想田和弘さんが首相安倍の昨日の米議会演説について以下のようなメッセージを発信しています。まったくそのとおりだと思います。


しかし、想田さんは上記のメッセージと同時に岡田克也民主党代表のメッセージも発信しています。


なぜ共産党でも社民党でもなく民主党のメッセージの発信なのでしょう? 想田さんが同メッセージを引用している本日付けのブロゴスというメディアには岡田代表のメッセージしか記事化されていないので、上記の想田さんのメッセージの発信の観点に立てば「当然の批判」ということを言うために他意はなく岡田代表のメッセージを引用したにすぎないということなのでしょうが、岡田さんのメッセージは「当然の批判」という以前に下記で「アリの一言」ブログ主宰者が批判している「手続き論に終始」した論でしかなく引用するに値するものとは思えません。媒体は違いますがたとえば共産党の志位委員長も本日付けのしんぶん赤旗で昨日の日米首脳会談について岡田氏のメッセージと同様の趣旨のことを「『海外で戦争する国』への大転換を、国会での議論もないままに、まずアメリカに誓約するというのは、日本の独立と主権を蔑ろにする異常な対米従属の姿勢を示すものである」と明確に述べています。引用するのであれば、想田さんは、単に「手続き論」だけでなく、今回の日米首脳会談の危険な本質も明確に指摘している志位コメントを引用するべきではなかったでしょうか。

民主党は普天間基地の辺野古移設についてもアメリカ政府との合意を優先する立場(日本テレビ世論調査、2010年6月13日)ですから「手続き論」以上の指摘はもともとできはしないのです。その辺のところが想田さんにはおわかりになっていないように見えます。わかっていれば、岡田代表のメッセージを引用したりはしなかったでしょう。

その点、内田樹さんの以下の指摘は安倍内閣への皮肉が利いていてなかなか読ませます。


しかし、昨日の日米首脳会談についてのメディアの報道のていたらくを鋭く突いているのはやはり下記の「アリの一言」ブログの「アリの一刺し」のコメントでしょう。以下、全文を引用しておきます(改行は引用者)。

「日米安保肯定」に立って「首脳会談・辺野古」を批判できるか
(アリの一言 (「私の沖縄日記」改め)2015年04月30日)

28日の日米首脳会談とそれに先立つ「日米防衛協力指針(ガイドライン)」改定に対し、本土の多くの新聞・メディアが「懸念」を示し「批判」しています(「読売」「産経」は論外)。

「『積極的平和主義』のもと、国際社会での日本の軍事的な役割は拡大され、海外の紛争から一定の距離を置いてきた平和主義は大幅な変更を迫られる。・・・戦後日本の歩みを踏み外すような針路転換である」(「朝日」28日付社説)

「これは自衛隊が米軍に世界規模で協力するという約束である。・・・自衛隊の海外での活動は飛躍的に拡大し、日米安保体制は極東の範囲を超えて世界に広がる」(「毎日」28日付社説)

「自衛隊が海外で武力の行使をする恐れが高まる。戦後日本の『専守防衛』政策は根本から覆る」(東京新聞28日付社説)

これらの分析・指摘はその通りです。問題は、ではどうすべきなのか、この歴史的な段階において日本はどのような「針路」をとるべきかです。しかしこの肝心な点について、各紙に明確な主張は見られません。「国内の合意もないまま・・・あまりにも強引すぎる」(「朝日」同)、「国民を置き去りにした安保政策であってはならない」(「毎日」同)、「あまりにも乱暴な進め方だ。・・・慎重な検討が必要だ」(「東京」同)と、いずれも手続き論に終始しています。なぜそうなるのか。それは、日本のメディアがあまねく、日米軍事同盟=安保条約を肯定する立場に立っているからです。だから新「ガイドライン」が「従来の安保条約の枠を超える」とは指摘できても、その根源である日米安保条約を廃棄すべきだとは言えないのです。だから安倍首相が「日米同盟の歴史に新たな1ページを開く」と誇示しても、それを批判することができないのです。

では、沖縄の2つの県紙、琉球新報と沖縄タイムスはどうでしょうか。新報は「沖縄利用許されない―普天間即時閉鎖こそ解決策」(29日付社説)、「人権と民主主義の無視だ」(30日付社説)、タイムスも「日米『辺野古』再確認―露骨な切り捨ての論理」(30日付社説)と、いずれも日米間で「辺野古移設が唯一の解決策」(安倍首相)だと再確認したことを厳しく批判しています。批判は当然です。今回の日米会談は、沖縄県内外の市民の声に耳を貸そうとしない日米両政府の姿をあらためて浮き彫りにしました。しかし同時に問題なのは、新報もタイムスも、本土メディアと同様、日米軍事同盟=安保条約を廃棄するという根本問題にはまったく触れていないことです。それどころか、「日米同盟強化をうたえばうたうほど、よって立つ基盤のもろさが目立つ。まさに砂上の楼閣だ」(同新報社説)と、日米軍事同盟の存在を容認・肯定する立場から、その基盤が揺るがないために、辺野古新基地建設は強行してはならないと主張しています。

この立場で一貫しているのが、翁長雄志知事にほかなりません。翁長氏は29日急きょ記者会見し(写真右)、日米首脳会談で「辺野古移設」が再確認されたことを批判するとともに、「『(辺野古が)唯一の解決策』という言葉は日米同盟、日米安保体制を揺るがしかねないと思っている」「私は日米安全保障体制は重要だと理解をしている」「県民のことを考えないで推し進めることは大変残念であり、日米安保体制にとっても良くない」(30日付琉球新報)と繰り返し、日米安保=軍事同盟を容認、いや積極的に肯定したうえでの「辺野古新基地反対」であることを改めて示しました。

これでいいのでしょうか。今回の日米首脳会談、「ガイドライン」改定は、対米追随の軍事同盟=安保条約が、アメリカの戦争に日本が参戦するためのものにほかならず、日本・アジア・世界の平和と安全を脅かすものであることを改めて浮き彫りにしたのではなかったでしょうか。いまこそ安保条約廃棄の世論を大きくすべきときです。にもかかわらず、その日米軍事同盟=安保条約を肯定し、逆にその「重要性」を強調する立場に立って、果たして辺野古新基地建設を阻止することができるでしょうか。辺野古だけでなく、嘉手納をはじめ沖縄から、日本から、米軍基地を撤去することができるでしょうか。「辺野古新基地」の根源は日米軍事同盟=安保条約なのですから。
パリの話

【「サイゴン解放」の意味】
きょう4月30日は
サイゴン解放40周年に当たる。40年経つと、サイゴンと言っても分からない人が多くなった。若い人たちにはホーチミン市と言ったほうが通じる。1960年代に世界を揺るがせたあのベトナム戦争は、1975年4月30日べトナム解放軍(北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線勢力)のサイゴン入城によって最終的に終結、世界一の軍事大国アメリカの敗北が確定したのだった。アメリカは1965年に北爆を開始、南ベトナムに最大54万人の兵力を送り込み、第2次世界大戦中全世界で使われた総量以上の爆弾と枯葉剤を狭いベトナム国土に浴びせたが、勝てなかった。アメリカは膨大な軍事費を浪費した末、当時のニクソン大統領は1971年8月15日、ドルと金の兌換停止を発表せざるを得えなくなった。これがニクソン・ショックである。米国の通貨ドルは金の裏打ちがあってこそ、世界最強の国際通貨として通用していたのだった。1ドル=360円の固定相場はその後変動相場に移行、現在では1ドル=120円とドルの値打ちは1/3に減価している。アメリカはソ連崩壊後唯一の超大国として世界に君臨してはいるが、アジア太平洋の覇権をめぐって中国が急追する時代を迎え、その威信は年々衰えつつある。そのきっかけをつくったのは、他ならぬベトナム人民の不屈の戦いであった。あの貧乏な小国ベトナムが、世界一の強大帝国アメリカを敗退させ、それが今日の多極化しつつある世界を生み出す原動力になったことを忘れることはできない。(略)

トンキン湾事件」が完全なでっち上げの謀略であることは、1971年6月に米有力紙ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストに掲載されたペンタゴン・ペイパーで大々的に暴露された。ペンタゴンつまり国防総省に勤務する専門家のD・エルズバーグ博士が両紙に内部告発したものだった。「トンキン湾事件」が根も葉もないでっち上げの謀略であることは、1964年当時から北ベトナム政府は声を大にして対外アピールしていたが、当時は味方の共産圏しか信じられていなかった。ペンタゴン・ペイパーが暴露された1971年となると、米国国内を含めて全世界にベトナム反戦運動が展開されていた時代である。この反戦運動は、1968年1月31日から南ベトナム全土で展開された解放勢力のテト攻勢で、ジョンソン政権の宣伝に反して米軍が苦戦してことが明白になったからである。(伊藤力司「リベラル21」2015.04.30
昨年5月放送のNHK「クローズアップ現代」での「やらせ疑惑」を調べていた同局の調査委員会は昨日の4月28日、「やらせ」を否定しつつも、放送ガイドラインを逸脱する「過剰な演出」や「視聴者に誤解を与える編集」が行われていたと結論づける報告書を公表しました。そして、同日放送の「クローズアップ現代」では同調査報告書に基づく検証内容とこの日の記者会見の模様の抜粋を番組内で放送して謝罪しました。
 
一方で同日、高市早苗総務相は「報道は事実をまげない」などと定める放送法に抵触するとして、NHKの番組では1993年以来となる厳重注意の行政指導を出しました。NHKは「(行政指導の)趣旨が明確ではない」として一時受け取りを拒んだが、28日夜に受け取りました。(朝日新聞 2015年4月29日
 
上記で報道されている「クローズアップ現代」の「やらせ」問題については、上記の下段で述べた政府、総務省の放送に対する「行政指導」なるものの是非の問題と上段で述べた「やらせ疑惑」自体の問題性を総体として捉えて論じなければ「木を見て森を見ない」たぐいの論になりかねないのですが、「報道の自由」に対する政府(権力)の圧力の問題性についてはすでに先に「報道の自由と批判の自由について――「NHK、テレ朝 抗議なく受け入れ 自民が事情聴取」という事態を承けて改めて考えるという拙論で指摘していますので、ここでは「やらせ疑惑」自体に伏在する問題性を現役のドキュメンタリー番組専門のTVディレクターと番組編集者という放送現場の視点からシャープに論じている以下の2つの論が新鮮でかつ説得力のある論となっているように私には見えますのでご紹介しておきたいと思います。おふたりともドキュメンタリーの制作現場に精通しているスペシャリストですからその指摘は具体的です。耳をそばだてて傾聴すべき卓識の意見だと思います。
 
おひとり目のtoriiyoshiki(アイヌ語で「宿酔い」の意)さんの見方。
 
クローズアップ現代の「検証番組」を視聴。制作現場の実感からいうと幾つかの点で違和感があった。その最大のものは「チェック体制の不備」を指摘したいところだ。国谷さんがお詫びをしていたが、記者が嘘をついていたとした場合、彼女はもちろん、編集済み映像しか見ていないデスクやプロデューサーに嘘を見抜ける可能性は小さい。そこを疑い始めれば、現実問題として制作現場は機能しない。つまり、一人が取材したものを常に誰かがチェックする必要があるとしたら、現実問題としてトンデモナイ二度手間にならざるを得ないからだ。そういう意味で、制作現場は基本的に「性善説」に則ってしか成立しない。「管理職が報道内容の真偽をすべてチェックせよ」などと言い出したら、末端の現場は独自取材を忌避し、安全な「発表ネタ」に傾斜していく可能性が強い。番組内容は今よりさらに「広報」に近づいていくことになりかねない。
 
記者と検証番組でいうA氏、B氏との関係はいかにも奇妙である。記者と「ブローカー役のA氏」は撮影以前に一度会ったことがあるとしていたが、何のための取材で、実際どういう取材が行なわれたのか、そこへの言及がないのでとても納得できない。撮影現場に記者とA・B両氏が一緒に来る関係は不自然。そういう意味で、その不自然さに気がつく可能性があったのは、(管理職などではなく)取材に行ったディレクターやカメラマンなどのスタッフ、さらには撮影映像をすべて見ているはずの編集マンである。彼らと記者との関係は基本的に(同じ番組をともに作り上げていく仲間として)水平なはずである。現場の力関係というのはあったと思うが、明らかな不自然さを彼らスタッフがさほどの疑問を持つことなく受け入れたとしたら、あるいは「役割分担」に徹して淡々と(?)自分の仕事をこなしたとしたら、ぼくはその現場の頽廃こそが一番ヤバいと思っている。そこに全く触れない検証には違和感を拭えない。(略)
 
取材者は「空気」にはなれないし、なるべきでもないとぼくは思う。取材者が「いる」ことを否定するなら、ドキュメンタリーは隠し撮りでしか存在し得ないことになる。そんなバカな話はない。もっとも、今回のように、当事者が撮影を了承済みにも拘らず、わざと隠し撮り風に撮影するのはNGだと思うが。つまり、今回の「検証」が現場のダイナミズム、つまり塀のどちら側に落ちるかギリギリのところでバランスをとろうとしている「映像取材」というものの性格をよく知らない人たちの手によって行われたらしいことをぼくは危惧する。変な方向に「反省」が働けば、テレビはますますダメになる。(略)
 
こんな最終報告書でお茶を濁すとしたら、NHKには自浄能力がないと言われてもやむを得ない。繰り返すが、最大の問題は、この記者の異常な「取材」ぶりを目の当たりにしながら結果として加担した(=共犯関係である)ディレクターや撮影クルー、編集マンの職業倫理の低さである。記者は38歳というから現場ではキャップ・クラスの「実力者」だったのだろうと推測する。ディレクターはたぶん記者より後輩であまり強いことも言えず、カメラ・クルーや編集は外部スタッフで立場が弱かった可能性もある。とはいえ、記者の暴走に加担した責任は「やはり重い」と言わざるを得ない。ぼくはたぶん一面識もないはずのこの記者を絶対に許しはしないが、それ以上に、こうした功に走っての暴走に誰もブレーキをかけることができなかったNHKの報道現場の頽廃こそが深刻な問題だと思う。それを「いわゆるヤラセとは言えない」などと強弁する組織風土にも危機感を拭えない。「視聴者の信頼の回復」をいうのであれば、この際、担当者をかばい立てをするのではなく、きちんと膿を出し切ることが大切だと思う。部外者のぼくには断言はできないが、どうも報道現場の組織風土の問題があるように思えてならない。(toriiyoshiki(宿酔い)Twitter 2015-04-28
 
おふたり目の高世仁さんの見方。
 
この報告はおかしい「過剰な演出」ではなく、明確に「やらせ」だったはずだ。もし本当にブローカーだったら、BPOに訴えるわけがない。「多重債務者は記者が取材した他の番組にも出演していた」とすれば、この二人が仕組んだやらせに違いない。不祥事につけこんで、権力がNHKの番組作りに手を突っ込むことは許されないのだが、きちんと検証ができないNHKに毅然として介入をはねのける姿勢は期待できない。一方、テレビ朝日の吉田慎一社長は、きょう定例会見で「報道ステーション」の問題に触れた。(略)古賀氏の行動については、私は肯定できない。公共の電波を使ってやることではないし、録音したものを出すとか出さないとか言っても、視聴者には全く分からない。結果として、権力との緊張関係を保つべしと考えるテレビ局内の人々の立場を悪くすることにもなるのではと危惧する。少しづつ、しかし、別の見方からは、かなりのスピードで世の中が動いているのを感じる。3月まで「報道ステーション」のコメンテーターだった恵村順一郎氏(朝日新聞政治社説担当)が書いた評論(朝日新聞24日)にうなづかされるものがあった。《目に映る話は大きくないかもしれない。けれど、その底流にこそ目を凝らしたい。自民党がテレビ朝日とNHKの幹部を呼び出したこと。福島瑞穂参院議員の「戦争法案」との国会発言に、自民党が修正を求めたこと。7年前、89歳で亡くなった評論家、加藤周一の言葉を思い出す。――二・二六事件以後真珠湾までの東京。日常の生活に大きな変化はなかった。衣食は足り、電車は動き、六大学野球のリーグ戦もあった。「その背景の見えないところで、どういう圧力や取引や『自己規制』が言論機関に作用していたかは、当時の私には知る由もなかった。しかし報道言論の表面にあらわれた変化、一見おだやかな、なしくずしの変化に、特定の方向のあることだけは、私にも見誤りようがなかった」》まるで、今の時代のようである。メディアに関わるものが自戒するのはもちろん、みながメディアの振る舞いをより注視すべきだと警鐘を鳴らしている。特定の方向のある、なしくずしの変化が(高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-04-28
 
このおふたりの見方に共通しているのはくだんの「クローズアップ現代」の番組は「過剰な演出」ではなく明確に「やらせ」であったという認識です。そこから派生する二次的認識はそれぞれ別の方角に向かっているように見えますが、高台(歴史的視点)から見る視野と低地(現場的視点)から見る視野の違いであり、結局は同じさまを見ていることには違いはないように私には見えます。おふたりの指摘によって、私は放送現場の視点というものを教えられました。これまで見えなかったものが見えるようにもなりました。
 
もう一点。私として共感しえない論点もご紹介しておきます。それは映画監督でジャーナリストの想田和弘さんの以下の論点です。

上記で想田さんは「巨大なテレビ局が、こんなに簡単に「報道の自由」を捨ててしまうとは。心底びっくりしています」と言うのですが、私の異議はその点にあるのではありません。テレ朝首脳陣の腰抜けぶりへの嫌厭感については私も想田さんと同様に強いものがあります。しかし、「「報道の自由」を捨ててしまう」契機をつくった古賀発言の問題性について想田さんにはまだまだその深刻度の認識が不十分なように見えます。「古賀氏の行動については、私は肯定できない。公共の電波を使ってやることではないし、録音したものを出すとか出さないとか言っても、視聴者には全く分からない。結果として、権力との緊張関係を保つべしと考えるテレビ局内の人々の立場を悪くすることにもなる」という上記の高世仁さんの認識はやはり上記に引用した現役のTVディレクターtoriiyoshikiさんの認識でもあり、私の認識でもあるのですが、こうした指摘について想田さんはどのように考えるのでしょう? 私の認識はともかくとして現場のTVディレクターや番組編集者の認識は具体的な経験に根差した認識であるということは再度申し上げておきたいことです。
 
アヤメ

【国旗国歌についての大学人声明】
本年4月9日の参議院予算委員会における安倍晋三首相の答弁を機に、文部科学省は国立大学に対して、入学式、卒業式において国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう要請するとされている。これは、日本における
学問の自由大学の自治を揺るがしかねない大きな政策転換であり、看過できない。そもそも大学は、ヨーロッパにおけるその発祥以来、民族や地域の違いを超えて、人類の普遍的な知識を追究する場として位置付けられてきた。それぞれの国民国家の独自性は尊重されるが、排他的な民族意識につながらないよう慎重さが求められる。現在、日本の大学は世界に開かれたグローバルな大学へと改革を進めているが、政府主導の今回の動きが、そうした方向性に逆行することがあってはならない。日本近代史を振り返れば、滝川事件天皇機関説事件矢内原事件など、大学における研究や学者の言論が、その時代の国家権力や社会の主流派と対立し、抑圧された例は枚挙にいとまがない。その後の歴史は、それらの研究・言論が普遍的な価値にもとづくものであったことを示している。大学が国家権力から距離を置き、独立を保つことは、学問が進展・開花する必要条件である

文部科学省は今回のはたらきかけは要請にすぎないと説明しているが、国立大学法人が運営費交付金に依存する以上、「要請」が圧力となることは明白である。たしかに教育基本法第二条は、教育目標の一つとして、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する(中略)態度を養う」ことを掲げる。しかし、伝統と文化とは何かを考究すること自体、大学人の使命の一つであり、既存の伝統の問い直しが新しい伝統を生み、時の権力への抵抗が国家の暴走や国策の誤りを食い止めることも多い。教育基本法第七条が「大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」とするゆえんである。政府の権力、権威に基づいて国旗国歌を強制することは、知の自律性を否定し、大学の役割を根底から損なうことにつながる。 以上の理由から、我々は、大学に対する国旗国歌に関する要請を撤回するよう、文部科学省に求める。(
内田樹の研究室 2015年4月28日

呼びかけ人(4月28日現在21人)
広田照幸(日本大学・教育学・本会代表)、内田樹(神戸女学院大学名誉教授・哲学)、佐藤学(学習院大学・教育学)、本田由紀(東京大学・教育社会学)、米田俊彦(お茶の水女子大学・教育史)、木村元(一橋大学・教育史)、加藤陽子(東京大学・日本近代史)、樋口陽一(東京大学名誉教授・憲法学)、池内了(名古屋大学・宇宙物理学)、石川健治(東京大学・憲法学)、毛利透(京都大学・憲法学)、蟻川恒正(日本大学法科大学院・憲法学)、中島岳志(北海道大学・政治学)、山口二郎(法政大学・政治学)、杉田敦(法政大学・政治学)、川本隆史(国際基督教大学・社会倫理学)、平川克美(立教大学・経営学)、石川康宏(神戸女学院大学・経済学)、平尾剛(神戸親和女子大学・身体論)、森まゆみ(作家)、斎藤美奈子(文芸評論家)
沖縄の「屈辱の日」の今日。アトランダムに目についた記事(メディア記事とブログ記事)を眺望してみます。それぞれのメディアと「私」の憂鬱が伝わってくるように思えます。それぞれの憂鬱の原因は異口同音にこれもそれぞれの地平、橋頭堡からの「戦後の平和憲法下ではありえなかった国策が次々と断行されている」安倍政権への違和感です。

「きょう「4・28」は、サンフランシスコ「講和」条約と日米安保条約発効の日(1952年)です。安倍政権はこの日を「主権回復の日」と称し、2年前、天皇・皇后出席の下で「記念式典」を強行しました。しかし沖縄にとってこの日は「屈辱の日」。今日も、午前中の辺野古での集会に続き、各地で抗議集会が計画されています。そんな「4・28」に、安倍首相とオバマ米大統領の「首脳会談」がおこなわれ、日米軍事同盟のいっそうの拡大・強化が確認されるのは、偶然とは思えないほど象徴的なことです。」(アリの一言(「私の沖縄日記」改め) 2015年04月28日
「実に18年ぶりの「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)改定である。(略)改定の根底にあるのは、安倍政権が憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使容認に踏み切った、昨年7月の閣議決定だ。それを受けた安保法制が今国会の焦点となる。その審議を前に、新指針には早々と集団的自衛権の行使が反映されている。自民党と公明党との間で見解の割れる機雷掃海も盛り込まれる。対米公約を先行させ、国内の論議をないがしろにする政府の姿勢は容認しがたい。」(朝日新聞社説 2015年4月28日

「これは自衛隊が米軍に世界規模で協力するという約束である。日米両政府は、自衛隊と米軍の役割分担を定めた新たな日米防衛協力の指針(ガイドライン)をまとめた。自衛隊の海外での活動は飛躍的に拡大し、日米安保体制は極東の範囲を超えて世界に広がる。国会を素通りして日米安保条約の改定に等しい大転換が行われることは同意できない。」(
毎日新聞社説 2015年04月28日

「ここまで書いてきて、筆者の気力が落ちていることの根本原因が少しわかってきた。一つは安倍政権が目指す米国と共に世界中で戦争の出来る国づくりに対する違和感である。戦後の平和憲法下ではありえなかった国策が次々と断行されている現実の憂鬱である。日本も沖縄も二度と戦争をしない国を目指してきたはずだが、いつのまにか、いつでも戦争の出来る国へ一直線である。戦後の平和と民主主義はほとんど雲散霧消、換骨脱退状態である。日本が忠誠をつくす米国は戦後も戦争の歴史を繰り返している。このまま、米国追従策を取れば、日本は確実に戦争と直面せざるを得ない。そうなれば、もう遅い。今から日本の戦犯リストを準備しておくべきである。この日本の対米従属と無関係ではないが、普天間基地の工事中断という決意も、普天間基地の5年以内の閉鎖もまっかな嘘だったことも判明した。中谷元防衛長官が飛行機の飛ばない普天間基地に関して「幻想を与えることはいうべきでない」と言明したのだ。これまで、前の仲井真弘多知事も、安倍総理も、菅官房長官も、沖縄の基地負担軽減のために普天間の5年以内の閉鎖を繰り返し述べてきたが、ここにきて白紙撤回である。これまで米国が同意していないことを日本は未確認のまま、オウム返しの繰り返してきただけである。政府は沖縄にも日本にも嘘をついてきたのである。フザケタ話である。こした政府のやり方に絶望し、無気力になるのは当然ではないか。政治に期待も夢も持てないからだ。沖縄の地元紙は政府の二重の不誠実と社説で書いていたが、まさにそのとおりである。」(岡留安則の「東京-沖縄-アジア」幻視行日記 2015.04.28)

「外務省は27日、米紙ニューヨーク・タイムズが20日付の社説で安倍政権を「歴史を粉飾しようとすることで、問題を複雑化させてきた」などと論評したことに対し、川村泰久・外務報道官が反論を投稿したと明らかにした(朝日必要なのは反論じゃない。「川村氏は投稿で『安倍政権には「歴史を粉飾」または「過去に対する批判を否定」する意図は全くない』『歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる旨を繰り返し表明している』と説明した」●●の意図は全くない、などの粗末な詭弁は、実質で判断する海外記者には通用しない。安倍晋三首相は27日午前(日本時間同日夜)、ハーバード大学ケネディスクールを訪れ、学生を前にスピーチした後、質疑に応じた(時事)首相の返答は、いつも日本でやっている「論点すり替え」と「はぐらかし」だが、ハーバード学生の感想を知りたい。4月28日は対日講和条約が発効した日。敗戦国の日本が完全に主権を回復し、連合国による占領状態から独立を果たした。一方でこの日を境に沖縄、奄美を含む南西諸島が日本から切り離され、米施政権下に置かれ異民族支配が始まった(琉球新報)「その後に繰り返された住民に対する弾圧、人権蹂躙、基地被害の源流となるこの日を沖縄では『屈辱の日』と呼んできた」特定の日付を、著しく権利が侵害された「屈辱の日」として記憶する例は、歴史上少なくない。パレスチナのアラブ人が「イスラエル建国」によって故郷を追放された日(ナクバ=大災厄、5月15日)、中国(中華民国)が日本の「二十一箇条要求」を突きつけられた日と受諾を強いられた日(国恥の日、5月7日と5月9日)などもその例。日本国内の沖縄に、パレスチナ問題や「対中二十一箇条要求」と同質の権利侵害問題があり、いまだ解決していないという事実は重い。」(山崎 雅弘Twitter 2015年4月28日
サツキ

【国民の「知る権利」とメディアの「報道の自由」】
思い出すのは、ジャーナリズム史に残る、
佐藤栄作元首相の退陣会見です。佐藤元首相は開口一番「テレビカメラはどこかね。どこにNHKがいる」と言い、「新聞記者の諸君とは話をしないことにしてるんだ。僕は偏向的な新聞が大嫌いなんだ。だから、直接、国民に話したい」と言って退席しました。会見場に再び戻ってきた佐藤元首相に、記者が正面から問いただします。「総理が『新聞はけしからん、テレビを優先しろ』というのは、我々は許すことはできません」。そして、記者たちは「出よう、出よう」と言って席を立ったのです。こうして元首相は記者が1人もいない会見場でカメラに向かって退陣の弁を述べることになりました。1972年のことでした。重要なのは、記者たちがテレビ、新聞、通信社の別なく全員、席を立ったことです。いま、同じ状況になったとしたら、記者たちはそろって抗議の意思を示すでしょうか。国民の「知る権利」に奉仕するという共通基盤がメディア内部から崩れているように感じます。

政権や与党の、意に沿わない報道は排除するという姿勢がこのところエスカレートしています。総選挙前に、在京テレビ局に「公平中立な報道」を求める文書を出す。アベノミクスについての街頭録画VTRが偏っていると、首相みずからが騒ぎ出す。さらに、自民党が「報道ステーション」など個別の番組内容について局幹部を呼びつけて事情聴取する――。そこにあるのは、批判や異論など耳障りなものは聞きたくないという狭量で幼稚な態度です。43年前の佐藤元首相のように、テレビを「持論を伝えるための道具」としか考えていないのではないでしょうか。かつて特派員として崩壊の過程を取材した旧ソ連では、ソビエト共産党が気に入らない放送が流れると、関係者を呼びつけて容赦なく処分していました。独裁的な権力ほどメディアに介入したがるのは、時代や体制を問わず共通しています。政府にとってメリットのある「政府益」と、市民の求める「公共益」は必ずしも一致しない。政府は往々にしてウソをつきます。だからこそ、権力を監視する番犬「ウォッチドッグ」としての役割が重要なのです。しかし、いまや、愛玩犬のようなメディアや記者が目につきます。メディアと権力の緊張関係はすっかり変質してしまいました。伝えるべきことを伝えず、政治の介入に毅然たる姿勢を示せないメディアへの不信も広がっています。ただ、みなさんは、日本のメディアがかつてのように「大本営発表」の垂れ流しに戻ることを望んでいるのでしょうか。(
金平茂紀 朝日新聞 2015年4月28日
【天皇の発言と臣民根性について】
天皇の発言が話題となっています(引用者注:こちらの拙記事もご参照ください)ので、この点についてもう少しお話しさせてください。私は、本来人間は平等だという常識的な考えもっていますから、天皇という貴種が存在するなどとは思いもよりません。天皇を特別な存在とし、血筋故に貴いとか、文化的伝統を受け継いだ尊敬すべき人格だとかという虚構を一切認めません。(略)天皇の存在を可能な限り希薄なものとして扱うこと、最終的にはフェイドアウトに至らしめること、それが国民主権原理の憲法に最も整合的な正しい理解だと私は思っています。「象徴天皇は、存在しても特に害はないのではないか」というご意見もあろうかと思います。しかし、私は違う意見です。今なお、象徴天皇は危険な存在だと思うのです。その危険は、国民の天皇への親近感があればあるほど、増せば増すほどなのです。国民に慕われる天皇であればこそ、為政者にとって利用価値は高まろうというものです。

先ほど、
高屋窓秋という俳人のご紹介の中で、嫌いなものは「奴隷制」というお話しがありました。奴隷制とは、人を肉体的に隷属させるだけでなく、精神的な独立を奪い、その人の人格的主体性まで抹殺してしまいます。奴隷根性という嫌な言葉があります。奴隷が、奴隷主に精神的に服従してしまった状態を指します。客観的には人権を蹂躙され過酷な収奪をされているにかかわらず、ほんの少しのご主人の思いやりや温情に感動するのです。「なんとご慈悲深いご主人様」というわけです。奴隷同士が、お互いに、「自分のご主人様の方が立派」と張り合ったりもすることになります。旧憲法下の、天皇と臣民は、よく似た関係にありました。天皇は、臣民を忠良なる赤子として憐れみ、臣民は慈悲深い天皇をいただく幸せを教え込まれたのです。これを「臣民根性」と言いましょう。明治維新以来、70年余にわたって刷り込まれた臣民根性は、主権者となったはずの日本国民からまだ抜けきっていないと判断せざるを得ません。天皇制とは、日本国民を個人として自立させない枷として作用してきました。臣民根性の完全な払拭なくして、日本国民は主権者意識を獲得できない。天皇制の呪縛を断ち切ってはじめて、個人の主体性を回復できる、私はそう考えています。(澤藤統一郎の憲法日記 2015年4月26日
 
【鈴木耕氏と『マガジン9』について】

引用者注:上記の想田和弘さんのツイートによれば「保坂展人氏がダブルスコアで自民・公明推しの候補に圧勝・再選」した模様です。それを昨日、鈴木耕さんは「現職の区長が接戦を演じている」とツイートしています。選挙前の世論調査で「接戦」と報じられている選挙戦で「ダブルスコア」で決着することはまずありえません。左の事態が示していることは鈴木耕さんはウソを言ってまで保坂展人氏を応援したということです。選挙戦で候補者を褒めちぎることは許容されますがウソを言ってはいけません。本人はもちろん、候補者の信用を貶めることにもなります。選挙運動そのものについても不信を増幅させる効果しか持ちません。私は鈴木耕氏を批判する記事を書いたことがありますが、鈴木氏の思想は安物の似非リベラリストの思想というほかありません。こういう人がウェブ紙の『マガジン9』の編集委員なのですからその『マガジン9』の質も当然疑われることにもなります(私はとうに『マガジン9』は見離していますが)。
【NHK ある退任理事の「若い世代」に託す言葉】

・「公共放送NHKは、戦後初期の理想の時代が生んだ素晴らしい存在、残すべき価値のある公共財だと思っています」…今回、わずか一期でNHK理事を退任することになった元ディレクターの退任挨拶である。

こう書き出した後に、彼は放送法の精神に基づき制定された「放送ガイドライン」の条文を引く。 「報道機関として不偏不党の立場を守り、番組編集の自由を確保し、何人からも干渉されない。ニュースや番組が、外からの干渉や働きかけによって左右されてはならない。NHKは放送の自主・自律を堅持する。全役職員は、放送の自主・自律の堅持が信頼される公共放送の生命線であるとの認識に基づき…」 放送ガイドラインを引用した上で彼はこう続ける。

「戦前の日本放送協会は、体制べったりで、政府が右といっても左、という勇気を持たなかった。…人々に真実を伝えず、悲惨な戦争へ突入するお先棒を担いだわけです。それが、どれだけ人々に悲惨な結果を招いたことでしょう」「その深い反省の思いから、そして放送のもつ影響力をいい方向に使い、国民に民主主義を広めようと、公共放送が構想されたわけです。 そして、健全な民主主義発展という使命達成には、自主自律、『不偏不党』の立場が必要不可欠だとされたのは当然のことです」

「繰り返しになりますが、公共放送の第一の役割は、あらゆる権力から自立して、『正確で公平公正な情報』、つまり〈真実〉を伝えることです。『健全な民主主義』は、社会の構成員が等しく正しい情報、『真実』を共有することが土台になければ、決して成立しないからです」 「公共放送の第二の役割として書かれているのは、『豊かで良質な番組を幅広く提供』することです。『良質』と並んで『豊かな』と書かれていることの意味は、豪華・贅沢な、という意味ではなく、『多様性に富んだ』という意味だと考えられます」

「…世界には独自の価値観を持った多様な人々が生きていることや、社会にも多様な価値観が存在することを示すこともまた、公共の大切な使命なのです。… 戦後70年の節目の今年、私たちはもう一度、この公共放送の原点ともいうべき使命を再確認し、肝に命じるべきです」「歴史の教訓にしっかりと学ぶべきです」とこう書いて、彼は自ら人事担当として採用した若い世代に希望を託す。「彼らが現場にいる限り、公共放送の理念は決して揺らぐことはありません。彼らは、たとえ大きな力が真実を曲げようとしても、決して屈しない勇気と志を持っていると私は信じています」… 書き写していてぼくは涙が出そうになった。ここに書かれていることはごく当たり前のことで、本来ならわざわざいうまでもないことだ。それを敢えて退任の挨拶で言わざるを得なかった彼の静かな怒りがふつふつと伝わってくるのである。

実は、この(元)理事はよく知っている男である。彼の硬骨が疎まれて、わずか一期で退任を迫られることになったのだろうとぼくは“邪推”する。だが、彼の退任挨拶は、現場では幹部の指示により「周知せよ」との指示とともに全員に回覧された。ぼくはそのことに一抹の希望を託したいのである。政治家が何を言おうと、トップがどうあれ、俺たちの現場はそう簡単には負けない。潰されはしない。その「志」だけは信じてほしいと思うのである。「肝に銘じるべき」という言葉がひとしお身にしみる夜である。(
toriiyoshiki(宿酔い)Twitter 2015-04-21
【沖縄・辺野古問題】

・米国議員などに手渡した翁長氏の「書簡」(略)の全文が琉球新報(4月18日付)に掲載されました。たいへん重大な問題を含んでいます。(略)それは沖縄県が普天間基地の「県外移設」を求めていると言い切り、それへの「理解と協力」を求めていることです。いったいいつから普天間基地の「県外移設」が沖縄県の考えになったのでしょうか。翁長氏はこれまで再三にわたり、41全市町村長連名の「建白書」(2013年1月28日)が沖縄の民意だと言ってきました。「建白書」こそ「オール沖縄」の旗印のはずです。その「建白書」は、普天間基地について何と言っているでしょうか。「米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること」これが「建白書」です。(略)沖縄タイムスの県民世論調査(21日付)(略)沖縄県民は「県外移設」と「無条件閉鎖・撤去」を区別したうえで、ダブルスコアに近い差で「無条件閉鎖・撤去」を選択しているのです。翁長氏が対米「書簡」で「県外移設」が沖縄県の意思であるかのように言うのは、「建白書」に反するだけでなく、県民多数の意思にも背くものです。さらにそれは、翁長氏自身の選挙公約にも反します。(略)翁長氏の「建白書」「選挙公約」違反は、けっして許されるものではありません。

それは辺野古新基地建設を阻止するこれからのたたかいにも重大な影響を及ぼします。同時に指摘しなければならないのは、こうした翁長氏の重大な誤りに対し、それを指摘する県政与党の議員・政党会派が皆無だということです。とりわけ問題なのは、日本共産党です。共産党は昨年の総選挙政策(11月26日発表)でも「普天間基地の無条件撤去を求めます」と明記したように、「無条件撤去」が党是です。本土へ基地を移す「県外移設」論の意味を熟知したうえで、それには絶対反対のはずです。「建白書」は「県外移設」ではなく「県内移設断念」だから共産党も賛成・賛美することができるのです。その重大なポイントである、「県外移設」を勝手に対米的に公言した翁長氏の暴走、独断専行に対し、共産党はなぜ一言も異議申し立てをしないのでしょうか。「建白書」や「選挙公約」に反する翁長氏の言動を、なぜ正そうとしないのでしょうか。翁長氏自身はもちろん、翁長氏を無批判に賛美する共産党など翁長県政与党の姿勢、責任もきびしく問われなければなりません。(
アリの一言(「私の沖縄日記」改め) 2015年04月25日
【TPP問題 ――自由貿易主義と保護主義の間】

・自由貿易主義者と保護主義者の間には、根本的な違いがあります。自由貿易主義者には、イデオローグがいます。自由貿易主義の思想の歴史を見てみると、彼らは極めて単純化された公理系を持った人々で、自分たちが持っているシステムは永遠に良いもので、理想的なシステムであると考えています。極めて単純ないくつかの法則から、彼らはその結論を導き出すのです。保護主義者は、諸要因が複雑に絡み合っており、社会は多様であって歴史上の時代も多様である、という形で思考する人々です。彼らは常に、歴史上異なる局面が相次いで継起するという考え方をします。保護主義者にとって、永遠に良いシステムは存在しません。(略)

我々は歴史の中で生きるのであり、歴史は続きます。私は
リストの本のフランス語版に序文を書きましたが、その中で私が到達した結論は、いつの日かわれわれは、唯一最適な態度とは、自由貿易から保護主義へ、保護主義から自由貿易へと際限なく移行を繰り返すのが適切であるとする態度だ、と気づくだろうというものでした。経済に活力を与えるために国を開き、次いで活力を与えるために国を閉ざさなければならない、そうした時期があるのだと。自分はケインズ以後のものであると信じている経済学者が、金融緩和的な通貨管理を主張し、より、ケインズ以前的なのである。早くも1933年に、ケインズは、情勢によっては自由貿易が誤りとなり得ることを認めた論文を発表している。彼は、結果的には、ヒトラー国家の投資政策の理論化をやらざるを得なかったのだ。

ヒトラー国家は、自由民主主義諸国に先立って経済学の正統教義の支配から抜け出し、『一般理論』の刊行時にはすでに350万の失業者を抱えたドイツを、失業者120万にまで回復させていた。いずれそのうち、ケインズ以前の自由貿易主義経済学者たちの、ナチズムの興隆に対する貢献の歴史を書かなくてはならないだろう。彼ら(=自由貿易主義経済学者たち)がいなかったなら、ドイツは、ヒトラーを待たずとも失業問題を解決していたはずなのだ。(
エマニュエル・トッド街の弁護士日記:2015年4月25日」より)
【メディア批判】

・5か月振りに日中首脳会談が行われた事が大きく報じられ、日中関係の改善がみられたごとく報道されている。とんでもないウソだ。きょう
4月23日の産経新聞が正直に、次のようなハプニングを紹介している。

「・・・バンドン会議60周年記念首脳会議では、それ(日中首脳の溝の深さ)を象徴するこんな場面があった。『プライムミニスター、シンゾー・アベ』場内に安倍首相の名前がアナウンスされ、演説が始まる直前だった。それまで各国首脳の演説に耳を傾けていた習主席が突然席を立って会場を後にしてしまったのだ・・・」

こんなことが起きていたのだ。国連総会の首脳演説を想起するまでもなく、およそ首脳が国際会議で演説を行う直前に席を立つことは、外交的にこれ以上ない非礼なことだ。いやあからさまな拒否のメッセージだ。それを習近平主席は各国の代表の前で行ったのだ。しかも、このような重要な出来事を日本のメディアは皆知っているはずなのに、この産経新聞のエピソード記事のほかに、一切報じられていない。これですべてが証明された。安倍外交とそれを報じる日本のメディアは、すべてでたらめだということだ。これでは日本国民は何もわからないはずだ。日本はいま、国民が何も知らされないまま、大変なことになっている(
天木直人のブログ 2015年04月23日
【ハンガリーと日本の言論の自由への圧力】

・ハンガリーと日本の最近の政治を見ていると、歴史も社会事情もまったく異なる二つの国の様相が酷似していることに驚く。政権政党が議席の3分の2を占め、政権批判を極力排除し、歴代政府が逡巡してきた領域へ突進するという独裁的手法がそれだ。過去の過ちから学ぶことなく、強い思いこみが主導する危うい政治だ。人は、政治家は、そして社会は、どうして何度も同じ過ちを繰り返すのだろうか。(略)

天皇制国家や社会主義国家が崩壊した日本やハンガリーのように、大きな社会変動は政治経済制度の根本的な転換を帰結するが、必ずしも人々の価値観の転換を伴うものではない。旧体制の支配が崩壊すれば、政治制度の転換は比較的容易に行われる。しかし、社会を構成する人々の意識や慣習、あるいは価値観が即座に変わることはない。なぜなら、人々の意識や価値観は旧体制の社会生活の中で長い時間をかけて形成されたものだからだ。古い意識と価値観は新しい社会体制下でも生き続ける。(略)戦後日本の教育内容は根本的に変わったが、旧体制の人々が公職復帰するにつれて、またぞろ古い価値観が頭を持ち上げてきた。平和教育や民主主義教育は次第に廃れ、戦前の過ちから学ぶ教育は限りなく劣化してきた。戦前の苦い体験を糧にした政治家が退場した日本では、戦争を知らない政治家をたしなめる重鎮がいなくなった。それを良いことに、戦後生まれの政治家たちが、戦前の価値観の復活に躍起になっている。(略)

日本でもハンガリーでも、メディアは政府の仕返しを恐れて、政府批判を控える傾向が顕著だ。「アカの言っていることは正しいが、貧乏人がそれに染まると就職できなくなる。アカは金持ちがやればよい」というのが、母親の口癖だった。今でも、お上に盾突く「アカ」は社会の敵だと考えている時代遅れの人々も多い。(略)戦前教育の名残で、我々の中学生時代まで、教師は簡単に生徒に手を出した。他方で、中国戦線にいた図工の教師は、「戦争は絶対いけない」と繰り返した。中国人を池の端に座らせ、日本刀で首の皮一枚を残す首切りを競った。帰国から10数年経っても、自分が手を下した悪夢に奇声をあげて、夜中に家人を起こしてしまうと生徒の前で告白したのを忘れることができない。我々団塊世代は、こういう戦後社会の中で育ってきた。(
リベラル21 盛田常夫 2015.04.23
承前:古賀茂明さんの「報ステ発言」を評価する人たちにはおおよそ共通しているひとつの特徴があります。それは「言論の自由」という民主主義の問題を論じながら、もうひとつの民主主義の問題、すなわち天皇制、もしくは象徴天皇制に関わる問題については一様に民主主義の問題としてとらえる力が不足しているという特徴です。おのれを「リベラリスト」と自称するのであれば、この民主主義の要の要の問題としての「天皇制」の問題を素通りすることはできないはずですが、表面的に見える現天皇をいたずらに「リベラルな天皇」「平和を祈る天皇」としてとらえるだけで、天皇制(象徴天皇制)というしくみそのものが持っている民主主義にとっての危険な役割についてはおよそ問題視しえない、潜在する危険性についてはきわめて鈍感であるという共通の特徴。
 
昨日の記事で見ておいた古賀茂明さんの「報ステ発言」評価論者の現天皇像、あるいは現天皇評価を以下さらにアトランダムに見ておきます。そして、私の同評価に対する若干のコメントを私流の解説として付加しておきます。
 
想田和弘さんの「天皇陛下の新年の感想全文」を読んでの感想
天皇の言葉に儀礼的な意味以外のものを感じ始めたのはここ数年のこと。つまり天皇さえもが儀礼的な役割から一歩踏み出さざるを得ないという、異常事態が続いているということだと思う。天皇の「放射能汚染により、かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多い」という言葉にドキリとする人も多いのでは。なぜなら放射能汚染という言葉を使うのはもはや「サヨク」的であり、為政者は「福島を応援する」などという言葉でお茶を濁すのが通例だから。天皇の「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び」という言葉も新鮮に聞こえる。なぜなら日本では「悲惨な戦争」などという主語のない言葉であの戦争を語ることが常態化しているからだ。しかし「満州事変に始まる」とするならば、その主語は謀略で戦争を始めた日本である。それ以外にはない。僕は天皇の新年の「言葉」の内容には同意するが、天皇の言葉だから日本国民は耳を傾けろ、言うことを聞け、などと申し上げるつもりは毛頭ない。なぜなら言葉の内容がなんであれ、そう促すことは極めて危険だからである。(想田和弘Twitter 2015年1月1日
 
私のコメント
ここで想田さんは天皇の言葉に「儀礼的な役割から一歩踏み出」したものを見て評価しています。しかし、想田さんは天皇に何を期待しようとするのか。「特権」的なものになにかを期待することは想田さんも否定するファシズム(全体主義)になにかを期待することにほかなりません。それは民主主義の否定につながります。そういうことどもに想田さんは「リベラリスト」としてどれほど自覚的なのか?
 
内田樹さんの「天皇陛下の新年の感想」評価
「天皇陛下の新年のおことば」。素晴らしいですね。簡潔で、ストレートで、なんの修辞もごまかしもない。今の日本に私利私欲とも党利党略ともかかわりなく、「民の安寧」だけを専一的に考えている「公人」が他にいるのだろうかと考え込んでしまいます(内田樹Twitter 2015年1月1日
 
私のコメント
内田さんのいう「『天皇陛下の新年のおことば』。素晴らしいですね。簡潔で、ストレートで、なんの修辞もごまかしもない。今の日本に私利私欲とも党利党略ともかかわりなく、『民の安寧』だけを専一的に考えている『公人』が他にいるのだろうかと考え込んでしまいます」というのは、私は「素晴らしい」とは思いませんが、「簡潔で、ストレートで、なんの修辞もごまかしもない」という点はおそらくそのとおりだろうと思います。内田さんの人間観察眼に私は異議はありません。しかし、私が言っているのは、そうした人間観察の視野を超えるもっと根柢的な問題、思想の問題というべきものがあるだろう、ということです。
 
池田香代子さんの内田樹さんの天皇評価を評価するツイッター発言
「明仁天皇と彼の家族たちは首相よりずっとよい範例を示している。…安倍氏を批判する意図で、皇太子は未来の世代に「正しく歴史を伝える」ことの必要性について言及」→New York Timesの記事から。安倍訪米を前に (内田樹の研究室) (池田香代子Twitter 2015年4月21日
 
江川紹子さんの「天皇評価」ツイッターと池田香代子さんと内田樹さんのリツイート
各紙が見出しで引用した天皇陛下のお言葉は…「歴史を学ぶことが大切」(朝日)「歴史学ぶことが大切」(日経)「歴史学ぶこと 極めて大切」(毎日)「戦争の歴史学び考えること大切」(東京)「日本のあり方考える機会」(読売)「日本のあり方考えていくこと極めて大切」(産経)(江川紹子Twitter 2015年1月1日
 
私のコメント
江川紹子さんの場合は天皇と天皇の言葉を明らかに自分の言葉として「陛下」「お言葉」(最高敬語。皇族を市民よりも上位にランクする用語法)と記しています。また、池田香代子さんも内田樹さんも江川さんの「お言葉」を無批判にそのままリツイートしています。すなわち、こちらもおのれの言葉として「天皇陛下」「お言葉」と述べていることになります。江川さんは言うに及ばず池田さんも内田さんもリベラリストとしては失格と言うべきではないか。私はこのおふたりの哲学者とドイツ文学翻訳家に熟れることのないそれぞれの「思想」のいたらなさと未熟さを感じます。
 
金原徹雄さん(弁護士)の「天皇評価」
最後に今上陛下の「ご感想」について若干書いておきたいことがあります。1つは、多くの人が注目したであろう「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。」という部分についてです。この発言の射程の中に「昭和天皇の戦争責任」がどのように位置付けられるのか、それとも射程外なのかというデリケートな問題をはらみつつ、あえてこのような「ご感想」を年頭に公表されたということは、重く受け止めるべきだと思います。(略)保阪正康さんの問題意識を今上陛下も共有されていることは明らかだと思います。(弁護士・金原徹雄のブログ 2015年1月1日
 
私のコメント
天皇に「今上陛下」「ご感想」という最高敬語を用いていることのリベラリストとしての「失格性」は上記で指摘しているとおりです。「満州事変に始まるこの戦争の歴史」云々の天皇の感想が「保阪正康さんの問題意識」につながるものと解釈するのであれば、天皇がパラオ訪問出発時に「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ人となった人たちが深く偲ばれます」と羽田空港で述べたスピーチの解釈はどういうものになるでしょう? あるブログの主宰者は天皇のこの発言を「耳を疑う発言です。南島で戦死した兵士は、「祖国を守る」ために戦地へ行ったのか。そうではありません。日本帝国主義の侵略戦争のために、その戦線を守るために派兵され、玉砕したのです。侵略戦争を「祖国防衛戦争」であったかのようにいい、戦争責任を棚上げすることは許されません」と解釈しています。
 
徳岡宏一朗さん(弁護士)の「天皇評価」
いつも思うのですが、お二人の表情が年々美しくなっていく。明仁天皇と美智子皇后は黙々と平和のための活動をされていますが、ここまでお二人が頑張らないといけないのは、今の日本の元首が安倍首相だからじゃないでしょうか(天皇が元首と言うのは少数説。元首は国の象徴であると同時に、政治的権能がないといけないから)。(Everyone says I love you ! 2015年04月08日
 
私のコメント
「お二人の表情が年々美しくなっていく」というのはわからない感想ではありませんが、先の戦争におけるパラオ住民の惨禍について自らの国の戦争責任に無自覚なままに「まるで他人事のよう」に言う天皇のパラオの晩さん会における「お言葉」に対する批判の視線はつゆほどもありません。この人も戦争責任について天皇と同様無自覚というべきであり、これが私たちの国のいまの一個のリベラル・左派のふるまいのありようなのです。
 
小澤俊夫さん(ドイツ文学研究者、筑波大学名誉教授)の「天皇評価」
天皇・皇后ご夫妻がパラオ群島に慰霊の旅をなされた。あの大戦中に少年時代を過ごされた天皇陛下が長年にわたって実行してこられた、慰霊の旅の一環である。新聞報道によれば、天皇陛下は出発に先立ち、皇太子、秋篠宮、安倍首相らを前に、「太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」と述べられたということだ。この言葉は明らかに「そして、この多くの犠牲者のおかげで私たちが獲得した日本国憲法をきちっと守っていくことが大切なのです」と続くはずの言葉である。(リベラル21 2015.04.13
 
私のコメント
小澤さんは天皇のスピーチのうち「太平洋に浮かぶ美しい島々で・・・」という言葉を「日本国憲法をきちっと守っていく」決意の言葉として受けとめるのですが、上記の金原徹雄さんの「天皇評価」に対して述べた「私のコメント」をここでも援用しておきます。上記で引用したあるブログ主宰者のように天皇のスピーチのはじめの部分の一節に着目すれば小澤さんのような極端に主観的な天皇のスピーチ解釈は出てこようもないもののように私には思われます。小澤さんのような天皇のスピーチ解釈は「リベラルの人」の天皇のスピーチ解釈とはとても思えません。
 
日本ジャーナリスト会議の「天皇評価」
政権トップ・官庁職員の感覚たるや、国民に仕える公僕としての自覚もなし、その「堕落」ぶりには目を覆う。16日、両陛下は、パラオの戦没者慰霊に引き続き、八王子市の「高尾みころも霊堂」に祀られる、約25万の労働災害による死者を慰霊された。生者のみならず、死者の命にも想いを寄せる両陛下の心情を、とりわけ皇室を尊崇してやまない安倍首相、とくと汲みあげよ。自衛隊員の命を粗末に扱う「戦争法案」に躍起となるなかれ。(Daily JCJ【今週の風考計】2015年04月19日
 
私のコメント
JCJ(日本ジャーナリスト会議)の記者は「国民に仕える公僕」の「堕落」ぶりを痛罵するその口の端で天皇の発言については最上級に美化して描いて疑問を持たない。その能天気は現在の左派・リベラルの「右傾化」の能天気なさまを象徴している。そして、本人の自覚なしにこの国の「右傾化」の共犯者になりおおせている(そうしてこの国の「右傾化」を批判しているのは茶番だ)。
 
以上、アトランダムに古賀茂明さんの「報ステ発言」評価論者の現天皇像、あるいは現天皇評価を見てきましたが、古賀茂明さんの「報ステ発言」を評価する人たちの少なくない人たちはまた現天皇を「リベラルな天皇」「平和を祈る天皇」などといたずらに評価する人たちでもあることがある程度は明らかになったものと思います。この相似形はなにを意味しているのでしょう? もちろん、ひとつはこの人たちの「思想」の軽薄性を示していますが、より重要なこととして私たちの社会はいま、「リベラル」も「左翼」もなく有無を言わせぬ激しい勢いで「右傾化」したものの見方に一方的に浸食されているという事実を物語っているように私には見えます。いま、私たちの思想の領域、思想の土壌がさまさまな形で「右傾化」という波に浸食され続けているということです。非常に危険な兆候です。まさにファシズムの前夜である予感がします(もちろん、いまはファシズムの渦中であるという意見もあります)。ファシズムに反対する者がファシズムの形成に結果として加担するということはこの日本においても私たちが70年前を境にする戦前に経験してきたことです。その経験を私たちはいま繰り返しているように私には思えるのです。いま、私たちの目の前に見えるものはデジャヴ(既視感)のいまわしい光景です。
 
ここまで私たちの社会が「右傾化」してきた象徴として最後に小池晃共産党副委員長のツイッター発言をあげておきます。
 
「今日の東日本大震災追悼式。遺族代表、特にお子様を喪った岩手・陸前高田の淺沼ミキ子さんのお話に涙が止まらず。天皇のお話も原発事故にも触れ真心のこもったもの。伊吹文明衆議院議長が脱原発という言葉を使ったことも意外。それらに比べ、安倍首相の式辞は、原発に触れず復興は進んでいると。失望。」(小池晃Twitter 2014年3月11日
 
「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」 http://t.asahi.com/gwr3 小池晃Twitter 2015年1月1日
 
以下は、上記の小池晃共産党副委員長のツイッター発言に対する私のコメントです。
 
私は「2015年の戦端を開く言葉として ――「天皇所感」を読む」(2015年1月2日付)で「天皇陛下のお言葉」という言い方を無批判、無造作にして恥じることのない私たちの国の進歩的文化人、あるいは知識人と呼ばれる人たちのいまの「」のありようについて私の強い違和と批判を述べておきましたが、ここにも「天皇のお言葉」論者はいました。小池晃共産党副委員長は天皇の言葉に「天皇のお話」という最高敬語(天皇に対する敬語)表現を用いています。また、「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切」としてあげている例証は「天皇陛下、新年にあたっての感想全文」というやはり天皇の「お言葉」。私は小池晃という参院議員、というよりも日本共産党副委員長の共産党員、あるいは民主主義者としての見識を疑わざるをえません。いま、私の脳裏にあるのは共産党もここまで堕ちたか、という思いです。「政治改革」以前にまず「改革」されなければならないのは共産党という組織そのものではないか、というのはいま私の思うところです。(Blog「みずき」 2015.01.10
 
この小池晃さんのツイッター発言に前後してとりわけこの4、5年の間(いわゆる「右傾化」現象が始まったのはさらに早くおよそ20年ほど前からというのが私の見るところです()())に多くの共産党員が右へ右へと靡いていった、というのが私の観測です。なんとも無惨なさまです。
先月末来の古賀茂明さんの「報ステ発言」騒動は、本来次元を異にするはずの2つの問題が「報ステ発言」問題としてひとくくりにされて論じられることが多いため、本来対峙すべき要素のない者同士が対峙したりという非常にわかりにくい展開を示しています。本来次元を異にするはずの2つの問題とは、ひとつは権力のメディアへの言論の圧力の問題とそれに対峙するメディアの側の言論の自由はどうあるべきかという問題です。もうひとつは権力を批判する際の言論の質の問題というべきものです。
 
報ステの番組における古賀さんの権力批判の言論の質はその批判の重大性(結果として「電波ジャック」と評される事態)のわりには番組の中で口頭で指摘された根拠は「うわさ」程度のものでしかなく、中立的な視聴者に「古賀さんの指摘はもっともだ」と納得させるには十分なものとはいえませんでした。以上、私がここで問題にしているのは古賀さんの番組中の「言論の質」の問題です。それを根拠の薄弱性は不問に附したまま「政府の圧力批判は当然だ」として古賀氏を一方的に擁護する論がある層で強くありました。これでは事実として古賀さんの主張がそのとおりであれば断固として古賀さんの側に立たなければならないと考えている人たちの層を分断させる役割しか果たしません。これらの人たちはなによりも「事実」を重視しようとする人たちだからです。これらの人たちにやみくもに「古賀さんが正しい」と主張しても通じるはずがありません。これが本来次元を異にするはずの2つの問題をひとくくりにしてここで問われるべき問題を複雑にしているという問題です。
 
結果として権力のメディアへの言論の圧力の問題よりも、古賀氏の論、もしくは古賀氏の「電波ジャック」の態度は正しいかどうかという相対として瑣末な問題にメディアでの議論の論点の多くはすり替わってしまいました。こうした状況を招いてしまった責任はどこにあるのか、あるいは誰にあるのか。私として思い当たるのは以下に述べる人たちの論のありようです。
 
内田樹さん(思想家、翻訳家)はつい先日、「政府の言論人への圧力」について次のような批判を述べていました。
 
言論への圧力は「反政府的な意見を言い続けてきた人間」には無効で、「自分に圧力がかかるはずはないとたかをくくってきた来た人間」において選択的に有効だというのは、ほんとうにその通りだと思います。政府が僕の言論を弾圧してくれば、それは「僕の言ってきたことが正しかった」ことを反論の余地なく証明してくれるだけです。圧力を受けて腰を抜かすのは「別に反政府的なことを自覚的に言った覚えはなく、みんながしてるから、『そういうこと』を言っても書いても平気だと思ってしていた」連中です。悪いけどいまの日本のメディアは「みんなが批判するときは一緒に批判し、みんなが批判するのを手控えたらすぐ止める」という人たちで埋め尽くされております。そういう人のことを「ジャーナリスト」と僕はもう呼びたくありません。このあといずれ安倍政権は崩壊すると僕は確信してますけれど、いま御用記事提灯記事を書いている諸君は、そのときには今度は「安倍政権の失政を徹底検証する」というような記事を書くのです。必ず書きます。(内田樹Twitter 2015年4月20日
 
その内田樹さんの批判は「批評」という性質の核心をついたもので、私は、「内田樹氏の論は一般論としては正論だと私も思います。では、内田氏の古賀茂明氏評価はどういうものか? 私には古賀氏は『反政府的な意見を言い続けてきた人間』には見えないのですが?」という注をつけた上で本ブログの「今日の言葉」欄に引用しておきました。
 
その古賀茂明さんの「報ステ発言」に関して想田和弘さん(映画監督、ジャーナリスト)は19日付けのツイッターで以下のような発言をしています。内田さんはその想田発言をリツイートしていますから、上記の内田発言は想田発言に呼応しての意見表明のように見えます。だから、私も、上記の内田発言について「では、内田氏の古賀茂明氏評価はどういうものか?」という注をつけました。

上記の想田さんの「セカンドレイプ」発言は、古賀さんの「報ステ発言」を完全に古賀さんに寄り添う形でなく少しでも批判する者は「セカンドレイプ」者とみなす。すなわち、古賀さん批判は決して許さないというご本人にはその気はなくとも非常に居丈高で傲慢な声明になっているというほかありません。それを「リツイート」している内田樹さんも同罪といわなければならないでしょう。

さすがに「セカンドレイプ」という発言はないものの、上記の想田さんの「声明」とほぼ同様のことを述べている人はいわゆる「左派・リベラル派」と呼ばれている人たちの中にも少なからずいます。その「左派・リベラル派」の弁護士のひとりの徳岡宏一朗さんは先日あった日本外国特派員協会での古賀さんの記者会見の後のフジテレビの女性レポーターと古賀さんとのやり取りの中で自身を「(政府と)戦う人」と規定し、自身の「報ステ発言」の不十分さといたらなさには思い到らない古賀発言を肯定する立場から以下のように紹介しています。これも古賀発言を「善」とする立場で、古賀さん批判は決して許さないとする想田さんの思想の位置とたいして変わらないところにいる立場だといわなければならないでしょう。
 
フジテレビ:先ほど会見の中でもおっしゃられていたように、圧力をかける側は圧力だと思っていない前提で、きっと呼んでいるだと思います。
古賀:いやいや。圧力をかける側は、相手がどう思っているのかを考えながら行動すべきだ、と私は言っているんですよね。あなたたちは一生懸命、政権側に立って、質問されているでしょう。それが僕には、全然理解できない。あなたは(政権と)戦う気はないんですか。
フジテレビ:それは時と場合によると思いますけど。
古賀:時と場合?
フジテレビ:はい。
古賀:じゃあ、戦わないって決めたら、そうやって戦う人を追い詰めるために質問するんですか? これ全部、(他のカメラも)撮ってますよ。あなたもね。Everyone says I love you ! 2015年04月17日
 
もうひとりの「左派・リベラル派」の例は2年前まで大学の現役教授だった人の発言です。この人も古賀発言を一方的に「善」とする立場から次のように発言します。「古賀発言」問題に関する思想的位置は想田和弘さんや内田樹さん、徳岡宏一朗さんと五十歩百歩というところです。すなわち、上記で述べた古賀茂明さんの「報ステ発言」の言論の質の問題点に思い到らない人たちだということです。
 
6日の毎日は古賀氏とテレ朝の言い分の双方を相当詳しく伝えている。これに対して、しんぶん赤旗は未だに記事としては扱っていない。同じ6日にコラム「きょうの潮流」で取り上げただけだが,そのスタンスはむしろ古賀氏に批判的なフレーズの方が勝っている。やや古賀よりのフレーズ「安倍政権に辛口の言葉」があるものの、「視聴者への配慮も欠き違和感を覚えたとの声も」と、第三者の「声」に名を借りて古賀氏にネガティブな視線を投げかけている。(略)今回の件も、いわば行儀の良さを過度に偏重する「しんぶん赤旗」の姿勢が表れた結果ではないか。そのような構えでは、表現や行動の幅も限られる。そしてこの「危機の夏」をどうにもできないと思う。結果責任を自覚し、戦略・戦術を組み立てなければならない。(ペガサス・ブログ版 2015-04-14
 
さて、上記の古賀茂明さんの「報ステ発言」の言論の質の問題点に思い到らない人たちに対して、そのことに思い到る人はどういうことを言っているか。ここではジャーナリストの田畑光永さんの「大きな思い上がりと小さな思い上がり」という論と写真家で作家の藤原新也さんの論をご紹介しておきます(藤原さんの論は再掲)。ここでははっきりと古賀さんの「言論の質」が問題にされています。
 
最近の出来事を簡単に整理すれば、3月27日のテレビ朝日「報道ステーション」でコメンテーターの元通産官僚・古賀茂明氏が番組降板に至った経緯を述べたのに合わせて、「菅(義偉)官房長官をはじめ官邸のみなさんにはものすごいバッシングを受けてきた」と発言したのが一件。(略)都合4件が最近の出来事である。私見ではこの4件の当事者の行動にはいずれも問題がある。順番に見ていこう。まずテレビ朝日での古賀氏の発言について。世上では古賀氏の出演終了についてご本人とキャスターとのやり取りも云々されているが、そんなものは見っともないだけのことでどうでもいい。問題は古賀氏の「官邸からバッシングを受けた」という発言である。これはいけない。古賀氏には思い上がりがあったのではないか。「自分が言えば、世間の人はそのまま信じてくれて、政府の圧力でテレビを降ろされた気の毒な人と思われる」という思いあがりである。しかし、政府当局者がそんなことを言われて、黙っているはずはない。菅官房長官が反論するのは当然である。だから古賀氏は官房長官を名指しで批判するなら、「いつ、どこで、どういうバッシングがあったのか」をきちんと言わなければならない。それなしの批判は誹謗中傷にすぎない。したがって非はまず古賀氏にある。では菅発言には問題はないか。「事実無根」というのは、古賀氏が具体的な事例を言わなかったのだから、本人が事実無根と思うならそのように発言することは彼の権利である。けれど次の「放送法という法律がある」以下の言葉は権力を笠に着た明らかな脅迫である。政府に電波を割り当てる権限があり、それがなければ放送局が成り立たないことを盾にとって、「オレに言いがかりをつけるなら免許を取り消すぞ」と言っているのと同じである。これは悪質である。権力を笠にだれでも自分に従わせようという安倍政権の思いあがりがそのまま出た発言である。古賀氏の幼稚な非とは比べものにならない。リベラル21 田畑光永 2015.04.21
 
テレビ業界に異分子粛清の嵐が吹き荒れているようである。その異分子とは現政権をつつがなく運営する上において都合の悪い知識人やコメンテーターのこと。(略)その消された象徴的存在がテレビ朝日の「報道ステーション」でコメンテーターをやっていた元経済産業省官僚の古賀茂明だが、その降板騒ぎのあった数日後に古賀と親しい Hに電話を入れた。彼は降板騒ぎのあった日から数日は古賀といっしょだったらしい。Hは電話の向こうで情けないと言っていた。彼が情けないと感じているのは江川紹子やニュースウイーク編集長の竹田圭吾や有田芳生などひごろ安倍政権と距離をとっている人間もこのたびの古賀の言動に異を唱えていることらしい。その異を唱える根拠はふたつある。古賀がテレビの生放送内でテレビ朝日の早河会長が菅義偉官房長官や官邸の意向に沿って自分が降ろされたと発言したことに確たる裏付けがなく、そういった軽率な行動はかえって敵に塩を送ることになる。私憤を公器をつかって晴らすべきではない。の二点である。確かにあそこまでカミングアウトするのであれば、アナウンサーの古館の横やりに途中で発言を控えるのではなく、生放送なのだからそのまま確たる証拠を提示するという覚悟と用意周到さが必要だが、それがなかったことは”弱かった”と言わざるを得ない。だがこの古賀の発言を”私憤”と一蹴して、せっかくの問題提起を葬り去る動きは同意できかねる。なぜなら私はあれは公憤に見えたからである。かりにひとりの表現者(コメンテーター)が公器の中で歯に衣着せぬ発言をし、それが現政権の怒りを買い(かつて安倍とメシを食った早河)のトップダウンで彼が降板させられたとするなら、それは表現の自由という自由主義社会の根幹を揺るがす出来事であり、かりにその矢面に彼が立ったことでそれを江川らが私憤と片付けることは自らの首を絞めることになるからである。ということはそれが私憤ではないと証明する意味においても古賀は自分の発言の根拠を示す必要があるということだ。(藤原新也「Shinya talk 」2015/04/04
 
長くなりましたので、古賀茂明さんの「報ステ発言」評価と天皇の「お言葉」評価の関連性については明日改めて書くことにします。
シャクナゲ2

【言論と報道の自由について】
・安倍首相は戦後70年談話で、先の大戦での「侵略」に一切言及しないつもりなのだろうか。首相がBS番組で、戦後50年の村山談話に含まれる「侵略」や「お詫び」といった文言を、今夏に発表する70年談話に盛り込むことについて、否定的な考えを示した。「同じことを言うなら、談話を出す必要がない」と語った。「(歴代内閣の)歴史認識を引き継ぐと言っている以上、もう一度書く必要はない」とも明言した。村山談話は、日本が「植民地支配と侵略」によってアジア諸国などに「多大の損害と苦痛」を与えたことに、「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明した。戦後60年の小泉談話も、こうした表現を踏襲している。安倍首相には、10年ごとの節目を迎える度に侵略などへの謝罪を繰り返すパターンを、そろそろ脱却したい気持ちがあるのだろう。その問題意識は理解できる。首相は70年談話について、先の大戦への反省を踏まえた日本の平和国家としての歩みや、今後の国際貢献などを強調する考えを示している。「未来志向」に力点を置くことに問題はなかろう。しかし、戦後日本が侵略の非を認めたところから出発した、という歴史認識を抜きにして、この70年を総括することはできまい。首相は一昨年4月、国会で「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と発言した。侵略の定義について国際法上、様々な議論があるのは事実だが、少なくとも1931年の満州事変以降の旧日本軍の行動が侵略だったことは否定できない。例えば、広辞苑は、侵略を「他国に侵入してその領土や財物を奪いとること」と定義し、多くの国民にも一定の共通理解がある。談話が「侵略」に言及しないことは、その事実を消したがっているとの誤解を招かないか。政治は、自己満足の産物であってはならない。首相は一昨年12月、靖国神社を参拝したことで、中韓両国の反発だけでなく、米国の「失望」を招いた。その後、日本外交の立て直しのため、多大なエネルギーを要したことを忘れてはなるまい。70年談話はもはや、首相ひとりのものではない。日本全体の立場を代表するものとして、国内外で受け止められている。首相は、談話内容について、多くの人の意見に謙虚に耳を傾け、大局的な見地から賢明な選択をすることが求められよう。(読売新聞社説 2015年04月22日

引用者注:上記の不可解な読売の社説に関連(?)して本日付けの「首相演説『深い反省』表明…『おわび』に触れず」というやはり読売の記事が出ました。また、こちらは関係はしないでしょうが、朝日にも下記ツイッターのような記事もあります。私には安倍首相は訪米の際の米国議会演説を睨んで読売とツルんでなにか一芝居打っているような気がします。でないと、読売の社説があまりにも不可解です。が、いまのところそれ以上の根拠はありません。今後、注意深く情報を追ってみる必要がありそうです。

・言論への圧力は「反政府的な意見を言い続けてきた人間」には無効で、「自分に圧力がかかるはずはないとたかをくくってきた来た人間」において選択的に有効だというのは、ほんとうにその通りだと思います。政府が僕の言論を弾圧してくれば、それは「僕の言ってきたことが正しかった」ことを反論の余地なく証明してくれるだけです。圧力を受けて腰を抜かすのは「別に反政府的なことを自覚的に言った覚えはなく、みんながしてるから、『そういうこと』を言っても書いても平気だと思ってしていた」連中です。悪いけどいまの日本のメディアは「みんなが批判するときは一緒に批判し、みんなが批判するのを手控えたらすぐ止める」という人たちで埋め尽くされております。そういう人のことを「ジャーナリスト」と僕はもう呼びたくありません。このあといずれ安倍政権は崩壊すると僕は確信してますけれど、いま御用記事提灯記事を書いている諸君は、そのときには今度は「安倍政権の失政を徹底検証する」というような記事を書くのです。必ず書きます。(内田樹Twitter 2015年4月20日

引用者注:内田樹氏の論は一般論としては正論だと私も思います。では、内田氏の古賀茂明氏評価はどういうものか? 私には古賀氏は「反政府的な意見を言い続けてきた人間」には見えないのですが?

弁護士ドットコムNEWSによると、≪首相官邸前で行われた「反原発デモ」の模様を、国会記者会館の屋上から撮影しようとしたことを拒否されたのは報道の自由の侵害だとして、インターネットメディアの「OurPlanet-TV」が国と国会記者会に損害賠償を求めた訴訟の控訴審で、東京高裁は4月14日、原告の請求を棄却した。≫おもしろい裁判だ。ネットメディアが、権力を監視しているはずのマスコミと国を相手に裁判を起こして、負けた。呆れる判決だけれど、これが日本の現実。予想どおり。≪高野伸裁判長は判決で「国会記者会館の屋上は、中継や撮影を行うことを用途として予定していない」と指摘。(略)≫だから、なに? 記者会に所属しているマスコミは使っているようだが。使 用を拒否した記者会ってなにものだ?(略)これじゃ、記者会に所属しているマスコミの特権ではないか。(略)なによりも、記者会と政治権力のこのもたれあいぶりは何だ。これを是認してしまう裁判所。司法記者クラブを抱えている裁判所がこういう判断をするのは、当たり前なんだろうけど。だから、国会記者会館の常任幹事会のコメントはこうなる。≪「国会記者会館の使用に関する控訴人の具体的な権利を否定し、国会記者会の判断を改めて正当と認めた穏当な判決だ。国会記者会館を占有管理している国会記者会として、屋上使用等については安全性と報道機関としての責任を果たせるかどうかの観点から引き続き対応していく」≫まるでお役所のコメントだ。これが権力監視がどうのこうのとふだん立派なことを言っているのと同じマスコミのコメントかと思うと、呆れるが、それと同時に、つくづくそういうことなんだね、と納得もしてしまう。権力監視は所詮、ごっこではないのか。一般の人々は、「○○新聞は信用できる」「△△新聞は信用できない」というような薄っぺらな評価を卒業して、1つ1つの記事を慎重に読もう。記者会が「ネットメディアもどうぞ」と言い出し、国が文句を言ってきても、「われわれの責任で対応する」と啖呵を切ったら、それが更生の証しとみていいだろう。いつの日のことやら、だが。(弁護士清水努のブログ 2015-04-15

【「冤罪」の問題について】
・夏祭りの炊き出しのカレーに猛毒のヒ素が混入し、4人の死者と60人以上の怪我人を出した
和歌山カレー事件で、既に死刑が確定している林真須美死刑囚の犯行を裏付ける唯一の物証となっていた科学鑑定の結果に今、重大な疑義が生じている。(略)林真須美氏が逮捕された当時、捜査機関は夏祭りの炊き出しカレーに猛毒のヒ素が混入し4人が亡くなるという、社会を震撼させるような大事件に直面しながら、容疑者を特定することができずにいた。そうした中、マスコミが、事件が発生した現場のすぐ隣に住む林真須美夫妻が怪しいという報道を始め、真須美氏に対するインタビューなどを報じ始めていた。確かに、林夫妻はそれまでに保険金詐欺を働いたことなどがあり、その行動に怪しい点があったのは事実だったが、カレー事件と夫妻を結びつける証拠は見つかっていなかった。そこで林家にあった、夫の健治氏がかつて使用していたシロアリ駆除用のヒ素と、紙コップのヒ素の起源の共通性を調べる鑑定を中井教授に依頼し、その結果をもってとりあえず真須美氏を逮捕した上で、自白を取り付けるというシナリオを描いた。それが9つのヒ素の「異同識別」の鑑定依頼だった。ところが、真須美氏が一貫して否認を貫いたため、検察はとりあえず逮捕容疑を裏付けるための口実でしかなかった中井鑑定を、公判の最後まで引っ張らなければならなくなってしまった。そして、マスコミや裁判所の科学鑑定結果に対する無知と無理解ゆえに、それがそのまま死刑判決につながってしまった。今、そのような疑いが濃厚になっているのだ。(略)マスコミもこの問題を大きく取り上げにくいのは、事件当時真須美氏を犯人扱いするひどい報道をしてしまった手前、今さらそれに疑義が生じているというようなことが報じ難いことは想像に難くない。しかし、今やそれは人一人の命が懸かった、取り返しのつかない重大な問題になっている。(ビデオニュース・ドットコム 2015年4月18日
ツツジ

【「辺野古」問題】
・安倍首相は14日に帰国した産経新聞前ソウル支局長・加藤達也氏と翌日(15日)官邸で会い、「ご苦労様でした。裁判が続くようなので体に気をつけて」と
ねぎらったとのことである。(略)そんな中、安倍首相と沖縄県の翁長知事との面会がようやく今日(17日)実現することになった。翁長知事は今年の1月6日以降、安倍首相との面会を希望していたから、それから約3ヶ月余を経て、ようやく実現したことになる。しかも、3ヶ月間、安倍首相との面会を待ち続けた翁長知事が求めた用件とは、目下、政府が沖縄県民の民意に背いて強行している普天間基地の辺野古への「移設」(略)が無理筋であることを訴えるという喫緊の課題である。さらに、会談が実現しないまま3ヶ月が経過する間に、沖縄防衛局は翁長知事の工事中止指示に見向きもせず、「粛々と」ボーリング調査の開始に向けた海上作業を進めた。既成事実の積み上げそのものである。片や慰労のための帰国「翌日」の面会、片や日本全体の抑止力の維持を名分にした基地建設の是非をテーマにした会談の実現までに要した3ヶ月。これが沖縄差別でなくて何なのか?加藤・前ソウル支局長が出国禁止措置を受けて韓国で過ごした8ヶ月間、その間どのような処遇を受けたのか、詳しくは分からないが、心身の疲労が積もったことは想像に難くない。しかし、翁長知事が安倍首相に直接訴えようとする沖縄の基地問題は沖縄県民が戦中戦後70年以上、本土防衛の捨て石として、あるいは植民地同然の日米地位協定・アメリカ軍駐留の下で、屈辱をなめてきた体験に根差すものであり、目下の辺野古基地問題もそうした体験を背負った課題である。政府首脳は折に触れて、普天間基地の危険性除去は一刻の猶予も許さないという。ならば、解決の糸口を探る会談を実現するまでに3ヶ月を空費したのは誰の責任なのか?安全保障は一地方の民意で決める問題ではなく、国の専権事項だ、などと「上から目線」の物言いをしながら、日米地位協定の見直しはおろか、普天間基地の5年以内の返還という「国内向けの口約束」をアメリカに面と向かった要求すらしない日本政府に「専権」を口にする資格と能力があるのか?その間も、普天間基地や嘉手納基地周辺では、米軍機からの部品落下が相次いだ。その中には、200キロものミサイル発射装置の部品の落下など、一歩間違えば大惨事となった事例もあった。このような政府の二枚舌とあからさまな沖縄差別をなすがままにさせている「本土」の有権者の政治意識が厳しく問われている。(醍醐聰のブログ 2015年4月17日

・沖縄県名護市の辺野古の海を埋め立てて米軍基地を新設しようという日米政府の計画に、大多数の沖縄県民が一致して反対の意志を繰り返し明白にしている。それにもかかわらず現在、事態は大きな困難を迎えている。2014年1月の名護市長選挙、11月の沖縄県知事選挙、12月の衆議院議員選挙の沖縄の結果を見れば、どれも辺野古の基地問題が最大の争点だったが、圧倒的多数で当選したのは、すべて「オール沖縄」で一致した辺野古基地反対派の候補だった。先週の4月17日には、昨年(2014年)12月10日の翁長雄志沖縄県知事の就任以来 かたくなに面会を断ってきた 安倍晋三首相が初めて知事と面会した。首相は「率直に意見を交換したい」といいながら、辺野古移転をなぜ普天間基地の唯一の代替案と考えているかの根拠は一切説明せず、知事が賛成できない具体的理由を丁寧に述べてもそれに対して何ら反論もせず、「辺野古が唯一の解決策だ」と繰り返すばかりだった。日本政府は、沖縄が置かれている現状に目を向けることなく、民意に耳を傾けることもなく、日米官僚が1997年につくった辺野古移設案にしがみついているとしか思えない。(略)普天間基地について、19年前の1996年に、当時の橋本竜太郎首相とモンデール駐日米大使が5年から7年以内に
全面返還をめざすことに合意したのは、現在の日本政府自身も認めている大きな危険性を抱えているためであった。今後事故は起きないだろうという根拠のない楽観論に頼ることなく、辺野古に代替え基地が作れるか否かを条件にすることなく、直ちに普天間基地の閉鎖を実施しなければならない。軍事基地の縮小・廃止は、国際緊張の緩和に必ず役に立つことを歴史が示している。(略)国土の僅か0.6%の沖縄に在日米軍基地の74%が存在する異常な差別を直視し、沖縄の基地増設は止めなければならない。そしてジュゴンと珊瑚とウミガメの住む美しい辺野古の海の自然の破壊を止めさせなければならない。世界平和アピール七人委員会は、日本政府が沖縄県民の「平和に生存する権利」を無視し強権的な手段をもちいていることに強く抗議し、あらためて沖縄県民への連帯を強めるよう本土の人々に訴える。(世界平和アピール七人委員会:武者小路公秀、 土山秀夫、大石芳野、小沼通二、池内了、池辺晋一郎、髙村薫 2015年4月22日

【ドイツのメルケル首相の安倍首相へのメッセージの意味】
・2週間前に48か国と報告した
アジアインフラ投資銀行設立には、けっきょ く57か国が加わりました。アメリカ、カナダ、日本の国際的孤立です。安倍政権は、ガバナンスがはっきりしない、日本の分担金が財政負担になる、などと泣き言を言ってますが、大きな外交的失敗です。途上国にとっては、日米主導の古巣アジア開発銀行(ADB)に代わる有力な資金供給源になります。現在の中国経済と日本経済の勢い、アメリカの長期的衰退を考えれば、どちらが魅力的かははっきりしているでしょう。ところが日本のマスコミは、政府の国会答弁のような留意点をあげるばかりで、いま日本がどういう立場におかれているかについての分析的・歴史的報道がありません。TPPの密室交渉についても同様です。そればかりか、自民党が個別のテレビ番組の報道内容について、経営幹部をよんで「事情聴取」するのだそうです。戦前満州侵略で国際連盟脱退、孤立した時期の滝川事件や天皇機関説事件、言論統制と異端排除の「いつかきた道」を想起させます。言論の自由の危機です。(略)中国とアメリカは、それぞれの世界戦略と思惑から、EUやBRICS,ASEAN諸国の支持をも取り付け・調達して、連合国(=国連United Nations)の 戦勝 70周年の世界再編を試みています。ドイツのメルケル首相が、安倍首相にAIIB参加をよびかけていたというのは、ドイツの脱原発決定と同じように、戦後世界への歴史的・倫理的責任にもとづいてのものでしょう。(略)慰安婦問題での「河野談話」、戦後50年の「村山談話」は、「ベルリンの壁」開放・冷戦崩壊・ドイツ統一後、日本でのバブル経済破綻後に、いわばドイツより一周遅れで、アジア諸国への「植民地支配と侵略戦争」を抽象的なかたちであれ認め「謝罪」し、旧枢軸国が国際社会での信頼を回復しようとしたものでした。いま安倍内閣のもとで「粛々と」進む、集団的自衛権発動と改憲、大量のプルトニウムを保持しての原発再稼働、米軍基地の沖縄県内での移転強制は、その流れを逆転するバックラッシュです。 「粛々」とは 、翁長沖縄県知事が述べたように、「上から目線」「問答無用」という意味です。海外の声ばかりか、国民の声も、高浜原発再稼働停止の裁判所の仮処分決定も無視されて、「いつかきた道」への逆戻りです。(加藤哲郎のネチズン・カレッジ 2015.4.15
NHKはこの18日と19日の両日、2夜連続でNHKスペシャル「戦後70年 ニッポンの肖像 -日本人と象徴天皇-」の第1回「“戦後”はこうして誕生した」(約49分)と第2回「平和を願い続けて」(同左)を放送しました。日本独自の「象徴天皇制」という制度の成立の過程と経緯を明らかにする貴重な映像資料となっています。今後、「戦後70年」を論じるにあたっての貴重な第一級資料というべき映像ですから参考資料として以下にアップしておきます。

追記:ただし、第1回の放送に比して第2回「平和を願い続けて」の放送は「天皇賛美」が過ぎます。ドキュメントというよりも「皇室賛美」のための特集番組のような番組づくりです。NHKの劣化というよりも、私はいまの日本の現状そのものを見る思いがして寒気がしてきました。それでも資料的価値はあるだろうと思ってそのままアップしておくことにします。

NHKスペシャル日本人と象徴天皇 
  第1回 「“戦後”はこうして誕生した」(約49分)


NHKスペシャル日本人と象徴天皇 
  第2回「平和を願い続けて」(約49分)



また、以下は、上記の「NHKスペシャル日本人と象徴天皇」を観ての「アリの一言(「私の沖縄日記」改め)」ブログ主宰者の「NHKスペシャル『日本人と象徴天皇』の“表と裏”」と題された感想です。上記の映像の「革新」の立場からの適切な解説となっています。こちらも参考資料として引用させていただこうと思います。「象徴天皇制」という制度をどう見るか。同ブログ主宰者は「沖縄」問題を通じてそのことを考えようとしています(改行は引用者)。

NHKは18日、19日の2夜連続で、NHKスペシャル「日本人と象徴天皇」を放送しました。「戦後70年・ニッポンの肖像」企画の第1弾です。番組はいくつかの重要な歴史的事実を明らかにする一方、肝心な点はあえて触れようとしなかったり、隠そうとしました。その“表と裏”は―。
 
①昭和天皇の戦争責任回避と「象徴天皇の誕生」
番組では1945年6月の米ギャラップ世論調査「戦後、天皇をどうすべきか」が紹介されました。それは、「殺害する=36%」をトップに、圧倒的多数の米国民が昭和天皇の戦争責任追及を望んでいることを示すものでした(引用者注:第1回7:30頃)。しかし、連合国軍総司令官マッカーサーは占領政策遂行のために昭和天皇の戦争責任を不問にし、「象徴天皇」として天皇制を残しました。番組は「新たに発見された資料」として、昭和天皇が側近に「極秘だ」として、マッカーサーから退位しないでほしいと言われた、と語ったという「稲田メモ」なるものを紹介しました(同29:53頃)。

「象徴天皇」を国民に印象付ける「全国巡幸」も、GHQの指示(同21:46頃)だったとするなど、「象徴天皇」はその「誕生」から「定着」まで、一貫してマッカーサー・GHQの意向・指示だったとしました。その一方、昭和天皇(日本)が必死に戦争責任追及を回避しようとしたことには触れず、「(巡幸で)戦争の傷の深さを自覚した」(コメンテーター・保阪正康氏)、「(天皇は)国民の心を支えてくれる存在だった」(NHK司会者)などと昭和天皇を美化しました。
 
②昭和天皇とサ体制・「沖縄メッセージ」
番組は、日本国憲法に「象徴天皇」が明記された後、マッカーサーが日本との早期単独講和を目指していた時、昭和天皇が芦田均外相(当時)を呼び、「日本としては結局アメリカと同調すべき」と指示した(「芦田日記」)こと、さらに、マッカーサーとの会見(1947年5月6日)で、「日本の安全保障を図るためには米国がイニシアチブを執ることを要するのでありまして、そのために元帥の御支援を期待しております」(「昭和天皇・マッカーサー会見」より)と述べたことを紹介しました(同36:20頃)。さらに番組は、昭和天皇がGHQに対し、「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する」とするメッセージ(「沖縄メッセージ」1947年9月20日付)を送ったことも紹介しました(同39:59頃)。こうした史実は、昭和天皇が憲法の「象徴天皇」の権限を逸脱し、政治・外交の根本問題に積極的に介入・指示していたことを示しています。それが今日の沖縄の軍事植民地状態を作り出したサンフランシスコ条約・日米安保体制の根源です。
 
ところが番組は、「象徴」を逸脱した昭和天皇のこうした憲法違反には一言も触れず、さらに「天皇の沖縄メッセージ」についても、「長期租借という措置で日本に主権を残したという面もあり、難しい問題だ」(コメンテーター・御厨貴東大名誉教授)として、その売国的重大性を事実上免罪しました。
 
③天皇明仁への手放しの賛美
昭和天皇については、否定できない事実を紹介しつつその評価をあいまいにする一方、現明仁天皇については、「沖縄に心を寄せ続けるという自らの誓いを実践されている」「イデオロギーや偏りが一切ない中立性をつくりあげた」(御厨氏)など、手放しで賛美しました。以上のように、NHKの「日本人と象徴天皇」が触れようとしなかった問題が、少なくとも2つあります。
 
1つは、現在の「象徴天皇制」は、昭和天皇の戦争責任回避、さらに象徴を逸脱した日米軍事同盟路線推進の延長線上にあり、それらの問題と切り離すことはできないということです。とりわけ沖縄にとっては、今まさに焦点の辺野古新基地建設はじめ、米軍基地、日米軍事同盟の犠牲を差別的に負わされている現実が、「象徴天皇」の昭和天皇によってもたらされた事実をあいまいにすることはできません。保阪氏は現天皇を、「過去、現在、未来の連続性の中に自分を位置付けている」と賛美しましたが、それならなおさら、昭和天皇から引き継いだ「過去」の責任から逃げることは許されません。
 
もう1つは、たとえ天皇明仁が主観的に「中立性」を保ちたいと考えているとしても、「象徴天皇」は常に国家権力が政治的に利用する対象だということです。その典型的な例が、2013年4月28日、安倍政権が沖縄県民の批判・抗議を無視して強行した「日本の独立の日」記念式典に、天皇・皇后を出席させたことです。敗戦70年。「象徴天皇」の「過去・現在・未来」は、NHKとは別の視点から、私たち自身が考えなければならない問題です。(「アリの一言」2015年04月21日
弁護士の徳岡宏一朗さんが4月19日付けのご自身のブログに「アニメ版マララ 女性の権利と教育のために」という記事を書いています。「娯楽」のジャンルの記事として書かれているものですからほんとうは批評の食卓には供したくないのですが、そういうことは一応承知の上で、やはりひとこと言っておかねばならないように思います。というのも、同ブログ記事の全体が昨年のノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんを買いかぶりすぎる体の記事になっているからです。

そういうことでいいのか? いいはずがない、というのが以下の私の論の出発点です。
 
昨年のマララさんのノーベル平和賞受賞以来、左翼メディアの「赤旗」を含めて日本のメディアの多くはマララさんの同賞受賞を賞賛する記事一色ですから、マララさんの同賞受賞を批判でもしようものならクレーマーだのあまのじゃくなどのレッテルを貼られかねませんが、「リベラル」、あるいは「リベラル・左派」を自負する論者であるならば、少なくとも以下の事実は知っておくべきことがらだと私は思います。その上でマララさんの同賞受賞をどのように見るか。その人の「リベラル」度の真価が問われることになるでしょう。
 
第1。マララさんの2013年の米国訪問の際の国連スピーチを書いたのは広告代理店EdelmanのJamie Lundie氏だという信憑性のある記事があること。


第2。広告代理店のEdelmanはマララさんの活動のコーディネートを2012年からはじめ現在5名からなるチームが同コーディネートを担当していること。


 
注:ウィキペディアの「マララ・ユスフザイ」の「支援者」の項にも上記と同様の説明があります。
 
上記の事実からは広告代理店なるものにサポートされたマララさんの国連スピーチとはなにか? という当然否定的な疑問が生じてくるでしょう。そして、同国連スピーチがノーベル平和賞受賞の際の評価の対象になっているのだとすれば、そうしたレベルのノーベル平和賞受賞とはいったいなにか? という疑問も当然生じてきます。
 
若者時代から壮年時代にかけての放浪の旅を通じてアジアや中東地域の人々の暮らしに対する知見の深い写真家で作家の藤原新也さんの下記の論はそうした疑問の発生地点に私たちを連れ出し、マララさんの生育の地のパキスタンという現場の視点から私たちに疑問の解法の糸口を提供してくれる貴重な論になっているように思います。藤原さんの視点とは以下のようなものです。
 
マララさんのノーベル平和賞の受賞にはさまざまな批判がある。イスラム国台頭の最中、対イスラム過激派共闘へのプロパガンダとされた感は確かに否めない。というより絶妙のタイミングだったと言える。(略)マララさんの場合は欧米の価値観や欧米主導の政治のイコンとなるにはこれ以上にない”道具立て”を所有していた。そしてまた少女はその”お膳立て”に十分すぎるほど応えている。私は彼女を見ているとついインドやパキスタンの旅を思い出してしまう。なぜかあっちの方にはこういう小娘がよく居るのだ。エリートの子供で、学校の成績のよいらしい歳の端もいかない10代の小娘が自信たっぷりに大人顔負けの饒舌な口調で(稚拙な)論理を振り回す。まるで街頭の香具師ではないかと思えるほど口八丁手八丁だ。その過剰な自己主張は一体どこから出ているのだろうと思うことがある。日本にあまりこういった10代の小娘がいないので想像がつかないだろうが、旅の中でこういう手合いが出てくると辟易する。話に調子を合わせていると、自分の都合のいいように話をねじ曲げ、人の優位に立とうとする。マララさんもここのところ欧米世界の要請に応えるように自己ヒーロー化に向かっての言葉の脚色がエスカレートしている。もともと彼女の存在が世の一部に知られたのは彼女の住む地域がタリバン運動に席巻され女性の教育が禁止されたおり、イギリスのBBCの依頼によって現状をブログに書いたことがきっかけだった。彼女はその時、スクールバスでの通学にビクビクしている、という発言をしている。そしてそのコメントによって彼女は特定され、狙撃された。わずか11歳の子供である。ビクビクしているとの発言であっても現地の状況を考えると勇気ある発言であり、それは彼女の偽りのない本心だろう。その折の狙撃される前の彼女のポートレイトを見て私は汚れのない綺麗な子だとも思った。
 
だがそれから6年、彼女は欧米の”マララ・ヒーロー化計画”に応えて饒舌と脚色をエスカレートさせて行く。その真骨頂がノーベル平和賞の授賞の弁の中で出て来た以下の文言である。「私には黙って殺されるか、発言して殺されるかしか選択肢がなかった。だから私は立ち上がって発言してから殺されようと思った」まさに世界を唸らせるサビの効いた文言である。情報の溢れるこの情報化社会においては象徴となるような有効なワンコピーが功を奏すと言うことを十分心得たフレーズでもある。ひよっとしたら広告代理店が一枚噛んでいるのではないかと思わせるほどの出来映えである。ふとそう思うのは授賞の弁を全文読んでみると非常に優等生的平板なものでありながら、このフレーズだけが全体から浮いたように”高等”だったからだ。いやかりにそれが彼女自身が作った”コピー”であったとしても、あの”ビクビク”から”殺されようと思った”のわずか6年の間に彼女の身に何が起こったのか。それはそのわずか6年の間の少女のポートレイトの変化に現れていると写真家の私は見る。(藤原新也 Shinya talk 2014/10/14
 
「あっちの方にはこういう小娘がよく居るのだ」という藤原さんの感想。そして、「わずか6年の間の少女のポートレイトの変化に現れている」と見る写真家の眼は、耳(眼)を澄ませて聴いて(見て)おくべき現地の知見に基づく貴重な感想だといえるでしょう。
 
次にやはり中東地域に造詣の深い作家の田中真知さんのノーベル平和賞受賞前の2013年にマララさんが国連本部で行ったスピーチの感想。感想は「タリバーン幹部からマララへの手紙」と題されています。
 
昨年10月にタリバーンに頭を撃たれたパキスタンの16歳の女性マララ・ユスフザイ。やっと怪我から回復した彼女が、さる7月12日にニューヨークの国連本部で行ったスピーチは感動的なものとしてメディアで大きく取りあげられ、「マララさんにノーベル平和賞を」という動きまで起きているという。それはテロリズムや暴力によって子どもたちが教育の機会を奪われることがないように先進諸国に支援を求めるとともに、暴力ではなくペンによって戦うことを訴える内容だった。そのマララに宛てて、数日前、パキスタンのタリバーン運動(TTP)の幹部アドナン・ラシードが書いたという反論の書簡が公開された。アドナンは、このような事件が「起きてほしくはなかった」とする一方、「タリバーンは教育そのものに反対しているわけではなく、あなたのプロパガンダが問題とされたがゆえに、あなたを襲撃したのだ」と書いている。その反論や弁明にはいいわけがましい印象を受けるのもたしかだが、この書簡には西側諸国が主導してきたグローバライゼーションに対する、彼らの切実な危機感がよく表れているように思った。日本語の報道の多くは「こんな書簡が公開された」というだけで、内容には深くふれていない。
 
アドナンは書いている。「英国が侵攻してくる前、インド亜大陸の教育程度は高く、ほとんどの市民は読み書きができた。人びとは英国人士官にアラビア語やヒンドゥー語、ウルドゥー語、ペルシア語を教えていた。モスクは学校としても機能し、ムスリムの皇帝は莫大な資金を教育のために費やした。ムスリム・インドは農業、絹織物産業から造船業などで栄え、貧困も、危機も、宗教や文化の衝突もなかった。教育のシステムが高貴な思想とカリキュラムに基づいていたからだ・・・。(略)「あなたが世界に向けて語りかけている場所、それは新世界秩序をめざそうとしているものだ。だが、旧世界秩序のなにがまちがっているのか? (新世界秩序を唱える人びとは)グローバルな教育、グローバルな経済、グローバルな軍隊、グローバルな貿易、グローバルな政府、そしてついにはグローバルな宗教を打ち立てようとしている。私が知りたいのは、そうしたグローバルな計画の中に予言的な導きというものが入り込む余地があるのかということだ。国連が非人間的・野蛮というレッテルを貼ったイスラム法の入る余地はあるのかということだ。・・・(略)「正直に答えてほしい。もしあなたがアメリカの無人機によって銃撃されたのだとしたら、はたして世界はあなたの医学的容態に関心を示しただろうか? 国の娘だと呼ばれただろうか? キヤニ陸軍参謀長があなたを見舞いに来たり、メディアがあなたを追いかけたり、国連に招かれたりしただろうか? 300人以上の罪のない女性や子どもたちが無人機(ドローン)攻撃によって殺されてきた。でも、だれも関心を示さない。なぜなら、攻撃者たちは高い教育を受けた、非暴力的で、平和を愛するアメリカ人だからだ。・・・(略)
 
この書簡に述べられたことに筋が通っているかどうかはべつとして、マララをめぐる過度な報道に西側のプロパガンダ臭が最初からついてまわっていたのはたしかだ。マララが11歳のときからつけているという反タリバーン的な内容の日記が2009年にBBCラジオで流されたことがきっかけで、彼女は反タリバーンのオピニオンリーダーに祭り上げられた。そこには彼女の通っていた学校を運営する、詩人でもある彼女の父親の影響も当然強いだろう。だが、彼女の意見はパキスタン国内でかならずしも支持されているわけではなく、国連スピーチのあとは西側メディアの賞賛とは裏腹に、パキスタンのオンラインサイトは、マララのスピーチに対する反発のコメントであふれかえったという。(略)
 
気の毒な少女が平和や教育の大切さを訴えれば、だれだってそれを表立っては批判しにくい。実際、マララという少女は勇気ある、高潔で、賢く、まっすぐな女性なのだと思う。しかし、だからこそ問題なのだ。問題はマララのスピーチの中にあるのではなく、そうしたまっすぐな子どもをプロパガンダの宣伝材料にする、というやり口にある。そうした少女が国連のスピーチで世界の賞賛を受け、ノーベル平和賞候補にまで祭り上げられる陰で、米軍の無人機による攻撃で昨年だけで300人以上、これまでには2000人以上が殺され、しかもそのほとんどが民間人であるという事実(米軍はそれを事実と認めていないが)はほとんど顧みられていないとは、どういうことなのか?(略)
 
たしかにいえるのは、このグローバル化の進んだ世界では、西洋的な教育と学校が自由や平等や平和をもたらすという考え方が、かならずしも正しいとはいえないことだ。現在いわれている自由も平等も平和もイデオロギーでしかない。エジプトでも一時期いわれていたが、女性が髪をおおっているヴェールをひきはがすことが、はたして「自由」といえるのか、ということだ。圧倒的な強者たちの中に弱者が「この世界は平等なのだから」と追いやられ、自由競争にさらされたら、ひとたまりもない。(以下、略)田中真知「王様の耳そうじ」2013年7月19日
 
引用しておきたい記事はまだまだあります。が、あまりに長くなりますので引用はこれで終しまいにします。が、ここまでの事実の紹介と引用だけでもマララさんのノーベル平和賞受賞を賞賛する記事一色という日本の報道の現状は、田中真知さんのいうところの「西側諸国が主導してきたグローバライゼーション」に浸食されたところの多い報道になっていることがおわかりいただけると思います。
 
さて、マララさんのノーベル平和賞受賞をどのように評価すべきか。少なくとも賞賛一色で塗りつぶすことは道理のあることではないということだけは共通の知見になりえたのではないでしょうか。そこからマララさんという少女の評価を改めて考えていくことが「平和」の問題を考えていくことにもおそらくつながっていくことにもなるのだと私は思います。
以下は、日本ジャーナリスト会議(JCJ)の2015年4月19日付けの「今週の風考計」の言葉。
 
これほど国民の命と人権が、粗末に扱われていいのか。イスラム過激派組織「IS」は、後藤健二さんの妻に再三メールを発信していた。だが政府は直接関与せず、妻の対応に任せっぱなしだったという。彼女は外国の危機管理コンサルタントに意見を仰ぎ、夫の解放に向け犯行グループとの交渉に必死だった。その間、首相はじめ政府要人は「テロ集団とは交渉しない」の一点張り、座視していたという。後藤さんを見殺しにしたのだ。人質となった家族にすら、寄り添わない政府の対応には、言葉もない。さらに辺野古新基地を作る工事が進む大浦湾沖で、カヌーを漕いで抗議する市民に対し、特殊警備艇のブリッジから海上保安官が「出て行け、犯罪者」と暴言を吐く。沖縄県民の人権を踏みにじる妄動は許されない。政権トップ・官庁職員の感覚たるや、国民に仕える公僕としての自覚もなし、その「堕落」ぶりには目を覆う。16日、両陛下は、パラオの戦没者慰霊に引き続き、八王子市の「高尾みころも霊堂」に祀られる、約25万の労働災害による死者を慰霊された。生者のみならず、死者の命にも想いを寄せる両陛下の心情を、とりわけ皇室を尊崇してやまない安倍首相、とくと汲みあげよ。自衛隊員の命を粗末に扱う「戦争法案」に躍起となるなかれ。(Daily JCJ【今週の風考計】2015年04月19日

そして、以下は、そのJCJの「今週の風考計」(2015年04月19日)の言葉を憂う本ブログ筆者(引用者)の悲嘆。この国の左派・リベラルの「右傾化」をこれ以上進行させないために記録しておきます。

JCJ(日本ジャーナリスト会議)の記者は「国民に仕える公僕」の「堕落」ぶりを痛罵するその口の端で天皇の発言については最上級に美化して描いて疑問を持たない。その能天気は現在の左派・リベラルの「右傾化」の能天気なさまを象徴している。そして、本人の自覚なしにこの国の「右傾化」の共犯者になりおおせている(そうしてこの国の「右傾化」を批判しているのは茶番だ)。

炭鉱のカナリア」の役割を果たしえない現在のジャーナリズムのありかたに疑問を呈し、「ウォッチ・ドッグ」(権力の監視者)としてのジャーナリストの本来のありかたを追求するために設立されたのがJCJであるというのが私のJCJ認識ですが、上記の天皇美化発言は、JCJにおいても一般ジャーナリズムと同じような「ウォッチ・ドッグ」精神の形骸化(辺見庸インタビュー前編(3)参照)が激しく進行しているさまを意図せずにパラドキシカルな「不条理な笑い」として描くことになっています。目的を喪失したデラシネの墓を見るほど悲嘆を感じることはありません。

弁護士の
澤藤統一郎さんは天皇の発言の美化について以下のように述べています。付記しておきます。

戦後社会の支配の仕組みにおける、象徴天皇の利用価値を侮ってはならない。現天皇の意思を忖度して君側の奸を攻撃する類の言説をやめよう。親しみある天皇像、リベラルな天皇像、平和を祈る天皇像は、『天賦民権・民賦国権』の思想を徹底する観点からは危険といわざるを得ない」。(「澤藤統一郎の憲法日記」2015年4月13日
自民党が昨日の17日にNHKとテレビ朝日の関係者を同党本部に呼び出し、NHKについては「クローズアップ現代」の放送内容について、テレビ朝日については「報道ステーション」の放送内容について「事情聴取」した一件について腹立たしい気持ちが治まりません。自民党のこうした行為は、憲法や放送法によって「報道の自由」が保障されている放送局、放送番組に対する明らかな政治権力の横車、圧力であり、また、憲法違反、放送法違反の行為です。

しかし、私の腹立たしいのは、自民党の憲法違反、放送法違反の行為自体ではなく(も、もちろん腹立たしいのですが)、その憲法違反、放送法違反の「事情聴取」とやらに恥ずかしげもなくのこのこと出かけて行った放送局幹部の不甲斐なさについてです。朝日新聞の報道によれば「事情聴取」後テレ朝幹部の福田専務は記者団に「経緯や事実関係について、誤解が生じていたら困ることもあるので、良い機会として出席した」と述べたと言います。開いた口が塞がらないとはこういうことをいうのでしょう。ここにはジャーナリストとしての矜持もジャーナリズム精神もひと欠けらも見ることはできません。「ファシズムは下から用意される」(政治学者・宮崎悠)というのはまさにこういう事態をいうのでしょう。
 
こうした本土のジャーナリズムの堕落に対して、沖縄のジャーナリズムの琉球新報の社説は以下のような警告を発していました。

自民党の情報通信戦略調査会が17日にNHKとテレビ朝日の関係者を呼び、事情聴取するという。自民党は「圧力をかけるつもりはない」というが、呼び付けること自体、圧力以外の何物でもない。これでは表現・言論の自由は画餅に帰す。民主国家にあるまじき姿であり、聴取を中止すべきだ。菅義偉官房長官はよく放送法に言及する。3月末の会見でもこう述べた。「放送法という法律があるので、テレビ局がどう対応するか見守りたい」テレビ放送は5年に1回、政府から再免許を受けないと事業ができない。電波法は、放送法に違反した放送局に停波を命令できると定める。政府中枢があえて放送法を口にするのは「停波もできるのだぞ」と恫喝するのに等しい。安倍政権の放送への介入は顕著だ。昨年の衆院選直前には安倍晋三首相が街頭インタビューで政権への批判が多いとかみつき、自民党はテレビ局に「選挙報道の公平、中立を求める」文書を送り付けた。そして今回の「召還」だ。NHKについては報道番組でのやらせ疑惑、テレビ朝日は「報道ステーション」のコメンテーター・古賀茂明氏の「官邸からのバッシング」発言について事情を聴くという。「第三者も加えた検証の必要性などをただす」というが、それは政権党の仕事ではない。各局は番組審議機関を持ち、業界の第三者機関として放送倫理・番組向上機構(BPO)もある。これらがきちんと機能すればいいだけの話だ。放送法は第1条(目的)でこう定める。「放送の不偏不党、自律を保障することで放送の表現の自由を確保する」。特定の党が番組に口を出すこと自体、「不偏不党」に矛盾する。「自律」を求める放送法の目的にも反するではないか。思想家の内田樹氏が興味深い話を紹介している。ドイツの新聞の日本特派員が安倍政権の歴史修正主義を批判する記事を書いたら、日本の総領事が同紙本社を訪ね、抗議したそうだ。これを受け元駐日英国大使がジャパンタイムズでこう論評した。「日本の歴史修正主義者の行為はナチスなどを想起させる」。政府の報道への圧力がいかに国際社会の常識に反するか、全体主義国家的であるかを如実に示している。テレビ局も政権党の圧力に屈したと誤解されるのは心外だろう。聴取を受けるのなら、カメラを入れて一部始終を生中継してほしい。(琉球新報社説 2015年4月17日

上記で琉球新報社説のいう「聴取を受けるのなら」というのは「聴取を受けるのならせめて・・・」という本土テレビ局に対する注文で、実体の意は「聴取は受けるべきではない」という警告の意であることは明らかです。
 
海外のジャーナリズムに目を向けると、この「報道の自由」について、かつてアメリカの三大ネットワークのひとつであるABCのニュース番組「ワールド・ニュース・トゥナイト」のアンカーを長年務めたことで有名だったピーター・ジェニングス(2005年8月没)は「メディアのいちばん重要な目的は、どの政府に対してであれ、一般大衆の側に立ってそれを監視し、日々疑問をなげかけること」であると語っていました(筑紫哲也NEWS23「多事争論」)。
 
また、イギリスの公共放送BBCの社長だったグレッグ・ダイクは、イラク戦争が始まる直前の2003年3月19日に当時のブレア英首相から「BBCのイラク関連報道は英政府に批判的過ぎる」という非難の手紙が送られてきたことがありますが、同氏は、ブレア英首相宛てに「放送の中心的役割の一つは、時の政権を疑い、政権がいじめてきたら、立ち向かうことである」という返信を送り返しました。そういうこともあってその後も首相官邸の圧力は続き、最悪になったのは、BBCラジオが、イラクの大量破壊兵器疑惑は政府による誇張だった、と伝えてから。情報源探しが始まり、情報源とされた科学者が自殺。そのてん末を検証した調査委員会が「BBCは根拠なき政府非難をした」と結論づけ、官邸の意に沿ったBBC経営委員会がダイク氏をクビにします(毎日新聞「発信箱:僕らのBBC」2014年02月28日)。このグレッグ・ダイクの「時の政権を疑い、政権がいじめてきたら、立ち向かう」という信念の言葉も「報道の自由」に関してジャーナリストとしては記憶しておくべき言葉でしょう。
 
しかし、いまや、そのジャーナリストとしての気概は日本・本土のメディアではほとんど潰え去ってしまった、というのは上記のNHKとテレビ朝日の幹部(おそらく元は現役ジャーナリストであったでしょう)の惰弱からも明らかです。
 
さて、今回の自民党の「事情聴取」の放送法違反については、最高裁の放送法第3条の判示も引用している下記の民主党議員のツイッター発言が自民党の放送法違反の本質をついています。
 
自民党がテレ朝・報道STのPDに、アベノミクスにつき「特殊な事例をいたずらに強調した編集及び解説」として「公平中立な番組作成」の「特段の配慮」を要請は、明確な放送法違反。「第3条 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」放送法3条「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」の解釈は、最高裁により、放送番組編集の自由を規定し「他からの放送番組編集への関与は許されない」と解するものとされている。「干渉」はもちろん「関与」すら許されないのです。放送法第4条に定める「放送番組の政治的公平」などは、あくまで放送局の自主自律によって判断されるものであり、放送法第3条「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」は、その判断への政党の一切の関与・干渉を禁止しているのです。

昨年11月20日に、自民党が総選挙報道に関して在京テレビキー局各社の報道局長等に宛てた文書も明確な放送法違反です。各放送局は、放送法3条「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」を自民党に突き付け、闘わなければならない。放送法第3条により、法律に基づく権限がない場合は「放送番組編集に対して第三者の関与は一切禁止」されています。では、放送番組の「政治的公平」などはどのように確保されるのでしょうか。その仕組みが、第6条の放送番組審議機関であり、放送界設立のBPO放送倫理・番組向上機構 です。各放送局や新聞社は、法制度に精通した弁護士や元官僚などと顧問契約を結び、安倍政治の法の支配の破壊と瞬発力を持って闘って頂きたい。集団的自衛権行使の解釈改憲などの安保法制についても、憲法論に関する専門的知見をマスコミが装備し、安倍総理やそれを支える官僚集団と対峙して頂く必要がある。(小西洋之Twitter 2015年4月12日)
 
さらに上記の放送法第3条の解説を詳説しているものとしては下記のビデオニュース・ドットコムのジャーナリストの神保哲生さんと社会学者の宮台真司さん、憲法学者の木村草太さんの鼎談が有用でしょう。
 
自民党の情報通信戦略調査会が4月17日、NHKとテレビ朝日の幹部を党本部に呼びつけ、聴取を行った。NHKは「クローズアップ現代」のやらせ問題について、テレビ朝日は元経済産業官僚の古賀茂明氏が、「報道ステーション」で政権批判をしたことについて、それぞれ事情を聞くためだという。確かに放送局は放送法によって、中立公平な報道を求められている。しかし、放送法が定める中立公平の意味やそれがどのように行使されるべきかについては、政府内にも自民党内にも明らかに混乱があるように見える。放送法の定める中立公平や不偏不党はあくまで、異なる意見のある問題には異なる視点から報じることを求めているものであって、政府や与党を批判してはいけないという意味は一切含まれていない。また、放送法では「異なる視点」をどのように担保していくかについても、各放送局の裁量に委ねられている。なぜならば、放送法はその第3条において、何人に対しても放送への介入を禁じているからだ。放送法は同法が定める中立公正原則や不偏不党原則などを口実に放送局に介入することは、政府であろうが自民党であろうが、認めていないのだ。
 
ところが、現実には当の放送局は放送法によって政府からの自立が保障されているいるにもかかわらず、なぜか政府や政権与党からの圧力に対して極端に弱腰である。その背後にあるのは、日本独特の放送免許制度だ。日本では政府が放送局に対して直接放送免許を付与している。報道機能を持つ放送局にとって政府は、最も優先的に監視しなければならない対象であることは言うまでのない。しかし、同時、放送局にとって政府は、免許の付与を通じて自分たちの生殺与奪を握る権限を有している存在となっているのだ。この矛盾を解消しないかぎり、いかに放送法に放送局の自立を保障する条文があろうとも、それがまともに機能するはずがない。放送が世論に絶大な影響力を持つ以上、無責任な報道や不正確な報道は放置されるべきではない。しかし、それを正す権能を政府や政治権力に与えることで、言論の自由が脅かされる事態は、無責任な放送を放置する以上に問題が多い。言論の自由に敏感な欧米諸国ではこの難問を解決する手段として、放送免許の付与権限を時の政治権力から一定の独立性を保障された独立行政委員会に委ねているところが多い。また、放送局による極端な政治的偏った報道や公序良俗に反する放送があった場合も、これを正す権限は政府ではなく、政府から独立した有識者会議や独立行政委員会などに与えるなどの工夫が見られる。そもそも放送法が求める中立公正や不偏不党とはどのようなものなのか。表現の自由を定めた憲法第21条に抵触せずに、放送局に中立公平な報道を求めるためには、どのような方法が適切であり、また可能なのか。ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が、憲法学者の木村草太と議論した。(ビデオニュース・ドットコム 2015年04月18日
 
さて、ここまでは放送法のオーソドックスな解釈を紹介してきましたが、自民党のNHKとテレビ朝日の関係者の「事情聴取」について私として少し気になる独自の論を述べている弁護士がいます。清水勉弁護士の論です。同弁護士の別の論については先のエントリで若干の批判をしておきましたが、改めて同弁護士の論を批判しておかなければならないように思います。私が批判しようと思う清水勉弁護士の論は以下のようなものです。
 
毎日新聞 4月17日(金)11時43分配信≪自民党の情報通信戦略調査会(会長・川崎二郎元厚生労働相)は17日午前、党本部で会合を開き、NHKとテレビ朝日の報道番組で、「やらせ」や政治的圧力があったとされる問題について、NHKの堂元光副会長、テレビ朝日の福田俊男専務ら幹部から説明を聴取した。≫やっぱり、出かけたんだ。そうすると思っていた。≪NHKの「クローズアップ現代」では昨年5月、多重債務者がブローカーを介して出家の儀式を受け、戸籍名を変え融資などをだまし取る手口を紹介したが、ブローカーとされた男性が「自分はブローカーではない」と訂正を要求。NHKは今月9日に調査の中間報告を公表し、一部に誤りを認めたものの、「やらせ」の判断は見送った。テレビ朝日の「報道ステーション」では、コメンテーターだった経済産業省出身の古賀茂明氏が3月27日の生放送中、自身の降板を巡り官邸から圧力があったと発言。菅義偉官房長官は「全くの事実無根」と否定している。≫これを自民党の国会議員が確認することに何の意味があるのか? 放っておいてよかったのではないか。≪政権与党による聴取に対しては、野党から「言論の自由に触れる恐れがある」(民主党・安住淳国対委員長代理)などと批判の声が上がっているが、自民党の佐藤勉国対委員長は「各局の判断を聞くだけで、政治介入どうこうではない」と説明している。≫「言論の自由に触れる恐れがある」?そうだろうか。呼び出しに応じなかったらどんな嫌がらせが待っているというのだ。そんなものはないだろう。もともと、記者クラブに入っている新聞社やテレビ局は権力と親密な関係を形成しているくらいだから、断わろうと思えば断われるはずだ。出席したのも、出席しても自分たちが考える言論の自由を侵害されることはないと、自分たちなりの判断をしたからにちがいない。だから、野党が目くじらを立てるようなことではない問題はこの先。節度なく呼び出しに応じていると、呼び出しに応じるのが当たり前、政治家の意見を聞くのが当たり前、政治家の要望を受け容れるのが当たり前、と発展してしまうのではないか。NHKもテレ朝もその線引きを明確に持っていて今回の対応になったのか。(弁護士清水勉のブログ 2015-04-17
 
清水弁護士が「やっぱり、出かけたんだ。そうすると思っていた」というのは私と同意見です。私も「そうすると思って」いました。しかし、「放っておいてよかったのではないか」という認識、「『言論の自由に触れる恐れがある』?」という認識、「呼び出しに応じなかったらどんな嫌がらせが待っているというのだ。そんなものはない」という認識はいただけません。以下、清水弁護士の論の3点に絞って批判しておきます。
 
第1及び第2。清水弁護士の「放っておいてよかったのではないか」という認識、「『言論の自由に触れる恐れがある』?」という認識は、「言論の自由」や「報道の自由」のなんたるかを知らないまったく無責任な傍観者の論(いうなれば居酒屋の床屋談義の論)と言っておかなければならないでしょう。「基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」(弁護士法第1条)弁護士の論とはとても思えません。その論の無責任さと荒唐無稽さについては「呼び付けること自体、圧力以外の何物でもない」と権力者を糾弾する上記で紹介した琉球新報社説ほかの論が雄弁な反論になっているでしょう。したがって、私としてこれ以上のことは言うつもりはありませんし、言う必要もないでしょう。
 
第3。「呼び出しに応じなかったらどんな嫌がらせが待っているというのだ。そんなものはない」という清水弁護士の認識も誤っていると思います。この点については上記の「放送局は放送法によって政府からの自立が保障されているいるにもかかわらず、なぜか政府や政権与党からの圧力に対して極端に弱腰である。その背後にあるのは、日本独特の放送免許制度だ。日本では政府が放送局に対して直接放送免許を付与している。報道機能を持つ放送局にとって政府は、最も優先的に監視しなければならない対象であることは言うまでのない。しかし、同時、放送局にとって政府は、免許の付与を通じて自分たちの生殺与奪を握る権限を有している存在となっているのだ」という神保哲生さん及び宮台真司さん、木村草太さんの鼎談での指摘と下記の東京新聞記事におけるジャーナリストの青木理さんの指摘を紹介しておけばこれも十分であろうと思います。
 
以下、東京新聞記事(2015年4月18日付)。
 
報道番組でやらせが指摘されたNHKと、コメンテーターが官邸批判をしたテレビ朝日の関係者から十七日、自民党の情報通信戦略調査会が事情を聴いた。「政権からの圧力」とも指摘される中で、なぜ両局は事情聴取に応じたのか。有識者らからは、自民党への批判だけでなく、テレビジャーナリズムの危機を指摘する声も出ている。 (鷲野史彦、安藤恭子、森川清志)
 
東京・永田町の党本部で開かれた調査会。冒頭のあいさつで、元厚生労働相の川崎二郎会長は「真実が曲げられた放送がされた疑いがある」と述べ、「報道は事実をまげないでする」などと定めた放送法を聴取の根拠に挙げた。百人超の報道陣が詰め掛ける中、その後は非公開となり、テレ朝の福田俊男専務から約三十分、NHKの堂元光副会長から約十分、それぞれ話を聴いた。会合後、報道陣から圧力ととらえるかを問われた福田専務は「誤解があったら困る」と明言を避け、堂元副会長はほぼ語らずに立ち去った。自民党は三月二十七日の「報道ステーション」に出演した元官僚の古賀茂明氏が、自身の降板をめぐり「官邸の皆さんからバッシングを受けてきた」と発言した内容の真偽を、テレ朝の聴取の対象とした。これに対し、テレビの情報番組などでコメンテーターを務めるジャーナリストの青木理さんは「テレビ局の許認可権は総務相が握っている。与党に呼び付けられる行為自体が、脅しているという圧力になるんじゃないか」と指摘する。
 
テレビ局は公共の電波を使うことから、総務相から五年に一度、放送免許の更新を受けなければならない。放送法に違反した場合、一時的な停波や免許取り消しも電波法で定める。メディア倫理が専門の大石泰彦・青山学院大教授は、今回の自民党の対応について「放送法の一部の規定を取って聴取の理由としているようだが、政治権力の介入を認めないという本来の放送法の精神から外れている」と批判する。同法は一九五〇年に公布。一条や三条には、戦時中の教訓から、自律などの保障による表現の自由の確保や、何人からも干渉されない、といった規定が並ぶ。大石教授は古賀発言をめぐり、政権を監視するべきメディアと、政権との緊張関係に、視聴者の疑念が広がっているとみる。「テレビ局は聴取に応じる前に、放送法の精神に照らして抗議するべきだ。圧力に屈し、さらに非公開で聴取を受けてその内容も自ら明らかにしないとなればテレビジャーナリズムへの信頼を失い、存亡にも関わる事態だ」と問い掛ける。青木さんも、こう懸念する。「自分は番組の現場で、政権批判をやるな、と直接言われたことはない。でも慎重にいきましょうね、という雰囲気は、テレビ局内に確かにある」(東京新聞 2015年4月18日 朝刊
14日付けのエントリで、私は、矢部宏治氏の週刊プレイボーイニュース掲載の「日本を支配する“憲法より上の法”の正体とは?」というインタビュー記事の論は「うそ」「ハッタリやホラ話」のたぐいにすぎないとする私の評価を述べておきましたが、その私の評価に関してKTさんという読者がさらに疑点を提起してこられました。以下、そのKTさんとの問答を一昨々日のエントリの続きとしてアップしておこうと思います。この「続き」の記事を通じて14日付けの私の問題提起ないしはそこで提起した論点はより明確になるだろう、というのが下記の応答のアップの理由です。
 
はじめにKTさんの14日付けの私の問題提起に関する疑念の提起から。
 
はじめまして。「日本人はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」を読んだだけなので、その範囲で書かせていただきます。「日米原子力協定の第十六条三項」と「国際条約と日本国憲法との法的関連性」についてです。
 
<国際条約と日本国憲法との法的関連性>
東本さんの前提は、「「条約の効力は一般的な法律よりも優先するが、憲法に対しては劣位にある」(wikipedia「条約」)というのが法学上の一般的解釈」です。が、矢部氏は、憲法より優先されている条約がある、と示しています。
 
その根拠が、砂川裁判。「日米安保条約のごとき、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係をもつ高度な政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は(略)裁判所の司法審査県の範囲外になると解するを相当とする」という最高裁判決でした。有名な判例でもあるので、私は疑問を感じませんでした。
 
<日米原子力協定>
第十六条三項で定められた「この協定が停止、終了した後も引き続き効力を有する」条文がほとんどであるというのは、質的にも量的にもほとんどのように見えます(引き続き効力有り・・・第1条・第2条4項・第3?9条・第11条・第12条・第14条。効力を失う・・・第2条1?3項・第10条・第13条・第15条・第16条)。
 
これを確認した上で、同協定第十二条四項を見ます。「どちらか一方の国がこの協定のもとでの協力を停止したり、終了させたり、〔核物質などの*〕返還を要求するための行動をとる前に、日米両政府は、是正措置をとるために協議しなければならない。そして要請された場合には他の適当な取り決めを結ぶことの必要性を考慮しつつ、その行動の経済的影響を慎重に検討しなければならない」(〔*〕は矢部氏による注記。第一項の「この協定に基づいて移転された資材、核物質、設備若しくは構成部分又はこれらの資材、核物質、設備若しくは構成部分の使用を通じて生産された特殊核分裂性物質」を示すと思われる)
 
・・・以上のように「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」の該当箇所を読み返してみると、「矢部さんの言うように「原子力政策については『アメリカ側の了承がないと、日本の意向だけでは絶対にやめられない』ようになっている」と、私は思ってしまうのです(ただし、第十六条三項の「適用可能ではない」場合とはどんな場合なのか・・・は、私は調べていません。日米開戦などのような場合なのか、もっと些細な場合なのか)。
 
矢部氏のこの本に「こうしたハッタリやホラ話で条約の有害性を説くのは人心を惑わせる」という印象があるのは、確かです。私自身、惑わされているような気もしているので、まずは、東本さんのように否定的に論じている方々のブログを中心に拝見していこう、と思っています。
 
以下は、上記のKTさんの疑点の提起に関する私の応答。
 
KTさん、コメント拝見しました。ありがとうございます。KTさんは「国際条約と日本国憲法との法的関連性」の問題と「日米原子力協定第十二条四項に基づく協力の停止、協定を終了させる場合の是正措置」の問題の2点に論点を絞られて疑点を提示されていますので、同2点の疑点に関して私の考え方を述べてみます。
 
第1。KTさんは「憲法より優先されている条約がある」という矢部氏の論を否定できない理由として、砂川裁判の際の「高度な政治性を有する国家の行為については司法審査の対象から除外する」という有名な最高裁判決の統治行為論を例にあげておられますが、統治行為論は、「裁判所は政治的に中立であるべき」という裁判所の性質上の問題や裁判所が違憲・違法と判断することにより生ずる政治的混乱を回避するための法政策的観点から派生してくる(ウィキペディア「統治行為論」)いってみれば便宜のための論(便法)であって、法令の優先順位とは無関係です。したがって、統治行為論をもって「憲法より優先する条約」が存在する論拠とすることはできないと考えます。ただ、現実は、対米追随というのが日本と米国の属国的な政治的関係性ですから米国と締結した条約(たとえば安保条約)は強固で、力関係的には、あるいは実態的には憲法を凌駕している(ように見える)というだけのことのように思います。あくまでも「条約の効力は一般的な法律よりも優先するが、憲法に対しては劣位にある」というのが日本における憲法と条約の優劣関係の法学上の一般的解釈だろう、というのが私の憲法理解です。すなわち、安保条約であれ、日米原子力協定であれ、政府の決意しだいでは廃棄することもできるし、終了させることもできるということです。そうでなければ独立国家の体はなさないでしょう。先にも書きましたが、矢部氏の論は実態論でしかないものを決定論(あるいは本質論)のようにいうもので誤まった論である、というのが私の見方であり、評価です。
 
第2。第1の論点とも関係するのですが、「アメリカ側の了承がないと、日本の意向だけでは絶対にやめられないようになっている」かそうでないかは憲法と条約の法令上の優先順位をどのように見るかということに関わってくるでしょう。「憲法は条約より優位」という日本の法学上の一般的解釈の立場、すなわち常識的な立場に立って、憲法と日米原子力協定の優先度の問題を考えれば「アメリカ側の了承がないと、日本の意向だけでは絶対にやめられないようになっている」などとはとても解釈できるものではない、というのが私の解釈です。 
お詫び
清水勉弁護士のお名前をこれまで「清水努」と誤記して掲載していました。
清水勉弁護士に深くお詫び申し上げます。
なお、これまでの拙記事の中でのお名前の誤記はすべて訂正いたしました。
改めてこれまでの非礼をお詫び申し上げます。
(2015年4月17日)

「公安」事件に関してはエキスパートの
清水勉弁護士が18年前の神戸連続児童殺傷事件に関する神戸家裁の決定全文が『文芸春秋』5月号に掲載された件について以下のように述べています。
 
神戸市須磨区で1997年に起きた連続児童殺傷事件で、当時中学3年生の少年を医療少年院送致にした神戸家裁の決定全文が、『文芸春秋』5月号に掲載された。さっそく買って読んだ。事件の描写は全体のごく一部。少年の人格形成についての記述が圧倒的に多い。18年の時間が経過しても、この事件を改めて理解するためにも、同様の問題の存在を疑わせる事件が発生した場合の解明にも役立つだろう。事件を深く理解し考えたいという人にはおススメだ。これに対して、神戸家裁(岡原剛所長)は10日、共同通信の編集委員と文芸春秋社に決定文全文を渡したであろう井垣弁護士と、文芸春秋社、共同通信の編集委員にそれぞれ抗議する申入書を送り、井垣弁護士については「裁判官が退職後も負う守秘義務に反する」と指摘したという。神戸家裁はなぜ抗議文を出すことにしたのか。神戸家裁内の裁判官が集まって議論して決めたのだろうか。そうではないだろう。最高裁の指図にしたがっただけではないか。少なくとも、最高裁の意向が強く働いているにちがいない。最高裁の意向があったかどうかは置いておいても、神戸家裁の井垣弁護士に対する抗議内容には重大な疑問がある。裁判官は国家公務員だが、国家公務員法上の守秘義務(100条1項)を負っていない。裁判所法で規定している裁判官の守秘義務は合議体の裁判の評議についてだけで(75条2項)、それも罰則規定はない。今回は合議体の評議でさえない。刑法134条の秘密漏示罪にも裁判官は入っていない。神戸家裁が言うところの裁判官の守秘義務の法的根拠はどこにあるのか。どこにもない。裁判所が社会に向かってこんなことを言っていいのか。どの新聞の記事にもこの指摘がない。記者たちは裁判所に騙されたのか、わかっていて同調したのか。どちらでも問題だ。(弁護士清水勉のブログ 2015-04-15
 
さて、上記の清水弁護士の意見は正しいのでしょうか? 清水弁護士にはなにか見誤りがあるように私には思えます。
 
この件についてはすでに同じ弁護士の猪野亨さんと徳岡宏一朗さんの以下のようなブログ記事があります。
 
井垣康弘氏の暴挙 少年を食い物にする大人たち 実名報道や審判全文掲載はカネ儲けの道具に過ぎない(弁護士 猪野 亨のブログ 2015/04/13)
文藝春秋が神戸連続児童殺傷事件の家裁決定全文を掲載したことに断固抗議する1(Everyone says I love you ! 2015-04-15)
文藝春秋が神戸連続児童殺傷事件の家裁決定全文を掲載したことに断固抗議する2(Everyone says I love you ! 2015-04-15)
 
そして、猪野亨弁護士と徳岡宏一朗弁護士の論は神戸連続児童殺傷事件を起こした少年に対する少年審判の決定文の全文を文芸春秋に提供した井垣康弘弁護士(同決定に関わった元裁判官)を戒めるものになっています。それに対して清水弁護士の論は「裁判官の守秘義務の法的根拠はどこにもない」として当時の事件の裁判官だった井垣弁護士を擁護する体のものです。
 
私はこの場合、清水弁護士の論は、「裁判官に守秘義務はありやなしや」の形式主義の論に陥って、「守秘義務」以前の問題としての猪野弁護士も指摘する「少年法の理念」を忘失している、あるいはないがしろにしている論のように思えます。この「少年法の理念」について猪野弁護士は次のように言います(上記記事参照)。「家裁が本来、非公表としているのは、少年の育成などを考えてのことであり、それがそのまま明るみに出た場合、少年にとっての育成の阻害になります。少なくとも、それが全面的に公開されることによって、さらし者にされていることに変わりなく、少年法の理念に反することは明らかでしょう」、と。清水弁護士はおそらく憲法の保障する表現の自由と国民の知る権利の観点から、さらに少年の実名報道の禁止に反対する立場から上記のような論を立論しているのだと思いますが、上記の猪野弁護士の立論の方がこの場合正論というべきであろうと私は思います。少年法の理念を尊重する立場に立つからといって、もちろん表現の自由や国民の知る権利をおろそかにしていいということではありません。が、この2つの理念の問題は調和的に解決されるべき問題です。一方の側に立てばよいというものではないでしょう。理念と理念が衝突する場合は調和的に考えてみるより法はないもののように思います。
 
次に清水弁護士のいう「裁判官の守秘義務の法的根拠はどこにもない」という問題ですが、たしかに明文規定としては清水弁護士のいうように「どこにもない」ようです。しかし、ふつうの国家公務員や地方公務員の場合でさえ「守秘義務」はあるのにさらに人の重大な秘密を知りうる立場にある裁判官には「守秘義務」は課せられないというのは常識的に考えておかしなことです。この問題の考え方についてヒントになるQ&Aのサイトがありましたので、No.1~No.7までの回答を私流に1つに要約して以下に示しておきます。
 
清水弁護士は「裁判官の守秘義務の法的根拠はどこにもない」と言われるのですが、以下の回答の論を見れば現憲法下においても「官吏服務紀律」の「守秘義務」が裁判官に適用されるというのは最高裁判所事務総局のとる見解でもあることがおわかりになられると思います。清水弁護士にはこの点についても再考していただきたいことです。
 
質問者
裁判官には裁判所法で評議の秘密については規定がありますが、その他の職務上知り得た秘密についての一般的守秘義務は負わないのでしょうか? 国家公務員法上の守秘義務を負わないことは知ってますので、それ以外で法的根拠を教えてください。

回答者(要約:回答者は複数):
以前、裁判官の方とお話する機会があり確認したのですが、裁判官には法律上、明文の守秘義務は課せられていないということで間違いありません。裁判官は、憲法上も独立が保障された地位にあり、国家公務員法での処分はできないこと、法曹として当然高度の倫理観を持っているはずであることから、国家公務員法の守秘義務規定は及ばず、また、特に守秘義務だけを独立して法律で規定することもされていないとのことです。もちろん、重大な守秘義務違反があれば、裁判官弾劾法2条によって、当然、弾劾対象になりますし、10年毎の任官継続拒否などの理由にもなります。また、民事上の国家賠償責任、不法行為責任も生じます。
 
裁判官は一般的守秘義務を負うものと一般的にはされています。根拠法規は古いのですが「官吏服務紀律」と言う勅令になります。明治20年7月30日勅令第39号です。厳密な法律論をすれば「官吏服務紀律」自体は既に失効しています。「国家公務員法の規定が適用せられるまでの官吏の任免等に関する法律」という昭和22年の法律で服務についても別段の定めがなければ「従前の例による」と定められています(2項)。法律を通じて勅令の適用を受けると言うことです。守秘義務は4条になります。
 
現憲法下においても「官吏服務紀律」が裁判官に適用されるというのは最高裁判所事務総局のとる見解でもあります。手元の資料だけでも昭和51年10月28日参議院と平成13年2月27日衆議院のそれぞれの法務委員会で当時の最高裁事務総局人事局長が答弁しています。「裁判官につきまして現在も法律上は官吏服務紀律が適用されるというふうに解しております。」(78-参-法務委員会-5-2)。「裁判官の服務につきましては、裁判所法、それから裁判官弾劾法、官吏服務紀律等におきましていろいろな義務が規定されておりますが、こうした規定によるほか、個々の裁判官におきまして、これらの規定や国家公務員倫理法等の規定の趣旨、内容を尊重するなどして、みずから律することによって倫理を保持してきたところでございます。」(151-衆-法務委員会3-18)。
 
平成16年4月9日衆議院法務委員会で当時の司法制度改革推進本部事務局長(現在の千葉地裁所長でもちろん裁判官です。裁判員制度などの議論を見守ってきた方でもあります)が裁判員の守秘義務との関係で裁判官の守秘義務について聞かれてこう答弁しています。「裁判官も、評議の秘密につきましては、裁判所法で守秘義務がございます。それから、一般的な守秘義務としては、大変古いものでございますけれども、勅令で、官吏服務規程ですか、たしか明治二十年ぐらいにできたものでございますけれども、この適用によりまして、守秘義務が一般的に課されている、こういう状況でございます。」(159-衆-法務委員会-12-5)。ここでは「官吏服務規程」と発言されてますが,「官吏服務紀律」のことでしょう。確実な資料といえるかは分かりませんが,衆議院のホームページから法務委員会→159回(常会)→12号とたどれば見ることも出来ます。
 
なお、上記の答弁は次のように続きます。「ただ、罰則は、御指摘のとおりございません。これは、裁判官につきましては、高度の職業倫理に基づき行動ができる、そういう期待ができるということ、あるいは、それを担保するものとして、弾劾裁判あるいは分限裁判というような手続が設けられておりまして、これらによってそのような義務違反を抑止することが十分に可能であるということで刑罰が設けられていないというふうに承知をしております」(裁判官の守秘義務 - その他(法律)  教えて!goo
ふじ

【言論と思想の自由の問題】
・狡猾な手段による言論締め上げは、朝日新聞、報道ステーションから、次のステージに移った。今度は『クローズアップ現代』である。ついに
国谷裕子キャスターが謝罪する事態にまでなった。中間報告全文(略) を見れば、内容は、朝日新聞の吉田調書問題なんか可愛く見えるほど、あざとい。と言っても、この写真や動画と比べれば、まだ、はるかに罪は軽い。横並びなら良いというのだろうか。いまだに、誤解を招いたと謝罪するメディアも、どうしてこんな写真や動画をばらまくことになったのか検証するメディアも、赤旗を含め、聞いたことがない。視聴者の関心をひきつける、刺激的な映像を見せようとするドキュメント番組では、今回のやらせ程度のことは日常茶飯事に行われていると思わせるほどに、最近のテレビ番組の劣化ははなはだしい。たたけば、どこも埃だらけのはずだ。だから、なぜ、この番組がたたかれるのかを問題にする。戦前と違い、さしたる言論弾圧装置を持たないまま、これほど言論が貧困になるとは想像もつかなかった。今や、時代は、非常時には政権批判は慎むべしというのが、共産党を含むコンセンサスになってしまった。「クローズアップ現代」は、そうした中で、国谷キャスターの突出した能力とバランス感覚で、変わらぬスタンスを維持している。とくにテレビの言説が見事なほどに劣化してしまったため、立ち位置が変わらない「クローズアップ現代」が目立つようになった。最悪の場合は、番組終了という事態も想定されるだろう。朝日新聞バッシングの時のように、「クローズアップ現代」を擁護する論が多くないのは、籾井会長のNHKが対象だからだろうか。NHKの心ある記者は、「クローズアップ現代」を支えようとしているに違いないのだから、連帯したい。下記記事は、3月21日現在で、論点を精確に分析しているし、深刻な見通しを語っている点で、大いに参考になった。→最後に笑うのはアノ人!? NHK『クローズアップ現代』の”やらせ疑惑”は今後こうなるという予測!-水島宏明 2015年3月21日街の弁護士日記 2015年4月10日

・1997年に起きた
神戸市連続児童殺傷事件で、少年は医療少年院送致となりました。その家裁での決定全文が文藝春秋に掲載されるというから驚きです。しかも、それに手を貸したのが、この決定に関わった元裁判官である井垣康弘弁護士だというので、非常に問題あるやり方です。この井垣氏は、当時の公表の在り方が不十分で、「要旨では男性の成育歴が大きくカットされた。事件の特殊性や、その後も重大な少年事件が相次いでいることにかんがみ、全文を国民に読んでもらうべきだ」(時事通信2015年4月9日)という理由だそうです。井垣氏は少年法には違反しないと言いますが、家裁が本来、非公表としているのは、少年の育成などを考えてのことであり、それがそのまま明るみに出た場合、少年にとっての育成の阻害になります。少なくとも、それが全面的に公開されることによって、さらし者にされていることに変わりなく、少年法の理念に反することは明らかでしょう。しかも、文藝春秋は明らかにカネ儲けのためです。井垣氏の行為はこれに加担するだけの行為に過ぎません。時折、少年事件が起きると、週刊新潮あたりが実名報道をしますが、他のマスコミが少年法の理念を守っている中で、カネ儲けになるからしていること、それを「今回の事件の残虐性と社会に与えた影響の大きさ、そして主犯格とされる18歳の少年の経歴などを総合的に勘案し、実名と顔写真を報道しました」のような屁理屈をこねくり回して正当化しようとしていますが、要はカネ儲けの道具です。井垣氏も国民に読んでもらうべきだという理由で公表するのであれば、インターネット上に公表すればよく、文藝春秋のカネ儲けに加担する意味がわかりません。確かにインターネット上の方が影響は大きいですが、今回の趣旨であれば紙媒体ならよく、インターネットならダメという理由がありません。(略)また、そもそも元裁判官が、何故、その決定を持っているのかということも問題です。データで持っていたということなのでしょうが、正規の手続を経ないで、データを持ち出したのと全く同じです。いわばデータを盗んだのと同じだということです。井垣氏のやったことは、いろいろと自分の行動を正当化しようとしていますが、文藝春秋のカネ儲けに加担しただけ、最低の行為です。(弁護士 猪野亨のブログ 2015/04/13

日本テレビ系(NNN) 4月14日(火)19時52分配信≪自民党が17日にNHKとテレビ朝日の経営幹部を呼び、最近問題となっている報道番組の内容をめぐって、直接、事情を聞くことが分かった。≫応じるのか?逆に抗議しないのか?≪複数の関係者によると、自民党の情報通信戦略調査会は、NHKからは「クローズアップ現代」でヤラセが指摘されている問題について、また、テレビ朝日からは「報道ステーション」でコメンテーターの古賀茂明氏が一方的に政権批判したことについて、話を聞く方針。特に「報道ステーション」をめぐっては、古賀氏が菅官房長官を名指しして「バッシングを受けた」と一方的に述べる展開となった点などについて、第三者も加えた検証の必要性などをただすものとみられる。≫自民党議員に言われるまでもなく、どちらも問題だということをそれぞれの会社はわかっているのだから、自民党がとやかく口出しする必要はない。お手並み拝見で十分だ。古賀氏の発言が問題だというのなら、古賀氏に抗議すればいいことで、テレビ局の幹部を呼びつけるのはやり過ぎだ。≪政治とメディアの関係に詳しい上智大学の音好宏教授は、こうした自民党の異例の対応について、「政権・与党側がメディアを呼びつけるのは、成熟した民主主義の中では、相当注意しなくてはいけない」と述べた。また、「政治的なパフォーマンスと考えているかもしれないが、国民からは支持されないだろう」と指摘している。≫日本の民主主義は成熟しているか?それはかなり疑わしい。どれだけの人がそう思っているだろうか。成熟していない民主主義なら口出ししていいのか?成熟しているかどうかはだれが判断するのだ。成熟していなくてもダメではないか。政治的なパフォーマンスのどこが悪い?野党はいいけど、与党はダメ?核心は国民から支持されるかどうかなのか。NHKを、「クローズアップ現代」を、テレ朝を、「報道ステーション」を気に食わないと思っている人たちは支持するだろう。結構、多いかもしれない。多ければ問題ないのか。それとも、結論を先決めしていて、支持するような人は国民ではないとでも言うつもりか。言論の自由は国民に支持されるかどうかに左右されるべきではないのではないか。(弁護士清水勉のブログ 2015-04-14

【安倍政権と行政の不法行為】
・16年前のドイツ滞在中、アウトバーン(自動車高速道)を使ってヨーロッパ各地をまわった。スイスの大トンネルを抜けてイタリアからドイツ・ボンまで、1日で1100キロを走ったこともある。ポーランドでは、とんでもない交通取締を体験した。だから、「ガイスターファーラー」(Geisterfahrer)という言葉を聞くと、「ポルターガイスト」(心霊現象)よりも怖い。「幽霊ドライバー」という意味で、アウトバーンを逆走するドライバーのことである。(略)3月に行われた政府の辺野古埋め立てをめぐる行政不服審査法に基づく手続もまた、高速道路で突然、目の前に車があらわれるような仰天の出来事だった。(略)私が仰天したのは、国が行政不服審査法を使ったことである。「この法律は、行政庁の違法又は不当な処分その他公権力の行使に当たる行為に関し、国民に対して広く行政庁に対する不服申立てのみちを開くことによつて、簡易迅速な手続による国民の権利利益の救済を図るとともに、行政の適正な運営を確保することを目的とする」(1条)とあるように、明らかに行政庁による違法・不当な処分など、もっぱら公権力の行使から国民の権利を救済するところにこそ、その目的がある。(略)行政不服審査法では、不服申立適格(不服を申し立てることができる資格)に関する規定は特に設けてない。判例はその対象を「不服申立をする法律上の利益がある者、すなわち、当該処分により自己の権利若しくは法律上保護された利益を侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者」(最高裁1978年3月14日判決)としている。行政契約(都営バスの運送契約)などに見られるように、「私人が事業者である場合と変わりがない」とされる場面もあり得るだろう。今回の岩礁破壊については、岩礁破壊それ自体を単体で取り上げて「私人が事業者である場合と変わりがない」と考えるか、それとも、普天間飛行場の辺野古移設を全体として念頭に置きつつ、その一過程として岩礁破壊を捉えると、はたして「私人が事業者である場合と変わりがない」と言えるだろうか。(略)この法律の目的は国民の権利利益の救済であって、国と地方公共団体とのトラブルについて、国が審査請求をするというのはやはり異様である。(略)通常(国民からの申立て)であれば、「行政執行の停滞を招く」として執行停止を認めることがきわめて稀であるこの国の不服審査実務とは異なり、「行政執行の実務の停滞を招く」というまさにその同じ理由で、国からの申立てには間髪をいれずに執行停止を行った農水大臣の本件行為は異常であり、ここにも本線を逆走する「幽霊ドライバー」が登場したと言えるだろう。(
水島朝穂今週の「直言」2015年4月13日

【国立大学への国旗・国歌押しつけ問題】
・「国立大学の入学式や卒業式に国旗掲揚と国歌斉唱を」という参院予算委での安倍首相答弁(4月9日)に驚いた。下村文科相も「
各大学で適切な対応がとられるよう要請したい」と具体的に語っている。(略)安倍政権のスローガンが戦後レジームからの脱却である以上は、国民主権や民主主義を支えるすべての制度を敵視していることは明らかだ。安保防衛問題だけでなく、学問の自由も大学の自治も、国民の思想良心の自由も、すべてを押し潰して「富国強兵に邁進する日本を取り戻したい」と考えているだろうとは思っていた。しかし、安倍とて愚かではない。そうは露骨になにもかにもに手を付けることはできなかろう。そのような甘い「常識」を覆しての「国立大学に適切な国旗国歌を」という意向の表明である。やはり驚かざるを得ない。(略)政権が根拠とする理屈は、結局のところ、「国立大学が国民の税金で賄われている」ということ。「国がカネを出しているのだから、国に口も出させろ」「スポンサーの意向は、ご無理ごもっともと、従うのが当然」という理屈。これは経済社会の常識ではあっても、こと教育には当てはまらない。教育行政は教育の条件整備をする義務を負うが、教育への介入は禁じられている。このことは、戦前天皇制権力が直接教育を支配した苦い経験からの反省でもあり、世界の常識でもある。(略)もう一つ、安倍第1次内閣が改悪した新教育基本法の目的条項が根拠とされている。第2条(略)に、「我が国と郷土を愛する」がある。だから、「入学式や卒業式では、日の丸・君が代を」というようだ。国を愛するとは、「国旗に向かって起立し、口を大きく開いて国歌を斉唱する」その姿勢に表れる、という理屈のようだ。国家の権力から強く独立していなければならないいくつかの分野がある。教育、ジャーナリズム、司法などがその典型だ。弁護士会の自治も重要だが、大学の自治はさらに影響が大きい。国立大学は、けっして安倍政権の不当な介入に屈してはならない。もう、いかなる国立大学も、政権の方針に従うことができない。この件は大学の自治を擁護する姿勢の有無についての象徴的なテーマとなってしまった。政権への擦り寄りと追従と勘ぐられたくなければ、学校行事の日の丸・君が代は、きっぱり拒絶するよりほかはない。そうでなくては、際限なく日本は危険な方向に引きずられていくことになってしまう。(澤藤統一郎の憲法日記 2015年4月11日

【国立大学への国旗・国歌押しつけ問題 産経の愚論を駁する】
昨日(4月14日)の産経社説が、国立大学における国旗国歌押しつけ問題を取り上げた。(略)産経の議論の立て方がおかしい。「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか」ではなく、「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜ必要なのか」と問わねばならない。さらに、「なぜかくまでに国旗国歌にこだわるのか」、「なにゆえに国旗国歌に敬意の表明を強制する必要があるのか」と問を展開する必要がある。議論の出発点は飽くまでも個人の自由でなくてはならない。(略)国家の象徴である歌や旗への態度は、個人が国家に対してどのようなスタンスをとるかを表す。これは、完全に自由でなくてはならない。日本大好きで、日の丸・君が代へ敬礼を欠かさない人がいてもよい。しかし、虫酸が走るほど嫌いで、日の丸・君が代は見るのもイヤだという国民がいてもよいのだ。国民の資格は国家への好悪が条件ではない。国民が主人公の民主主義国家においては、国家には国民に対する無限の寛容が要求される。(略)憲法とは、突きつめれば個人と国家との関係の規律である。我が日本国憲法は、安倍政権や下村教育行政や産経にはお気に召さないところだが、18世紀以来の近代憲法の伝統にのっとった個人主義・自由主義に立脚している。自由な個人が国家に先行して存在し、その尊厳を価値の根源とする。国家は価値的に個人に劣後するものでしかない。いや、むしろ個人の自由を制約する危険物として取扱注意の烙印を押されているのだ。その個人に対して、国家の象徴である国旗・国歌に敬意を払うべしとする立論には、納得しうる厳格な法的根拠が不可欠なのだ。自発的意思で国旗国歌を尊重する態度の人格形成を教育の目標とすることは、本来我が憲法下では困難というべきだろう。第1次安倍内閣が強行した改正教基法の「国を愛する」との部分は、「国」の内実の理解や、「愛する」が強制の要素を含むとすれば、違憲の疑いが濃厚である。(略)私見と、政権や産経の立論の差異の根底にあるものは、個人と国家の価値的優劣の理解である。私は、純粋な個人主義者であり、自由主義者である。政権や産経の立場は、国家主義であり全体主義である。私の考え方は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言、そして日本国憲法、国連の諸規約に支えられた常識的なものだ。政権や産経の立場は、旧天皇制や現在も残存する全体主義諸国家を支える思想に親和的なもの。安倍政権や産経の社説に表れた、国家主義・全体主義の鼓吹には重々の警戒をしなければならない。(澤藤統一郎の憲法日記 2015年4月15日

山崎雅弘島薗進内田樹リ(ツイート)
引用者注:必読のインタビュー、とはまったく思わない。「報道ステーションだの古舘伊知郎だのは、安倍晋三とその政権の批判者にとっては特段「味方」でもなんでもなく、日刊ゲンダイ(略)と同じような売らんかな根性だけの「商売反安倍政権」だと思っている。」「前々からの私の持論だが、古舘伊知郎と日刊ゲンダイにだけは絶対に気を許してはならない。彼らは最後の最後には必ず裏切ることを肝に銘じておくべきだ。」(kojitakenの日記
2015-03-292015-04-03)私もまったく同感。「日刊ゲンダイ」紙は一見進歩的に見えても進歩的ではなく、一見革新的に見えても革新的でもない。要は民主党のネオリベ派を支持するための媒体でしかない、というのが私の見方です。上記の4氏には媒体(メディアの質)を見る目がないと言わなければならないでしょう。その見る目のなさが一因となって市民に誤った幻想を抱かせ、政治革新の大きなネックになってきたことにもっと思い到るべきでしょう。
kojitakenの日記」主宰者の古寺多見さんが同ブログ本日付けの「矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』批判序説」という記事で矢部氏の同著を批判しています。私もこの問題については政治思想の今日の「右傾化」の問題ともかかわって少なくない関心がありますので、過去記事の再録という形で若干のコメントをさせていただこうと思います。

さて、古寺多見さんは、どのような視点から同著を批判しているのか。この件についてまず古寺多見さんの主張するところを見てみます。
 
「(前略)矢部宏治は明らかに鳩山由紀夫系列の人間である。矢部のトンデモ本『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)を「CHAPTER 2 福島の謎」まで読んだが、少し前に書いた下記記事で呈した疑点に、矢部は答えていなかった。」
 
古寺多見さんが上記で言う「下記記事で呈した疑点」とは以下のようなもの(改行は引用者)。
 
「ところで、私は矢部宏治が書いた『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)をまだ読んでいない。その上で、池澤のコラムで疑問に思った箇所をメモしておく。池澤は、「ドイツにならって原発を廃止しようと思っても、日米原子力協定のもとではその権限が日本にはない。」と書いている。おそらく、矢部の本にそう書いてあるのだろう。だが、これはいかにも不思議な話だ。なぜなら、原子力発電(核発電)は、日本の自主独立を目指した(孫崎享が「自主独立派」に分類しているかどうかは知らないが)中曽根康弘の旗振りで導入されたものだし、今でも石破茂が公言している通り、日本が核武装するポテンシャルを確保しておきたいために、自民党は絶対に原発を止めたくないことのは周知の通り。一方、過去に日本と戦争を行ったアメリカにとっては、日本の核兵器製造可能なプルトニウムの備蓄に上限を設けて歯止めをかけるという線は絶対に譲れない。
 
アメリカの意向があるからドイツは「脱原発」ができても日本にはそれができないという理屈を、矢部宏治がどうこね回しているのか、これを読む前の楽しみにしておきたいと思うが、脱原発に関していえば、自民党政権と経産省と電事連・電力総連やらが絶対にやりたくない上、国民の多くも「原発はなければない方がよいけれども少々は止むを得ない」などと漠然と思っているだけで、本気で原発を止めたいと思っていないから「脱原発」ができないだけの話だ。矢部や池澤はアメリカという「逆らえない強大な国」の圧力をかけているために、「無力な日本国民は『脱原発』をしたいのに、アメリカがさせてくれない」と言いたいのだろうか。理解不能である。」
 
本日付けの記事に戻ります。
 
「私が指摘した最大の疑問は、アメリカがなぜ自国の国益に反する日本のプルトニウム備蓄を助けるような「原発継続・再稼働」への圧力を日本にかける(と矢部は確かに主張している)のかということだ。アメリカは、現時点での同盟国の軍備増強を手放しで喜び、援助するようなお人良しの国ではない。「同盟国」に全面的に寄りかかるような間抜けな政府を持つ国は、先進国では日本くらいしか私には思い浮かばない。かつて自国を悩ませた敵国であった日本の核武装のポテンシャルを高めることが、アメリカの国益に叶うはずがないのである。矢部はこの疑問には全く答えていない。日米原子力協定があって、日本は原発を止めたくても止められないのだと書いているだけだ。アメリカが日本に原発を推進させているという具体例はいくつか書いてあるが、アメリカが日本に原発を推進させる根拠については、『もともとアメリカ政府のエネルギー省というのは、前身である原子力委員会から原子力規制委員会を切り離して生まれた、核兵器および原発の推進派の牙城だからです。(99頁)」と書くのみだ。まるで説得力がない。なぜかつて米兵を恐れさせた狂気の特攻を行った日本という「元敵国」の核兵器推進にアメリカが手を貸すのか(矢部の理屈に従えばそういうことになる)という疑問に対する説得力のある説明を、矢部は全くできていない。
 
「脱原発」派なら誰でも、アメリカが1979年のスリーマイル島原発事故以来、30年以上新規原発を建設してこなかった(最近になって原発建設再開の動きが出ているが)という事実を知っているはずだ。そりゃ日本の原発建設がアメリカのメーカーの利益になるということはあるだろうが、その程度の「圧力」などたかが知れており、日本人が本気で原発を止めたいと思ったら止められる話だ。要するに本当に原発を推進したかったのは日本の政府と経産省と電力会社や電力総連や原発関連産業の関係者であって、なおかつ日本国民に本気で原発を止めたいとする強い気持ちがないという、それだけの話である。日本人が本気で原発を止めたいと思っているなら、統一地方選があんな結果(自民党の圧勝)になるはずがない。(以下、略)」
 
さて、ここからが、古寺多見さんの「矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読んでの疑点」に関連しての弊ブログの「白井聡さんの「矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』書評」批判」の再録ということになるのですが、上記で古寺多見さんの言う「下記記事で呈した疑点」のすべては含まれてはいませんが、矢部氏は古寺多見さんが疑問とする「ドイツにならって原発を廃止しようと思っても、日米原子力協定のもとではその権限が日本にはない」理由については、矢部氏の同著の中にはあるかどうかは私は同著を読んでいませんので(読むつもりもありません)わかりませんが週刊プレイボーイの「日本を支配する“憲法より上の法”の正体とは?」というインタビュー記事の中(5頁目)では次のように述べています。
 
―基地問題だけでなく、原発の問題も基本的に同じ構図だと考えればいいのでしょうか?
 
矢部 こちらも基本的には軍事マターだと考えればいいと思います。日米間に「日米原子力協定」というものがあって、原子力政策については「アメリカ側の了承がないと、日本の意向だけでは絶対にやめられない」ようになっているんです。しかも、この協定、第十六条三項には、「この協定が停止、終了した後も(ほとんどの条文は)引き続き効力を有する」ということが書いてある。これなんか、もう「不思議の国の協定」というしかない……。
 
―協定の停止または終了後もその内容が引き続き効力を有するって、スゴイですね。
 
矢部 で、最悪なのは、震災から1年3ヵ月後に改正された原子力基本法で「原子力利用の安全の確保については、我が国の安全保障に資することを目的として」と、するりと「安全保障」という項目をすべり込ませてきたことです。なぜ「安全保障」が出てくるかといえば、さっきの「砂川裁判」と同じで「安全保障」が入るだけで、もう最高裁は憲法判断できなくなる
 
―しかも、「安全保障」に関わるとして原発関連の情報が特定秘密保護法の対象になれば、もう誰も原発問題には手が出せなくなると。
 
矢部 そういうことです!
 
上記は一応「原発を廃止しようと思っても、日米原子力協定のもとではその権限が日本にはない」理由の説明とはいえるでしょう。しかし、以下は、矢部氏の上記の理由を読んでの私の批判的感想
 
上記で矢部さんの言う「原子力政策については『アメリカ側の了承がないと、日本の意向だけでは絶対にやめられない』ようになっている」「しかも、この協定、第十六条三項には、『この協定が停止、終了した後も(ほとんどの条文は)引き続き効力を有する』ということが書いてある」というのはほんとうだろうか?
 
日米原子力協定の第十六条三項には「いかなる理由によるこの協定又はその下での協力の停止又は終了の後においても、第1条、第2条4、第3条から第9条まで、第11条、第12条及び第14条の規定は、適用可能な限り引き続き効力を有する」と書かれています。矢部さんは同条文の「適用可能な限り」という前提条件を省略した上で「『日本の意向だけでは絶対にやめられない』ようになっている」とおどろおどろしく解説しています。しかし、条文に「適用可能な限り」とある以上、「適用可能ではない」場合は「引き続き効力を有しない」ことになります。これが正しい条文の解釈であるはずです。
 
そして、国際条約(「日米原子力協定」もそのひとつです)と日本国憲法との法的関連性を見ると、「条約の効力は一般的な法律よりも優先するが、憲法に対しては劣位にある」(wikipedia「条約」)というのが法学上の一般的解釈のようです。そうであれば、憲法第56条2項には「両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる」という規定があります。日本の内閣及び国会が条約を改定、あるいは廃棄したいときは同規定によって両議院の議事に付せば出席議員の過半数の賛成を得て条約を改定、あるいは廃棄することができるわけですから、その場合は、日米原子力協定上においても「適用可能ではない」状態になり、同条約の効力は失われるということになるでしょう。決して矢部さんの言うように「原子力政策については『アメリカ側の了承がないと、日本の意向だけでは絶対にやめられない』ようになっている」わけではありません。矢部さんは日米原子力協定の有害性(という点では、私も認識を同じくしますが)をいうために端的に言ってウソを言っている、ということにしかなりません。そして、こうしたハッタリやホラ話で条約の有害性を説くのは人心を惑わせるほかの意味はありません。矢部氏の主張はこのインタビュー発言を見る限りにおいて誤った主張といわなければならないでしょう。
 
さらに以下は、上記の矢部氏の著書を好意的に書評する『永続敗戦論』の著者の白井聡さんの論の批判。
 
「いかに大部において意見を一にするとしても、そうした誤まった見方と主張を持つ人の新刊を「3・11以降刊行された書物のうちで、私の知る限り最も重要なものの一冊である」などと持ち上げる白井聡さんの眼の確かさと見識について、『永続敗戦論』の著書を発表以後「新進気鋭の若手政治学者の誕生」などと評価される著者とはいえ、いや、それだけになおさらというべきでしょう。私は疑義を呈しておかないわけにはいきません。」(「白井聡さんの「護憲ではない、制憲を」という論、あるいは書評を読む」2014.11.09)
 
「植草一秀さんが同氏のブログの11月10日付け「矢部宏治氏新著が明示する米国の日本支配構造」という記事で矢部宏治氏の新著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』をやはり高く評価しています。追記2で指摘した『戦後史の正体』の評価をめぐっての「見解の違い」の対立の構図は、今度は矢部宏治氏新著評価問題(「民主党」及び「小沢評価」の蒸し返し問題と言い換えてもいいのですが)とでも呼ぶべき「見解の違い」の構図として改めて浮上してきた感がします(前回と今回の「見解の違い」の顔ぶれはほぼ同じです)。」(「追記としての「白井聡さんの『護憲ではない、制憲を』という論、あるいは書評を読む」追記3 2014.11.12)
小澤俊夫さんという人は私はよく知らないのですが、「リベラル21」というリベラルを標榜するネット・メディア紙に定期的に記事を執筆しているところから察して一応「リベラルの人」と評価すべき人なのでしょう。インターネット百科辞典のウィキペディアにはドイツ文学研究者で筑波大学名誉教授とあります。また、ご本人のつけた肩書きには「小澤昔ばなし研究所所長」とあります。その「リベラルの人」である小澤さんが「リベラル21」の2015年4月13日付けで「天皇・皇后ご夫妻の精いっぱいの意思表示」という記事を書いています。以下のようなものです。
 
天皇・皇后ご夫妻がパラオ群島に慰霊の旅をなされた。あの大戦中に少年時代を過ごされた天皇陛下が長年にわたって実行してこられた、慰霊の旅の一環である。新聞報道によれば、天皇陛下は出発に先立ち、皇太子、秋篠宮、安倍首相らを前に、「太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」と述べられたということだ。この言葉は明らかに「そして、この多くの犠牲者のおかげで私たちが獲得した日本国憲法をきちっと守っていくことが大切なのです」と続くはずの言葉である。しかし、天皇・皇后ご夫妻としては、日本国の象徴なのだから、そこまでは言えないと思って、遠慮なさったのであろう。ぼくはそこまで言ってもらいたかったと思うが、それは理解する。しかし、そこまで言わなくても、天皇・皇后ご夫妻が平和憲法を守ろうと思っておられることは、誰でも推測できることである。そして天皇陛下のこの言葉は、今、アメリカ、ドイツ、中国、韓国が日本の安倍政権に対して言っている「過去の歴史を歪曲するな」「歴史を直視せよ」という批判と同じことを言っているのである。マスメディアには、この関連を強く指摘してもらいたいと思う。そうでないと、天皇・皇后ご夫妻が精いっぱい言われたその心が、国中に広がっていかないからである。ぼくらは、みんなで、天皇・皇后ご夫妻の志をサポートしようではないか。(以下、略)(リベラル21 2015.04.13

天皇・皇后に対して「なされた」「過ごされた」「陛下」などの最高敬語を用い、内容的にも天皇の言葉を至上の言葉のように解釈し、読者(一般市民)に対しては「ぼくらは、みんなで、天皇・皇后ご夫妻の志をサポートしようではないか」と呼びかけています。
 
しかし、天皇の「太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」という言葉を「この言葉は明らかに『そして、この多くの犠牲者のおかげで私たちが獲得した日本国憲法をきちっと守っていくことが大切なのです』と続くはずの言葉である」。「天皇・皇后ご夫妻としては、日本国の象徴なのだから、そこまでは言えないと思って、遠慮なさったのであろう」などと解釈するのは正しい解釈と言えるのでしょうか?
 
産経新聞によれば、小澤さんが例として挙げる天皇の羽田空港における出発式でのスピーチの全文は以下のようなものです。それほど長くはないので全文を引用します。
 
本年は戦後七十年に当たります。先の戦争では、太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ、数知れぬ人命が失われました。祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲(しの)ばれます。私どもはこの節目の年に当たり、戦陣に倒れた幾多の人々の上を思いつつ、パラオ共和国を訪問いたします。パラオ共和国は、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国と共に、第一次世界大戦まではドイツの植民地でしたが、戦後、ヴェルサイユ条約及び国際連盟の決定により、我が国の委任統治の下に置かれました。そしてパラオには南洋庁が置かれ、我が国から多くの人々が移住し、昭和十年頃には、島民の数より多い五万人を超える人々が、これらの島々に住むようになりました。終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで、この戦いにおいて日本軍は約一万人、米軍は約千七百人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。この度のパラオ共和国訪問が、両国間にこれまで築かれてきた友好協力関係の、更なる発展に寄与することを念願しています。私どもは、この機会に、この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに、パラオの国の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に、慰霊碑や墓地の清掃、遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し、大統領閣下始めパラオ国民に、心から謝意を表したいと思っております。この訪問に際し、ミクロネシア連邦及びマーシャル諸島共和国の大統領御夫妻が私どものパラオ国訪問に合わせて御来島になり、パラオ国大統領御夫妻と共に、ペリリュー島にも同行してくださることを深く感謝しております。終わりに、この訪問の実現に向け、関係者の尽力を得たことに対し、深く感謝の意を表します。(産経新聞 2015.4.8

小澤さんは上記の天皇のスピーチ全文のうち「太平洋に浮かぶ美しい島々で・・・」という言葉を「日本国憲法をきちっと守っていく」決意の言葉として受けとめるのですが、元新聞記者の「アリの一言」ブログの主宰者は天皇のスピーチのはじめの部分の「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ人となった人たちが深く偲ばれます」という一節に着目した上で「耳を疑う発言です。南島で戦死した兵士は、『祖国を守る』ために戦地へ行ったのか。そうではありません。日本帝国主義の侵略戦争のために、その戦線を守るために派兵され、玉砕したのです。侵略戦争を『祖国防衛戦争』であったかのようにいい、戦争責任を棚上げすることは許されません」というコメントを述べています。「アリの一言」ブログ主宰者のように天皇のスピーチのはじめの部分の一節に着目すれば小澤さんのような極端に主観的な天皇のスピーチ解釈は出てこようもないもののように私には思われます。小澤さんのような天皇のスピーチ解釈は「リベラルの人」の天皇のスピーチ解釈とはとても思えません。連想するのは天皇の「勅命」(その多くは間接的なものだったでしょう)を現人神の言葉として直立不動で奉勅する軍人の姿です。しかし、いまや、いうまでもなく軍人の時代ではないのです。
 
小澤さんの天皇に対する姿勢にとても「リベラルな人」のものの見方を見出すことはできません。そこに見出せるのはリベラルの「右傾化」です。あるいは「右傾化」思想と呼ぶべきものです。その「リベラルの総右傾化」とでも呼びたい現象がこの国全体をいかに「右傾化」させているか。いまという「右傾化」の時代がそのことを雄弁に証明しています。ひとつ前の記事でも書きましたが、社民党が自民党を支持しても平然としているという大分の風潮はまさにそのことの雄弁をさらに二乗する証明になっているでしょう。
 
私は小澤さんの上記の記事を読んだ同じ日に弁護士の澤藤統一郎さんの「主権者としての主体性を鍛えようーいささかも天皇を美化してはならない」という記事も読みました。澤藤さんの記事は「天皇を美化」することの危険性をさらに弁護士らしい観点から詳説しています。以下、澤藤さんの記事の最後の章節を引用しておきます。含蓄のあるサジェスチョンとして私は受けとめました。
 
戦後社会の支配の仕組みにおける、象徴天皇の利用価値を侮ってはならない。現天皇の意思を忖度して君側の奸を攻撃する類の言説をやめよう。親しみある天皇像、リベラルな天皇像、平和を祈る天皇像は、「天賦民権・民賦国権」の思想を徹底する観点からは危険といわざるを得ない。もちろん、「恩賜の民権」などの思想の残滓があってはならない。われわれは、主権者として自立した主体性を徹底して鍛えなければならない。そのためには、天皇の言動だけでなく、その存在自体への批判にも躊躇があってはならない。(澤藤統一郎の憲法日記 2015年4月13日
むらやま 
村山富市元首相(最後の社会党委員長)

今回の大分県知事選では実質上の自・公推薦で現知事の広瀬勝貞候補、実質上の民主党推薦で前大分市長の釘宮磐候補、共産党公認の山下魁候補ほか2名が立候補していますが、社会党最後の党委員長で元首相の村山富市氏は今回の知事選では自・公推薦候補者の広瀬勝貞現知事を応援しています。
 
村山元首相が実質上の民主党推薦の前大分市長の釘宮磐候補を応援しない理由は理解できます。上記の地元紙の報道に出てくる釘宮候補を支援する吉良州司衆院議員は民主党内でもタカ派に属し、思想も明確にプチ右翼的です。釘宮候補自身もかつて民主党の衆院議員であり、民主党内においても右派系に属する議員でした。彼の大分市長在任当時の政策も場当たり的なもので相対的にこなしてきた市民との対話の場もポピュリズム的なもので実質のあるものではありませんでした。

しかし、だからといって、村山元首相は、なぜかつての社会党の共闘相手の共産党ではなく、自民党の広瀬勝貞現知事を応援するのでしょう? いま自民党に投票し、また、応援することは、改憲(壊憲)色をいっそう強めている安倍政権を必然的に信任することにつながり、その行為は結果として「平和を危うくする方向に国を動かすこと」に加担することにならざるをえません(澤藤統一郎の憲法日記 2015年4月9日)。「平和」を党是としてきた社会党の党首であり、いまも「平和」を党是としている社民党の名誉党首の村山元首相が「戦争」の道に加担することがあってはならないでしょう。そして、それが最小限のかつて社会党の党首であり、いま社民党の名誉党首である村山元首相のとるべき党人としての倫理というべきものでしょう。
 
かつて村山元首相は社会党の最後の党首として「自衛隊合憲、日米安保堅持」という所信表明演説をして文字どおり日本社会党を壊滅させてしまいました。いま村山元首相は安倍政権の「戦争」の道に加担し、今度は社民党の壊滅に手を染めようとしています。もう選挙戦は終わりましたが、村山氏がほんとうに「良心の人」(かつて選挙用ポスターで用いられていた言葉)であるならば、村山氏にいま必要なことは同氏がつい昨日まで大分県知事選選挙で「平和」を党是とする社民党の名誉党首として自・公推薦の広瀬候補の応援をしていたことの誤りを「良心」に基づいて認めることです。そうではありませんか? 村山さん。
 
村山元首相はかつて「社民党の役割は終わったのでしょうか」というインタビュアーの問いに応えて以下のように述べたことがあります。
 
「そんなことはない。圧倒的多数を持っている自民党に対して、理念、政策ではっきり対決できる政党が必要だ。共産党では結集できない。社会民主的な路線の政党がなきゃいかん。その中核となって推進する役割を担っていくのが大事じゃ。リベラルを結集するには、護憲とか脱原発とか、国民の暮らしを土台にしたさまざまな運動を包含するだけの幅を持たないかんということだ。なのに社会党時代から、依然として一つのイデオロギーにこだわって論争ばかりやってきた。党の体質的欠陥があった。」(「社民党首選きょうから投票 村山富市初代党首に聞く」朝日新聞 2013年10月12日
 
結局、村山元首相がかつての社会党の共闘相手の共産党ではなく、自民党の広瀬勝貞現知事を応援するのは、かつての社会党員、いまの社民党員に根強い「反共産党」主義が根強いだけでなく、根強く深く精神に染みついてしまっているからでしょう。そして、今回の広瀬候補支持で図らずも村山元首相は「反自民」よりも、すなわち「戦争」の道を阻止することよりも、「反共産党」の方を選択するという「反共左翼(左翼よりも「反共」の方に重点がある)」の本質を露わにしてしまったということでしょう。これでは「リベラルの結集」、すなわち「革新統一」は市民をたぶらかすお題目だけの夢のまた夢ということにしかなりません。このようなありさまのままでは社民党もいずれ近いうちに壊滅の憂き目を見ることは必定と言っておかなければならないでしょう。

追記(4月13日):
大分の社民党支持者(主に自治労系)はいまだに村山元首相を「良心の人」などと言っている。そして、多くの社民党支持者の票が実質自民党の広瀬勝貞候補(当選)に流れた。大分の社民党は現吉田社民党党首の地元でもある。大量の票を動員して吉田社民党党首を実現した。自民党に一斉に投票する社民党とはなんだ。彼ら彼女らに「政治」を語る資格はない。まして「平和」を語る資格はない。そうしたていたらくの限りの社民党に「社民党王国」の名を献上している大分県自治労の諸君、すなわち大分県の地方公務員諸君を激しく軽蔑する。
明日は統一地方選(前半)の投票日です。私の地元の大分県、大分市でも大分県知事選と大分県議選の投票があります。私は13年前に大分の地方政治に風穴をあけたいとして当時「NEWS23」のキャスターをしていた郷土の先輩としての筑紫哲也さん宛てに筑紫さんの友人で湯布院・亀の井別荘の中谷健太郎さんと日田・小鹿田焼窯元で筑紫さんの小学校時代の同級生の坂本茂木さんと連名で県知事選立候補要請の手紙を書いたことがあります(手紙そのものは私が書きました)。
 
筑紫さん没後、「NEWS23」の番組スタッフをされていた某TBS記者から「筑紫さんとは番組終了後一杯やる機会が多かったが、筑紫さんは立候補要請の手紙を受け取ることはしばしばあったがもっとも心が動かされた手紙だとよく話していた」というメールが私宛てに届きました。私も私たち有志の心が届くように心をこめて書きました。結果として、筑紫さんからは立候補の要請は断わられましたが、その後、筑紫さんとの付き合いが始まることになりました。思い出の手紙です。その思い出の手紙で私は地方政治の刷新をどのように語ったか。そうです。主題はあくまでも「地方政治の刷新」でした。明日の投票日を前にして筑紫さん宛てのその手紙を再録させていただこうと思います。

シャクナゲ
 
2002年11月18日
 
筑紫哲也様
 
大分県知事選を考える市民フォーラム
われ=われ・ネットワーク世話人 東本高志
湯布院・亀の井別荘 中谷健太郎
日田・小鹿田焼窯元   坂本茂木 
 
筑紫さん
 
見ず知らずの者がはじめて差し上げようとする手紙として、あなたをこのように気安くお呼びしてよいとは思っていません。おそらく礼を失することになると思います。が、朝日新聞記者当時からのあなたの記事やテレビでの企画番組を読み、見てきた者としてほかに適当な呼び方を思いつきません。失礼をお許しください。
 
実は私は、どのようにこの手紙を書き続けていってよいものかどうかとまどっています。おそらくあなたが欲していないであろうこと、そしてかつおおいに疎まれるであろうことについて書いていかなければなりません。しかし、意を尽くしたい、と思っています。私にできることはそれだけです。どうか最後までお読みください。
 
筑紫さん
 
遠まわしで言っても同じことであるならば、たとえ、あなたが疎まれても、単刀直入に言うより法がありません。私たちは、あなたに来春の大分県知事選に出馬していただきたいと考えています(どうか嫌気を差さないで、読み続けてください)。あなたにはこれまで、いろいろな所から、さまざまな形で、出馬要請があったと聞いております。またあなたは、そのたびに断り続けていらっしゃるとも聞いております。長年あなたを見てきて(メディアを通してというかたちにならざるをえません)、「政治」という胡散臭いものにかかわりたくないというお気持ちを強くもっていらっしゃるだろうことは、私たちにもよく理解できるのです。しかし、私たちは、あえてあなたにお願いしたいと思っています。放擲なさらずに、どうか最後まで読み続けてください。
 
私たちとはもちろん標記の「われ=われ・ネットワーク」を指します。この10月に別紙の「設立主旨」にもとづいて設立された文字どおり「われ」と「われ」のばらばらな市民の集まりです。これまで大分県各地で地道にさまざまな活動を続けてきている市民グループ、議員、市民の声を発信し続けている個人に呼びかけて、直接には30名ほどの賛同者が集まって結成されたものですが、われ=われの主旨に賛同する広範な市民が背後にいると私たちは確信しています。
 
私たちは、これまで政党、あるいは企業や組合まかせであった知事選を、市民の目線で考え、市民主導型の県知事をつくりだしたいと考えています。その点、平松現大分県知事の事実上の後継者として自民党という政党主導によって担ぎだされた広瀬勝貞・前経済産業事務次官(筆者注:現大分県知事)は、政党や組織が候補者を上から押しつけるという住民不在のこれまでの候補者選考のパターンを踏襲しており、そうした意味で、私たちは、彼の人柄・政策のいかんにかかわらず彼の出馬にノーをいう以外ありません。広瀬氏が仮にどんなに優れた人物であり、どんなに優れた政策をもっていようと、その選考過程から見て、政党とのしがらみや自民党的政策(もちろん、自民党の政策がすべて悪いと思っているわけではありません)のしばりから抜け出すことは困難だろうと思われるからです。
 
筑紫さん
 
あなたが日田の小野のご出身で、広瀬さんもまた日田の豆田のご出身であることは、私も存じ上げています。またあなたは、広瀬さんの兄上(テレビ朝日社長)とも朝日新聞社で同期の間柄とも伺っています。そのあなたが郷里の日田市をあえて二分するようなことをなさろうとするはずがないであろうことは世事に疎い私にもおおよそ察することができます。しかし、私たちは、日田を二分しようとはもちろん思っていませんし、広瀬さんを悪玉扱いするつもりもありません。広瀬さんノーをいうのは上記の理由に尽きるのです。
 
このあたりで私の自己紹介を少しさせていただけますでしょうか。私は、筑豊の石炭積出港であった若松市(旧)の出身で、今年52歳になります。20余年前、日田の千倉という集落出身の妻と知り合い、結婚しました。が、はじめて彼女の家族に紹介されたのは彼女の姉が嫁いでいた小野の集落でした。その日、彼女の姉の夫の葬式があったのです。そういうことは実はどうでもよいことです。が、原風景(私にとっては第二の原風景ということになるのですが)のようなものがもしかしたら筑紫さんと共通しているのではないかと思えるのです(多少、こじつけ気味であることをお許しください)。ここではただ、私も筑紫さんとおそらく同じように日田市を二分するようなことを望んでいないことを申し上げたいのです。筑紫さんが県知事選に出馬したとしても、日田は二分されることはないと思います。日田人が理に明るいのは、筑紫さんもよくご存知のはずです。広瀬さんとけんかするわけでもなく、また敵愾心をもつわけでもなく、大分・日田を愛する者同士がただ民意の汲み上げ方について論争するのです。だれが怒るでしょうか。「日田モンロー」(筆者注:大分・日田人の気性をあらわした言葉。モンローはモンロー主義の略)は健全だと思います。
 
筑紫さん
 
私たちが筑紫さんに知事選の出馬を要請するのは、ひとえに地方自治を市民の手にとり戻したいからにほかなりません。これまでの平松県政は、平松さんのかつての施策をすべて否定するものではないのですが、平松さんお気に入りのブレーンによる一握りの人たちによる県政運営の結果、昨年の「週刊金曜日」の『知事の採点簿』でもワースト4と評価される事態に陥っています。私たちは、あなたの政治に対するスタンスのとりかたに共感しています(これも、メディアを通してのことではありますが)。政治の有意味性を肯定しながらも、政治にそれほどの期待感をもっているわけでもない。口幅ったい言い方になって恐縮ですが、その市民的センスがいまの地方自治には必要だと思われるのです。
 
湯布院の中谷健太郎さんが主宰する「ふくろうが翔ぶ」VOL.8にあなたへのインタビュー記事が掲載されています。その中であなたは「大事なことは、湯布院なら湯布院という町が守るに値するもので、町の雰囲気を、自然も含めて自分たちが守ってゆきたい、大事なものだと思う人が増えれば増えるほど、異物に対する抵抗力が強くなってゆくんですよ。とにかく自分たちの所を固めることが大事だっていう気がする」とおっしゃっています。あなたは地方自治を「守るに値するもの」と思っていらっしゃるはずです。私たちも大分を「守るに値するもの」と思っています。あなたとともに大分をもっと「守るに値するもの」として育てていくことはできないでしょうか。そういう意味で、筑紫さんのお力をお借りしたいと思っているのです。
 
筑紫さん
 
あなたは「私には力などない」といわれるに相違ありません。そして「私は怠け者だ。365日稼動の知事職などつとまらない」ともいわれるに違いありません。これは私が想像して言っているのではありません。先日、「自由の森大学」の事務局長の原田さんにお会いしたときに、彼から筑紫さんがそう言っていたとお聞きしたのです。その際、筑紫さんが母校の早稲田大学と長崎県立大学の教授職をお引き受けになられたという話も聞きました。
 
「NEWS 23」のキャスターをつとめながら、週刊誌への執筆、土・日を利用した講演活動など筑紫さんが怠け者であるはずもありませんが、いわれる意味はわかります。そして、いわれる意味において、私も怠け者は大好きなのです。いま、怠け者こそ知事になるべきだとも思います。先のインタビュー記事にあった「異物に対する抵抗力」は怠け者ほど強いのではないでしょうか。また筑紫さんが早稲田大学などの教授に就任されたことも、私たちの要請に対するデメリットになるとは私は思っていません。プロ野球と同列に論じることはもとよりできませんが、昨年の星野仙一氏の例もあることです。これもまた僭越な言い方になってしまうのですが、求められて、よりよくわれを活かそうとしている者を、だれが止めることができるでしょうか。関係者は、きっと快く了解してくださるに違いないと思うのです。
 
筑紫さん
 
私たちは、あなたを必要としています。民の力に思いいたすこともなく、ただひたすら官に従って、それをよしとしてきたこの大分の地に実り多い風穴をあけたいのです。市民の手によって政治を変えることができる。そのことを市民としてのわれ=われ一人ひとりの胸にたたきこみたいのです。私たちは決してあなたを一人ぼっちにはさせません。怠け者としての連帯感をもって、あなたとともに手を携えて、ともにぼちぼちと歩こうと思っています。私たちにはわからないさまざまなご事情がおありだと思います。そこをなんとか乗り越えていただきたいのです。
 
意を尽くすことはもちろんできませんでしたが、それなりに言うべきことは言った気がします。私たちは、当然のことながら、どういう結論であれ、筑紫さんが決められたことを尊重します。筑紫さん、一度お会いすることができれば幸いに存じます。
 
早々
 
注:読みやすさのために段落ごとに1行分の空白を設けましたが、その他は原文のままです。
ヤマブキ

【統一地方選挙】
・統一地方選挙に突入しましたが、自民党推薦候補たちが、こぞって中央政府とのパイプのごとく言い出すのは、心底、下品です。安倍氏に対して尻尾を振っているだけの人たちです。反対意見、少数意見を尊重する姿勢などさらさらなく、強い者に尻尾を振ることができる人たちによって安倍総理を頂点としたピラミッド構造を作り上げている自民党。中央政権とのパイプを強調して権威だけを振りかざし、他方で本来、地元のためには反対すべきことも反対しないような人たちが、地方の名士気取りで議員をやっているだけの集団が自民党ですが、これが安倍氏のピラミッド構造を下から支えているのです。お友達人事は、このピラミッド構造を強固にするためのものです。みな、「大抜擢」を狙って、安倍総理のご機嫌を取るわけです。自然と安倍氏を取り巻く人たちは権力が大好きな人たちばかりになります。そして
右翼チックなことを言って喜んでいる三原じゅん子氏のような例をみれば、よくわかります。調子の乗るだけでなく、暴走しているのです。今やこのような表現がぴったりです。「自民党にあらずんば人にあらず右翼チックなことを競い合っているような安倍政権を信任しますか。私たちに問われているのです。(弁護士 猪野 亨のブログ 2015/04/02

・統一地方選挙前半戦の投票日(4月12日)が近づいている。(略)安倍自民党への投票は、平和を失う一票となりかねない。あなたが平和を望むのなら、国の内外に大きな不幸をもたらし、自らの首を絞める愚かな投票をしてはならない。この安倍自民に「どこまでも付いていきます、下駄の雪」となっているのが公明党である。安倍自民の悪業の共犯者となってこれを支えている公明党に投票することも同様なのだ。権力につるんで甘い汁を吸っている者はいざ知らず、庶民は、自・公両党に投票してはならない。自分の首を絞める愚をおかしてはならない。(
澤藤統一郎の憲法日記 2015年4月9日

・「国会サボり事件」で大阪維新の会を除 名になった上西小百合衆議院議員への、橋下市長からのバッシングが止まりません。(略)橋下徹維新代表の、「加害者なのにいきなり正義のヒーローかつ被害者になる」の術に騙されてはいけません。それではということで、今日は冒頭の週刊新潮の
特集の中から、中身はポンコツばかり(笑)、「橋下チルドレン不祥事一覧」、をご紹介しますのでお読みください。(略)上西議員なんて目じゃない!スキャンダル議員のオンパレード!!これでもあなたは、橋下大阪維新の会に投票しますか?Everyone says I love you ! 2015年04月10日

第一次の時はまだ国民は民主党という希望を託せる先があったから安倍・自民からどんどん離反していって支持率が下がりまくった。けれど、結局民主政権になってみたら自民と変わらず大失望。だから今回「他にどこもない」とますます政治に関心を失って、安倍消極支持が続いてるのだと思うのです。(略)何が民主党の罪かと言えば、これが一番の大罪です。(略)今の戦後最悪の民主主義破壊政権を固定させた立役者は民主党なのです。(Afternoon Cafe 2015/02/28

【沖縄】
・積もり積もったものをはき出さずにはいられない。これまでの政府の対応を「政治の堕落」とまで言い切った翁長雄志沖縄県知事には、そんな強い思いがあったのだろう。菅義偉官房長官との初の会談に臨んだ翁長氏の言葉を、国民全体で受け止めたい。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設をめぐる両者の主張の隔たりは大きい。会談で菅氏は「今工事を粛々と進めている」と言い、翁長氏は「辺野古の新基地は絶対に建設できません」と、平行線のままだった。歩み寄りの難しさを改めて浮かび上がらせた。菅氏は「日米同盟の抑止力維持、(普天間の)危険除去を考えたときに辺野古移設は唯一の解決策」「辺野古移設を断念することは、普天間の固定化につながる」と繰り返した。翁長氏は米軍の「銃剣とブルドーザー」による強制的な基地建設の歴史を振り返り、「県民に対して大変な苦しみを今日まで与えて、普天間の危険性除去のために沖縄が負担しろと。それは日本の国の政治の堕落ではないか」と追及した。戦後70年間、沖縄の米軍基地撤去のために、政府がどれほどの努力をしてきたのか。日本の安全保障政策は常に基地負担にあえぐ沖縄の犠牲の上で成り立ってきた現実を、今こそ国民に見つめてほしい。翁長氏の指摘は、そんな重い問いかけだととらえるべきだ。会談は、菅氏が米軍キャンプ瑞慶覧の西普天間住宅地区の返還式典に出席するタイミングで設定された。政権には基地負担軽減に取り組む姿勢をアピールする狙いがあった。自民党内からも丁寧な対応を求める批判が出始め、統一地方選を前に政権のイメージ悪化を食い止めたいという思惑も働いたのだろう。だが沖縄県内では「安倍首相の訪米を控え、沖縄側の意見は聞いたというアリバイにしようとしているのでは」と、今回の会談自体に懐疑的な声が出ている。信頼関係が壊れているなかで、県民の意思に誠実に向き合えたのだろうか。菅氏は「これから国と沖縄県が話し合いを進めていく第一歩になった」と語った。翁長氏も応じる意向だ。これまで「聞く耳持たぬ」という対応を続けてきた政府は、沖縄からの苦言にとことん耳を傾けるところからやり直すべきだろう。そのためにまず、辺野古で進める作業を中止すること。それが話し合いに臨む最低限のルールではないか。もはや「粛々と」ではすまない。(
朝日新聞社説 2015年4月6日

・今回の翁長知事と菅官房長官の面談においては、明らかに翁長知事の言い分の方が真っ当だった。翁長知事は、菅官房長官に対して安倍総理との面談を求めたが、小心者の安倍晋三が応じる可能性は低い。安倍発言によっては、沖縄県民の気持ちを逆なでする可能性が高い。自衛隊を「
わが軍」と呼んだり、三原じゅんこ自民党女性局長が八鉱一宇」を持ち出して予算委員会で演説したり、谷垣禎一幹事長が、韓国人や朝鮮人に対するあからさまな差別用語をを不用意に発言したり、タガが緩んでいる自民党には辟易である。菅官房長官は沖縄に来て、仲井真弘多前知事や国場組幸一会長らとも面談した。自民党県連関係者ともあったが、県連会長に就任した島尻安伊子参議院議員は挨拶の中で、辺野古の反対運動に対して「責任のない市民運動だと思っている。私たちは政治として対峙する」「反対運動の声の大きさに恐れおののかず、毅然と冷静に物事を進めないといけない」などと発言した。この島尻氏は、元民主党沖縄県連代表をつとめた島尻昇夫人。出だしは、那覇市議選の補欠選挙での出馬。この島尻氏とは応援したこともあるし、面識もあるが、最近の言動はいただけない。参議院予算委員会で特定秘密保護法が強行採決された日に、自民党席に向かって「立て立て!」と煽った張本人である。その後も予算委員会で、辺野古の反対運動対策をどうするのか、警察の対応について追及したこともある。安倍政権に迎合しているのかもしれないが、自民党県連の中ではもっとも右翼的動きを見せている議員だ。来年の参議院選挙では、もっとも落としたい議員の一人である。それはともかく、統一地方選挙が盛り上がりに欠ける。おそらく、投票率も最低の記録を打ち立てるのではないか。その背景の一つが、安倍政権のやりたい放題に有権者がしらけて、政治的関心が低下しているせいではないかと思う。しかし、それでは安倍政権が勢いずくだけだろう。ヤバイ政治状況だ。(岡留安則 2015.04.06

・4月5日の菅官房長官との会談の中で翁長・沖縄県知事は、<辺野古がだめなら、世界一危険な普天間基地の移設先について代案を示せ、でなければ普天間基地の固定化につながる>と主張する菅官房長官ら政府の言動を指して、意に反して強制接収された基地あるがゆえに辛酸を味わってきた沖縄県に向かって「こういった話がされること自体が日本の国の政治の堕落ではないかと思う」と厳しく批判した。実はこれと同旨の発言を、今から約2年半前に前任の仲井真知事がしていたことを記しておきたい。「知事、普天間固定化は『堕落』 政府姿勢を批判」(
『琉球新報』2013年11月2日)この記事のなかで仲井真・前沖縄県知事が2013年11月1日に行われた定例記者会見の中で次のような発言をしたことが伝えられている。「仲井真弘多知事は1日の定例記者会見で、米軍普天間飛行場の移設先とされる名護市辺野古沿岸部の埋め立てを知事が承認しなければ、普天間が固定化するとの考えが政府内にあることについて『固定化という発想、言葉が出てくるのは一種の堕落だ』と強く批判した。県外移設を求めている知事として、辺野古移設か固定化の二者択一を迫る政府の姿勢をけん制した形だ。・・・・・『(役人が)固定化と軽々言うのは自分が無能だと表現することだ。・・・・』と厳しく指摘した。」(略)この仲井真前知事の発言からすれば、菅氏は官房長官の任に置いてはダメな、無能な人となる。また、こう言ってから1ヶ月半後に、「普天間基地の危険性除去が最優先と称して、辺野古移設を容認した仲井真氏もまた政治家の堕落の極みと言わなければならない。(醍醐聰のブログ 2015年4月7日

【天皇問題】
・天皇と皇后のパラオ訪問(略)の論調は例外なく、「両陛下のお気持ちを私たちもよく考える必要がある」(古舘キャスター)など、「平和を願う慰霊の旅」として賛美・絶賛するものです。しかし、天皇・皇后のパラオ訪問は、はたしてそのように評価できるものでしょうか。
美化された映像・報道の裏で、重大な問題が不問に付されていると言わざるをえません。天皇は8日の晩さん会でのスピーチでこう述べました。「先の戦争においては貴国を含むこの地域において日米の熾烈な戦闘が行なわれ、多くの人命が失われました。日本軍は貴国民に、安全な場所への疎開を勧めるなど、貴国民の安全に配慮したと言われておりますが、空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした」日本軍はパラオ住民の「安全に配慮」したが「犠牲者」が出たのは「痛ましい」と、まるで他人事のようです。しかし、パラオ住民が犠牲になったのは、戦争に巻き込まれたからにほかなりません。その戦争の最高責任者は誰だったのか。言うまでもなく、現天皇の父である昭和天皇です。(略)天皇・皇后のパラオ訪問が、まるで他人事のようになった根源は、実は出発前に天皇が行ったスピーチ(羽田空港)に表れていました。天皇はこう述べました。「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ人となった人たちが深く偲ばれます」耳を疑う発言です。南島で戦死した兵士は、「祖国を守る」ために戦地へ行ったのか。そうではありません。日本帝国主義の侵略戦争のために、その戦線を守るために派兵され、玉砕したのです。侵略戦争を「祖国防衛戦争」であったかのようにいい、戦争責任を棚上げすることは許されません。裕仁天皇の長男であり、父から「天皇制」について折に触れて教育を受けた明仁天皇が、天皇の侵略戦争の責任、現地住民や沖縄、朝鮮人への差別に目をそむけ、多大の犠牲を生じさせたことに「謝罪」の言葉もないまま、慰霊碑に供花しても、それは真の追悼とはいえないのではないでしょうか。(アリの一言(「私の沖縄日記」改め) 2015年04月09日
カイドウ

【アジアインフラ投資銀行の設立の波紋】
・中国のよびかけた
アジアインフラ投資銀行(AIIB)設立に、アジアの大半の国々、ヨーロッパ諸国、3月末には台湾までが参加して48か国・地域、新自由主義のもとでのアジア経済圏が、大きく再編されようとしています。(略)安倍首相にとっては、尖閣問題や竹島問題で対立する中国主導・韓国参加のAIIBの流れに逆らいたいということでしょうが、もともと今年は、日中韓の歴史認識が世界から注目される「戦後70年」です。「従軍慰安婦」問題を「人身売買」に矮小化した安倍首相の発言、4/29米国議会演説・8/15「首相談話」の中身がクローズアップされていますが、これまでの「侵略」や「植民地支配」に含意されているのは、「慰安婦」や「靖国」問題にとどまりません。「満州事変」に始まる15年戦争の全体、「満州国」から南京大虐殺重慶無差別爆撃三光作戦など、敗戦までの全過程が含まれます。(略)日本の細菌戦・人体実験問題も、調べてみると、中国・韓国側から日本の「歴史認識」を問う大きな争点になっています。本来なら国際法違反の明白な石井四郎らの細菌戦は、占領期にデータを米軍に提供して戦犯訴追をまねがれる密約により、免責されました。天皇戦犯を要求した朝鮮戦争直前のソ連ハバロフスク裁判は、中国内戦・米ソ冷戦下でうやむやにされました。731部隊の本格的研究は、1981年の森村誠一『悪魔の飽食』ベストセラー、常石敬一『消えた細菌戦部隊 関東軍第731部隊』刊行から国際問題化します。ちょうど「侵略」を「進出」と書き換えさせた文部省の教科書検定が韓国・中国の抗議をうけた頃です。(略)日本のネトウヨ・サイトには、731部隊の犯罪そのものを「つくり話」として否定する議論も散見されますが、これがもしも安倍首相の話として世界に広まり、本格的争点となったらと考えると、恐ろしくなります。(加藤哲郎のネチズン・カレッジ 2015.4.1

【米国とイランの「核の枠組み合意」問題】
イランと欧米が「核の枠組み合意」にこぎつけた。(略)欧米は、イランとしては譲れないウラン濃縮能力の保持自体は認め、イラン側は濃縮のスピードを抑え、IAEAの強制査察を受け入れるという妥協である。イランは、北朝鮮と並ぶ「問題国」の扱いを受けてきたが、北朝鮮とは権力の構造も体質も全然違っている。私が以前取材したとき、選挙で定員の何倍もの人数が立候補することや、マイクを向けた市民が堂々と政府批判をすることに驚いたが、この国には「世論」があり、北朝鮮と違って交渉が可能な国だと感じた。(略)この合意は本物だ。イランは、イラク政権の後見人であり、シリアのアサド政権のバックでもある。イラク、シリアが破綻国家になったことから、両国が事実上の内戦状態になり、「イスラム国」の台頭を招いた。いま「液状化」しているこの地域を、犠牲者を最小限にしながら、なんとか軟着陸させて民生を向上させていくには、存在感を強めるイランとの協調が不可欠である。その意味で、今回の合意は画期的だ。ただ、「最終合意」が予定される6月末までのこれから3カ月弱が正念場になる。イランを不倶戴天の敵とみなすイスラエルが、米国内のネオコン勢力と連携して必死に妨害にでるのは目に見えている。驚くような謀略が仕掛けられる可能性もある。さらに、シーア派の政治的台頭を許せないサウジなど湾岸アラブ諸国も強烈に反発するだろう。サウジは、先月下旬から、隣国イエメンのイスラム教シーア派の武装組織「フーシ派」を空爆しており、近く地上部隊を投入するとの観測が出ている。サウジ対イランの確執は強まっている。目が離せない。中東をめぐるこれからの動きを見る際のポイントの一つは、この「最終合意」である。(高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-04-03

【「若者」という同時代史】
・いかなる同時代史も、私という視座を抜きにして語れない。しかし、そこに若者をすえたら、時代はどうみえてくるだろう。エピグラフに記された
ジャニス・イアンの歌にあるように「17歳のころ、ほんとうのことを知った」というのは、だれにもあてはまる経験なのにちがいない。そのときの経験が、生涯を貫く希望や無念や悔恨となって持続することもある。かつてはだれもが若者だった。だとすれば、主体なき歴史より、若者に視座をおいた同時代史のほうが、時代の実相をあぶりだしてくれるのではないか。若者といえば、明るく、さわやかで、活気があるというのが、世間では通り相場になっている。ところが、ここに出てくる若者たちは、どちらかというと不機嫌で、時に反抗的にさえみえる。若者の実像は、ほんとうはこちらに近いはずだ。最初に著者は、戦後社会にとって若者は、どういう存在として期待されていたかを概観している。高度成長期に企業が求めたのは、全般的な理解力と協調性があって、企業にとけこみ、よく働く若者である。「成績・性格・体力」の3点セットだった、と著者はいう。若者は家族からも期待されていた。親たちは子どもを教育することで、ひそかに自分たち一家の「階層の上昇」を願った。さらにいえば、若者は消費の担い手でもあった。戦後の家族消費は、家電製品からはじまって、自動車へ、そして最後に住宅に向かった。個人消費がはじまるのはそのあとで、その先鋒になったのが若者だったという。若者文化がはじまるのは1960年代なかばからだ。 しかし、それは社会の期待した若者像であり、若者の実像ではなかったし、まして若者自身の〈社会意識〉ではありえなかった。著者は若者の時代を探るために、歌謡曲や小説、映画、テレビドラマなどから、社会が期待する若者像とは異なる実像を浮かびあがらせようとしている。それは、たとえば「不機嫌で、ふくれっ面をした」17歳の美空ひばりであり、基地と混血児の宿命を追って流転する歌手、青山ミチである。それから(略)のちの森進一や永山則夫も含まれていた。(海神日和 2015-04-03

【「定額働かせ放題法」問題】
残業代ゼロ法案について、1000万円以上の「年収要件」があると勘違いしてはいけない。それは、法案のごく一部に過ぎず、大幅に拡張される「裁量労働制」には年収要件がない。営業職の多くや、管理職の大半をも「残業ゼロ」にできかねいない改正内容なのだ。先ほどの院内集会がNHKのニュース7で放送された。だが、またしても誤報、誤報、誤報。成果で評価されるようになると、間違いを繰り返していた。(略)今回の法改正で、「成果で評価する仕組み」については何も規制しない。ただ、残業代がゼロになり「定額使い放題」になるだけ。NHKが使っていた「就職活動中の学生」の意見が印象的。「成果で評価されるようになって、わかりやすくなる」というコメント。まったく、事実誤認。今回の制度で、「成果を評価する仕組み」は何も規定されないのに。誤報で誤認させ、誤認を報道するという「マッチポンプ」状態である。実際に、学生たちは「成果で評価されること」を求めている。無限のノルマが課せられる日本の企業では、「仕事はここまで」ということが必要だからだ。別の学生は「仕事の量が変わらないのに、残業ゼロでは不公平」と言っていた。だが、この法律が通れば、「定額使い放題」だから、仕事の量も増えるのだ。「成果主義批判」では、まうます誤認が広がるばかり。今回の法改正では、「成果主義」にすらならない。ただ、残業代がゼロになるので、「定額使い放題」になるだけ。しかも、労働者には「裁量」も必要ない。つまり、会社の命令で朝から晩まで、休日も働かせ、それでも「定額」でよくなるという法律。(略)私は10年くらい労働運動にかかわってきたが、今回のような事態は初めてだと断言できる。派遣問題の時も、フリーターやニート問題などのときも、「事実」を元に訴えさえすれば、メディアの報道は改善していった実感がある。だが、今回の法案については、どんなに事実を示しても、効果がない。「政府に統制されたメディア」との批判は、私が最も嫌いな論法である。自分の主張に沿った報道は、自然には落ちてこないからだ。だから、「事実」を丹念に収集・分析し、提示する。私はそうして「ブラック企業」を社会問題にした。だが、今回の法案に関しては、どんなに努力しても、政治的に無視される。(今野晴貴Twitter 2015-04-03,04