志位共産党委員長の外国特派員協会講演「政権を取っても自衛隊は当面維持します」論の問題性に関する15年前の指摘はほかにもあります。今回は1970年代は「赤旗」や「前衛」、「経済」などの共産党系の機関紙誌にほとんど毎月のようにマルクス主義の国家論や先進国革命論を発表し、共産党系学者グループの中でももっとも存在感のある論客のひとりとして知られていた名古屋大学教授(当時)の田口富久治さんの論(大概)をご紹介させていただこうと思います。
ベニバナ
ベニバナ

本日の「山中人間話」 から。

ムクゲ
ムクゲ

【三木清と西田幾多郎の窮境の相似性】
安保戦争法案がどういう動きになるのかは心配なことである。東アジアにおける平和は、世界全体にとって極度に大事なものである。この法案は、ともかく東アジアにおける軍事行動の臨戦態勢を法的に作ろうということであることは、どのような立場からであろうと否定できない事実である。武力を行使する体制を太平洋の東(アメリカ)と西(日本)で目に見える体制として作ろうというのである。(略)
本日付け(6月29日)で削除した標題記事について松尾匡さんから以下のようなコメントがありました。

松尾匡 2015/06/11
「心痛む右傾化の中、心強い言論活動に敬意を表します。/すみません。この「ディストピア」の管理者の方は、「金融緩和」と「金融の規制緩和」とを混同されています。/「金融緩和」は中央銀行がおカネをたくさん出すこと。「金融の規制緩和」は銀行などの民間の金融機関に対する規制や金融取引への規制を緩和することです。/もし連絡がつくかたでしたら、こっそりと教えて上げて下さい。/私はもちろん、「金融規制緩和」には反対で、拙著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』でも書いています。/なお、欧州左翼が金融緩和を志向していることは、最近月曜日に出た「週刊エコノミスト」誌にも書きましたので、ご覧いただけましたら幸いです。」
共産党の志位和夫委員長はこの6月23日、外国特派員協会で記者会見し、共産党が政権についても当面自衛隊は維持する考えを示しました。この点について、ビデオニュース・ドットコムが簡潔に同会見の趣旨をまとめていますので以下引用します。
 
「共産党の志位和夫委員長は6月23日、外国特派員協会で記者会見し、共産党が政権に就いても、当面自衛隊は維持する考えを示した。共産党の安保政策について質問を受けた志位委員長は、日米安保条約を現在のような軍事同盟から対等の有効条約に変質させていきたいとした上で、「日本を取り巻く国際環境が平和的な成熟が出来て、自衛隊はなくても日本の安全は大丈夫だという圧倒的多数の合意が熟したところで、自衛隊解消に向かうというのが私たちのプラン。自衛隊との共存の関係が一定期間続くことになる」と語り、共産党が伝統的に違憲としてきた自衛隊を当面は維持する方針を明らかにした。また、他の野党との選挙協力については、先の総選挙では沖縄の4つの選挙区で共産党を含めた野党候補の一本化が行われ、すべての選挙区で勝利を収めたこと引き合いに出した上で、「共闘関係は、条件が生まれた時には大胆に追及する。ただ、野党の間でも国政の基本問題で政策的な違いがあまりに大きい問題がたくさんある」と述べた。ただし、安保法制に反対するという一点での野党協力はあり得るとの認識を示した。安保法制については安倍首相が国会で「違法な武力行使をした国を日本が協力することはない」と説明しているが、アメリカが先制攻撃した過去の戦争について日本政府は一度も武力攻撃に反対したことがないと指摘し、日本政府にはアメリカの違法な武力攻撃を違法といえるのか、と疑問を呈した。」(「ビデオニュース・ドットコム」2015年6月23日から)
ネジバナ
ネジバナ

【沖縄の怒りを孤立させてはならない】
自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」の席上発言は、典型的な末期症状の露呈だ。(略)
朝日毎日東京だけでなく、さすがに読売までもが本日(6月27日)社説を掲げて、自民党・安倍内閣の「異常な異論封じ」「批判拒絶体質」を批判し、報道規制発言に苦言を呈している。産経だけが様子見である。(略)
キダチチョウセンアサガオ 
キダチチョウセンアサガオ

【政権与党の「寂しさloneliness」の利用について】

ハンナ・アレントが『全体主義の起源』の後書きで、孤独solitude寂しさlonelinessは違うと言っている。孤独はあらゆる創造的行為にとって必要なものだ。孤独である時、人は自分自身と一緒にいることができる。自分自身と語り合うことができる。それに対し、寂しさを感じる人間は、際限なく他人を求めるが故に、自分自身のもとにあることができない。自分自身と語り合うこともできない。そしてそれはつらい経験である。アレントは、寂しさという人間にとってもっともつらい経験を利用したのが全体主義だと言っている。ドゥルーズは、若い人に孤独がいかに大切なものかを教えることが教師の大切な役割だと言っている。俺も本当にそう思うし、それを教えたいと思っている。大学での勉強や読書の経験は、孤独の価値を若い人たちに知ってもらうための貴重な機会だ。ところが、「孤独」の大切さを教えるこの大学という場で、政権与党が、「寂しさ」を利用して若い連中を集めようという酷い計画を臆面もなく語っている。そうなると、「寂しさ」に対する防衛戦と、「孤独」のための教育の二方面での配慮が必要になるわけか。(國分功一郎Twitter 2015年6月26日

【山中人間話】

【補遺】
池上彰は本当にリベラルの星なのか?(時事解説「ディストピア」 2015-06-13)
 
さすがに度が過ぎたのか、池上彰の番組が非難されているようだ。先に批判記事をリテラに書かれてしまった。残念。上の記事では池上はリベラルの星と表現されている。しかし、池上が左翼はおろか、リベラルに立ったことなどない
 
 靖国問題に関しては、参拝の意義を理解してもらうよう訴えることが大事と言い、慰安婦問題に関しては、解決されないのは韓国の市民団体のせいだと言い、竹島に関しては、「日本としては、それ(韓国の領土化)を阻止するため、韓国の実効支配を認めないというアピールをしておかなければなりません。」と言っている。どこらへんがリベラルなのか、さっぱりわからん。
 
池上の主張は右翼の言説をそのままなぞったものだ。リテラは池上が極右ブログを参考に韓国を批判したと非難するが、それはいつものことである。そもそも、右翼の言葉と左翼の言葉を並べて、 最終的に保守よりの意見を述べるのが、池上のスタンスではないか? 例えば、池上は靖国神社にしても、実はこの神社は天皇の神社であり、西郷隆盛など、賊軍として働いた人間は、同じ日本人でも祭られない、つまり、日本人ではなく天皇の兵士を称える神社であることを知っている。ところが、最終的に彼は「日本のために死んだ兵士を悼む気持ちを理解してもらおう」という安倍の言い分をそのまま繰り返している。何のための知識なのやら、わけがわからなくなる。
 
そういうわけだから、今回の反日解説番組にしても、いつも通りの通常運転だったのだが、なぜか今回だけ批判されてしまった。これは実に不思議なことだ。リテラをはじめ、岩波書店、その他の左派系メディアも池上彰を正義の使者であるかのように褒め称える。正直、私はヘイト・スピーチよりも池上のほうが性質が悪いと思う。桜井誠の言い分は、誰がどう聞いたっておかしいとわかる。だが、池上の場合、ウソを含め肝心の事実を知らせず「わかりやすく」解説する。そのため、予備知識の無い一般市民は彼の言説を疑わず信じるだろう。つまり、合法詐欺師としては桜井より池上のほうが遥かに上だ。明らかに後者のほうが受け手の思考力を鈍らせている。
 
テレビの効果もあいまって、池上の言説を聞き、嫌韓や嫌中に目覚めた国士は結構いるような気がする。その点を黙認して、池上無双だの、リベラルの星だのといって同氏を宣伝している左翼系メディアの無責任な言動は批判されてしかるべきだろう。リテラは、インターネット週刊誌の色が濃いのでまだ理解できるが、岩波まで池上に記事を書かせるのは一体全体、何なのだろうか? 『世界』の編集部や岩波新書の編集者は、池上の言説が保守派のそれだと気づかないのだろうか? これは何度も言っていることだが、今の日本の右傾化は正確に言えば、左翼の右傾化だ。 市民の中には依然、左翼と呼べるであろう人間は潜在的に多くいると思う。実際、震災などの大きな困難に遭遇して、多くの市民団体が生まれたのは記憶に新しい。とするならば、近年、左翼系の図書が売れない原因は、読者ではなく、彼らを満足させられない中途半端な情報しか発信しない出版社にあるだろう。
内海聡に関する小野昌弘さん(イギリス在住の免疫学者・医師)のコメント。小野昌弘さんは放射線被曝の影響に関する科学者の責任の問題について次のように述べている医師です。
 
「ここで私は放射線被曝の影響を全般に否定するものではない。しかし、私の科学者としての知性を駆使して現実をみたとき、放射線被曝についてのデマが横行して、それが民主政治を麻痺させている暗闇を目にする。その暗闇を目にして、科学者としてこれを告発しないことは、もはや許されない段階に来ていると思うからこそ、私はこの文章を書いている。」(「放射能恐怖という民主政治の毒(6)科学者の一分(前編」)

【このような人物とつるんだ人をいったい誰が信用できるというのだろう】
まだ内海聡というのがどういう人物なのか理解してない人が多いようなので、「Togetterまとめ」@togetter_jpさんから。

内海聡は、医師を名乗りながら医学知識に反した反科学・反近代医学言論を平気で行い、医師としてのモラルに欠けている人物。このような人物とつるんだ人を、いったい誰が信用できるというのだろう? -
http://www.j-cast.com/2015/06/19238268.html?p=all

いや、 もしかすると「内海聡」は試金石になるのかもしれない。救い難い、腐敗してしまった部分と、まだ生き残っている部分のあいだにある境界線を見せてくれるのかもしれない。内海聡の反近代医学・輸血:輸血は血液利権のためで生物化学テロだと主張。輸血用血液への放射線照射で「輸血をされると大量に放射線被曝を受けたのと同じ状態になり、臓器障害、多臓器不全、感染症などが発生する」と述べた。* 勿論全くの間違い

内海聡はもともと反精神医学の論者のようだが、震災後、反近代医学の姿勢を明瞭に。ワクチンは健康被害が隠されており全てのワクチン接種を拒否するべきだと主張。「薬が人を殺している」と題した本で、病院で広く用いられる薬物(胃薬、解熱剤、ピルなど)の危険を煽る。*いずれも科学的根拠はない
小野昌弘Twitter 2015年6月27日

以下は、小野昌弘さんが上記で引用しているJ-CASTニュースの記事。
 
障害児を産んだ親に「一生かけて反省」しろ 現役医師のFB投稿に批判殺到(J-CASTニュース 2015年6月19日)
 
自ら「キチガイ医」と称する医師の内海聡氏が、障害を持つ子どもが生まれる原因は親にあるとして「一生かけて反省しなければなりません」などとフェイスブックに書き、批判を浴びている。
 
バッシングに対しても「障害者の親は一生反省してもらってけっこう」などと応戦したため、批判は収まる気配がない。
 
子どもの障害はすべて両親の「食と生活」の乱れが原因
 
内海氏はNPO法人「薬害研究センター」の理事長を務める内科医。多くの著作があり、積極的に講演を行う一方、「医学の9割は不要」など歯に衣着せぬ物言いで医学界を攻撃し、物議をかもしてきた。
 
今回、批判を浴びているのは2015年6月13日に行った、出産に関するフェイスブックへの書き込みだ。
 
“「もちろん理想が自然分娩なのも分かります。ただ、帝王切開だった自分を反省し生まれた子供を全身全霊をかけて守りましょう」
 
と投稿。さらに「障害の子どもも同じ」だとして、
 
“「障害の子どもさんが生まれるというのは、いかに産む前妊娠前に両親が食と生活が乱れているかの証、それは一生かけて反省しなければなりません」
 
と書いた。
 
子どもの障害がすべて両親の「食と生活」が乱れているのが原因とする主張に反発は多く、また悩んでいる人への配慮を欠くとして、ツイッターなどネットには、
 
“「障害発生の全原因は親や『大人』にあるのか?」
「これは訂正して謝罪した方がいい。食と生活はいくつかの要因のうちの一つ」
「障害者の親は一生後悔しろとかダメでしょ。親のせいじゃないのに根拠のないことでその人達傷つけちゃいけんでしょ」
 
といった批判が相次いだ。
 
反発を受けた内海氏は16日、「障害者の親は一生反省してもらってけっこう」と再び挑発的に投稿。あくまで親は「加害者」であるとし、
 
“「もし本当に反省できる親がいるとしたら、決して障害を認めるとか個性であるとか、正当化を繰り返したりとか言い訳したりとか、障害が個性であるという業界がふりまいた嘘などを見抜き、決してそんなことは言わないのです」
 
などと主張した。
 
「親の不摂生とは無関係に起きます」
 
内海氏の一連の投稿に、反発は広がる一方だ。サイエンスライターの片瀬久美子氏はツイッターで、
 
“「自然出産で健常児を産んだ人たちには自分たちへの肯定となるだろうけれど、そうではない人たちにとっては呪縛でしかないですよね。どちらも親の不摂生とは無関係に起きます」
 
と指摘。乙武洋匡さんはツイッターで、
 
“「うちの親にも深く反省するよう、よく言っておきます(笑)」
 
と皮肉った。
 
ただ、内海氏を擁護する意見もない訳ではない。氏のフェイスブックには「わたしも大いに反省しています」「読んでいて子どもたちに申し訳ない思いでいっぱいです」など、ファンと思しき書き込みが多数寄せられている。
 
またミュージシャン出身で13年の参院選挙で緑の党から公認を受けて出馬し、17万票の個人票を獲得した三宅洋平氏は、
 
“「たまにおかしなことを言う、ぶっ飛んだ人だなーと表現者として思うときは僕もあるけれど、それって内海さんのキャラクターだと思うし、そのバイアス差っぴいて有益なことを医者としてたくさん発信していると思う」
 
と弁護。炎上している原因は、批判する人の読解力がないか、情報が「歪曲」されていることが原因だとしている。
 
また、小野昌弘さんが上記で引用している「Togetterまとめ」は以下のようなものです。

以下、省略
 
以下は、内海聡とその内海聡を擁護する三宅洋平を批判する関連記事。
 
 
さらに以下は、上記の三宅洋平を先の参院選で推薦候補者としていまだに反省しない「緑の党」に対する私の批判記事です。
 
「永遠に知性ゼロ」の「百田馬鹿節」についておふたりの論者が以下のような論を稿しています。おふたりの論をご紹介するとともにあわせて私儀編集の「速報山中人間話」も掲載しておきます。百田尚樹=安倍晋三に象徴される自民党という政党のあまりのおぞましさ対する国民の怒りはいま沸点に達しようとしているように私は感じます。
 
おひとり目の論。
 
永遠のゼロ。(藤原新也「Shinya talk」2015/06/26)
 
安倍首相に近い若手国会議員らが党本部で開いた憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」での百田尚樹の発言が問題になっている。同胞内輪の懇談会ということでいつもの百田馬鹿節が全開となったようだ。
 
曰く「安保法制に反対するマスコミを懲らしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働き掛けてほしい」「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」(議員×百田 懇談)「沖縄の2つの新聞は潰さないといけない」かつて役場や小学校のほか、五つの集落が存在していた普天間は沖縄戦で住民は土地を強制接収され、基地の周辺に住まざるを得なくなった経緯があるが、百田曰く、「普天間はもともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった。基地の周りに行けば商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした。基地の地主さんは年収何千万円なんですよ、みんな。ですからその基地の地主さんが、六本木ヒルズとかに住んでいる。大金持ちなんですよ」
 
ここまで来るとこの男、元々学生テレビタレントの大阪出身だから時代の要請に従い「極右コメディアン」として吉本興業に席を置いた方がお似合いだ。あるいはここまで来ると今のまま世間に泳がしていた方が(極右の馬鹿ぶりが際立つので)よいのかも知れない。いずれにしても百田というのは近来希に見る「永遠のゼロ」である。
 
おふたり目の論。
 
百田尚樹・自民党勉強会事件「経団連使って広告料収入締め上げて沖縄の2紙を潰せ」+安倍首相恐怖の発言(徳岡宏一朗のブログ 2015年06月26日)
 
2015年6月25日に行なわれた自民党本部での勉強会でのやり取りが大きな問題になっています。この「勉強」会とは、安倍政権と考え方が近い文化人wを通し、発信力の強化を目指そうと、安倍晋三首相に近い若手議員wwが立ち上げた勉強会「文化芸術懇話会」(代表=木原稔・党青年局長)です。この会は作家の大江健三郎氏が呼びかけ人に名を連ねる「九条の会」などリベラル派に対抗するのが狙いで、憲法改正の国民投票まで活動を続けたい考えだというのですが、第一回講師があの百田尚樹氏!「永遠の(知性)0」で有名な!ノーベル文学賞受賞者の大江健三郎に対抗して持ってきたのが百田尚樹!「永遠に知性0」の!!と二度叫んでしまってすみません。この時点で、実はわたくし爆笑していたのですが、中身があまりにもひどくて笑い事ですまず、本日26日午前の国会審議で安倍首相が「遺憾」といわなければならなくなりました。(略)
 
さて、安倍晋三首相は、勉強会翌日の26日午前の衆院平和安全法制特別委員会の集中審議で「党において、さまざまな議論が行われる。基本的には自由と民主主義を大切にするので、報道の自由は民主主義の根幹だと言うことでの議論だと思っている」「報道が事実なら大変遺憾だ。(勉強会は)党の正式会合ではない。有志の会合だ。発言がどのように報道されたかは確認する必要がある」
と述べたということなんですが、今回の事件で一番恐ろしいのは実はここかもしれない。だって、これって、正式の会合でなく有志の会合で非公開なのに、なぜ講演や出席者の会話の内容が漏れて報道されたのか、確認する必要があるということで、犯人捜しをするということでしょう?つまり、報道の自由が民主主義の根幹と言った舌の根も乾かないうちに、もう党内の言論を統制し、報道の自由を制約し、国民の知る権利を制限しようとしているわけです。いま、まさに、邪魔な新聞社は潰してしまえという、報道の自由侵害だとか言論統制だとか言うもおこがましい、物凄い弾圧が与党内部で議論されたことが明かされ、国会で問題になり、遺憾だと言わされたその総理総裁が、
 
発言内容を確認する必要がある
 
ではなくて、
 
発言がどのように報道されたかは確認する必要がある
 
と無意識に言ってしまったことに、私は震撼させられました。そして、それが国会で堂々と述べられたのに、誰もそれを気にも留めず指摘もしない今の国会とマスコミに慄然とせざるを得ません。
 
■百田氏発言をめぐる共同抗議声明 ――神奈川新聞にならって「速報山中人間話」を改めて記す。

【速報山中人間話】(26日付)
【山中人間話】
アベリア
アベリア

【「専門領域」へ閉じこもることへの危惧から民主政は始まった】
いま「民主主義」そのものの意味が問われる時代になって、その始原にまで溯って考えたいと思い、
橋場弦さんの『丘のうえの民主政』を読んだ。ここに描かれた、歴史上初めて「民主主義」を生んだ古代アテナイの人びとの壮大な実験が胸をうつ。平和の時代ではなく、絶え間なく続く戦争の最中にあって、アテナイの人びとは、熟議と公平を追求した。なぜ、2500年も前の古代ギリシャの政治体制を探究する必要があるのか。すべての市民が「政治」への参加を要請された共同体とは何だったのか。橋場さんは、その問いにこう答えている。「ペリクレスが理想とした民主政とはたんなる国家制度ではなく、一つの生活様式(way of life)であった。そこではどの市民も民主政への参加を期待される……われわれが現代に生きる限り、何かの専門領域にしばられるのは避けられない宿命である。広い意味での官僚制なしに近代文明が一刻も維持できないのは、だれもが承知していることだ。にもかかわらず、民主政と官僚制とは根本のところで相容れない。自分の専門領域だけに閉じこもる無機的な人間だけが社会を構成するようになったとき、民主政は生きることをやめるだろう政治家たちの中に「学者」を毛嫌いする気分があるのは、自身の「専門領域」を侵されることへの本能的な反発があるからだ。だが、人々が、それぞれの「専門領域」へ閉じこもることへの危惧から、民主政は始まったのである。(高橋源一郎「朝日新聞」2015年6月25日


【山中人間話】
下記に私が批判する前田朗さん(東京造形大学教授・ヘイトスピーチ研究)はいわゆる「論客」の人ですから、後の論争のための資料として以下の私の前田朗さん批判をエントリしておきます。
 
前田朗さんの先の投稿の内、「探検家松浦武史郎」問題に絞ってコメントをしておきます。
 
> 1)松浦武史郎ではなく、松浦武四郎です。
> 2)松浦は侵略者です。
 
前田さんは「松浦は侵略者」だと断定しますが、私たち日本人は、日本人として過去の負の遺産をも継承する「歴史の子」であることをすべからく免れない以上、総体として、近代天皇制国家がアイヌの土地を植民地化し、アイヌ人に対して同化政策を行った歴史的事実について「侵略者」としての歴史的責任を負っているといわなければならないだろうとは私も思います。が、松浦武四郎が、そうした日本人総体としての責任以上に特別に「侵略者」としての責任を負っているとは私は思いません。
 
花崎皋平著「静かな大地 ―― 松浦武四郎とアイヌ民族」が2008年2月に岩波現代文庫として再刊行されることになったときの岩波編集部の同著の内容説明には次のように記されています。
 
「本書の主人公は幕末の探検家,松浦武四郎です.探検家のみならず学者,文人としての顔も持ち,明治初期には北海道,樺太,千島の行政にも短期間関わりました.松浦を変えたのはアイヌ民族との出会いでした.幕末の「蝦夷・樺太」を十数年間にわたって探検調査した松浦は,アイヌ民族の風俗・文化を克明に記録すると共に,和人による虐待を告発するようになりました.アイヌの心の輝きと苦悩に深く共感して自らを変革していった松浦武四郎の足跡が,いきいきと本書では再現されています」
 
上記の説明では松浦武四郎は「侵略者」であるどころか「和人による虐待」の「告発」者であるとされています。
 
同著の文庫化の際の「解説」に作家の池澤夏樹さんも以下のように記しています。
 
「もしも松浦武四郎がいなかったら,今のぼくたちは当時アイヌが置かれた状況について何も知らないままだった.なぜならばアイヌには苦境を訴える手段がなかったから.松前藩の場所請負制度によって,生きる自由のほとんどを奪われた人々.アイヌに生まれついたという以外に何の理由もないまま,終身刑に処せられた人々.後世の自分たちがそれを知らないという事態を思って,ぼくは戦慄する.知るべきことを知らないままでいるというのは恐ろしいことだ」
 
後世の私たち日本人は松浦武四郎によって当時の「アイヌの苦境」を知ることができる、と池澤夏樹さんも松浦を評価しています。
 
上記の岩波現代文庫の解説から読みとれることは、松浦を「侵略者」というのは前田さん及び一部の人たちの主観的な解釈でしかない、ということです。
 
それとも松浦武四郎侵略者説を裏づけるなんらかの信頼するに値する史料を前田さんはお持ちなのでしょうか? お持ちであればお示しいただきたい。「花崎は、中国侵略戦争を正当化してきた人物」だという資料も含めて。それができないのであれば、前田さんの「松浦は侵略者」という主張も「インチキ民衆思想家」という花崎皋平批判も単なる悪罵にすぎないということになるほかありません。
 
また、「現在の日本の運動圏でも、インチキ花崎を持ち上げる異常な集団」云々という批判もありますが、その「異常な集団」とは、青山薫、天野恵一、大橋成子、小倉利丸、海棠ひろ、梶川彩、白川真澄、鶴田雅英、遠野はるひ、武藤一羊、山口響各氏が運営委員で、 秋山眞兄、李泳采、太田昌国、金井淑子、金子文夫、川本隆史、齋藤純一、斉藤日出治、塩川喜信、ダグラス・ラミス、田中利幸、中村尚司、花崎皋平、弘田しずえ、古田睦美、武者小路公秀各氏がアドバイザーの「ピープルズ・プラン研究所」のことですね。(参照:[CML 036980] ★PP研新連続講座★ 再検証!〈敗戦70年―原発震災から4年〉)
 
上記の「松浦武四郎侵略者説」が当たらなければ、当然、その批判を根拠にする「ピープルズ・プラン研究所」批判もまったく当たらないということにもなります。
 
最後に逆説的に言えば、「ヘイト・スピーチが絶えないのは、こういう異常な人物が多いから」ではなく、あなたのような異常な主張をするヘイト・スピーチ「学者」がいるからだと私は思います。
 
【参考:前田朗さんの「探検家松浦武史郎は侵略者」説】
 
前略。
1)松浦武史郎ではなく、松浦武四郎です。
2)松浦は侵略者です。
 
アイヌ民族に対する侵略者の松浦を持ち上げるのは日本人です。卑劣な日本人です。特に花崎何とかと言うインチキ民衆思想家が松浦を持ち上げて来ました。ひたすら侵略を正当化してきました。いろいろと勝手な理由をつけて、松浦は素晴らしかった、と褒めたたえます。そして、侵略を正当化します。
 
現在の日本の運動圏でも、インチキ花崎を持ち上げる異常な集団がいます。インチキ花崎は、自分がベトナム戦争に反対したと言うただそれだけの理由で、自分が平和主義者で正義であると盛んに主張していますが、デタラメです。花崎は、中国侵略戦争を正当化してきた人物です。にもかかわらず、こういう人物を宣伝する人物・集団がこのMLにもいます。民族差別とジェノサイドを称揚・絶賛するのが、日本の市民運動団体なのです。
 
ヘイト・スピーチが絶えないのは、こういう異常な人物が多いからです。完全に狂っています。以上。
CML 038108「Re: 探検家松浦武史郎」より)

追記:
前田朗さんの反論的返信と私の再反論的返信を追記しておきます。
 
【前田朗さんの反論的返信】
東本さんのニュースピークと植民地主義(1)(CML 038126 2015年6月26日)
 
「戦争は平和である」「武力行使は積極的平和主義である」「良い侵略は侵略ではない」「過酷な侵略者はよくないが、温情溢れる侵略者はよろしい」「残忍な奴隷主は駄目だが、親切な奴隷主は素晴らしい」。
 
東本さんのお好きなニュースピークでは、「良い侵略と悪い侵略」について語るのでしょうが、侵略には「悪い侵略ともっと悪い侵略」しかありません。
 
レトリックでごまかそうとするのは、自らの植民地主義をごまかそうとしているか、無自覚なのか。
 
岩波書店編集部や池澤夏樹を持ち出しても無意味です。特に池澤夏樹は、かつて沖縄に移住したものの、植民地主義的ではないかと批判され、北海道に逃げ帰ったことで知られる人物です(池澤の文学者としての資質を私は否定しませんが)。
 
東本さんのご主張は、「侵略者を持ち上げる侵略者がいるから侵略は正当である」と言っているのとさして変わりません。
 
「記録を残したから素晴らしい」などというのは、西欧植民地主義の尖兵となった宣教者や文化人類学者を称揚するレトリックそのものです。
 
[aml]時代から長いことお付き合いしているのでよくわかりますが、これ以上議論しても意味がありません。植民地主義を必死で擁護する東本さんの主張を私が認めることはありませんから。
 
 
花崎の植民地主義に対する批判は下記をご参照ください。
 
虚妄の民衆思想(1)
虚妄の民衆思想(2)
虚妄の民衆思想(3)
 
アイヌ先住民族の権利(1)
アイヌ先住民族の権利(2)
アイヌ先住民族の権利(3)

「北方領土」とアイヌ民族の権利(1)
「北方領土」とアイヌ民族の権利(2)
「北方領土」とアイヌ民族の権利(3)
 
それと、花崎の植民地主義に追随する多くの花崎教徒の名前を教えていただきありがとうございます。エピゴーネンまで取り上げて批判するほど暇ではありませんが。
 
【私の再反論的返信】
 
前田さん
 
ニュースピークとは要は証明の必要のない「ニセの語法」のことです。オーウェルによれば、旧語法は「全く異質のものに変わっているばかりではない、実際にはもとの姿とは正反対のものにさえ変わっている」(オーウェル『1984年』)わけですからそもそも証明しようにも証明できない。そういう語法をニュースピークといいます。だとすれば、「松浦は侵略者」というスピークにとってこれほど都合のよい語法はないでしょう。証明しなくてもよいわけですから。
 
前田さんは案の定、松浦武四郎侵略者説及び「花崎は、中国侵略戦争を正当化してきた人物」説を裏づける史料、資料を提示されませんでした。もちろん、もともとそういうものはないから提示できないのでしょうが、ニュースピークではそういうことは問題にされません。したがって、ニュースピークは、根拠のない悪罵のし放題というニュースピーク論者にとってはきわめて都合のよい話法ないしは語法ということになります。史料、資料を提示されない以上、ニュースピークという言葉は前田さんに献上するのがもっともふさわしいことになるでしょう。したがって、標題は、「東本さんのニュースピーク」ではなく、「前田さんのニュースピーク」とするのが適当です。
 
私の応答はこれで終わりです。「これ以上議論しても意味が」ないという点では前田さんと意見を同じくします。
 
なお、私も、かれこれ5年前の花崎皋平さんの評価をめぐる前田さんとの議論の私の側の論を参考として以下に提示しておきます。
 
・前田朗さんの花崎皋平さんの最新刊『田中正造と民衆思想の継承』批判について(上)(Blog「みずき」 2010.08.18)
 
・Blog「みずき」 前田朗さんの花崎皋平さんの最新刊『田中正造と民衆思想の継承』批判について(下)(Blog「みずき」 2010.08.18)
 
・補遺 ――花崎皋平さんの『田中正造と民衆思想の継承』について(Blog「みずき」 2010.11.05)
ハス 
ハス

【わたしたちの側こそ変化すべきなのだ】
6月10日、神戸連続児童殺傷事件(1997年)の実行行為者、「酒鬼薔薇聖斗」(少年A)の手記『
絶歌』(太田出版)が出版されたことを、インターネット上で知り、読みたいと思い、書店を探したが、大きな書店にも見当たらなかった。買い占めか、とも思ったが、どうも、販売自粛(引用者注:ボールドは原文。以下、同じ)だ。マスコミも書店も、所詮は、多数派を形成する「世論」に批判されるのが嫌い。大昔、中国では秦の始皇帝が自分に都合の悪い文書を燃やしてしまうという焚書をしたが、いまの日本ではマスコミや書店が秦の始皇帝になっている?『週刊文春』『週刊新潮』の記事から垣間見える本のできはどうもよくない。出版社もいい出来だとは思っていないらしい。・・・となると、買う価値があるか。・・・が、それでも私は読んでみたい。わたしは、そもそも、少年Aがだれにでもわかりやすい言語で、心から反省しているように読める文章を書くとは思っていない。そうなるとも思えない。あの事件は、犯人が反省するかしないか、というレベルで評価すべき事件ではない。どんなに贔屓目に考えても、ふつうの人たちが求めるのと同じ内容の反省は、少年Aにはあり得ない。反省を求めること自体が、偽善であり、ニセの正義であり、どうかしている。

なにごとにつけ、だれもが全く同じ過ちについて同じ内容の反省をすることなどあり得ない。実際は人それぞれなのだ。同じ内容の反省をしていると思っているとすれば、それはおめでたい。そんな錯覚に陥っているのは、反省の中身の掘り下げが足りないからだ。少年Aの側に変化を求めるのが誤りなのだ。わたしたちがあのような事件を繰り返したくないのなら、わたしたちこそが学習すべきであり、わたしたちの側こそ変化すべきなのだ。それは、少年Aは何を考えていたのか、なぜあのような行動をとったのか、そのような少年Aが年月を経てどのような考えになっているのか、それをわたしたちはどう受け止めるか。少年Aには、自分と同じような人間が生まれることを止めることはできない。それができる可能性があるのは、少年Aの過去といまを深く考え抜こうとするわたしたちの側なのだ。少年Aが折角、少年Aを理解する教材を与えてくれようとしているのに、それを見ないという選択をしてしまうことは、社会にとって重大な損失だ。だから、わたしは『絶歌』を読みたい。(
弁護士清水勉のブログ 2015-06-24

【補遺】
「知覧」の誕生 特攻の記憶はいかに創られてきたのか』(柏書房)を読んでいる。(略)かつて特攻隊の基地であった知覧には「知覧特攻平和会館」があり、90年代以降来館者が増加し、いまでは毎年50万人も訪れるそうだ。面白いのは「自己啓発」目的で訪れるスポーツマンや会社経営者やその従業員などが多いこと。彼らは知覧を訪れて「戦争の時代を思えば平和な時代に生きている私たちは幸せ」だと実感したり、「愛する人たちのために命を捧げる利他の精神」に涙したりして、自分の人生に「活入れ」をするのだという。僕は読みながら「特攻隊員は喜んで犠牲になったわけではなく、無能で横暴な戦争指導者たちによって殺されたも同然なのに、よくも無邪気に感動できるな」などと強烈な違和感を感じたのだが、そういう現象を井上氏は教育社会学者らしく冷静に「歴史認識の脱文脈化」という言葉でうまく捉えていた。そう、彼らは特攻隊員がどのような歴史的経緯と権力構造の中で殺されるに至ったのか(=文脈)については問題にせず、特攻隊員たちの心情だけを取り出して、そこに感情移入して自己の啓発に使うのである。僕が以前書いたコラム「素朴な「感謝」がファシズムを支えるとき」で表明した向井理氏への違和感は、煎じ詰めれば向井氏の「歴史認識の脱文脈化」に対するそれだったのだと思う。というより、安倍晋三をはじめとした最近のネトウヨ的歴史改ざん主義者たちの言説の正体は、「歴史認識の脱文脈化」そのものなのではないか?井上氏は本書で非常に重要なことを言語化したように思う。 「歴史認識の脱文脈化」について連投したが、よく考えると安倍政権が安保法制を通すために行っている作業も「憲法の条文や判例の脱文脈化」である。本来の意味や有機性をバラバラに解体してパーツ化し、自分の都合のよいように使っちゃう。道具化する。これって現代社会に蔓延する病なのかも。ただし、元の文脈を解体する「脱文脈化」には、解体したパーツに「新たな文脈を与える」側面もあるので、クリエイティブな行為にも通じる。全否定するわけにはいかない。とはいえ、歴史や憲法の脱文脈化には、やはり倫理的問題がつきまとうと思う。(想田和弘Twitter 2015-06-24

【山中人間話】

サクランボ 
サクランボ

【ここがスタートだ】
95日(!!)の会期延長だという。これは戦争法案成立に向けた安倍政権の並々ならぬ執念の表れ。しかし、この非常識というべき延長日程は、安倍内閣存立の非常事態宣言ではないか。論戦での劣勢を自認し、数を恃んでの強行突破はできないという自白でもあるのだ。世論を宥める時間が必要だ。人の噂も75日。法案違憲で沸騰している世論も、75日もあれば治まるだろう。「95日も延長すれば、説明が足りないなどとは言わせない。」「これでなんとか成立に漕ぎつけるだろう」との背水の陣とも読める。しかし、これは政権にとっての大きな賭けでもある。時間がたてば立つほど、反対世論が大きく強固なものになっていく可能性も大きい。当然、廃案時の傷はより大きくなる。政権そのものを崩壊させることにもなるだろう。安倍の心中穏やかであるはずがない。(略)

本日の朝日が、
世論調査の結果を公表している。ここがスタートだ。これに続く世論調査の結果次第で、安倍を追い詰めることにもなり、安倍の逃げ切りを許すことにもなる。このスタートの状況を確認しておきたい。朝日が20・21の両日に行った全国世論調査(電話)によると、安倍内閣の支持率は39%で、前回(5月16、17日調査)の45%から下落し、第2次安倍内閣発足以降最低に並んだ、という。(略)1か月間で、安倍内閣支持から不支持への鞍替え組が少なくとも5%である。日本の有権者総数はほぼ1億人。およそ500万人の大移動だ。これで、支持不支持層の差は13%→2%と減じて、ほぼ差がなくなった。女性だけに限れば逆転(支持34、不支持37%)しているという。(略)戦争法案への賛否は、「賛成」29%に対し、「反対」は53%と過半数を占めた。(略)この「10%≒1000万人」の戦争法案反対への1か月の大移動が内閣支持率を変えたのだ。さらに、法案をいまの国会で成立させる必要があるか聞くと、「必要はない」が65%を占め、「必要がある」の17%を大きく上回る。延長してでも今国会での成立を目指す政権に賛同する世論はきわめて少数なのだ。(略)今国会で成立させる「必要がない」というのが、「ある」の3倍に近い圧倒的世論と言ってよい。強引にこの世論をねじ伏せようというのが、政権の95日会期延長である。明らかに、議会内の議席配分と議会外の民意とは大きく乖離しねじれている。もしかしたら、安倍は、この上なく危険な虎の尾を踏んでしまったのではなかろうか。(略)政権の説明は、国民への説得力を持っていないことが明らかとなっている。安倍内閣が戦争法案を閣議決定したのが5月14日、国会上程が翌15日。以来、1か月間の「丁寧な説明」の結果が、この世論調査結果である。これから、95日間安倍の「丁寧な説明」はさらに国民の不支持を拡げるだろう。国民一人ひとり、のみならず子々孫々の運命に関わる大問題だ。安倍の敵失を待っているだけでは、95日レースの勝利を確実なものとはなしえない。戦争をできる国への変身の危険と愚かさをあらゆる手段で発信し続けよう。既に、「潮目が変わった」のレベルは通り越した。もはや、世論は止めて止まらぬ「大きな竜巻」になりつつある。自信をもって戦争法案を吹き飛ばそう。(澤藤統一郎の憲法日記 2015年6月23日

【山中人間話】
この1週間ほど、私は、「脱原発」運動に関して、アメリカ人記者のカルディコットという似非科学者の、したがって、エセ=非科学的情報に基づくエセ記事を安易に掲載するリベラル・左派系ミニメディアの1例として「マスコミに載らない海外記事」ブログを批判し、その際、放射線被曝についてのデマがいかに民主政治を麻痺させているか。その「暗部」を「暗部」のままに放置し、理性の灯をともさない科学者の責任を問う小野昌弘さん(イギリス在住の免疫学者・医師)の論を紹介し、また、内海聡(医師)というレイシストと三宅洋平山本太郎の泥濘な関係について、さらにその三宅と山本と泥濘な関係を持つ緑の党の「終わった」側面について批判してきました。それは、それ以前から書き続けている「『福島』をめぐる思想戦」の問題をめぐる記事の続きということでもありました。この「思想戦」はまだまだ続けなければいけませんが、というよりもまだまだ続けなければならない遺憾な状況であるということですが、この記事では「脱原発」を標榜する組織の問題に焦点を当ててその問題性を摘出してみます。ここで例としてあげる組織は「脱原発経産省前テントひろば」という3・11以後の2011年9月11日に誕生した運動体です。

さて、レイバーネット日本の6月8日付けに以下のような記事が掲載されています。

「5月28日経産省の敷地に入ったとして逮捕されていた3人が、6月8日夕方、3箇所の警察署からそれぞれ釈放された。この日は午前に東京地裁で「勾留理由開示公判」があった。ここでも検事側はまともに答えられず、法廷終了後に「仲間を返せ」の声が一斉に上がるなど、不当逮捕への怒りが沸騰していた。検事側も「勾留延長」は不可能とみて釈放に踏み切った。午後5時半すぎ、3人が次々に経産省前テントひろばに現れると、仲間たち約70人が黄色いハンカチを振って出迎えた。抱き合ったり握手をしたり、喜びを爆発させた。釈放された火炎瓶テツさんは「不当逮捕であることは間違いないが、口を開けたマッコウクジラの口に自ら飛び込んでしまったことを深く反省している」と語り、「ありがとうという言葉で言い尽くせないほど、みんなに感謝している」と言葉を詰まらせた。」(レイバーネット日本 2015/06/08

上記はいわゆる「5.28経産省前弾圧事件」と呼ばれる事件の3人の青年の釈放に関する報道ですが、同報道に「火炎瓶テツさんは『不当逮捕であることは間違いないが、口を開けたマッコウクジラの口に自ら飛び込んでしまったことを深く反省している』と語り、『ありがとうという言葉で言い尽くせないほど、みんなに感謝している』と言葉を詰まらせた」とあるのはどういうことでしょう?

この点についてvanacoralの日記ブログが6月17日付けの 「『5.28経産省前弾圧事件」の真相」という記事で次のように書いています。この事件の「真相」を知るためにそのほぼ全文を以下に引用させていただこうと思います。

「5.28経産省前弾圧事件」の真相(vanacoralの日記 2015-06-17)

世間的にどれだけこの事件が注目を集めたかは分かりませんが、去る5月28日、経済産業省前で抗議活動を行っていた3人の市民の方々が官憲により逮捕される事件がありました。これに対して3人が別々に収監された刑務所などでの抗議活動を経て、6月8日に3人とも釈放されました。

三人が釈放された!喜びにあふれたテント前~5.28経産省前弾圧事件(レイバーネット日本)  (略)

ただしこの問題において、逮捕当時の映像(現在非公開)を見た人たちから、3人のうちの1人の行過ぎた行為が原因であるとの指摘が出て、救援に関わる人たちとの間でその是非をめぐり論争になりました。そして昨日には、救援に関わった人からもその人の行為について批判が出る事態となっています。


更に問題の「S」氏に対する批判は続きます。


こうした一連の批判に焦りを見せているのが、逮捕された3人のうちの1人(上写真の一番右)である園良太氏。


が、これに対しても見事なツッコミが。


かくいう私も「S」氏こと園良太氏が無闇に警察を怒鳴りちらす現場を、経産省前、国会議事堂前駅の中、それに去年の早稲田での「カウンター学生救援」デモ(「戸塚警察署は爆発しろ!!」というコールに参加を後悔しましたが)で都合3回目撃しました。

しかも去年はガザ侵攻に対するイスラエル大使館への抗議において、夜9時過ぎに住宅街の中でトラメガ使って、イスラエル大使館の警備を厳しくさせるに至る始末(参照;vanacoralの日記「
イスラエル大使館前抗議、途中離脱」)

今後デモに参加される方は、園氏の言動にくれぐれも注意を、と呼びかけざるを得ないのが腹立たしい限りです。でないと、彼に巻き込まれて逮捕されるのは確実であります。

火炎瓶テツさんの「深い反省」とは上記のような事態について述べているものでしょう。

しかし、経産省前テントひろば運動のサイドからは上記のレイバーネット日本の報道以外からはこの事件をどのように反省し、総括しているのかの声は私の知る限り聞こえてきません。聞こえてくるのは「夜はインタネット映写会 今話題の「総統閣下は、『安保法制』審議にお怒りのようです」を観た。(略)続いて、最近に日曜泊りしてくれるKさんが、更に多くの興味深い動画を紹介してくれた。例えば、ロスチャイルド家の戦争推進、東西冷戦後の不景気の回復のための米国防衛産業のたくらみ、など。これらの動画がTVのゴールデンタイムに放映されると世の中が変わりそうだが…」という陰謀論系の動画を嘆賞するテント日誌の声や「【案内】原発に関する経産省院内交渉 6月23日(火)15時~17時、参議院議員会館B108、 経産省前テントひろば」などの集会案内のようなものばかりです。火炎瓶テツさんの「反省」の声はどこかにかき消されてしまっているかのようです。

しかし、「脱原発」を掲げて経産省前テントひろば運動に関わっている人たちは、先月28日の経済産業省前の3人の青年の逮捕を単に「不当逮捕」と声を張り上げるだけでなく、なにゆえに「不当逮捕」というべきなのか。また、なにゆえにこの3人の青年が逮捕のターゲットにされたのか。また、3人の青年の行動に挑発的なものはなかったのかなどこの事件の本質をきちんと総括する必要があるというべきでしょう。そうでなければせっかくの火炎瓶テツさんの釈放集会での「反省」がうやむやになってしまいます。その火炎瓶テツさん(もちろん、火炎瓶テツさんだけでなく)の「反省」が今後の活動に活かされるということにもなりません。しかし、経産省前テントひろば運動に結集している人たちはそういうことに一向に無関心な人たちばかりのようです。

しかし、火炎瓶テツさんの「反省」に象徴される経産省前テントひろばの今日の運動の欠陥のようなものは「無関心」のままで看過ごされてよいものではないでしょう。一般の市民の人たちの中にはは経産省前テントひろばの運動を以下のように見ている人も少なくないのです。

「あのさ、あのいかにも挑発してるバカが、騒ぐことで、本当に何もしてないのに冤罪や、デモで転び公妨などで捕まる人たちの救援が一括りにさせて、反弾圧が過激派運動のように見られる方がもっとマズイわ!」

脱原発運動の「暗闇」はここにもあります。
ザクロ 
ザクロ

【安保関連法案を廃案にし、安心・安全に生きる世界に向けて】 
 私たちは、集団的自衛権の行使を認めた2014年7月1日の閣議決定を取り消し、無理な審議を強行している安保関連法案を廃案にし、軍事でなく外交を優先する政策に変換し、敵を作らずに平和に貢献する国づくりを目指すことを、日本政府と国会に求める。安倍政権は安保関連法案が必要な理由として「中国の軍事大国化」と「北朝鮮の核戦力」を挙げているが、これらは軍事超大国の米国が維持している巨大な在日米軍基地の存在と無関係ではない。安倍政権の動きは、一部の国と癒着し、敵を作り、相互に非難し合うことで緊張を高めるものであり、抑止力にならないどころか、軍拡競争を誘発するばかりである。これは日本の安全を脅かすだけでなく、世界の諸国民の平和に生存する権利を侵すものと言えよう。すでに自らの考える秩序を全世界に押しつけようとする米国の力の政策が限界に達していることは明白である。日本国憲法は、前文に「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と書き、戦争と武力行使を永久に放棄し、戦力を保持しないことを第9条で規定している。軍事力強化を目指す安倍政権の意図に反し、大多数の国民は憲法第9条改正を望んでいない。外交努力によって自らの安全を図り、世界の紛争に対しては、一方だけを支持することなく積極的に調停にあたるのが日本の目指すべき道である。人口激減、財政赤字の日本が進むべき道は、国際融和・協力による一人一人が安心・安全の社会であるべきだと信ずる。私たちは、60年前の、「平和共存」、「平等互恵」を訴えたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)や、核兵器と戦争の廃絶を呼びかけたラッセル・アインシュタイン宣言を想起する。日本国憲法が目指す目標に向かって粘り強く一歩一歩進んでいく政策を選べば、“核の傘”による核兵器依存が不要になるばかりか沖縄を含めた日本全体の米軍基地も不要になり、北東アジアの緊張緩和に寄与し、諸国民が安心して安全に生存していく世界の実現に貢献できる。私たちは、日本の国民に、日本政府の政策を、国連憲章の平和原則と日本国憲法の初心と歴史の流れに従って、平和共存・相互理解・平等互恵及び一人一人の平和的生存権の保障される世界を目指して、根本的に変えさせていくよう訴える。安保関連法案を廃案にし、安心・安全に生きる世界に向けて(世界平和アピール七人委員会「声明」:武者小路公秀 土山秀夫 大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 髙村薫 2015年6月22日

【補遺1】
戦後70年─
沖縄慰霊の日を迎える。約20万人が命を落とした沖縄戦。今どう伝えられているのか。来年から使う中学校教科書には、文科省の検定が行き届き、沖縄戦での日本軍による住民虐殺や「集団自決」の強制性に触れた教科書は一つもない。さらに自由社版は「集団自決」の記述すら全面削除し、沖縄戦に触れ「沖縄住民もよく協力した」と、県民自ら進んで沖縄戦に参加したような表現にエスカレート。安倍政権は「教科書議連」から8人の議員を入閣させ、歴史改変の教科書を採択する運動の推進母胎となっている。憲法9条をズタズタにし、日本を「戦争する国」へ持っていくために、国会会期を9月下旬まで延長し「戦争法案」の成立を企てる。米軍の後方支援を担う拠点に沖縄を位置づけ、辺野古新基地の建設に躍起だ。翁長雄志知事は、23日の平和宣言で、「辺野古新基地反対」を明確に打ち出し、移設作業の中断を求める。(Daily JCJ【今週の風考計】2015年06月21日

【補遺2】
かつて警察予備隊が発足したとき、憲法学者はこぞって憲法違反だと主張した、しかし、今では自衛隊は合憲として定着したということを高村正彦自民党副総裁は
主張しています。しかし、今回、決定的に異なるのは、自民党政権(一時は民主党政権時代もありましたが)を支えてきた歴代の内閣法制局長官も違憲を表明したことです。これら元内閣法制局長官にとっては、安倍自民党政権のしていることは自分たちが苦労してやってきた努力をすべて否定するようなものですから、怒り心頭でしょう。第2次安倍内閣が発足したときの内閣法制局長官であった山本庸幸氏は当然に違憲論を踏襲していましたから、左遷されました。左遷先は最高裁判事ですから、人事的には左遷といえるのかどうかはありますが、明らかに安倍氏にとっては内閣法制局長官では都合が悪かったからです。その山本氏も最高裁判事の就任時に集団的自衛権容認への解釈改憲に疑問を呈する発言をしました。それでもなお安倍自民党政権は、砂川事件最高裁判決が~とか、憲法学者は~、と屁理屈ばかりをこね回して戦争法案をごり押ししようというのですから、政権自体が狂っているとしか言いようがありません。(猪野亨のブログ 2015/06/22 

【山中人間話】

私は先のエントリでtoriiyoshikiさんの言葉を引用したとき、あわせて「toriiyoshi
kiさんの今回の論については引用者として若干の異議があります。二、三日内に本編でその私の異議を少し述べようと思います」とも小書きを入れておきました。その2、3日の期限はそろそろ過ぎる頃ですので約束のアジェンダは果たさなければいけないでしょう。

さて、私がtoriiyoshikiさんのツイッター記事を読んだときに瞬間的に異議を感じたのは「政治哲学的に全く相反する内田樹氏と古賀茂明氏」云々の部分でした。ですから、私はなぜその部分に異議を感じたのかということから説き起こすことにします。

そのとき私の頭の中には 内田樹さんと古賀茂明さんが共同行動をしたときの ある風景がよぎりました。それほど古い話ではありませんのでtoriiyoshikiさんにもご記憶があると思いますが、今年の2月のはじめに「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」の賛同者を募集するという運動が起こりました。下準備のための期間は除いてこの運動の直接の契機となったのは想田和弘さんの下記のツイートでした。



同日すぐに内田樹さんが想田さんの呼びかけに応えて次のようなツイートを応信しています。



このとき想田和弘さんつながりで古賀茂明さんと内田樹さんのつながりも実現します(それ以前にもなにがしかのつながりはあったのかもしれませんが私は知りません)。私が内田樹さんと古賀茂明さんの共同行動というのはこのときのことを指しています。しかし、この共同行動は私にとって多少という以上に胡散臭いものでした。なにを私は胡散臭いというのか? たとえば次のようなこと です。以前の私の記事から引用します。
 
想田和弘さんが叩き台を書いた今回の言論の自由のための声明そのものには賛成です。が、このとりくみの背後にいる今井一という人を私は信用しません。彼は単なる「運動屋」にすぎないというのが私の評価です。たとえば想田さんが「みなさん『賛同者』という位置付け」ですと言っているものを事務局的な役割をになっているとしても賛同者のひとりにすぎない今井氏が越権的に「みなさん賛同者」を「賛同人」と「支持者」に差別化してしまうのは文字どおり差別を生み出しかねない禍根を遺してしまいそうです。「翼賛体制構築に抗する表現者」たちの思想とはそういうものか、が問われています。(Blog「みずき」 2015.02.11

私のより詳しい胡散臭さの説明はこちらの記事()()をご参照ください。ここではこれ以上の詳説は省きます。

上記の2本の記事を読めばおわかりになると思いますが、私が胡散臭いと思ったのは、「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」の運動の中に伏在する非民主主義的な要素というべきものを不問に附したままの「野合」のようなものについてです。この「野合」はどう見ても「政治哲学」的なものとはいえないでしょう。佐々木俊尚さんの指摘にあるように「ただ『反権力』という立ち位置のみ」の野合と見た方が正鵠を射ているように思います。

さて、toriiyoshikiさんが「佐々木俊尚氏の『リベラル批判』は全くピントを外している」と違和を述べる同氏の「リベラル批判」とははおそらく以下の文章のことでしょう。

本書はまず「リベラル」という政治勢力がいま完全に崩壊しようとしているところから、話をはじめたい。この勢力は長い間にわたって、新聞やテレビ、雑誌で強い発言力を持ち、自民党政権に対するアンチテーゼとして、日本社会に強い影響を与えてきた。この勢力はたとえば、原発に反対し、自衛隊の海外派遣に反対し、日本国憲法九条を護持し、「国民を戦場に送ろうとしている」と自民党政権の集団的自衛権行使や特定秘密保護法案に反対している。

文化人で言えば、作家の大江健三郎氏や瀬戸内寂聴氏、音楽家の坂本龍一氏、学者では「九条の会」事務局長で東大教授の小森陽一氏、神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏、経済学者の浜矩子氏。政治勢力としては福島瑞穂氏と社民党、生活の党と山本太郎となかまたち。元経産省官僚の古賀茂明氏。一緒にくくられることに抵抗のある人もいるだろうが、メディアの上で「リベラル勢力」という呼び方で視界に入ってくるのはそういう人たちだ。

しかしこの「リベラル勢力」は、いま完全にほころびている。最大の問題は、彼らが知的な人たちに見えて、実は根本の部分に政治哲学を持っていないことだ。端的にいえば、日本の「リベラル」と呼ばれる政治勢力はリベラリズムとはほとんど何の関係もない、彼らの拠って立つのは、ただ「反権力」という立ち位置のみである。思想ではなく、立ち位置。(佐々木俊尚「21世紀の自由論―「優しいリアリズム」の時代へ」(NHK出版)まえがき) 

「まえがき」を読んだ限りの評価にすぎませんが、佐々木俊尚さんは上記では「政治哲学」以前の問題としての「リベラル」の「立ち位置」の問題性を語っているというのが私の見方です。そして、その「立ち位置」の問題性とは私が上記であげている具体例のようなものを指しているのだろう、と私は思います。だとすれば、それは、「夫々の思想的バックボーンの検証を等閑」にすることでもなく、「『国民』というレッテル貼りと五十歩百歩」のものでもありえないでしょう。「リベラル」の実態に即した内在的なものの見方だろうと私は思います。そして、toriiyoshikiさんの佐々木俊尚さんの「リベラル批判」評価は少しナイーブにすぎるのではないか、とは私の見方です。
アガパンサス 
アガパンサス
 
【横畠法制局長官の与党「肝・い・り・法案フグ理論」】
本日(22日)の特別委員会には、第61代内閣法制局長官の阪田雅裕氏と第62代長官の宮崎礼壹氏が参考人招致されている。両元長官はどのような見解を述べるだろうか(
歴代長官の見解は『東京新聞』2015年6月20日付参照)。(略)その彼らの後輩の第66代横畠裕介現長官は、19日金曜の特別委員会において寺田学委員(民主党)から、「腐ったみそ汁の中で1杯とっても、腐っているものは腐っていると思うが?」と問われたことに対し、「理屈で縷々述べてもわかりにくいと思うので」として、「(集団的自衛権が)毒キノコだとすれば、煮ても焼いても食えないし、一部をかじってもあたる」と答えた。すかさず野党席から「それは腐ったみそ汁と同じだろう」と野次が飛び、その方向をチラリと見た長官は、「じゃあフグかもしれない。毒があるから全部食べたらそれはあたるが、肝を外せば食べられる」と答弁した((『朝日』6月20日付一面カタ)。「フグ理論」(寺田委員)である。だが、この法案は与党の「肝・い・り・法案」と言われている。横畠長官の論理破綻は悲惨である。安倍政権は、立憲主義をけちらし、法制官僚にこんなのけぞるような答弁をさせるまでに追い込んだ。「内閣の最高の法律顧問」である法制局長官に「お友だち」をねじ込む手法が、その組織を腐らせてしまった。安倍首相の罪は重い。その暴走を「法論理」を駆使して支える高村正彦副総裁。彼が弁護士登録をしている山口県弁護士会を含む全国52弁護士会すべてが安保関連法案に反対決議を行い、先週18日、日本弁護士連合会も、この法案に反対する意見書を出している(PDFファイル)。高村氏は所属弁護士会の144人の弁護士に、また駅前通りにあるご自身の所属法律事務所の同僚弁護士3人に、「砂川事件最高裁判決は集団的自衛権行使を認めている」といった読み方で彼らを説得できるだろうか。(水島朝穂「今週の直言」2015年6月22日

【山中人間話】
昨日のエントリで引用した最後の文章は「三宅洋平終わった」というものです。が、私に言わせれば、三宅洋平という人は「はじめから終わっている」人でした(「三宅洋平」の項参照)。そうして、私は、「はじめから終わっている」ことの事実に基づく批判を2013年の参院選前に再三、再四、再五と繰り返してきましたが、聴く耳を持たず、というよりも、「事実を事実として理解する能力の欠如」といった方がより正鵠かもしれません、「はじめ」の時点で「終わっている」ことの明らかな三宅洋平を参院候補として擁立することに固執し続けてきたのが緑の党でした。そして、口では「脱原発」を主張しながら、その実、「原発再稼働」(事実上の「原発」推進)を容認する政党を支持して、そのことを矛盾とも思わない一部の論理性をまったく欠如した「脱原発」を主張する人たちでした。
 
彼ら、彼女たちは、三宅洋平が新人候補として参院選で176,970 票を獲得し、メディアでも「若者世代のネット選挙の成功」と注目されたことをさらに自己満足的に大風呂敷を広げて自画自賛しました。しかし、三宅洋平のデマゴーグのさまが弁解できない事実として突きつけられているいまとなっては、この三宅洋平の176,970 票獲得という事実は、デマゴギーという負の操作術によって大衆を動員した緑の党の汚点の歴史として記録されるものでしょう。

さらに緑の党の三宅洋平票を含む457,862票という獲得票は「革新」(社民党)を分断することによって獲得された負の獲得票でしかないという指摘もあります。「三宅洋平終わった」というのは、実のところ「はじめから終わっている」ことにいまになってやっと気づいたということでしかないでしょう。
 
さらにもう一点指摘しておくと、緑の党の宣伝力のあるもう一方のシンパの旗頭とでもいうべき山本太郎参院議員も昨日のエントリで厳しく批判されているトンデモな陰謀論者であると同時にレイシストの内海聡氏(医師)を「今話題沸騰の気鋭の医師」とまで評価しているありさまです。緑の党自体も「終わっている」といわなければならないでしょう。

以下に私の批判している杉原浩二さんも緑の党公認(同党・脱原発担当)で先の東京・中野区議選にも出馬しています。その私の杉原さん批判は当然、緑の党批判ということにもなります。同記事で私は緑の党はいまも第3極(ここでは維新の党を例にしています)なるものに幻想を抱かせ続けていることを証左しているつもりです。緑の党という存在は政治革新にプラスに作用するのではなく、政治革新にとってマイナスの存在でしかないというのが私の評価です。
 
以下はある公開型メーリングリストに投稿した(19日付)私の杉原浩二さん批判です。
 
杉原さんの呼びかけに一言コメントしておきます。
 
労働者派遣法改正案は衆院厚労委で可決。本日の午後には衆議院本会議に緊急上程されてここでも採決される見通しです。杉原さんは「官邸を利することなく、安保法案の今国会成立阻止に向けて、野党連携」のために「改めて、維新の党議員への働きかけを呼びかけます」と言います。
 
しかし、今回の維新の党の派遣法改正案をめぐる一連の動きについて、民主党の高木国会対策委員長でさえ本日の記者会見で「労働者派遣法の改正案には反対だ。同時に、自民党、維新の党、公明党の『同一労働・同一賃金』を推進するための法案の修正案を全く質疑しないままで採決することは、審議の在り方として考えられず、容認できない。もともと野党3党で出した法案が、正規の手続きを経ずに与党と維新の党が修正したこと自体、前代未聞であり、不可解でこのことも容認できない」と述べています(NHKニュース 6月19日11時06分)。
 
さらに「維新、安保法案の対案提出へ 自公と修正協議の可能性」(朝日新聞 2015年6月13日)という報道もあります。今週の日曜日のTBSサンデーモーニングでニュース23のアンカーの岸井成格さんは「労働者派遣法をめぐる維新の動きは安保法案ともつながっている」という指摘をしていました。すなわち、安保法案は、自、公、維新連携のもとで強行されるという推測及び指摘です。
 
これ以上、維新の党に依然なにか期待すべきところがあるような同党への期待、すなわち幻想を煽るようなことはするべきではないでしょう。今回の派遣法に関しての維新の一連の動きは維新の本性と見るべきものだと私は思います。本日まもなく労働者派遣法改悪案は衆院で可決されることになるでしょうが、残るのはただ誰かに煽られた「維新幻想」だけでしょう。

昨日、杉原さんにひとこと述べようと思って結局発信しなかった私の記事も以下に付記しておきます。

昨日付けの「橋下の行為は「裏切り」ではなく「本性の露呈」に過ぎない」(kojitakenの日記 2015-06-16)という記事で、kojitakenさんは、昨年(2014年)の衆院選で「をつまんで維新に投票」という呼びかけをした山口二郎田中龍作、山本太郎の各氏を批判して次のように言っています。
 
「昨夜(6/15)の報道ステーションを見ていたら、安倍晋三が成立を目指している戦争法案(安保法案)は立憲主義にもとるというのが大多数の憲法学者の言い分でした。憲法学者は安倍政権の解釈改憲を強く批判していますが、その安保法案の成立に、いま橋下は協力しようとしています。(略)昨年(2014年)の衆院選で、「鼻をつまんで維新に投票」(=山口二郎、田中龍作、山本太郎らの呼びかけ)してはいけなかったのです。」
 
杉原さんの「維新の党議員に「対案作りや修正協議でなく、悪法はまず廃案に!」の声届けよう」という呼びかけは、「鼻をつまんで維新に投票」と呼びかけた山口二郎氏、田中龍作氏、山本太郎氏らと同様の過ちを犯しているように私には見えます。維新の党にまだ期待すべきなにかがあるような幻想を市民に抱かせるようなことが金輪際あってはならないだろう、と私は思います。
 
弁護士の澤藤統一郎さんも今日のブログ記事で次のように言っています。
 
「人を助けることは美しい行為だ。しかし、安倍内閣を助けようなどとは醜いたくらみ。平和憲法擁護こそが美しい立派な行為だ。ボロボロの戦争法案の成立に手を貸そうとは、不届き千万ではないか。仲裁は時の氏神という。だが、この期に及んでの維新の動きは、「時の死神」たらんとするものにほかならない。そもそも、維新とは何ものか。誰もよくはわからない。おそらく当の維新自身にも不明なはず。自民を見限り、期待した民主党政権にも裏切られた少なからぬ有権者の願望が作りだした「第三極」のなれの果て。「自民はマッピラ、民主もダメか」の否定の選択が形となったが、積極的な主義主張も理念も持ち合わせてはいない。あるのは、民衆の意識動向に対する敏感な嗅覚と、自分を高く売り込もうという利己的野心だけ」
 
「維新は、戦争法案推進勢力と反対勢力との間に立って、「時の氏神」を気取っているのだろう。しかし、朝日が報道する維新の「対案」は、政府提案の腐肉にほんのひとつまみの塩を振りかけた程度のもの。腐肉は腐肉。法案違憲の本質はまったく変わらない。維新案はその実質において、憲法の平和条項に対する死の宣告に手を貸すものである。維新の諸君よ、(略)戦争法の成立に手を貸すことが、国民の大きな怒りを招き自らの滅亡に至ることを直視せよ。だから、こう一声かけざるを得ない。「君、死神となるなかれ」と。」(澤藤統一郎の憲法日記 2015年6月17日
 
ミス・リードはもうおよしになった方がよかろう、と私は思います。いまや「鼻をつまんで維新にエールを送る」ことはせっかくの変革の兆しを後退させるだけのことのように思います。
バイカモ 
バイカモ

【ここまで強い拒否感があるのか】
きょうは難民の日。
ロヒンギャ問題がニュースになっている。(略)1990年代はじめ、バングラデシュに逃げてくるロヒンギャを取材したことがある。避難民が到着するところを撮りたいと海岸でカメラを持って待ち構えていた。はたして、ちょうどよく、そんなシーンに出会えるのか不安だったが、それは杞憂だった。避難民を満載した船が、次から次へとやってきて、ロヒンギャの人々と家財道具を浜辺に下ろしては、また新たな避難民を乗せるために沖へと戻っていく。近くの空き地や丘は、イスラム諸国が配ったテントで覆われていた。このロヒンギャ難民問題を、当時の国際社会は、ビルマの軍事政権による民族抑圧の一つと理解していた。すなわち、最大多数のビルマ族以外の、カレン族、カチン族、シャン族などと同列の被害者だと。私もはじめ、そう思っていたのだが、取材するうち、「ちょっと違うぞ」と感じてきた。ビルマ族だけでなく、他の諸民族も、ロヒンギャをビルマという国を構成する民族だとは考えていないのだ。「ロヒンギャ」という言葉を使うことさえ拒否している。英国の植民地時代にバングラデシュから流れこんだベンガル人の不法移民にずぎないというのだ。(略)

日本には、軍政下での抑圧を逃れたさまざまな民族のビルマ人が住んでいるが、3年前、私はロヒンギャの居住する西端のラカイン州の主要民族、アラカン族の若い男性と知り合いになった。彼は、私の仕事を知ると、ロヒンギャの悲劇にばかり注目するメディアの偏向報道を批判した。いわゆるロヒンギャなる人々は、ビルマへの違法越境者であるにもかかわらず、どんどん人口が増え、アラカン族を圧迫している。先祖から受け継いできた土地も彼らに奪われ、仏教寺院は破壊された。「われわれアラカン族こそ被害者だ」と最後には涙まで流して切々と訴える。その翌日は、スーチーさんの誕生日で、日本にいるすべての民主化支持勢力が集まるが、そこに「ロヒンギャ」が来るなら、僕は行かない、とまで言う。彼と一緒にいたシャン人の女性も、「ロヒンギャ」はともにビルマ民主化を闘う仲間ではないときっぱり言った。ここまで強い拒否感があるのかと、とても驚いた。(略)

ビルマには、中国雲南省から南下した回族を含め、いろんな出自のイスラム教徒がいるが、彼らは自分たちが「ロヒンギャ」とは違うことを強調する。ロヒンギャを擁護、支援する勢力は、ビルマにはほとんどいないと言ってよい。中央政府と少数民族の停戦と融和を訴えているスーチーさんはどうか。ロヒンギャ問題が、これほど国際的に大きなニュースになっているにもかかわらず、彼女はずっと沈黙を守っている。ロヒンギャに国籍を与え、国民として受け入れよ、などと発言したら、
スーチーさんは政治生命を失いかねないスーチーさんはきのう誕生日で、70歳になったが、どういう政策で対応するつもりなのか。注視したい。ビルマは、2010年の総選挙のあと、民政に移行したが、これまで軍政に抑えられてきた国内の各グループ間の鬱屈した対立感情が表面化してきた面も否定できない。民主化はかくれていたものを表に出す。共産党独裁が崩れた旧ユーゴでは、国家が分裂し、民族・宗教の異なる集団同士が凄惨な殺し合いをはじめた。(高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-06-20

【山中人間話】
昨日のエントリで私は小野昌弘さん(イギリス在住の免疫学者・医師)の以下の言葉をご紹介しました。
 
「ここで私は放射線被曝の影響を全般に否定するものではない。しかし、私の科学者としての知性を駆使して現実をみたとき、放射線被曝についてのデマが横行して、それが民主政治を麻痺させている暗闇を目にする。その暗闇を目にして、科学者としてこれを告発しないことは、もはや許されない段階に来ていると思うからこそ、私はこの文章を書いている。」(小野昌弘(イギリス在住の免疫学者・医師)「放射能恐怖という民主政治の毒(6)科学者の一分(前編)」)
 
以下に紹介する2本の陰謀論論争の風景は昨日のエントリでのその問題提起とも密接に結びついているもののように私には見えます。この現象についてフリー・ジャーナリストの常岡浩介さんは率直に以下のように言います。そして、私も常岡さんの意見に賛成です。
 
「陰謀論やデマに踊らされる人たちは頭がおかしいのではなく、情報の食い違いや矛盾に気が付くことができない、つまり、頭がよくない人たちなのです。バカだということです。」(常岡浩介 2015年6月18日
 
注:起こりうる批判にあらかじめお断りしておきます。ここで遣われている「バカ」という言葉は考え方の愚鈍さを示す意味。学力や偏差値、ましてや学歴云々の丁々発止とはまったく縁のないものです。
 
以前から以下のようなデマゴギーや陰謀論は「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」がごとくありましたが、今日のようなデマゴギーとデマゴーグの拡散化は異常にすぎます。私は、この現象は今日的な「左翼の右傾化」と無関係ではありえないだろうと思っていますが、この問題について論を展開するのは私にはまだ十分な用意がありません。しかし、用意は早急にを整えなければならないと思っています。私は科学者ではありませんが、この問題を「告発しないことは、もはや許されない段階に来ている」という認識と苦い思いは小野昌弘医師と同様です。
 
が、まずは、常岡浩介さんと住友陽文さんのツイッターを通じて、今日の陰謀論論争の風景の一端を概観するところからはじめたいと思います。


以上、「常岡浩介Twitter」(2015年6月18日)から。
 

以上、「住友陽文Twitter」(2015年6月18日、19日)から。 
モウズイカ 
モウズイカ

【何に向かって発言していたのか】
東北大・東大名誉教授樋口陽一さん語る」「私は1973年に研究者として初めてまとめた単行本のタイトルに「立憲主義」という言葉を意識的に使いました。当時は、革新自治体の全国的な広がりがあり、いい意味で民主が大いに元気だった時代です。」「私は「民主」の名のもとにおいても、権力は制限されるべきだということを、何度でも言わねばならないという考えでした。立憲主義が危機的状況にある現在、当たり前のことを、いっそう繰り返していかなければならないと思います」。樋口先生は1973年の時点で、「「民主」の名のもとにおいても、権力は制限されるべきだということを、何度でも言わねばならない」という考えを明確にしていらした。今の時点で「そりゃそうだよね」と思う人がいるかもしれないが、本当に当時そういうことが言われていたのか。樋口先生は当時、何に向かって発言されていたのか。その意味が十分に理解されぬまま時は過ぎ、いまの事態に至っている。(國分功一郎Twitter 2015年6月20日

【補遺】
安倍晋三内閣の安保法制案は理論的に完全に破綻した。第一に、憲法学者の95%が法案を「違憲」としているのに、政府側の反論が全く説得力を欠いているからである。安倍首相は「合憲と確信」しているとしか言えないのである。高村副総裁の目が泳いで弁護士とは思えぬ意味不明な発言を連発している。首相の理由なき確信だけで法律を通すことはできない。第二に、政府が根拠とする最高裁の「砂川判決」は、時の田中耕太郎最高裁長官や藤山愛一郎外相の売国的言動を伴なう不当裁判であった。それが米国側情報で明らかになったからである。この国が米国の属国同然であったこと―あること―が誰の目にも明白である。第三に、地上波や全国紙が報道しない国会や党首討論の「全過程」画面をみれば、個別の問答での安倍首相、中谷防衛相、岸田外相の答弁は支離滅裂で屁理屈にすらなっていない。それが小学生にもわかるからである。大手メディアが報道しなくても、各地の反対運動、とくに若者が増加しつつある街頭活動、公聴会での反対者の多さ、圧倒的な反政府世論、が「潮目」を変えつつある。しかし、敵もさるものである。政権には圧倒的な「数」があるのである。私は100万人の人々が国会を廃案と安倍退陣まで包囲することを望むものである。しかしお前はどうするのか。私は傘寿を迎えて体調不芳でありデモや集会に参加できない。世の中には私のような高齢者の他に、仕事の都合や世間体が気になって、大っぴらに動けない人が大勢いると思う。どうすればよいのか。まことに平凡ながら次のようなことをマメにやることが大事だと思う。1.知人一人一人に「安保法制廃案と安倍退陣」を会話やメールで訴える。有効と思う「サイト」や「ブログ」の記事、好ましい集会・催事の予定、写真を転送、拡散する。「良いサイト」の共通認識が意外に少ないと感ずることが多い。2.国会議員、地方自治体議員に対して質問したり廃案賛成を要求をする。3.メディアに対して感想、批判、注文を送信する。一つのメディアに対して社長、局長、担当へ同時送信する。要望や苦情受付窓口だけだとブロックされる恐れがある。4.自分が執筆できるメディアがあれば積極的に活
用する。電子メールだけでなく印刷物でも勿論よい。(半澤健市「リベラル21」2015.06.19

【山中人間話】

ジョン・レノンの名曲「Imajine(イマジン)」を Lady Gaga(レディ・ガガ)が本気
でカバーしたらこうなった。3分を過ぎ たあたりからが圧巻。 –
@動画

「マスコミに載らない海外記事」ブログが6月18日付でアメリカのロサンゼルス在住のRobert Hunziker(作家)の「福島で本当は一体何が起きているのか?」という記事を掲載しています。
 
同記事の冒頭の文章は「福島原発は、ドクター・フーの、深宇宙で遭遇する、恐ろしい、手に負えない怪物の様に、依然、自己永続的に、計り知れないほど、際限なく、放射能を放出し続けている」。3行目は「何万人もの福島県民が、2011年3月の恐ろしい災害の後、4年以上も仮設住宅で暮らしている」というものです。1行目の文章も3行目の文章もうそが書かれているわけではありません。福島ではいまなお放射能汚染水の問題は解決されていませんし、いつ解決するともその見通しもたっていません。何万人もの福島県民が4年以上も仮設住宅で暮らしているのも事実です。しかし、5行目の「100万人以上の(1,000,000)人々が、チェルノブイリの放射性降下物のせいで亡くなっている」という事実は確認できません。
 
この「100万人以上」という数値の根拠としているのはおそらく2009年にニューヨーク科学アカデミーから出版された『チェ ルノブイリ大惨事、人と環境に与える影響』(引用者注:日本語版は岩波書店から『調査報告  チェルノブイリ被害の全貌』というタイトルで出版されています。この岩波書店からの出版の際にも少なくない批判がありました)という論文集の中の「チェルノブイリで原発事故により985,000の人が亡くなった」という記述だと思われますが(この記事がカルディコット氏の説に依拠して書かれていることから推察できます)、「この本(論文集)「チェルノブイリ大惨事、人と環境に与える影響」を出版したニューヨーク科学アカデミー自身が、この本に幾つもの根本的な疑問・疑念が寄せられていることを同ウェブサイトで明確に表明している。同雑誌によれば、この本はロシア語で書かれた論文集の翻訳で当時、チェルノブイリの文献を翻訳して紹介するプロジェクトの一環として出版されたが、同誌の査読を経ていないものだという。そして、(この本の査読の代理としてだろうが)、同論文集の具体的な問題点を詳説した論文(引用者注:この批判論文の方は査読された論文です)さえ紹介している。しかも、この本は絶版であり、今後ニューヨーク科学アカデミーは再版しないことまで明言している」(小野昌弘(イギリス在住の免疫学者・医師)「放射能恐怖という民主政治の毒(5)「真実を語る人」 とチェルノブイリの亡霊(後編)」)というしろものです。したがって、到底科学的根拠に基づく数値とは言いがたいものがあります。
 
そうした科学的根拠に基づかない下記で批判するカルディコット氏が流布する数値を前提にしてこの記事が書かれているという知識のもとに改めて1行目と3行目の文章を読み直すと1行目の「福島原発は、ドクター・フーの、深宇宙で遭遇する、恐ろしい、手に負えない怪物の様に、依然、自己永続的に、計り知れないほど、際限なく、放射能を放出し続けている」という描写は、もはや回復不可能な福島のイメージを植えつけるための意図的な冒頭の描写であると判断せざるをえません。すなわち、「事実」の描写とは言いがたいものがあります。
 
さて、この記事の筆者、すなわち、Robert Hunzikerが拠り所にしているカルディコットという人はどういう人か? 上記で引用した小野昌弘さんの論を再び引用します。
 
「カルディコット氏は、福島原発事故直後の2011年4月に、英紙ザ・ガーディアン上で、英国の執筆家・環境活動家のジョージ・モンビオ氏と論戦を交わした。ここでも、カルディコット氏は福島事故に関連した放射性物質による汚染の危険性のほぼ唯一の証拠として、ニューヨーク科学アカデミーの「チェルノブイリ大惨事、人と環境に与える影響」をあげている。モンビオ氏はこの論文集の問題点を具体的に批判したが、カルディコット氏はそれに対して回答をしていない。そのモンビオ氏との論争から3年以上が経つというのに、カルディコット氏は相も変わらず、すべての日本人医師が『ニューヨーク科学アカデミーから出版された「チェルノブイリ大惨事、人と環境に与える影響」』を読むように命じている。同氏の科学的正確さに対する無関心と真摯さの欠如には気が遠くなってしまう。少なくともこれは、まっとうに教育をうけた医師や科学者のすることではない。カルディコット氏は「ほぼ全ての政治家、財界人、エンジニア、そして核物理学者においてすら、放射線生物学や先天性奇形、何代にもおよぶ遺伝性疾患について全く理解していない」と言って、自分が政治家たちに直接提言を行うことを正当化する。しかし、もし本当に真摯な気持ちから日本に貢献したいと同氏が思うならば、氏は日本の医師・小児科医・放射線科医・遺伝学者らと話せば良いではないか。私は、日本には同氏よりも優れた科学者・医師がいくらでもいるということを断言する。それをすっとばして国会議員たちに取り入ろうとしているとしたら、これはバスビー氏(引用者注:小野昌弘さんのバスビー批判はこちら)がまともな科学雑誌での出版もできずにウェールズのメディアにとりいったのと同じ構造に見える。」
 
上記の指摘について小野さんは科学者の責任の問題として次のように述べています。
 
「ここで私は放射線被曝の影響を全般に否定するものではない。しかし、私の科学者としての知性を駆使して現実をみたとき、放射線被曝についてのデマが横行して、それが民主政治を麻痺させている暗闇を目にする。その暗闇を目にして、科学者としてこれを告発しないことは、もはや許されない段階に来ていると思うからこそ、私はこの文章を書いている。」(放射能恐怖という民主政治の毒(6)科学者の一分(前編)」)
 
「マスコミに載らない海外記事」は私も愛読するブログですが、いわゆる放射線問題については誤まった情報に影響されているところが強いように思われます。上記の小野昌弘さんの指摘は熟読、味読に値するものだと私は思います。是非、そうされることをお勧めしたいと思います。
 
この問題についての小野昌弘さんの関連論攷は下記をご参照ください。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/onomasahiro/
 
また、カルディコット氏批判に関連して、堀茂樹さん(慶大教授、仏文学)のツイッター上の発言を私がまとめたもの(URL)を以下にご紹介しておきます。
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1323.html
モッコク 
モッコク

【ジャーナリストは権力という「必要悪」に対する監視を怠ってはならない】
佐々木俊尚氏の「リベラル批判」は全くピントを外しているのではないか。例えば政治哲学的に全く相反する内田樹氏と古賀茂明氏を同列に置いているのがその証左。佐々木氏は「日本型リベラル」は「根本の部分に政治哲学を持っていない…彼らの拠って立つのは、ただ『反権力』という立ち位置のみ」と書くが、これは佐々木氏が各々の「政治哲学」を無視して、みそくそ一緒に「反権力」というカテゴリーに放り込んでいるだけの話ではないか。つまり、佐々木氏は実名を挙げた「リベラル」たちの「政治哲学」を読み取ろうとせず、「反権力」というひとつ袋にぶち込んで「政治哲学がない」と切って捨てているのである。これは如何にも乱暴な「論法」である。それぞれの差異を捨象した、実体のない「日本型リベラル」という理念型を作ってそれを批判するのは、藁人形に五寸釘を打ち込むようなもので、批判は有効性を失う。「論理性」が著しく無視されている世相に、佐々木氏のような経験豊かなジャーナリストがこういう乱暴な議論をされるのは残念だ。佐々木氏が「リベラル」を恣意的に規定して「政治哲学を持たない反権力」「思想ではなく立ち位置」だと決めつけるのは、一種の「レッテル貼り」であって、逆に佐々木氏こそが「思想ではなく立ち位置」に依拠していることを雄弁に物語ってしまっている。(最後に)夫々の思想的バックボーンの検証を等閑にして「思想ではなく、立ち位置」だなどと決めつけるのは、その「論理」(?)の乱暴さにおいて「非国民」というレッテル貼りと五十歩百歩である。むろん、佐々木氏にそうした、ためにするキャンペーンの一翼を担うつもりなどないとは信じているが…。

もうひとつ佐々木俊尚氏に反論するなら、「反権力」に「政治哲学がない」とは限らない。ぼく自身のことを書く。大学時代は政治学を専攻、「
スターリニズム」を研究した。「プロレタリア民主主義」が如何に虚妄であり、「社会主義がなぜ堕落するのか」をソビエト共産党の党内抗争史からたぐろうとした。むろん20歳になったばかりの学生の手に余るテーマだった。ただ、補足すれば、ソビエト崩壊に先立つ1970年代後半のことであり、中国での文革批判もまだ始まってはいなかった。その時代に、「社会主義」という変革の選択肢には絶望していた。そうしたなかで心惹かれた「政治哲学」はアナーキズムだった。ただし、「無政府主義」と言ってしまうと語弊がある。ただちに国家権力を廃絶するなどできっこないのは自明だった。ただ、右であれ左であれ、権力は往々にして人間性を踏みにじることだけは肝に銘じた。政治の世界には常に、大の虫を活かすという名目で押し潰される小の虫がある。職業としてそこを見つめていこうと考え、ジャーナリズムの道を選んだ。

それは佐々木氏のいう「マイノリティー依拠」とは似て非なるものだ。依拠して自分の言説の正当性を担保しようと思ったことはない。ただ、見つめるのだ。その基本は現在の福島取材までぼくの背骨としてあり続ける。ぼくはジャーナリストは「反権力」であるべきだと考えている。権力という「必要悪」に対する監視を怠ってはならない。一人一人が人間として尊重される世の中の実現を目指して、前途遼遠なる道を歩き続け、その過程に倒れることをよしとする。権力から距離を置いて批判的に見つめる立ち位置からは、現在の集団安保やアベノミクス、グローバル経済化、あるいは原発再稼働政策の問題点が鮮明に見えてくる。それぞれの政策が強引極まる「小の虫の切り捨て」に他ならないからだ。

ぼくには理想だと考える政治の在り方が明確にある。しかし、そんなものが一朝一夕に実現するとは思っていない。また「◯◯党支持」などという言葉にも置き換えられない。テレビ番組にせよ、Twitterにせよ、トータルとしての思想を発信する場だとは考えていないから、局面ごとに発信していく。「反権力」が自己目的化しているわけではない。根底に理想の旗を掲げる「政治哲学」が厳然としてあり、その発現形態が「反権力」にならざるを得ないだけだ。そして、そうしたあり方こそが、善悪、正邪、右左の単純な二分法で語り得ない現代において普遍性を持ちうるとぼくは思う。個人的なことを書いたが、一介のテレビ屋風情にもこうした個人史があり、数十年の歳月にさらされたうえで堅持する「政治哲学」がある。
大江健三郎氏や内田樹氏のように、一貫して現代社会における「哲学」を語ってこられた方を「政治哲学の欠如」と決めつけるのはあまりにも傲慢ではないか。(toriiyoshiki Twitter 2015年6月19日

引用者注:このtoriiyoshikiさんの今回の論については引用者として若干の異議があります。二、三日内に本編でその私の異議を少し述べようと思います。

【山中人間話】
ミソハギ 
ミソハギ

【今回の派遣法改正は逆の方向を向いている】
いま国会で問題になっている派遣法改正。厚労省の富田望課長が、「
派遣労働は期間がきたら使い捨て、モノ扱いだった」が、今回の改正で「ようやく人間扱いするような法律になってきた」と述べたという。「実際、私たちはモノ扱いされています」。こう壇上で訴えたのは、派遣で働く56歳のシングルマザー。今の派遣先で15年間、一般OLと同じ仕事をしてきた。3ヵ月毎の更新を繰り返しながら、多くの女性正社員よりも長く働き続けてきた。それでも派遣となると、正社員との格差は2倍。正社員がもらえる退職金も、交通費もなし。忌引きさえない。「私にも親兄弟がいます。何かあれば行き来したいのが人情です。」パワハラを上司に訴えると、「そんなにつらかったら、死ぬ方法もあるよな」とまで言われたという。彼女にとっては、いまの働き方は「不本意就労」だが、では、改正でよくなるかというと、職自体を失うことになるという。この改正案では、同一の事業所における派遣労働者の継続的な受入れが、3年が上限となるのだ。「先月末、社長から、派遣法改正で、3年後にはやめてもらうと言われました。3年後は59歳。職が見つかるあてはありません。労働者にとって仕事を奪われるのは死刑宣告のようです」。これは、きょうの「東京法律事務所60周年記念セミナー」での訴えだ。テーマは、派遣法改正を控えて「非正規雇用~もう無権利のままにはしない」。200人を超える参加者が熱心に訴えに聞き入った。派遣法改正をめぐっては、国会での駆け引きが山場を迎えている。(略)最近、子どもの貧困や母子家庭の困窮の問題が取りざたされているが、格差が小さいとされてきた日本社会の様相が変わってきたような気配だ。非正規雇用はすでに38%を超え、女性では過半数になっている。非正規雇用は、まず、いつ職を失うか分からないという「雇用の不安定」、そして労働条件が劣悪で、とくに賃金が安いという二つの問題がある。一見、これは経済の問題のようにみえるが、「人間の尊厳」を奪われるということなのだ。郵便局で働く非正規がこんなことを言った。同じ制服で、同じ仕事をしているのに、賃金も手当ても圧倒的な差がある。差別のなかで仕事をしていると、心も曲がってしまう。「雇用の安定」、「同一労働同一賃金」が求められているなかで、今回の派遣法改正は、逆の方向を向いている。廃案にすべきだ。(高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-06-16

【補遺1 私は、この大学の姿勢に、ひとを大切にする理念を見た】
大学についてFランクなどと言うべきではない。受験の偏差値が50前後の大学で長年非常勤講師をしたが、学生たちが良識ある市民となるために授業に工夫を凝らすことは、何ら無駄ではないし、大学が一丸となってそれに取り組む限り、必ず成果を挙げるのである。ただし、その大学の教員が学生のレベルの低さをあげつらうならば、学生は勉学意欲を失い、大学は自滅への道を歩む。長年非常勤講師を務めた大学で、4年次の学生さんが自ら命を絶った。無念なことに病のゆえであった。その後、大学の教務の責任者から連絡があった。先生の科目が合格となればこの学生を卒業認定できるのですが。大学としては、なんとかこの学生を卒業とさせたいと率直に言ってきた。リポートの行間に何が読み取れるかを真剣に考えた。手書きのリポートは、その学生が全力を振り絞って書いていることが伝わるのだが、普通に読めば支離滅裂であった。私は合格にした。ただし、他の学生と評価に差をつけるわけにはいかないから、その学期に限り不正がない限り全員を合格にした。成績評価の客観性には反しているが、私は、この大学の姿勢に、ひとを大切にする理念を見た。単に偏差値やランキングでは見えないところに教育の本質があると私は思う。教育の成果を数値化しろ、大学の成績も相対評価にしろ。国立大学に勤務していたころ、そういう指示を幾度も受けたが、私は納得できないのである。教育は、教えている教科だけの達成度で測るべきものではないと思うからである。(
内藤正典Twitter 2015年6月17日

【補遺2 本当の敵は大学の中にいる】
ホタルブクロ 
ホタルブクロ

【NHKの頽廃はどこまで続くか】
TPA法成立の見通しが立たなくなった。これを伝える
今朝のNHKニュース(ラジオ)は、「貿易促進強化法」と呼んだ。今回の法律の名称は、議会貿易重点説明責任法である。どこを、どうつつけば「貿易促進強化法」なぞとなるのか。「権限」という言葉すら避けて、「促進強化」だという。「大統領に強力な交渉権限を与える」という例の説明が続く。「強力」も何も大統領には、何の権限もない。何も権限がない大統領が騒ぎ、日本政府が騒ぎ、マスコミが、太鼓持ちよろしく、もてはやしているのである。マスコミは、大統領には貿易交渉権限などないという、ごく基本的な事実を徹底的に覆い隠す。(略)ブラジルワールドカップ予選リーグで一勝もできなかった、近年まれに見る弱い日本00代表を「史上最強の日本代表」と騒ぎ立てたことを全く恥じないマスコミだから何でもありである。(街の弁護士日記 2015年6月17日

【テレビは革命を伝えないだろう】
ギル・スコット・ヘロンの「Revolution Will Not Be Televised」という鋭利な言葉を、恥ずかしながら私は知らなかった。(略)55年前の昨日、安保条約の強行採決に抗議する33万人(主催者発表)が国会を包囲した。樺美智子さんの死という事態まで起こしたこの日の流血の有様(政権が手配した右翼・暴力団も出動していたと言われている)を議会政治の危機とみた電通の吉田秀雄と朝日新聞社の笠信太郎らを中心に在京新聞社7社は、2日後の6月17日に共同宣言『暴力を排し議会政治を守れ』と題する社告を掲載した。結果として、この報道機関の共同声明は安保反対の国民運動を分断し、運動に冷や水を浴びせる結果になった。(略)現状を「メディアの総腰砕け」と言い切れるのかはともかく、安倍首相と親しく会食を重ねる報道人が再びこうした「窮地に立たされた政権を救援する」役割を演じることがないよう、あるいは、かりに彼らが政権救援・大勢翼賛の行為に乗り出したとしても、そんな浅はかな行為に動じない強固な民意を作り上げることが急務である。ささやかながら、私も、その一環として、このブログを書き続けたい。(醍醐聰のブログ 2015年6月16日

【山中人間話】
私としては「憲法9条」という憲法理念を「固守」する橋頭堡としてはNG(nogood)でしかないと思っている「9条にノーベル平和賞運動」がまたぞろ「革新」の地の一角で蠢動していることに大きな違和感を感じていましたが、私の地元にまでそのおぞましい余波が襲ってくるとまでは予想していませんでした。が、わが地元においても「9条にノーベル平和賞運動」のNGの火の粉は飛んできているようです。
 
「憲法9条にノーベル平和賞を」 県内でも実行委結成へ(大分合同新聞 2015年6月16日)
 
以下は、その私の違和感を地元のメーリングリストに寄せた文章です。
 
「9条にノーベル平和賞運動」には疑義があります。その私の疑義を述べた2本の記事をご紹介させていただこうと思います。
 
■「9条にノーベル平和賞運動」への警告 ――ダグラス・ラミスさんの「9条にノーベル賞運動」への違和(Blog「みずき」 2015.02.05
 
上記記事はダグラス・ラミスさん(アメリカ合衆国の政治学者。元米海兵隊員。元ベ平連活動家)の「9条にノーベル平和賞運動」への警告を中心に論を構成しています。ダグラス・ラミスさんの問題提起を上記記事から抜粋しておきます。
 
「数ヶ月前に私は、善意でこの運動を始めたある若い女性の電話を受けた。私は長くも辛い対話を通じて、なぜその運動を支持しないのか説明した。まずそれは自己満足の側面が強い。申請に参加した人達は憲法9条支持者であり、したがっていかに間接的にやる事だとしても、彼ら自らを受賞候補に自薦するように見える。第2にさらに重要なのは、私が以前にこのコーナーで書いたように、世論調査の結果で日本人の51%が憲法9条を支持すると答えながらも、81%が日米安保条約を支持すると出た。安保条約に反対する人間は11%に過ぎない。憲法9条を支持する大多数が安保条約を支持するという意味だ。この人達は平和に献身するのではない。むしろ戦争が起こった場合、他の誰かが彼らの代わりに戦ってくれるのを望む。それは理解出来なくもないが、賞をもらうほどのものではない。そして米軍基地を日本、大部分は沖縄に置いておく根源こそが安保条約だ。辺野古に新基地を建てようという圧力の裏にも安保条約がある。」(京郷新聞(韓国) 2014-04-28)
 
また、日本会議神道政治連盟傘下の極右の長島忠美衆院議員と金子恭之衆院議員までが「9条にノーベル平和賞運動」の賛同議員として名前を連ねている事実について述べています。
 
■マララさんという少女の評価について ――弁護士の徳岡宏一朗さんのマララさんを讃える記事を読んで改めて思うこと(Blog「みずき」 2015.04.20
 
上記記事は欧米の“マララ・ヒーロー化計画”を批判的視点で分析する写真家で作家の藤原新也さんのマララさん評価を中心に論を構成しています。
 
また、マララさんの国連スピーチに広告代理店Edelmanが介入していた事実についても言及しています。
 
ところで、今年の春に「ノーベル賞委員会が委員長を解任、異例の降格人事」(AFPBB News 2015年03月04)をしたという事実はご存知でしょうか?
 
同記事によれば、今回の「ヤーグラン氏の降格は、ノルウェーの2013年総選挙で勝利した右派政党によって委員の過半数が指名されているという政情の変化を反映している」ということです。
 
上記の事実もノーベル平和賞自体がもはや「平和賞」に値しないしろものでしかないことを明白に示しています。

「今回の人事をきっかけに、1901年以降ほぼ毎年平和賞を授与してきたノーベル賞委員会が、今後政治色をより強く打ち出し始めることになるのかどうか、疑問も生まれている。ヤーグラン氏の降格は、ノルウェーの2013年総選挙で勝利した右派政党によって委員の過半数が指名されているという政情の変化を反映している。委員会を構成する5人の委員はノルウェー議会に任命されてきたが、委員会はあくまで独自の判断で受賞者を選考してきたと主張している。しかしノーベル賞に詳しい歴史家のアスル・スベーン(Asle Sveen)氏は「このことは右派政権がこれまでの慣行以上により強い政治的影響力を行使しようという狙いとも解釈できる」という見方を示すとともに、中国は圧力をかけてきた成果が出てきたと解釈するかもしれないと指摘した。さらに深刻な懸念の声も上がっている。日刊紙アフテンポステン(Aftenposten)編集者のハラルド・スタングヘレ(Harald Stanghelle)氏は、「今回の人事で、ノーベル賞委員会の委員長と新与党の政治色を結び付けるという新たな原理が生まれることになる」と指摘し、「そうなると疑問が湧いてくる。同委員会が本来維持すべき政治的独立は果たして守られるのだろうか」と問い掛けた。」(AFPBB News 2015年03月04
 
再度、「9条にノーベル平和賞運動」は「憲法9条」という憲法理念を「固守」する橋頭堡としてはNG(nogood)でしかないという私の見解を繰り返しておきます。
フェイジョア 
フェイジョア
 
【標題について】
・いわゆる炭鉱のカナリアは、炭鉱においてしばしば発生するメタンや一酸化炭素といった窒息ガスや毒ガス早期発見のための警報として使用されました。本種はつねにさえずっているので、異常発生に先駆けまずは鳴き声が止みます。つまり危険の察知を目と耳で確認できる所が重宝され、毒ガス検知に用いられています(ウィキペディア『カナリア』から)。
 
・「真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ」という言葉は夏目漱石の『虞美人草』に出てくる会話の中の一節です。次のような文脈です。「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据すわる事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存(げんそん)していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ」。
 
【高世仁さんと水島朝穂さんの木村草太(憲法学者)評】
きょうは、「報道ステーション」を見なくては。放送に間に合うように帰宅。198人の憲法学者に、安保法制が違憲か合憲かを緊急アンケート調査した結果が発表されるのだ。最終的に149人から回答があり、違憲にあたる 129人 違憲の疑いがある 19人 違憲の疑いはない 3人 順当な結果だ。まともな憲法学者なら、護憲派でも改憲派でも、第9条を変えないままで安保法制を作るのはNGと言うに決まっている。憲法にもとづいて立法され、政治権力が行使されるという立憲主義が根本から否定されることになる。この結果について、きょうのコメンテーター木村草太氏(首都大准教授)が、ここまで専門家の意見が一致するのは珍しく、安保法制案を通したら法的安定性が崩れるので、廃案しかないとばっさり。ところで、木村草太氏については、ちょっと「けれんみ」のある議論をする人だなという印象があった。とくに集団的自衛権をめぐっては、いわゆるリベラル派のなかで、佐藤優氏(略)とならび「楽観論」で目立っていた。例えば、最近も木村氏は、『世界』6月号で、去年7月1日の閣議決定を評してこう書く。《閣議決定の文言を自然に読む限りは、「個別的自衛権の行使として許容される場合には武力行使してよく、その国際法的根拠を集団的自衛権としていいですよ」と言っているにすぎません。あの閣議決定の文言から、「集団的自衛権が行使できるようになった」と理解することに相当無理があるというのは、おそらく安倍首相も気づいていらっしゃるのではないか・・・》(p50)

水島朝穂君(早大教授)が最新刊『ライブ講義 徹底分析!集団的自衛権』(岩波書店)で、佐藤、木村両氏の名前を挙げて、「閣議決定で認められたものは、実際はこれまで政府が考えてきた個別的自衛権の範囲を超えるものではない」という主張は誤りだとして、説得力ある議論を展開している。この本は、《現状をまず「専守防衛」ラインに引き戻そうという見地》から書かれており、わかりやすく資料を整理してあるので、政治家が質問をするのに非常に役に立つと思う。(高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-06-15

引用者注:
高世仁さんの指摘する水島朝穂さん(早大教授)の木村草太さん(首都大准教授)批判は下記でも確認できます。
 
個々の憲法研究者へのアンケート調査も始まった。テレビ朝日「報道ステーション」が先行した。6日にメールで、「安保法制アンケート調査 ご協力のお願い」が届いた。『憲法判例百選Ⅰ・Ⅱ』(有斐閣)に執筆している約200人が対象で、締め切りは12日正午。私は7日夜には回答した。15日夜、古館キャスターの隣に座るコメンテーターが分析すると見込んで、この人に対する批判も、質問⑥(自由記述欄)に書き込んでおいた。この憲法研究者は「閣議決定を正しく使っていくことが必要となります」といい、安保関連11法案に「一概に私は『賛成』『反対』と言えません」(『アエラ』6月15日号65頁)という立場なので、私の批判的意見を書き添えておいた。」(水島朝穂「今週の直言」2015年6月15日

【補遺】
国会で審議されている法案の正当性がここまで揺らぐのは、異常な事態だ。安倍内閣が提出した安全保障関連法の一括改正案と「国際平和支援法案」は、憲法違反の疑いが極めて濃い。その最終判断をするのは最高裁だとしても、憲法学者からの警鐘や、「この国会で成立させる必要はない」との国民の声を無視して審議を続けることは、「法治への反逆」というべき行為である。維新の党が対案を出すというが、与党との修正協議で正されるレベルの話ではない。いったん廃案とし、安保政策の議論は一からやり直すしかない。そもそもの間違いの始まりは集団的自衛権の行使を認めた昨年7月1日の安倍内閣の閣議決定である。内閣が行使容認の根拠としたのは、集団的自衛権と憲法との関係を整理した
1972年の政府見解だ。この見解は、59年の砂川事件最高裁判決の一部を取り込み、次のような構成をとっている。(略)ところが閣議決定は、(略)結論だけを必要最小限の集団的自衛権は行使できると改めた。前提となる理屈は同じなのに結論だけを百八十度ひっくり返す。政府はその理由を「安全保障環境の根本的な変容」と説明するが、環境が変われば黒を白にしてよいというのだろうか。この根本的な矛盾を、政府は説明できていない。入り口でのボタンの掛け違いが、まっとうな安全保障の議論を妨げている。この閣議決定をもとに法案を成立させるのは、違憲の疑いをうやむやにして、立法府がお墨付きを与えるということだ。その結果として可能になるのが、これまでとは次元の異なる自衛隊の活動である。限定的とはいいながら、米国など他国への攻撃に自衛隊が反撃できるようになる。(略)憲法学者から「違憲」との指摘を受けた後の対応を見ると、政権の憲法軽視は明らかだ。砂川事件で最高裁がとった「統治行為論を盾に、「決めるのは我々だ」と言い募るのは、政治家の「責任」というより「おごり」だ。先の衆院憲法審査会で、小林節慶大名誉教授がこんな警告を発している。「憲法は最高権力を縛るから、最高法という名で神棚に載ってしまう。逆に言えば後ろ盾は何もない。ただの紙切れになってしまう。だから、権力者が開き直った時にはどうするかという問題に常に直面する」権力者が開き直り、憲法をないがしろにしようとしているいまこそ、一人ひとりの主権者が憲法の後ろ盾となって、声を上げ続けるしかない。「憲法を勝手に変えるな」(朝日新聞社説 2015年6月16日
 
【山中人間話】 
映像
衆院の安保法制論議の際の安倍首相の「早く質問しろよ!」や「大げさなんだよ!」という下品なヤジは、その下品さのゆえにメディア的には「絵」になる格好のネタとして注目され、何度も大きく取り上げられることになりました。その安倍首相の下劣なヤジが飛び出したのは民主党の辻元清美議員の質問の際のことでしたから、必然のなりゆきとして辻元議員へのメディアの注目度も高まり、辻元議員のメディアへの露出度も高まることになりました。

さらにその際の辻元議員の質問は自衛隊の中東における後方支援の問題、「人の生き死にに関わる問題」(辻元発言)でしたから安倍首相の下劣さへの反発に比例するように辻元議員の人権感覚と民主度の株は高まることになりました。かつての辻元清美人気の復活というところまでは届きませんが、かなりの復活のきざしを見せたのはたしかです。一部のリベラルを自称する人たちの間で辻元議員に期待する声が再び高まることにもなりました。
 
しかし、辻元議員やその所属政党としての民主党に期待を寄せるのは早計というべきでしょう。辻元人気はメディアによってつくられた側面もあります。辻元議員のテレビ露出度が高かったのはもちろん上記のようないきさつがあったからですが、辻元議員はニュースメディアにとっては扱いやすい存在であるという側面も少なくないでしょう。辻元議員は一見保守とは相対する立場にいるように見えますが、以下に見るように実は保守に対立する存在ではありません。ですから、ニュースメディアにとっては、辻元議員は安倍政権からクレームがつくことはまず心配しなくてすむリスク保険のような存在でもあるのです。
 
辻元議員は先の安倍首相から「大げさなんだよ!」というヤジが飛んだ後の中谷防衛相との質疑において「安保法案は憲法学者から疑義が出たのだからいったん撤回された方がいい」などと発言しています(5月28日、衆院平和安全法制特別委員会)。この「安保法案は憲法学者から疑義が出た」違憲法案であることは明らかなのですから「いったん撤回」するのではなく、廃案にするのが法制上のスジというものです。そのことが辻元議員にはわかっていない。だから「いったん撤回」などというスジ違いのことを言ってその誤りに自身では気がつかない。
 
同様の誤りは民主党の長妻昭代表代行にもあって、6月14日の「国会包囲行動」」の際、長妻議員は「法案を出し直させる」とスピーチして集会参加者から「ダメだよ!!民主党!!」「廃案だよ!!」という抗議のヤジを受けてたじたじの体だったそうです(vanacoralの日記、2015年6月14日)。6月6日のテレビ東京の番組で辻元議員(民主党政調会長代理)は「集団的自衛権行使を容認した安倍政権の憲法解釈変更に関し、民主党が将来、政権を獲得した場合は行使を禁じる従来の解釈に戻す考えを示した」上で「戻さなくても済むよう、法案の廃案に全力を挙げる」と強調したということですが(東京新聞、2015年6月7日)、その1週間後の14日の集会で長妻昭代表代行は「法案を出し直させる」とスピーチしています。当然、テレビ東京の番組での辻元議員の発言にも長妻昭代表代行発言にも信を置くことはできません。その場限りの言い放しというのがこの党と所属議員の発言の実態だからです。辻元人気は同議員の実際の政治行動に基づかない辻元幻想がつくり出したものといえるでしょう。同じように民主党人気も(仮にそういうものがあるとして)実際の同党の政治実体に基づかない民主党への革新期待幻想がつくり出した虚構の産物といえるでしょう。
 
以下、辻元議員の実際の政治行動の一端を過去記事から示しておきます。また、民主党については、私も繰り返し述べていることですが、「今の戦後最悪の民主主義破壊政権を固定させた立役者は民主党」(Afternoon Cafe、2015/02/28)であるという事実を私たちは決して忘れてはならないことのように思います。
 
辻元氏自身の問題性は大きくいって次の2点にある、というのが私の見方です。第1点。辻元氏は自身のブログで「これからは無所属議員として活動を始めます」と述べていますが、しかし、これは井原勝介氏(前岩国市長)が指摘していることですが、辻元氏は社民党の公認を得て議員当選を果たしている。「公認を得て選挙を戦うということは、政党の看板を背負うことであり、その看板に対しても責任を持つ必要がある。」「一つの理念を掲げて政党に集い、政党を通じてその理念と政策の実現を図るというのが、政党政治の本来のあり方である。その政治の基盤となるべき政党と袂を分かつというのであれば、議員辞職する覚悟を持つべきである」ということです(「辻元清美の離党」 井原勝介ー草と風のノートー 2010年7月28日付)。「私は社民党を離党します。これからは無所属議員として活動を始めます」では済まないのだ、と私は思います。辻元氏は自らの行動に筋を通そうとするのであれば一旦議員辞職するべきでしょう。
 
第2点。もう1点は辻元氏が27日の大阪での離党表明記者会見で述べた「政権交代を逆戻りさせてはならない」「政権の外に出ると、あらゆる政策実現が遠のく」(読売新聞 2010年7月27日)という発言の問題性です。辻元氏は自民党政権から民主党政権へと変わった昨年夏の衆院選での「政権交代」を絶対視しているようですが、政権交代で重要なのはいうまでもなく政権交代という形ではなく、その政権交代の結果として政治変革、政治の中身が変化したかどうか、ということです。自民党政治の延長に過ぎない政権交代は政権交代の名に値しないのです。民主党政権は自民党政治に決別しえたか。普天間基地問題に象徴される民主党政権の対米従属、民意無視の政治姿勢を見る限り、民主党政権の政治は自民党政治の延長であり、というよりもさらに悪質化しており(たとえばSCC共同声明参照)、自民党政治に決別しえたとはとてもいえません。それを単純に「政権交代を逆戻りさせてはならない」などと言ってしまう。ここに辻元氏の信念に基づく「理念」の実現よりも「権力」によるまやかしの「理念」の実現(すなわち「理念」の非実現)の方を重要視する権力志向の姿勢がよくあらわれていると見るべきでしょう。(Blog「みずき」2010.07.30から抜粋)
ギボウシ 
ギボウシ

【反動としての知性への敵視が凄まじい】
反知性主義」という言葉があるが、いまの自民党が「主義」という言葉に値するかどうかは疑問。しかし領袖が知性の欠如を自覚し、おそらく強烈なコンプレックスがあり、反動としての知性への敵視が凄まじい。右に倣えでみんな知性をかなぐり捨てるのか。高村さんやあるいは橋下さんのような人を見ていると、弁護士はロジカルな存在だという幻想が木っ端微塵に吹っ飛んでしまうな…。例えば田中角栄のような人は、学歴がなくても「地頭」がよかったのだろうという気がする。しかし、いまは学歴がパッとしなくて地頭も悪そうな「七光り」組が権力の蛮刀を振りまわしている。それが怖い。ぼくは「学歴」なんぞになんの価値も見出していない人間だが、それでもそう思うのだから、怖い。ここまで「知」や「教養」「論理性」のようなものがないがしろにされている時代は記憶にない。もうほとんど60年を生きてきて、物心ついてから一貫して社会的関心を強く持ち、世の中を見つめ、それを商売にもしてきたぼくがいうのだから、ま、ある程度は信用してもらっていいのではないか。最低限の知性、言い換えれば「合理性の尊重」を前提としない「民主主義」を「衆愚政治」と呼ぶはずである。「衆愚」が横行する時代には、理屈にもなんにもなっていないタワゴトでも、それを声高に叫ぶ奴が最終的に勝利をおさめたりするものである。なぜこうもメチャクチャをやる自民党が選挙で勝つのか…それも個別政策については、集団安保も、原発再稼働も、ほとんどが反対多数だというのに。信頼に足る野党がないからだ、という奴もいる。しかし、それこそが最悪の思考停止というべきである。「より悪い選択」をする理由はどこにもないのだから。安保にしても、憲法「改正」にしても、原発再稼働や一連の労働規制の撤廃にしても、自民党の政策が広く世論の支持を受けているというなら諦めもしよう。しかし、そうではないのだから、多数派日本国民の思考停止、民主主義を自ら投げ出すに等しい愚行は厳しく批判しなければならないと思う。「歴史の審判」なんぞ悠長に待っているバヤイじゃないぞ。(toriiyoshiki Twitter 2015年6月15日

【補遺 一読者の借問に答えた古山高麗雄の短編】
古山高麗雄(に)「過去」というエッセイがあり、これに、いたく感心しました。ほんとうのことが語られていると思ったのです。(略)〈私が強制連行されたのは、東南アジアである。中国大陸の帝国陸軍と東南アジアの帝国陸軍とでは、どこが同じであったろう、どこが違っていただろう。私は中国大陸で、帝国陸軍がどんな非道を行なったかを、自分の目で見ているわけではない。けれども、各地でひどいことをしたと思っている。話を聞いてそう思っている。話は中国人からも聞き、中国から帰還した帝国陸軍の兵士からも聞いた。その話に誇張があり、あるいは、ときには嘘も混じっていることがあったとしても、私は中国大陸での帝国陸軍の非道は、ひどいものであったに違いない、と思っている。〉「私が強制連行された」という書き出しが強烈です。そう、徴兵とは、まさに国家による強制連行にほかならなかったのです。たとえばテレビなどで、池上彰が「靖国神社は国のために命を捧げた戦死者を祀っている神社です」などと、得意げに解説しているのをみて、ぼくはそこはかとない違和感をおぼえていましたが、その正体が、わかったような気がします。国は敗戦の責任をとりませんでした。みずから責任をとらないまま、あるいは国民から敗戦の責任を問われないまま、日本国の処分を占領国であるアメリカにゆだねたのです。何ら戦争の責任を明らかにしなかった国と、それを引き継いだ歴代の支配者が、国の「強制連行」によって戦死した何百万もの兵士を「国のために命を捧げた」として称える奇妙な光景が、この国ではいまだにつづいています。(略)ぼくは戦争を知りません。しかし、母と結婚するはずだった叔父は、広島の原爆で亡くなっています。戦争を知らないといっても、戦争はすぐそこにあったのです。戦争の実態を伝えることを自虐史観だと批判する人は、戦争が正義だと思っているのでしょう。積極的平和主義というニュースピーク語は、平和は戦争であり、戦争は平和であるという考え方にもとづいており、戦争は正義だとする絶対観念に毒されています。今回の安保法制が、国の交戦権を認め、憲法改正を先取りするものであることは明らかです。戦争が忘れられかけていること。戦争の語られ方がおかしくなっていること。一読者の借問に答えた古山高麗雄の短編は、そのことを痛切に思い起こさせてくれました。(海神日和 2015-06-11

【山中人間話】
映像