先日の2月24日の河野洋平元衆院議長の「今は保守政治と言うより右翼政治のような気がする」という安倍首相批判はメディアのウェブ版に比較的大きくとりあげられていたこともあり、私として目を引きました。が、河野元議長に限らず、自民党元幹部の安倍首相批判はこのところ続出しており、備忘録として本ブログにも逆時系列に記録しておきたいと思います。その上で最後にその自民党元幹部たちの安倍首相批判はなにを意味しているのか? 五十嵐仁さん(元法政大学教授)のブログ記事を引用して論点を整理しておきたいと思います。
 
はじめに自民党元幹部の安倍首相批判の記事を逆時系列に整理しておきます。以下に名前の出てくる自民党元幹部は山崎拓(元副総裁)、古賀誠(元幹事長)、河野洋平(元総裁)、福田康夫(元首相)、野中広務(元幹事長)、中曽根康弘(元首相)各氏。これだけのそうそうたる自民党元首相、元総裁、元副総裁、元幹事長に総批判される安倍晋三現首相とはなにものか? 少なくとも自民党はかつてない危機的な状況に陥っていることだけは確かなことだといわなければならないでしょう。 
 
2月26日:「イスラム国」人質事件で自民山崎拓“安倍流”を叱る(ドット・朝日新聞出版 2015/2/26)
2月26日:古賀誠元自民党幹事長「安倍首相に対抗する勢力必要だ」(ドット・朝日新聞出版 2015/2/26)
2月24日:河野元議長、村山談話の踏襲を 自民「右傾化」懸念(共同通信2015/02/24)
2月24日:松田喬和のずばり聞きます 元首相・福田康夫氏(毎日新聞 2015年02月24日 東京夕刊)
2月21日:福田・元首相「国立追悼施設は必要」 70年談話に「過去の反省を」(毎日新聞 2015年02月21日 東京朝刊)
2月15日:野中氏、首相を叱る 沖縄の痛み分からぬ政治に憤慨 戦争は絶対にやってはならない TBS番組(しんぶん赤旗 2015年2月16日)
 
そのほか中曽根康弘元首相の安倍首相批判もあります。
 
中曽根康弘「かなりおかしい」安倍晋三首相は、63年も「集団的自衛権行使なし」できたのに、いまさらなぜ?(BLOGOS 2014年02月15日)

以下、五十嵐仁さんの「相次ぐ自民党元重鎮の安倍首相に対する懸念と批判」から。
 
相次ぐ自民党元重鎮の安倍首相に対する懸念と批判
(五十嵐仁の転成仁語 2015年2月27日)
 
毎日新聞2月24日付夕刊に、福田康夫元首相のインタビュー記事が大きく出ていました。2月23日に豊島区民センターで行われた9条の会東京連絡会での講演で、自民党幹事長のOBなどによる安倍首相に対する批判について紹介し、「次に登場する可能性があるのは福田元首相でしょう。どこかで突撃取材でもしたらどうでしょうか」と発言しました。
実際にはこのころ、すでに毎日新聞の記者によって福田元首相に対する取材がなされていたということになります。「過去の反省なければ、未来展望も重み失う」と題されたこの記事で、福田さんは次のように述べています。
 
−−しかし最近の日本、その「和の心」を忘れているように見える。ずばりうかがいますが、集団的自衛権行使容認などの安保政策の変更は、アジアの安定に影響を与えませんか。
 
福田氏 和を乱すようなことをすれば当然、問題視されるでしょうが、今まで議論してきたような内容の安保政策なら問題ないでしょう。ただ、今年から法制を含めて具体的議論をするようですから、あまりにも変わったことをやり始めたら、周辺国は疑念を抱きます。ここはよく考えて、70年かけて積み上げてきたアジア諸国との信頼関係を壊さないようにしないと。
 
−−その戦後70年の節目にあたり、安倍首相は新たな談話を出します。過去の「村山談話」「小泉談話」で述べられた「植民地支配と侵略」「痛切な反省」といった文言を生かすべきかどうかが焦点になっています。
 
福田氏 今の段階でとやかく言う必要はないと思いますが、「3点セット」は欠かすことができない。すなわち「過去の反省」「戦後70年の評価」「未来への展望」です。過去の反省なくして戦後の歩みの評価もできないし、未来への展望も、重みを失う。この三つがなければ談話の意味がありません。だからこれまでの談話と、そうそう変わったものにはならないでしょう。過去の談話は「閣議決定したものではない」という指摘もあるが、その時々の首相が言ったということは、国家としての意思、見解の表明です。それをころころ変えるようでは信頼されません。繰り返しになりますが、日本は70年も努力を重ね、アジア諸国の信頼を取り戻してきた。それを一気に失うかもしれない。国内だけでなく、国際社会をも納得させるものでないといけないんです。ならば、これも答えはおのずから出てくるでしょう。
 
−−同感です。安倍談話とともに靖国神社参拝問題も焦点になりそうです。
 
福田氏 靖国の存在自体を否定することはない。ただ先ほど言った過去の反省とアジアとの信頼関係で考えなければ。靖国神社は追悼が中心の施設です。安倍首相は「追悼と平和祈念」と言って参拝されたが、平和を祈るのは、別の場所のほうがいいのではないか。小泉内閣で僕が官房長官だった2002年、有識者懇談会から「別の追悼祈念施設をつくるべきだ」との答申を頂いたが、この考えは、今も生きていると思います。
 
−−アジアの多様性に触れられましたが、今の自民党内、安倍さんとその周辺に物を申しにくい、党内から多様性が失われた、と言われています。
 
福田氏 いや、いざという時が来れば、議員の皆さんはきちんと言いますよ。それに決して安倍さんは力任せに突っ走ろうなんて思っていない。ただメディアが黙っていれば、国民も皆「これでいいんだ」と思う。最近そういうの多いよね。
 
また、河野洋平元自民党総裁も、2月24日に名古屋市で講演し、自民党は右翼政治だと強い懸念を示しました。これについて、東京新聞2月25日付は次のように報じています。
 
河野洋平元衆院議長は24日、名古屋市で開かれた共同通信きさらぎ会で講演し、安倍晋三首相が今夏発表する戦後70年談話に関し、過去の「植民地支配と侵略」への反省を明記した戦後50年の村山富市首相談話の表現を踏襲するよう求めた。安倍首相の政権運営をめぐっては「自民党がこれ以上『右』に行かないようにしてほしい。今は保守政治と言うより右翼政治のような気がする」と強い懸念を表明した。
河野氏は、戦後60年の小泉純一郎首相談話も「植民地支配と侵略」に言及していることを踏まえ「日本の歴史認識が十年刻みで変わることはありえない。どういう文言で談話を書くかは決まり切ったことだ」と述べた。旧日本軍による従軍慰安婦問題に関する1993年の河野官房長官談話について「はっきりとした裏付けのないものは書かなかった」と述べ、「強制性」を認める文言は盛り込まなかったと強調。「強制性についての(当時の)文書は見つからなかった。しかし、強制性が全くなかったかと言えば、いくつか具体的なものはある」とした。
日米関係に関しては「(オバマ政権に対し)歴史修正主義者ではないと明確に伝え、懸念を払拭(ふっしょく)するのは非常に重要だ」とした。靖国神社参拝問題に関し、国立の戦没者追悼施設の新設を検討すべきだとの考えも示した。
 
さらに、山崎拓元自民党副総裁も、集団的自衛権行使容認の法制化を目指す与党協議など、一連の動きに対して、次のように警鐘を鳴らしています。ウェッブに公開されている『週刊朝日』2015年3月6日号からの抜粋を紹介しておきましょう。
 
――安倍首相は国会で、集団的自衛権行使の具体例として、ホルムズ海峡の機雷除去を挙げ、「わが国が武力攻撃を受けた場合と同様に深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況にあたりうる」と語った。
 
  集団的自衛権行使の要件には、日本と「密接な関係にある他国」が武力攻撃され、国の存立が脅かされることが挙げられています。
  石油の輸送ルートであるホルムズ海峡に機雷がまかれれば、日本の存立が脅かされる「存立事態」だといいますが、その場合、どこが「密接な関係にある他国」に当たるのか。ホルムズ海峡を通る国は全部になってしまう。これまでの政権の常識からしたら、「密接な関係にある他国」とは安保条約を結んでいるアメリカのことを指していたのに、それが安倍政権では世界中どこでもということになってきている。「グレーゾーン事態」の議論では、政府はオーストラリアも防護対象と言いだしています。その理屈だと、今ならヨルダンも入ってしまうかもしれない。際限がなくなってしまう。
  そもそも9条のある今の憲法では集団的自衛権の行使はできません。やりたいなら、憲法改正するしかない。民主主義の国なのだから是非を国民投票で問えばいい。戦後70年の外交安保政策の大転換を、閣議決定でなし崩しにやるべきではない。去年の閣議決定は間違いでした。
  安倍首相は今、戦闘地域へも自衛隊を派遣しようとしている。つまり武力行使をするということ。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という9条1項の内容に踏み込んできている。
  安倍首相は、自分がしていることの恐ろしさをわかっていない。「戦後以来の大改革」などと言って、タブーを破った快感に酔いしれて、個人の名誉心でやっているのです。
 
  山崎さんは、昨年1月6日付のインタビューでも、集団的自衛権について、次のように語っていました。
 
  ―― 安倍首相は、集団的自衛権の行使容認に向け前のめりになっています。どう見ていますか?
 
  まったく説明不足。私は「解釈改憲」については反対です。日本は世界に冠たる法治国家。その法治の根幹は、最高法規たる憲法にこそある。憲法の地位が揺らぐということは、法治ということを考えた場合、大問題だと考えています。
  もうひとつ。この解釈改憲というものは、とりわけ集団的自衛権についての解釈というものは、国際法上認められている権利ではあるものの、日本の場合は憲法9条に照らして、その行使ができないということになっている。これは歴代政権において解釈が確立されているんです。
  誤解のないように言っておくと、内閣法制局が確立したのではなく、その都度、内閣が閣議決定しているのです。つまり、従来の解釈に基く法律を出す場合は、内閣法制局が審査し、それを閣議にかけて国会に提出する。歴代内閣はこれを繰り返してきた。
  なおかつ、この解釈に関する国会質疑が、政権が替わる度ごとに行われており、時の内閣総理大臣が答えています。内閣法制局長官が答えることがしばしばあったのは事実だが、しかし、その時には『ただ今、内閣法制局長官が答弁したとおり、我が内閣におきましては、集団的自衛権の行使はいたしません』として、歴代総理が明言している。つまり、総理が決めること。法制局長官が決めることではない。
  歴代政権の中で、もっとも理念右翼と目されている安倍政権がこの解釈を変える。するとその次にはもっとも左翼と目される総理が誕生するかもしれない。そうなると、また変える。つまり、憲法が、時の政権の解釈によって、その都度変わってくる。もちろん、その部分だけではないでしょう。例えば、基本的人権の一部に関しても、あるいは認めないという解釈をする政権ができるかもしれない。≪そんなバカな解釈改憲はできない≫とその時の法制局長官が抵抗すると、安倍総理がやったのと同じように更迭して、『俺の言った通りに見解を出す奴を起用する』ということになりかねない。“悪しき前例”を作ろうとしているんです。これを認めるべきではない。
 
  これまでも、古賀誠、野中広務、加藤紘一などの自民党元幹事長が安倍首相に対して批判を繰り返してきました。これに、福田康夫元首相、河野洋平元自民党総裁、山崎拓元自民党副総裁が加わったということになります。
  自民党の現役議員たちは、これら先輩の懸念や批判をどう受け止めているのでしょうか。「いざという時が来れば、議員の皆さんはきちんと言いますよ。それに決して安倍さんは力任せに突っ走ろうなんて思っていない」という福田さんの発言が、単なる希望的観測にすぎないということでなければ良いのですが……。
高橋源一郎の今月の論壇時評「寛容への祈り 『怪物』は日常の中にいる」(朝日新聞、2015年2月26日付)の冒頭の一節。「『人質問題』をめぐり、いくつかのことを考えた。一つは、湯川遥菜さんについて語られることが少ないということだった。確かに、彼の行動の多くは、理解に苦しむものだった。だが、わたしたちはそうではない、彼は特殊なのだ、といえるだろうか。その、人間的な弱さ(と見えるもの)も含めて、実は、彼は『ふつうの人」だったように思える。そのことが、わたしには、とても悲しかった」。
 
ここで高橋の言いたいことは、同時期にISにもうひとりの人質として殺された後藤健二さんの死が「英雄」的に語られることに対比して湯川さんの死への追悼のつれなさ。人の「命の値段」は同等であってしかるべきなのに、ということでしょう(同じ日の同紙には酒井啓子さん(中東政治)の「『命の値段』が異なる理不尽」という論考も掲載されています)。しかし、それがそうではなかった。だから、悲しかった、と。
 
そうであれば、高橋は、次の小節で後藤さんの死に触れるとき、人の「命の値段」の同等性という観点から後藤さんの死についても語らなければならなかったでしょう。しかし、高橋は、「後藤さんが死線を超えて見つめた風景」の凛々しさについて語ります。これでは高世仁さんのいう「後藤さんの死の神格化」を補強しても、人の「命の値段」の同等性について述べたことにはならないでしょう。高橋の論理は冒頭から小さく破綻しているように私には見えます。
 
さらに「後藤さんが死線を超えて見つめた風景」の話は、後藤さんをはじめとするフリージャーナリストの「戦場」での紙一重の生と死の問題、「それにもかかわらず、彼らはまた『戦場』に」なぜ赴くのか、という問題につなげられていきます。彼らはまたなぜ戦場に赴くのか。「それは、『戦場』が、わたしたちにとって『遠い』出来事ではなく、わたしたちが享受している平和が実はか弱い基盤に載っているからだ」、と。そして、その「か弱い基盤」の問題は、「私たちの世界がはらんでいる病巣」の問題に帰着します。「彼らをまったくの異物と見なす視点には、自らの社会が陥った“狂気”の歴史に対する無自覚が透けている」(田原牧)という病巣。「だとするなら、わたしたちは、この『他者への共感』を一切排除する心性をよく知っているはずだ。『怪物』は遠くにではなく、わたしたちの近くに、いま日常的に存在している」。だけでなく、「自分と異なった考え方を持つ者は、『知性』を欠いた愚か者にすぎず、それ故、いくら攻撃してもかまわない、という空気が広がる中で、日々『怪物』は成長し続けている」。
 
私は、高橋の上記の視点には賛同します。しかし、抽象論を述べることが批評ではないでしょう。「自分と異なった考え方を持つ者は、(略)いくら攻撃してもかまわない、という空気が広がる中で、日々『怪物』は成長し続けている」。明らかにその「怪物」のひとりは私たちの国の「総理」の座にいる。そのあまりにも明白なことを高橋はなぜ指摘しないのか。ここでも高橋は真の批評を避けています。そういう批評を批評と言いうるのか。私は現実と切り結ぶことない批評に批評性を見出せません。そうした高橋の姿勢は冒頭の段落で「湯川遥菜さんについて語られることが少ない」とまっとうなことを語りながら、結局は「後藤さんの死の神格化」に加担する姿勢とも相似の関係にある、と私は見ます。
 
附記:
本エントリは「今日の言葉」に関して ――私が高橋源一郎を「ほんものではない」と思う理由(2015.02.04)の続きということになります。
 
(論壇時評)寛容への祈り 「怪物」は日常の中にいる 作家・高橋源一郎
(朝日新聞 2015年2月26日)
 
「人質問題」をめぐり、いくつかのことを考えた。一つは、湯川遥菜さんについて語られることが少ないということだった。確かに、彼の行動の多くは、理解に苦しむものだった。だが、わたしたちはそうではない、彼は特殊なのだ、といえるだろうか。その、人間的な弱さ(と見えるもの)も含めて、実は、彼は「ふつうの人」だったように思える。そのことが、わたしには、とても悲しかった。(続く)

追記:
高橋源一郎が自身のツイッターに上記の朝日新聞掲載の「論壇時評」の大要をアップしています。同ツイットには「後藤健二さんのことといわゆる「イスラム国」のことを中心に書きました」と記されていますが朝日の冒頭の書き出しと矛盾しないか。それでは「論壇時評」の「湯川遥菜さんについて語られることが少ない」云々という書き出しはなんだったのか? 彼の文章作法におおいに疑問を呈しておかなければならないように思います。

高橋源一郎Twitter(2015年2月26日) 
①もう遅くなりましたが、今日は月に一度の論壇時評の日でした。今日は、「人質事件」で亡くなった後藤健二さんのことといわゆる「イスラム国」のことを中心に書きました。お読みになった方、ありがとうございます。/②後藤さんの本を読みました。家族を虐殺されたのに、虐殺した人たちと共に暮らしてゆくしかない国に生きる人々、麻薬をうたれて敵を殺し続けた少年兵、そんな過酷な、戦時下の物語を、後藤さんはあえて少年・少女向けに易しく書いていました。大人たちは見向きもしないと感じていたからかもしれません/③いわゆる「イスラム国」についての論評が溢れました。多くは、彼らを「狂信的テロ集団」と呼び「非人間的」と糾弾しています。けれど、ほんとうに彼らは「怪物」なのでしょうか。田原牧さんは「彼らは決して怪物ではなく、私たちの世界がはらんでいる病巣の表出ではないか」と書いています。そして、/④「彼らがサディストならば、ましだ。しかし、そうではない。人としての共感を唾棄し、教義の断片を無慈悲に現実に貼り付ける「コピペ」。この乾いたゲーム感覚ともいえるバーチャル性が彼らの真髄だ。この感覚は宗教より、現代社会の病的な一面に根ざす」とも。ぼくもこの田原さんの意見に同意します/⑤「他者への共感」の排除が、彼らの特徴なら、「怪物」は、遠くにではなく、わたしたちの近くに、日常的に存在しています。自分と異なった考え方の持ち主は、いくら攻撃してもかまわない、という非寛容な気分や空気の中で、「怪物」は、日々成長しているように思えるのです。/⑥いまから250年前、フランスでひとりの新教徒が冤罪で処刑されました。宗教的な狂信が産んだこの事件を知ったヴォルテールが「人間をより憐れみ深く、より柔和にしたい」と願って書いたのが「寛容論」でした。いま読むと、ヴォルテールが見ていた世界は、驚くほどわたしたちの世界に似ています。/⑦「寛容論」の最後、ヴォルテールは、どんな宗教の神にでもなく、世界を創造したと彼が信じる「神」に祈りを捧げています。その祈りは、残念ながら、いまもかなえられてはいません。ヴォルテールの祈りを、ここに書き写します。/⑧「あなたはお互いに憎み合えとして、心を、またお互いに殺し合えとて、手をわれわれにお授けになったのではございません。苦しい、つかの間の人生の重荷に耐えられるように、われわれがお互い同士助け合うようにお計らいください…」/⑨「われわれの虚弱な肉体を包む衣装、どれをとっても完全ではないわれわれの言語、すべて滑稽なわれわれの慣習、それぞれ不備なわれわれの法律、それぞれがばかげているわれわれの見解、われわれの目には違いがあるように見えても、あなたの目から見ればなんら変わるところない、われわれ各人の状態」/⑩「それらのあいだにあるささやかな相違が、また「人間」と呼ばれる微小な存在に区別をつけているこうした一切のささやかな微妙な差が、憎悪と迫害の口火にならぬようお計らいください」
イギリスの少女3人 ロンドン・ガトウィック空港で17日、セキュリティーゲートを通過する英国の
少女3人(監視カメラ画像から)=AFP時事、ロンドン警視庁提供
  
英少女3人、「イスラム国」へ 15・16歳同級生、家族に「結婚式行く」
(朝日新聞 2015年2月26日)

欧米などから過激派組織「イスラム国」(IS)入りを目指す若者らの流れが止まらない。英国では今月中旬、15~16歳の同級生の少女3人が失踪し、トルコ経由でシリアのIS支配地域に入ったとみられることが分かった。学校で優等生だったという少女たちが、家族も気づかぬ間に過激な思想に傾倒した事態は、英世論に衝撃を与えている。


内藤正典Twitter( 2015年2月25日)から。

英国から消えた三人の少女。欧米ではモスクやイスラム組織を洗脳の場だと思い込んで監視を強化してきたが、多分、彼らにとって洗脳の舞台は自室のパソコンやスマホ若者ISに引き寄せないために必要なこと。ムスリム移民が少ない日本とヨーロッパでは前提はかなり違います。まず、ヨーロッパ諸国の場合。1.ムスリム移民が経済的に底辺に滞留しないようにする。これが最大の課題。よく貧困のせいでテロが起きるわけじゃないと言う人がいます。しかし、何代にも渡って底辺層に滞留し続ける場合は、ホスト国の移民政策に問題があります。特に、勝者と敗者を放置し、格差の拡大を容認する経済政策の下に移民が置かれたままになるのは極めて危険です。2.イスラムとムスリムに対するヘイトスピーチを止めること。1.と関係しますが、格差が拡大する社会では、誰かをスケープゴートに仕立てて罵ることは、日本のみならず、ヨーロッパでも共通の傾向です。ヨーロッパでは、「人種」「民族」についての差別は法律で禁じているケースも多いですが、「宗教」についての侮蔑は禁じられていません。信徒を丸ごと差別すると罪に問われますが、ある宗教の教義や預言者を冒涜してもヘイトクライムには当たりません。そのことにかこつけて、移民に対して憎悪をぶつける傾向は過去20年で恐ろしく高まってきました。3.移民の若者たちのアイデンティティについての悩みを弄ばないこと。これはジャーナリストや学者に対して。90年代、第一世代から若い世代への交代が進む中、ムスリム移民の若者たちに対して、散々、ぶつけられたのがアイデンティティ喪失言説。彼らが、どう生きていこうとするのかには耳を貸さず西洋文化とイスラム文化の間でもがいていると単純化しておしまい、という言説があふれていました。これを言われる側が、どれだけ辛かったか、わかりますか?親とぶつかっても、結局、親達の価値観を否定できず、さりとてヨーロッパの価値観を取り込んでも、お前たちには分からないと言われ… そういう生活の中にある彼らにとって、アッラーと預言者の示したイスラムの体系が、癒しを与えるようになっていきます。世代が交代するにつれて、若者たちがイスラムの信仰に惹かれていったことの背景は、簡単に言えば、そういうことです。
以下は、「曽野綾子の産経新聞コラム問題フォロー」(弊ブログ 2015.02.18)の続きです。
 
追記3
荻上チキによる曽野綾子氏へのインタビュー書き起こし(さかなの目 2015.02.18)
 
2015年02月17日(火)「曽野綾子氏のコラムが波紋、改めて考えるアパルトヘイト」(直撃モード) - 荻上チキ・Session-22
 
音声は上記ウェブサイトでPodcastで配信されています。インタビューはこの中のごく一部で、白戸圭一氏によるアパルトヘイト解説のほうが価値があるのですが、本日は時間がないため曽野氏へのインタビュー部分のみの書き起こしです。
 
口述を文章化する上で、あえて編集は極力しないようにしました。そのため読みづらいかと思いますが、実際のかみ合っていない空気感が伝わればと思います。
 
追記4: 
「文化が違うから分ければよい」のか――アパルトヘイトと差異の承認の政治
亀井伸孝(文化人類学、アフリカ地域研究)(シノドス 2015年02月25日)
 
本論の概要
・曽野綾子氏の産経新聞コラムには、第一の誤謬「人種主義」と、第二の誤謬「文化による隔離」の二つの問題点がある。
・現状において、より危険なのは、第二の誤謬の方である。
・文化人類学は、かつて南アフリカのアパルトヘイト成立に加担した過去がある。
・アパルトヘイト体制下で、黒人の母語使用を奨励する隔離教育が行われたこともある。
・「同化」を強要しないスタンスが、「隔離」という別の差別を生む温床になってきた。
・「異なりつつも、確かにつながり続ける社会」を展望したい。そのために変わるべきは、主流社会の側である。
はじめて得心のいくピケティ論(あるいは「ピケティブーム」論)にふれることができたような気がしています。マルクス経済学近代経済学の両方に精通しているほんものの経済学者ならではのピケティ論で凡百のピケティ論とはくらべものにならない説得力があります。私はいわゆる流行ものは胡散臭さが先に立って読まない主義なのでピケティの『21世紀の資本』も読んでおらず、胡散臭さが先に立っても当然その胡散臭さのゆえんを述べる術もなく、放置していましたが、もちろん管見の限りということではありますが、はじめて得心のいく(あくまでも「胡散臭さのゆえん」についてということでしかありません)ピケティ論にふれて紹介させていただくことにしました。一応、本ブログ左側の「今日の言葉」欄にいつものように86字×10行程度に要約して引用しようとしましたが、盛田さんの本論攷は要約では説明しきれません。以下に全文を引用して「今日の言葉」とさせていただくしだいです(強調は引用者)。

アフリカの朝、または夜、または昼  
 
異常なピケティブームを支える経済学の貧困
(盛田常夫(在ブダペスト、経済学者)「リベラル21」2015.02.25)
 
分厚い経済学の専門書がベストセラーになり、各紙誌が特集を組むなど異常な熱狂を呈している。簡単に読めそうもない高価な書物が10万部以上も売れるのは異常としか言いようがない。知的好奇心の旺盛なサラリーマンが読もうとしているのか、話題になっているからとりあえず買ってみたのか。いずれにしても、行き詰まった経済政策への啓示が見つかるかもしれないと期待してのことだろう。それは金融緩和と物価上昇目標しか語ることが出来ない「経済学の貧困」への不満の現れでもある。
しかし、専門家が、「ピケティの主張は資本(資産)の収益率rが経済成長率gよりも大きい(r g)に尽きる」と一言で要約しては、推理小説の結論が知らされたようなもので、読者は大著を読み通す意欲をなくすというものだ。もっと深遠な結論や将来への啓示を求める読者は肩透かしを食らい、大著は書棚を飾るだけになる。大概のブームと同じように、大山鳴動して鼠一匹というところか。
 
学問ではあるが、科学と言えない経済学
ほとんどの理論分析にはまず初めに結論的仮説があって、あたかも帰納的にその結論が得られたかのように論理や数値を整えて、モデルや理論を完成させる。前提と論理に合理性があれば、そこから推論される結論は真とみなされる。これが学問的方法である。現代の数理経済学もこのような手法をもちいることで、経済学の科学性が担保されると考えている。しかし、自然科学や工学と同じ手法を用いたからといって、それが経済学の科学性を裏付けることにはならない。この点の認識が現代経済学、とくに数理モデルを扱う学者に希薄である。ピケティも当初は数理経済学の研究者としてアメリカに渡ったが、数理経済学の世界があまりに現実経済への関心を失っていることに失望し、資本主義経済の長期的動態の研究へと向かったとされている。もっとも、歴史的動態分析のベースにある理論モデルの考え方は、現代経済学の主流派が依拠する新古典派理論であり、『21世紀の資本』と題していてもマルクスの『資本論』の手法とは何の関係もない
さて、モデルや理論分析から得られた結論が、現実的に有意な真実性をもっているか否かは、結論を導く論理性とまったく別の事柄である。モデルの前提が十分に現実を反映しているものでなければ、モデル分析はただの「論理の遊戯」になってしまう。現代の数理経済学のほとんどのモデル分析は「頭の体操」の域をでないものだ。
物理学では自然界の一部分を実験室で再現することによって、小さなモデルで普遍的(少なくとも地球規模)な結論を出すことを可能にしている。真空状態での光速、原子を結合する力、あるいは電気工学の誘電比率などは実験で確かめることができ、それを普遍的な法則として世界(宇宙)の理解に役立てることができる。この実験で本質的なことは、宇宙的世界と同質の世界が実験室でも再現できることだ。しかも、自然科学の法則は数百年数千年どころか、ビッグバンから現代までの数百億年単位で有効だと考えられる。
これにたいして、経済学の世界では、現実経済の価値評価ですら、その比較が意味ある時間は10年程度に過ぎない。産業構造が変わってしまうと、比較の妥当性は急速に失われる。にもかかわらず、自然科学の分析のように、経済学が数百年の経済動態を比較可能であるかのように繕うのは、それだけでもう科学の名に値しない
そもそも国民所得あるいは国民資本という概念は、質が異なる種々の経済活動を抽象数値化した(一定の約束事にしたがって、共通尺度で捉えた)ものだ。異なる経済活動を一つのスケールで表現しようとすれば、当然のことながら、多くのことが分析対象から捨象されてしまう。それでも、同時代同時期の経済活動ならまだしも比較は可能だが、産業構造がまったく異なる時代同士の比較など、ほとんど不可能に近い。質的に違うものを無理やり同質のものと仮定することでしか、単一スケールに還元できない。そのようなスケールが持つ現実解明性(科学性)はきわめて限られている。しかし、多くの数理経済学者はそのようなことに無頓着で、経済学の価値カテゴリーが自然科学のカテゴリーと同じ程度の普遍性と真実性をもっていると考えている。これほど大きな誤りはない。数理経済学者がどれほどノーベル賞を受賞しても、経済学の現実理解が深まらないのは当然のことである。
そもそも数百年の経済統計が現実を正しく反映していると仮定すること自体が誤りである。国民所得統計の構築が本格的に始まったのは、第二次世界大戦以後である。さらに、現在の国連標準形式にまとめられたのは、ここ40年程度の出来事にすぎない。現在のGDP統計ですら、自然科学のレベルからみれば、きわめて信頼性の低いアバウトな統計にすぎない。こういう現実を忘れて、統計調査態勢も整ってもいない時代の統計数値に依拠して、あたかも数百年の経済統計が信頼に足り得るものであり、その歴史的動態分析から有意な結論が導かれると考えるのは間違っている。
残念ながら、ピケティが使っている長期経済統計に、歴史的現実を正確に解明する科学的な信頼性はないと言わざるを得ない。
 
フィクションから構築される現代経済学
アメリカの主流派経済学からピケティを批判する視点は、全く別様なものである。
新古典派経済学のマクロ生産関数から出発して計算すると、資本と労働の代替の弾力性の値(σ)と資本/産出率(β)に依存して、産出量に対する資本の収益率は高くなったり、低くなったりする。資本の収益率は経済の成長率よりも高いというピケティの主張は、σおよびβの上昇という前提によって導かれているから、σβが逆の値をとれば、ピケティとは逆の結論が導かれる。アメリカの主流派経済学者がピケティの主張を覆すために、σβの数値の検証を行っているのは、こういう理由からである。ピケティが新古典派モデルを前提に論を進める限り、この種の批判を避けることはできないが、他方で長期統計からこの二つの数値を確かめることは不可能である。ピケティ批判の妥当性は判定不能で、水掛け論の域を超えることはない。
そもそも新古典派のいうマクロ生産関数、資本あるいは労働とは何か。それらはすべて経済学者の頭の中に存在するフィクションであり、実在するものではない。経済カテゴリーの実体的関連性を無視してモデルを展開しても、意味ある結論は得られない。ピケティにおいても、資本と富(資産)の概念区別が明確ではないのは、概念規定に無頓着な新古典派理論に依拠しているからだろう。
国民経済全体を集計した資本や労働という概念に数理的操作可能な形式をあたえることができても、それで現実関係性が明らかになることはない。集計された資本(K)と労働(L)の代替の弾力性(σ=△L/K)/w/r))など(wは賃金、rは利潤)、モデル構築のために必要なフィクションの域をでない。そもそも各事業体の資本と労働の代替の弾力性ですら意味ある計算ができないのに、その概念をマクロ経済にそのまま適用できると考えるのは、あまりにナイーヴすぎる。数理モデルを扱う学者にとって、操作対象となる概念の現実関連性などどうでもよいことで、モデルから自らが想定した結論が導き出されれば、それで十分なのだ。こういう学者は応用数学者であっても、経済学者とは言えない。
現代経済学のマクロ分析はこの種の現実妥当性に欠けるフィクションから構成されているから、現実分析には役立たない。学問的手法をとってはいるが、社会理解を目的とする社会科学としてはほとんど役に立たない。
 
門外漢に政策提言を求める愚
現代経済が膨大な富を生み出し、生産に使用されない経済余剰が、各種の金融投資の形態をまとって世界を駆け巡っていることは誰もが直感的に感じているところだろう。資本主義経済が莫大な経済的余剰を生みだし、それが非常に少数の人々の手にあり、世界を動かしている。経済理論の世界で、この実態を明瞭に解明した分析は皆無である。何も百年単位の歴史を遡って、収益率と成長率を調べる必要はない。現代の富の蓄積と偏在、その仕組みを暴く分析こそ、政治経済学の課題だ。しかし、経済学はそのような政治経済学の方向を向いていないばかりか、そのような分析を散文経済学と見下し、数理モデルを構築することに懸命になっている。しかし、虚構の概念を幾らこね回しても、現実経済を深く理解することはできない。
日本にちょっとだけ滞在する学者、しかも現代経済の分析家でもないピケティに、日本経済の処方箋を求めるのはいただけない。日本は欧州経済ともアメリカ経済とも異なる独特な特徴をもっている。アメリカと同様に個人の可処分所得の水準が高く(再分配率が低く)、したがって個人消費のレベルが高いにもかかわらず、アメリカと違って社会保障制度のレベルが非常に高い。その代償として、国家の債務が膨れ上がっている。こういうシステムはいずれ大きな転換を迫られる。そういう問題への熟考なしに、日本に生活したことのないピケティから、「消費税引き上げは間違っている」という答を引き出すのは賢いことではない。聞かれた方も、思いつき的に答えるのはきわめて無責任だ。
もっとも、ピケティに限らず、名声を得た経済学者は熟知しない問題についても、気の利いた回答を与えることができると自負するようになる。実際のところ、あらゆる問題に処方箋が描けるほど、経済学者は器用でも賢くもない。「アベノ」何とかをヨイショする学者も、政治家に取り入りおだてられ、すべてを知っているかのように振る舞って話しているだけのことだ。
他方、アメリカや日本と異なり、欧州経済、とくにフランスや北欧の経済におけるGDPの再分配率は50%をはるかに超えている。これらの諸国の消費税は19~25%の範囲にあり、さらに北欧諸国の自動車諸税も日本から比べれば異常に高く、乗用車の価格は日本の倍以上もする。北欧の集合住宅では、洗濯機の共同使用もふつうに行われている。個人消費を抑制し、GDPを国庫に集中させて社会保障を支えている。明らかに日本とは全く異なるシステムが機能している。ピケティに日本経済への処方箋を求める前に、母国フランスの再分配率が5割を超えるのに、どうして経済格差が広がっているのかを説明してもらう方がよほど参考になろう。再分配率が高くても、歴史的に積み上がった相続資産、脱税、裏経済、あるいは国外に秘匿させた富が、経済格差を縮める障害になっている。そういうフランス経済と日本経済を同じ視角で見ては、事の本質を見誤ってしまう。
政治家が自分の都合の良いようにピケティを解釈・利用しようとするのは勝手だが、経済学者も自らの名声に溺れて、普遍的な処方箋を描くことができるという傲慢に陥ってはならない。科学性に欠け、イデオロギーに近い学問である経済学を生業とする者は、もっと謙虚になるべきだ。それは「アベノ」なんとかをヨイショする学者を含めて、一般的に言えることだ。

附記:
なお、盛田常夫さんの「ピケティ論」のほかに感心した「ピケティ論」として木村剛久さん(編集者。「海神日和」ブログ主宰者)の「ピケティ『21世紀の資本』短評」があります。『21世紀の資本』の大概を知るにはやはり木村さんの「ピケティ『21世紀の資本』総まとめ」が有用です。木村さんにはピケティ各論として「累進資産税の提案──ピケティ『21世紀の資本』を読む(9)」などなどもあります。 
私は2月24日(すなわち今日)の「今日の言葉」に本日付けの朝日新聞に掲載された斎藤環さん(精神科医)の「差別発言、キャラで免責」という寄稿文を採りあげました。引用した斎藤環さんの寄稿文の文章は以下のとおりです。

日本の言論界を妖怪が徘徊している。「キャラの立った高齢者」という妖怪が。いきなり何事かと思われたかも知れないが、とりあえず曽野綾子氏は間違っている。彼女が2月11日付産経新聞に記したアパルトヘイト容認コラムのことだ。(略)彼女はその後のインタビューなどにおいても「差別ではなく区別」などと弁明しているようだが、これが差別主義者の常套句であることは論を俟たない。よって、その間違いぶりの論証はここでは控える。むしろ残念だったのは、この発言へのまともな批判が、おおむね海外発だったことだ。日本ではこのコラムがツイッター上で“炎上”したが、日本のマスメディアはすぐ報じなかった。まず記事にしたメディアは2月12日付の「ジャパンタイムズ」、ついで「ニューヨーク・タイムズ」「ウォールストリート・ジャーナル」などの大手紙が追随し、2月13日には南アフリカ大使が産経新聞に抗議する事態にまで発展した。しかし、その後の朝日新聞の取材に曽野氏は「ツイッターで興奮する人々」「安倍総理のアドヴァイザーだったことはない」「チャイナタウンはいいものだ」等のとぼけた反応を返すばかりだった。なぜ日本のマスメディアはすぐに反応しなかったのか。これも現政権による言論統制の成果なのか。おそらくそうではない。今回のコラムは「あの曽野綾子氏」が、いかにも「あの産経新聞」に書きそうな内容だった。つまり“平常運転”なのでニュースバリューはなかった。(略)曽野綾子氏は自他共に許す保守論客だ。しかも、たいへんキャラの立った言論人だ。過去にも「性犯罪に遭った被害者にも落ち度がある」「(震災直後に)放射線の強いところには高齢者を行かせよ」などの語録が知られており、まともな言論人なら、たとえ思っていても口に出せない“ホンネ”を代弁してくれる貴重な存在である。ついでに言えば保守論壇には、曽野氏に限らず、けっこう「濃いキャラ」の論客が多い印象がある。そして、ここに陥穽があるのだ。私たちは世界にもまれなキャラ文化の住民だ。キャラの立った保守論客のトンデモ発言すらも、「ああいうキャラだからしょうがない」と笑い、「ツッコむだけ野暮」と免責する程度には寛大だ。しかしこれは、「立ったキャラ」の言動については責任能力を問わない、という意味で差別であり、キャラの人権の否定にほかならない。保守論壇人といえども人権は尊重されなければならない。私は曽野氏の人権の回復のためにも、メディアが彼女をキャラとして差別し消費することに、強く反対するものである。(朝日新聞 2015年2月24日
 
そして、上記の斎藤環さんの文章に私は次のような「引用者注」を付記しました。

「斎藤環さんが『保守論壇人といえども人権は尊重されなければならない』というのはアイロニーとして秀逸」。

その「引用者注」は考えた末につけた「注」ですのでその評価は当然、私として異議はないのですが、斎藤環さんの文章を引用するにあたっては自ら引用しながら私には当初から躊躇がありました。

それは、斉藤さんは日本のマスメディアが曽野綾子の産経新聞コラムにすぐに反応しなかった理由として、「今回のコラムは『あの曽野綾子氏』が、いかにも『あの産経新聞』に書きそうな内容だった。つまり“平常運転”なのでニュースバリューはなかった」こと。「私たちは世界にもまれなキャラ文化の住民」であり、「キャラの立った保守論客のトンデモ発言すらも、『ああいうキャラだからしょうがない』と笑い、『ツッコむだけ野暮)』と免責する程度には寛大」であることをあげていますが、そういう斉藤さん流の評価でこの問題を「極めて明解」などと治めてしまってよいものか? 私の中に少なくない違和のようなものがあったからです。

それは、「“平常運転”なのでニュースバリューはなかった」というよりも、また、「日本のキャラ文化」の問題というよりも、“平常運転”でないものを“平常運転”であるかのようにしか感覚することができなくなったメディアの著しいジャーナリズム精神の劣化の問題というべきではないか。「キャラ文化」の問題としてしまっては問題の本質は明後日の方向に向いて、今日の問題にはおそらくならない。メディアの劣化の問題は明後日の問題ではなく、まさに今日の問題だろう。私が斎藤環さんの論を読んで違和を感じたのはそういうことです。

辺見庸はメディアの劣化の問題に関して2001年には次のように述べていました。

「状況の危機は、言語の堕落からはじまるのです。丸山真男は『知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリストの転向からはじまる』と書き、歴史が岐路にさしかかったとき、ジャーナリズムの言説がまずはじめにおかしくなると警告しました。この言葉は一九五六年のものですが、言語の堕落、言説の劣化、ジャーナリズムの変節は、いまのほうがよほどひどいし、それらが全体として状況の危機を導いている。」(辺見庸 『単独発言―私はブッシュの敵である』 2001年)

筑紫哲也
はメディアの劣化の問題に関して2006年に次のように述べていました。

「昨年末、『男たちの大和/YAMATO』(反町隆史、中村獅童、渡哲也ら出演)が全国で劇場公開されたが、あの映画は、反戦映画だと言う人もいるが、どう見ても60年前の戦争を美化する映画だ。その映画のスポンサーの筆頭にある大マスコミ紙が名を連ねている。そして、そのことを恥とも思っていない様子だ。ある大マスコミ紙の感度はここまで鈍っている」。「水俣の作家、石牟礼道子さんは、メチル水銀で汚れた水俣の海を『苦海』、まだ水銀で汚されていない陸地を『浄土』と表現した。水俣に唯一残されたその『浄土』すら、いま『苦土』になろうとしている水俣の産廃処分場建設問題、それに密接に絡む水俣市長選にマスコミはあまりにも無関心だった。私は、その市長選の直前、私の番組でこの問題を採り上げた。現在のマスコミ報道のあり方に対する異議申し立てでもあった。いまの大マスコミは、ニュース価値の評価がわかっていないのです」。(「筑紫哲也さんの由布院盆地でのメディア批判」2006/12/02)

辺見庸のメディア批判から14年。筑紫哲也のメディア批判からも9年が経ています。メディアは立ち直ったか? ますます劣化しているというのが私の見方であり、少なくない知識人、ジャーナリストの見方でもあります。
 
2015年2月20日の辺見庸の「日録」の言葉は次のようなものでした。

「もういけない。坂道をころがっている。ものすごいスピードだ。目眩がする。もう止まることはあるまい。座視したり他人事のように論評している局面はもうすぎた。じぶんがどうするか、あなたはどうふるまうか、だ。歴史の大転換ってこんなものだ。一見無害そうな市民たちが、主観的な「善意」から、無作為に、何気なく、この怖ろしい墜落に加担してきた。かつてすきでもない丸山眞男をしばしば引用した。たとえば、[一九五六年の手帖より]「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリストの転向からはじまる。テーマは改憲問題」。もうそれどころではない。国家規模の転向がすすんでいる。この画時代的転換のダイミズムと妖気。その由来がよくわかりかねる。ヤクザ者と〈正気の顔をした狂人たち〉が歴史をあやつっている。かれらは理解しない。せせらわらう。He who does not learn the past is doomed to repeat it.(Santayana)そしてそのとおり、目下くりかえしている。(「日録1-8」2015/02/20)
第2次安倍内閣第3次安倍内閣の国家安全保障担当の首相補佐官で、自民党の改憲草案の取りまとめ役の事務局長でもあった礒崎陽輔参院議員がまたまた珍妙な発言をしています。

ここで「またまた」というオブストラクションをいれているのは、礒崎には3年前にも「立憲主義」という18世紀以来の近代憲法上の重要な概念について「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか」という珍妙なツイッター発言をして物議を醸した前歴があるからです。

 
ちなみにここで礒崎が「学生時代」と言っているのは東大法学部の学生時代のことを指しています。その法律分野の最高学府の東大法学部で「立憲主義」についての講義がなかったということはありえません。「聴いたことがありません」というのはよほど礒崎に聴力に障害があったのか、あるいは理解力がなかったのか、あるいは眠っていたのか、あるいは授業そのものをサボタージュしていたのか、そのいずれかでしかありえないでしょう。

いずれにしても自身の不徳でしかない(難聴の件は除く)ことを「立憲主義」という概念自体がなかったことの証明にしようとしたのですからツイッター上にブーイングが飛び交ったのはいわれのないことではありません。一例をあげておきます。青井未帆さん(学習院大教授・憲法学)はそのときのことを次のように述懐しています。

 
さて、礒崎陽輔首相補佐官の「またまた」発言とは朝日新聞によれば次のようなものです。

「党憲法改正推進本部事務局長の礒崎陽輔・首相補佐官はこの日の集会(引用者注:憲法改正に向けた盛岡市での自民党の「対話集会」)で、党員や支持者ら約200人を前に「来年中に1回目の国民投票まで持っていきたい。遅くとも再来年の春にはやりたい」と述べ、来夏の参院選後に改憲の国会発議を行い、国民投票に道筋をつけたいとの考えを示した。/礒崎氏はさらに「憲法改正を国民に1回味わってもらう。『憲法改正はそんなに怖いものではない』となったら、2回目以降は難しいことを少しやっていこうと思う」と述べた。」(朝日新聞 2015年2月22日

この礒崎首相補佐官の憲法改正を「国民に1回味わってもらう」発言についても当然批判が殺到しています。2例示しておきます。

1例目は「Afternoon Cafe」ブログ主宰者の秋原葉月さんの礒崎批判。

「ちょっとまってなんですかこれ/「憲法改正を国民に1回味わってもらう。『憲法改正はそんなに怖いものではない』となったら、2回目以降は難しいことを少しやっていこうと思う」/なんの調教プレイですか。徐々に強いクスリに慣らしていくみたいな。何故国民が国家にこんな調教されないといけないんですか、恐ろしい発想です。」「だいたい立憲主義の主旨からすれば、国家が主導して改憲に導く、調教していく、なんてとんでもない話なのです。しかもそれを手がけているのがこんなたちの悪い直ぐにばれるような大嘘をつく人間(もし嘘をついてなかったとしたら立憲主義すらも知らない人間!)ときています。こんな人物に「ほぅら、怖くないょ」的な誘導されるなんて冗談じゃありません。「憲法改正を国民に1回味わってもらう。」って何様ですか。あなたにそんな権限はありません。」(Afternoon Cafe 2015/02/22

2例目はTwitterによる山崎雅弘さん(戦史/現代紛争史研究)の批判。山崎さんはこの礒崎の「またまた」発言を「完全にスルーし、当たり前のようにその考え方を伝播・宣伝している」朝日新聞というメディアに対して次のような批判を投げかけています。
 
「最近の朝日新聞には、かつての同紙にはあった権力に「ブレーキをかける」という意志が全く見られない。「自民、改憲へ『世論対策』本腰」(朝日)http://bit.ly/1AwN9ay この記事も首相の意図を代弁して説明しているだけで、批判的検証を「自分が行う」意志も覚悟も全然ない。「安倍晋三首相や自民は『世論対策』に本腰を入れ始めた」「…との考えを示した」「…とみられる」「…との認識があるからだ」「…を高めたい考えだ」「…世論の動向を慎重に見極めながら、改憲の国会発議や国民投票のタイミングを探る構えも見せる」こんな政府の意向代弁記事ならロボットでも書ける。」
 
「この記事で一番重要なのは「憲法改正を国民に1回味わってもらう」という自民党憲法改正推進本部事務局長の礒崎陽輔首相補佐官の発言で、日本国憲法第99条「憲法尊重擁護義務」の否定を現職首相の側近が公言しているが、朝日新聞は完全にスルーし、当たり前のようにその考え方を伝播・宣伝している。かつての朝日新聞なら、現職首相の側近が日本国憲法第99条の「憲法尊重擁護義務」を全く無視して、憲法を「尊重も擁護もする気はありません」という態度を取れば、きわめて重要な政治問題として激しく批判していただろう。朝日叩きの鎮静化と、政府の意向代弁記事ばかりになった状況は関連している。「憲法改正を国民に1回味わってもらう」という自民党憲法改正推進本部事務局長の礒崎陽輔・首相補佐官の発言は、憲法改正は国民の主体的判断に基づくという「建前の形式」すら無視している。憲法を「変えるのは自分たち」で、国民は「それを味わう」側だという、首相周辺の傲慢な思考を物語っている。」(山崎雅弘Twitter 2015年2月22日

なお、礒崎首相補佐官の「憶測だけでデタラメを公言するような人物」性については次のような批判もあります。
 
「礒崎氏は4月26日には「憲法第96条の改正」という「私の主張」を掲載しているが、その中で、日本国憲法の改正手続きが「なぜ、こんな厳しい規定となったのでしょうか」と問いかけ、自ら次のように答えている。「それは、GHQが、連合国が了解した憲法を占領解除後も将来にわたって簡単には変えさせないという意図に出たものであることは、間違いありません」。いったい、いかなる根拠に基づいて、こんなでたらめを言えるのであろうか? もちろん何の根拠にも基づかず、自らの愚かしい憶測だけに基づく発言であることは明白である。歴史の事実は、先日私が「憲法改正機会を握りつぶした日本政府」で述べたように、FECの決定を受けて、マッカーサー自ら吉田首相に対して、国民投票を含む憲法の見直しを求めたのであり、それを握りつぶしたのはほかならぬ日本政府なのである。自民党改憲草案の取りまとめ役は、憲法の基本概念も理解していないだけでなく、歴史の事実も確認せずに憶測だけでデタラメを公言するような人物なのである。」(祭りの後の祭り 2013-06-03

なおまた、ついでにどうでもいいことも述べておきますと、礒崎さんと私は同じ町の住民で、礒崎さんの通った高校は私の末娘の通った母校でもあります。さらについでのことをいえば礒崎さんの事務所は私の昔のいきつけの酒処(みせ)の隣りの隣りにあるという因縁?もあります。

PS:いまの私のいきつけの酒処には礒崎さんの叔父さんなる人がときどき女連れでやってきます。2、3年前のこと。たまたま隣り合わせになって相方の女の人と世間話をしていたらまるでこの世の敵はお前ひとりといった目でこの叔父さんににらみつけられたことがあります。なにやら税理士さんであるとか、あったとか。
以下は、辺見庸の「転向者」論の紹介であるとともに私のいまの拭いがたい疑問であり、また、さらには大きなひとつの問題提起でもあります。

たねまくひと
 
辺見庸「日録1-8」(2015/02/21)から。
 
なにか、喉もとまででかかっていて、ことばにならぬうちにサッと消えてしまうもの。なにか、とても大事な手がかり。資本と権力にとって左翼運動など、じつのところ、コバエのように「小さな迷惑」以上のものではなく、とりわけ1936年以降は、おおむねコントロール可能なものであった、という。共産(社会)主義運動参画者は、権力の意のままに、ほとんど自動的に、法則的に、陸続として思想転向してくれたのだった(引用者注:辺見はその例を2月10日から20日にかけての「日録」に記しています)。転向者らはニッポンの権力構造をヌエのように多重化し、〈無中心〉化した。軍部や国家主義者は、その野望を実 現するために、大資本をひつようとした。おなじように、大資本は、資本のために、ただそれだけのために、国家主義、天皇制と天皇崇拝、軍国主義、すなわち「戦争」と狂人たちをひつようとした。われわれにはそういういう過去があるげんざいは、つまり、そのくりかえしではないか
 
引用者注:
 
辺見は、上記で、「転向者」論を論じながら、権力にとって「コントロール可能な」左翼の存在について語っています。いまのこととして、私が拭いがたく、激しく違和を持っていること。象徴的にいえば、権力の経産省前九電前のテント撤去に対して激しく抵抗する「左翼」的な意志をこれ以上ないほどまでに声高に顕示しながら、一方で平然とたとえば実質的な原発推進政党でしかない民主党や維新に一票を投じるその姿勢とはなにか? そうした自身の思想に矛盾を感じない「反原発」とはなにか? またさらに、そのことを批判しない「反原発」運動とはなにか? 権力にとって、1936年以降に遡る「コントロール可能な左翼」とはそういうものではなかったか、と私は激しく訝しみます。

が、その私の「訝しみ」はほとんど通じません。ニッポン社会の「ファシズム」化はそこまで進捗している、というのが私の悲しい現実観察。それも、この地点は、帰還不能地点(ポイント・オブ・ノーリターン)というべきではないか、と訝しむ私の現実観察。これではこの国の革新運動はほんとうにおしまいになってしまうのではないか、という。私の観察では、その現実に共産党も加担している。そういうときに「もうとりかえしがつかないかもしれない」という思いの強度は強まる。

辺見のいう「
転向者らはニッポンの権力構造を多重化し、〈無中心〉化した」ことの意を私たち(「左翼」に限らない歴史の同伴者たらんとする人)はおのれの胸に手を当てて考えてみる必要がある。その「多重化」と「無中心化」は政治革新を一層困難な地点に追いやっている。そのことに思い当たるまでおのれの胸に手を当ててよくよく考えてみる必要がある、と私は思う。そこからしか歩は進まない。 

辺見庸「日録1-7」(2015/02/10)から。

じつに簡単なことだ。あの、世にもおぞましいヘイトスピーチを、表ではいかにも困ったふりをして、裏でしっかりとささえているのが自民党である。そのトップが毎日、ジュクジュクと分泌している毒液が社会の全域を腐食しているというのに、かれの支持率は50%以上だという。目下、全的崩落のただなか。もうとりかえしがつかないかもしれない。とりかえしがつかないだろう。けふの声、ことば、身ぶりをどうするか。by the way、佐野学は1929年6月、上海で検挙され、1932年、東京地裁で治安維持法違反で無期懲役の判決。1933年、鍋山とともに獄中から、かの有名な「共同被告同志に告ぐる書」と題する転向声明書を発表。官憲はそれをマス刷りして獄中の党員らにくばって読ませたというから、むかしから権力ってのは、よっぽど反権力の上手をいっていたのだ。緻密で周到、勤勉、陰湿かつ執拗。で、転向声明は、コミンテルンの指導を拒否、今後は天皇制を尊重した社会主義運動をすすめる、という、な、なんと申しませうか、超奇抜な内容。佐野はかくて、1934年5月、懲役15年に減刑され、控訴審判決確定、1943年10月に出獄。にしても、「共同被告同志に告ぐる書」には、いまさらたまげるほかない。曰く

「労働階級の大衆は排外主義的に興奮しているのでない。彼らは不可避に迫る戦争には勝たざるべからずと決意し、之を必然に国内改革に結合せんと決意している。之を以って大衆の意識が遅れているからだと片付けるのは大衆を侮辱するのみならず、自ら天に唾するものだ」「我々をかかる自覚に導いた第一衝撃は、我々の民族が満州事変以来当面した国家的出来事である。それは我々の胸にあるーー日本人の誰の胸にもある、共産党員の誰にもあるーー日本人意識を目覚ました。……我々は日本民族が、独立不羈の大民族として人類の社会生活を充実的に発展させた過去の歴史的民族的誇りを感じ日本民族の優秀性について確信を獲得した」「我々は『君主制廃止』のスローガンの大誤謬であったことを認めて、きっぱり捨てる。皇室に対し我々の認識が著しく一面的なりし事、大衆が皇室に対し抱く社会的感情と全く背馳するものであったこと……を潔く承認する。民族的統一と社会的発展とを如実に表現した日本国家は、民族を形成する広汎な勤労大衆の下から力を基礎として築かれている特質が著しく階級と階級との露骨に闘い合う組織体でなかったし、外部に対し奴隷生活をしたことが一度も無い。皇室の連綿たる存続は日本民族が独立不羈に、しかも人類社会の発展段階を正常且つ典型的に発展し来った民族歴史を事物的に表現するものだ。皇室がかくも統一的な民族生活の組織体としての国家の中枢たることは極めて自然である」

云々。これからまた、こうなるのでせうか。すでにそうなっているという説もある。前後左右裏表のわからない妖怪がたくさん横行している。
 本ブログの「今日の言葉」の2015年2月15日から2月20日まで(エントリ化されている記事は除く)の記録です。

キンセンカ

・安倍政権が2月12日に提出した
2015年度予算案では、一般会計の総額は過去最高の96兆3420億円にのぼり、社会保障費も31兆円台にまで膨らんでいる。しかし、世界で有数の格差大国となっている日本にとって最優先課題であるはずの貧困対策は減額されている。日本における貧困対策の大半を占める生活保護費は受給者が216万人まで増加しているのに対し、歳出額の方は前年から180億円も減額されている。これは厚生労働省が給付基準を見直して、住居費と冬期の暖房費の支給基準を引き下げたことによるものだが、社会保障費を削減するための象徴として生活保護費をカットしようとの財政当局の思惑が見え隠れし、貧困対策の本来の目的が損なわれているのではないかと、社会保障問題や貧困対策に詳しい日本女子大学教授の岩田正美氏は懸念を表明する。実際に住宅費や暖房費分が削られた今年度の生活保護の支給基準についても、岩田氏が副座長を務める厚生労働省の社会保障審議会生活保護基準部会での議論の内容が正確に反映されないまま、政府の独断で変更されていると岩田氏は言う。どうも、安倍政権は財政再建を掲げながら必要性が疑わしい公共事業や防衛費の方は増額する一方で、貧困対策、とりわけ生活保護をスケープゴート化しているように見えてならない。(略)生活保護を受けていない人たちの間では、生活保護受給者が税金で生活を支えてもらっていることに対する不公平感があると言われる。しかし、現在の生活保護費の歳出額が年間3兆円弱であるのに対し、日本国民のほとんどが何らかの形で依存している社会保険や年金の国庫負担の総額は30兆円を超えている。生活保護の受給者に限らず、日本人であれば誰もが大なり小なり税金によって日々の生活を支えられていることを、忘れてはならないだろう。(略)先進国でもっとも格差が大きな国になりつつある一方で、財政が次第に危機的な状況を迎えつつある日本において、われわれは社会のセーフティネットをどう構築していくべきなのか。日本人として保障されるべき最低限の生活とはどんなものなのか、それを実現するために今、われわれには何が必要なのか。(神保哲生「ビデオニュース・ドットコム」2015年2月14日

・きのうの『
報道特集』に「国境なき医師団」広報の舘(たち)俊平さんが出てきて、こう言った。「私たちは、命の危険にさらされた人の元に駆けつける、他の援助が入らない地域に入って活動します。シリア、イラクはまさにそういう状態です。」おお!シリアは、むしろいま入って活動すべきところだというのだ!そして、外務省から何を言われようと、「日本人スタッフの退避なども、医師団独自の判断で決められる」ときっぱり。(略)舘さんの言葉を聞いていて、《なぜジャーナリストは危険なところに行くのか》との問いに、「現地の視点」をもっと入れて考えるべきではないかと思った。つまり、紛争地の人々は、日本人を含む外国人に取材してもらいたいと思っているのかどうか、だ。おそらく、ほとんどの場合、「ぜひ、ここにきて私たちを取材してほしい」と言うはずだ。シリア内戦では、人口2200万人のうち、900万人が避難民(うち300万人が国外への「難民」)となっている。国民の半分近くが、自分の住む家を破壊され、あるいは自ら捨てざるをえなかったわけだ。避難民キャンプに収容されたり、知人の家に匿われたりするのは幸運なごく一部の人で、家族が殺されたり生き別れし、身売りまでして生きている人も多い。誰も助けの手を伸ばしてくれない今の状態で、一縷の希望を託すのが、国際社会からの支援だ。私も経験があるが、紛争で避難する人々からは、しばしば「ぜひ我々の話を聞いてくれ、そしてこれを外の世界に知らせてくれ」と熱く訴えられる。「何度も外国人取材班が来たが、俺たちの状態は、ちっとも改善しないじゃないか!」と叱られもするのだが、それも期待の大きさゆえである。つまり、厳しい現場になるほど、ジャーナリスト、とくに外国人ジャーナリストは、人々に求められていると言える。「私が取材したいから、取材すべきと思うから行く」という側面だけでなく、「取材を望まれているから行く」「現地が切望している」ということもしっかりアピールすべきだと思ったのである。「職業」を意味する英語にcalling (コーリング)という単語がある。「天職」に近いニュアンスだ。自分が向こうから「呼ばれているのである。「使命」の深い意味はそこにあるように思う。(高世仁「『諸悪莫作』日記」2015-02-15

・従軍慰安婦に関する記事を書いた朝日新聞元記者は現在週刊誌発刊会社等を被告として名誉毀損に基づく損害賠償等を請求する
裁判を追行しているが、この裁判の原告弁護団事務局長が所属する法律事務所に、本年2月7日午前5時10分から午後0時27分までの間に延べ9件合計431枚の送信者不明のファクシミリが送りつけられ、過剰送信によりメモリーの容量が限界に達してファクシミリ受信が不能となる事件が起きた。ファクシミリの内容は、朝日新聞元記者に対する中傷、同記者の家族のプライバシーに触れるもの、慰安婦問題に対する揶揄などであった。この朝日新聞元記者に関しては、2014年5月以降その勤務する北星学園大学に対し、学生に危害を加える旨を脅迫して元記者の解雇を迫る事件が起きており、当会ではこのような人権侵害行為を許さない旨の会長声明(2014年10月23日付け)を発出したところである。しかし、その後の本年2月にも再び北星学園大学への脅迫事件は起きている。言うまでもなく、表現の自由は、民主主義の根幹をなすがゆえに憲法上最も重要な基本的人権のひとつとされており、最大限に保障されなければならない。仮に報道内容に問題があったとしても、その是正は健全かつ適正な言論によるべきであり、犯罪的な手段によってはならない。今回の大量のファクシミリ送信は、いまもなお朝日新聞元記者に対する不当な人権侵害とマスメディアの表現の自由に対する不当な攻撃が続いていることを意味するだけではなく、元記者の権利擁護に尽力する弁護士をも標的として、司法への攻撃をしていることにおいて、きわめて悪質、卑劣であり、断じて看過できない。当会は、民主主義の根幹を揺るがせる表現の自由に対する攻撃を直ちに中止させるため、関係機関に一刻も早く厳正な法的措置を求めるとともに、引き続き弁護士業務妨害の根絶のために取り組む決意である。(「東京弁護士会会長声明」2015年02月17日

★「日教組」だの「テロ政党」だのといった言葉が政権批判を封じるための道具になっている。その思考様式と機能は「アカ」「非国民」などと同じ。→
「日教組!」安倍首相が突然ヤジ 衆院予算委自民委員長も困惑想田和弘Twitter 2015年2月19日
★群衆の中で叫ばれるヤジのような匿名性の高い声にこそ、その人間の思想性がはっきりと現れるのです。「日教組」というヤジは、「朝鮮人」というヤジと同質のものですよ。(
平川克美Twitter 2
015年2月19日

★安倍が「日教組!日教組!」ってヤジってるシーンの本人映像が。
http://youtu.be/PJKSJi5GSZgタケウチミホTwitter 2015年2月19日
★ヒトラー内閣の重要閣僚だった
ヘルマン・ゲーリングの言葉。これは911後のアメリカをぴたりと予見した。これからの日本にも当てはまりそうで、実に恐ろしい。→改めて考えたいゲーリングの言葉の意味 #BLOGOS (想田和弘Twitter 2015年2月18日

・いやー、昨今の国会の安倍首相の発言。酷いですね。酷いのに大手新聞があまり取り上げないのでいくつかピックアップして見たいと思います。2月19日の
民主党の玉木議員の国会質問。精糖業界が傘下に置いている会社を通じてTPP交渉直前に西川公也農林水産大臣の政党支部に100万円の献金をしていた問題についての質問をしていたようです。TPP交渉では砂糖を自由貿易の例外とするかが焦点となっており、法的には、業界団体が迂回献金をする手法を許して良いのかかが問題なのです。ところが、質問中、安倍首相が「日教組」「日教組どうするんだ」と繰り返し不 規則発言をし、議長にすら「やや、総理、静かに」とたしなめられる始末。(略)総理大臣は国会質問に答える側の人間なので、ヤジはもちろん、野党議員が質問中に逆質問をする行為自体が「質問を質問で返すなあーっ!」という例のマナー違反なんですが、さらに教職員組合の名前を持ちだして非難するセンスも総理大臣としては大変下品で、憲法で定められた首相の職責の重さに悖る行為だと思います。安倍首相の中では日教組という組織はショッカーみたいな悪の組織の象徴なのかもしれませんが、それを口にして相手を攻撃した気になるのは、ほとんどネット上の落書きレベルですね。集団的自衛権に関する安倍首相の国会答弁も、もはや完全にぶっ飛んでいます。(略)一方、安倍首相は2月18日の国会答弁で「現行憲法の下では、同性カップルの婚姻の成立を認めることは想定されていない」と述べました(2月18日朝日新聞)。(略)単に政策的にやりたくないだけのことを、日本国憲法のせいにする態度は法律家として許しがたいものがあります。上記はわずかな例ですが、 今のマスコミを通じた報道は、安倍首相の常軌を逸した言動を伝えなかったり、大きな問題はないものとして政治論争の範疇としてしか伝えない傾向があります。しかし、我が国は日本国憲法を根本規範とする法治国家です。首相が国会で責任を果たさず、憲法を逸脱する発言を繰り返していることについて、もっと公然と批判がされるべきだと考えます。(渡辺輝人「Yahoo!ニュース」2015年2月20日
避難民キャンプ
 米の収穫後、藁を回収する子どもたち
(ミャンマー西部、ロヒンギャ避難民キャンプ)

曽野綾子はアパルトヘイトを肯定する先の産経新聞のコラムで日本への「近隣国の若い女性たち」の「労働移民」の問題に関して次のように書いていました。
 
「若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めなければならないという立場に追い込まれている。(略)日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ。しかし同時に、移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。不法滞在という状態を避けなければ、移民の受け入れも、結局のところは長続きしない。」
 
そういう前提を述べた上でアパルトヘイトを肯定する例の一文が次のように続きます。
 
「もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実状を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。」
 
このアパルトヘイト肯定のコラム記事が海外のメディアやNPO、南ア政府などから問題にされて内外の曽野綾子批判の波紋が拡がっていくことになるのですが、「近隣国の若い女性たち」の「労働移民」問題に関する曽野の差別発言についてはその問題性についての指摘は早くからあったもののアパルトヘイト肯定発言問題にかき消されるようにして、その本質的な問題の大きさに反比例して問題視されることは少なかったように思われます。
 
上記で曽野が「移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない」とし、「条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではない」という法的「制度」とは端的にいって「外国人技能研修制度」のことをいうのだと思いますが、この点について猪野亨弁護士は次のように指摘していました。
 
「曽野綾子氏が労働力として想定しているのは『若い女性』だそうです。何故、介護の分野を担うのが『若い女性』なのでしょうか。どの国でも、これが差別的な発想からとんでもないことになっているのですが、『若い女性』なんて発想しているわけですから、それが何が悪いと言わんばかりです。メイドといえば聞こえはいいですが、要は『下女』です。中東やマレーシアに出稼ぎにいったフィリピンの若い女性たちが、ひどい仕打ちを受けていることは有名です。」(「弁護士 猪野亨のブログ」2015/02/14
 
さらにこの問題について、同志社大学教授の内藤正典さんの以下のような指摘があります。

 
上記の内藤正典さんのコメントも曽野綾子の産経コラム記事を念頭において書かれていることは明らかです。内藤さんの紹介する以下の朝日新聞記事を読むと、アジア人労働者のおかれている今日の日本でのその過酷な状況のあまりのひどさに息をのむ思いがします。曽野はいったいこのような状況のどれだけのことを知って、「日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではない」などと言っていられるのか、と産経コラム記事のあまりの理不尽と無知に怒りが増幅します。私は昨日の記事で「日本社会に蔓延る『陰湿』さの土壌」の問題について問題提起しました。本エントリはその続きとしても書かれているものです。

以下、朝日の記事。
 
ベトナム人被告はなぜヤギを食べた 「過酷な生活」証言
(朝日新聞 小林孝也 2015年2月19日)
 
岐阜県美濃加茂市で昨年8月、除草用に飼われていたヤギを盗み、食べたとして、窃盗罪に問われたベトナム人の被告は、技能実習生として来日していた。岐阜地裁の公判で、日本での過酷な生活について証言した男たち。なぜここまで追い詰められたのか――。
 
起訴状によると、いずれもベトナム国籍のブイ・バン・ビ(22)、レ・テ・ロック(30)の両被告は仲間5人と共謀し、昨年8月9~10日、美濃加茂市の公園でヤギ2頭(時価計約7万円)を盗んだとされる。除草効果を研究するため、岐阜大学教授が市などと協力して飼っていた16頭の「ヤギさん除草隊」のうちの2頭だった。
 
法廷での証言などによると、ロック被告は来日前、ベトナムの田舎町でタクシーの運転手をしていた。両親と妻、娘の家族5人暮らしで、月給は日本円で1万6千円ほど。暮らしは貧しかったという。
 
「日本で働けば月給20万から30万円。1日8時間、週5日勤務で土日は休み。寮あり」。こんな話を仲介会社から聞き、「思いつかないほど素晴らしい」と飛びつき、来日を決めた。仲介会社には自宅と土地を担保にして銀行から借金した約150万円を支払い、2013年3月に農業の技能実習生として来日した。
 
長野県の農業会社でトマトを育てる仕事に就いたが、勤務条件は聞かされていたものとはかけ離れていた。毎日午前6時から翌午前2時まで働き、休みはない。午後5時までは時給750円、以降は1袋1円の出来高払いでトマトの袋詰めをした。1千袋詰めた日もあったという。
 
用意された「寮」は、農機具の保管場所。シャワーはあったがトイレはなく、電源盤の下の約2平方メートルで寝た。「家賃」として月額2万円が給料から天引きされ、手元には6万円程度しか残らなかった。それでも可能な限りの3万~4万円を母国に仕送りした。
 
家と職場を往復するだけの日々。7カ月にわたって我慢したが、「頑張ったが、疲れてしまい、逃げ出した」。インターネットの情報を頼りに、愛知県日進市の土木会社で仕事を見つけた。しかし、在留期限が切れた14年3月に解雇され、無職になった。
 
「借金を残したままベトナムに帰れば担保にしている自宅などが奪われてしまう」。家族にも打ち明けられず、スーパーで弁当などの万引きを繰り返した。
 
同7月ごろからは、ビ被告と同県春日井市のアパートで一緒に暮らすようになった。ビ被告も無職。約200万円の借金をして短期大学に通うため来日したが、学費が払えずに退学していた。
 
8月上旬、ベトナム人の仲間約20人で、誕生日パーティーを開いた際、ヤギを盗む計画が持ち上がった。居合わせた7人が車で公園に向かった。ロック被告が運転し、ビ被告は実行役で、2頭のヤギを捕まえて首輪を外し、粘着テープで口や脚を縛った。ベトナムではヤギ鍋などは庶民の味で、すぐに解体して食べたという。
 
2人は別の窃盗事件と出入国管理及び難民認定法違反の罪にも問われている。検察側は今月12日、懲役2年を求刑し、弁護側は最終弁論で執行猶予付きの判決を求めた。判決は27日に言い渡される予定だ。(小林孝也)
 
■レ・テ・ロック被告が提出した謝罪文(抜粋)
 
悪いことをしたことは自分でもよくわかっています。言い訳ではないですが、私の話を聞いてください。一生懸命働いてお金をためてベトナムの家族に送るために日本に来ました。生活が苦しいので、日本で働きたい。そのために家を担保に借金をして日本に来ました。7カ月頑張りました。もう力が無く疲れてしまい、会社を逃げ出しました。お金が無くなってきて、日本語も下手、誰も助けてくれない。ベトナムに帰ろうと思ったが、借りた150万円を返していない。今帰ったら家族が困る。日本にいれば仕事が見つかるかもしれない。でも、おなかがすいた。スーパーで初めてごはんを万引きしました。命を守るため万引きしました。本当に申し訳ありませんでした。
 
 
〈外国人技能実習制度〉 日本で技術を学び、母国で役立ててもらうのが狙いで、1993年に始まった。実習生には労働基準法が適用され、期間は最長3年。仕事が単純作業ではないことを条件に、職種は繊維や食品製造、農漁業など69職種に上り、中国やベトナム、フィリピンなどからの15万人以上が働いている。送り出し国の団体が実習生らから取り立てる高額な「保証金」のほか、残業代の未払いや長時間労働などの違反も問題になっている。今後は人手不足が深刻な介護分野でも受け入れ、期間を5年に延長することなどが検討されている

もう一点。参考記事として。
 
冬木立 
冬木立

日本社会に蔓延る「陰湿」さについて弁護士の猪野亨さんが、その土壌についてメディアの記者を例にして(あるいは罵倒して)作家の辺見庸がそれぞれの論を語っています。以下は、その土壌の一端の一端。また、「陰湿」さの例の一端の一端。この事態に対して「もうとりかえしがつかないかもしれない」という悲嘆の声(「日録1-7」2015/02/10)を発したのは辺見庸でした。そのときも私はなんともやりきれない私自身の悲嘆の思いにかられたのでした。

1本目は猪野亨さんのブログから。

北星学園大学は非常勤講師である植村氏に関する犯罪でもある陰湿な嫌がらせを受けて、一時期、大学側が植村氏との雇用契約を切ろうとしていた時期がありましたが、大学側がそれを撤回、来年度も雇用が継続されることになりました。しかし、この植村氏に対する嫌がらせが未だに続いているということに日本社会が荒んできたということを実感せざるを得ません。植村氏本人ではなく、娘さんの顔写真をインターネット上でばらまくなどという行為まで行われているというのでは、この歴史歪曲主義者たちの卑劣さは、尋常ではありません。そして、植村氏の弁護団に対する嫌がらせ。弁護団事務局の事務所に対して大量のFAXを送りつける卑劣さ。自分は表に出ず、匿名で卑劣な行為を繰り返す人たちが日本社会を滅ぼそうとしているのです。ネット界もそうですが、匿名での卑劣な嫌がらせ行為を横行するようでは日本社会はおしまいです。歴史歪曲主義者の典型例でもあります。根底には強い「大日本帝国」があり、大和民族以外は劣等民族という発想でしかありませんから、それに「味方」するものは敵という発想しかないのです。先日も私のところにこのようなメールが来ました。

最高裁の愚行にしても反政府活動を繰り返すあなたも目障りで、不快極まりない/日本国民を代表して退場をお願いしたい

本当に陰湿です。

2本目は辺見庸のブログから。

きわめて重大なこと(辺野古の海の埋めたて、自衛隊海外派兵を随時可能にする恒久法制定工作)は報道しないか、できるだけ小さくつたえ、ゴミネタ(じいさんの万引き、NHK職員のチカン、オボチャンetc.)や猟奇的事件は、さも天下の一大事のように大々的に報じ、さわぎまくり、どこからどうみても手のつけられないドアホ(ex.A or the orang utan)を、いかにも正気でマトモな人物であるかのように記事化する、いわゆる〈報道ガイドライン〉が、いつかどこかで暗黙の裡にきまったらしい。このガイドラインに、みんなが、お上からまだなんのお達しもなひはずなのに、つきしたがっている。記者といふものは、昔もいまも、ファシズムの提灯もちである。そうでなかったためしがない。3Kだけじゃなひ。バカで不勉強で無関心で傲慢で卑怯で姑息で哀れなやつらだ。これはnew normal(「新たなる常態」)みたひだが、じつは、戦前、戦中からずっとおんなじ。といふか、このたぐいのnew normalは、むしろ戦前、戦中特有の現象である。いまはまちがひなく戦前であり、広義には、世界戦争のさなかである。「私たちは昭和史からきちんと学ぼうとせず、ずっと後世までひっぱっていくのではないだろうかと、若干、考えられます」(『昭和史1926-1945』)と、半藤一利さんが書いたのは10年前。もう「若干」どころじゃないよ。てっきり「右」系の方かとばかりおもっていた半藤さんが、いまや「左」っぽくみえたりするんだから、足下の座標がすっかりかわったのだ。家永三郎戦争責任』(岩波現代文庫)。読みながらイライラする。「ベッド・ディテクティブ」または「アームチェア・ディテクティブ」とは、澤地久枝さん、よく言ったものだ。「わたしの戦後の原点は、己が戦争中に身をおきかつ果たした役割の痛切な自覚にあるといえるかも知れない。しかし、『戦争責任』が女子供をふくめて広く広く問われているのに反して、昭和天皇の戦争責任についてはあまり力点がおかれていないと感じる」(澤地解説「これからの課題――家永三郎『戦争責任』の示唆するもの――」)。家永の身ぶり、口ぶり(の、あるしゅのいやらしら)をふくむ「戦争責任」とその思考方法、そして、昭和天皇への「ご進講」を家永に可能ならしめた心性、内面の問題。「戦争責任」は、断絶も切れ目もなく、そのまま「戦後責任」に連続している。気がついたら、ほらみろ、このザマだ。

以下は、猪野亨さんの挙げる「元朝日記者・植村氏の弁護団に『大量ファクス攻撃』 東京弁護士会が非難声明(全文)」(ブロゴス版)記事に対する匿名の非難の「陰湿」さの例。こういう光景はもう私たちの眼の前にも溢れている「常態」化した日常風景です。こういう光景に触れるたびに私も「もう私たちの国はだめかもしれない」という思いにとらわれます。

曽野綾子の人種差別(アパルトヘイト)を肯定する産経新聞のコラムに関して、昨日、私は、「国内だけでなく、南アフリカ駐日大使やアフリカ日本協議会が同コラムを掲載した産経紙に対して抗議文を送るなど国際的なレベルでも曽野綾子批判と産経新聞批判の波紋が広がっています」と昨日までの曽野綾子批判の現状を書いておきましたが、国際レベルでの曽野批判の声はさらに拡がっています。
 
曽野氏コラム:国際人権NGOが撤回求める要請書
(毎日新聞 2015年02月17日)
 
アパルトヘイトをめぐるThe Daily Beast の記事から
(内田樹の研究室 2015.02.18)
 
にもかかわらず、曽野綾子自身はこの期に及んでもことの本質を理解せず、昨日の17日に出演したラジオ番組「荻上チキ・Session-22」(TBS系)においても抗議される理由がまったくわからない、「アパルトヘイト許容」と指摘されている問題についても「撤回する気はない」旨述べているようです。
 
曽野綾子氏、抗議来る理由「全く分かりません」 「アパルトヘイト許容」指摘も撤回する気なし(J-CASTニュース 2015/2/18)
 
同番組の中で、曽野綾子は、産経紙コラムに「居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」と書いた問題についても「差別じゃない、区別です」と強調し、抗議に反論したということです。
 
このあらたな曽野綾子の「区別」発言問題についても次のような批判が出ています。
 
曽野綾子氏は「差別と区別は違う」「居住区を分けるのは良いことだ」と発言した。だが、人種や民族に基づいて人を区分することを「差別」という。人種差別撤廃条約の第1条を示しておく。
 
第1条
1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
五野井郁夫  2015年2月17日) 
 
曾野綾子氏「差別ではなく区別」は馬鹿げた詭弁。「区別」を強制すれば「差別」になることも分からぬか。アパルトヘイトの理屈と同じ。
内藤正典 2015年2月17日

なお、「荻上チキ・Session-22」での曽野綾子インタビューはこちらのブログのポッドキャスティングで聴くことができます。
 
追記1:
上記で紹介した「アパルトヘイトをめぐるThe Daily Beast の記事から」で内田樹さんは「曾野綾子の知性が不調なのは、彼女の個人的信念が世界標準では『許されない非人道的なもの』として認定されているという『事実』を勘定に入れることを怠った点にある」と述べて、曾野の知性の劣化はいまに始まったことのような書き方をしていますが、曾野の知性の劣化は彼女が文壇デビューした頃からのものであることは昨日の記事で私が指摘しているところです。ただし、内田さんは「そのような人物を教育政策の諮問機関に『有識者』として登用してきた政府」という言い方である程度の長いスパンの曾野の知性の劣化を想定しているようでもありますので、私との認識の乖離はそうないのかもしれません。

追記2:
私は昨日の記事で曽野のいう「南アの実状」は「当時のおそらく日本の新聞や雑誌、あるいは日本で販売されている海外紙誌によって知りえた「実情」でしかなかったであろう」と私の推測を記しておきましたが、上記番組での荻上チキさんの曽野綾子インタビューに、曽野は、「南アにいままで9回ぐらい用事で行っている。そういうときに向こう側の方々がいろいろなことをおっしゃる」と語っています。そうすると、曽野が「南アの実状」というのは、南アの旅行で「向こう側の方々」に聞いた「実情」、すなわち、「伝聞」の域を超えないということになります。「伝聞」の域を超えない、すなわち、うわさ話程度の「実情」なるものによって曽野は産経コラムにさも「事実」であるかのように書いてアパルトヘイト肯定の主張をしているというのがそれこそ「実情」なのです。
ツバキ3

曽野綾子の人種差別(アパルトヘイト)を肯定する産経新聞のコラムに対して、国内だけでなく、南アフリカ駐日大使アフリカ日本協議会が同コラムを掲載した産経紙に対して抗議文を送るなど国際的なレベルでも曽野綾子批判と産経新聞批判の波紋が広がっていますが、いまから私が述べようとすることは管見のかぎりいまだ指摘されていないように見えますので、曽野の物書きとしての文章手法という問題視点から彼女のコラムの問題点を指摘しておこうと思います。
 
曽野綾子の名前は臼井吉見が曽野や有吉佐和子の活躍を「才女時代」と評していた時代から知っています。が、私は、曽野の「作品」と呼べるものを読んだことはありません。曽野のエッセーは話題性に準じて何篇か読んだ記憶はありますが、それだけのことです。すなわち、私は、曽野を「才女」と思ったことはあっても、彼女を「作家」と思ったことはこれまで一度もありません。
 
さて、曽野が臼井吉見からも「才女」と評されたゆえんは、今回の産経新聞の「労働力不足と移民」というコラム記事からもその名残りをうかがい知ることができます。くだんの一文は次のようなものでした。
 
「もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実状を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。」
 
この一文の「実状を知って以来」という一節に彼女が「才女」と評されてきたゆえんの一端が隠されているように私には見えます。
 
すなわち、曽野は、「実状を知って以来」と言うのですから、読者は、その「実状」は、曽野自身にとって相当にインパクトの強い体験に基づく「実情」であったのだろう、と特に疑問を抱かずごくふつうに読解します。ここは文章構成上の綾というべきところでしょうが、このなにげない文章の一節から生み出される効果はそういうしくみになっています。曽野はそのことをよく知っています。だから、あえてそういう書き方をしています。
 
しかし、考えてみれば、南アのヨハネスブルクの白人だけが住んでいた一軒のマンションにやがて黒人も住むようになり、そしてさらにやがてその白人と黒人の共同生活が破綻するまでのいきさつは、そのマンション近くの一角に相当長期に滞在していなければつかめないものです。しかし、私の知るかぎり、曽野に南アのヨハネスブルクの長期滞在の記録は認められません。だとすれば、その「実情」は、当時のおそらく日本の新聞や雑誌、あるいは日本で販売されている海外紙誌によって知りえた「実情」でしかなかったであろうと推察するほかありません。しかし、新聞や雑誌によって知りえた不確かな(裏のとれない)「実情」でしかないものをふつうさもおのれが実際に経験した「実情」であるかのように述べることはありえないでしょう。実際、曽野もそのように書いていません。そのように書いていないのですが、そのように読めるようには書いています。これが曽野が「才女」と評されてきたゆえんの名残りのひとつの証明です。私はそうみなします。
 
曽野が「才女」と評されてきたゆえんのもうひとつの事例。曽野は南アフリカ駐日大使やアフリカ日本協議会から「アパルトヘイトを許容している」との抗議を受けたことについて、「アパルトヘイトを称揚したことなどありません」と反論しています。が、「許容したことなどありません」とは言いません。論点をわざとずらしてさも正論としての「反論」であるかのように見せかけているだけのことです。この文章上の手法も曽野流のトリックというべきでしょう。曽野を「才女」と見抜いた臼井吉見の眼は節穴ではなかったのです。もちろん、「才女」や「才媛」は披露宴用語の定番で、必ずしも披露宴の主役を「称揚」しているわけではないことはいうまでもないことです。披露宴でもそうなのですから、文学評論の場で「才女」と評されることがどのような意味を持つか。これもいうまでもないことというべきでしょう。

なお、曽野は、「私が安倍総理のアドヴァイザーであったことなど一度もありません」などとも反論しているようですが、「第2次安倍内閣における教育提言を行う私的諮問機関」の「教育再生実行会議」の有識者(委員)のひとり(ウィキペディア『教育再生実行会議』)であった事実は「あくまでも有識者(委員)のひとりであってアドヴァイザーではない」とでも強弁するつもりでしょうか? おそらくそうなのでしょう。ここでも曽野の「才女」的手法は健在です。類は友を呼ぶといいますが、曽野が安倍のお友だちであることがなるほど得心されます。
「今日の言葉」(2月14日から2月15日)から。

アパルトヘイトへの抗議を行う黒人たち(1980年代) アパルトヘイトへの抗議を行う黒人たち(1980年代)

曽野綾子氏のコラムというのでしょうか、「透明な歳月の光」の「「適度な距離」保ち受け入れを」が産経新聞に掲載され、それが物議を醸しています。私にとっての曽野綾子氏は、あの悪名高い司法制度審議会(1999年~2001年)の委員として、司法制度をぶち壊した1人として記憶に刻まれています。小説家とはいいながら、政府の御用委員を数多く務められている人です。私も読んでみましたが、すごいです。介護のための労働力としての移民を受け入れようというものです。(略)曽野綾子氏が労働力として想定しているのは「若い女性」だそうです。何故、介護の分野を担うのが「若い女性」なのでしょうか。どの国でも、これが差別的な発想からとんでもないことになっているのですが、「若い女性」なんて発想しているわけですから、それが何が悪いと言わんばかりです。メイドといえば聞こえはいいですが、要は「下女」です。中東やマレーシアに出稼ぎにいったフィリピンの若い女性たちが、ひどい仕打ちを受けていることは有名です。(略)そもそも福祉の分野を自国で担いたがらないというのはどういうことでしょうか。労働蔑視のような発想がないと言えるでしょうか。曽野綾子氏は、近隣国他民族」の「若い女性」に求めてしまうのです。これじゃ、女性蔑視的な発想があると言われても仕方ないでしょう。(略)そして極めつけはアパルトヘイト政策の推奨です。それを「南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」と表記しています。この人種隔離政策として南アフリカ共和国で行われていたアパルトヘイト政策を、曽野綾子氏は、この現代社会で実行することを主張しているのです。時代錯誤ということだけは片付けられない、非常にいびつな人間観です。肌の色で人を区別してしまうという発想ですが、これを差別というのです。かつての日本でも部落差別はこの居住区の制限を伴っていました。その差別思想を曽野綾子氏は「他民族」にも向けているのです。女性蔑視思想もそれに上乗せされるわけですから、ひどいものです。(「弁護士 猪野亨のブログ」2015/02/14

・先日BUZZAP!でも取り上げた
曽野綾子の人種差別(アパルトヘイト)を肯定する産経新聞のコラム。ネット上で大きな批判が巻き起こっていましたが、既に海を超えて海外の主要メディアでも大きな問題として報じられています。その中でウォール・ストリート・ジャーナルは曽野綾子本人と産経新聞に当該コラムに関して取材を行っています。(略)「曽野綾子は金曜日、ウォール・ストリート・ジャーナルの取材に対しこのコラムのことで議論するつもりはないと回答した。『もし記事に誤りがあれば私は訂正します。私も人間ですから間違うこともあります。しかし、あの記事に間違いはありません』」として曽野は一切の訂正も謝罪も行わず、堂々とアパルトヘイトを推進しようとしたことを「間違いない」と明言。また、産経新聞のスポークスマンのKatsunori Murakumoも取材に答え、個人的見解であり誌上に掲載するのは問題無いと人種差別的な内容を容認しています。(略)この記事の中では曽野が安倍政権のアドバイザーを務めていたという経歴にも触れており、単なる小説家の発言であるとは考えられていません。また、この記事と前後してタイムズロイター通信も「安倍首相のアドバイザーがアパルトヘイトを推奨」とした記事を掲載しています。しかし海外メディアからの大きな批判をよそに、日本国内のマスコミはハフィントン・ポストを始めとした一部ネットメディアを除き完全に沈黙しているのが現状。奇しくも昨日BUZZAP!でも報じた日本の報道の自由度が過去最悪にまで転落した」ことを裏付けるかのような形になっています。なお、この問題に対してNPOのアフリカ日本協議会が当該コラムの「居住区を分ける」ことの意味と問題点を鋭く指摘し、曽野と産経新聞に対してコラムの撤回と謝罪を求めています。(略)ウォール・ストリート・ジャーナルへの対応を見るに曽野と産経新聞は謝罪も撤回もしないと回答したようなものですが、果たして曽野綾子と深い関係にあった安倍政権はどのように本件に対して回答するのでしょうか。仮に菅義偉官房長官がいつものように「問題ない」と発言した場合日本が世界中からこれまでないほどに危険視されることは間違いありません。(バザップ! 2015年2月14日

参考:
曽野綾子「透明な歳月の光」『労働力不足と移民』
(全文。産経新聞、2015年2月11日)
 
 最近の「イスラム国」の問題など見ていると、つくづく多民族の心情や文化を理解するのはむずかしい、と思う。一方で若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めなければならないという立場に追い込まれている。
 
 特に高齢者の介護のための人手を補充する労働移民には、今よりもっと資格だの語学力だのといった分野のバリアは、取り除かねばならない。つまり高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くないのだ。
 
 どこの国にも、孫が祖母の面倒を見るという家族の構図はよくある。孫には衛生上の専門的な知識もない。しかし優しければそれでいいのだ。
 
 「おばあちゃん、これ食べるか?」
 
 という程度の日本語なら、語学の訓練など全く受けていない外国人の娘さんでも、2、3日で覚えられる。日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ。
 
 しかし同時に、移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。不法滞在という状態を避けなければ、移民の受け入れも、結局のところは長続きしない。
 
 ここまで書いてきたことと矛盾するようだが、外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。
 
 もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実状を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。
 
 南アのヨハネスブルクに一軒のマンションがあった。以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。ところがこの共同生活はまもなく破綻した。
 
 黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションにどんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画に、20~30人が住みだしたのである。
 
 住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、一戸あたり常識的な人数の使う数量しか確保されていない。
 
 間もなくそのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。
 
 爾来、私は言っている。
 
 「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」
本ブログの「今日の言葉」の2月11日から2月13日までの記録です。

マンサク  

・渦中の報道を見聞きしながら、気になったことがあります。安倍晋三首相は事件について語るとき、まずは「卑劣な行為だ、絶対に許せない」などと言う。国会で質問に立つ野党議員も、いかにテロが卑劣か、許せないかを、枕詞のように述べる。そんなことは大前提です。でも省略できない。この光景には既視感があります。オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きたときも、オウムについて語る際には、まずは「卑劣な殺人集団だ、許せない」などと宣言しなければ話ができない、そんな空気がありました。大きな事件の後には、正義と邪悪の二分化が進む。だからこそ、自分は多くの人と同じ正義の側だとの前提を担保したい。そうした気持ちが強くなります。今の日本の右傾化や保守化を指摘する人は多いけれど、僕から見れば少し違う。正しくは「集団化」です。集団つまり「群れ」。群れはイワシやカモを見ればわかるように、全員が同じ方向に動く。違う動きをする個体は排斥したくなる。そして共通の敵を求め始める。つまり疑似的な右傾化であり保守化です。(
森達也「朝日新聞」2015年2月11日

・昨日、
大道寺将司さんの新作を読む。体力の衰えと抗がん剤のつらさのなかでみちびきだされた一句一句。その深みに息をのむ。目が洗われ、こころが静まった。獄中に景色があり、獄外にはない。獄中に思想の海原があり、獄外はもう涸れた。今春、なんとしても会いにいかないといけない。けふ、マヒ、視床痛。(辺見庸「日録1-7」2015/02/12

・2月6日、ドイツ人記者が後藤健二さんのお母さんに取材に行ったさい、「安倍内閣が現時点まで弔意を示す連絡を母親に入れていない事実に絶句した」そうだ。殺害予告動画が流れた1月20日の前も後も、後藤さんの母親には政府は連絡すらしていなかった。調べてみると、湯川さん殺害のあとの
首相声明は「御家族の御心痛は、察するに余りあり、言葉もありません。このようなテロ行為は言語道断の許しがたい暴挙であり、強い憤りを覚えます。断固として非難します。」後藤さん殺害の後が、「御親族の御心痛を思えば、言葉もありません。政府として、全力を挙げて対応してまいりました。誠に無念、痛恨の極みであります。非道、卑劣極まりないテロ行為に、強い怒りを覚えます。許しがたい暴挙を、断固、非難します。」一方、ヨルダン人パイロットの殺害が分かったあとは、「御家族の心境を思うと言葉もない。ここに、日本政府及び日本国民を代表し、衷心より哀悼の誠を捧げ、心からお悔やみを申し上げる。この困難な時に、日本はヨルダンと共にある。ヨルダン政府及び国民の皆様に対し、心からの連帯を表する。」アメリカ人ケーラ・ミューラーさんの死亡が確認されると。「ここに、日本政府及び日本国民を代表し、衷心より哀悼の意を表するとともに、ミュラー氏のご家族に対し、心からのお悔やみを申し上げる。この困難な時にあって、米国政府及び米国国民の皆様に対し、揺るぎない連帯を表明する。日本人二人のときには、「お悔み」がないではないか。「自民党の谷垣禎一幹事長は6日、イスラム過激派組織「イスラム国」に殺害されたとみられるヨルダン軍パイロット、モアズ・カサスベ中尉の弔問のため、東京都内のヨルダン大使館を訪れた。」ちゃんと弔問をしている。ところが、湯川さん、後藤さんの家族には政府のしかるべき立場の人が弔問したという話を聞かない。いったいどういうことなのか。自国民がやられると「自己責任」で、外国人だと尊い犠牲になるのか。(高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-02-12
私の個人的な理解によれば、以下に引用しようとする澤藤統一郎弁護士の論は、昨日の私の問題提起に通底する問題群を持っています。ひとことでいえば民主主義とはなにか、という問題(群)です。流行の言葉でいえば人と組織の「民主主義指数」、あるいは「民主主義方程式」の問題ともいうことができるでしょうか。「複雑系」の問題ですから、解き方はさまざまであろうと思います。そのひとつのあるべき解法として澤藤弁護士の論がある、というのが私の理解です。科学の問いを恣意のように捻じ曲げては解かれるべき問題はそこで挫折させられてしまいます。そこも「複雑系」たるゆえんでもあります。私の手前勝手なデマンドにすぎませんが、私としては昨日の「今井一氏の『暴論』と『詭弁』の反論に反論する」の続きとして読んでいただければありがたいと思っています。以下、澤藤弁護士の「ナッツ姫」に関する論。「ナッツ姫」問題としては2回目の論ですが、総体としては40本近い論があります。その1本としての論(以下、テキストリンクとボールドは引用者)。
 
ナッツ姫に懲役1年の実刑 - 量刑理由に「人間の自尊心を傷つけた」
(澤藤統一郎の憲法日記  2015年2月13日)
 
趙顕娥(チョ・ヒョンア・前大韓航空副社長)という名前は日本では覚えられにくい。誰のことだかわかりにくくもある。失礼ながら、分かり易く「ナッツ姫」で通させていただく。
昨日(2月12日)ナッツ姫にソウルの地方裁判所が、懲役1年の実刑判決を言い渡した。航空保安法における「航空機航路変更罪」と、業務妨害罪の観念的競合を認めたとのことだ。実刑を選択した裁判所の「量刑理由」の説示が興味深い。
 
韓国の(保守系)有力紙「中央日報(日本語版)」の見出しが、韓国民の関心のありかをよく伝えている。「大韓航空前副社長に懲役1年…裁判所『職員を奴隷のように働かせた』」というのだ。以下は、その記事の抜粋である。(大意であって、原文のママではない)
ナッツ・リターン事件で逮捕され起訴された趙顕娥(チョ・ヒョンア、41)前大韓航空副社長に懲役1年の実刑が宣告された。/ソウル西部地方裁判所刑事12部(オ・ソンウ部長)は12日、航空保安法上の航空機航路変更などの罪で起訴された趙前副社長に対して『被告人が本当の反省をしているのか疑問』として上記刑を言い渡した。」
 
「裁判所は量刑の理由の説示において、趙前副社長が提出した反省文の一部を公開した。趙前副社長は反省文で『すべてのことは騒動を起こして露骨に怒りを表わした私のせいだと考え、深く反省している。拘置所の同僚がシャンプーやリンスを貸してくれる姿を見て、人への配慮を学んだ。今後は施す人になる』と話したという。続けて、オ・ソンウ部長判事は『この事件は、お金と地位で人間の自尊心を傷つけた事件で、職員を奴隷のように働かせていなかったら決して起きなかった』と述べ、さらに当時のファーストクラス席の乗客の『飛行機を自家用のように運行させて数百人の乗客に被害を与えた』という陳述も引用して、実刑の宣告理由を明らかにした。また『趙前副社長は、乗務員と事務長から許しを受けることができていない』とも述べ、『趙亮鎬(チョ・ヤンホ)韓進(ハンジン)グループ会長(66)が、事務長の職場生活に困難がないようにすると言ったが、同事務長には「背信者」のレッテルが貼り付けられていると思われる』と付け加えた。」
「パク事務長」とは、パーサーあるいはチーフパーサーの職位に当たる人なのだろう。2か月前の中央日報日本語版が次のとおりに伝えている。
「『ナッツ・リターン』事件当事者の一人、パク・チャンジン大韓航空事務長(41)が(2014年12月)12日、口を開いた。5日(現地時間)に米ニューヨーク発仁川行きの大韓航空KE086航空機に搭乗し、趙顕娥(チョ・ヒョンア)前大韓航空副社長(40)の指示で飛行機から降ろされた人物だ。
 
パク事務長はこの日、KBS(韓国放送公社)のインタビューで、マカダミアナッツの機内サービスに触発された『ナッツ・リターン』事件当時、『趙顕娥前副社長から暴言のほか暴行まで受け、会社側から偽りの陳述も強要された』と主張した。
 
放送に顔と実名を表したパク事務長は『当時、趙前副社長が女性乗務員を叱責していたため、機内サービスの責任者である事務長として許しを請うたが、趙前副社長が激しい暴言を吐いた』とし『サービス指針書が入ったケースの角で手の甲を数回刺し、傷もできた』と話した。また『私と女性乗務員をひざまずかせた状態で侮辱し、ずっと指を差し、機長室の入口まで押しつけた』と当時の状況を伝えた。」
 
以上で、事件と裁判の概要は把握できると思う。刑事裁判であるから、罪刑法定主義の大原則に則って、あくまで起訴事実の存否とその構成要件該当性が主たる審理の対象となる。しかし、本件についての主たる審理対象は、むしろ情状にあったのではないか。ナッツ姫のパーサーやキャビンアテンダントに対する「人間としての自尊心を傷つけた行為」が断罪されたという印象が強い。両被害者からの赦しを得ていないことが実刑判決の理由として語られていることが事情をよく物語っている。実質において、一寸の虫にもある「五分の魂」毀損罪の成立であり、これに対する懲役1年実刑の制裁である。
 
それにしても思う。偽証まで強要されたこの被害者2名が勇気ある告発をせず、長いものに巻かれて泣き寝入りしていればどうだったであろうか。何ごともなかったかのごとく、ナッツ姫は、わがままに優雅な生活を送っていたのではないだろうか。財閥一家の傲慢さ横暴さが曝露されることもなく、韓国社会の健全な世論の憤激も起こらなかったであろう。勇気ある内部告発は、公益に資する通報として社会に有用なのだ。
 
日本の上原公子元国立市長の名は、覚えにくいわけではない。しかし、その行為を弾劾する意味で、失礼ながら敢えて「ナッツ上原」と言わせていただく。事情が、日韓まさしく同様なのだから、その方が分かり易い。ナッツ上原の「五分の魂毀損」事件の顛末は既に詳しく書いたから繰り返さない。かなりの長文だが、下記のブログをお読みいただきたい。

韓国のナッツ姫と日本のナッツ姫ーともに傲慢ではた迷惑
(2015年1月31日)
 
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその6
(2013年12月26日)
 
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその7
(2013年12月27日)
 
ナッツ上原にも、肝に銘じていただきたい。「あなたの行為は、自分に権限あるものとのトンデモナイ勘違いによって、上から目線で人間の自尊心を傷つけたもの。ボランティアとして選挙運動に誠実に参加した仲間を大切にする気持ちが少しでもあれば、決して起きなかったこと」なのだ。もちろん、ナッツ上原の行為は、陣営の選挙運動に具体的な支障をもたらしている。そして、主犯熊谷伸一郎ともども、いまだもって五分の魂を傷つけられた二人に謝罪もしていなければ赦しを受けてもいない。
私は、自浄能力のない組織における内部告発(公益通報)は、その組織や運動にとっても、社会全体に対しても有益なものであると信じて疑わない。本日の記事を含め、当ブログは、公共的な事項に関して、公益をはかる目的をもって、貴重な情報を社会に発信し、革新共闘のあり方に有益な問題提起をなしえているものと確信している。
 
私が宇都宮陣営に「宣戦布告」をしたのは、2013年12月21日である。
宇都宮健児君、立候補はおやめなさい。
 
その日のブログに書いたとおり、私の闘いは「数の暴力」への言論による対抗手段としての事実の公開である。典型的な内部告発であり、公益通報である。力のない者が不当・無法と闘うための王道は、何が起こったかを広く社会に訴え多くの人に知ってもらうこと以外にない。幸いに、私にはささやかなブログというツールがあった。「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズは、33回を毎日連載して望外の読者の反響を得た。もちろん、覚悟した反発もあったが、その内容は説得力に乏しいお粗末なもので、その規模は事前の想定よりも遙かに小さなものだった。むしろ、多数の方から予想を遙かに超える熱い賛意をいただいて、「私憤」だけでない公益通報の公益的な意義を確信した。
 
「念のために申し上げれば、開戦は私の方から仕掛けたものではありません。宇都宮君側から、だまし討ちで開始されました。だから、正確には私の立ち場は「応戦」なのです。しかし、改めて私の覚悟を明確にするための「宣戦布告」です。」これが、シリーズ冒頭の一節。その宣戦布告はいまだに講和に至っていない。
翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」の「賛同人署名」のありかたについて疑問視されている問題点について同「声明」署名の発案者のおひとりの今井一氏が反論を書いています。
 
「想田和弘Twitter」(2015年2月12日)
声明文への賛同者を募る際に「なぜ職業的な言論人、報道人、表現者とそれ以外の一般の人とを分けるのか」という抗議、疑問について、今井一さんからの詳しい説明と反論です。疑問に感じておられた方々、ぜひお読みください。http://ref-info.com/2q/
 
しかし、一読して、彼の反論は、「暴論」と「詭弁」に満ちた反論とはいえない反論でしかありませんでした。彼を「言論人」と呼ぶのもおこがましい。私はそう思いました。想田和弘さんも「暴論」と「詭弁」のみと言ってよいこのようなしろものを想田さんの名誉のためにも「詳しい説明と反論」、「ぜひお読みください」などと言うべきではないでしょう。自身の人を見る目のなさと読解力のなさを示すだけのことにしかならない、と私は思います。
 
さて、今井氏の反論の全文は最下段に附記しておきますが、その前に私の今井氏の反論に対する反論の反論を示しておきます。
 
第1に言っておかなければならないことは、今井氏のものの言い方の高飛車な態度の問題です。まず反論の冒頭で今井氏は「少数ではありますが、抗議や疑問が寄せられているので、お答えします」と述べます。ハナから今井氏は「賛同の求め方」に抗議や疑問を提起する者を「少数者」のクレーマーとして片づけようとしています。そのことは「少数ではありますが」という彼の冒頭のもの言いからも明らかです。が、問題提起者をクレーマー視するところに民主主義はありません。言い古されている言葉ですが有名なヴォルテールの言葉。「私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というのが民主主義者としてのあるべき姿勢というべきだからです。今井氏のもの言いの高飛車な態度は民主主義者のそれとは決定的に異なります。そういう人が「翼賛体制の構築に抗する」などと言っても説得力はまったくありません。また、問題提起者や疑問提起者を「少数者」と決めつけてかかるのも問題です。今井氏の目にふれたものが単に「少数」だったということにすぎないかもしれません。同じように考えている人は案外大勢かもしれないのです。ここでは実数の問題を言っているのではありません(それはわからないことです)。「決めつけてかかる」のはよくない、ということを言っています。
 
第2。今井氏は、「職業的な言論人、報道人、表現者とそれ以外の一般の人」を分ける理由として、「主婦、医師、魚屋といった職に就いている人」と「非正規雇用で働いている報道関係者や正社員の報道関係者」とをくらべて後者は「直接関係ない理由で解職されたり左遷されたりする」確率が高いことをあげていますが、今井氏が例としてあげている「主婦、医師、魚屋といった職に就いている人」は主婦を除いていわゆる自営業の人たちで「解職」されるということはもともとありえません。しかし、これが一般の会社員ということであれば、「解職」の危険度は報道関係者よりも高いかもしれないということはいえても低いということはいえないでしょう。統計を示すまでもなく、一般の会社員よりも報道関係者の方が自由度が高い(もちろん、「言論の自由」も含めて)というのが世間の評価の通り相場です。今井氏の論は「詭弁」というほかありません。
 
第3。今井氏は、「もう一つの理由」として、「信頼性を高めることでした。表現活動と呼べることをまったくしていない人の名前を「数を稼ぐために」載せたりしていない」などとも述べています。ここでも今井氏は、「他者の品定め」はおのれがするという不遜な態度をあらわにしています。この「賛同人署名」の呼びかけは、自身を「言論人、報道人、表現者」と考える人に対して、「みなさん「賛同人」という位置付け」で、かつ、「表現者と考えるかどうかは自己申告制」の形で呼びかけられたものです。そうであれば、この呼びかけに応えて署名を寄せた人たちは、自身を「言論人、報道人、表現者」のいずれかであると判断したからこそ呼びかけに応えたはずで、「表現者と考えるかどうかは自己申告制」である以上、その「申告」をそのまま受け入れるというのが筋です。改めて「信頼性を高める」ために「肩書き」を追加して「再送するようお願いする」必要などないはずです。それを今井氏は「信頼性を高める」ためなどと強弁する。私が今井氏を「不遜」というのはそういうことです。ましてや自身を「表現者」と認識して「賛同人署名」の呼びかけに応えようとした人たちを「表現活動と呼べることをまったくしていない人」、などと見下した物言いもする(なかにはそういう人もいるかもしれませんが)。何をかいわんやといわなければならないでしょう。
 
第4。今井氏は自身が上記のような態度をとっているにもかかわらず、「「自己申告、自身が表現者だと考えればそれでいい」という想田さんの書き込みは反故になっていません。守られています」などとここでも強弁します。挙句の果ては「追伸」として「使命感と正義感によって、不眠不休で転記作業をしてくれている若いジャーナリスト」なる人を引っ張り出して、「彼は、とてもつらい思いをしています」などとも言います。しかし、今井さん。私が指摘したあなたの上記のような対応を見る限り、「若いジャーナリスト」なる人はともかくとして、あなたが「使命感と正義感」のある人などとはとても思えません。
 
「声明」賛同についての二つの疑問に答えます(今井 一 2015年2月12日)
 
「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」への賛同の求め方に関して、少数ではありますが、抗議や疑問が寄せられているので、お答えします。
 
[1]なぜ職業的な言論人、報道人、表現者とそれ以外の一般の人とを分けるのか。という抗議、疑問について
 
憲法で認められている言論、表現の自由は、作家、俳優であろうが無職、主婦、学生であろうが保障されている。だから職業的な言論人、報道人、表現者とそれ以外の一般の人とを分けるな、差別するな、馬鹿にするな…
そんな抗議や疑問がSNS上に流れていたり、想田和弘さん古賀茂明さんに寄せられたりしています。お二人は元々「分けない方がいい」と主張されていました。それを否定したのは私です。
 
理由は二つ。例えば、主婦、医師、魚屋といった職に就いている人が、ツイッターで政権批判をしても、仕事を奪われたり左遷されるということは、ほとんどありません。けれども、同じことを、例えば、非正規雇用で働いている報道関係者や正社員の報道関係者がやれば、直接関係ない理由で解職されたり左遷されたりするのです。つまり、前者は政権批判をしても暮らしに困ることはないが、後者はたちまち窮乏するという点でまるで違うのです。
 
今回、私宛に知人・友人の報道関係者が、前述のことを理由として明記し、名を連ねるのは「数日考えさせてほしい」とか「諸般の事情で難しい」とか「スタッフに給料を払えなくなるから無理」とメールしてきました。これが現実なのです。だから、覚悟を決めて「声明・宣言」に名を連ねる職業的な言論人、報道人、表現者と、こうした職業的表現者の抵抗の動きを支持し応援する人に「賛同」署名は分けるべきだと考えたのです。
 
今回、大手放送局の現職のプロデューサー、ディレクターが名を連ねました。新聞社、出版社の記者、デスクも名を連ねました。彼らが負うリスクと、何を書いても、言っても、職を生活を急には奪われない人が負うリスクはまるで違います。なので、両者を同列に扱うのはおかしいと私は考えました。
 
もう一つの理由は、信頼性を高めることでした。表現活動と呼べることをまったくしていない人の名前を「数を稼ぐために」載せたりしていない。連名者として掲載されている人はみな、ちゃんとした「言論人、報道人、表現者」であるということを確保したかったからです。
 
[2]表現者としての名前の掲示は「自己申告制で審査なしです」という言葉を反故にしているという抗議、疑問について
 
今回、想田和弘さんがFBで「自己申告、自身が表現者だと考えればそれでいい」という旨のことを書かれました。それを根拠に「話が違う」とか「審査されて拒まれた」と言ってる人がいますが、想田さんの書き込みは反故になっていません。守られています。
 
名前を掲載する作業を担った私と大芝健太郎さんは、みなさんからいただいたメールを一人ひとり、端から端まで読んで対応しました。職業欄に、俳優、小説家、カメラマンなど明らかに職業的な表現者だとわかる人については、そのまま名前を転記しましたが、空欄、無職、学生、公務員、主婦、家事手伝い、看護師等々、一般的な職種を記している人で、メッセージ欄に「詩を書いている」とか「ブログで発信している」といった具体的な活動について何も付記していない方については、それを付して再送するようお願いする返信を送りました。(メッセージ欄に表現活動を記している方は転記)
 
自己申告制で審査なしです。「詩を書いている」という人に対して、作品を見せろなんて言わないし詩人と呼ぶにふさわしいかどうか審査するなんてこともない。つまり、想田和弘さんの言ったことは基本的に守られているのです。
 
職業欄空白でメッセージ欄にも何も記していない人の名前を、機械的に、前述のディレクターや記者の横に並べるようなことはしたくない、しなかった。
 
賛同の登録については新しいシステムが導入されましたが、旧システムで登録してくださった方のお名前の転記作業が、あと1千人ほど滞っています。それをまた、私と大芝さんが担うわけですが、私たちはブレません。ここに書いてあることが理解できないというなら、それでけっこう。どうぞまた抗議してきてください。ただし、想田和弘さんや古賀茂明さんに絡んだり責めたりするのはやめてもらいたい。
 
言いたいことがあるなら、この作業の責任者である私に直接どうぞ。hanyokusan@gmail.com
宛てに電話番号を添えた実名メールをもらえば、私の携帯からお電話を差し上げます。私たちは、膨大な 転記作業に追われていて、メールのやりとりに時間を割く余裕はありませんので。電話でやり取りさせてください。よろしくお願いします。
 
追伸、使命感と正義感によって、不眠不休で転記作業をしてくれている若いジャーナリストをがっかりさせないでほしい。メールを読んでいないとか主婦を馬鹿にしているとか差別しているとか、もううんざりです。彼は、とてもつらい思いをしています。
以下は、ISのウェブ版英字機関誌「ダビク」で公開された最新のISの主張。
 
人質事件:「日本政府に恥辱が目的」…IS機関誌
(毎日新聞 2015年02月12日)
 
【カイロ秋山信一】イスラム過激派組織「イスラム国」(IS=Islamic State)のウェブ版英字機関誌「ダビク」の最新号が公開された。ISは「安倍晋三(首相)は『イスラム国』と戦うために2億ドル(約240億円)の資金提供を表明した」と従来の一方的主張を展開した。日本人の人質殺害について「傲慢な日本政府に恥をかかせるのが目的だった」などと述べた
 
ダビク最新号は巻頭の2ページで日本人人質事件を特集し、殺害された千葉市出身の会社経営、湯川遥菜さん(42)と、仙台市出身のフリージャーナリストの後藤健二さん(47)の写真も掲載した。
 
IS活動地域の周辺国に対する非軍事分野での2億ドルの支援について、同誌は「ISとの戦いに使われるのは明白だ。思慮が浅く、傲慢な判断だ」との見解を示した。また「(支援表明前は)日本の標的としての優先順は低かったが、今や、あらゆる場所で標的になる」と脅した。
 
当初2億ドルの身代金を要求した点は「金には困っていないし、日本政府が2億ドルを支払わないことも分かっていた。第二次大戦後、西洋の奴隷になった日本政府に恥をかかせるのが目的だった」と説明した。
 
一方、ヨルダンに収監されていたIS前身組織メンバーと後藤さんとの交換交渉では、ヨルダンのイスラム教指導者、アブムハンマド・アルマクディーシ師が仲介役を務めたと明かし「ヨルダン政府が(ISに拘束されていた)ヨルダン軍パイロットを交換に含めようとして事態を複雑化させた」と指摘した
 
アルマクディーシ師は当時ヨルダンで収監されていたが、事件後の今月5日に釈放された。師の側近は毎日新聞の取材に、交渉を仲介したことを認めていた。
 
引用者注:ISの主張を擁護するつもりはまったくない。が、ISの主張は人質問題に関する安倍政権と日本政府の対応がまったく誤りであったことの証明になっている、といえるのではないか。要は安倍政権に人質を救出する意思はまったくなかったということ。ヨルダンに仲介を依頼したことはその指揮をとった安倍政権の過ち、「傲慢な判断」と「思慮の浅さ」であったことをIS側の論理で証明している。繰り返す。ISの論理を擁護しているのではない。ただ、証明になっている、と言っているだけ。安倍政権が人質を救出する意思がなかったことの日本側の民間からの証明としては秀逸な「報道特集」(TBS報道局)の報道がある。
一昨日の2月9日、参議院議員会館において「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」の発表記者会見が開かれましたが、その「声明」は当初、同声明に賛同する人は「みなさん『賛同者』という位置付け」でとりくみを始めたものが途中からその賛同者のひとりの今井一氏の恣意的な修正によって「賛同者」と「支持者」に差別化されてしまった問題点については8日付け本ブログの「今日の言葉」欄の引用者注で指摘しておきました。同引用者注を改めて記事にしたものは以下のとおりです。
 
引用者注:想田和弘さんが叩き台を書いた今回の言論の自由のための声明そのものには賛成です。が、このとりくみの背後にいる今井一という人を私は信用しません。彼は単なる「運動屋」にすぎないというのが私の評価です。たとえば想田さんが「みなさん『賛同者』という位置付け」ですと言っているものを事務局的な役割をになっているとしても賛同者のひとりにすぎない今井氏が越権的に「みなさん賛同者」を「賛同人」と「支持者」に差別化してしまうのは文字どおり差別を生み出しかねない禍根を遺してしまいそうです。「翼賛体制構築に抗する表現者」たちの思想とはそういうものか、が問われています。そういうことでいいのですか? 想田さん。
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1169.html
 
さて、同「声明」作成の経緯について、私と同様の問題点を感じた人はほかにもいらっしゃったようで、想田さんが自身のツイッターにその問題提起者のFonzyさん(他にもう1名)との問答と思われますがアップされています。今回の「声明」作成の経緯について参考になると思われますので想田さんのこの問題のとらえ方として整理したうえで本ブログにもアップしておきます。
 
想田和弘Twitter」(2月10日)から。
 
・分かりにくくてすみません。もちろん審査はしませんし、できません。表現者と考えるかどうかは自己申告制です。
 
・すみません、事務局の方はとにかく膨大な量のメールをボランティアで処理されているので、ひとつひとつのメールをじっくり読む余裕がないようです。いただいたメールの不明な点を問い合わせる作業で、昨日も徹夜だったと聞きました。
 
・そのような事情もあって、行き違いが生じてしまったのかなあと推察しております。しかし現場の方には落ち度はなくて、ここまでメールが殺到する事態を想像できなかった僕らに責任はあります。その点をご理解いただけると嬉しいです。
 
・現在、賛同者や応援者を募る方法をメールではなくhttp://change.orgに移行することを検討中です。僕も含めて全員がボランティアで組織も資金もなくやっていることですので、不備はあると思いますがご容赦いただけると幸いです。
 
・そうでしたか、それは大変失礼しました。僕も想像でものを言ってしまいました。@Hajime Imai:想田さん、メールはきちんと読んでますよ。読んだ上で、(例えば、詩を書いてるとかダンスをしているとか)行なっている表現活動を具体的に記して再送して下さいとお願いしました。眠る時間を削って読んでいる者としては心外です
 
・今井さんの会見での発言の真意はご本人に確かめて欲しいのですが、いわゆる「言論人」と「一般人」を途中から分けたのは、賛同してくださる方からのメールが一度に殺到して処理しきれなくなったことが最大の理由です。僕はそう聞いていますし、そう理解しています
 
・また、「言論人」「表現者」かどうかなどは誰にも審査できません。したがっていまでも自己申告制です。ご自分を「言論人」「表現者」と考える方はどなたでも「賛同者」として名を連ねていただけます。むしろ「応援者」という選択肢が増えたとお考えください。

引用者注:上記で今井氏は、「(例えば、詩を書いてるとかダンスをしているとか)行なっている表現活動を具体的に記して再送して下さいとお願いしました」と求再送の理由を釈明していますが、「自己申告制」であるならば、その「自己申告」を良とするべきで求再送までして賛同申込者の「肩書」を再確認する必要はない、というのは引用者の意見です。
 
僕自身は「言論人」と「一般人」を分けることそのものに積極的な意義を感じません。むしろ人間は誰もが言論人であり表現者であるし、あらねばならないと考えています。したがってカテゴリーを分けることには消極的でした。
 
しかし、メールを処理する担当の方は仕事の合間にボランティアでやっておられ、徹夜でメールの処理をされていると聞いて「分けない」ことにこだわることはできませんでした。少しでもご負担が軽減するならと、分けることを是といたしました。ご理解いただければ。
 
おっしゃることはよくわかります。僕も同感ですので。これを教訓に、次回はその考えをもっと大事にできるよう工夫したいと思います。今回は苦肉の策でこうなりました。批判は甘受しますが、完璧を期すのは難しいです。最初から70点を目指しています。
 
これは決して嫌味ではなく提案なのですが、私たちがこうした動きをしたのは、別に私たちが「特別」だからではありません。Fonzyさんと同じ資格でやっています。ですから「私ならもっとこうするのに」と考えるなら、運動を自ら作られることを提案します。
 
そうやって市民が主体的に積極的に動きを作っていくことが、デモクラシーを豊かにしていくことにつながると思います。Fonzyさんが私たちの動きに違和感を感じられたこと。それは大事な「気づき」なんです。それをご自分の運動にぜひ活かしてください。
 
ちなみに、僕は「観察映画」と呼ぶ方法論でドキュメンタリー映画を作っていますが、それは既存の作り方に違和感と反発があったからです。「俺ならこうするのに」というエネルギーのおかげで自分なりの方法論を発見しました。「違和感」は大事なのです。
 
一つ言い忘れました。二分法そのものに疑問とのご指摘はその通りだと思うのですが、現実にはいま最も自粛の圧力を受け危機にあるのは職業的な「言論人、報道人、表現者」なんですね。だから彼らにこそ積極的に名を連ねて欲しいという思いもあったと思います。
 
・アップされました。声明文を出した意図や発端となった出来事などについて書いています。→意見の多様性を確保するために│映画作家・想田和弘の「観察する日々」 |マガジン9
 
上記の想田さんの「弁明」を読んでも、8日の私の問題提起を変更する必要を感じません。今井一氏の記者会見発言もビデオで観てみましたが、今井氏は不必要に有名「作家」「報道人」の「声明」賛同をブリーフィングすることのみに熱心で、「人間は誰もが言論人であり表現者であるし、あらねばならない」という想田さんの思想との乖離は明らかなように私には思われます。「翼賛体制の構築に抗する」民主主義者としてはいかがなものか、というのがビデオを観たうえでの私の感想です。
 
やはり「声明」言いだしっぺのひとりの古賀茂明氏も7日付けのツイットで以下のように述べています。
 
「わずか1週間ですごいことになってますね。未掲載だけど、上野千鶴子、荻原博子、孫崎享、前泊博盛、青木理、森永卓郎、福岡政行、石坂啓氏らも続々参加。」
 
同「声明」に有名言論人が「続々参加」表明することはもちろん有意義で、それ自体に私は異議があるわけではありませんが、強調するところが違っているのではないか? そういうことよりも強調すべきは多くの無名有名を問わないかつてない「表現者」の参加の問題だと私は思うのですが、今井氏や古賀氏の言質にそういう思想を見出すことはできません。

なお、参考として、同「声明」に関して賛同人募集のとりくみの発端となったと思われるいくつかのツイットも拾っておきます。
 
昨夜の報道ステーションでの古賀茂明さんの[I'm not Abe]発言。よくぞ言ったと思った人は多いはずなのに、テレビ朝日には「けしからん」「辞めさせろ」の電話とメールが多数寄せられているようだ。「よかった」「続けて」と思う人は電話してそう言いましょう
 
「国家の一大事だから今は政権批判を控えろ」という言説には全く賛同できない。そんな言い分を認めてしまったら、仮に日本が他国と交戦状態にでもなったときに政権批判ができなくなってしまう。それは翼賛体制に入ることと同義。むしろ国家の一大事にこそ自由な批判ができなくては危なくて仕方が無い。
 
日本に政権批判を自粛する空気が広がる中、安倍氏は人質事件を利用しようとしている。為政者にとって、なんと都合の良い国民性なんだろう。→邦人人質問題で再び集団的自衛権論議 http://on.wsj.com/1uULBIi
 
僕のツイートに対して、「いま安倍政権を批判すれば、テロリストを利するだけ」というレスが来ました。そうおっしゃる人は、もし日本が他国と戦争になったときには、確実にこう言うでしょう。「いま自国の政権を批判すれば、敵を利するだけ」。そうやって翼賛体制が作られていくのです。
 
想田さん 現状に疑問を感じ、まともな姿勢を維持しているのは大手紙の中でわずか。その一例が東京新聞のこの記事です。
【有事の政権批判はご法度なのか 自粛の野党 メディアは擁護も】
憎しみと暴力の連鎖から生まれた最悪の結果に絶句するしかない。この結果が、さらなる憎しみと暴力を引き寄せる原因になるのではないかと心配している。
 
ISIS「イスラム国」による人質事件をめぐる状況について、翼賛体制構築に抗するという「声明」を準備し、言論や報道、表現に携わる方々の賛同を募っています。今のところ宮台真司、岩上安身、田中龍作、古賀茂明、今井一さんらが賛同者。 http://ref-info.com/hanyokusan/
 
山の中に四日いるあいだに世間ではいろいろなことが起きているようです。テレビも見ない、新聞も読まない生活でしたが、世論の「政権支持」同調圧力は高まっているようです。人質問題については想田和弘さんが言論の自由のためのアピールを提言しましたので、僕も賛同人として参加します。
 
なお、もう一点。「kojitakenの日記」ブログが2月11日付けで以下のような意見を述べていますのでご紹介しておきます。
 
声明を否定はしないが、政権批判は個人個人がやるほかないと思う。そして、具体的に自らの言論が弾圧されたと思ったら、逐一それをアピールすることだ。こんなことを書きたくなるのは、古賀茂明や中島岳志を私が好まないせいもあるかもしれない。古賀茂明は、「脱原発の元官僚」として売り出した当時から、新自由主義的な主張がウリで、古賀が2011年に出した著書を本屋でページをめくってみたら、安倍晋三が第1次内閣時代にやろうとした「公務員改革」に肯定的に言及していたので、アホらしくなって本を閉じた。(略)
 
古賀茂明のような新自由主義者や、ことに中島岳志のような右翼と「リベラル・左派」との「共闘」を進めていく過程で危惧するのは、「『右』も『左』もない」と主張する人間が「村八分」的な動きに走ることであって、(略)あの「『右』も『左』もない」の言論は、それ自体ファシズムの萌芽を含んでいたと思う。(略)だが、気持ち悪い「『右』も『左』もない」的風潮はその後も続いた。2011年6月に参加した、新宿の「脱原発デモ」で、当時14歳の少女だった自称「B級アイドル」藤波心が、無伴奏で「うーさーぎーおーいしー、かーのーやーまー」と歌い出した時、強い違和感を持った。(略)ほどなくして藤波心が「『右』も『左』もない脱原発運動」に担ぎ出されたことを知った。

今回、後藤健二氏の支援者たちが同じ歌を歌っている映像がテレビのニュース番組で流れた時、2011年6月の藤波心を思い出した。良い気持ちはしなかった。「辺見庸ブログ」の1月30日の「日録」を読んで、その違和感を思い出した。辺見は、

「ああ、また孕んだのだな。そのくりかえし。ウサギオイシカノヤマ……とかハナハサク……はやめたまえ!その歌はキミガヨとともに、反世界の呪わしい弔歌であることに、まだ気がつかないのかね。安倍君、ぼくは君と君のコクミンがきらいだ。」

と書いた。ファシズムは、政権側のみならず、政権やその行為に反対する人たちの間にも浸透しつつあるのではないかと感じる。
オウバイ

私は先に 「報道特集:イスラム国人質事件 緊迫現地ルポ」を紹介する記事を書きました。以下は、その追記です。
 
「報道特集:イスラム国人質事件 緊迫現地ルポ」を観ての想田和弘さんの感想。
 
「人質事件への日本政府の対応を検証したTBS「報道特集」の中味がものスゴく濃い。必見。っていうか、第2次安倍政権以前はこのくらいの批判的検証はどのメディデでも普通に行われていたと思う。それがいまや奇跡のごとく思えてしまうのは、それだけ日本の言論環境が悪化しているということだ。」(想田和弘Twitter 2015年2月9日-ET)
 
想田さんの感想で私が同感したのは「第2次安倍政権以前はこのくらいの批判的検証はどのメディデでも普通に行われていた」というところです。ただし、私の記憶では、「このくらいの批判的検証」が行われていたのは筑紫哲也が健在だったころの「NEWS23」あたりまでです。TBS「報道特集」メインキャスタ
ーの金平茂紀が筑紫時代の「NEWS23」の番組編集長(デスク)だったことはもちろん偶然ではないでしょう。(2015年2月10日)
 
以下は、その想田さんの感想にも通底すると思う「もうとりかえしがつかないかもしれない」という辺見庸の悲痛の声。
 
「じつに簡単なことだ。あの、世にもおぞましいヘイトスピーチを、表では困ったふりをして、裏でしっかりとささえているのが自民党である。そのトップが毎日、ジュクジュクと分泌している毒液が社会の全域を腐食しているというのに、かれの支持率は50%以上だという。 目下、全的崩落のただなか。もうとりかえしがつかないかもしれない。けふの声、 ことば、身ぶりをどうするか。」(辺見庸「日録1-7」2015/02/10)
今日の言葉:2月9日

つつじ

辺見庸「
日録1‐6」(2015/02/09)から。
 
http://www.47news.jp/CN/201502/CN2015020701001721.html
じぶんを「ファシスト」ですと公言する「ファシスト」は、きょうび、ごく稀である。ファシストはいまやぬけぬけと「反ファシズム」を語って恥じない。九か国条約、パリ不戦条約をやぶって満州を侵略して中国大陸侵攻を一気に拡大、国際連盟から脱退、ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、「自存自衛」「大東亜の新秩序建設」のためと称して太平洋戦争に突っぱしり、おびただしい人びとを死にいたらしめた歴史を、すこしでも反省するどころか、南京大虐殺も従軍慰安婦の強制もなかった、極東軍事裁判はまちがいと否定するこの男の言のいったいどこを、コモロフスキ大統領よ、信じるのかね。「反ファシズム」とは笑わせる。東条英機内閣の商工大臣や軍需次官をつとめ、戦犯被疑者として巣鴨拘置所に入所した岸信介の(オツムにかなりの難ある)外孫は、ただいま戦争の亡霊を墓場からひきずりだすのにいそがしく、憲法9条を完全に破壊して日本を軍事強国化しようとしているのに。コモロフスキ大統領よ、ちゃんとしたブリーフィングをうけにゃあかんよ。
 
引用者注:辺見庸が「日録」の冒頭でリンクを張っている記事は以下のとおり。
 
首相、ファシズム否定を伝達へ ポーランド大統領に(共同通信 2015/02/08)
政府は、安倍晋三首相とポーランドのコモロフスキ大統領との首脳会談を今月下旬に東京都内で開催する方向で調整に入った。首相はナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を象徴するアウシュビッツ強制収容所の解放70年に触れ、ファシズムを断固否定する考えを伝達する見通しだ。複数の外交筋が7日、明らかにした。戦後70年を迎え、中国と韓国は歴史認識問題をめぐる日本の対応に神経をとがらせている。首相としては「悲劇を二度と繰り返させない」決意を示し、軍事大国化を狙っているとする中韓の批判は当たらないとのメッセージを国際社会に発信したい考えだ。
 
NPO法人「三千里鐵道」( 2015年02月07日)から。

1月29日、衆議院予算委員会に出席した総理は、「アメリカの公立高校教科書に載った慰安婦関連の記述を見て本当に驚いた。慰安婦の強制徴用などと誤認されているのを国際社会で正さなかった結果、このような教科書が作られている。積極的に修正要求をするつもりだと述べました。総理の発言、特に教科書の記述修正を要求したことに対して、アメリカ国内では強い反発が起きています。(略)一方、アメリカの著名な歴史学者たちが、安倍総理の歴史教科書修正要求に対し、集団的な意志表示を見せています。コネチカット大学のアレクシス・ダッドン教授をはじめ『米国歴史協会(AHA)』所属の学者19人が連帯署名し、「日本の歴史家らと共に立つ」という声明を発表したのです(略)アメリカの大学で歴史学を教える学者たちが、このように特定の問題に関して集団声明を発表したことは前例がないそうです。以下に声明を要約して引用します(略)
 
「安倍総理は『マック・グローヒル』出版社の歴史教科書を取り上げ、慰安婦に関した記述が 誤っていると指摘した。私たちは出版社を支持する。そして‘どんな政府も歴史を検閲する権利がない’と述べた、ハーバートジーグラー・ハワイ大教授の見解に同意する。」

「日本政府の文献を用いた吉見義明・中央大学教授の慎重な研究と生存者たちの証言は、国家が後援した性的奴隷システムの本質的な特徴を示している。この事実には論争の余地がない。多くの女性が本人の意志に反して徴集されたし、移動の自由が全くない最前線の慰安所に連れて行かれた。」
 
「安倍政権は愛国的教育を鼓吹しようとする目的から、すでに確立された歴史評価に声を荒らげて問題を提起することで、学校教科書から慰安婦と関連した言及を削除しようと試みている。一部の保守的な政治家たちは国家次元の責任を否定するために法的論争を展開しており、生存者たちを誹謗している。右翼の極端主義者たちは、犠牲者たちの話を聞き慰安婦問題の記録に関与した言論人や学者たちを執拗に威嚇している。」

私たちは、第二次大戦当時の様々な悪行と関連した事実に光を当ててきた、日本および他地域の多くの歴史家たちと共に、これからも立ち続けるだろう。」
本ブログの「今日の言葉」の2015年2月7日と2月8日の記録です。

ジンチョウゲ

朝日新聞:和歌山県紀の川市の空き地で5日、市立名手小学校5年の森田都史君が殺害された事件で、和歌山県警は7日未明、現場近くに住む無職、中村桜洲容疑者を殺人容疑で逮捕し、発表した。中村容疑者は「私は男の子を殺していない。男の子を見たこともない」と容疑を否認しているという。(略)県警は6日深夜から殺人容疑で中村容疑者の自宅を捜索し、刃物数点を押収した。殺害に使われた凶器がないか詳しく調べる。中村容疑者は、事件直後に現場から立ち去ったという目撃情報の男と顔が似ていたことや、付近の不審者情報などから捜査線上に浮上した。中村容疑者と森田君との関係については、今年1月初めごろ、森田君の兄が自転車で塾に行く途中、事件現場の空き地の前の道路付近で、傘を持った中村容疑者とみられる男に追いかけられたことがあったという。森田君の家の前の道路から、家の様子を見ていたとの情報も把握しているという。時事通信:中村桜洲容疑者は現場のすぐそばに居住していた。仕事に就かず、自宅周辺で竹刀や手おののようなものを素振りする姿が近隣住民に目撃されていた。Yahoo!/毎日新聞:【小5刺殺 目撃証言が決め手】発生当初から容疑者を県警マーク:中村容疑者は丸刈りで、目撃証言とは髪形が違ったが「顔は間違いない」との証言を得たという。(朝日、時事、毎日とも7日付)

引用者注:報道から判断される警察の逮捕の理由は①容疑者が「無職」であること②自宅から刃物数点を押収したこと。事件直後に現場から立ち去ったという目撃情報の男と顔が似ていたこと③付近の不審者情報自宅周辺で竹刀や手おののようなものを素振りする姿が近隣住民に目撃されたこと。⑤被害者の兄が容疑者とみられる男に追いかけられたことがあったことの5つ。⑤を除いて逮捕の理由になるだろうか? 容疑者が「無職」であることなど論外。包丁など刃物のない家庭などまずない。自宅周辺で竹刀のようなものを素振りしてなにが悪い。⑤についても「容疑者とみられる」ということにすぎない。②については目撃証言なるものに矛盾がある。今回も警察の見込み捜査=冤罪の疑いが濃厚のように私には思える。そうでないとしても、逮捕の理由としては根拠が薄弱すぎる。たったこれだけの根拠で人が容易に逮捕されてよいものか? 私には疑問である。
 
・「自粛」という名の妖怪が動き回っている。「イスラム国」の邦人人質事件に、安倍政権がどう対応したのか、問いただす質問や意見に「テロリストを利する」と、議論を封じる動きが蔓延している。報道ステーションで政権を批判した古賀茂明さんらが、糾弾の的になっているのは好例だ。正当な指摘や疑問・批判を述べる言論に対し、「テ ロに屈する」ものと難詰し、「言論封じ」に走る産経新聞や右翼ジャーナリズムは、言論機関の自殺行為だ。NHKの籾井勝人会長は、「従軍慰安婦」番組の制作に関して、「政府のスタンスを見てから」判断すると述べた。安倍政権の「戦後70年談話」を待って、方向を決めるというのは、NHKの自立性・番組制作の自由を否定するものだ。ここにも政権への配慮という名の「自粛」が忍び寄っている。朝日新聞がスクープした福島原発事故をめぐる「吉田調書」の記事取り消しの経緯も同質だ。本来、この記事は捏造でも虚報でもない。なのに、なぜ朝日新聞は記事取り消しと社員の処分を決めたのか。政府の顔を伺っての「自粛」配慮が、透けて見える。こうした動きに「自粛という名の翼賛体制構築*に 抗する言論人、報道人、表現者」たちが、9日の17時~、参議院議員会館B104号室にて、1000名以上の賛同を得て声明を発表し会見を開く。エールを送りたい。(Daily JCJ【今週の風考計】2015/2/8

引用者注*想田和弘さんが叩き台を書いた今回の言論の自由のための声明そのものには賛成です。が、このとりくみの背後にいる今井一という人を私は信用しません。彼は単なる「運動屋」にすぎないというのが私の評価です。たとえば想田さんが「みなさん『賛同者』という位置付け」ですと言っているものを事務局的な役割をになっているとしても賛同者のひとりにすぎない今井氏が越権的に「みなさん賛同者」を「賛同人」と「支持者」に差別化してしまうのは文字どおり差別を生み出しかねない禍根を遺してしまいそうです。「翼賛体制構築に抗する表現者」たちの思想とはそういうものか、が問われています。そういうことでいいのですか? 想田さん。
本ブログの「今日の言葉」の2015年2月3日から2月6日までの記録です。

ツバキ2

・ドイツの戦後の歩みを一身に具現するような政治家だった。「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」という戦後40年の演説は、あまりに有名だ。統一を挟んで10年にわたって大統領を務めた
ワイツゼッカー氏が亡くなった。「荒れ野の40年」と邦訳された1985年の演説は、ドイツが降伏した5月8日に国会で行われた。ナチスの過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはいかない、われわれ全員が過去を引き受けなければならない――と訴えた。大戦ではポーランド侵攻に従軍した。この時、兄を失う。戦後、ヒトラー政権の外務次官だった父が捕らえられ、弁護人の助手になった。その仕事を通じナチスの犯罪を知ったことが、後の人生に大きく影響したという。数々の演説を残した。90年、ドイツ統一の式典では「統合された欧州の中で平和に貢献したい」と宣言。2年後、極右による外国人排斥の襲撃が頻発し、ナチス政権誕生前夜のようだともいわれた時は、暴力反対のデモを呼びかけた。ベルリンの街を30万人が埋めた。演説集などを翻訳した永井清彦さんは、元大統領を「言葉の人」と表現する。多くの人の話を聞き、じっくり演説の想を練る。草稿も人任せにせず自分で書くのを常とした。戦後40年の演説の最終盤で、若い世代へ呼びかけている。「他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい」。宗教的な過激派の悪逆が続く今まさに、その言葉が光彩を放つ。(朝日新聞「天声人語」2015年2月3日

引用者注:名句や名演説を有り難がる風潮を私は疎む。そういうものを有り難がる連中に碌なやつはいない、というのが私のこれまでの人間観察だからです。問題は、名句や名演説ではない。その人の名句に到るまでのおそらくは苦難の足跡をおのれも歩むことはできるか。そう志すことができるか、ということではないか。

後藤さんが亡くなったから書くが、後藤さんの取材行の背景をもっと知りたいと思う。(略)後藤さんが「イスラム国」行きをめざしたのは、常岡さんの9月の「イスラム国」取材が大きな影響を与えたからではないか。常岡さんは、8月の湯川さん拘束を受けて、彼の裁判のために「イスラム国」に招かれてシリア入りした。残念ながらある事情で湯川さんには会えずに帰国した。このときの取材は、私がプロデュースし、9月にメディアで大きく扱われた。10月はじめ再度湯川さんへの接触を求めて常岡さんがシリアに向かおうとしたとき、彼は「私戦予備・陰謀罪」なる法律で「参考人」とされ、ガサ入れを受けて、「イスラム国」への旅行はもとより、接触できなくなった。後藤さんが「イスラム国」入りを目指すのは、この直後である。「イスラム国」が只者でないことは後藤さんはとっくに知っていただろう。それなのに、シリア人コーディネーターの制止を振り切って「イスラム国」入りしたのはなぜか。テレビ番組の放送日程が決まっていたからではないかというのは、フリージャーナリストの安田純平さんだ。25日にシリア入りして29日に帰国する予定というのは通常のフリーの行動様式ではないという。きわめて無理な日程だというのだ。実際、後藤さんがよく使っていたシリア人の案内人には、「1週間戻らなければ家族や関係者に連絡してくれ」と言い、何が起きてもシリア人をうらまないと異例のメッセージを残していた。後藤さんは一日10万円の保険に入っていたとビデオ映像で語っていたが、今回もそうだとすれば、どこかのメディアが「依頼」したと思われる。かなり無理をした「イスラム国」取材の背景に何があったのか。この行動の後追いは、後藤さんを貶めるためではなく、今後の教訓にするためなのだ。後藤さんの神格化はその役に立たない。(高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-02-03) 

引用者注:作家というのは一般にそういうところがあるものだと思うけれども、ものを斜交いから眺めて少し気の利いたことを言って、なにかしらを言ったつもりになるところがある。たとえば高橋源一郎の場合がそうだ。高橋は言う。

「後藤健二さんの本を読み、彼の言葉を探した。後藤さんは、強い信念と高い志を持った人だったことがわかる。とてもかなわない。そんな後藤さんの死はとても悲しい。悲しいけれど、死者を比べることなんて愚かだということはわかった上で、なお、ぼくには湯川遥菜さんの死の方がもっと悲しい気がする。」「湯川さんのことを少し調べた。少しだけわかった。湯川さんは、思慮深くもなく、場当たり的に行動する、特にはっきりした思想も持たない、いろんなことに失敗した人だった。つまり「ふつうの人」だった。ぼくも大して変わらない。彼を攻撃している人だって同じなのに。だから悲しい。ただ悲しいだけだ」、と。(高橋源一郎Twitter 2015;年2月3日

世間はいつもなにかを神格化しようとする。神格化の対象を求めている。その危うさの空気のようなものをとっさに掴みとる力はさすがに作家ならではと思うけれども、高橋の意図は明らかだ。世間は後藤健二さんの死の悲劇性を強調する。悲劇性を強調することがおのれが「良心」的であることの証しでもあるかのように。しかし、その精神のありようは俗人のそれでしかない。ひとことでいって自己陶酔のそれ。その自己陶酔と後藤さんを英雄視する視線はおそらく精神病理学的には一直線上の関係にある。高橋は、その危うさを、湯川さんは「『ふつうの人』だった。ぼくも大して変わらない」と言って、湯川さんの側に立つ素振りを見せる。しかし、後藤健二さんを英雄視しているのは高橋自身ではないか。そのことは高橋の「後藤さんは、強い信念と高い志を持った人だったことがわかる。とてもかなわない。そんな後藤さんの死はとても悲しい」云々の言葉で明らかだ。私は、そういう高橋の言葉より、高世仁さんの「後藤さんの神格化はその役に立たない」という言葉のほうに信をおく。

・衆院本会議で、「
日本人殺害脅迫事件に関する非難決議」が成立した。(略)決議の内容を噛み砕けば、(1)今回の邦人2名の殺害を非難し、(2)テロを許さないとする国民意思を表明し、(3)人道支援を拡充して国際社会との連携を強化すると言い、(4)政府に邦人の安全対策を要請し、(5)ヨルダンに感謝の意を表明する、というもの。この内容で間違っているはずはない。安倍首相のごとくに、「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせる」などと、感情的に息巻いているわけではない。全会一致もむべなるかな、とも思う。(略)しかし、どうしてもなんとなくしっくりしない。(略)日本国憲法9条の精神に照らして、これでよいのだろうか。もっと違った姿勢、違った言葉が出て来るべきではないのか。議員の中で、一人くらいは、敢えて異を唱える人がいてもよいのではないか。そんな気持がわだかまり、澱となって消えない。(略)イスラム国側からすれば、有志連合の空爆こそが残虐非道の行為であり、有志連合に加わったヨルダンは憎むべき「十字軍参加国」なのだ。(略)米軍は、空爆によって、これまで6000人のイスラム国戦闘員を殺害したと発表している。しかし、人口密集した都市への爆撃が戦闘員だけにピンポイントでおこなわれたとは考えられない。非戦闘員や子どもを含む一般市民にも多数の犠牲者が出ていることだろう。この報復の連鎖による、悲惨な被害の拡大を制止することこそが、いま、もっとも必要なことではないか。これまで、武力の行使によって幾億人もが非業の死を遂げた。その非業の死の数だけの復讐の誓いがなされたに違いない。しかし、報復の連鎖は無限に続くことになりかねない。この報復の連鎖を断ちきろうというのが日本国憲法の精神であり、その9条が憲法制定権者の意思として日本国の為政者に一切の武力の行使を禁止しているのだ。だから、国会の決議は、「我が国及び国民は、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持する」という断固たる意思の表明よりは、「9条の精神に則って、殺りくの応酬、連鎖は絶対にやめなければ゜ならない」「平和を願って活動していた者の死を無駄にしてはならない」という基調のものにして欲しかったと思う。断固たる態度や、勇ましい言葉は不要なのだ。(「澤藤統一郎の憲法日記」2015年2月5日
今回のTBSテレビ系列の「報道特集」(毎週土曜 17:30~)。「日本政府を代表する」とする人物(シリア特別臨時大使)が、1月下旬の人質交渉過程でISIS側に日本語メッセージを送っていたことの信憑性を独自ルートでISISの司令官ウマル・グラバー氏とメールのやり取りをしていたことを中田考氏が証言する爆弾スクープ。イスラム国の前身組織に拘束された外国人ジャーナリストの解放を成功させたヨルダン人のムーサ・アブドラ弁護士へのインタビュー。アブドラ弁護士は今回の日本人人質事件でも協力する意思を示したが「日本側からはなんの接触もなかったことを残念に思う」と語ります。また、今回の日本政府の対応に間違いはなかったかについて、イスラム過激派研究の第一人者のヨルダンのハサン・アフハニヤ氏にインタビューを試みるなど大変見応え、聴き応えのある番組作りになっていました。

以下は「報道特集」(JNN / TBSテレビ:毎週土曜 17:30~)2015年2月7日放送の「イスラム国人質事件 緊迫現地ルポ」。番組の内容を共有するためアップしておこうと思います。

追記:
このTBS「報道特集」についての想田和弘さんの感想。「人質事件への日本政府の対応を検証したTBS「報道特集」の中味がものスゴく濃い。必見。っていうか、第2次安倍政権以前はこのくらいの批判的検証はどのメディデでも普通に行われていたと思う。それがいまや奇跡のごとく思えてしまうのは、それだけ日本の言論環境が悪化しているということだ」(想田和弘Twitter 2015年2月9日-ET)。想田さんの感想で私が同感したのは「第2次安倍政権以前はこのくらいの批判的検証はどのメディデでも普通に行われていた」というところです。ただし、私の記憶では、「このくらいの批判的検証」が行われていたのは筑紫哲也が健在だったころの「NEWS23」あたりまでです。TBS「報道特集」メインキャスターの金平茂紀が筑紫時代の「NEWS23」の番組編集長(デスク)だったことはもちろん偶然ではないでしょう。(2015年2月10日)
 


出演者:金平茂紀(TBS報道局)
     日下部正樹(TBS報道局)
           小林悠(TBSアナウンサー)
           林みなほ(TBSアナウンサー)
           ほか
 
今回の番組のキャッチコピー:
過激派組織イスラム国による人質事件。ジャーナリスト後藤健二さんとヨルダン軍パイロット、ふたりの救出をめぐる動きを現地で追った。
 
ヨルダンに収監されているイラク人女性死刑囚との身柄交換をめぐり、ぎりぎりの交渉が続く。ヨルダン政府の決断は?日本政府の動きは?イスラム国の今後は?緊迫のアンマンから最新情報を伝える。
私の沖縄・広島日記」ブログが今日も翁長沖縄県知事の「辺野古埋め立て」問題への後手後手の対応に強い警鐘を鳴らしています。

辺野古埋め立て承認の「法的瑕疵」を検討する第三者委員会(委員長・大城浩弁護士)の初会合が6日、沖縄県庁で行われました。予想されたこととはいえ、その致命的限界・欠陥の数々が、1回目にして早くも露呈しました。同時にそれによって、今何をなすべきかが、いっそう鮮明に浮かび上がってきました。大城委員長は検証結果について、「6月中には意見を取りまとめ、遅くとも7月には県に報告する」(琉球新報、7日付。以下、琉球新報、沖縄タイムスはいずれも7日付)と会見で述べました。(略)これは致命的な遅さです。(略)「移設計画で政府は6月ごろまでの埋め立て本体工事着手を目指している」(沖縄タイムス)のです。手遅れになるのは目に見えています。「毎日数十㌧とも言われるアンカーブロックが投げ込まれ、海が悲鳴を上げている。止められても8月というのは、卒倒しそうな話。県民の思いから懸け離れた委員会になりかねない」(沖縄平和運動センター・山城博治議長、沖縄タイムス)という声を、委員会、翁長知事はどう聞くのでしょうか。なぜこんなに遅くなるのでしょうか。それは(略)「ほとんどの委員が公有水面埋立法の作業に取り組むのは初めて」(琉球新報)だからです。委員らはこれから「1万㌻を超える膨大な資料に目を通す」(同)のです。(略)

ではなぜそんな人選になったのでしょうか。根本は、「公正中立な検討をお願いしたい」という翁長知事の要請です。(略)しかしそれでいいのでしょうか。そもそもこの「委員会」は何のための委員会なのでしょう。「辺野古新基地は取り消しか撤回」を公約に掲げた翁長氏が、「取り消し」のために「法的瑕疵」を明らかにするためではなかったのでしょうか。公正はともかく、「中立」であっていいわけがありません。辺野古埋め立て承認取り消し訴訟団の
池宮城紀夫弁護団長が、「中立の立場で瑕疵を検討するのではなく、取り消しや撤回という政策を実現するために事実関係を確認して法的根拠の理論構成をすることが求められている」(琉球新報)と指摘する通りです。(略)「政府が移設に向けた作業を止めない中、行政法の専門家などからも『まずは承認の撤回をし、その間に検証作業を進めれば良い』(本田博利愛媛大学教授)との指摘も出ている」(琉球新報)道理が徐々に声になって表れはじめました。いまこそ声を大にして言うときです。「翁長知事は自らの権限を行使して、直ちに埋め立て承認を撤回せよ!」(「私の沖縄・広島日記」2015-02-07
 
「私の沖縄・広島日記」ブログの警鐘に私も強く賛同するものです。私は本ブログの先日の記事でいまの安倍内閣、その頭目としての安倍晋三の牛耳るニッポンという社会の様相を「私の知るかぎり『戦後』最悪、最低の風景」と形容しましたが、下記の記事で辺見庸も同様に「この政権は沖縄をどこまでもおとしめている」「戦後最悪の政権である」と口角泡を飛ばして難詰しています。

「私の沖縄・広島日記」ブログの翁長知事への緊急提議に賛意を示す意味で、辺見庸のこの2、3日の「「沖縄差別」弾劾の記事もあわせてご紹介させていただこうと思います。

・言語表現の容量が急速に収縮し萎縮している。1945年敗戦からこれまででおそらく最低のレベルではないか。国会でごくとうぜんの質問をしただけで、〈テロリストの脅しにくっすることになる〉〈敵を利することになる〉式の答弁で、逆ににらみつけられ、すごまれて、野党がすくみあがっている。みんながビビっている。一方で、ときならぬ「国家意識」の吹きこみと膨張。「つぎつぎになりゆくいきほひ」とはこのことだ。イエス、あれですあれ、上に「ファ」のつくあれ、ファッキン・ファシズムである。

・狂える時代とイカれた民衆は狂える指導者を産む。産んだ。狂える指導者は狂える時代とイカれた民衆を産む。産んだ。いくときもくるときも、一足飛びなのだ。あれよあれよ。軍国主義への道はかく整備されていく。時代はとびきりのアホたちを必要としている。ニッポンのばあいは、ファシズムの底流に、つねに「無常観の政治化(politization)」(堀田)がひそむ。「『諸行無常』の観念は、一方では『なりゆくいきほひ』のオプティミズムとはげしく摩擦しながら……むしろ不断の変化と流転の相のもとに見る『古層』の世界像と、互に牽引し合うという奇しき運命をもった」(丸山)。もっともっと悪化するだろう。この政権は沖縄をどこまでもおとしめている100パーセント正体をさらけだしている感情をむきだしにしている戦後最悪の政権である。怖ろしい。

・「……琉球やまことに日本の頸動脈、/万事ここにかかり万端ここに経絡す。/琉球を守れ、琉球に於て勝て。/全日本の全日本人よ、/琉球のために全力をあげよ。/敵すでに犠牲を惜しまず、/これ吾が神機の到来なり。/全日本の全日本人よ、/起って琉球に血液を送れ。/ああ恩納ナビの末孫熱血の同胞等よ、/クバの葉かげに身を伏して/弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、/猛然出でて賊敵を誅戮し盡せよ……」(「琉球決戦」)。と、書いたのは高村光太郎だった。1945年4月2日に高村がこの詩(!?)を書いたとき、硫黄島の日本軍はすでに全滅していた。そのとき高村は「賊敵を誅戮し」みずからも死ね、と沖縄にとんでもない檄をとばしたのだ。夥しいひとびとが殺された。自死をしいられもした。沖縄とはなにか?沖縄とはなんなのだ。2015年2月、知事がわざわざ会いにきても会ってもらえない沖縄とはなにか。官房副長官ごときが、いやいやたった10分会っただけで門前払いか。全日本の全日本人よ、沖縄をどこまで侮辱すれば気がすむというのだ。なんということだ。なんという無礼だ。(「日録1-6」2015/02/05~07)
ダグラス・ラミスさんの辺野古ゲート前行動に参加した40人余りの人たちがたまたま乗り合わせた「辺野古バス」スケッチ。いまの翁長県政の現状を先の知事選で同氏を支持した人たちはどう見ているか。ウチナンチューたちがふつうにいま考えていることの素朴な(素朴だからよく伝わる)ウォッチになっていました。

本ブログでもダグラス・ラミスさんの「辺野古バス」スケッチをピース・フィロソフィー・センターブログから借用してご紹介しているのですが、そのとき、実は、ダグラス・ラミスさんだからこそのもうひとつのエピソードもご紹介しておこうかとも思ったのですが、ZEDさんの意見が少しきつめで素朴な話に少しきつめの話はバランス的に不調和かもしれないと思って、あえて割愛してしまった話をいまここでさせていただこうと思います。それは「9条にノーベル平和賞運動」問題に対するダグラス・ラミスさんの反対意見と立ち位置のご紹介です。ZEDさんのブログから引用させていただきます。
 
 
前略。

「9条にノーベル賞運動」が黒歴史扱いして全く語ろうとしないエピソードが一つあるのを御存知だろうか。日本ではもちろんそうだし、これにイカれて協力運動が起こっている韓国でもほとんどと言って良いほど黙殺されている。そのエピソードとは、ダグラス・ラミスに協力を求めて拒絶された件だ。この事は韓国の京郷新聞(笑)のコラムでラミス自身が明らかにしているのだが、これを日本で紹介した例というのを筆者はこれまで見た事がない。筆者も大分前に気付いてネタにしようと思っていたのだが、色々と他のネタに押されて忘れていた。この際なので御紹介したい。
 
どうも「9条にノーベル賞運動」をやってる会やそこの構成員達には「俺らの運動にはどんな奴でも賛意を表して当然」という思い上がった意識があるように感じられる。何しろ日本会議神道政治連盟に入っているバリバリ改憲派(笑)の長島忠美金子恭之まで賛同議員に加わり、「保守・進歩を問わぬ(右も左もない)韓国の社会元老」達までもが賛同して「9条の会鷹巣直美(この運動を始めた主婦)を共同受賞者に」と推薦するくらいなのだから、ますますその傾向は強くなっているだろう(と言うか、極右改憲派の長島だの金子だのがこんな運動に入って来た時点でおかしいと思わないのかという話なのだが)。なので、協力を拒絶されたりすると、そうした事例を極度に恥じて黒歴史とばかりに「封印」してしまうのではないか。
問題のダグラス・ラミスのコラムは以下リンク先を参照。
 
「ダグラス・ラミスコラム」沖縄基地と日本憲法9条の未来(韓国語記事)
 
この記事で核心とも言うべき部分を以下に翻訳抜粋する。 
 
同紙29面(琉球新報2014.04.12 訳者注)にはノーベル賞委員会が日本国憲法9条のノーベル平和賞候補申請を受け付けたという記事が載った。ここで「受け付けた」というのは278ある他の申請者と共に候補として挙げてくれたという意味だ。数ヶ月前に私は、善意でこの運動を始めたある若い女性の電話を受けた。私は長くも辛い対話を通じて、なぜその運動を支持しないのか説明した。まずそれは自己満足の側面が強い。申請に参加した人達は憲法9条支持者であり、したがっていかに間接的にやる事だとしても、彼ら自らを受賞候補に自薦するように見える。第2にさらに重要なのは、私が以前にこのコーナーで書いたように、世論調査の結果で日本人の51%が憲法9条を支持すると答えながらも、81%が日米安保条約を支持すると出た。安保条約に反対する人間は11%に過ぎない。憲法9条を支持する大多数が安保条約を支持するという意味だ。この人達は平和に献身するのではない。むしろ戦争が起こった場合、他の誰かが彼らの代わりに戦ってくれるのを望む。それは理解出来なくもないが、賞をもらうほどのものではない。そして米軍基地を日本、大部分は沖縄に置いておく根源こそが安保条約だ。辺野古に新基地を建てようという圧力の裏にも安保条約がある。
 
憲法9条の終末?
翌日からほぼ毎日この新聞には自民党政府の「解釈による」憲法9条変更計画に対する記事が載った。仔細に説明するまでもないが、日本政府は戦争・戦争の威嚇・戦争準備を放棄させる9条に対する解釈を、戦争を遂行して・戦争威嚇をして・戦争準備をする意味に変えようとしているというのだ。我々はこの驚くべき論法の前例をジョージ・オーウェルの有名な小説「1984」で「戦争は平和だ」という政府スローガンに見る事が出来る。ノーベル賞委員会が日本国憲法9条に賞をやろうとするなら急いだ方がいいだろう。
 
「9条にノーベル賞運動」はものの見事にラミスに振られた訳で、日本の護憲・平和運動でもそれなりに知られたラミスに一蹴された事実はまさに運動の「黒歴史」となったのである。この記事に出て来る「善意でこの運動を始めたある若い女性」というのは多分間違いなく鷹巣直美当人の事ではないか(「運動を始めた」人物というのだから)と思う。
 
いずれにせよ、この運動の馬鹿馬鹿しさはラミスの言う「自己満足」の「自薦」、「日本人の多数が日米安保条約を支持」という指摘で十分明らかなのではないか。憲法9条の文言を変えずとも解釈改憲でいくらでも日本は海外派兵や戦争が出来るし、実際にそうしようとしている。それにノーベル平和賞をやって何の歯止めになる? むしろ「これは平和の為」という大義名分を与えてしまうだけなのは明白だろう。一番痛い所を突かれた訳だが、それでも考えを改める事なく運動を続けているというのは、鷹巣ら運動の主導者が色々な意味で後に引けなくなっているという事を意味している。9条にノーベル賞を受賞させる事だけが正しい道だと本人も狂信的に信じ込んでしまっていたり、あるいは自説の間違いに気付きながらもノーベル賞の名誉欲に取り付かれたか…。要するに「ノーベル賞欲しい病」またの名を「笹川良一症候群」「池田大作症候群」とでも言うべき病に取り付かれたという事か。それ以前にノーベル賞自体がクソだとは思わないのだろうか。
 
もっともラミス最後の一文「ノーベル賞委員会が日本国憲法9条に賞をやろうとするなら急いだ方がいいだろう」だけはいささか意味不明で的を外していると思うが。オバマやEUの平和賞と同じで、賞などやらぬが最上である。
 
鷹巣直美は運動の「有名人オルグ」の過程でダグラス・ラミスに電話し、それでものの見事に「玉砕」し、その「戦禍」を人に知られぬよう隠したという訳だ。あたかも大本営発表のように。「9条護憲派」のはずが、あたかも旧日本軍・日帝のごとき「玉砕」「大本営発表」「歴史隠蔽」というのも実に皮肉な話ではある。
 
なお、「『9条にノーベル賞』運動」問題については本ブログにおいてもこれまで3本の記事を書いています。あわせてご参照いただければ幸いです。
 
「憲法9条」問題以前の問題としての「ノーベル賞」と「勲章」について ――「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」としてサルトルはノーベル文学賞を辞退した。私はサルトルのその言葉に深く共鳴する(弊ブログ 2014.10.05)
共産党よ、こうした野合でしかない呉越同舟を「一点共闘」などというべきではない!――ZED氏の「9条にノーベル賞」運動は「待ちぼうけ」の論(続)(弊ブログ 2014.05.27)
作家というのは一般にそういうところがあるものだと思うけれども、ものを斜交いから眺めて少し気の利いたことを言って、なにかしらを言ったつもりになるところがある。たとえば高橋源一郎の場合がそうだ。高橋は言う。

「後藤健二さんの本を読み、彼の言葉を探した。後藤さんは、強い信念と高い志を持った人だったことがわかる。とてもかなわない。そんな後藤さんの死はとても悲しい。悲しいけれど、死者を比べることなんて愚かだということはわかった上で、なお、ぼくには湯川遥菜さんの死の方がもっと悲しい気がする。」

「湯川さんのことを少し調べた。少しだけわかった。湯川さんは、思慮深くもなく、場当たり的に行動する、特にはっきりした思想も持たない、いろんなことに失敗した人だった。つまり「ふつうの人」だった。ぼくも大して変わらない。彼を攻撃している人だって同じなのに。だから悲しい。ただ悲しいだけだ」、と。(
高橋源一郎Twitter:2月3日)。
 
世間はいつもなにかを神格化しようとする。神格化の対象を求めている。その危うさの空気のようなものをとっさに掴みとる力はさすがに作家ならではと思うけれども、高橋の意図は明らかだ。世間は後藤健二さんの死の悲劇性を強調する。悲劇性を強調することがおのれが「良心」的であることの証しでもあるかのように。しかし、その精神のありようは俗人のそれでしかない。ひとことでいって自己陶酔のそれ。その自己陶酔と後藤さんを英雄視する視線はおそらく精神病理学的には一直線上の関係にある。

高橋は、その危うさを、湯川さんは「『ふつうの人』だった。ぼくも大して変わらない」と言って、湯川さんの側に立つ素振りを見せる。
 
しかし、後藤健二さんを英雄視しているのは高橋自身ではないか。そのことは高橋の「後藤さんは、強い信念と高い志を持った人だったことがわかる。とてもかなわない。そんな後藤さんの死はとても悲しい」云々の言葉で明らかだ。

私は、そういう高橋の言葉より、高世仁さんの「後藤さんの神格化はその役に立たない」という言葉のほうに信をおく。

今日の言葉(2月4日):
後藤
さんが亡くなったから書くが、後藤さんの取材行の背景をもっと知りたいと思う。(略)後藤さんが「イスラム国」行きをめざしたのは、常岡さんの9月の「イスラム国」取材が大きな影響を与えたからではないか。常岡さんは、8月の湯川さん拘束を受けて、彼の裁判のために「イスラム国」に招かれてシリア入りした。残念ながらある事情で湯川さんには会えずに帰国した。このときの取材は、私がプロデュースし、9月にメディアで大きく扱われた。10月はじめ再度湯川さんへの接触を求めて常岡さんがシリアに向かおうとしたとき、彼は「私戦予備・陰謀罪」なる法律で「参考人」とされガサ入れを受けて、「イスラム国」への旅行はもとより、接触できなくなった。後藤さんが「イスラム国」入りを目指すのは、この直後である。「イスラム国」が只者でないことは後藤さんはとっくに知っていただろう。それなのに、シリア人コーディネーターの制止を振り切って「イスラム国」入りしたのはなぜか。テレビ番組の放送日程が決まっていたからではないかというのは、フリージャーナリストの安田純平さんだ。25日にシリア入りして29日に帰国する予定というのは通常のフリーの行動様式ではないという。きわめて無理な日程だというのだ。実際、後藤さんがよく使っていたシリア人の案内人には、「1週間戻らなければ家族や関係者に連絡してくれ」と言い、何が起きてもシリア人をうらまないと異例のメッセージを残していた。後藤さんは一日10万円の保険に入っていたとビデオ映像で語っていたが、今回もそうだとすれば、どこかのメディアが「依頼」したと思われる。かなり無理をした「イスラム国」取材の背景に何があったのか。この行動の後追いは、後藤さんを貶めるためではなく、今後の教訓にするためなのだ。後藤さんの神格化はその役に立たない。(高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-02-03
新聞各紙の報道記事の写真(6枚)が藤原新也さんの言う「イスラム国」による湯川さん、後藤さん殺害事件に関わる「負のイコンの綱引き」とはなにかを象徴的に物語っています。藤原さんの転写する写真を中心にその写真の前後の藤原さんの論をご紹介させていただこうと思います。全文は下記をご参照ください(見出しを除く黒字強調は引用者)。
 
 
後藤さん個人の命が無辜の民の命より重いのではない。
 
後藤さん殺害の報のあった31日は新聞テレビなどの無い山中にいたので、断片的にしか今回の事態に対する報道を見ていないが、今回の一連の出来事に関し、まず前提として確認しておかなくてはならないことがある。
 
それは中東の紛争国で無数の人間が殺されている状況の中で一人の人間の命に大騒ぎするのは不条理だという意見が聞かれることである。
 
この数値的な発想は今回の案件にはなじまない。
 
後藤さんの命は緊張関係にある国際政治力学の中において象徴的存在となってしまったから騒がれるのであり、騒がれることが即後藤さんという一個の命が無辜の民の命より重いということではない。
 
そしてその命は延命されることによってさらに誇大化したわけだ。
 
そしてさらには沸騰点において殺害されたことによって扱いの難しい負のイコンとなったと言える。
 
今後藤さんの死という負のイコンは弥次郎兵衛の均衡状態に置かれている。

(中略)

この負のイコンは今、弥次郎兵衛が右に振れるか左に振れるかという微妙な緊張状態にある。
 
一国の首相が聞く耳を持たないということ。
 
安倍首相の会見はそのことをよく表していた。
 
安倍首相のもの言いはいつも落ち着きがないが、この早朝会見はあきらかにいつもにも増して落ち着きがなく、目が泳ぎ、後半の部分で話が途切れ、手元のアンチョコに目を落とし、ふたたび話はじめる際には過呼吸気味に呼吸が乱れ、声も少し震えている。
 
 
安倍首相の会見(注意深く見る必要がある)
 
(中略)
 
その弥次郎兵衛的均衡関係を表すように今朝の朝刊各紙もイコンの綱引きをしている。 
 
藤原新也1絶対に許さぬ、という首相の言葉に同調強調(読売新聞)。
 
藤原新也2  テロ許さない、と首相の言葉を客観報道(朝日新聞)。
 
藤原新也3 次ページで政府批判とも受け取れる見出し(朝日新聞)
 
藤原新也4 安倍首相のメッセージを見出しに採用せず。メモを見ている時の
うつむきの顔写真を使う(毎日新聞)。
 
藤原新也5政府声明に加担せず、負の連鎖を強調(東京新聞)。
 
藤原新也6となりの桜井よしこのコメントとの合わせ技で”政府公報紙”となる
(産経新聞)。
 
つまり今日の新聞各紙の見出しや扱いは今回の事象が左右どちらにも振れやすいイコンであることを如実に表しているわけだが、それがもっとも危険領域に振れた場合がどうなるかという結果がご丁寧にも「自らの力で自らを守る」という櫻井よしこさんのエッセイを並列して載せた極右新聞である産経にもっともよく現れていると言える。
 
つまり後藤さんの死の衝撃もつかの間、この負のイコンは敷衍して憲法改正という大団円にまで発展(利用される)可能性を秘めているという新たな視点を私たちは持つ必要があるということである。
本ブログの「今日の言葉」の2015年1月27日から2月2日までの記録です。

フクジュソウ  

・「イスラム国」による人質事件は、予断を許さない状況が続いています。後藤健二さんの早期解放はもちろん急務です。同時に、この問題で安倍政権への批判を控えようとする風潮があることは見過ごせません。(略)
共産党が安倍首相を批判した自党の国会議員を逆に批判するなどはその表れでしょう。後藤さんの解放要求とともに、事態の背景・根本問題、安倍政権の責任を今こそ問わねばなりません。それは、憲法9条の実質改憲である集団的自衛権行使容認であり、その底流にある安倍首相の「積極的平和主義」なるものです。中には(略)安倍首相の「積極的平和主義」に幻想を抱かせるような論調さえみられますが、これは大きな間違いです。(略)「積極的平和主義」とはもともとノルウェー・オスロ平和研究所のヨハン・ガルトゥングの言葉です。安倍首相のそれは借り物、しかも本来の意味を捻じ曲げた借り物です。「(略)『積極的平和主義』は、全くの和製であり、最初に言い出したのは、伊藤憲一・日本国際フォーラム理事長で、その著書から生まれ、自ら産経新聞の『正論』欄で、米国が『世界の警察官』役を降板しだしたいま、日本は『世界平和主義』の旗を掲げるべきだと論じている(略)。アメリカに代わって『世界の警察官』を引き受けることは、『積極的』とは言えても、『平和主義』とはなんら関係はない。むしろ『積極的軍事主義』ではないか」(略)「アメリカに代わって『世界の警察官』を引き受け」ようとする具体化が、日米軍事同盟に基づく集団的自衛権行使であることは言うまでもありません。(略)「『積極的平和主義』とは現実には『積極的軍事主義』をめざすものと言うべきであり、それを象徴的に示すのが、武器輸出三原則の撤廃に他ならない」「イスラエルに対してさえ戦闘機(武器というより兵器そのもの)を輸出できるとなれば、新三原則には、事実上いかなる“歯止め”もないと言わざるを得ない。まさにそれは、『国際紛争の助長』に直結するものであり、『積極的軍事主義』そのものであり、遂に日本が『死の商人』への道に踏み出すことを意味している」(略)安倍首相が2人の拘束・身代金要求を事前に知りながら、あえてイスラエルを訪れ、「日の丸」とイスラエル国旗を前に記者会見し、アメリカなどの「有志連合」に加わる意向を示した背景には、アメリカを介したこうしたイスラエルとの新たな関係があったのです。(「私の沖縄日記―広島編」2015-01-27

友よ。想おう。「・・・・・私がある場所について語るとき、その場所は消滅している。/私があるについて語るとき、その人はもう死んでいる。/私が時間について語るとき、時間はすでに存在しない」(
J.Bなぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』塚原史訳筑摩書房)。やつら野蛮というなら、サイクス・ピコ協定はもっと野蛮ではなかったか。やつらが極悪非道というなら、米軍のイラク爆撃はその数万倍も残忍ではなかったか。ファルージャでなにがなされたか。やつらがペテン師というなら、ABとその仲間は、まけずおとらずの暴力的詐欺師集団ではないか。ABとその仲間は、沖縄の選挙結果をまったく歯牙にもかけず、暴力的に基地建設をすすめている。いまなにがもっとも危険なのか。いまどんな危険がせまっているのか。人びとはABをえらんだことのツケを今後、延々としはらわなければならない。そして、ABがもっともらしくある人について語るとき、その人はもうすでに死んでいる。(辺見庸「日録1-5」2015/01/27

・ある週刊誌から電話取材。政府の対イスラム外交について。イスラム国も安倍政府も「それぞれの国内に、敵陣営とのコネクションを持っていて、『落としどころ』を探って調停できる勢力がいることを望まない」という点では相似形であるというお話をしました。こういう事態で反政府的・反権力的言論がきびしく指弾されるのは、それが「敵陣営内の穏健派」からすると唯一の「取り付く島」となるからです。どんな国にも「戦争をしたがる勢力」と「話し合いでなんとかしたい勢力」が拮抗しています。後者同士のパイプだけが戦争を止めることができる。70年代後半、世界の若者たちの間で反米気運が高まった後、針はいきなり親米に振れました。理由の一つはアメリカの「
カウンターカルャーへの共感でした。ヒッピームーブメントのような反権力的な運動が存在しうるという事実がアメリカの「健全性」への信頼を担保したのです。ハリウッドが大統領やCIA長官が「悪の元締め」である映画を飽きるほど作り続けているのは、「そういう映画が許される国」である方が「そういう映画が絶対に作られない国」よりも国際社会において「対話能力が高い」と評価されることを知っているからです。(内田樹Twitter 2015年1月27日

・期限が近づいている。(官房機密費からイスラム国の要求を満たす身代金が支払われるという真偽不確かな裏情報を得たが)どういう手段方法でもいい。今は何とか後藤さんが生きて解放されることを祈るばかりである。私たちはアメリカ人ではない。国家の存立とメンツより、ひとりの人命を優先する。(
藤原新也「Shinya talk」2015/01/28

・「イスラム国」は
後藤健二さんを殺害したとみられる動画を、1日、インターネット上に投稿した。事実であれば、この暴挙は絶対に許すことができない。黒覆面の戦闘員は「このナイフは…さらに虐殺をもたらすだろう。日本の悪夢が始まる」と言い放つ。いかに「イスラム国」と対し、どうやって平和的にテロの連鎖をなくすか、私たちは真剣な議論と対応が求められている。1月26日に85歳で逝去された憲法学者の奥平康弘さんは、前日、自宅のある東京・調布市で、<調布九条の会「憲法ひろば」>創立10周年記念のイベントに出席し、作曲家の池辺晋一郎さん、教育研究者の堀尾輝久さんと鼎談。その中で、「イスラム国」による邦人人質事件に関連し、安倍首相が進める「積極的平和主義」について、「これは平和主義ではない。一言でいえば<戦争への道>を開くことであり、この流れの中での人質事件であることをよく見るべきだ」と述べていた。そして1月31日、ドイツのワイツゼッカー元大統領が、94歳で死去した。自国が侵したホロコーストの罪と罰に向き合い、「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」と述べた彼の演説を、今こそ私たちはかみしめたい。戦後70年、安倍首相は村山談話を骨抜きにし、さらに「憲法九条」を削ろうと、虎視眈眈としているだけに。(Daily JCJ【今週の風考計】2015/2/1

・憎しみと暴力の連鎖から生まれた最悪の結果に絶句するしかない。この結果が、さらなる憎しみと暴力を引き寄せる原因になるのではないかと心配している。(
「想田和弘Twitter」2015年2月01日

・イスラム教過激派組織「イスラム国」が1日早朝、拘束中の
後藤健二さんを殺害したとする映像をインターネット上に投稿した。映像は、「日本政府へのメッセージ」という一文から始まり、後藤さんとみられる男性と、ナイフを持ったイスラム国の戦闘員とみられる黒づくめの男が映っている。男は英語で、日本政府はイスラム国の力を理解しなかったと話し、安倍晋三首相に対し「勝ち目のない戦争に参加するというお前の無謀な決断のために、このナイフが、ケンジ(後藤さん)を虐殺するだけでなく、お前の国民がどこにいても、虐殺を起こしていく。日本にとっての悪夢が始まる」などと述べた(メッセージ全文 )。その後、男は後藤さんの首にナイフを突きつけ、映像は暗転、男性の遺体が映し出された。映像の左上にはイスラム国のロゴが付いているが、日本政府は映像の信ぴょう性を急いで確認していると伝えられている。(略)安倍晋三首相も同日朝、声明を発表。(略)テロ行為を「許しがたい暴挙」と非難。今後もテロに屈せず、中東への人道支援は継続して行い、テロと闘う国際社会と協力していくと述べた。(クリスチャントゥデイ 2015年2月1日

・引用者注:が、「
カイロでの安倍総理の演説今回の事件の引き金になった」など安倍外交の拙速と愚かしさを批判する声は決して少数派ではありません。

・後藤健二さんが殺害された映像が流れ、二人とも殺される最悪の結果となった。斬首という残酷な処刑方法に慄然とする一方で、今後の日本の進路と日本人の安全を考えると非常に心配になる。今回の事件は、「日本にとっての9.11」と言われている。日本が、米英とならぶ「イスラム国」の「敵」とされ、日本人がテロの標的とされる大きな転機になったからだ。後藤健二さんの処刑者が読み上げたメッセージは以下だ。《日本政府へ。お前達は悪魔の有志国連合の愚かな同盟国と同じだ。我々が、神の恵みにより、権威と力を備え、お前達の血に飢える軍隊を持つイスラム・カリフ国であることをまだ理解し­ていない。安倍よ、勝ち目のない戦いに参加するというお前の無謀な決断のために、このナイフは健二を殺すだけでなく、お前の国民を場所を問わずに殺戮し続けるだろう。日本にとっての悪夢を開始しよう。》「イスラム国」のインターネットラジオは1日、「イスラム国は期限が来たあと、2人目の日本人の人質を殺害した。広報部門の『フルカーン』を通じて、日本人の捕虜の後藤健二の映像を公開した。日本が、イスラム教徒に対する『十字軍』の同盟に参加したからである」と述べた。場所を問わずに日本人を狙う、日本にとっての悪夢がはじまるとはっきり表明している。シリア周辺国にいる日本人は厳重警戒すべきだ。国境周辺には多くの日本人取材班がいるが、早く引いた方がいいかもしれない。また、その他のイスラム過激派が活動している諸国を旅行中の日本人も注意すべきだ。「イスラム国」への忠誠・支持を表明した組織は、世界15か国に29組織もある。「イスラム国」を叩けば済むという話ではないのだ。大変な時代に突入した。きょうという日は、歴史に刻まれる日になるだろう。(
高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-02-01

第一次世界大戦後の英国の中東政策はかつて、「三枚舌外交」とよばれたほどにインチキだった。屈辱の記憶は各所で爆発しつつある。約100年もまえの列強の不正の数々に「われわれ」は責任を負えはしない。けれども、わたしは「われわれ」ではない。とりわけ、Aのしつらえる「われわれ」にくみすることはできない。〈陰惨な言語不通状態〉を嘆くまえに、米国とその有志連合にたいするひとびとの憎悪と不信の深さとその由来を知るべきではないのか。Aの凶相はつとに今日の到来をやくそくしていた。そうではないか。悲劇の招来は目にみえていた。かけがえのない人命よりも、Aは米国と有志連合への信義を優先した。かよわい人命よりも国家意思をためらいもなくえらんだ。それじたいが憲法違反ではないか。Aに〈悲劇の主人公〉を演じさせてはならない。Aが〈殺す風〉の風上にいたのはあきらかだ。あの命をすくうためになにをしたというのだ。どれほど懸命に工作し腐心したというのだ。そうすれば危機に瀕したあの命がどうなるのかを知りつつ、米国と有志連合側に、これみよがしにすりよったのは、いったい、どこのだれだ?かれはいま内心ほくそえんでいる。労せずして9条を扼殺できると。9条のないニッポンは、ただの〈ゴロツキ国家〉になるだろう。われわれはAの「われわれ」ではない。われわれは、消されたあの命につながる、ひとりひとりのわたしである。(辺見庸「日録1-5」2015/02/01
私は前回前々回記事を「共産党はもはや「井の中の蛙」となって「鴻鵠」の志を忘れてしまったのか?」と題して私以外の論者の論の援用も含めて共産党志位執行部体制と「しんぶん赤旗」の民主主義と社会変革に関わる問題点を指摘しましたが、東京では澤藤統一郎弁護士が昨日の1月31日付けの「韓国のナッツ姫と日本のナッツ姫ーともに傲慢ではた迷惑」という記事で前々回都知事選における宇都宮選対の人権感覚と民主主義の問題点を改めて指摘しています。どちらも広い意味では「民主勢力ムラ」のできごとといってよいものです。そういう意味で私の問題提起、「私の沖縄・広島日記」ブログと「街の弁護士日記」ブログの主宰者の問題提起と合わせて、以下、澤藤統一郎弁護士の論をご紹介させていただこうと思います。前回、前々回の記事でも指摘したように「民主勢力ムラ」に関わる事態は2年前となんら変わっていません。というよりも、ますます悪くなっているような気さえします。「鴻鵠」の志とはなんだったか? 澤藤弁護士の論を通じて改めて考えてみたいと思います。
 
韓国のナッツ姫と日本のナッツ姫ーともに傲慢ではた迷惑
(澤藤統一郎の憲法日記 2015年1月31日)
 
大韓航空前副社長の趙顕娥(チョ・ヒョナ)被告の「ナッツリターン事件」に興味津々である。もちろん、韓国財閥事情への関心ではなく、国は違えど同じようなことはよく起こるものだという身近な事件に引きつけての興味である。「ナッツ姫の横暴ぶり」は、権力や金力を笠に着た傲慢で品性低劣な人間に往々にしてある振るまい。ところで、世の中には、なんの権力も権限もないのに、自分には人に命令する権限があると勘違いで思い込む、愚かで横暴なはた迷惑な人物もいる。こちらの手合いも始末に悪い。
 
共同通信など複数のメディアが、韓国紙京郷新聞が起訴状を基に事件を再現した記事を転載している。その中の次の部分が目を惹いた。
 
「趙被告は乗務員がナッツを袋のまま出すと『ひざまずいてマニュアルを確認しろ』と激怒。客室サービス責任者に『この飛行機をすぐ止めなさい。私は飛ばさない』と迫った。責任者が『既に滑走路に向かっており、止められません』と答えると『関係ない。私に盾突くの?』と激高した。」
 
「私に楯突くの?」という言葉は、聞き捨てできない。かつての都知事選宇都宮選対本部長上原公子(元国立市長)が2012年12月11日午後9時過ぎに、四谷三丁目の選対事務所に私の息子を呼びつけて投げつけた「この人、私の言うことが聞けないんだって」という言葉と瓜二つ、いやナッツ二つなのだ。
 
私の息子は宇都宮けんじ候補の随行員として、およそ1か月間献身的によく働いていた。選挙戦をあと4日残すだけの最終盤のこの時、ナッツ上原はなんの理由も告げずにいきなりその任務を取り上げたのだ。もうひとりの随行員だった誠実な女性ボランティアともどもに。秘密のうちに二人の後任が準備されていた。
 
このことへの抗議に対して、ナッツ上原は、熊谷伸一郎選対事務局長(岩波書店社員)と顔を見合わせて冷笑したうえ、「この人、私の言うことが聞けないんだって」というナッツフレーズを吐いたのだ。
 
その傲慢さ、人格の尊厳への配慮のなさ、品性の低劣さにおいて、日韓両国のナッツ姫は甲乙つけがたい。もっとも、韓国のナッツ姫は一応は労働契約上の労務指揮権を持っている。リターン命令はその労務指揮権の「権限の逸脱・濫用」にあることになる。一方、日本のナッツ上原は、革新陣営の選挙活動にボランティアで集う仲間に対して調整役の責務を負う立場にあって、なんの権力も権限も持つわけではない。ナッツ上原は、より民主的でなければならない立場にありながら、理念反する点で際立っており、見方によっては韓国のナッツ姫よりもタチが悪い。
 
このような事件が起きたときに、関係者の人権感覚と対応能力が浮き彫りになる。宇都宮健児君は任務外しについて上原や熊谷との共犯者ではなかった。しかし、こ横暴を知りながら事後に黙認したことにおいて、人権感覚・対応能力ともにまったく評価に値する人物ではないことを露呈して、私は友人としての袂を分かつことにした。
 
なお、私の息子は、ナッツ上原に対して、「対等な関係のボランティア同士。権力関係にはない。あなたに私に対する命令の権限があるはずはない。ましてやまったく不合理な命令は聞けない」と抗議している。
 
ところが、その後公開された選挙運動収支報告書において、上原が「労務者」として報酬10万円を受領していると届け出ていることが判明した。「労務者」とは「選挙運動員」の指示を受けて機械的な業務のみに従事する立場。ボランティアとして一銭の報酬も受けとっていない選挙運動員である私の息子と対等ではない。ところが、この局面では労務者上原が、選挙運動員に権力的な指示を押しつけている。あり得ないはなしなのだ。
 
もっとも、選対本部長が「労務者」であろうはずはない。この10万円は選対本部長としてのお手盛り選挙運動報酬と考えざるをえず、明らかな公選法違反に当たるものである。
 
この私の指摘に「反論」した三弁護士(中山海渡田中)による「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」(1014年1月5日付)の中身が、真摯さを欠いたお粗末極まるものだった。およそ「法的見解」などと言える代物ではない。もっと真剣に事実に肉薄し、自陣営のカネの動きの不透明さについて明確化する努力と謝罪をしていれば、自浄能力の存在を証明して、「三弁護士」の権威を貶めることもなかったと思われるが、結局は「何らの違法性もないものである」「記載ミスを訂正すれば済む問題である」とごまかしの論理に終始した。繰り返される保守陣営の公選法違反が摘出される度に聞かされてきたことと同じセリフしか聞くことができなかった。
 
当ブロクでの公選法違反の指摘に、宇都宮陣営は報告書の当該記載の抹消をしただけでこと終われりとしている。もちろんそれでは、添付書類と辻褄が合わないことになる。いまだに、放置されたままだ。その他にも、宇都宮選挙には多々問題があった。詳細は、このプログに「宇都宮君、立候補はおやめなさい」シリーズとして33回連続して掲載したので、是非ご覧いただきたい。
http://article9.jp/wordpress/?cat=6
 
そのほか、選対内部で随行員二人の任務外しに加担した労務屋同然の働きをした人物が何人もいる。何が正しいかではなくなりふり構わず何が何でも組織防衛を優先する「革新」を標榜する人々の常軌を逸した行動パターンを思い知った。さらに驚くべきことに、このブラック選対で労務屋同然のダーティーな働きをした人々が、「ブラック企業大賞」選考企画の中心にいたようだ。深刻なブラックジョーク現象というほかはない。
 
聞くところによると、「今年、宇都宮健児が大きく運動を展開させる注目のテーマ」を「選挙制度」としているそうだ。ちょっと信じがたい。仮に宇都宮君が選挙制度について語るのであれば、何よりも都知事選でのカネの動きの不透明さや、明らかに合理性あるルールに違反したことへの反省と謝罪から始めなければならない。それなくして、彼が公職選挙法の不備や不当について語る資格はない。
 
ところで、韓国のナッツ姫。現地の報道では、大弁護団が話題となっているようだ。「趙前副社長が雇った弁護団は数十億ウォン(数億円)を受け取っているはず」「執行猶予を勝ち取れば、弁護団は大富豪になるだろう」などと揶揄されている。
 
ナッツと弁護士。日韓両国において切っても切れない縁のようだが、けっして美しい縁ではない。腐ったナッツに集まるハエと悪口を言われるような関係となってはならない。

引用者注:こちらの記事でも明らかなように海渡雄一弁護士は原発メーカー訴訟の会に弁護士としてあるまじき理不尽な横やりを入れて恥じない「原発メーカー訴訟弁護団」(島昭宏弁護士・河合弘之弁護士ほか20名)にも名前を連ねています。民主主義に適わないことをする人はほかのところでも同じことをしているのです。海渡弁護士、河合弁護士の例がそのことを示しています。しかし、彼らは民主主義的弁護士、反原発弁護士としていわゆる「革新」市民からは遇されています。「革新」市民なるものの見る目のなさ、また、ここでも「革新」とはなにか、「民主主義」とはなにか、ということを思わざるをえません。