キウイ
キウイ

【はじめに追記】
ところで前田朗さん。
 
Blog「みずき」の7月9日付けの私の前田さん宛ての「 『のりこえねっと』は自らの組織の内部の問題としてある『カウンター運動における右傾化』の問題をどのように乗り越えるのか? 」という問題提起は当然目にされていると思いますが、その後この点について同ねっと共同代表の辛淑玉さんや上野千鶴子さんらにはその旨問題提起していただいているでしょうか? 「今日の言葉」で批判されているのは野間易通さんをはじめとするしばき隊のみなさんです。辛淑玉さんや上野千鶴子さんらは同ねっとのTVキャスターにその野間易通さんの反省が見られないままいつまで起用されるおつもりでしょうか? 再度、お尋ねしておきたいと思います。
先日のBlog「みずき」の7月27日付けで紹介した「自分の言葉、自分のスタイルのさわやかさ」とは真逆ともいうべき鄭さんバッシング問題についてSEALDs近縁の市民、社会人グループからも反省の声が聴こえ始めたようです。以下の河添誠さんの連ツイとその連ツイに呼応したさまざまな人たちの一連のツイートを一瞥すると変化の兆しが見え始めていることがおわかりいただけると思います。
ノンフィクション作家で元『朝日ソノラマ』編集者の保阪正康と同じく作家で元『文藝春秋』編集者の半藤一利はともに「リベラル」の作家としていまいわゆるリベラル・左派陣営の間でもっとも人気のある(といってよい)作家です。彼らがもともと保守の論客であったことは周知の事実ですが、いまはメディアからも左派政党からもまったく「リベラル」の論客として遇される扱いを受けています。
弁護士の澤藤統一郎さんがご自身のブログに同期の友人という札幌の郷路征記弁護士を登場させて「一人ひとりを尊重する運動スタイル」の大切さと「自分の言葉で語り、自分のスタイルで活動」することの大切さについて論じています。そこで主張されているところはもちろん大切な視点も含まれていますが、私には気がかりなところも少なくありません。その私にとって気がかりなところを澤藤統一郎弁護士と郷路征記弁護士に「見えていない」視点と名づけてみます。以下、そのことについての私の感想です。
「今日の山中人間話」より。

Blog「みずき」:上記の安倍発言はコチラで確認できます。なんという無知で傲慢な首相発言か。「私は総理大臣なんですから(私の)説明は全く正しいと思いますよ」!? 太平洋戦争開戦の日の1941年12月8日夜、時の内閣総理大臣の東條英機は開戦の決意をラジオを通じて国民に向けて「大詔を拝し奉りて」と意気揚々と演説した。此レヲシモ「総理大臣なんですから全く正しい」というのか? 安倍の反論理、反知性きわまれり。
ブッソウゲ
ブッソウゲ

SEALDs問題をめぐる『週刊金曜日』の記事(岩本太郎氏)について
                   (大田英昭「長春だより」 2015-07-23)

 
『週刊金曜日』7月17日号(40~41頁)に掲載された、「SEALDsの見解をめぐりウェブ上で起きた批判と反論の応酬」と題する岩本太郎氏の記事を読みました。SEALDsの公式HPの声明文について鄭玹汀氏が自身のフェースブックに批評を書いたことをきっかけに、先月からネット上に発生した出来事について、岩本氏は記しています。しかし岩本氏のまとめ方にはいくつかの深刻な問題があり、この間の出来事について読者をミスリードする恐れがあると感じました。以下、その問題点を記します。

佼成教職組の佐藤和之さんが日立就職差別糾弾闘争の元当事者の朴鐘碩さん(原発メーカー訴訟の会事務局長)の同訴訟弁護団に対する以下の抗議文と声明文を紹介されています。
 
・抗議文「前・現事務局長の代理人を辞任した、原告弁護団に強く抗議します」
http://blogs.yahoo.co.jp/tocka_jikkoi/65732867.html
 
・声明文「原発メ-カ-訴訟・弁護団による前・現事務局長の代理人辞任に対する声明」
http://blogs.yahoo.co.jp/tocka_jikkoi/65733788.html
【アフリカのブルンジと日本の反立憲主義の相似性】
米津篤八さんが「鄭玹汀さんバッシング」問題に関連して「SEALDs支持者による鄭玹汀さん攻撃の差別性と、SEALDsの責任について」という論を書かれています。事実に即したSEALDs(シールズ)批判となっており、1970年代以来長い間の政治的なシチュエーションの場における若者不在がやや過剰気味な「若者讃歌」を演出しているというある意味万やむをえない事情もあるのでしょう。その過剰気味なシールズ評価が「世論」的にも受容されているという空気の中にあって冷静で重要な指摘だと思います。
鄭玹汀さんに対して「シールズと関わりがあるとおぼしき人たちからの脅しのメッセージ」が執拗に続いるいるようです。

「シールズと関わりがあるとおぼしき人たちからの脅しのメッセージや、シールズの中心メンバーが所属する某大学関係者からの「忠告」のメッセージが絶えません。シールズへの「謝罪文を掲載」せよ、「悔い改め」なさい、など私の思想信条の自由を踏みにじるものすらあります。こういうメッセージを受け取るたびに、堪えられない苦しみを感じます。日常生活にも支障がでています。」(鄭玹汀FB 2015年7月18日) 
山中人間話

前田朗さんが「植民地解放闘争を矮小化する戦略」と題した朴裕河の『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)の書評記事を書いています。以下、その前田さんに宛てた私の簡単な感想と同書評記事の紹介です。前田さんからの応答は私は期待していません。その理由は下記の私の感想からも読みとれるものと思います。
13日にあった衆院平和安全法制特別委員会の中央公聴会で「学者は憲法学者だけではない!」と発言した(もちろん、集団自衛権「違憲」発言の3学者批判)として産経新聞の同日付けの記事に掲載されている同志社大学の村田晃嗣学長(国際政治)の顔と風体をつくづく観察してみるけれど、この人、どう見ても学者の風体ではない。縞柄のスーツジャケットにポケットチーフをたたみ込んで粋に着こなしていると思いこんでいるあたり江戸の遊女にも嫌われる通人もどきの半可通とでもいうべき風情。名は体を表すといいますが、体はこの人の日常の「学者」風情、すなわち半可通のありようをも示していると見てよいでしょう。そして、この人の半可通のゆき着くところが日本会議である、というのが妙に得心の生じるところです。