茎部はもっとひどいかもしれない。少なくとも私は、きんきらきんのビルから出てくるスーツ姿の男女にいとおしさを感じたことはありません。いま、健全に見せかけているものって、すべていかがわしいと思います。私は宗教者ではありませんけど、人間が神に似せて作られたのだとしたら、彼らの方がわれわれより神に近いのではないかとまで考えました。戦後社会の矛盾を矛盾として額面どおり身体で受け止めてしまっている人間たちに、私は不思議なプラスの要素を見たんです。(吉本隆明と辺見庸の対談集『夜と女と毛沢東』(文藝春秋 1997)から
キョウ のうといえる

Blog「みずき」:本文章は松岡正剛さんの「福島応援歌」といってよいものでしょう。本文章の最後は高村光太郎の『開墾』の一節の引用で締めくくられています。「北上川以西の此の辺一帯は強い酸性土壌であり、知れ渡つた痩せ地である。そのことは前から知つてゐたし、又さういふ土地であるから此所に移住してくる気になつたのである。野菜などが有りあまる程とれる地方では其を商品とする農家の習慣が自然とその土地の人気を浅ましいものにするのである。‥‥太田村山口の人達は今の世に珍しいほど皆人物が好くてのどかである。その代り強い酸性土壌なのである。(略)太田村には清水野といふ大原野があるが、此所に四十戸ばかりの開拓団が昨年から入り、もうぼつぼつ家が建ちかけてゐる。私は酪農式の開拓農が出来るやうに願つて、なるべくそれをすすめてゐる。そして乳製品、ホウムスパン、草木染に望みをかけてゐる。」


【国は被害者の味方にはならない】
2011年3月11日、新潟で会議をしていた著者がいた建物と部屋が大きく揺れた。みんなが立ち上がり、会議は中止。
著者は不安に駆られつつも、車でラジオの緊急ニュースを聞きながら自宅に走った。やがて福島原発が爆発したことがあきらかになり、周囲に放射能が洩れ出した。メルトダウンしたかどうかの報道はなかったが、チェルノブイリ以上の大事故かと思われた。さっそく日本有機農業学会を母体にした現地調査団が組まれた。5月6日、著者たちは澤登早苗を団長として相馬市・南相馬市・飯舘村・二本松市東和地区に入った。(略)これらの地域では、水田面積12600ヘクタールのうち、津波で冠水して塩害を受けた水田が4321ヘクタールになっていた。畜産家は364戸のうち僅か101戸が残っただけだった。牛や豚もあわせて4864頭がいたのだが、その後は2200頭を切った。相馬市山上では、水田土壌の放射性セシウムが1キログラムあたり640ベクレルを示した。南相馬市では積算空間放射線量が20ミリシーベルトになるおそれがあった。福島県有機農業ネットワークの前代表をしていた小高区の根本洸一さんを訪ねると、あの日から茫然自失の状態で、学校避難のあとは喜多方に一時避難し、その後は相馬市の親戚の空き家に暮らしていた。(略)

本書には農事と救済をめぐる活動がいろいろ紹介されているのだが、そのなかから「
農と言える日本人」ならではの発見や着眼がいくつも報告されている。たとえば「耕作することでセシウムの空間線量率が下がっていく」「落ち葉を食べるミミズにはセシウムがかなり濃縮される」「表面剥ぎ取りは土壌侵害をおこして水系の二次汚染をすすめる」「牧草の汚染は地上部に集中して根には至っていない」といったことは、ぼくのような素人から見ても画期的な観察結果なのではないかと思われた。著者の活動と研究は「農による知の統合」なのである。本書の後半には、足尾銅山の汚染問題水俣病の公害問題についての詳しい見解も述べられている。著者は栃木県葛生に生まれ育ったのだが、小学校の校舎の入口には田中正造の写真が掲げられていたのだそうだ。著者はやがて荒畑寒村の『谷中村滅亡史』や林竹二の『田中正造の生涯』、東海林吉郎・布川了の『足尾鉱毒・亡国の惨状』などを読み耽って、日本の農事・山村・漁村を襲う「侵害」に立ち向かえる研究者になろうと決意したようだった。本の終わり近く、著者は次のことを明言している。①国は被害者の味方にはならない。②県は被害者を説得しようとする。③しばしば「偽りの科学性」によって真実が歪められる。④「疑わしきは罰せず」によって科学的因果関係の決着が延ばされる。⑤「疑わしきは認めず」によって人命は軽視されていく。(松岡正剛の千夜千冊 2016年06月03日
キョウ やすまるよしお

Blog「みずき」:木村剛久さん(元編集者)は安丸良夫の『日本の近代化と民衆思想』を読んだ感想として「世界を切り開くには民衆は精神だけでは足りないこと、知が必要であること、さらには時に抵抗こそが変革をもたらすことを私たちはやがて自覚するようになったはずである」と述べます。木村さんがここで「はずである」としているのは実際には安丸良夫の「民衆」に関する洞察は私たち現代人に変革に必須な思想としてきちんと継承されていないことを指摘しておきたかったからだろうと思われます。私もかつてE.フロムを援用して次のように述べたことがあります。「変容の条件は、庶民性そのものの中にある。かつてユダヤ人精神分析学者のE.フロムは、その庶民性を「社会的性格」と名づけた。ドイツの労働者階級や下層中産階級の人びと、いわゆる庶民が、なぜナチズムのイデオロギーを支持し、自発的に服従したのかを問う中で、彼は「社会的性格」という概念に想到したのである。フロムによれば、社会的性格はひとつの集団の大部分の成員がもっている性格構造の本質的な中核であり、それが社会制度の期待と矛盾するとき、社会制度に対する反発と対立を引き起こし、社会変動の起爆剤となる。庶民性はいつの場合も両刃の剣なのである」、と。そういうことだろうと思います。

【日本の近代化の背景には変動期を生き抜こうとする民衆の強い精神があった】
安丸良夫(1934-2016)の名前を知ったのは、
奥武則氏(毎日新聞客員編集委員、法政大学教授)の追悼記事を目にしたときだ。安丸の最初の著書『日本の近代化と民衆思想』は1974年に刊行されたが、それを読んだときの「衝撃は大きかった」という。追悼記事はこうつづく。〈後に「通俗道徳」論と呼ばれる民衆史の発想に目からウロコが落ちる思いだった。勤勉・倹約・孝行・正直などの民衆的な諸道徳(通俗道徳)は、封建的・前近代的とされてきた。安丸さんはそれらにまったく別の光を当てた。通俗道徳は民衆の自己規律・自己鍛錬の様式なのであり、こうした形態を通じて発揮された膨大な人間的エネルギーが、日本社会の近代化の基底部を支えたというのだ。当時、脚光を浴びていた近代化論はもとより、マルクス主義歴史観が主流の戦後歴史学もとらえることができなかったリアルな民衆がここにいた。〉(略)安丸良夫が読者に衝撃を与えたのは、そこにこれまでとらえられていたのとはちがう、生き生きとした民衆の姿がえがかれていたからである。民衆というと、封建制のもとに抑圧された民衆、無知蒙昧な民衆を思い浮かべるかもしれない。しかし、それは上から目線による歪められた像だ。実際の民衆とは「勤勉・倹約・孝行・正直など」の道徳によって、自らを律し、人生を切り開いている人びとのことである。おそらく安丸の視点がユニークだったのは、封建的とされがちな道徳をもちあげたからではない。そうではなくて、道徳をみずからとりいれることで、忍従しているのではない自立的で活発な民衆の像をえがいたからである。(略)

ここで安丸が示している民衆の像として、ぼくが思い浮かべるのは、たとえば
金光教の信者でもあった祖母のことであり、墓参りで出会った篤実な老人の姿などである。だから、安丸の示す民衆像に、どこかなつかしさを感じるのかもしれない。しかし、それが民衆のすべてかというと、それだけではないような気もする。怒れる民衆も、消沈する民衆も、泣き叫ぶ民衆もいるだろう。(略)民衆といっても一筋縄ではいかないのである。(略)安丸は精神主義のあやうさを指摘することも忘れていない。こう書いている。〈こうした民衆思想に共通する強烈な精神主義は、強烈な自己鍛錬にむけて人々を動機づけたが、そのためにかえってすべての困難が、自己変革─自己鍛錬によって解決しうるかのような幻想をうみだした。この幻想によって、客観的世界(自然や社会)が主要な探求対象とならなくなり、国家や支配階級の術策を見ぬくことがきわめて困難になった。〉それでも、日本の近代化の背景に、変動期を生き抜こうとする民衆の強い精神があったことを否定すべきではないだろう。そして、その民衆は精神だけでは足りないこと、世界を切り開くには知が必要であること、さらには時に抵抗こそが変革をもたらすことを、やがて自覚するようになったはずである。(木村剛久「海神日和」2016-06-04
キョウ やすだじゅんぺい4
Everyone says I love you ! 

以下は、弁護士の徳岡宏一朗さんの主宰する「Everyone says I love you !」ブログの「【私も署名しました!】戦場ジャーナリスト安田純平さんの即時救出を政府に求める署名開始!【国家の義務】」という記事に対する私の緊急対応的なコメントです。

徳岡宏一朗さん
 
「安田純平さんを日本が救出する最善の努力を政府に求める署名に賛同します」というご発議ですが、この署名運動に重大な疑問を呈している常岡浩介さんらフリージャーナリストや内藤正典さんら中東政治の研究者をはじめとする一群の人たちがいることをご存知でしょうか。その疑問とは以下のようなものです。

【疑問を呈示されている呼びかけ】
解釈で憲法9条を壊すな!:
【拡散希望】
安田純平さんを救おう!6・6官邸前緊急市民行動
Save Yasuda Junpei!
6月6日 月曜日
時間 18:30〜19:30(予定)
場所 首相官邸前 最寄駅 国会議事堂前駅
主催:
解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会・WORLD PEACE NOW 

【疑問】


私はこの疑問の呈示には十分な理由と根拠があると思っています。

この「安田純平さんを救おう!6・6官邸前緊急市民行動」の呼びかけは、上記の呼びかけ文だけでははっきりしたことはわからないのですが、主催団体から推察するところおそらくフリージャーナリストの西谷文和さんからの情報に基づく 呼びかけではないかと思われます。だとすれば、この西谷さんの情報は恣意的なもので、信憑性という点できわめて問題点の多い情報のように思われます。

そのように言うのは以下のような西谷さん情報に関するこれまでの否定的な問題事例と証言があるからです。
 
昨年の12月22日、「国境なき記者団」(本部パリ)は、「安田氏を拘束している犯人らは身代金支払いカウントダウンを開始しており、支払わない場合、安田氏を殺害するか、他のテロリストグループに売り渡す」と言っているとして日本政府に救出要請をする声明を発表し、そのおよそ1週間後の29日までに「情報確認が不十分だった」として同声明を撤回するという事件がありましたが、その「国境なき記者団」が撤回をせざるをえなくなるようなうその情報提供をしたのがセキュリティーコンサルタント会社CTSSという危機管理会社名を自称するニルス・ビルトという人物でした。 

そして、フリージャーナリストの
常岡浩介さんによれば
、「西谷氏はちょっと前までシハーブという人物とともに、今のニルスに近い行動を取っていた。家族にも外務省にも了承を取らず、犯人側と身の代金の話をしようとしていた」ということです。外務省はともかく「家族にも了承を取らず、犯人側と身の代金の話をしようとしていた」件についてはほかならない安田純平さんのご家族の証言もあります。

そのような否定的な問題事例と証言がある人物の根拠に疑いがある情報に基づいて官邸前緊急市民行動なるものを行おうとするのは常岡さんの指摘するように「安田くんにとって非常に不利で危険な行為」といわなければならないでしょう。すでに私たちにはこれは政府の話ですが常岡浩介さんや中田考さんの救出活動を意図的に阻止して結果として後藤健二さんと湯川遥菜さんを死に至らしめたという苦い経験も持っています。これだけ安田さんの友人、知己のフリージャーナリストや中東政治研究者のこれまでの経験に基づく強い反対を押し切ってまでする救出活動、あるいは運動とはなんでしょう? 危険すぎます。即座に賛同署名の中止を求めるものです。

追記:
なぜ私たちは「安田純平さんを救おう!6・6官邸前緊急市民行動」や「安田純平さんを日本が救出する最善の努力を政府に求める署名運動」を「危険」というのか。ふつうこの種の人質事件や誘拐事件は事件が解決に向かうまで水面下で工作をするのが常道(定石)であるということが頭にあれば大っぴらにする行動がいかに危険であるかということは常識として理解できることだろうと思います。大っぴらにすることで手の内を読まれ身代金を吊り上げられたり、最悪の場合殺人にまで到ることはこの種の事件では珍しいことではありません。だから、人質の解放に到るまでは水面下での工作が常道(定石)とされているわけです。

この点について高世仁さん(ジャーナリスト)は6月1日付けの「メディアは安田氏報道で反省を」という記事の中で次のように言っています。

「ただ、憂慮されるのは、こうして注目を浴びることで自称「仲介人」ルートが何か唯一の解決への道のような扱いになることだ。内藤先生はこの点、私と同意見で、「スタジオでこんなことをいうのはなんですが、メディアがこれを取り上げること自体を反省しないと・・・」とクギをさしていた。ラジオでも「政府そして私たちメディアは、安田さん解放のためにどうすればいいんでしょう」と聞かれたが、どう答えていいかわからない。こういうケースの場合、解決への努力はほとんど水面下での「工作」である。誘拐事件を考えたら分かると思うが、事実関係をおおっぴらにして、「さあ、警察はどういう方法で誘拐被害者を救出したらいいでしょうか」などとメディアで議論したりしない。事実関係自体の報道を控える。だから、今のように、安田氏の画像が出るたびに大きなニュースになったり、身代金の金額を報じたりすることは、本来異常なことなのである。スペインでも解放までは報道は非常に抑制されていたという」、と。

そういうことだろうと私も思います。
キョウ おばま7  

Blog「みずき」:ここにあるのは辺見庸の当代のマス・メディアと当代の世間、世俗というもの、当代のニッポン人に対しての怒りです。ここに見る辺見のサブカルチャー的言辞はもちろん怒りの表現としてのそれです。カルチャー(マス・メディアと世相の言葉)の激しい劣化に対してはサブカル(下位)の言葉で対応するに如くはない。尋常の言葉では応答不可能ということもあるでしょう。そうした趣の怒りの表現ということではないでしょうか。


【現実はむしろ悪夢に似ていたかもしれない】
一昨日のブログ安岡章太郎文章を引用した。(略)むしろこの文章の前後に、うっと息をのむようなことが書いてある。前:「しかし、現実はむしろ悪夢に似ていたかもしれない」。後:「大学予科二年修了で入営した僕は、いつの間にか学部に編入されており、三田の大学構内には、階級章を引き剥がした陸海軍の軍服に学帽をかぶった連中や作業衣、ジャンパーなど、思いおもいの恰好をした者たちがむれ集まって、アメリカ兵が銃をかまえて立っている校舎のまわりをウロウロしていた」「現実はむしろ悪夢に似ていたかもしれない」とは、ノッチハナクソのヒロシマ訪問にさいしてのわたしの感想でもあった。嘔気。(略)だが、オバマを迎えた被爆者代表たちは、悪夢どころか、「平和の使者」と出会ったかのように、手ばなしで感激している。いったいどうしてヌッポンはこうなるのか。「あの事件はすでに歴史の一コマであり不幸な一コマであった。アメリカではなく、人類の過ちであった。未来に向かって頑張りましょう。・・・・・・未来志向で、核兵器のない世界を作り上げましょう」と被爆者代表が語りかけると、ノッチは笑顔で同意するように応じ、ふたりで何度も握手をしたのだという。原爆投下が米国ではなく「人類の過ち」? なんという恥ずかしい台本・記事だろう!もうひとりはオバマと対面すると涙ぐみ、抱きよせられるや感きわまった表情。そのときのことは「舞い上がっちゃって覚えてない」という。

これはなんなのか。
ジョン・ダワーの記述をおもう。というか、ダワーによって描かれたヌッポンジンの挙措をおもう。「さらに厄介だったのは、日本人の占領軍への対応の仕方が例を見ないほど無邪気で、親切で、浅薄だったことである。たとえば原爆が投下された長崎においてさえ、住民は最初に到着したアメリカ人たちに贈り物を準備し、彼らを歓迎したのである(略)。またすぐ後にも住民たちは、駐留するアメリカ占領軍人とともに「ミス原爆美人コンテスト」を開催したのである」(『増補版 敗北を抱きしめて』上305頁)無邪気で親切で浅薄・・・・・・。2016年5月のヒロシマにおけるひとびとの身ぶりとヌッポンの報道ぶりも、まことにそうであった。「たしかに多くの日本人がほとんど一夜のうちに、あたふたとアメリカ人を礼賛するようになり、「平和」と「民主主義」の使徒となったかのような有様をみると、そこには笑うべきこと嘆くべきことが山のようにあった」(同)。笑うべきこと嘆くべきこと、それに、吐き気をもよおすべきこと・・・。今日の人間を支配しているコンフォーミズムの過程が、言語に絶する規模で人間を畸形にしている・・・とおもう。極東の弧状列島には、無邪気で親切で浅薄で傲慢で卑屈で鈍感で、セーシンが畸形なドジンがうようよと棲息することくらい、とうのむかしから知っている。ゴミ、クズ、カス、ヘドのような者どもが政治を左右し、唐変木と志ひとつないマヌケとフヌケどもがマスコミ報道をしきっている。もう一発ピカドンを落とされても、それは変わるまい。いや、さらに2発落とされてさえ、生きのこったドジンたちはみんなで幸せそうに「花は咲く」をうたうだろうさ。(略)

最後にひとつだけ、
塩野七生のハナクソ礼賛を大々的につたえた朝日の反動報道を笑おう。――オバマ大統領が被爆地・広島を訪問することを知ったとき、まず、どう感じましたか。「知ったのは、ローマの自宅でテレビを見ていた時です。画面の下を流れるテロップでのニュースだったけれど、それを目にしたとたんに、久方ぶりに日本外交にとってのうれしいニュースだと思いました」「特に、日本側が『謝罪を求めない』といっているのが、大変に良い」 ――どうしてですか。「謝罪を求めず、無言で静かに迎える方が、謝罪を声高に求めるよりも、断じて品位の高さを強印象づけることになるのです」「『求めない』と決めたのは首相でしょうが、リーダーの必要条件には、部下の進言も良しと思えばいれるという能力がある。誰かが進言したのだと思います。その誰かに、次に帰国した時に会ってみたいとさえ思う。だって、『逆転の発想』などという悪賢い人にしかできない考え方をする人間が日本にもいた、というだけでもうれしいではないですか」バカか。そうか、「七生報国」とはあんたのことかい。七生(しちしょう)さん、ご帰国のさいには、あの男のケツの穴でもお舐めになってはいかが。ドジンマスコミが写真入りで、でかでかと紹介するだろうよ。(辺見庸「日録」2016/05/31