まずは、以下の2本の情報をお読みください。
 
1本目。
 
従軍慰安婦報道に関わった元朝日新聞記者の植村隆氏(56)が非常勤講師を務める北星学園大(札幌市厚別区)に脅迫状が届いた問題で、田村信一学長が来年度以降は植村氏を雇用しないとの考えを学内の会議で示していたことが、関係者への取材で分かった。大学側の動きに危機感を持った教授らが30日、「大学の自治と学問の自由を考える北星有志の会」を結成。メンバーの教員は毎日新聞の取材に「脅迫者の要求に応じれば被害は拡大する。踏みとどまらないといけない」と話した。関係者によると、学部長らで構成される全学危機管理委員会が29日に開かれ、田村学長が「財政的、人材的問題」と「入学試験が心配」などの理由を挙げ、「来期の雇用はない」と述べた。11月5日に開かれる臨時の大学評議会に諮問。大学評議会や理事会での意見聴取などを経て、最終的には田村学長が決定するという。植村氏は2012年4月から非常勤講師を務め、留学生向けの講義を担当している。毎日新聞は北星学園大に文書で取材を申し込んだが回答がない。(「慰安婦問題:北星学園大 元朝日記者処遇巡り学内相反」毎日新聞 2014年10月31日)
おいおい、そりゃないでしょう。脅迫者の要求を受け入れちゃうのかよ。(「想田和弘Twitter」2014年10月31日
 
2本目。
 
BLOGOS編集部10月30日
衆院予算委で、安倍首相が「撃ち方やめ」発言報道を否定。▼朝日毎日日経共同
 
・確かに安倍首相は「朝日の捏造」とはっきりと答弁してるな。しかしそれならなぜ毎日や日経や共同にも同じ発言が載っているのか?
 
・これ、首相の発言の方が捏造なのであれば、朝日新聞は反論すべきである。はっきりと首相に「捏造」と呼ばれたのだから、報道機関としては見過ごしてよい問題ではない。→安倍首相の「『撃ち方止め』は朝日のねつ造」はねつ造ではないのか
 
・結局捏造してたのは首相の身内ってことじゃん。首相は事実確認を怠り、公然とデマを飛ばしていた。歴史改ざん主義者の本質が垣間見える一件である。→「撃ち方やめ」報道、首相側近「私が言った」 説明修正 - 朝日新聞
 
TrinityNYC
しかし、ちょっと想像してみたんだけど、一国のトップが、ある特定の新聞社を名指しで、「あの会社は現政権を倒すことを社是としてるんで、あることないこと、ねつ造する、そういう会社なんだよーーん」と【議会で】発言するって、考えてみたら、すごいことだよね(ぞぞっ)
 
鈴木耕
この記事はおかしい。安倍首相は「朝日は捏造」と言った。読売も書いたではないか。「なぜ朝日を名指しして捏造と言ったのか」を、読売はなぜ記事にしないのか。→「撃ち方やめ」発言は「捏造です」…首相が否定(読売新聞)
 
・おいおい。昨日の捏造発言はどうなったんだ。朝日新聞を倒したいという方向に持って行きたいということで発言するから、そういう間違いが起こるのではないか。→朝日新聞を重ねて批判=安倍首相(時事通信)
「想田和弘Twitter」2014年10月31日から)
 
安倍の特定新聞社攻撃は憲法21条(「言論・出版・表現の自由」「検閲の禁止」)に明らかに違背する権力の凄まじいまでのメディア・ハラスメント行為だと私は思います。恐るべきことです。「『社会の暴力団的段階』(アドルノ)は、すでに終わったのではなく、今日ますます熟してきている。こんごはさらに暴力化するだろう」(辺見庸「日録1―6」2014/10/29)。左記の「暴力団化する社会」を象徴するのは日本ではまさに首相安倍自身、安倍政権そのものです。
28日付けのエントリで私は「なぜ今、『イスラム国』なのか 若者の閉塞感とIT革命」(日本経済新聞、2014/10/27)という記事と「アラブの若者、『聖戦』へ続々 『イスラム国』巧みに接近・宣伝」(朝日新聞、同26日付)という記事、さらに高岡豊さん(中東調査会上席研究員)の「世界80カ国から集まる戦闘員 『イスラム国』は空爆国が育てた」(WEDGE REPORT 同28日付)という記事の3例を挙げて、そのうちの朝日記事に対する中田考さん(イスラーム研究者)の「何も分かっていないバカ記事」(「中田考Twitter」26日付)というコメントと同じく中田さんの高岡豊さんの記事に対する「タイトルから一瞬でも高岡氏がまともなことを書いてるのかと期待したのが馬鹿だった。事実は、空爆国がイスラームに敵対する不正な強権国家なのが原因」というコメント(同28日付)を紹介しておきました。

が、中田考さんいうところの「バカ記事」は依然として続いていて、本日30日付けの毎日新聞は「イスラム国渡航計画:北大生に別組織も提示…元大学教授」という記事を掲載し、その中で「北海道大学の男子学生(26)が、イスラム過激派組織『イスラム国』の戦闘員になるためシリアへの渡航を計画した事件」などという公安情報を鵜呑みにした記事をなんら反省のないままに流しています。
 
「戦闘員」とはふつう「軍隊組織の中で直接戦闘を主な任務とする者」(「大辞林」第三版)を意味し、この毎日新聞の記事を読んだふつうの読者は「『元大学教授』はとんでもない非常識なことをする人だ」と思うに違いありません。「元大学教授」は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を「永久に放棄」(憲法第9条)した国から現在戦争している国(イスラーム国)に学生(北大生)の「直接戦闘を主な任務とする」「戦闘員」を紹介する労をとったというのですから、報道のいうところが事実であれば当然の反応であり、認識というべきです。
 
しかし、「戦闘員」という用語の意味については中田考さんによれば「イスラム教の考えではイスラムの国に行く者は、女性や子どもを除いてすべて戦闘員として行くことになっている。そういう意味だ」ということです(「イスラム国へのリクルートはしていない 渦中の大学教授中田氏が再出演」ビデオニュース・ドットコム 2014年10月11日)。「戦闘員」という用語はイスラム教独自の用語であって、ふつうの意味の「戦闘員」の意味ではないことはイスラーム研究者の中田考さんの左記の説明からも明らかです。だから、中田さんが北大の学生の渡航の斡旋をしたのは営業とボランティアという違いのほかはたとえば旅行会社が営業としてするふつうの海外渡航の斡旋となんら変わるところはありません。
 
イスラム教の専門家に「戦闘員」の意味を確認することもなく(中田考さんに限らず、です)、ただ公安情報のままに漫然と「戦闘員」というまがまがしい言葉だけを流布させる。どう考えても良識のあるメディアのするべきこととはいえません。
 
「イスラム国」の問題に関してメディアがよく使う「リクルート」という言葉に関しても同様のことが言えます。公安情報を鵜呑みにでもしない限り、「イスラム教の考えではリクルートという発想はないし、『イスラム国』は実際にリクルートもしていない」(同上)という現地の実情にも詳しく、イスラーム研究者の中田考さんの証言を疑う理由はまったくありません。
 
上記の毎日新聞の記事に関しても以下のような批判があります。
 
「常岡浩介Twitter」(2014年10月30日)から。
 
常岡浩介:06年のL&K事件SIMロック解除事件の時も、一番すごいデマを書いたのが毎日だったなあ。L&Kが窃盗団の元締めであるかのようなことを警察リークで垂れ流した。警察が持つ在日中国人へのヘイトをそのまま記事化。今回の「広がる勧誘網」もそうだよなあ。
 
・紫電P:<イスラム国渡航計画>北大生に別組織も提示…元大学教授(毎日新)もう学生より送り出そうとした側にターゲット移ってるっぽいのね、公安も
 
・CrowGoki @CrowGoki:なにやら捜査員が必死に『物語』を創造しようとしている気配が…。→【イスラム国渡航計画:北大生に別組織も提示…元大学教授
 
なお、今回のいわゆる「イスラーム国」北大生渡航未遂問題で公安が刑法の「私戦予備・陰謀罪」(93条)を適用することの無理筋について「公安」問題のエキスパートの清水勉弁護士に以下のような記事がありますのでご紹介しておきます。
 
秘密保護法の予行練習?
(「清水勉の小市民的心意気!」2014-10-21)
 
10月10日、ビデオニュースの神保哲生さんのインタビューを受けた。内容は、「イスラム国」に戦闘員として加わろうとしたとして北海道大学の男子学生が、私戦予備・陰謀罪違反の疑いで警視庁公安部から家宅捜索や事情聴取を受けた事件についてだ。
 
わたしは私戦予備・陰謀罪(刑法93条)に詳しいわけではない。というか、明治時代につくった刑法に規定されたこの条文は、裁判例が見当たらないことからすると、実際に適用されたことがない。だから、明治時代から今まで、学者でも弁護士でもだれも専門家はいない。警察官も裁判官も同じ。
 
専門家ではないが、条文をみればどう解釈するかくらいはわかる。私戦予備・陰謀罪は「第四章 国交に関する罪」に規定されている。この点だけからしても、就職に失敗した一大学生ごときが「イスラム国で戦争がしたい」と思って、渡航しようとしたくらいのことが、国交を害することなどあるはずがない。
 
引用者注:上記について清水弁護士は「ビデオニュース・ドットコム」の神保哲生さんのインタビューで次のようにも述べています。「個々人の行動が私戦に結びつくわけではないし、法律の規定の位置からしても国の信頼なり安全を害することからしても、個人の行動としてではなくて一定程度の組織性を持ったものとして行動することが想定されている規定と考えるべき。また、前後の条文からしても、やはり一定の組織性を持った、計画性を持って組織的に行動することが想定されているものと考えるべきです」。
 
で、条文をみると、「外国に対して私的に戦闘行為をする目的で、その予備又は陰謀をした者は、3月以上5年以下の禁錮に処する。」とあるだけ。
 
北大生のしようとしたことが私戦予備・陰謀なら、紛争地域に行って戦闘に加わる傭兵はだれもが私戦予備・陰謀罪で処罰されることになる。日本にも海外で傭兵をしていたことを公にしている人はいる。でも、だれも処罰されていない。おそらく強制捜査もされていない。だったら、北大生も同じ。
 
では、なぜ、警察が動いたのか?
 
動いたのは刑事警察ではなく、公安警察だった。ここが1つのポイントだ。刑事警察の場合は、逮捕⇒起訴⇒有罪判決を見通して捜査を始める。ところが、公安警察は犯罪でないことを扱っているので、逮捕も起訴も有罪判決も考えていないし、見通してもいない。自分たちが欲しい情報を入手できればいい。
 
今回の強制捜査(家宅捜索)を実行したのは公安警察だ。目的は北大生の逮捕、起訴、有罪判決ではない。北大生の部屋の家宅捜索でもない。北大生と関わりを持った人たち、イスラム学者の中田考同志社大学教授と、イスラム圏の取材経験が豊富で最新の情報を持っているジャーナリストの常岡浩介氏、特に常岡氏が持っている情報こそ公安警察が欲しかったものだったに違いない。常岡氏の自宅の家宅捜索をしたことで、一定の成果を挙げたに違いない。
 
12月に秘密保護法が施行されれば、公安警察は「テロ関連で秘密保護法違反の疑いがある」と何らかの口実さえ作れば、その秘密が何かを明かすことなく、根こそぎ関連証拠を持って行くことが可能になる。今回は、秘密保護法違反捜査の予行演習だったのではないか。
 
とは言っても、公安警察は独断で強制捜査をすることはできない。裁判官の捜索差押許可状(刑事訴訟法218条)という協力が必要不可欠だ。今回は、東京簡易裁判所の裁判官が捜索差押許可状を出したようだ。地方裁判所の裁判官だと強制捜査の許可を出してくれそうもないときでも、簡易裁判官だと出してくれる。簡易裁判官は、地方裁判所の裁判官とちがって、司法試験に合格していない裁判所書記官などがなっている(裁判所法44条1項4号)。
 
私戦予備・陰謀罪など捜索差押許可状を出したことのある裁判官はこれまでいなかった。地方裁判所の裁判官だったら、慎重に考えて捜索差押許可状を出さなかったのではないか。
 
だが、問題の本質は、地方裁判所の裁判官か簡易裁判所の裁判官かではない。裁判官が強制捜査を安易に許す傾向があることが素地として問題なのだ。そして公安警察が動く事件「捜査」では、警察は起訴、有罪判決を目指していないのだから、裁判官がそんな「捜査」に協力することはもっともっと問題だ。
 
マスコミは、少なくとも公安警察の強制捜査や問題のありそうな強制捜査では、捜査令状を出した裁判官名を報道すべきだ。裁判官の仕事は、人の人生を一変させるだけのものなのだから、実名で世間の批判に晒されて当然だ。そうされることで、裁判官は(公安)警察の暴走を止める役割を果たすべきことを制度上期待されていることを自覚すべきだ。(以下、省略。なお、改行は引用者)
「興味深い分析」と呼べるような最近の日本のメディアの「イスラーム」関係の記事はあるのか? 疑問に思ったのでメーリングリストでの返信として書いたのが以下の記事です。私たちは聞いた限りで耳に心地の良い言葉や表層の言葉に欺かれやすい。そうであってはいけない。欺かれやすい言葉に触れて、「興味深い分析でした」などと知ったかぶりのことを言う。そして、その知ったかぶりの言葉が耳に心地よいという理由だけでさらに伝播(いま流の言葉で言うと「拡散」)していく。そういう社会、そういういまの時代であってよいのか、というのが実のところの私の言葉の裡側にある問題提起です。
 
ある人 wrote:
本日読んだ記事の中で興味深い分析でした。「なぜ今、『イスラム国』なのか 若者の閉塞感とIT革命」(日本経済新聞、2014/10/27)。かつてスペイン内戦における「国際旅団」のように、「国際義勇兵」は反ファシズムのような進歩的な陣営に共感する若者たちでした。いまや、「イスラム国」のような反動的なイスラム原理主義(ジハディスト=イスラム聖戦主義者、大部分のイスラム教徒の中でもアメリカにおける「ネオコン」のような異端的な潮流)の陣営に取り込まれています。それがなぜなのか、若者がなぜ「イスラム国」に自らの「居場所」を見出すのか、興味深い分析であると思いました。翻って民主主義的・進歩的陣営がこうした若者をどう結集させるのかが問われているともおもいました。
 
ある人が「興味深い分析でした」と言う「 なぜ今、「イスラム国」なのか 若者の閉塞感とIT革命」という上記の記事を読んでみました。同記事の要旨は、イスラム「過激派の宣伝やリクルートなどの活動の中心は、インターネットのサイバー空間に移った」。その「IT革命」がイスラム「過激派の宣伝やリクルート」を成功に導き、欧米の「若者の閉塞感」を打ち破る契機ともなっている、というものですね。
 
同様の要旨の記事はこのところ各メディアから立て続けに発信されています。たとえば10月26日付けの朝日新聞「アラブの若者、「聖戦」へ続々 「イスラム国」巧みに接近・宣伝」という記事も上記日経の記事とほぼ同様の内容の記事です。
 
この朝日新聞記事についてはいま「時の人」の感のあるイスラーム研究者の中田考さんが26日付けのTwitterで「何も分かっていないバカ記事」と酷評しています。
 
中田さんは28日付けのTwitterでもこちらも中東研究者として有名な高岡豊氏の「世界80カ国から集まる戦闘員 「イスラム国」は空爆国が育てた」(同28日付)という記事についても「タイトルから一瞬でも高岡氏がまともなことを書いてるのかと期待したのが馬鹿だった。事実は、空爆国がイスラームに敵対する不正な強権国家なのが原因」と酷評しています。
 
上記で中田さんが「事実は、空爆国がイスラームに敵対する不正な強権国家なのが原因」と言っているのはたとえば次のような「事実」を指しているでしょう。一部はすでに本ブログでもご紹介しているものですが改めて内藤正典さん(同志社大学教授)の講演発言とTwitter発言をご紹介しておきます。
 
■CISMOR講演会「東西間のイスラーム・カリフ制 −歴史的考察と現在の展望」と題されたシンポジウム(2011年3月12日)における内藤正典さんの発言(ビデオの20:40~37:25)。
 
ここでは31:45頃からの内藤発言を書き起こしておきます。
 
「最後に指摘しておきたいのは中東の一連の暴動あるいは反乱(引用者注:内藤さんは「アラブの春」の評価は「革命」か「暴動」かいまだ定まっていないとしてとりあえずの表現として「暴動」、あるいは「反乱」という表現を用いています)をどういうふうに見るかということと関わるんですが、いま、現状、日本で報道されている、日本のジャーナリストもそうですし、欧米もそうなんですが、あれをイスラムと絡めて報道するのを極力避けています。ツイッターとかフェイスブックとか非常にモダンなツールを使って、ほら、タリール広場で騒いでいる若者たちを見てみろ、と。アイツら全然宗教色ないじゃないか。だが、ああいう言い方って気をつけた方がいいと思うんですが、あれはアメリカの期待がすでに刷り込まれていますよね。アメリカはああいう民衆の運動がろくでもない独裁者を倒すのはいい。だけど、あれがイスラムに傾いちゃ困るとやっぱり思っているんです。だから、宗教色のなさそうな若者がツイッターやフェイスブックを使って倒したところにデモクラシーのあらたな潮流ができた、ととりたいものだからそういうふうに報道するんです。日本でも中東民主化ドミノと言っている記者がいますけど私は違うんじゃないかと思います。むしろ、ろくでもない独裁者に対して反抗するっていうのは、もともとイスラム教徒の頭の中にはあったことなんで、なにもフェイスブックを使おうがツイッターを使おうがろくでもないものはろくでもないんです。で、その結果として、次なんです、問題は。エジプトも結果的に軍が政権とっちゃいましたよね。見方によっては民衆が反乱を起こした結果、軍はやすやすとクーデターを起こしたともとれるんです。もっと冷静に見なきゃいけない・・・」
 
ひとことでいえば、内藤さんは、上記で「暴動」(反乱)の根源はイスラーム人の「怒り」であることを指摘しています。「IT革命」「若者の閉塞感」云々以前の問題だ、という指摘です。
 
内藤正典Twitter」発言(2014年10月23日)から。
 
(「イスラム国」という呼称、カギ括弧つきでも大いに抵抗があります。ほとんどすべてのムスリムたちは困っている、というより怒っているはず。テロ組織がキリスト国とか仏教国と自称 した場合を考えれば分かります。報じる時は初出から略称(IS等)にするとか、そろそろ考える時期です」という問題提起に応えて)
 
確かにムスリムも迷惑でしょう。しかし、これは「穏健な」ムスリムたちが、これまで西洋の衝撃以来、西欧近代国家、言い換えれば領域国民国家とイスラームを無理に接ぎ木しながら近代化したイスラームを演じようとして失敗したことが原因。イスラーム国はそのいびつな所産。いまだに近代化したイスラームとか、西洋の価値に適応したイスラームを信じようとするムスリムはいるが、逆に、それでは立ちゆかないとイスラーム復興に再覚醒したムスリムもいる。
 
後者の中からカリフ制の再興を説くムスリムも現れた。このこと自体は、何ら異常なことでも断罪すべきことでもない。問題は、イスラームという「神の法」の体系と、我々が信じる憲法を頂点とする「人の法」とは共約不可能な、パラダイムを異にする体系であることを西欧社会が認識できないことに端を発している。「今更、イスラーム法の体系に従うなんて時代遅れ」という認識はムスリムにも根強い。しかし、実は時代遅れなどではないのでは、と思うに至るムスリムが増えてきたのである。
 
ヨーロッパ各国は、世代が変わった後にスカーフやヴェールを着用するムスリムが増えたことに苛立ち、彼らがまるで迷妄の闇に吸い込まれたかのように軽侮する。ヨーロッパ社会は。この現象を完全に誤読したのである。だからこそ、イスラーム国に参加する若者を単純に過激な説教師に洗脳されたと考えようとする。そういうケースもある。しかし、根本的には、彼らはもはや西欧近代国家からも、その価値の体系からも離れたかったのである。それが極端なサラフィジハーディストのイスラーム国だったのは不幸なことだが、逆に、もっとマシな形でのイスラーム国(固有名詞ではない)を建てる努力を怠ったムスリム諸国の指導者と官製のウラマーに堕落したイスラーム指導者たちの責任だろう。トルコは完全な領域国民国家だが、いまのようにエルドアン大統領の権威主義体制がひどくなる前には、一時、領域国民国家の息苦しさから脱したいというムスリムの意志を体現した国にしようとしていた。
 
そもそも、PKKとの和解も、当初は、「民族概念も民族主義も」西欧がもたらした。みなムスリムの兄弟じゃないか、という与党側の主張が基底にあった。それまでの国家主義者やトルコ民族主義者は、断固としてPKKとの和解を拒んでいたし、それ以前にはクルドの存在さえ否定していた。国民国家の「国民」部分について、少なくとも、トルコ民族の国であるべきという主張を後退させるうえで、イスラーム主義が役割を果たしたことは間違いない。しかもそのプロセスで、軍による政治介入を抑え込み、民族主義を体現する軍がマイノリティを抑圧する構造にも終止符を打たせた。突き詰めていえば、イスラームと西欧近代とは、類似する価値も持っているけれど、全く相いれない価値も持っている。別に、ヨーロッパのムスリムは、何とか自分の信仰実践と自分が暮らす領域国民国家の折り合いをつけようともがいた。
 
しかし、スカーフを着用しているだけで何の悪意もないムスリム移民にヨーロッパは、どう接したのか? スカーフを引っ張って取ろうとしたり、唾を吐いてテロリストは国へ帰れと罵声を浴びせなかったとでもいうのか? 日常生活のなかで、そういう目にあうことは、ハラスメントでではないのか? ヘイトスピーチではないのか? そう。知識人たちは言っていた。スカーフを被る女性は、まだ啓蒙されていないと。
 
最初にフランスでスカーフが問題となったのは1989年。パリ郊外のクレイユでムスリムの女子生徒がスカーフを被って登校しようとして、校長がそれを脱がせたことが発端。そのころはまだ今ほど反イスラーム感情はひどくなかった。社会党の政府は「彼女たちに無理やりスカーフを脱げと命じて、学校に来なくなると教育の機会を奪うことになる」としてスカーフを脱がせることを強制しなかった。だが、反ラシスムの団体さえ「彼女たちにとって唯一の啓蒙の場が公教育だ」と主張していたのである。啓蒙することでスカーフを脱がせる。なんと馬鹿げた言説かと私は思った。被っている当人に聞けば、スカーフが十字架のような宗教的シンボルなどではないことがすぐに分かったはずである。にもかかわらず、当時は誰もスカーフを着用している女性たちの声を聴こうとしなかった。いまは、公教育での着用禁止法、公共の場でのブルカ禁止法の施行によって、ますます彼女たちを疎外しているのがフランス社会。いったい、だれがブルカなんて被っているのか?スカーフを着用している女性は、覆っている部位が政敵羞恥心の対象だから被るのであって、イスラームのシンボルなどではありえない。フランス共和国は国家をあげてセクシャルハラスメントをしている自覚を持つべきだ。欧州評議会の場で、私はこう主張したが、私の意見は一蹴された。
 
ベルリン市の移民問題のオンブズパースン事務所で聞いた話。ムスリム移民の学校教育で90年代によく問題にされたのが、ムスリムの女子生徒が男子との共修の水泳の授業に出ないという話。これも、イスラームの問題、ムスリムの問題とされていた。ムスリム移民団体はこう言っていた。「別に水泳の授業が嫌だと言っているのではない。男女共修が嫌なのである。男女別々に水泳の授業を設定すれば済む話なのに」後に、ベルリン市は、市営プールで女性専用の日を設けたと聞いた。ムスリム移民団体はこう言っていた。「別に水泳の授業が嫌だと言っているのではない。男女共修が嫌なのである。男女別々に水泳の授業を設定すれば済む話なのに」後に、ベルリン市は、市営プールで女性専用の日を設けたと聞いた。対立するようにもっていこうとするのか? 対立を回避するようにもっていこうとするのか? 無理だとはわかっているが、ヨーロッパ各国の社会は、胸に手を当てて考えてほしい。イスラーム国に吸い寄せられる若者を出したくないのなら。」 

追記:
安倍政権の超悪政は秘密保護法制定、集団的自衛権閣議決定、消費税増税の問題に留まらず、教育、労働、社会福祉分野などなどの分野でも根こそぎの改悪化がすすめられています。首相安倍が総理大臣に就任して以来一貫して主張してきた「戦後レジームからの脱却」は、憲法第9条に代表される「戦後思想」の全面的破壊と「人が人たるに値する生活」をする権利の全分野にわたる破壊の謂いであったことはいまや一切の弁明は通用しないほど完膚なきまでに明らかになっています。
 
今日の報道、ブログ記事もそのうち「人が人たるに値する生活」に関わる問題について次のような切実な記事を掲げています。まず、安倍政権の「働き方改革」という名の8時間労働制の撤廃と労働者派遣法改悪に関わる問題について。

Daily JCJ「今週の風考計」(2014年10月26日)から。
 
過労死防止法」が11月1日に施行される。国連が日本政府に過労死対策を勧告し、やっと成立した。過労死や過労自殺を防ぐ国の責務が初めて明記された。とはいえ自治体や企業は努力のみ。義務づけなければダメ。もっと問題なのは、8時間労働制を撤廃しようとする動きだ。対象は高度な専門職に付く人といっても、きわめてあいまい。年収1000万円以上などの条件も、なし崩し的に引き下げられるのは必至。法定労働時間が無くなるのだから、長時間残業を取り締まる法的根拠がなくなってしまうワタミすき家ヤマダ電機たかの友梨ビューティクリニックなど、いまだに過労死や残業代不払い、パワハラなどの人権侵害が横行している。安倍政権のいう「働き方改革」とは、ますます長時間労働を野放しにし、過労死・過労自殺を増やす、まさに「過労死促進法」に他ならない。さらに安倍首相は、28日の衆院本会議で「労働者派遣法改悪案」の審議入りを狙う。「3年間」という派遣期間の上限を撤廃し、企業が働く人を変えれば、ずっと派遣労働者に仕事をさせることができる「生涯ハケン」「正社員ゼロ」への道を用意するものだ。許してはならない
 
次に生活保護法改悪に関わる問題について。

・東京新聞「私説・論説室から 午前4時半の『少女』」(2014年10月27日)から。
 
忘れられないメールがある。福岡県の女子高生が一年余り前、東京都内の市民団体代表に送ったものだ。「私の人生は普通の高校生が送ってきた人生とは、かなり懸け離れていると思います」と始まる。彼女の家庭は生活保護を受けている。朝は四時半に起き、自分で弁当を作り、一時間半かけて学校へ行く。終わるとバイトに行き、家に帰るのは夜十時ごろ。家事、勉強をし、寝るのは午前零時をまわる。そういう中でも、彼女は優秀な成績を保っている。だが、進学は経済的な理由で厳しい。「専門学校も奨学金で行けばいいと言われるが、卒業後、高校と専門学校の奨学金を同時返済し、さらには親を養えと言われる。私はいつになれば私の人生を生きられるのか家族を恨んでいます。私たちの家に関わってきた大人たちのことも同様に」全生活保護受給者の七人に一人が子どもだ。その子どもが成人し、独立しても、生活保護を受給する親の扶養がついてまわれば、貧困から抜け出せないかもしれない。七月に施行された改正(引用者注:改悪)生活保護法による親族ら扶養義務者への圧力強化は、親から子への貧困の連鎖を断ち切るとうたう政府の「子ども貧困対策大綱」の理念にも反している。「これ以上、何を我慢すればいいのか」彼女の訴えがずっと、心に引っ掛かっている。
 
さらに次に教育問題に関わって、極右思想の持ち主、元ヤンキー先生こと義家弘介・自民党衆院議員の陋劣、幼稚な作家の池澤夏樹さんの「桃太郎」論批判について。以下、この問題についての住友陽文さん(歴史学者)の義家弘介議員批判と同氏の池澤夏樹さんの「桃太郎」論批判の抜粋。
 
・「住友陽文Twitter」(2014年10月26日)から。
 
義家弘介議員は桃太郎が侵略の物語だという解釈を聞いて「伝統的な日本人なら」「唖然」とすると言ってるが、かつて福沢諭吉は桃太郎のことを「ひれつせんばん」と言い放ち、芥川龍之介「罪のない鬼」に恐怖を与えた話だと解釈しているぞ。義家議員は、そういう解釈があることについて、思想の自由は「法律に触れない限り」自由だと言ってるが、そんな条文は憲法のどこにもない。思想の自由は内面の自由だから無制限なのだ。だいいち「法律に触れる思想」って何なんだ?ついでに言っておくと、「法律に触れない限り」自由があるという事に関して、おそらく義家議員の頭の中にあるのは大日本帝国憲法の臣民の自由を制限する「法律ノ範囲内」という文言だろう。日本国憲法ではそれは「公共の福祉」と言うのだが。

・義家弘介議員の「桃太郎」論(産経新聞 2014.10.25)から。
 
教科書問題というと、とかく社会科の教科書の記述ばかりが論じられるが、それ以外の教科においても到底看過できない記述が検定をすり抜けて子供たちに届けられた、という歴史が繰り返されてきた。例えば、平成10年度から14年度まで使用された高校の教科書「国語I」(筑摩書房)には、作家の池澤夏樹氏の「狩猟民の心」を取り上げた単元があった。以下、その一部を引用する。《日本人の(略)心性を最もよく表現している物語は何か。ぼくはそれは「桃太郎」だと思う。あれは一方的な征伐の話だ。鬼は最初から鬼と規定されているのであって、桃太郎一族に害をなしたわけではない。しかも桃太郎と一緒に行くのは友人でも同志でもなくて、黍(きび)団子というあやしげな給料で雇われた傭兵(ようへい)なのだ。更(さら)に言えば、彼らはすべて士官である桃太郎よりも劣る人間以下の兵卒として(略)、動物という限定的な身分を与えられている。彼らは鬼ケ島を攻撃し、征服し、略奪して戻る。この話には侵略戦争の思想以外のものは何もない》
 
わが国では思想及び良心の自由、表現の自由が保障されている。作者が作家としてどのような表現で思想を開陳しようとも、法に触れない限り自由である。しかし、おそらく伝統的な日本人なら誰もが唖然(あぜん)とするであろう一方的な思想と見解が、公教育で用いる教科書の検定を堂々と通過して、子供たちの元に届けられた、という事実に私は驚きを隠せない。例えばこの単元を用いて、偏向した考えを持つ教師が「日本人の心性とは、どのようなものであると筆者は指摘しているか。漢字4字で書きなさい」などという問題を作成したら一体どうなるか。生徒たちは「侵略思想」と答えるしかないだろう。歴史を超えて語り継いできたお伽噺(とぎばなし)が侵略思想の権化としてすり替わり、子供たちを巻き込んで展開されていくことなど公教育の現場ではあってはならないことだ。
辺見庸「日録1-5」(2014/10/26)から。
 
イカサマの極致。福島県知事選。開票後ただちに自民、公明、民主、社民が支援した候補が当選確実。なんのための原発事故、なんのための選挙、なんのための社民党か。争点がなかったのだという。争点がない?!おお、なんということだ。天国の堀内良彦君よ、見たか。(2014/10/26)
 
辺見庸の友人、堀内良彦さんの死については辺見の「日録8」(2014/02/26~)に以下のような文章があります。
 
2月26日付け。
友、堀内良彦が2014年2月25 日午後8時ごろ、逝った。
 
同月27日付け。
友、堀内良彦は血友病患者でHIV感染者だった。すでに肝臓がんを併発していたのに、福島県の放射能汚染地にたびたび入り、東電に抗議し、血友病患者支援にもあたっていた。そうせずにはいられなかったのだ。「戦死」という言葉はきらいだから、つかわない。良彦はただ、ずっと悪戦苦闘し、のたうちまわり、ついにひとりで逝きやがった。昔、文化学院でかれを知った。いっしょに教育テレビにでたこともあった。たびたび助けられた。とてもはげしく憤り、とてもやさしく愛する男。カサヴェテスについておしえてもらった。飼っていた犬は柴のペロ。良彦より先に死んだ。存在していた者が不意にいなくなるのはあまりに奇妙だ。不当だ。
 
3月2日付け。
それがごく穏やかなものにせよ、苛烈にせよ、目にはよく視えないにせよ(おおかたは視えないものだ)、こう言ってよければ、わたしの戦線はすでにある。だれしも各個の戦線がある。じぶんの戦線は、まるでカナヘビの細い影のように、極小である。でも、それをじっと見つめることだ。そこから逃げないことだ。 できれば、それをあからさまにすることだ。 この3年、 いったいなにが起きて、なにが起きなかったのか。鬱々とかんがえていたときに、堀内良彦がひとりで逝ったのだった。 この3年、いったいなにが起きて、いま、なぜこんなひどいことになっているのか…ずっと昏睡しつづけていたように、しょうじき、 わからないでいる。ただ、かれのあの激怒と共感と絶望が、ほんとうにたぐいまれな、 立派な能力であったことだけは、いくら迂闊なわたしにだって、わかる。 強者への激怒と弱者への共感とじぶんへの絶望…。
 
以下、省略。辺見の「日録8」は辺見庸ブログでは見ることができなくなっていますので、弊ブログの「辺見庸にとっての友、堀内良彦の死。そして、『抵抗』と『反動』の問題」をご参照ください。
 
また、なぜ辺見は「堀内良彦君よ、見たか」と天国の友人に呼びかけたのか。は、白石草さん(Our Planet-TV)の下記の「堀内良彦@horiuchiyo: 氏死去について」と題された連続ツイートをお読みいただければさらにご納得いただけるものと思います。
 
冒頭に挙げた辺見庸の「日録1-5」の文章は実は以下の文章の続きとして書かれています。
 
筑摩書房刊「戦後日本思想大系」の5『国家の思想』(1969年)の36頁上段に載せられた、とある男女の写真のキャプション。「敗戦直後、大元帥の軍装から背広に着換えた天皇と皇后」。このモノクロ写真がすべてをものがたる。笑顔。とくに男の破顔一笑。原爆2発投下からまだ半年もたっていないとき。なんの恥じらいもかげりもない、朗らかに白い歯をむきだした、邪気のない笑い顔。その男の髪によこからそっと手をやる女。悪びれもせず、屈託もない、ただ楽しげな男と女。これこそ、すべてを円滑に卑劣に無化してきたこの国の無思想、イカサマ文化のいしずえである。今日も明日もそれは有効である。「いま、〈大多数〉の感性が〈ワレワレハオマエヲワレワレノ主長(ママ)トシテ認メナイ〉というように否認したときにも、……〈ジブンハオマエタチノ主長ダカラ、オマエタチノタメニ祈禱スル〉と応えそれを世襲したとすれば、この……存在の仕方には不気味な〈威力〉が具備されることはうたがいない」(吉本隆明)。イカサマの極致・・・・
 
また、上記引用文中の吉本の言葉は確かめてはいませんがおそらく上記『国家の思想』の解説の執筆を吉本は担当していますが、その吉本の解説の言葉からの援用でしょう。

さらに私がここでなぜことさらに辺見庸の「イカサマの極致」の文章を「今日の言葉」として引用したのか。私のここまでの文章を読んでいただけた方には言うまでもないだろうと思います。が、贅言を費やせば私は弊ブログの10月15日付けに「社民党及び社民党支持者のいう『脱原発』『再稼働反対』とはなにか? ――福島県知事選に見る「脱原発」運動の中身」という文章を書いています。もし、よろしければご参照ください。
東大の政治学教授の西崎文子さんが(西崎さんはTBSの『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演している有名人でもあるらしいのですが、私はテレビは見ませんので知りませんでした。ちなみに私は「主義」でテレビを見ないわけではありません。単に「面白くない」から見ないというだけのことです)昨日の毎日新聞のインタビュー記事で「議論の作法」に関するインタビューを受けて次のように述べています。「議論の作法」というテーマはおそらく同教授をインタビューした同紙客員編集委員の近藤勝重記者が考えたものでしょう。同インタビュー記事の「まとめ」役の小国綾子記者はインタビュー記事の前振りとして次のように書いています。「世の中に極端な物言いが増え、不寛容な空気が漂っている。異なる意見を唱える相手を全否定し「売国奴」「国賊」などの言葉を投げつける。今求められる「議論の作法」について、政治学者・西崎文子東大教授(55)に近藤勝重・客員編集委員が聞いた」。
 
さて、西崎文子教授のインタビュー発言は次のようなもの。
 
「一つは、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)での、「非国民」「反日」などと相手を全否定する物言いが目立ちます。ツイッターでは、わずか140字で発信するだけなのですが、周囲の反響や評価を感じられる。彼らはある意味、真面目に書き込んでいるので、規制できる類いのものではありません。こういう行為が人を傷つけ、不寛容を助長すると気付かせるような社会を模索していくほかありません。しかし、ヘイトスピーチは次元が違います。実際に人が街に出て、行動を起こしている。極めて暴力的な要素をはらんでいます。言論の自由を守りつつも、取り締まりの対象にすべきだと思います。一方、雑誌メディアが「売国奴」などの言葉を使うのは別問題です。朝日新聞に対する「売国奴」などの過激な批判は、部数増、売り上げ増を狙っているのでしょうが、メディアがこういう風潮に加担するというのは、自分で自分の首を絞めているのではないか。」
 
この西崎教授の認識と発言は私は正しくないと思います。以下、その理由を述べます。
 
第1。西崎教授はSNS上の発言(いわゆるネット発言)と「実際に人が街に出て、行動を起こしている」場での発言を区別し、前者は「「非国民」「反日」などと相手を全否定する物言い」であっても「ある意味、真面目に書き込んでいるので、規制できる類いのものでは」ないと言います。しかし、真面目であろうと不真面目であろうと両者とも「相手を全否定する」「議論の作法」であることには変わりはありません。それに「実際に人が街に出て、行動を起こしている」場合のヘイトスピーチを不真面目と決めつける根拠もありません。本人のつもりでは「真面目に」相手を「全否定」の言葉で罵倒しているということだってあるでしょう。この西崎教授の論理に従えば、ネットで真面目に書いたものであれば、たとえば殺人予告などの強迫のような場合であっても「真面目」だからという理由で「規制できる類いのもの」ではない。すなわち、犯罪に問えないということにならざるをえません。
 
第2。「雑誌メディア」での「売国奴」などの言葉を用いた「全否定」発言も「別問題」、雑誌メディアの言論暴力は「自分で自分の首を絞めているの」だけだとし、事実上同メディアの言論暴力を不問に附してもいます。
 
なぜ西崎さんは上記のような認識を持ち、また、発言をするのでしょうか。カギは西崎さんの上記発言のうち「実際に人が街に出て、行動を起こしている。極めて暴力的な要素をはらんでいます」という発言部分にあるように思います。西崎さんは「暴力」を文字どおり身体的暴力とのみ解釈しているから、「実際に人が街に出て、行動を起こしている」場合は身体的暴力の危害を受ける危険がある。したがって「実際に人が街に出て、行動を起こしている」場合極めて暴力的な要素をはらんで」いるということにもなるのでしょう。
 
しかし、身体的暴力のみが「暴力」ではありません。「言論の暴力」も法律的に犯罪が成立する暴力であることは、たとえばいわゆるドメスティック・バイオレンス法(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律)第1条に「この法律において「配偶者からの暴力」とは、配偶者からの身体に対する暴力(略)又はこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動(略)をい」うと明確に規定されていることからも明らかというべきものです。
 
ただし、西崎文子東大政治学教授だけがただひとり「言論の暴力」についての認識に瑕疵があるということではないでしょう。ヘイトスピーチ問題がご専門の東京造形大学教授の前田朗さんによれば、「現在の憲法学は、(略)ヘイトスピーチの問題は「差別煽動」問題であるが、問題を切り離したまま論じている」(「差別表現の自由はあるか(2)」『統一評論』561号、2012年7月)という状況です。それゆえ、西崎さんの「議論の作法」に関する認識は、その日本の「現在の憲法学」状況を反映した学会界隈でのある意味「常識」的な認識ともいえます。しかし、その認識を一歩も超えることのないサロンとしての学会という巷間界隈の認識ともいわなければならないところが残念です。さらに一言しておけば、この西崎東大教授の通俗を超えない認識をさも「世の中に極端な物言いが増え、不寛容な空気が漂っている」社会を変えていくための金言のように紹介している毎日新聞の記者諸氏のけっして優れているとはいえないヘイトスピーチに対する認識力も問われなければならないでしょう。
 
ネット発言であれ、雑誌メディアの「言論」であれ、「暴力」は「暴力」とはっきり認識する必要があると私は思います。この点で参考になるのが内田樹さん(神戸女学院大学名誉教授)の下記の発言です。ヘイトスピーチのない社会をつくるためには私たちはこの内田樹さんの論をもっと発展させていく必要があるでしょう。
 
「北星学園大学を脅迫した容疑者が絞り込まれたようです。威力業務妨害容疑です。ネットでの匿名での脅迫や名誉毀損は「対面状況で顔を隠して同じ言葉を発した場合と同じ罪に問われる」というルールを徹底させる必要があると僕は思います」(「内田樹Twitter」2014年10月23日)。
「イスラーム国」北大生渡航未遂問題でいまや「時の人」となった感のある中田考さん(元同志社大学教授。イスラム法学)と池内恵さん(東京大学准教授。イスラム政治思想)は東大文学部イスラム学科の先輩(一期生)と「一回り下の後輩」という間柄のようです。その先輩と後輩の間柄の中田さんと池内さんが「イスラーム国」、あるいは「イスラーム教」問題をめぐってちょっとした論争をしています。いま、ちょっとした論争と述べましたが、ちょっとした論争でも「イスラーム」問題を理解するための本質的な問題が孕まれているように思います。興味深い論争ですので下記に転記して、ご紹介させていただこうと思います(強調と改行は引用者)。

避難民キャンプ 
ミャンマー西部、ロヒンギャ避難民キャンプと子どもたち
 
先に自身のフェイスブックというグラウンドで論争をしかけたのは(ご自身にその意図がなかったとしても)池内恵さん。以下のとおり。
 
「イスラーム国」に関連して、またも朝日新聞で中田さんが登場。宣教活動フル回転ですね。近代社会を成り立たせる自由で平等な規範の根拠には自由主義がありますが、イスラーム教はその自由主義の重要な部分を否定しています。そのような思想・信条を信じ・語る自由を自由主義は認めます。ただしある制限の中において。
 
こういった当たり前のことを、なぜ西欧政治思想が専門の先生方は発言しないんだろう? 当たり前すぎて言ってもカッコ良くないから? また、西欧諸国でのイスラーム教徒のへの「迫害」とされる制限についても、一部にはもちろん差別や偏見や格差の問題がある可能性があるが、自由主義の基本的規範をあからさまに認めない人々が出てきたからそれを規制する動きが出てきているということを、なぜ考慮しないのだろう。思想研究者としても、西欧地域研究者としても、失格なんじゃないか。そもそも西欧政治思想研究者は地域研究者という意識がないから、テキストだけ読んでいて、それがどう現実社会の規範として生きており刷新されているかを忘れがちなのではないか、と思う。
 
中田さんは、もともと「人間が考え出した自由なんて意味ない、神が下した正しい宗教を信じる自由の方が優越する」という立場なんだからそれはそれで信仰の自由なのでいいのですが、西欧政治思想で飯を食ってきた人たちは、ちゃんと挑戦を受け止めないと駄目だよ。私のように西欧政治思想の自由主義の潮流については教養課程のゼミで読んだだけの人間がなぜ論じないといけないのか。もちろん私が書いているのはごくごく基本的なことです。「基本的なことに過ぎない」とか言わないでね。オタク的卓越性を競っている場合ではないのである。というか肝心な時に発言できない研究者って何?
 
そういった思想的な研磨をせず、単に日本社会の大勢として「変な格好をしている怪しい奴が危ない集団と一緒になっているから黙らせろ」といって排除して終わり、大学やメディアの反体制論者が逆に実態と異なる思い入れを投影して称賛していると、国内的には内にこもってカルト的だったり破壊衝動がある人を呼び集めることになるかもしれないし、国際的には過激化と迫害が両方生じたと受け止められてしまう。それをぎりぎり避けられるかどうか、市民社会の内実が問われています(「池内恵フェイスブック」2014年10月24日
 
以下は、同じく池内さんのフェイスブック上における中田考さんの反論的コメント。
 
ご活躍、同慶の至りです。貴兄の文を読んでいると、知的誠実性の重要さ、を再確認させられます。日本のオリエンタリズムもそういう段階にはいった、ということでしょう(まだ、それ以前の啓蒙段階のような気もしないでもありませんが)。
 
一点だけ、事実認識の誤りを訂正しておくと、私は、西欧は言うまでもなく、ムスリム社会でもカリフ制が再興されるまではイスラーム法は適用できない(ので当然すべきではない)、という立場です。この点において、私はイスラーム国家とカリフ制を連続的にとらえるムスリム同胞団、アルカーイダ、イスラーム国とは違い、カリフ制以外には、いかなるイスラーム的に正当性を有する国家も認めないHizb al-Tahrirの立場に立っています。これは拙著『イスラーム革命の本質と目的』の78-79頁でめいげんしており、その英語版、インドネシア語用版、アラビア語版でムスリム世界に対しても発信してきたことです。
 
人々の日々の生活に直接に関わる可能性のある政治思想研究で、些末な問題に拘泥するスコラ学的解釈は抜きに問題の根本を大掴みにする、という方法論は正しいと思いますが、重要なテキストを読み込み厳密に読解することも怠らないで欲しいと思います。特にサラフィーの理解には法学とアキーダ(信条)をセットで理解する必要があるので、迂遠に思えてもアキーダも押さえる必要があります(私自身を研究対象にするならスーフィズムも不可欠ですが、そんな気はないですよね)。
 
一点だけと言いながら、ついでにもう一点だけ苦言を呈させてもらうなら、貴兄のイスラーム政治思想の分析には、言葉の語用論的意味の理解が不十分に思えます。特に「過激」「教条的」言辞を特徴とするサラフィージハード主義者の言説と行動の関係は言葉の語用論的意味理解を欠くと、その現実も含意も見誤ります。
 
これはサラフィー・ジハード主義者の内部で参与観察したことがない外部者には難しいことは難しいですが、知識と知性と良識を総動員すれば克服できない困難ではないはずです。
 
貴兄には不本意かもしれませんが、この場に乱入し、「宣教」に利用させてもらったこと、お詫びいたします。今後も精進されますように。アッラーのお導きを。(「池内恵フェイスブック」2014年10月24日
 
以下は、上記の論争を読んだおふたりの感想。
 
・私は信仰を持っていませんが、信仰を持っているひとを侮辱することに同意しません。その信仰が、あるいは信仰実践の様態が、正しいとか誤りだとかという評価をするなら、少なくとも信仰について謙虚に学ぶ姿勢を持つべきだと思います。(「内藤正典Twitter」2014年10月24日
 
・理解なんて到底できない、ということを理解するのも大事な理解:自由主義者の「イスラーム国」論・再び~異なる規範を持った他者を理解するとはどういうことか http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-219.html …(常岡浩介「中田考Twitter」2014年10月24日
 
私は常岡さんのいう「理解なんて到底できない、ということを理解」した上で、そのことを前提にして議論することの重要性を思います。なお、内藤さんのいう「私は信仰を持っていませんが、信仰を持っているひとを侮辱することに同意しません」という意見には私も同意します。池内さんは宗教(イスラーム教)に対する揶揄が少しすぎるというのが私の印象です。
 
なお、中田さんの上記の池内論攷批判には中田さんの頭の中に下記のような池内さんの論攷も伏線としてあってのことかもしれません。
 
先日の「イスラーム国」への北大生参加問題で、すっかり「サブカル」として日本でごく少数のフリンジな方々に受容されかけていることが明らかになったイスラーム教ですが、そこで注目を集めているのが「カワゆいカリフ制」などと言ってウェブ上のマニアから、内田樹氏のような頭の軽い現実感の薄い軽率な居座り系文系知識人にまで(前者と後者は同一かもしれないが)高く評価されてしまっていた中田考氏が、朝日新聞からウェッジにまで、左右対極のメディアに取り上げられてしまっているところが、イスラーム教をめぐる日本の言説に特徴的な問題であろうと思います。
 
中田氏は元同志社大学神学部教授←日本のキリスト者って、ダメだよね。彼が文章で明確にしている原理主義的な真意を読み取れずに、「中田先生は過激派を批判してくれる本当のイスラーム法学者だ。彼こそ「対話」の相手だ」と思って彼を鳴り物入りで迎えたが、彼には別のアジェンダがあるので、やがてジハードに参加するために自主的に辞任して旅立ってしまわれた。数名の改宗学生を後に残して。同志社大学神学部に子供を入れたら、先生に折伏されてイスラーム教徒になって帰ってきた、という親の気持ちはいかばかりか。しかし日本において思想も信仰も自由なので、私は中田考氏の発言や行動を倫理的に悪いとする根拠はないと考えますし、刑法上も、法に触れないぎりぎりまでをきちんと分かってやっている、「近代法上の良き市民」であると思います。実際日常においては、他の学者と比べてはるかに穏和で分け隔てのない方です。暴力・権力・コンプレックスの塊のような学者先生方に悩まされてきた私にとっては、中田さんは「数少ない害のない先輩」という印象があり、その印象はこの事件を経ても変わっていません。
 
ゆくゆくは変な大事件を起こしかねないような人を周りに集めて(勝手に集まってきて)、「ジハード」という一応脈絡のあることをやらせているがゆえに未然に発覚したので、被害を最小限にとどめたとも言えるでしょう。また、中田氏は日本向けにサブカル的な要素を取り入れた宣教をしており(彼自身がサブカル好きなんだろう)ますが、中田氏のイスラーム法学者としての本来の仕事は、アラブ世界で有力な説や歴史上正統性のある説を踏まえた、イスラーム教徒にとって反論のしがたい、多くの人にとっては反論する気もない、まっとうなものであると認識しています。中田さんは正統な伝統主義的なイスラーム法学を勤勉に学ぶことをずっとやってきて、日本出身者として例外的にその道を極め、国内で追随する人はいないと思います。
 
しかししばらく見ない間に、日本で信仰を広めるにはいくら正統派の議論をしてもだめで、日本的サブカルを介在しなければならないと気づいてそちら方面に力を入れていたようです。日本とイスラーム世界の壮大なギャップに自ら落ち込んで生まれた稀有な人材であると思います。そのイスラーム教解釈が異教徒という他者にとっては、「善意」であれども差別的で抑圧的になることを、私は問題と思っています。それについて彼は「神が定めた抑圧なんだから仕方がない。異教徒は抑圧の下で生きるのが幸せなのだ(神が定めた生き方なのだから)。もっと幸せになりたければ改宗の自由がある」という立場であるため、話が通じません。
 
また、「抑圧はほかにもあるだろ。独裁政権とか、日本にだって右翼政権があり、格差社会があり、学界には嘘つきの左翼学者・転向した偽イスラーム学者とか、欺瞞とうそがいっぱいある。お前はそれを逐一批判してきたのか?」といったたぐいの話を持ち出して(あくまでイメージですが、ほぼこんな感じ)議論を逸らすこともあるようですが、これはイスラーム法学者が日本という敵意に満ちた(と認識している)場所で宣教を行うために必要な戦術と考えているのではないかと思います。
 
その意味で中田氏自身の基準では嘘は言っていないが、読み手にとってはうっかり真に受けると危険という言説ではあります。まあ日本社会の多数派は彼のことを単に奇矯な人物としか見ないでしょうけれども、全世界の趨勢とか、日本社会の見えない周縁で何が起こっているかとかを考えると、そういう人はそういう人で、自分の常識を一度考え直してみても無駄ではないでしょう。もちろん、日本の常識を疑ってみてもいい、ということは内田何とかさんみたいに無責任に言葉の上で「ラディカル」に全否定して見せたりその反動でよく知らない外部の絶対主義・原理主義を支持してみせろと言うことではまったくないです。
 
内田某のアレは、紙の無駄です。多分中田さんもそう思っているんじゃないですかね。嘘はいけないが、信仰を広めるために、勝手に誤解して自己の願望を投影してくるバカな有力知識人を利用するのはイスラーム法学的に許容される行為だ、と中田さんは自分の中で正当化して内田さんと付き合っているんだと思いますよ。もちろん日本社会には内田さんのような愚行をまき散らす自由があるんだ、ということをこのブログでは何度も書いております。バカなことを言って「バカだな」と言われたら「抑圧だ」と騒ぐのは止めてください。(「池内恵フェイスブック」2014年10月10日
「共産党(中国共産党)ってなんだろう?」の第3回目も阿部治平さん(元高校・中国外国語学校教師)の論攷から。「テロと焼身自殺が終わらないもう一つの理由」。その「もう一つの理由」は中国共産党の組織内部に伏在する根深い「汚職蓄財」体質。おのれの野心と蓄財のために「中国の高級官僚が対立と緊張をわざわざ製造し、それを利用」する、とはどういうことか。中国・チベットの語学学校の教師として長年月を重ねてきた阿部治平さんの体験と見聞に耳を傾けたいと思います。

ラサのポタラ宮殿 
ラサのポタラ宮殿
 
 
現代中国では、地方政府に対する抗議(暴動)が毎年20万件くらいあるとみられている。これはいまに始まったことではない。
 
清国の最盛期、康熙・雍正・乾隆の時代にも多くの民衆叛乱や盗賊集団があった。もちろん放ってはおかない。だがいくら討伐しても叛乱や盗賊は減ることがなかった。減らないわけを清代史家の増井経夫先生はこう書いている。
 
「討伐軍の諸将が軍費を着服して軍隊を動かさず、官兵は給与の不渡りから略奪を働き、民衆は叛乱軍よりも官兵を恐れ、将軍は叛乱の鎮圧より叛乱の継続の方が自分の仕事が続くものとした。中には反乱軍を避けてその後尾だけを追撃し、(乾隆帝の寵臣)和伸の一族で、河南巡撫の景安などは、尾追(ママ)ばかりで迎撃しないので迎送伯と呼ばれた。そのうえ、降服者を皆殺しにして賊を殲滅したと報告して軍功とした……(『大清帝国』第三章)」
 
ここで重要なのは「将軍は叛乱の鎮圧より叛乱の継続の方が自分の仕事が続くものとした」というところと、「降服者を皆殺しにして賊を殲滅したと報告して軍功とした」というところである。現状は清朝最盛期にびっくりするほど似ているのに、私はテロや焼身自殺のこの側面を書いてこなかった。
 
新疆の特攻的テロが頻繁になる前は、チベット人地域は新疆よりも緊張していた。中央政府は「安定(「穏定」)がすべてを圧倒する」として、チベット自治区の反政府勢力を抑えるためなら、カネに糸目はつけなかった。統計によれば、1965年から2005年までの40年間にチベット自治区への財政投資は累計で968.72億元に達した。1993年から今日まで中央財政はチベット自治区歳入の90%を負担してきた。
 
いうまでもなく今日その「不穏定」の程度は、チベットと新疆が入れ替わっているが、新疆を考えるときの参考までにチベットの様子を語ることにする。
 
中国政府による「チベット支援」の事業がある。内地東部の比較的豊かな省や市がチベット自治区のあれこれの分野や地域を分担して人員・資金の援助をする。こういえば経済的援助が重視されているように見えるかもしれないがそうではない。「蔵独」勢力を抑えることが第一だ。「蔵独」とは、チベット人地域の独立ないしは高度自治を目指す勢力をいう。ついでにいえば「疆独」は新疆のチュルク系民族勢力で、ウイグルが主力である。
 
1959年のダライ・ラマのインド亡命以後、チベットはとんでもない「落後」地域で、暗黒野蛮腐敗の人間地獄の社会だったと宣伝されていた。だから、援助だといっても喜んで行く人はいなかった。そこで当局は「援蔵幹部(チベット支援者)」を優遇することにした。最初のころ、率先して行った人は表彰もの、現地で亡くなったりしたら英雄扱いされた。
 
優遇措置の内容は、「援蔵幹部」の出身の省・市、あるいは職場の条件と財力によって多少のでこぼこがあるが、まず「援蔵幹部」の官僚の位がワンランク上がる。8年から10年で一階級上に行くのがようやくの人でも、チベットで3年我慢すれば手っとりばやく昇進できた。中央官庁のある「援蔵幹部」は、チベットに行く前には「副処長(日本でいえば課長補佐かな)」だったが「処長」になり、さらに任期延長によって「副局長」レベルの幹部になった。
 
賃金は2ランク上がる。任期が終わってもこのレベルに変りはない。電話設置・電話代は公費負担がふつうだ。なかには「援蔵幹部」に30万元を支給した省があるが、これは1980年代から90年代にかけての一般労働者の30年分の賃金に相当した。
 
チベット赴任によって、住宅問題・配偶者の就職・戸籍の農村から都市への異動・子供の進学就職など「中国の特徴のある」各種の問題はたいてい解決できた。
 
「援蔵幹部」の任期はだいたい3年。規定では1年半ごとに5ヶ月以上の休暇がある。これは官僚のレベルによって長くなる。1ヶ月の往復期間が加わる。往復旅費は公費負担。だから2年目は大半を勤務しなくても怒られない。3年目は早々に内地に戻る準備で心はチベットにはない。
 
2013年に至ってもこの優遇措置は変らない。ただ賃金増額は月1000元にとどまっているようだ。あいかわらず大量の建設資金と人材が必要だということになっていて、毎年1000人の大卒者をチベットに送っている。
 
彼らはみな党と政府系統の実権を掌握する。上は自治区の一級官僚で、各庁・局の枢要の地位を占める。その下は各地区と県の責任者で、党書記・副県長などになる(ここで副県長というのは、「自治区」のたてまえから県長職にチベット人をすえるからである)。それより下もいるだろうが私は知らない。
 
彼らは内地にいた時より権限は大きく影響の及ぶ範囲も広くなる。たとえば銀行関係の「援蔵幹部」は、ある内地の金庫製造会社と特約し、チベットの各銀行(支店)の金庫を全部指定の金庫にとりかえさせたという。
 
1980年代半ばまで、胡耀邦という人が中共中央総書記だった。今の習近平の地位である。チベットを視察したとき、彼はチベット人のあまりの貧しさに驚き涙を流した。幹部を集めて「君たちは、中央からの多額の援助をどう使ったのか、ヤルンザンボ川に流したのか」と怒った。中央からのカネは川には流れず、「援蔵幹部」とそのとりまきのポケットに流れ込んだのである。
 
もちろん、いいことばかりではない。第一、チベットでは高地順応ができないと病人になるか死に至る。賃金は高いが、2013年で物価が内地の2倍以上ともいう。ラサでは塩卵1個1元、トイレットペーパーはひとつ6,7元、入浴料は1回60元である。
 
だが、権力欲と物欲を適度に満足させることができた人々にとっては、こんな快適な境遇は内地では得られない。この状況を長期に維持し蓄財するためにはなにが必要か。
 
まず「蔵独」が攻勢に出て、政治情勢が緊張していなければならない。さもなくば予算は回ってこない。これは現地だけではない。中央の民族委員会なんかも同じだろう。ダライ・ラマの国内外への影響力が大きくなればなるほど、チベットの「不穏定」を中央に訴えやすくなる。乾隆帝時代の「将軍は叛乱の鎮圧より叛乱の継続の方が自分の仕事が続くものとした」のと同じである。治安の乱れはカネのなる木であり、これによって「援蔵幹部」の栄華、富貴も永続するのである。
 
もし中共中央がダライ・ラマや亡命政府との関係を改善する方向に動いたら、反「蔵独」で飯を食っている連中は、上は上なり下は下なりに失業を恐れてびくびくしなければならない。だからこの方面の高級幹部は、おおげさに「ダライ分裂勢力」の拡大を訴え、これとの妥協なき戦いを叫ぶのである。現在ただいま少数民族政策が文化大革命時代とあまり違わないのは理由のないことではない。(以上、主に中国政府高官だったチベット人マルクス主義者プンツォク・ワンギェルと、王力雄著『天葬・西蔵的命運』による) 
 
昨日のチベットは今日の新疆である。
 
特攻テロがあればあるほど、カネは新疆に流れる。テロがなければ「降服者を皆殺しにして賊を殲滅したと報告して軍功とした」状況を作るまでだ。
 
ウイグル人がジープや刀や鉄砲で政府機関や市場に突入するなどは、いうまでもなくテロであろう。だが小さな事件でも、まわりにいる無辜の民を大量に逮捕、投獄、あるいは射殺して、これを「疆独」を鎮圧したとすれば、「不穏定」状態が維持されるうえに、めざましい業績をあげたことにもなる。
 
結婚式の準備に集まった人びとを「疆独」とみなして女性を含む十数人を射殺したり、ウイグル人女子中学生ら25人をスカーフを外すことを拒否したとして拘束したのは、意図的につくられた「不穏定」状況のわかりやすい例である。
 
最近の大きな事件では、5月のヤルカンドのテロで37人が死亡、テロ分子59人射殺、数百人を逮捕。8月ホータン事件では暴徒9人を射殺、1人拘束という。報道が厳しく統制されているから真実はわからない。習近平総書記の激励に応えたのか、警察と武警と兵隊がやたらとウイグル人を射殺するのが特徴だ。死人に口なしというが、こうしてことを大きくしているのではないかという疑いは晴れない。

今日中国の高級官僚が対立と緊張をわざわざ製造し、それを利用して上下を問わず汚職蓄財を繰返すのは、決していまに始まったことではない。またその腐敗は少数民族地域だけで行われるものではない。国民党時代にもあった。清朝時代にもあった。いや千年を数える昔からあった。これは専制政治が必然的に生み出したものである。したがって専制政治が終わるまでゆるぎなく続く。
「共産党(中国共産党)ってなんだろう?」の第2回目は阿部治平さんの論攷「チベットはどうやって中国領となったか」の問いから。「左翼はここまで衰弱したのか? ――『いまから県立大学を作る愚かしさ』という論攷と阿部治平さんの悲嘆」の問いにつながる問いということにもなるでしょう。
 
チベットの少女 
チベット人の少女
 
1949年の中国革命から65年を経た今日、中国共産党の政治・経済・
社会政策とりわけ少数民族政策を見ると、あの広野を血に染めた革
命戦争はいったい何のためだったか、いま原点にかえって冷静に見
なおす時期が来たことを感じる。
革命をやったのは本当に労農人民
の利益を代表する集団だったのか、中共はプロレタリアートの利益を
   いまも代表しているのかと。
 
チベットはどうやって中国領となったか
(阿部治平「リベラル21」2014.10.15)
 
早逝したチベット共産党
 
少数民族地域の革命は、少数民族ではなく人民解放軍によってなされた。この内容を少し検討したい。チベット人地域についていえば、青海・四川・甘粛・雲南などの国民党系軍閥に支配された地域は1949年までの内戦に中共が勝利することによって、ラサ政府支配地域は51年の解放軍の進駐によって革命なるものが完成する。ではチベット人の革命運動はなかったかというとそうではない。
 
チベット共産党は1943年第二次大戦中にプンツォク・ワンギェル(プンワン1922~2014)ら十数人によってラサで地下に結成された。彼らはダライ・ラマを至高の存在とする立憲君主制をめざし、カム(チベット高原東南部)では劉文輝、アムド(チベット高原東北部)では馬歩芳という軍閥の排除、ラサ政府地域では土地改革と民衆負担の軽減を求めた。また軍備を強化しなければイギリス・インド軍か国民党にやられるとし、第二次世界大戦に関しては、ラサ政府に中立政策をやめて連合国側に立つよう要求した。なかなか立派なものだが、残念ながらどの要求も無視された。
 
そのうちに彼らはいくら身分を隠しても、政府から危険分子として睨まれるようになった。1949年7月国民党ラサ代表部が出国を迫られると、プンワンらもインドへ追放された(「駆漢事件」)。彼らはインドから雲南北部に入りこみ、国共内戦中の解放軍と接触した。
 
彼らが解放軍将校にチベット共産党の身分を打ち明けて革命への協力を求めると、かえって党の解消と中共への組織替えを要求された。中共が天下を取ったら民主チベット国が生まれる、それは当然中国連邦の構成部分となる、「だからいいじゃないか」ということだった。この解放軍幹部はかなりの理論家だったらしい。
 
プンワンらは、独立した党の地位を簡単に捨てることはできなかった。激しい討論と躊躇ののちに、プンワンの決意でチベット共産党は中共のカムの一組織となったのである。
 
解放軍のカムとラサへの進撃
 
中共は建党以来民族国家を構成員とする中国連邦構想をもち、1947年10月の「解放軍宣言」まではこの政策を維持してきた。ところが49年9月新中国建国宣言の前夜、人民政治協商会議の「共同綱領」で突然連邦構想を放棄し、少数民族の独立から「自治」に転換した。
 
なぜ突如「独立」が否定されたか。1949年初めスターリンがミコヤンを派遣して中共にこれを忠告し、毛沢東が受入れたからだという説がある(胡岩「西蔵問題中的蘇聯因素」『西蔵大学学報』2006年第3期)。以後チベット・東トルキスタン・内モンゴルなどの独立要求は、祖国の分裂をまねく「反革命」となった。
 
建国宣言の直後には西南を担当した第二野戦軍に対し「民族政策は共同綱領にもとづいて貫徹せよ。少数民族の『自決権』に関しては今日ふたたび強調してはならない」という指示を出した。それまで「独立」をチベット人に宣伝していたのは、内戦を有利に展開するためだったというのである。これはペテンを自ら告白するものだ。
 
ところが、チベット人が民族政策の変更を知るのは、この3年後である。独立の夢がついえたことも、「危険分子」と見られているのも知らないで、彼らは解放軍のラサ進撃に協力する一方、おおらかに独立の夢を語り中国連邦への参加を議論していた。このため数年後、独立を企む「地方民族主義者」として弾圧される。哀れというほかない。
 
1951年解放軍18軍はチベット人の援助のもと、チャムドで装備の貧弱なチベット軍を一蹴し、ラサ政府は「17条協定」を結ばざるを得なくなった。ラサに人民解放軍が進駐し、プンワンには「赤い軍隊をチベットに引き入れた赤いチベット人」という悪意をこめたあだ名が付けられた。こうしてチベットは英印軍や国民党軍ではなく、人民解放軍に屈服し「祖国の神聖な不可分の領土の一部」となったのである。
 
アムドの革命
 
解放軍が国民党軍とほとんど同じ蛮行を働いた記録がある。
 
中国西北の革命を担当した第一野戦軍の王震部隊は、1949年9月回族ムスリムの聖地甘粛省臨夏(河州)からラブラン(現甘粛省甘南蔵族自治州夏河県)に進撃しこれを占領した。まもなく地域の実力者ロサン・ツェワンを拘束し蘭州に連行した。彼は軍閥馬歩芳軍と戦った英雄であり、ラブラン大僧院寺主の5世ジャムヤンの兄だったから、ラブランのチベット人は非常なショックを受けた。
 
ここで行政に当ったのは陝西省北部解放区から来た漢人である。彼らはチベット人をぶん殴り、買春、収賄、裁判抜きの銃殺、没収した黄金・アヘン・銃などの私蔵、隠匿、横流しをやり、さらには有夫の婦人を横取りするなどやりたい放題をやってのけた。チベット人はこれに反発して食料供出などを拒否し、解放軍側通訳や工作員を殺す挙に出た(『中共夏河県党史資料』)。
 
1950年2月ラブランの解放軍は臨夏に引き返した。回族叛乱鎮圧のためである。叛乱は参加者1万人近く、死傷した漢回大衆千人余、住居を失って流浪したもの十万余、被害大衆30~40万人という大きなものだった。原因は解放軍にある。王震部隊は進駐するや、臨夏の金持に過大な食料の供出を命じ、国民党系のムスリムが「帰順」しようとするのを拒否して無条件降伏を求め、民衆の銃を強制的に取り上げた。捕虜を肉刑(手足の指を切るなど)に処し、回族の「犯罪者」を多数拘束、殺害した。さらに解放軍が組織した民兵は実に悪事を働いた(『甘粛統戦史要』)。
 
革命をどうみるか
 
少数民族地域に進撃した解放軍について、わが国の権威ある研究者は総じて中共寄りの記述をしている。
 
たとえば神戸大教授の王柯先生(新疆出身の漢人。この夏不幸にも中国でしばらく拘束された人)は、「新政権はチベット仏教の活仏とラマ僧、チベット政権の官僚、イスラームの宗教指導者であるアホン、モンゴルの王公、各地の土司土官や部族首領など旧来の社会上層部に対し、政治上においては適当な地位を与え」、また解放軍に抵抗をつづけた首長を十数回説得して帰順させたとか、果洛や玉樹では首長らに忍耐強い説得工作をしたなどという(『多民族国家中国』岩波新書)。
 
文化功労者で現代中国学の権威毛里和子先生も、「緩やかな社会改革によって、辺境の住民を新政権にひきつけ、民族融和をある程度実現することができた。非漢民族たちは旧社会とは違う『何か』を感じとったにちがいない」という(『周縁からの中国』東大出版会)。私の考えではいずれもほとんど間違いである。
 
王柯先生がいう、解放軍に執拗に抵抗したのは、チェンザ(青海省黄南蔵族自治州尖扎県)の首長ナンチェンである。説得にあたったチベット人「老紅軍(長征参加の中共党員)」タシ・ワンチュクは、ナンチェンをいくら説得してもらちが明かないものだから、最後は砲撃でけりをつけた。ナンチェン砦の中庭には砲弾が破裂した跡がある。果洛や玉樹でも、タシは解放軍の武力を背景に首長らを屈服させたのである。
 
王柯・毛里両先生のいう好ましい状況の記録もあるにはある。
 
たとえばニャロン(四川省甘孜蔵族自治州新龍県)の住民アテンは、初めて見る解放軍の友好的でおだやかな態度に感激し、新政権に加わった。略奪、強姦にはしることがあった国民党の兵隊とは雲泥の差があったからだ。ところが、中共に心酔したアテンも、やがてそのやり方に反発して叛乱に参加し、インドに亡命したのである(『中国と戦ったチベット人』日中出版)。
 
チベット人が「旧社会とは違う何かを感じ」取った時間はごくわずかで、しかも限られた地域であった。1956年に「民主改革(土地改革や寺院の特権剥奪)」と反右派(反地方民族主義)闘争が始まると、チベットの旧社会上層部はもちろん、知識人や活動家も逮捕、長期の投獄、拷問、銃殺という目に遭った。
 
革命見直しの時期
 
1949年の中国革命から65年を経た今日、中国共産党の政治・経済・社会政策とりわけ少数民族政策を見ると、あの広野を血に染めた革命戦争はいったい何のためだったか、いま原点にかえって冷静に見なおす時期が来たことを感じる。
 
革命をやったのは本当に労農人民の利益を代表する集団だったのか、中共はプロレタリアートの利益をいまも代表しているのかと。

以下、安倍内閣・女性閣僚2人の「辞任」とさらに女性閣僚3人の辞任「秒読み」状態についてドイツ紙を含む6本の記事のご紹介です。読み応えのある記事を選びました(つもり)。ご参照ください。
 
安倍「ウイメノミクス」の危機
安倍「ウイメノミクス」の危機。写真AP

安倍政権 よみがえる政治の教訓「失敗は得意の分野から」
(毎日新聞 松田喬和 2014年10月17日)

政治の世界に「失敗は得意の分野から」という言葉がある。「
女性の活躍」を政策の目玉に女性閣僚5人を誕生させた安倍晋三首相もその例外ではない(略)。就任直後から女性閣僚は過去の発言や 在特会との関係を追求され、国会でも問題発言が飛び出すなど批判が相次いでいる。さらに政治資金問題も浮上した。(略)政府内でささやかれる“アキレスけん閣僚ランキング”には「松島みどり法相をはじめ高市早苗総務相、山谷えり子拉致問題担当相・国家公安委員長、有村治子女性活躍担当相らがエントリーされている」。(略)みんなの党の渡辺喜美前代表の実父で、「ミッチー」の愛称で親しまれた渡辺美智雄元副総理は、生前こんな解説をしてくれた。自民党内で派閥政治が全盛だった1970年代の話だ。「金権政治家として名をはせた角さん(田中角栄首相)は、結局、月刊文芸春秋に掲載された『田中角栄研究 ―その金脈と人脈』が契機となり、退陣を余儀なくされた。後を継いだ三木武夫首相は『民主主義の効用』を力説したが、総選挙で自民党は敗退し退陣に追い込まれた。いずれも得意分野で失脚した」。安倍は政権の行方を賭ける「アベノミクス」の成否を握る成長戦略の一つに、女性力の活用を掲げている。だが、今回登用された多くの女性閣僚は、イデオロギー的にも安倍に近く、伝統的な女性像に固執してきた。改造内閣での女性閣僚多用効果は、不祥事で早くも薄らぎつつある。(略)「女性閣僚で救われた安倍さんも、今度は女性閣僚で足をすくわれる」事態に陥りかねなくなっている。

日独伊三国同盟――「ともに血を流す関係」
(水島朝穂「今週の『直言』」2014年10月20日)

日本の政権はいま、首相とその周辺(官邸)や閣僚、党執行部を軸に反知性主義ウルトラ・ナショナリズムに支配され、政治家の口から、かつては考えられなかったような言葉が繰り出されるようになった。例えば、
石破茂前幹事長は、NHKの「日曜討論」(2014年5月18日)で、「アメリカの若者が血を流しているのに、日本の若者が血を流さなくていいのか」と語った。「血を流す」関係とは何か。(略)米国は世界中の紛争に首を突っ込んで、「世界の警察官」然としてたくさんの若者が血を流してきた。これからは日本も、米国とともに血を流して、他国の若者の血も流させて、憎しみやテロの対象になるのか高市早苗総務大臣も危ない。2011年4月に衆議院で議決された「日独交流150周年に当たり日独友好関係の増進に関する決議」(略)には、「両国は、(略)先の大戦においては、1940年に日独伊三国同盟を結び、同盟国となった。その後、各国と戦争状態に入り、多大な迷惑をかけるに至り、両国も多くの犠牲を払った」という記述がある。この決議にかみついたのが、高市早苗議員である。『月刊正論』2011年7月号で、「『戦争権』は、全ての国家に認められた基本権です。・・・日本の自虐史観にドイツまで巻き込んで、現在のドイツ政府を『反省するべき行為をした主体』であるかのように断罪する権利を日本の国会は持つとは思えません」などと、完全にピントがずれた反対意見を展開している。1928年の不戦条約以降、戦争は違法化され、「戦争権」なるものが存在する余地はない。ドイツにまで「自虐史観」なる言葉を押し付け、ナチスや日独伊三国同盟は間違っていなかったといわんばかりの論調である。さらに安倍首相は、訪米中の記者会見(9月25日)で、「日本は再び世界の中心で活躍する国になろうとしている」と語った。(略)ほとんど自己陶酔の表情で、「女性活躍」施策の下りでは、世界の指導者から大きな称賛を浴びたと自画自賛していた。それにしても、「再び世界の中心」という言葉が気になった。(略)「再び」ということは、かつて枢軸国として「世界の中心」にいて武力行使ができた時代の「日本を、取り戻す」ということか

女性閣僚二人の辞任に安倍政権崩壊の予感
(澤藤統一郎の憲法日記 2014年10月20日)

どうやら、潮目が変わってきたようだ。安倍二次内閣の終わりの始まりが見えてきた印象。改造内閣の看板とされた5人の女性閣僚がいずれも看板倒れなのが躓きの石。とりわけ、最も目立つ立場にあった小渕優子の火だるま辞任は政権にとっての大きな痛手。これに続く松島みどりの「団扇辞任」もドミノ劇を予感させるものとして政権を震撼させるに十分なインパクト。本日の「朝日川柳」に、「親分の代わりに子分が参拝し」と並んで、「この際は皆で辞めるか五人組」とある。本日辞任の二人だけでなく、「親分の代わりに参拝した」三人の子分の地位も危うい。辞任ドミノ、大いにあり得ることではないか。本日発売の「週刊ポスト」の広告が各紙を麗々しく飾っている。巻頭特集のメインタイトルが大活字で、「女を食い物にした安倍内閣が 女性閣僚トラブルで万事休す」。サブタイトルの方が内容あってなかなかのもの。「『女性活躍社会』の正体は主婦増税と『ブラックパート』量産だ」「小渕優子、松島みどり、山谷えり子は『秒読み』段階-まじめに働く女性たちの怒り爆発」。保守的傾向強い小学館の辛辣な政権批判である。「週刊現代」も負けてはいない。巻頭特集メインタイトルの仰々しい大活字は、「安倍官邸と大新聞『景気は順調』詐欺の全手口」。サブタイトルは、「全国民必読・日本経済『隠された真実』 ゴマかす、誇張する、知らんぷりする」「『消費税10%』のために、そこまでやるか!」こちら講談社の安倍政権批判の辛辣度も相当なもの。「現代」はこれまで政権を支えてきたアベノミクスを「詐欺」呼ばわりし、「ポスト」は安倍内閣の「女性が輝く社会」(ウィメノミクス)というこれからの目玉政策と看板人事の「正体を暴く」としたのだ。政権の核心への攻撃となっている。あたかも両誌が示し合わせて分担したごとくにである。(略)アベノミクスの馬脚が表れてきた。いつまでたっても庶民の生活実感がよくならない。それでいて、特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認、ガイドライン、オスプレイ導入、辺野古基地建設強行、武器輸出、原発再稼働、原発プラント輸出、労働法制と福祉の大改悪。そして庶民大増税とその財源捻出のための大企業優遇税制である。庶民の生活苦に配慮しようとしないこんな政権が、いつまでも持つはずはないのだ。

小渕優子氏、松島みどり氏の辞任 高市、山谷、有村各氏も是非、辞任しましょう。(弁護士猪野亨のブログ 2014/10/21) 

カネにまみれた小渕優子氏と、「雑音」やうちわで物議を醸した松島みどり氏が閣僚を辞任しました。もともと、この女性たちは、安倍政権の女性が活躍できる社会というキャッチフレーズに合わせての女性大臣の登用と言われていました。高市、山谷、松島、有村各氏は、女性だからというだけでなく、安倍氏の極右友達でもあります。どちらが先かよくわかりませんが、極右友達が女性でもあったことも、「女性登用」につながっていったのでしょう。その中で、小渕氏は、他の4氏に比べられば、まだましのように見えましたが、カネにまみれていては論外です。この報告書の問題をどこまでご本人が知っていたかはわかりません。父親の地盤を引き継いだとはいえ、後援会関係者に対し、父親である小渕恵三氏のような態度は取れないでしょう。父親の時代は、それで通用していたということでもありますし。年輩者が後援会を牛耳り(というよりその年輩者たちが作ったともいえますが)、小渕優子氏を担ぎ上げ、我が物顔で好き勝手をしている様が目に浮かびます。(略)小渕優子氏の辞任は当然といえば当然ですが、他の4氏の存在をみるにつけ、極めて残念です。高市、山谷、有村の極右三氏は、またもや靖国参拝などという暴挙を行っています。少なくとも閣僚であれば自粛して当然なのに、それができないレベルの大臣ですから、世界の恥さらしです。もっとも、そういう人たちということがわかっていながら大臣に任命したのは安倍総理その人です。安倍氏は、自分では靖国参拝ができないということを重々承知しているからこその人事だったのですから、女性大臣というよりも、安倍氏の右腕そのものです。小渕優子氏の辞任で、余計目立つ極右女性大臣たち。世界に恥をさらす前に辞任しましょう

なぜ週刊誌しか書かなかったのか―女性初の総理候補のお粗末―
(リベラル21 半澤健市 2014.10.21) 


小渕優子経産大臣と松島みどり法務大臣が辞任した。小渕に限定して発言する。彼女の場合、発端は『週刊新潮』の報道 だった。なぜ週刊誌なのか。これが核心である。9月3日の就任以来、いや就任以前にも、このことを誰も知らなかったのか。さらに、2008年に、彼女が、日本語の不自由な麻生太郎内閣に入閣したときに、この問題はなかったのか。さらには、2000年に初当選以来、14年間にわたり、誰もそういうことをチェックしなかったのか。本当にそうだったのか。野党だけが追及して与党が黙っているのは何故なのか。これは与野党を立場を超えた民主主義の問題である。『週刊新潮』以外の、何百人何千人の政治部記者はどこにに目がついているのか。別のことでは、メディアは「虚偽報道」を垂れ流している。「虚偽」とは、たとえば、「あったことをなかった」(11年3月の福島第一原発のメルトダウンを認めたのは5月だった)と言い、「なかったことをあった」と言う(安部は福島原発はアンダーコントロールだと言っているとそのまま書く)ことである。そういう政府のつくウソを、検証しないので垂れ流すのである。戦中の「大本営発表ジャーナリズム」そのままである。一方では、『朝日新聞』叩きを徹底的に行ないながら、国際社会の常識となった「性奴隷」問題を「なかった」ことにしようとしている。1930年代の国際連盟脱退以前の外交感覚に共通している。これは「集団ヒステリージャーナリズム」である。メディアを批判するのが本意ではない。こんな内閣を選んだ我々の、「愚かな選択」が根っこにあると言いたいのである。「大本営発表ジャーナリズム」という知的退廃が契機になって有権者が自らの愚かさに気がつく。安倍政権の急速な崩壊が始まる。二人の女性大臣辞任をみた私の希望的直感である。

ドイツ紙「小渕・松島女性閣僚辞任は安倍内閣の“Womenomics/ウイメノミク”の危機」と大きく報道(明日うらしま 梶村太一郎 2014年10月21日)

10月20日の安倍内閣の女性閣僚ふたりの同日辞任に関しては、海外でもかなり大きく報道されています。そのひとつ、ドイツのフランクフルターアルゲマイネ紙で、おなじみゲルミス東京特派員が「安倍の"ウイメノミクス"の危機」とくわしく報道しました。(略)「ウイメノミク」とは安倍首相が国連で「輝く女性政策」を「アベノミクス」に引っ掛けて述べた宣伝造語ですが、それを引用しての強烈な皮肉です。アベノミクスの失敗がほぼ確実になっている今、ウイノメミクスは早々に破綻を始めました。(略)以下抜粋の翻訳:特に小渕の辞任は安倍には打撃である。このかつての首相の娘は、この国の原発政策への回帰と、不愉快な経済の構造改革を宣伝しなければならなかったのだ。東京においては、この女性政治家は非常に大きな政治タレントとされており、彼女が影響力の大きな経済産業省のトップに任命された後には、日本のメディアでは将来の初の女性首相候補とされていた。その代わりに彼女はここで安倍に最初の大きな信用危機を贈呈したことになる。(略)日本は、女性が「輝く」国にならねばならぬと彼は述べた。それを示すため彼は、ひと月前に彼の内閣の女性閣僚をふたりから五人へと増やした。小渕はこの「ウイメノミク」のシンボルであった。(略)これに加えてさらにふたりの女性大臣が批判に晒されている。高市早苗内務相山谷えりこ国家公安委員長は、最近、彼女らがネオナチグループの指導者と写真に納まっていることが報道されたのである。このふたりの女性政治家は自由民主党の右派ナショナリストに属し、東京にある戦争犯罪人が祭られている問題の靖国神社を定期的に参拝している。にもかかわらず安倍はこのふたりを閣僚に抱えたままなのである。
想田和弘Twitter(2014年10月21日)

本音なんだろうけど、信じがたい 言。共産主義ってなんだっけ?→香港行政長官「選挙を民主化すれば貧困層に決定権」「住民が代表者を選ぶようになれば、香港の住民の半分を占める月収1800ドル以下の所得層が決めることになる」
http://on.wsj.com/1rZO7UX

引用者注
これで社会主義の国、共産主義をめざす国、などとよく言えるものだ。マルクス的に言えば、彼ら(共産党中央政府の幹部の面々。ここで言う「彼ら」の意はもちろん「彼女たち」をも含む)は「国際共産主義運動の破壊者」、「反革命の人」ということになるだろう。なお、香港問題の最終決定権を握っているのは北京の共産党中央政府。「首長である行政長官は職域組織や業界団体の代表による間接・制限選挙で選出されることになっており、その任命は中華人民共和国国務院が行う」(wikipedia『香港』)。

報道
香港行政長官「選挙を民主化すれば貧困層に決定権」(ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 2014 年10月21日)

【香港】香港の梁振英行政長官は20日外国メディアとの会見で、行政長官の選挙制度改革をめぐり、抗議行動を続ける民主派学生らの要求に応じ、住民が立候補者を指名できるようになれば、貧困層や労働者が選挙を左右することになるとの認識を示し、要求に応じることはできないとの立場を繰り返した。中国政府は、行政長官選に当たっては各界代表からなる「指名委員会」が立候補者を選定することを決めている。

梁長官は、住民が立候補者を指名するならば、平均月収1800米ドル(約19万2600円)以下の住民が選挙プロセスを支配する恐れがあると警告した。同長官は「住民が代表者を選ぶようになれば、香港の住民の半分を占める月収1800ドル以下の所得層が決めることになる」と述べた。香港は、所得格差が世界で最も大きい地域のうちの1つで、また不動産価格も世界最高クラスで、若者の間では不満が高まっている。

梁長官はまた、指名のプロセスがどのようなものでも中国政府は選挙の勝者を行政長官に任命するかどうかの権限を握っていると指摘し、「中国政府が勝者を受け入れられないとして、選挙をやり直すよう命じれば、香港基本法上の危機が生じる」と訴えた。

21日には香港政府と民主派学生団体の大学生連合会(学連)が、行政長官の選挙制度改革をめぐって初の対話を行う。梁長官は同対話への期待の高まりを抑えようと、政府は対話で直接指名が不可能との立場を繰り返すことを明らかにした。その一方で、「指名委を学生らに受け入れられるようにすることで妥協は可能だ」とし、指名委員会のメンバーをもっと幅広い層から選ぶ案で双方の一致点を見つけることができるとの考えを示した。現在は、指名委は親中国派や親ビジネス派で占められている。

梁長官は、中国政府はこれまでのところ香港政府が独自にデモに対応するのを認めているが、デモ隊が政府と衝突を続ければ、中国政府の姿勢は変わる可能性があると警告した。また、香港の経済格差や住宅価格の高騰に対する学生らの不満は理解しているとし、こうした問題に対処する政策を講じ続けると表明した。同長官は「住宅の不足問題は、若い夫婦が別々に暮らさざるを得ないほど悪化しており、これは容認できない」と語った。
内藤正典Twitter(2014年10月19日)から。

ムスリムのスカーフ
 
ヨーロッパのムスリム移民社会を見てきた。90年代前半までは、第一世代の親が、娘に教育は要らないというようなことを言っていた。娘たちはそれに従うケースもあったが、徐々に、自分からイスラームを学んで、きっちりスカーフやヴェイルも被って、親に正しいイスラームを教えるようになった。そうすると、フランスのように、フランスで生まれ育ったのに、なんでこいつらフランス共和国の価値を理解しないんだ、と彼女たちを非難する声が高まった。ドイツやオランダでも状況は似ていた。女性たちだけでなく、男性の若者たちも、自分からイスラームを学んで、それを生きる主軸にする人が増えた。そのため、後になるほど、ムスリムとして再覚醒して生きる若者が増えた。男性も基本的には同じことで、パターナリズムにどっぷりつかっている親たちの世代への反発は、ヨーロッパ社会に同化することではなく、イスラームに接近する方向に導かれていた。だが、ヨーロッパ社会はそれを認めたくなかった。ヨーロッパ社会は「啓蒙の価値」を受容しないムスリムの若者にひどく苛立ったのである。3月8日は世界女性の日だが、その時期になると、イスラーム社会の女性抑圧があちこちのフォーラムで取り上げられる。ムスリム女性のなかにも、告発側にまわる人は多かったが、彼女たちはパターナリズムによる抑圧を、総じてイスラームのせいにしていた。だが、親たちの世代は、金を稼ぐのに忙しく、イスラームの知識はほとんどなかった。そのうち、ムスリムとして再覚醒した若い女性たちが出てくると、彼女たちはヨーロッパ社会のダブルスタンダードを厳しく批判し始めた
 
オランダのケースだが、アムステルダムには今でも売春街があり公認されている。スカーフ問題でイスラームを批判する人びとに対して、ムスリムの女性たちは「女性の性を商品化することを厭わないあなたたちに言われる筋合いはない」と強く反発した。このあたりから急速に移民の若者たちは変わり始めた。それをヨーロッパ諸国の側は「過激化」したと言い、ムスリム移民側はようやく生きる指針を得たと考えているのである。これはドイツのケース。アフガニスタン出身のフェレシュタ・ルディンさんという教員が、1998年にスカーフ着用を理由に教員採用を拒否された。彼女は行政訴訟を起こすが敗訴。その後、連邦憲法裁判所に提訴したところ、2003年に勝訴。長い話だから端折るけど、問題はその後。憲法裁判所は彼女個人に対してはスカーフ着用によって教員任用を拒否されたのは裁量権の乱用と認めたが、教員がスカーフ(わざわざイスラームの宗教的シンボルという誤った解釈をしているが)着用できるかどうかは、各州の議会が立法できるという補足をつけた。その結果、多くの州が、スカーフ着用の教員任用を禁止する法令を定めた。ドイツの場合、こういう法律は各州で立法できる。結果として、ムスリムの若者の女性たちのなかでもっとも希望の多かった教員への採用が難しくなってしまった。ここから派生するように、接客業でも禁止するなどの動きが出てきた。ムスリム移民を疎外するとは、こういうことの積み重ねである
 
附記:「内藤正典Twitter」リツイートから。
「ヨーロッパのムスリム移民社会を見てきた。」(略。上記参照)のツイートから、「ムスリム移民を疎外するとは、こういうことの積み重ねである。」(同左)までのツイートを読んで、あらためて次のように思う。

内藤先生がイスラーム社会(中東・欧州)の、一般人にはよく知りえない事実をベースに、そこから価値判断へと進んでいるように見えるのに対し、先生の価値判断を否定する類の人の多数は、自己の既にもつ価値を起点にして、そこから一般人もよく知る程度の事実を意味づけているような違いが感じられる。

追記:トルコがイスラーム国に強く敵対しない理由 ――(「内藤正典Twitter」2014年10月20日)から。
 
トルコ、安保理理事国落選。イスラーム国に強く敵対しないので、アラブの産油国やエジプトに嫌われた。「なんだ、トルコはテロ組織の側につくのか!」と言う前に。

1.トルコはすでに100万を越すシリア難民を受け入れ、保護している。KYMIHHなどイスラーム系のトルコNGOの活動は目覚ましい。前者は東日本大震災で最も長期に活動した外国NGO。だがもう限界。9月末には数日で13万が殺到。

2.世論調査によると、トルコはアメリカ主導の有志連合に参加してイスラーム国を攻撃すべき、はクルド政党支持者で80%だが、他の政党支持者では低い。攻撃に参加すると、トルコ民族主義者は怒り、参加しないとクルド民族主義者が怒る。板挟みだがトルコ系が人口の多数だから、米軍に同調しない。

3.トルコ国内でもイスラーム国にシンパシーを感じない人は97%程度。だが1%ほどシンパシーを感じる人がいる。かなりいる。

4.にもかかわらずイスラーム国は脅威か?に対してはYESが5割程度と低い。

5.政府はシリア国内に緩衝地帯を設置して難民を保護し国連等が共同で守ることを主張。しかしシリア政府はこれを侵略とみなすと警告。ロシアは安保理で拒否する。アメリカも難民保護よりイスラーム国掃討を優先しこの提案を棚ざらし。

6.アメリカもEUもトルコに火中の栗を拾わせようとしているが、いまだに汚れ仕事はトルコに押し付けようとする姿勢にトルコ政府は反発。

その結果、トルコはアメリカとの集団的自衛権行使を認めない。散々誤爆などで民間人を犠牲にしてきたアメリカ主導の戦争に集団的自衛権を行使して参加するのは、まるで十字軍に参加するような感覚。これはふつうのムスリム市民に共通している。
以下、阿部治平さん(元高校・中国外国語学校教師)の日本の左翼への悲嘆の言葉です。下記論攷の主題はいうまでもなく「いまから県立大学を作る愚かしさ」についてですが、その論攷の正鵠にももちろん共感するものですが、私は阿部さんの文章の最終段落の言葉にとりわけ強く共感します。私の左翼観察と、結果としての私の「思い」に強く重なる指摘だからです。阿部さんの最終段落の言葉を引くためにこのエントリを起こしているといってよいかもしれません。
 
現知事の野党、共産党長野県委員会にも問い合わせたら、ここも「賛成だ、住民の要望が強いから」という返事だった。たしか県立短大の同窓会が4年制への昇格を要望したという話はあった。しかし住民の声は天の声かもしれないが、天の声にも変な声がある。それに共産党の人は私学松本大学を公立だと思い込んで党の政策を説明していた。これには驚いた。左翼はここまで衰弱したのか
 
いまから県立大学を作る愚かしさ(阿部治平「リベラル21」2014.10.18)
 
2018年に県立大学(4年制)を開学
 わが長野県が新設する4年制大学は2018年4月に開校する。従来から県立短大(国文・英文・小学校教育)の4年制への昇格要求があり、これにこたえたのである。
 
短大の4年制移行は、30年前なら何とかなったかもしれない。20年前ではすでに遅かった。いまからでは愚行である。ではどうすればよいのか。県立短大の募集を停止し廃校を決断すべきである。こうすれば長野県当局は後世その英断を称賛されるだろう。
 
だが、もう理事長や学長も決まり、施設設備の設計者も選ばれた。最近カリキュラムなどの具体化を進める有識者の設立委員会が発足した。学生の要求の多様化、社会のニーズの高度化、専門化に対応するとして原案が変更され、学部構成が2学部になった。
 
募集枠は全体で240人。総合マネジメント学部160人、ここにはグローバルビジネスコースと公共経営コースがある。前者は何を期待しているのかわからないが、後者は地方官僚を養成するつもりらしい。健康発達学部はこども学科40人、健康文化学科40人である。前者は幼児教育・小学校教師の養成課程か。後者は管理栄養士の養成課程だから、これとカリキュラムが競合する私立松本大学からクレームがついたが押しきるようだ。
 
阿部守一知事によれば、「グローバルな視野を持ってイノベーションを創出し、地域のリーダーとなる人材を育成する」という。(カタカナ語の多用には辟易するが)こんな手品もどきのことが新設大学でできるだろうか――できない。
 
長野県の高校生の県外進学は日本一である。大学進学者の8割が東京圏と愛知・京都そのほかの隣県に進学する。県内の大学にとどまるのは1500人程度で、東京の大学への進学は2400人という状況である。
 
県立大学の新設が県内進学者の割合を増やすのを目的の一つとしているならば(県当局の文書からはそう読みとれるが)、240人の定員枠では少なすぎるし、その目的自体あまり意味のないことである。
 
定員確保の困難
全国18歳人口は120万人程度で推移してきたが、県立大学開校予定の2018 年度から6年間で105万人程度まで一気に減少する。いわゆる2018年問題である。入学者数750名の大学が100校消え去る計算である。県内の年少人口(14歳以下)は282万、年々5000人が減少してきたことを考えると、大学進学者は減少する一方である。
 
長野県には国公立としては信州大学・看護大学のほか短大がある。私学は4年制が6校、短大が8校である。国公立はともかく私学は定員を充足していない。上田市にある私立長野大学は公立移管を望んで「長野大学の公立大学法人化に関する要望書」を上田市に提出したという。
 
全国を見渡して、比較的短い歴史しかない大学の多くは有名な学者や知識人を学長にして広告塔としたり、担当者が地元の高校を回ったり、特別の奨学金制度を設けたり、学生募集に外国にまで足を延ばすなどの、地を這うような努力をつづけている。この経費は各校おそらく億単位であろう。
 
有名私立大学も定員確保の努力は軒並みやっている。彼らはその有利さを生かして、付属校やグループ校を増やして中学・高校段階から囲い込んでいる。
 
そこで新設大学はよほど授業料が安いとか、教授陣がとびぬけて優秀だとか、なにか高校生にとって魅力的なものがなければならない。
 
県当局が公開した文書からは、入学者募集の厳しい現実を踏まえた真剣な対策は読みとれない。予定されている理事長も学長もあまり知られた名前ではない。
 
低学力対策が不可欠であること
全国的に学生を集められる大学と、そうでない大学の学力格差は広がる一方である。私の知るかぎり、地方大学ではすでに1980年代末に卒論をろくに書けない学生があらわれた。20数年前から学生の質と学習意欲の低下が目立ってきた。これをいまさら嘆いても仕方がない。大学教育はそのような大衆化段階に入って久しいのだから。
 
新設大学でなくても、今後は希望者全入の事態も生まれるだろう。こうなると、かりに定員を充足できたとしても、管理栄養士の試験にどうやっても合格できないような学生が在学することになる。近年法科大学院をかなりの大学が新設したが、いまや司法試験の合格率の低迷によって再検討が迫られている。それと同じことである。
 
いま高校卒業生の知識・思考力と大学の講義内容を結ぶ学力をどう養うかは大問題である。とくに実業系では、入学者の高校での教科・科目の履修と内容の理解・修得が不確実だ。これを踏まえて大部分の大学が推薦入学の学生には「入学前教育」を施している。ときにその学力は甚だしく低く、文章に句読点をうつこともできず、分数の四則がわからない者もいる。
 
ところが教員側には「入学前」の教育に関与する義務はないし、それ以上にその用意がない。だからといってやらないわけにはいかない。そこでほとんどの大学で事務職員が中心になって運営している。県当局にはこの覚悟と体制があるのかしらん。
 
しろうとには難しい大学運営
さらに現在の大学運営には、学生募集、教育研究体制の調節、進路指導、財政運営などを含めて、専門性が強く求められるようになっている。県立大学の事務職員は県庁から送り込むことになるだろうが、しろうとが出たり入ったりしてまかなえるような代物ではない。企画運営には必ず専門的知識と手腕のある集団が当らなければならない。これを確保するのもまた難問である。
 
さらに財政上の問題がある。今年2月になってからようやく県当局は県立大学の設備施設にかかるカネが97億円、年間運営費は15億から18億円だと明らかにした。長野県の財政は苦しい。昨年末時点で県債の累積(借金)は1兆7430億円である。将来にわたって240人を養成するために毎年15億から18億円のカネをかけ続けることができるか。これは県民に賛否を問うべき問題だがそのような機会はいまだ設けられていない。
 
おわりに
先の知事選では現職阿部守一氏は新人で信州大学名誉教授野口しゅんぽう氏に圧勝した。そのおり私は県立大学問題が争点になっていないのを不思議に思ったが、聞けば野口先生も県立短大の4年制大学移行に賛成だという。
 
これを長野県高等学校教職員組合に訊ねた。立場上、賛成反対はいいにくい、ただ高校生が県内の大学に進学して親の経済的負担が減るとすれば、それはそれでいいことだという返事だった。問題はそこにはないように思うが、言葉からすればこれを深く検討したとは思えなかった。たとえば学生の生活費だ。長野市に新設されるなら、1年生は全寮制で、それ以後長野県中部・南部の学生は下宿か寮生活になる。東京で生活するよりは安いとしてもそう大きな節約にはならない。
 
現知事の野党、共産党長野県委員会にも問い合わせたら、ここも「賛成だ、住民の要望が強いから」という返事だった。たしか県立短大の同窓会が4年制への昇格を要望したという話はあった。しかし住民の声は天の声かもしれないが、天の声にも変な声がある。それに共産党の人は私学松本大学を公立だと思い込んで党の政策を説明していた。これには驚いた。左翼はここまで衰弱したのか。
今後のこともあるからあえて希望するが、教育関係機関と各政治団体は、長野県の教育をもっとまじめに考え、各分野の問題点を十分に検討してほしい。このまま県立大学が設立されるなら、次世代にとってとんでもなく重い荷物になることは目に見えている。
内藤正典さん(同志社大学教授)が本日付けの毎日新聞のインタビュー記事を読んで、瞬時にそのインタビューの発言の主を「曲学阿世と言わざるを得ない」とツイッターで論断しています。インタビュー発言の主は東京外語大教授の青山弘之氏(毎日新聞 2014年10月18日)。私は内藤さんの真率の論を支持します。その真率の論にたとえば若き日に国木田独歩の掌編小説『春の鳥』を読んだときのように私は打たれました。
 
内藤正典Twitter(2014年10月18日)から。
 
ムスリムがなぜ暴力に訴えるのか理解不能だというのはよく分かります。そもそもなぜ怒るのも分からないかもしれません。隣国との関係さえ、なぜここまでこじれたかを、一方の責任に帰そうとする今の日本に状況では、耳に心地よい言葉しか響かないからです。しかし、それでは孤立が進むだけです。自由シリア軍アサド政権から離反した「腐敗層」 当たっているけど、アサド政権が国民をあれだけ殺してきたことも正当化する見解には到底同意できない。元々、一切の抵抗を許さない独裁政権を支持するとは→
http://sp.mainichi.jp/shimen/news/20141018ddm007030173000c.html
曲学阿世のグローバル化…何が正しく、何は間違っているかの判断を避けて研究することを否定はしない。だが、人の命がこれだけ理不尽に奪われてもなお、奪い続ける政権の「テロとの戦い」だからという主張をなぞるのならば、曲学阿世と言わざるを得ない。アサド政権、自由シリア軍、ヌスライスラーム国、いずれにせよやみくもに市民を殺戮しあうことを断じて許すことはできない。この期に及んで政権の正統性に執着するのは無意味。30年前に父アサドの政権が何万人もの市民を虐殺したことの上に今日の内戦があることを忘れてよい
はずもない。

なお、内藤正典さんが「曲学阿世」の論という青山弘之東京外国語大教授のインタビュー記事は以下のとおり(強調は引用者)。
 
 
米国と中東5カ国はイスラム教スンニ派の過激派組織「イスラム国」壊滅のため、先月からシリアで空爆を続けている。紛争が続くシリアの現状はどうなっているのか。シリア政治に詳しい青山弘之・東京外国語大教授に聞いた。【三木幸治】
 
――米軍の空爆の成果は。
 
◆イスラム国の侵攻は止まっておらず、成果は出ていない。イスラム国はトルコ国境に近いアインアルアラブ(クルド名コバニ)に攻め込む一方、シリアからイラクの首都バグダッドに抜けるルートにあるラマディでも攻勢に出ている。一方、イスラム国以外で空爆の対象となっている反体制派の国際テロ組織アルカイダ系のヌスラ戦線は、シリア北部から撤退するなど勢力を弱めている。
 
――アサド政権の現状は。
 
◆イスラム国が北部、東部を抑えているのに対し、アサド政権は首都ダマスカスや西部の主要都市を統治しており、2大勢力がシリアを支配している。アサド政府軍は15万人と言われ、戦線に出ているのは予備役も多い。4万?5万人といわれる精鋭の防衛隊は温存されている。戦闘員約3万人で空軍を持たないイスラム国に比べ圧倒的に優勢だ。内戦当初、軍幹部が離反したが、腐敗層で、部隊ごと離反する動きは出ておらず影響はない。
 
――シリア国民の状況は。
 
◆経済制裁下の緊縮財政で厳しい生活を強いられている。内戦にうんざりしていて、8月に国内外の避難民キャンプなどで行われた調査では、アサド政権を拒否しているのは3分の1。残り3分の1が「アサド政権を認めるべきだ」としており、もう3分の1が「国際社会が仲介する形でアサド政権を認めるべきだ」という答えだった。
 
――米国はアサド政権に事前通告をして空爆を実施した。両国の関係は。
 
米国は事実上、アサド政権をイスラム国をたたくパートナーとして認めたと言っていい。アサド政府軍はダマスカス周辺でヌスラ戦線などの拠点を次々と落としており、空爆で利益を一番得ている。米国は空爆と穏健な反体制派の地上部隊を連動させイスラム国を壊滅するとしているが、反体制派の力は弱く不可能だ。地上部隊の役割はアサド政府軍が担うしかない事実上共闘になるだろう。
 
――今後の情勢は。
 
◆イスラム国がトルコに攻め入るかどうかがポイントだ。侵攻すれば、NATO(北大西洋条約機構)は加盟国のトルコを守るため、集団的自衛権を発動し、地上軍の派遣などを検討するだろう。侵攻しない場合は、アサド政府軍がイスラム国への攻勢を強めるだろうが、支配地域奪還には時間がかかる。シリア、イラク安定のためには、両政府を再建し、統治を強化する必要がある。だがアサド政権が強化され、イラクのシーア派政権が安定すれば、両国とも親ロシア、親イラン色の強い国となる。親米のイスラエルには脅威で、欧米は両国が不安定な状態であってほしいのではないか。
「脱原発」運動、あるいは放射能、低線量被ばくの問題に関して、低い次元からの思いこみの投稿、非科学的な投稿が後を絶ちません。後は絶ちませんが、私としては理論的な問題としては反論済みの投稿の繰り返しの類いばかりで、これ以上論理の通用しない人を相手に無駄な労力は費やしたくないという思いが強く、最近は不快な思いにはじっと耐ることにして放置してきました。しかし、放置にも限度があります。放置していると、自分たちの投稿が認知されているかのようにに思いなして、低次元、非科学的な投稿(といっても、転載ものがほとんどです)を繰り返し、繰り返し続けます。ときには反論しておく必要があるだろう、と思い直して書いたのが以下の2本の反論記事です。
 
1本目の記事は下記記事で紹介されている医師の所見とは真逆の立場に立つと思われる福島のある医師の論を紹介したもの。もちろん、間接的な反論の意をこめているものです。
 
【報告】福島市で、講演会{甲状腺がん103人をどう見るか、低線量被ばくから健康を守る」が開催されました。(CML 2014年10月17日)
 
2本目の記事は下記記事の直接の反論記事として書きました。
 
離れているのに(茨城千葉)直下だった―福島原発放射能と食の安全/常総生協専務理事柿崎さんの話10/19京都(CML 2014年10月17日) 

1本目の記事。
 
もうひとりの福島の医師の報告。坪倉正治医師(東大医科研医師(血液内科)、南相馬市立総合病院非常勤医)の「『悲劇』を求める取材」。
 
この坪倉医師の話も「公表されているもっとも新しい福島県民健康管理調査のデーターを踏まえた」上での話であろう、と私は思います。
 
「悲劇」を求める取材(坪倉正治 朝日新聞・アピタル 2014年10月7日)
 
いまの浜通りの状況について、海外へ発信することが非常に難しいと感じています。インターネットの特徴なのでしょうけれど、知りたいと思っている人以外にはなかなか届きません。テレビなどのメディアも、悲しい話やけしからん話など、人間の喜怒哀楽に訴えかけるような内容とリンクする場合には強みがあるのでしょう。それに対して、淡々と事実を伝えるのは苦手(というよりむしろ喜怒哀楽に伴うものにかき消えてしまう。)なことを感じます。もちろん受け手の協力も必要です。
 
私の勝手な感覚ではありますが、日本でも海外でも、いわゆる専門の先生や医療関係者の間では、住民の方の被曝量などについての話が出ることはほとんどなくなってきたと感じます。学会でこうしたテーマが占める割合も減っています。住民と接している先生についてはそのようなことはありませんが、そうでない先生からは「被曝の検査なんて、まだやってたの?過剰でしょ。人件費と資源の無駄でしょ」といった声さえ聞かれます。確かに、国連やWHOからも線量評価に関する報告書が出ていますし、測定結果もごまんとあります。ただチェックは続けるべきだと思っています。こちらとしてはあまり気にせず、淡々とやっていくだけだと考えています。
 
そんな一方、海外の方、そしてその知識を映す鏡であるメディアの方からの質問は、なかなか厳しいものが多いです。
 
とある韓国のテレビスタッフが相馬の病院にやってきて、インタビューをしたいと言ってこられました。植物の写った写真を10枚ほど渡されました。何かと思いきや、「植物が放射線で奇形だらけだと聞いている。人間に関してもそうなんでしょ?」と言い始めました。福島県ではそんな状況には全くないことを伝えますが、明らかに不満そうでした。取材する相手を間違えたという感じ。
 
オーストリアのテレビは外来の風景を撮影していきました。質問は「南相馬にどうして人が住んでいるんですか?」といった類いの内容でした。事故が起きたのは事実として、いまのこの場所での被曝量がどの程度か、ゆっくりと説明しますが、蔑(さげす)むようにニヤッと笑って終わりました。その表情は忘れません。
 
ドイツのテレビ局はBabyscanの取材に来ました。この器械が出来た経緯や、小さい子どもからはセシウムがまったく検出されていないことを説明しました。しかし、彼らは「悲劇」を求めているようでした。使いたいコメントを撮りたいのでしょう。繰り返し同じ質問を5回も10回もしてきましたが、相手が求めるコメントをしようもありません。結果、彼らが必要とする悲劇には満たなかったようでした。
 
こうしたことは、取材を受けたことのある多くの方が経験されていることと思います。まあ確かに、海外のどこかの国で、「こんな問題があったけれども、だいぶ落ち着いてきました」という報道が日本であったとしても、ほとんどの人にとっては記憶に残らないだろうなとも思います。
 
もちろん、そんな方々ばかりではありません。ちゃんと話を聞いてくださる方がいらっしゃることも確かですし、その様なメディアの方に我々は何度も何度も助けていただきました。
 
そんな状況の中、やはり可能であれば、地元の方々一人一人が現状をご自分で説明できるようになって欲しいと思っています。学校での知識などがその要です。そして多くの専門の先生方にもいま一度、周囲への発信をぜひ続けて欲しいと願っています。
 
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坪倉正治 (つぼくら・まさはる)
 
東京大医科研医師(血液内科)、南相馬市立総合病院非常勤医。週の半分は福島で医療支援に従事。原発事故による内部被曝を心配する被災者の相談にも応じている。
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2本目の記事。
 
「 離れているのに(茨城千葉)直下だった」という意味不明の標題はどういう意味でしょう?
 
本文を読んでも「福島第一原発から200キロも離れている茨城県南部と千葉県北部を対象とする常総生協の食の安全を確保する為の悪戦苦闘の毎日」が「 離れているのに直下」とどのように結びつくのかまったく意味不明です。
 
また、「関連して 週刊朝日記事『セシウム検査で判明した子どもの体内被曝の深刻度』」という記事のご紹介ですが、なにがどのように「関連して」いるというのか? これも意味不明。
 
かつ、記事を読むと、「週刊朝日」に掲載された記事だということはわかりますが、「セシウム検査で判明した子どもの体内被曝の深刻度」の記事中の「関東15市町で実施されている最新検査で、子どもたちの尿の7割からセシウムが検出されていたことがわかった」というデータは、医療機関や大学機関や公的機関のデータでもなんでもない。単に一民間組織(企業)の「常総生活協同組合」という組織のデータでしかない。つまり、客観性も公共性もなんら担保されていない信頼度のきわめて低い、個人、または組織の恣意性の入りこむ余地のきわめて多いデータでしかないということです。公的機関に限らず、少なくとも学術機関と名のつくようなところがこのようなデータを採用することはありえないでしょう。そうしたまったく客観性の保障されないデータを根拠に「子どもたちの尿の7割からセシウムが検出されていた」などといわれても常識ある市民としてはただちにそのまま信用することはできません。上記1本目の記事で坪倉正治医師(東大医科研医師(血液内科)、南相馬市立総合病院非常勤医)がこれは福島県内の例を言っているのでしょうが「小さい子どもからはセシウムがまったく検出されていない」と述べていることとも矛盾します。
 
「関連して、下記もよろしければお読みください」以下を読むと、実体は、放射能問題に敏感(過敏)なある層の人びとをターゲットにした「食はいのちをテーマに、茨城・千葉に安心・安全な食品をお届けする生協(常総生活協同組合)」の宣伝でしかないのではないか。だから、必要以上に放射能の危険も煽る。それが自らの団体が主催して「最新検査」した「子どもたちの尿の7割からセシウムが検出されていた」という結果です。そのようにしか読みとれません。
 
根拠のない放射能「被害」なるものの拡散は「福島差別」を助長することだけにしか役立ちません。「脱原発」運動にとっては有害無益というほかありません。
 
なお、上記の「セシウム検査で判明した子どもの体内被曝の深刻度」の記事中に権威づけとして「内部被曝に詳しい琉球大学名誉教授の矢ケ崎克馬氏が解説」が援用されていますが、「福島原発事故以来、反原発運動の中の非科学的主張の横行には呆れるばかりで、それは今もずっと続いている...というか、むしろ酷くなるばかり…(略)第一回目は、内部被曝問題ではよく引き合いに出される琉球大学の矢ケ崎克馬名誉教授の非科学的主張を指摘しておく」などなどの科学者界隈の矢ヶ崎克馬氏批判も少ないないことも付記しておきます。
本ブログの「今日の言葉」の2014年9月29日から同年10月16日にかけての記録です。

アフリカの朝、または夜、または昼 
 
【今日の言葉:冒頭】
29日:水島朝穂 安倍首相は2013年2月7日の衆議院予算委員会で、「人
30日:琉球新報 香港トップの行政長官選挙をめぐり、中国政府が示した
01日:加藤哲郎 ようやく国会が始まりました。政府の集団的自衛権閣議
02日:毎日新聞 韓国・仁川(インチョン)のアジア大会で、中国の水泳選
02日:街の弁護士日記 朝日新聞「誤報」に関わる言論封殺は、大学に及
04日:琉球新報 米議会調査局がこのほど公表した日米関係に関する定
05日:朝日新聞 妖怪といっていいのだろう。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手
06日:ニューヨーク・タイムズ 朝日新聞が5月20日に書いた福島第1原
06日:中田考 中東で、日本で、いつ捕まっても、殺されてもおかしくはない  
08日:街の弁護士日記 朝日新聞の「誤報」でなければ、今日10月8日、日
09日:朝日新聞 これは憲法や日米安保条約が許容する防衛協力の姿な
09日:内藤正典 彼のロジックはイスラームのロジックであり、非ムスリム 
10日:毎日新聞 第2次安倍改造内閣に向けられる欧米諸国の視線が冷
10日:内藤正典 マララさんが非道な暴力で殺害されようとし、奇跡的に回
11日:辺見庸 一昨日マックにいた女をけふもおもう。手にもったハンバー
12日:辺見庸 あのかのじょは手にしたハンバーガーになぜああも長時間
14日:毎日新聞 8月26日に腹部大動脈瘤破裂のため死去した俳優米倉
15日:内藤正典 これはアフガニスタン侵攻の際に書いた本でも主張しまし
16日:毎日新聞 香港の繁華街をバリケードで封鎖する「占拠運動」は、3

・安倍首相は2013年2月7日の衆議院予算委員会で、「人さらいのように、人の家に入っていってさらってきて、いわば慰安婦にしてしまったということは、それを示すものはなかった」と答弁している。朝鮮半島は当時、日本統治下である。軍が「人さらい」などという極端な方法をとる必要性もなかった。「
河野談話」は、「総じて本人たちの意思に反して行われた」としており、民間業者を介在させた構造的な強制性こそ問われるべきなのである。(略)私はかつて読んだR.ジョルダーノの『第二の罪――ドイツ人であることの重荷』(永井清彦訳、白水社、1990年)を思い出した。(略)ジョルダーノによれば、ヒトラー時代にドイツ人が犯した罪を「第一の罪」とすれば、「第二の罪」とは、戦後において「第一の罪」を心理的に抑圧し、否定することである。彼は「第一の罪」否定の手法として、8つの「集団的情動」を挙げる。(略)ジョルダーノはいう。この8つの情動、その「単純さ、いや素朴さ、はっきりと感じられる感受性のなさ ――この情動を擁護する人びとと話しをしていると、大人を相手にしているのではなく、子供の行動様式を相手にしているのだ、という印象が自然に沸いてくる。・・・年齢不相応の反応様式は危険な誤謬を示している」と。何とよく似た議論が日本にもあることか。「南京では30万人も殺されていない」「慰安婦はほかの国の軍隊にもいたではないか」「一体、いつまで謝罪だ何だと言っているんだ。いい加減に・・・」。そう、「人さらいのように家に入ってきて慰安婦にしたという事実はない」という安倍首相の物言いも、何と子どもっぽいことか。日本という国が、戦後70年を目前にして、侵略戦争を否定し(「村山談話」の見直し)、構造的な戦時性暴力を否定し(「河野談話」見直し)、最終的に「大日本帝国」を「取り戻す」ところまで行きかねない、という懸念や憂慮をもたれるとすれば、これほどの不幸はない。(水島朝穂「今週の『直言』」2014年9月29日

・香港トップの
行政長官選挙をめぐり、中国政府が示した制度改革案に抗議していた数万人の民主派市民や学生が 幹線道路を占拠した。香港警察は催涙弾などを用いて強制排除に乗り出した。(略)そもそも、今回の事態が生じたのはなぜか。英国と中国が1984年に合意した香港返還の条件は、中国本土よりも広い範囲で政治的な自由を認めることにあった。だが、ことし8月に中国政府が示した選挙の仕組みは、民主派が排除されることが確実な内容になっている。(略)香港は「一国二制度」の下、高度な自治が容認されている。次回の2017年の長官選から1人1票が割り当てられる「普通選挙」が実施される予定だ。民主派は、市民から一定の支持を集めれば、誰でも立候補できる制度を求めていた。だが、中国の国会に当たる全国人民代表大会(全人代)の常務委員会は8月末、事前に最大で3人の候補者に絞り込む新制度を発表した。候補者は新設される指名委員会による指名が必要となる。親中派が占める委員会での民主派の指名はほとんど絶望的で、中国寄りの人物しか立候補できないだろう。これに反発した民主派は選挙制度の撤回や、停滞している政治改革のやり直しを求めていた。中国の建国記念日「国慶節」の10月1日に市街地を占拠する計画だったが、民主化を求める学生と警官隊の衝突で70人余が逮捕されたことで抗議が広がり、前倒しされた。習政権は強硬策一辺倒で対処してはならない。世界7位の経済競争力を持つ香港の民主主義を土台とする活気を失わせることは、中国のイメージダウンを招く。その損失の大きさに気付くべきだ。(琉球新報社説 2014年9月30日

・ようやく国会が始まりました。政府の集団的自衛権
閣議決定も、川内原発再稼働の原子力規制委員会「安全」審査も、沖縄の普天間基地辺野古移転も、国権の最高機関たる国会などなきがごとくに、安倍首相により進められてきました。内閣改造は、女性閣僚を増やしたといっても、安倍首相の右翼的言説に輪をかけたナショナリストの面々がならび、「お友達内閣」の骨格は変わりません。物価高・生活苦のなかでの消費税増税への不満、原発再稼働反対の多数派世論、武器輸出ばかりでなく自衛隊の海外での参戦さえ近づく不安がありながら、野党のふがいなさが、政治へのあきらめ・無力感を産み出しています。「朝日たたき」が、元記者勤務先への脅迫状にさえ結びつき、各地の自治体で、憲法を守る集会や脱原発展示が、「政治的」という理由で、開けなくなっています。ウクライナの不安定ばかりでなく、アメリカの対「イスラム国」シリア爆撃が始まり、中国・韓国との関係が冷えきった安倍内閣の姿勢からすると、戦争が、現実の問題として迫ってきます。そんな世界の中での、一抹の希望 。スコットランド独立をめぐって、過半数までは届かなかったが自決・自治の力を世界に示した、イギリスでの住民投票の経験 、そして、いま眼前で進む、普通・平等・自由選挙への、香港市民の願いと運動。前者は、スペインでのカタルーニャやバスクの住民投票へと飛び火し、後者は、かつて四半世紀前の天安門前広場を想起させる、「アンブレラ・レボルーション(雨傘革命)」へと展開しています。福島や沖縄の人々は、身につまらせる思いで、注目していることでしょう。自分たちの問題を自分たちで決めること、自分たちの代表は自分たちで選ぶこと。これが、民主主義の原点です。福島知事選は10月26日 投票、沖縄知事選は11月16日投票です。(加藤哲郎のネチズン・カレッジ 2014.10.1

・韓国・仁川(インチョン)のアジア大会で、中国の水泳選手が「日本の国歌は耳障り」などと言った。アジア大会は愛国だの民族主義だのが横行する。韓国メディアは、男子体操個人別の跳馬で騒いだ。韓国の梁鶴善(ヤンハクソン)選手は世界チャンピオン。北朝鮮のリ・セグァン選手も練習で互角の演技を見せた。朝鮮半島の「南北対決」だ。重圧の中で迎えた本番。2人ともミスが出て、金メダルは香港の石偉雄選手だった。韓国2位、中国3位。香港旗が中国の五星紅旗の上に揚がった。こんどは香港メディアがわいた。「香港生まれ、香港育ちの石君が歴史的金!」石選手の勝利者インタビューは力が抜けるものだった。「かあさん、やったよ。ロロ、我愛(ウォアイニー/好きだよ)、1年間支えてくれてありがとう」ロロなる女性への愛の告白。個人的には重い言葉だが、「愛国」も「民族」もない。それでいいのか。いいのだ。そこが香港らしい。(略)石選手が表彰台に上がった9月26日、香港では、民主選挙を求める
学生デモと警官隊が衝突し、多数の負傷者がでた。香港は2047年まで、「 1国2制度」による「高度の自治」を保障されている。普通選挙も導入される。だが、実際には中国共産党が認める「愛国者」だけが立候補できる仕組みだ。ニセ民主だという声があがっている。習近平政権になって、中国は「高度の自治」と言わなくなり、香港に「愛国」を強制するようになった。「愛国」は、中国を愛するだけではない。共産党を愛する「愛党」と同義語であると中国高官が解説している。愛国を押しつけられる香港の大学生、高校生が、将来に不安を感じ始めた。授業放棄、抗議デモが始まった。警察は強硬になり、催涙弾が使われた。中国の圧力だろう。香港に帰った石選手を母親、高校の恩師、同級生が空港に出迎えた。ネットで写真を見た。かあさんのメガネの奥は涙でぐしょぐしょ。少し離れてもじもじしている女性がいる。昔の日活青春映画のポスターのような風情だ。石選手が「愛国」に触れなかったのは意識的な抗議ではない。香港の普通の若者なのだ。だが愛国の影が近づいている。変わるのだろうか、香港。(毎日新聞 金子秀敏客員編集委員 2014年10月02日

・朝日新聞「誤報」に関わる言論封殺は、大学に及んでいる。元朝日新聞記者が大学の教員を務める帝塚山学院大学、北星学園大学に元記者の退職を求め、応じなければ学生に危害を加えるという脅迫が行われている。5月、7月に届いた脅迫文は「辞めさせなければ学生に痛い目に遭ってもらう。釘を入れたガス爆弾を爆発させる。」「元記者を辞めさせなければ天誅として学生を痛めつける」北星学園への電話では、「爆弾を仕掛ける」という内容のものもあったという。攻撃は、元記者本人だけでなく、家族にまで及びネット上に顔写真や実名をさらし「自殺するまで追い込むしかない」、「日本から出て行け」などと書き込まれているという。言論テロであり、脅迫・強要は明白な犯罪行為である。そうした中、昨日、北星学園大学が、「
本学学生と保護者の皆さまへ」と題した見解を公表した。学問の自由・大学の自治の立場から毅然として対処するとした見解である。学生に危害を加えると脅された大学としては、大変な勇気が必要であったと思う。日本国憲法第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。せめて我々にできることは、 基本的人権を守ろうとする大学の姿勢を支持し、共感を示すことではないだろうか。大学のメールフォームはこちらである。(「街の弁護士日記」2014年10月2日

米議会調査局がこのほど公表した日米関係に関する定期報告書では、米軍普天間飛行場の辺野古移設計画に関する沖縄県内の状況について「仲井真知事の決断(埋め立て承認)にもかかわらず、ほとんどの県民が政治、環境、生活の質など複合的な理由から新基地に反対している」と分析した。約半年前の前回の報告書に続いて、県内移設反対の民意の高まりを報告している。この指摘は県内の動向を極めて正確に把握していると言ってよい。8月末の県内世論調査では辺野古移設に向けた海底ボーリング調査について80・2%が「移設作業は中止すべきだ」と回答している。普天間問題の解決策を県外・国外移設や無条件閉鎖・撤去を求める意見の合計が79・7%に達した。昨年12月の調査では73・5%、ことし4月は73・6%で、調査のたびに割合が高くなっている。もはや辺野古移設が現実的でないことを日米両政府は直視すべきだ。さらに報告書はこう記した。「安倍政権は仲井真知事の承認を得るために重大な時間と金を投じてきたが、重大な遅れなく、また県民との対立をこれ以上深刻化させることなく基地建設を進めるため、さらなる政治的資源を投じ続けなくてはならないだろう」米側が政府と県民との対立が深刻化していることに強い懸念を示していることが分かる。知事が政府の意向に沿うよう埋め立てを承認するまで「時間と金を投じてきた」ように、基地建設を進めるためには県民に対しても政治的資源を投じるよう指南している。しかしこの部分の指摘には同意できない。県民の頬を札束でたたけば基地建設を受け入れると思っているのならば間違いだ。米政府内で普天間交渉にも長年携わった知日派重鎮の日米外交筋は、11月の県知事選で移設反対派が勝利した場合、日米政府が移設作業を強行し沖縄と「全面対決」になれば「ディザスター(大惨事)になる」と警告している。県民を懐柔して辺野古移設を継続することは不可能だと認識すべきだ。議会報告書の指摘する県民との対立の深刻化を回避する道は一つしかない。県内移設を断念することだ。報告書にある「複合的な理由から新基地に反対している」県民の意向を正確に把握し、日米両政府は県外・国外移設に向けた作業にかじを切るべきだ。(琉球新報社説 2014年10月4日

・妖怪といっていいのだろう。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、
声はトラツグミに似た獣を鵺(ぬえ)という。平家物語や世阿弥の能に登場する。転じて、正体不明な人物やものを指すようになった。「 見る者の視点によって姿の変わる鵺とも言うべき奇怪なものと成り果てている」。集団的自衛権の行使を認めた7月の閣議決定をそう批判し、撤回を求める報告書がまとまった。憲法学者や元官僚らによる「国民安保法制懇」が先月末に発表した。集団的自衛権は行使できないとする1972年の政府見解の理屈を借りて、行使できると正反対の結論を打ち出す。およそ理解しにくい「無理な論法」を安倍内閣は採用した。その意図も、もたらされる結果も、曖昧模糊としているから鵺だ、と。法制懇メンバーで元内閣法制局長官、大森政輔氏の舌鋒は鋭い。発表時の記者会見で、閣議決定を「まさにまやかし」と断じた。今回の憲法解釈の変更は「内閣の権能を超えており、無効といわざるをえない」という立場だ。「法の番人」のOBとしての矜恃が伝わる。橋本、小渕両内閣で長官だった。当時、「総理、これは無理です」と意見をいえば反論はなかったという。時は移った。政治権力を拘束するはずの憲法を、時の為政者がほしいままに読み替える。それが通るなら、後に続く者もしたい放題とならないか。法秩序は制御不能の混乱に陥りかねない。(朝日新聞「天声人語」2014年10月5日

・朝日新聞が5月20日に書いた福島第1原発の「吉田調書」の記事を読んで、私はすぐに「朝日新聞によると」という形で記事を引用して報じた。しかし私は「原発所員が(吉田昌郎元所長の)命令に違反して撤退した」という朝日が強調した部分よりも、約400ページの調書が開示されずにきたことの方を中心に書いた。吉田調書に関して問われるべきなのは、政府がこのような重要な資料の公開に消極的な姿勢であることだ。それなのに朝日はなぜ「パニック」の方に焦点を当ててしまったのだろうか。それがなくてもスクープとして十分なインパクトがあったのにと思う。新聞が失った信頼を取り戻すのは大変だ。ニューヨーク・タイムズも2003年に若い記者が取材していないことを記事にしたことがある。イラク戦争をめぐっては、政権が主張する「大量破壊兵器」の存在を信じてしまった。その二つの問題で傷ついた信頼を、いまだに回復できずにいる。信頼を取り戻すには、当局に寄りかかることなく読者のための記事を書いていくしかないのだろう。(略)朝日新聞を批判しているうちに、根本的な問題から国民の目をそらしてしまってはならない。従軍慰安婦についても、朝日新聞の記事取り消しによって報道が自粛気味になっているのが残念だ。批判を恐れず、根拠のある事実を取材して正しい知識を冷静に届けてほしい。慰安婦の存在自体がなかったかのような議論もあるが、それはかえって日本の「国益」にならないのではないか。メディア同士が、記事の内容をめぐって厳しい批判をするのはよいことだ。しかし「非国民」などの極端な表現を使って感情をあおるような批判をするのはやりすぎだ。そうした風潮には全体主義的な怖さを感じる。ジャーナリストは自由な言論を萎縮させるものに抵抗すべきなのに、どうしたことかと思う。日本は、アジアで一番の勢いを誇っていたころの自信を失い、中国や韓国の台頭に余裕をなくしているように感じる。そうした雰囲気が、標的を作って感情のはけ口を求める行動につながっているのかもしれない。(
米ニューヨーク・タイムズ東京支局長、マーティン・ファクラー毎日新聞 2014年10月06日

・札幌市で長い歴史を誇る
北星学園大学は、キリスト教に基づく人格教育を掲げる。養成しようとするのは、「異質なものを重んじ、内外のあらゆる人を隣人と見る開かれた人間」だ。基本理念に記されている▼他者への寛容と自由な交わりは、社会の風通しのよさを保つために欠かせない条件だろう。学園はまた、戦後50年の節目の1995年に「平和宣言」を出した。「あらためて平和をつくり出すことの大切さと、人権を尊ぶ教育の重要さを思います」とうたっている▼この大学を応援する会が、きのう発足した。「負けるな北星!の会」という。作家の池澤夏樹さんや森村誠一さん、政治学者の山口二郎さん、思想家の内田樹さんらが呼びかけた。元自民党幹事長の野中広務さんらも賛同人に名を連ねる▼大学を爆破する、学生に危害を加えるといった卑劣な脅迫にさらされているからである。慰安婦報道に関わっていた元朝日新聞記者が非常勤講師を務めていることを問題視され、辞めさせるよう要求されている▼過去の報道の誤りに対する批判に本紙は真摯に耳を傾ける。しかし、報道と関係のない大学を暴力で屈服させようとする行為は許されない。このさい思想信条や立場を超え、学問や表現の自由、大学の自治を守ろうという識者らの呼びかけは力強い▼「異質なものを重んじ……」という精神を忘れるわけにはいかない。気に入らない他者の自由を損ねる動きが広がる。放っておけば、社会のどこにも自由はなくなる。(朝日新聞「天声人語」2014年10月7日

・中東で、日本で、いつ捕まっても、殺されてもおかしくはない。その時、誰にも迷惑をかけないよう、
同志社大学教授の職を辞し、日本ムスリム協会理事の地位、会員の身分も捨て、殺されても捕まっても失うものがないように家も財産も処分した。全ては真実と信ずることを語る自由を確保するためだ。私は、イスラーム世界に対してはカリフ制の復興の義務を説くこと、日本人の同胞に対してはノイズを排して神の唯一性の精髄を伝えること、という2つの使命を自分に課してきた。しかしクルアーン古典注釈の翻訳とナーブルスィーの紹介を終えた時点で私の日本での仕事は終わったと思った。そこで私は、イスラーム世界にカリフ制再興の義務を伝えることに専念することに決めた。まだ「アラブの春」が起きる前だ。カリフ制再興を唱えることは、中東の反イスラーム独裁政権だけでなく、人道に敵対する領域国民国家システム全体に「ノー」と言うことだ。イスラームの教えを正しく実践するために闘っていた私の友人たちは皆、中東の反イスラーム独裁政権に弾圧され投獄され、メディアの言論は封殺され、彼らの声を伝える者はいなかった。だから イスラームに関する言論の自由の自由がある日本に住む私には真実を伝える義務がある。私はそう思った。( 中田考@HASSA
NKONAKATA
「内藤正典Twitter」2014年10月6日から)

・朝日新聞の「誤報」でなければ、今日10月8日、
日米防衛協力ガイドライン改定に関する中間報告が発表される。先日同紙が報じたところでは、日本と日本周辺有事の限定を外し、世界規模・グローバル規模に拡大する。これに伴い、①平時②日本有事③周辺有事に分類されていた日米防衛協力のあり方を①平時と②有事に整理する。地理的限定が外れる結果、地球の裏側でも米国が有事と判断すれば、自衛隊は有事体制に即応する体制に入ることになる。日本の命運を左右しかねない歴史的な決定である自衛隊創設時の密約によれば、有事には自衛隊は米軍指揮下に入るとされていたはずである。残念ながら、紙面の相当部分を割いた朝日の後を追う報道は気づいた範囲では見当たらなかった。週末のテレビは台風情報一色、御嶽山噴火と犯罪、スポーツ情報に埋め尽くされ、ガイドライン改定に触れるものはこれまた見当たらなかった。秘密保護法前夜、 朝日バッシングを経たメディアは早くも秘密保護法体制に移行しつつある。おそらく今後のテレビはお天気情報と犯罪報道、スポーツ情報に埋め尽くされていくのだろう。そうならないことを祈るが、戦争体制国家前夜の様相である。(「街の弁護士日記」2014年10月8日

これは憲法や日米安保条約が許容する防衛協力の姿なのか。拡大解釈が過ぎないか。日米両政府がきのう、年内の改定をめざす新たな
日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の中間報告を発表し、自衛隊が世界規模で米軍を支援する方向性を示した 。後方支援や情報収集、警戒監視、偵察などの分野で、自衛隊と米軍のグローバルな協力を進める内容である。米軍と肩を並べて攻撃に参加するわけではないが、平時から緊急事態まで「切れ目のない対応」を進め、有事に至る前の米艦防護も可能にする――。集団的自衛権の行使を認めた7月の閣議決定を受けて、できる限り同盟強化を進めたい政策当局者の本音だろう。だが日米安保体制は安保条約が基礎であり、ガイドラインは政府間の政策合意に過ぎない。1978年につくられた旧ガイドラインは、旧ソ連の日本への侵攻を想定していた。冷戦後の97年に改定された現行のガイドラインは「周辺事態」での対米支援の枠組みを整えた。新ガイドラインは、その周辺事態の概念を取り払い、地理的制約を外すという。安保条約の基本は、米国の対日防衛義務と、日本の基地提供にある。周辺事態は、安保条約の枠組みや憲法の歯止めと実際の防衛協力との整合性をとるぎりぎりの仕掛けだった。中間報告に書かれた中身が実現すれば、国会の承認が必要な条約の改正に匹敵する大転換と言える。安倍政権は憲法改正を避けて解釈を変更したうえ、ガイドラインの見直しで日米同盟を大きく変質させようとしている。(朝日新聞「社説」2014年10月9日

のロジックはイスラームのロジックであり、ムスリムの日本人にはそのまま適用できない。だからこそ、私を含めて同僚たちが、氏の講義をいわば非ムスリムのコンテクストに翻訳し、もって日本としてテロの脅威を下げ、最困難国や地域においていかなる平和的貢献が可能なのかを討議するのである。2012年に同志社でアフガニスタンの和解と平和構築という国際会議を主催したとき、カタルに赴いて現地のタリバン代表部で折衝にあたったのは中田先生である。ついに、スタネクザイ大統領顧問、反体制派のヒズブイスラミ党首、タリバン政権の駐パキスタン大使のザイーフ師、それにタリバン公式代表、彼らの参加を得て、兎にも角にも、カルザイ政権の大臣とタリバン政権当時の大臣が同じテーブルについて発表をし、懇親会では同じ鍋を囲んで飯を食ったのである。私は主催者だったが、この会議を成功させた立役者が中田先生であることには一点の揺るぎもないのである。その直後、日本政府主催のアフガニスタン復興支援国会合が開催された。直前まで、西欧諸国は一向に和平のきざしもないアフガンから手を引こうとしていた。その空気を変えたのが、同志社での和平会議だった。私たちは民間の大学であり、政府とは異なる。しかし、タリバンが同志社に来たことで、本当に僅かな光明が見えたのである。その日、本当にタリバンも来たのかと世界中の新聞が取材をかけてきた。私は写真を送って同志社のチャペルに並ぶタリバンや大臣が来たことを伝えた。直後のアフガニスタン復興支援会合では、風向きが変わり西欧諸国も支援を継続した。カルザイ大統領はこれをDoshisha Processと呼んだ。クリントン国務長官は一言「ヒット!」と言った。それを陰で支えた人物こそ、ハッサン中田考先生なのである。(略)初めて大統領側と反政府勢力諸派とタリバンとが、同じテーブルにつくことができたのである。これは我が国政府にとって国益に反する行為だったろうか?そのことを考えてほしい。(「内藤正典Twitter」2014年10月9日

第2次安倍改造内閣に向けられる欧米諸国の視線が冷ややかになってきた。ナチスの思想に同調しているかのような極右団体やヘイトスピーチ(憎悪表現)を繰り返す団体と閣僚らの関係が疑われているのだ。このままでは「極右と一線を引けない政権」とのイメージが定着しかねない。(略)域内でネオナチ台頭を抱える欧州メディアの筆致は厳しい。英インディペンデント紙は先月27日の記事で「安倍晋三政権は極右の横顔を見せて人々を驚かせた」と伝え、安倍首相が戦犯として処刑された旧日本軍人の追悼法要に自民党総裁名で哀悼メッセージを送ったことも紹介した。英紙タイムズガーディアンも同じように批判的に報じている。インディペンデント紙に記事を書いたデービッド・マックニール記者は「外国人記者は戦時中の日本の歴史を蒸し返してばかりいると批判されるが、私を含めて大半の特派員はこの種の取材よりも他の取材をしたい。日本の政治家が歴史的事実をひっくり返そうとするから、この問題を取材しなければならなくなってしまう」(英字紙・毎日ウィークリー)と指摘する。主要海外メディアとしては早期の10年8月に在特会の実態を記事にした米ニューヨーク・タイムズ紙東京支局長のマーティン・ファクラーさんは「今の米国でネオナチKKK(白人至上主義組織)の関係者と閣僚が一緒に写真に納まることは考えられない。発覚したら即辞任。マイノリティーを攻撃するような団体と一線を引けない人は民主主義の根本原則に反しているとみられる」と説明する。(毎日新聞 2014年10月10日

マララさんが非道な暴力で殺害されようとし、奇跡的に回復し、女性の教育、こどもの権利を訴えることは称賛に値すると思う。彼女に対するパキスタン、タリバンの暴力も絶対に容認出来ない。しかし、パキスタンタリバンに襲撃されたことでノーベル平和賞の栄誉に輝いた彼女とは対照的に、アメリカの攻撃で命を失ったアフガニスタンやイラクの少女たちは何の賞賛も償いも受け取ることはなかった私はこのことを不公正だと思う。(略)マララさん受賞の記事が大方のメディアで誤解を招く内容。イスラームが女性の教育を否定しているのではない。日本の60年前、女性の4年制大学進学率、老眼でよく見えないスマホのページでグラフを見ると2%ほど。父権主義や封建的家族感が社会に根強かったことが原因で宗教のせいではない。問題はイスラーム社会の問題がみなイスラームに結びつけられること。マララさん一家のパキスタンでの社会もそうだし、アフガニスタンもそうだが、イスラームに名を借りた恐ろしく封建的男社会が女性の教育を阻害してきた。ローカルなイスラーム指導者たちや、政治家たちが、自分たちの権威や権益を守るために保守的な制度の温存を図ったために、あたかもイスラームに起因するかのように喧伝されることになった。しかし、こういうイスラームに名を借りた連中を糾弾するのは、サラフィジハーディスト。保守的な社会はこぞって彼らを過激派、テロ組織と非難。穏健なイスラーム社会なるものは、穏健の美名の陰でパターナリズムを隠蔽する。過激派のおかげで。(「内藤正典Twitter」2014年10月10日

・一昨日
マックにいた女をけふもおもう。手にもったハンバーガーだけをじいっとみていた。ひとり。たぶん若い。貧しそうだ。おしゃれらしいおしゃれもしていない。まわりをみない。店をみわたさない。携帯もみていない。手にしたハンバーガーから目を逸らさない。食べているようだったが、ハンバーガーはさっぱり減っていない。だとしたところで、べつにふしぎではない、とおもう。(略)かのじょには、ごくうすい笑みがうかんでいるようにも、無表情のようにもみえた。なにかおかしい気もするが、とりたてておかしくもない。これが世界だ。世界があるとすれば。カネッティの『眩暈』の冒頭は、「君、なにしてるの?」だ。こたえは「なんにも」。「君、なにしてるの?」はよけいなお世話なのだ。マックのスタッフ募集のポスター。「ここで生きる……」だったか。一青窈というひとがはなしている。つまらない。たいくつ。消そうとしたら、ハナミズキを作詞したきっかけを訊かれて、「9.11があって……」と言っている。(略)ハナミズキの詩の文言は9.11となにもかんけいがないようだが。あの歌の下地に9.11とテロリストたちのことがあったと聞いて、詩想がたぶん、身軽なのだな、メディアにあまりとらわれていないな、とおもう。9.11のテレビ映像をみながら、あの日、ネコをだいて泣いたというひとをおもいだす。乗客やツインタワーの犠牲者たちがかわいそうで泣いたのだとばかりおもったら、ではなくて、死を賭してつっこんだ犯人たちが哀れでかわいそうだから泣いたのだという。世界というものを「善」と「悪」で概括しない。世界的できごととのかかわりは、もっともらしく概括されたマスメディア製の正義からではなく、とらわれない「個」の、ふるえる感性でかんじる。それが不思議であやうくおもしろい。ハンバーガーに見入っていた女性、ハナミズキと9.11、9.11の映像のまえで泣きながらだきしめるネコ……世界とひとの交錯とは、概括不能であるとき、説明不能とみとめるとき、正直な「個」が乱反射して、かえって生の風景が狂おしくたちあがる。(辺見庸「日録1-3」2014/10/11

・あのかのじょは手にしたハンバーガーになぜああも長時間じっとみいっていたのか。「ハナミズキ」と9.11のかんけいについて、一青窈がいったいなにをいいたかったのか。大したことではないだろう。大したことかもしれない。大したことの端緒かもしれない。けっきょくはよくわからないのだ。わたしもかのじょたちも。気が触れているといえば、気の触れていないものなどいない。「人間は、つねに人間的なもののこちら側か向こう側のどちらかにいる。人間とは中心にある閾 であり……」(
アガンベンアウシュヴィッツの残りもの――アルシーヴと証人』)、人間の本質なるものは存在しない。(略)いまやあらゆるひとびとが順応性という流れにのっている。市場も権力もひたすら順応をしいている。こんにち、国会議員のように生き生きと生きるのがいっしゅの精神の失調か異常である時代には、いやだからしないこと、できないこと、無力であること、無能なこと、しないでいられること……に居直る方法があってよい。手にもった120円ほどのハンバーガーを半時間もみつめ、さまざまなおもいをめぐらすこと。すばらしい。だが、権力は(Aだけではない。民衆や市民という痴呆権力も)かのじょをいつまでもそうはさせておかないだろう。反社会的不作為かサボタージュか施設に収容すべき患者とみなすだろう。しないでいられることから、人間をひきはなそうとする。凝視をやめさせる。思索と妄想を遮断する。「こうした無能力=非の潜勢力からの疎外は、何にも増して人間を貧しくし、自由を奪い去る」(「しないでいられることについて」『裸性』)。そうなっている。(辺見庸「日録1-3」2014/10/12

・8月26日に腹部大動脈瘤破裂のため死去した俳優
米倉斉加年さん(享年80)の「お別れの会」が13日、東京・青山葬儀所で営まれた。舞台や映画のほか、演出家、絵本作家としても活躍した米倉さんの急逝を悼み、約500人が参列。映画「男はつらいよ」シリーズなど多くの作品で共演した女優倍賞千恵子(73)は「米さん、さよなら」と涙を流した。(略)倍賞が弔辞を読み「相談事で電話をすると“大丈夫、そのままでいいんだよ”と言ってくれていた。“大丈夫”が聞けなくなると思うと寂しい」と涙。新作の撮影で参列できない山田洋次監督(83)の手紙も代読。山田監督は1月公開の映画「小さいおうち」のパーティーで会った際、米倉さんにフランス小説が原作の舞台「マリウス」の構想を打ち明け、頑固親父役を依頼すると乗り気だったといい「あなたと舞台の仕事ができると楽しみにしていたのに」と悔しそう。「生涯の師として仰ぎ尊敬した宇野重吉さんと再会し、演劇論を心より語り合ってください」と悼んだ。(略)喪主を務めた妻テルミさん(80)は、5年ほど前から内臓の検査を受けるよう勧めていたが、そのたびにケンカになり諦めたと説明。知人を訪ねて故郷の福岡市に滞在中、腰の痛みを訴え病院に運ばれ、切開すると動脈瘤は直径11センチもあったといい「手遅れだった。首に縄を付けても医者に連れていけば…」と無念さをにじませた。米倉さんとは小学校時代の同級生で「自分の体の半分がなくなったよう」と喪失感も明かしたが、「彼はいちずで子供の心を持った可愛い人。幸せだったと思う」と話した。(毎日新聞 2014年10月14日

・これは
アフガニスタン侵攻の際に書いた本でも主張しました。「なぜ、イスラームと衝突するのか」明石書店。全く支持されませんでした。米軍の攻撃に追随することで無辜の民を殺害することを恐れる感覚はごく当然ではないでしょうか。テロ組織の味方をするのかと非難する人が多いですが、大切なことは 欧米諸国や日本では、イスラーム国が突然登場し、ヤズィーディ達を迫害し、人道の罪を犯した、その時点からしか見ていません。その前にどれだけの理不尽な死があり、遺体の山が築かれていたかを見ようとしません。イスラームの過激主義は、突然、涌いて出てくるのではありません。彼らの行為を人道の罪と断罪するなら、なぜ、ドローンで住民の生命を奪う米国への人道の罪を問わなかったのでしょう?民主的に選ばれた大統領を追放したのみならず、支持者に発砲し千人あまりを殺害し、ムスリム同胞団員を何百人も死刑とするエジプトの軍事政権を人道の罪に問わないのでしょう?ガザのこどもたち500人もの生命を奪ったイスラエルを人道の罪に問わないのでしょうか?国連事務総長は、今になってガザを訪問し砲撃で住民の生命が奪われたUNRWAの学校の悲劇を嘆くなら、なぜ数ヶ月も続いた攻撃を止めるためにアメリカと刺し違える覚悟を示さなかったのでしょう?イスラーム国は人道の罪に問うべきですしかし、それならば、過去半世紀、過去一世紀、何の悪意もなく家族と暮らしていた人びとの生命を理不尽に奪いながら、謝罪も賠償もせず口をつぐんできた全ての加害者を人道の罪に問わねばなりません。そうでなければ、イスラーム国を武力で叩き潰しても、それはリビアに、パキスタンに、イエメンに、イギリスに、フランスに、ドイツに、転移するだけです。イスラーム国は正解ではありませんが、こういう状況に置かれてきた中東のムスリムによる解の一つであることに疑いの余地はありません。それが彼ら自身の「解」であることさえ否定したいのなら否定すればよいでしょう。見たくない解を遺体も残らぬほどに粉砕したらよいのです。しかし、それはあまりにも愚かな世界の破壊をもたらすことになるでしょう。そんな空想的な、そんな学者の妄想など考慮に値しないと言うならそれでも構いません。ええ、多くの国の政治家やアナリストやジャーナリストたちが、実際、そう嘯きつつ、今日を迎えたのです。(「内藤正典Twitter」2014年10月15日

・香港の繁華街をバリケードで封鎖する「
占拠運動」は、3週間あまりで警察が実力排除に出た。時を同じくして、中国の汪洋副首相が訪問先のロシアで演説をした。「香港で反体制派がカラー革命を起こそうとしている」(15日付「毎日新聞」など)引用部分の次には、こういう趣旨の発言もある−−ウクライナと香港で親米勢力が騒いでいるが、中露は力を合わせて対抗する。なんでこんなことを言うのか。スティーブン・ヤングという元駐キルギス米国大使の名前を念頭におくと見えてくる。ウクライナで2004年、反ロシア民主化運動が起きた。オレンジ色をシンボルにしたので、「オレンジ革命」「カラー革命」と呼ばれた。「カラー革命」は、翌年、中央アジアのキルギスに飛び火して「チューリップ革命」が起きた。背後で支援したのがヤング大使といわれる。その後、ヤング氏は、「米国在台湾協会」台北事務所長、ついで香 港総領事に転勤し、昨年、退官した。行く先々で民主化運動家が育った。中国は警戒した。ヤング氏が米中央情報局(CIA)の工作員で、反中国運動を組織していると見たからだ。実際に、活動の一部は、ウィキリークスに暴露された。ヤング氏は昨年、退官したが、台湾で今年の春、「ひまわり学生運動」が起き、中国と台湾の政府間対話にブレーキをかけた。続いて、香港では大学生、高校生の活動家が今回の「雨傘革命」運動をリードした。中国系メディアは、「雨傘革命」はCIAの陰謀だ、資金は「全米民主主義基金」(NED)から出ていると激しく攻撃している。「雨傘革命」の裏司令部として敵視するのが「りんご日報」社だ。占拠運動に反対する親中国派グループは青いリボンをつけた行動隊を組織して、市内のバリケードを実力で撤去した。「りんご日報」印刷工場にも詰めかけて、出入り口を取り囲み、新聞輸送車を止めた。中国特務機関の香港駐在員が青リボンを指揮して、CIAの手先のデモを打ち砕いた−−こんな構図で見たら、反ロシア、親ロシアの勢力が衝突するウクライナと同じに思えるだろう。だが、香港の学生が行動に出た原因は、 2017年から行政長官選挙を普通選挙にするという約束を中国が破ったからだ。その点を抜いた陰謀論は、香港の民心という本質が欠けている。いつか、本当にカラー革命が起きるかもしれない。(金子秀敏客員編集委員「毎日新聞」2014年10月16日
以下の弊論及び引用は「広原盛明さんの『福島知事選に見る共産党の顕著な変化、独自候補の擁立から『オール福島』大同団結の呼びかけへ』という論への共感と留保」(2014.10.06)の続きとして書いています。
 
上記は私の沖縄日記―広島編」ブログ(2014年10月14日付)の記述です。佐高信さんが上記の番組で「だったら地方選挙で相乗りなんかするなよ」と批判しているのは、この10月26日が投票日の福島県知事選において現職の佐藤雄平知事の事実上の後継である前副知事の内堀雅雄氏への支持を表明している自民党に相乗りした民主党や社民党の権力迎合姿勢に対する批判と見てよいでしょう。佐高さんは前社会党、現社民党支持者として有名な人ですが、その佐高さんさえ自己の支持政党をなじらざるをえないという社民党の現状なのです。
 
しかし、民主党も社民党もこのまま前副知事の内堀氏支持のままで態度を変えることはないでしょう。内堀氏は原発再稼働について「コメントする立場にない」(河北新報、2014年10月9日)と明確な態度の表明を避けていますが、原発再稼働を公約に掲げる自民党から最大の支援を受けて出馬している以上、同氏の本音は原発再稼働容認にあることは明白です。その実質的な原発再稼働派の内堀氏支持を表明する社民党のいう「原発再稼働反対」とはいったいなんでしょう? その社民党を支持する自称脱原発派とはなんでしょう? 私がここで自称脱原発派と呼んでいるのは九電本店前ひろば・テント行動」運動、「経産省前テントひろば」運動、「たんぽぽ舎」運動などなどです。「脱原発」というかけ声だけは戦闘的なのです。
 
しかし、再び言います。福島という脱原発運動の根源の地というべきところの3・11以後はじめての県知事選で実質上の原発再稼働容認派を支持する「脱原発」、あるいは「原発再稼働反対」とはいったいなんでしょう? 左記の運動に参加する彼ら、彼女たちは激しく社民党を批判しなければならないはずです。彼ら、彼女たちは「脱原発」運動をどこに導こうとしているのか? 激しい自己点検が必要なはずですが、しかし、佐高さん以外からはそうした批判の声は私の知る限り一切聞こえてきません。いざとなったときは権力の側(勝ち目のある側)になびく。それが「脱原発」運動というのであれば、彼ら、彼女たちには今後「脱原発」運動から一切手を引いていただくほかありません。「原発再稼働反対」と言いながら「原発再稼働」容認勢力に変節していくであろうことは戦前の経験に照らしてみても(戦前の翼賛体制を想起されたい)自明のことといわなければならないからです。
 
以下、広原盛明さん(都市計画・まちづくり研究者、元京都府立大学学長)の福島県知事選論第3回。
 
 
佐藤前知事の任期満了に伴う第20回福島知事選が10月9日告示され、26日の投開票に向けて17日間にわたる選挙戦が始まった。だが、選挙戦は意外に低調で全国紙の話題になることも少なく、関西ではほとんど情報が入ってこない。肝心なことは福島在住の友人にその都度教えてもらっているが、しかし個人の情報収集力にも限界があるので、京都市立図書館で閲覧できる岩手日報、河北新報、福島民報の選挙関連ニュースを隈なく読んで選挙情勢を分析することにした。また福島民友新聞は「県内選挙ニュース」(電子版)を検索できるので、これも参考にした。
 
一言でこれらの感想を述べると、地元各紙の関連記事からは選挙戦特有の「熱気」や「興奮」が全く伝わってこないということだ。今回の福島知事選は通常の首長選挙ではない。3年半前の福島第1原発事故以来のはじめての知事選であり、東日本大震災の中でも最大のダメージを被っている被災地の選挙なのだ。だから、沖縄知事選のように「沸き立つ」ような雰囲気になるのではないかと予想していたが、私の予想は完全に外れた。率直に言えば、当事者である県民有権者もそれを取材する記者たちも「シラケ」切っているのである。
 
なぜこんな事態が生じたのだろうか。それを解く鍵は告示前の10月2日、地元の青年会議所(JC)主催で開かれた予定候補者6人による公開討論会の様子を見ればよく分かる。福島民報(10月3日)によると、公開討論会はJCの用意した6つの質問に対して予定候補者が○×式で答える方式で行われ、その後に各候補者からの補足発言と候補者相互による質疑応答が続くというものだった。
 
私が注目したのは、JCが用意した6つの質問の内容だ。
 
(1)「福島県内の原発は全基、即、廃炉にすべきである」
(2)「中間貯蔵施設の受け入れ容認はやむを得ない」
(3)「除染は現状のまま進めるべきである」
(4)「避難指示が出ている地域に対し、明確な復興ビジョンがある」
(5)「風評を払拭するための秘策がある」
(6)「最終処分場はあくまで県外へ設置すべきである」
 
これら6つの質問は、インターネットなどで事前に寄せられた約500件の中から主催者側が選んだものだというが、原発事故の処理問題をテーマの中心に据えるのであれば、原発事故の被災県である福島県が国の原発政策とりわけ目前に迫っている原発再稼動政策に対して何らかのメッセージを発信することは当然であろうし、またその基礎となる国のエネルギー政策に関しても一言あって然るべきだ。だが、この点に関する質問は注意深く避けられた。
 
より大きな問題は、これら原発事故の技術的処理問題が中心テーマになったことから被災者が当面する切実な生活課題に関するテーマが脇に追いやられ、県民が一番知りたい関心事が討論の中で十分深められなかったことだ。たとえば、次のような質問が並んでいたら、討論の雰囲気は随分変わったものになっていただろう。
 
「12万人を超える避難者の生活をいかにして日常に戻すか」
「生業や生活被害をめぐる原発災害補償問題をいかに解決するか」
「地域経済や地元産業をいかに立て直すか」
「放射線被曝から住民・子どもの健康と生命をいかに守るか」などなど。
 
このように取り出せば山ほどある課題を主催者側で十分に議論することなく、インターネットで寄せられた意見をただ参考にした(だけ)というのでは、主催者側の見識が疑われても仕方がない。また質問の範囲をすでに決着済みの課題あるいは争点にならないテーマに絞ったことも、「福島知事選きょう告示、与野党相乗り 論戦低調」(毎日新聞、2014年10月9日)だとか、「知事選あす告示、福島 語られぬ『脱原発』」(朝日新聞、10月8日)とか評される背景になっている。
 
昨年4月以降の首長選では、福島市、いわき市、郡山市、二本松市など県下の主要都市で現職首長が軒並み落選するという「現職落選ドミノ現象」が起きている。いずれも被災者の生活再建が遅遅として進まず、復興の姿が目に見えないという有権者の苛立ちと不満そして批判が現職首長に集中したためだ。佐藤前知事が3選に向けての立候補を断念したのも、復興をめぐる知事の対応についての県民の不満が大きく、支持率が5割はおろか3割を切っているという厳しい政治事情があったからだと言われている。とすれば、討論会のテーマは何をさておいても具体的な復興課題に設定されるべきであったし、予定候補者もその点に関する具体的政策を語るべきだった。しかし現実の討論は、原発再稼動問題は棚に上げて態度を明確にせず、また避難生活を続ける被災者たちの具体的解決策についても議論は深まらなかった
 
最大の原因は、佐藤前知事の後継者である前副知事候補に自民、民主、公明、社民各党が相乗りしたことだ。原発再稼動政策を推進する自民党、これに追随する公明党、党内で意見が分かれて明確な態度を打ち出せない民主党、それに加えて原発再稼動反対の社民党までが前副知事候補に相乗りしたのだから、原発再稼動問題は知事選の政策としては棚上げする以外に道がなくなったのである。このことは、前副知事が9月30日の政策発表の記者会見で県外の原発再稼動に関する賛否に問われて、「福島県知事が直接的に言及する立場ではない」と言明したことでも明らかだろう(毎日新聞、同上)。
 
このように与野党相乗りの前副知事候補が戦う前から「当選確実候補」になったことで、被災者の要求に対して具体的な政策を用意する必要もなくなった。上記の候補者討論会では相乗り候補に対して被災者の生活課題についての質問が集中したが、当該候補は抽象的な発言に終始して言質を与えなかった。当選確実なので具体的な公約をしない方がその後の県政運営に楽になる、との政治的思惑が先行したのだろう。これでは被災者や県民の知事選に対する期待が薄れ、シラケムードが広がるのも無理はない。またこの状態が選挙期間中も継続することになれば、原発事故発生後の最初の知事選の意義は大きく損なわれることにもなりかねない。
 
最後に、今回の知事選での原発再稼動問題に関して、某福島大教授が「全国の原発をどうするかは、国や全国の人が考えるべき問題だ。被災地だけに日本の原発政策のあり方を背負わせるのはお門違いだ」(朝日、同上)と発言していることについて一言コメントしておきたい。もとより全国の人たちは、福島県知事が全国の原発再稼動に関する権限を持っているなどと誰一人考えていない。だが、「原発安全神話」のもとで原発立地・稼動が全国展開され、福島県がその最初の犠牲になった地域であることを思えば、その反省もこめて福島県が原発立地県の教訓を全国にもっと発信してほしいと願っているのである。
 
全国で原発再稼動反対の運動を展開している人びとは、大飯原発差し止め訴訟の勝訴を勝ち取った福井県をはじめとして各地で懸命の努力を傾けている。今回の福島知事選はその連帯の場に他ならないのであって、「被災地だけに日本の原発政策のあり方を背負わせる」などとは毛頭考えていない。「お門違い」発言は自らの頭にも降りかかるものであることを、当該教授は胸に手を当ててよく考えて欲しい。
以下、昨日の特定秘密保護法「運用基準」閣議決定問題に関する報道3本と日弁連の「異議」声明 (全文)です。日弁連の「異議」声明は改めて秘密保護法の問題点と同法運用基準の問題以前の問題(ざる法ぶり、でたらめさ)を指摘して正鵠です。あわせて特定秘密保護法審議過程の議論を示す公文書(毎日新聞 2014年10月10日)も資料としてアップしておきます。
 
秘密法、運用基準閣議決定 監視機関も身内組織
(東京新聞 2014年10月15日)
 
政府は十四日、国民の「知る権利」を侵害する恐れのある特定秘密保護法の運用基準と、施行期日を十二月十日とする施行令を閣議決定した。政府が「秘密」を拡大解釈して恣意(しい)的に運用することに歯止めもないまま、施行手続きが終えられた。世論の反対を押し切って同法を成立させて十カ月。この間、主要な三つの懸念は何も変わっていない。最も懸念されるのは拡大解釈だ。法律では特定秘密の対象を「防衛」「外交」「特定有害活動(スパイ防止)」「テロの防止」の四分野とした。運用基準でこれを五十五の細目に分けたが、「領域の保全のために政府が講ずる措置またはその方針」など、政府が幅広く解釈できる項目が並ぶ。運用基準で「必要最小限の情報に限る」と留意事項も加えたが、指定判断は政府に委ねられたままだ。拡大解釈の歯止めになるべき監視機関も、身内の組織にすぎない。菅義偉官房長官は十四日の記者会見で「厳格にチェックできる二重、三重の仕組みを設けた」と強調したが、内閣府の「独立公文書管理監」は審議官級で、秘密指定する閣僚より立場が弱い。内閣官房に各府省庁の次官級による「内閣保全監視委員会」がつくられるが、官僚機構に変わりない。秘密指定の期間は原則三十年だが、一度指定されれば、政府の判断で永久に指定され続ける懸念もそのまま残った。秘密を漏らした側には罰則があるのに、不当な秘密指定への罰則がない問題も改善されていない。運用基準を了承した自民党総務会では「米国の秘密制度では『非効率性の助長』などに当たる秘密指定をした場合、行政側に罰則規定があるが、秘密保護法にないのはおかしい」との疑問が出たが反映されなかった。
 
秘密保護法:運用基準決定「知る権利尊重」具体策示されず
(毎日新聞 2014年10月14日)
 
特定秘密保護法に基づく秘密の指定や解除のあり方を定めた運用基準と、法の施行日や秘密指定できる行政機関を19機関とする政令が、14日午前の閣議で決定された。特定秘密保護法には「報道・取材の自由への配慮」が記され、運用基準には「国民の知る権利の尊重」の文言が盛り込まれた。しかし具体策は示されていない。運用基準を了承した自民党総務会でさえも「どうやって担保するのか」との声が上がったという。情報に関する法律の専門家は、秘密の漏えいが起きた時、入手した記者が刑事訴追されなくても、情報源の公務員を割り出すために捜査当局が記者のパソコンやICレコーダーを押収したり、記者が情報源を明らかにするよう求められたりする事態を懸念する。鈴木秀美・大阪大大学院高等司法研究科教授は「報道機関への情報提供の道を確保するため、ドイツの刑事訴訟法のように、報道関係者が取材源の証言を拒絶できる権利を明文化すべきだ」と話す。秘密指定が妥当かをチェックするために内閣府に置かれる「独立公文書管理監」や「情報保全監察室」の役割も運用基準に示されたが、政府の内部にあって手加減なく監視活動ができるかが焦点だ。そのために、官庁からの異動で配置される可能性のある管理監や監察室の職員が、古巣に戻らない制度を求める意見が与党の公明党からも出ている。だが実現は不透明だ。政府は秘密保護法の運用に対する懸念の声に「二重三重の(チェックの)仕組みで恣意(しい)的、不正な運用はできない」(安倍晋三首相)との説明に終始している。同法は施行まで2カ月を切った。国会論議を通じて課題を洗い出し、政府は具体的な措置でそれに応えるべきだ。
 
<特定秘密保護法>政府の運用基準に日弁連が「異議あり!」 会長声明(全文)(弁護士ドットコム 2014年10月14日)
 
安倍内閣は10月14日、「特定秘密保護法」の運用基準と政令を閣議決定し、12月10日の施行を正式に決めた。これに対し、日本弁護士連合会は村越進会長の声明を発表した。
 
村越会長は声明で、閣議決定された運用基準をふまえたうえで、特定秘密保護法について「秘密指定できる情報は極めて広範であり、恣意的な特定秘密指定の危険性が解消されていない」「多くの特定秘密が市民の目に触れることなく廃棄されることとなる可能性がある」などと指摘している。
 
そして、特定秘密保護法には「依然として重大な問題がある」とし、同法を「まずは廃止」したうえで、「国民的議論を進めていくべき」と強調している。

公文書に見る特定秘密保護法審議過程(毎日新聞 2014年10月10日)
 
秘密保護法施行令(案)等の閣議決定に対する会長声明
(日弁連 2014年10月14日)
 
本日、特定秘密の保護に関する法律(以下「秘密保護法」という。)の施行令(案)及び運用基準(案)等が閣議決定された。
 
情報保全諮問会議が本年7月に作成した同施行令(素案)及び運用基準(素案)等については、7月24日からパブリックコメントが実施され、難解な内容にもかかわらず、2万3820件の意見が提出された。情報保全諮問会議ではこれを検討し、施行令(案)及び運用基準(案)等を作成し、9月10日に内閣総理大臣に提出した。その内容は、前記の各素案とほとんど変わらないものであった。
 
他方、国連人権(自由権)規約委員会は7月31日、日本政府に対して、秘密指定には厳格な定義が必要であること、ジャーナリストや人権活動家の公益のための活動が処罰の対象から除外されるべきことなどを勧告した。
 
当連合会は、9月19日付けで「特定秘密保護法の廃止を求める意見書」を公表し、この法律の廃止を改めて求めたところであるが、市民の強い反対の声を押し切って成立した秘密保護法には、依然として、以下のとおり、重大な問題がある。
 
(1)秘密保護法の別表及び運用基準を総合しても、秘密指定できる情報は極めて広範であり、恣意的な特定秘密指定の危険性が解消されていない。
 
(2)秘密保護法には、違法・不当な秘密指定や政府の腐敗行為、大規模な環境汚染の事実等を秘密指定してはならないことを明記すべきであるのに、このような規定がない。
 
(3)特定秘密を最終的に公開するための確実な法制度がなく、多くの特定秘密が市民の目に触れることなく廃棄されることとなる可能性がある。
 
(4)政府の恣意的な秘密指定を防ぐためには、すべての特定秘密にアクセスすることができ、人事、権限、財政の面で秘密指定行政機関から完全に独立した公正な第三者機関が必要であることは国際的な常識であるが、同法が規定している独立公文書管理監等の制度にはこのような権限と独立性が欠けている。
 
(5)運用基準において通報制度が設けられたが、行政組織内での通報を最優先にしており、通報しようとする者を萎縮させる。通報の方法も要約によることを義務づけることによって特定秘密の漏えいを防ぐ構造にしてあるため、要約に失敗した場合、過失漏えい罪で処罰される危険に晒されている。その上、違法行為の秘密指定の禁止は、運用基準に記されているのみであり、法律上は規定されていないので、実効性のある公益通報制度とは到底、評価できない。
 
(6)適性評価制度は、情報保全のために必要やむを得ないものとしての検討が十分になされておらず、評価対象者やその家族等のプライバシーを侵害する可能性があり、また、評価対象者の事前同意が一般的抽象的であるために、実際の制度運用では、医療従事者等に守秘義務を侵させ、評価対象者との信頼関係を著しく損なうおそれがある。
 
(7)刑事裁判において、証拠開示命令がなされれば秘密指定は解除されることが、内閣官房特定秘密保護法施行準備室が作成した逐条解説によって明らかにされたものの、証拠開示が命じられるかどうかは、裁判所の判断に委ねられており、特定秘密を被告人、弁護人に確実に提供する仕組みとなっていない。そもそも秘密保護法違反事件は必要的に公判前整理手続に付されるわけではなく、付されなかった場合には、被告人、弁護人が秘密を知ることなく公判手続が強行される可能性が大きく、適正手続の保障は危殆に瀕する。
 
(8)ジャーナリストや市民を刑事罰の対象としてはならないことは、国家安全保障と情報への権利に関する国際原則であるツワネ原則にも明記されており、アメリカやヨーロッパの実務においても、このような保障は実現されているが、国際人権(自由権)規約委員会からも同様の指摘を受けたことは前述したとおりである。
 
当連合会は、本年8月22日付けで運用基準(案)に対するパブリックコメントを提出し、法令違反の隠蔽を目的として秘密指定してはならないとしている点について、「目的」を要件にすることは不当であり、違法行為そのものの秘密指定を禁じるべきと主張した。これに対して、政府は、運用基準(素案)を修正し、行政機関による違法行為は特定秘密に指定してはならないことを明記した。これは、今後ジャーナリストや市民が違法秘密を暴いて摘発されたときには、無罪を主張する法的根拠となりうるものとして評価できるが、本来、法や政令において定めるべきことである。
 
また、独立公文書管理監職は一名しかおらず、特定秘密の閲覧や秘密指定解除の是正勧告等の権限を有する者であるから、その独立性及び権限行使の的確さが強く求められるところ、どのような者が担当となるかについて政府は全く明らかにしていない。加えて、(1)独立公文書管理監を補佐する情報保全監察室のスタッフの秘密指定機関へのリターンを認めないこと、(2)すべての秘密開示のための権限を認めること、(3)内部通報を直接受けられるようにすることなど、運用基準(素案)の修正により容易に対応できたが、これらの意見は修正案に採用されなかった。政府は恣意的な秘密指定がなされないような仕組みを真剣に構築しようとしているのか、極めて疑問である。
 
市民の不安に応え、市民の知る権利と民主主義を危機に陥れかねない特定秘密保護法をまずは廃止し、国際的な水準に沿った情報公開と秘密保全のためのバランスの取れた制度構築のための国民的議論を進めるべきである。
 
2014年(平成26年)10月14日
日本弁護士連合会
会長 村越 進
藤原新也さん(作家・写真家)が「ノーベル賞雑感。」という文章を本日付けでご自身のブログに掲載しています。「マララさんのノーベル平和賞の受賞」についての藤原さんの視点からの疑問と問題提起の弁です。藤原さんの問題提起は広く共有されるべきものだろうと私は思います。とりわけ「今回、日本の“勇士”は日本国憲法第九条を平和賞の対象として申請したが、かりにこの第九条が世界に類を見ない“理念”であったとしても、それをノーベル賞の対象として申請することそれ自体が“政治(的な)動き”であり、九条の理念を汚すものだ」という藤原さんの指摘と問題提起は、私の論理と思いとも重なるものであり、私として意を強くする指摘であり、問題提起でした。
 
藤原さんの文章のご紹介の前にこの10日ほどの間にノーベル賞、またノーベル平和賞について書いた私の文章(引用文を含む)もあります。あわせてご紹介させていただこうと思います。以下4本(URLのみ)。
 
昨日(12日付)の記事の訂正を含む追記と本日の「ノーベル平和賞」問題に関するあるメールへの返信(2014.10.13)
 
マララさんのノーベル平和賞受賞問題を考えるための2本プラスアルファの記事の紹介 ――「マララさんのノーベル平和賞で期待される変革」(ウォール・ストリート・ジャーナル)」と「タリバーン幹部からマララへの手紙」(田中真知)」(2014.10.12)
 
今日の言葉 ――ノーベル平和賞の栄誉に輝いたマララさんとは対照的にアメリカの攻撃で命を失ったアフガニスタンやイラクの少女たちは何の賞賛も償いも受け取ることはなかった。私はこのことを不公正だと思う(2014.10.11)
 
「憲法9条」問題以前の問題としての「ノーベル賞」と「勲章」について ――「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」としてサルトルはノーベル文学賞を辞退した。私はサルトルのその言葉に深く共鳴する(2014.10.05)
 
さて、以下、藤原新也さんの論。
 
ノーベル賞雑感。(藤原新也 Shinya talk 2014/10/14)
 
マララさんのノーベル平和賞の受賞にはさまざまな批判がある。
 
イスラム国台頭の最中、対イスラム過激派共闘へのプロパガンダとされた感は確かに否めない。
 
というより絶妙のタイミングだったと言える。
 
化学賞などと異なり、この平和賞が久しく政治的道具とされていることは佐藤栄作のようなゴロツキ政治家が企業を後ろ盾の多額の裏献金によって授賞していることからも明らかだ。
 
また今回、日本の”勇士”は日本国憲法第九条を平和賞の対象として申請したが、かりにこの第九条が世界に類を見ない”理念”であったとしても、それをノーベル賞の対象として申請することそれ自体が”政治動き”であり、九条の理念を汚すものだ。
 
これは日本人すべての上にある理念であり、一部の県人による富士山の世界遺産申請同様、一部の人間によって勝手にノーベル賞候補として申請されても困るのである。
 
 
民族衣装を纏った世界の悪と戦う汚れなき少女の持つ不屈の魂と勇気。
 
マララさんの場合は欧米の価値観や欧米主導の政治のイコンとなるにはこれ以上にない”道具立て”を所有していた。
 
そしてまた少女はその”お膳立て”に十分すぎるほど応えている。
 
私は彼女を見ているとついインドやパキスタンの旅を思い出してしまう。
 
なぜかあっちの方にはこういう小娘がよく居るのだ。
 
エリートの子供で、学校の成績のよいらしい歳の端もいかない10代の小娘が自信たっぷりに大人顔負けの饒舌な口調で(稚拙な)論理を振り回す。
 
まるで街頭の香具師ではないかと思えるほど口八丁手八丁だ。
 
その過剰な自己主張は一体どこから出ているのだろうと思うことがある。
 
日本にあまりこういった10代の小娘がいないので想像がつかないだろうが、旅の中でこういう手合いが出てくると辟易する。
 
話に調子を合わせていると、自分の都合のいいように話をねじ曲げ、人の優位に立とうとする。
 
マララさんもここのところ欧米世界の要請に応えるように自己ヒーロー化に向かっての言葉の脚色がエスカレートしている。
 
もともと彼女の存在が世の一部に知られたのは彼女の住む地域がタリバン運動に席巻され女性の教育が禁止されたおり、イギリスのBBCの依頼によって現状をブログに書いたことがきっかけだった。
 
彼女はその時、スクールバスでの通学にビクビクしている、という発言をしている。
 
そしてそのコメントによって彼女は特定され、狙撃された。
 
わずか11歳の子供である。
 
ビクビクしているとの発言であっても現地の状況を考えると勇気ある発言であり、それは彼女の偽りのない本心だろう。
 
その折の狙撃される前の彼女のポートレイトを見て私は汚れのない綺麗な子だとも思った。
 
だがそれから6年、彼女は欧米の”マララ・ヒーロー化計画”に応えて饒舌と脚色をエスカレートさせて行く。
 
その真骨頂がノーベル平和賞の授賞の弁の中で出て来た以下の文言である。
 
「私には黙って殺されるか、発言して殺されるかしか選択肢がなかった。だから私は立ち上がって発言してから殺されようと思った」
 
まさに世界を唸らせるサビの効いた文言である。
 
情報の溢れるこの情報化社会においては象徴となるような有効なワンコピーが功を奏すと言うことを十分心得たフレーズでもある。
 
ひよっとしたら広告代理店が一枚噛んでいるのではないかと思わせるほどの出来映えである。

引用者注:上記の藤原さんの指摘に関して、私は、昨日付けの弊ブログ記事に以下のような情報を掲載しています。

・「マララ女史の活動をコーディネートする広告代理店はEdelman。同社はMicrosoftとスタバの広告業務も請け負う。2012年から活動をサポートし、現在5名からなるチームが担当。
 
・「マララ女史の国連スピーチを書いたのは、どうやら広告代理店EdelmanのJamie Lundie氏のようだ。平和へのアピールに広告代理店が絡むのは、本当に仕方の無いことなのだろうか?私はどうしても、こういうやり方が好きになれない。」
 
ふとそう思うのは授賞の弁を全文読んでみると非常に優等生的平板なものでありながら、このフレーズだけが全体から浮いたように”高等”だったからだ。
 
いやかりにそれが彼女自身が作った”コピー”であったとしても、あの”ビクビク”から”殺されようと思った”のわずか6年の間に彼女の身に何が起こったのか。
 
それはそのわずか6年の間の少女のポートレイトの変化に現れていると写真家の私は見る。
・「『当局の訴追を招いたのは産経の言論の自由の濫用の結果』と産経紙を一刀両断に切り捨てる一頭地を抜く明晰明快な猪野亨弁護士の論」の追記として。 
 
今日になって知ったことですが、「河信基の深読み」ブログが2014年10月9日付けで「産経新聞前ソウル支局長起訴 根拠のない噂と言論の自由」という記事を書いていて、その中で「日本の一部メデイアは隠しているが、加藤容疑者は市民団体の告発を受けて検察の聴取を受けた。一部メデイアは大統領が権力を行使したかのような憶測を流すが、そうした事実は一切認められず、大統領は一被害者として処罰を求めただけである」と指摘しています。
 
「加藤容疑者は市民団体の告発を受けて検察の聴取を受けた」という河信基さんの指摘が正しいとすれば(私は正しいと思いますが)、本記事に「韓国の検察批判は法の道理から見て当然」と書いた私の判断は韓国政府の「国家権力の行使」ということを前提にした判断ですから訂正しなければならないように思います。市民の告発を受けて韓国の検察が加藤産経新聞記者の事情聴取をしたのであれば下記に引用している猪野亨弁護士の記事においても「これが事実でなければ名誉毀損にあたるのは当然のことでしょう」と指摘されているくらいですから、加藤記者を事情聴取したこと自体は韓国の検察としては当然の行為というべきでしょう。ただし、韓国の検察は起訴という強権発動には抑制的であるべきでした。一方で「言論の自由」、「報道の自由」があることも確かなことです。起訴という強権を発動すべきではなく、言論には言論という手段を講じて対抗すべきところだったと思います。
 
・本日の「ノーベル平和賞」問題に関するあるメールへの返信として。
 
あるメールの要旨
今年のノーベル平和賞を一七歳のマララ・ユスフザイさんが受賞した。憲法第九条(を保持する日本国民)が有力候補に上がっていたのに受賞できなかったことは残念であるが、彼女の誕生日に合わせて昨年七月一二日に国連本部で行われた演説(「東京新聞」一〇月一一日)を一読して深く感動し学んだ。一六歳の少女の演説とはとても思えない。ノーベル賞の限界や欠点をあげつらうことよりも、マララさんの崇高な行いに学ぶことのほうが遥かに大きな意味がある。若い人たちが彼女に感動して後に続こうとしていることは大いなる希望である。おそらく人間には完全無欠ということはありえず、限界や欠点を伴わない人間やその行為はないだろう。賞賛に値する行為から学ぶことによって、平和を創造することや社会制度を変革することも実現できるに違いない。
 
私の疑問としての返信
ノーベル賞の限界や欠点をあげつらう?
 
「マララさんが非道な暴力で殺害されようとし、奇跡的に回復し、女性の教育、こどもの権利を訴えることは称賛に値すると思う。彼女に対するパキスタン、タリバンの暴力も絶対に容認出来ない。しかし、パキスタンタリバンに襲撃されたことでノーベル平和賞の栄誉に輝いた彼女とは対照的に、アメリカの攻撃で命を失ったアフガニスタンやイラクの少女たちは何の賞賛も償いも受け取ることはなかった。私はこのことを不公正だと思う」と指摘することが、また、その指摘されていることを紹介するのが「欠点をあげつらう」ことか?
https://twitter.com/masanorinaito/status/520600991343734784
https://twitter.com/masanorinaito/status/520601183266676736
 
また、「『女性の教育権を訴えたマララ・ユスフザイさん』ノーベル平和賞のニュース。これで、イスラームが女性の教育を禁止しているとか渋っているというイメージが蔓延すると嫌。現に、エジプトのアズハル大学(イスラームの総本山)には女子部も完備され、女性も様々な分野の大学教育を受けることができる」という指摘が、「欠点をあげつらう」ことにすぎないのか?
https://twitter.com/harukosakaedani/status/520718974380560384
 
マララさんの崇高な行いに学ぶ?
 
ではなぜ米議会は、また日本政府は、また米国、日本国民は「CIAのドローン誤爆で祖母を失い兄弟姉妹が負傷したナビラさんの話」に学ぼうとしないのか? 「米議会は430人のうちたった5人が、CIAのドローン誤爆で祖母を失い兄弟姉妹が負傷したナビラさんの話を聞くために出席したと。マララさんが議場に来たら万雷の拍手だったろうに。アンフェアな事を重ねることによってテロの脅威は格段に増す」という指摘もあります。
https://twitter.com/masanorinaito/status/521294449112936448
 
その不公正を訴えることが、また、「マララさんの行いに学ぼうというのならば、なぜナビラさんの行いに学ぼうとしないのか」と訴えることが「ノーベル賞の限界や欠点をあげつらう」ことか?
 
「世間」(いまやこの「世間」は世界的規模で創出されています)なるものに流されてはいけない。
 
「世間」が意図的に創られる、という点については、以下のような情報もあります。
 
「マララ女史の活動をコーディネートする広告代理店はEdelman。同社はMicrosoftとスタバの広告業務も請け負う。2012年から活動をサポートし、現在5名からなるチームが担当。
https://twitter.com/May_Roma/status/520546033030684672
 
「マララ女史の国連スピーチを書いたのは、どうやら広告代理店EdelmanのJamie Lundie氏のようだ。平和へのアピールに広告代理店が絡むのは、本当に仕方の無いことなのだろうか?私はどうしても、こういうやり方が好きになれない。」
https://twitter.com/curatorshinya/status/521426673884217345
私は産経ソウル前支局長起訴問題に関して下記の猪野亨弁護士(「弁護士 猪野 亨のブログ」主宰)の単純にして明晰、明快な論に拍手を送りたいと思います。ここでいう「単純」は「純一」、あるいは「純粋」の意です。もちろん、「一面的」や「ゆき届かない」などの意ではありません。猪野弁護士は「革新」や「保守」などという色分けにはおそらく興味はないでしょう。そして、おそらくしがらみもない。「道理」に基づいて、ただ坦々と記事を書いた。それが以下のような記事になった、ということなのだろうと思います。
 
韓国の検察批判は法の道理から見て当然なことですが、この国のメディアに勤める秀才は「言論の自由」や「報道の自由」という教科書に書いてあるとおりの批判はわりとお得意のようですが、自らが業とする足下のメディアの言論の低俗化と堕落という教科書外の分野についてはなんとも無自覚的、おそらく想いも到らないのでしょう。猪野弁護士の論はそこを「道理」という誰にもわかるレベルでおそらく意図せずに衝いています。それゆえに明晰、明快ともいえるのです(なお、引用記事の改行、強調は引用者)。

追記(10月13日)
今日になって知ったことですが、「河信基の深読み」ブログが2014年10月9日付けで「産経新聞前ソウル支局長起訴 根拠のない噂と言論の自由」という記事を書いていて、その中で「日本の一部メデイアは隠しているが、加藤容疑者は市民団体の告発を受けて検察の聴取を受けた。一部メデイアは大統領が権力を行使したかのような憶測を流すが、そうした事実は一切認められず、大統領は一被害者として処罰を求めただけである」と指摘しています。
 
「加藤容疑者は市民団体の告発を受けて検察の聴取を受けた」という河信基さんの指摘が正しいとすれば(私は正しいと思いますが)、本記事に「韓国の検察批判は法の道理から見て当然」と書いた私の判断は韓国政府の「国家権力の行使」ということを前提にした判断ですから訂正しなければならないように思います。市民の告発を受けて韓国の検察が加藤産経新聞記者の事情聴取をしたのであれば下記に引用している猪野亨弁護士の記事においても「これが事実でなければ名誉毀損にあたるのは当然のことでしょう」と指摘されているくらいですから、加藤記者を事情聴取したこと自体は韓国の検察としては当然の行為というべきでしょう。ただし、韓国の検察は起訴という強権発動には抑制的であるべきでした。一方で「言論の自由」、「報道の自由」があることも確かなことです。起訴という強権を発動すべきではなく、言論には言論という手段を講じて対抗すべきところだったと思います。
 
産経新聞ソウル前支局長起訴、韓国を挑発したことの意味
(弁護士 猪野 亨のブログ 2014/10/11)
 
産経新聞ソウル前支局長が、韓国の朴槿恵大統領の事実無根の私事を掲載したとして名誉を毀損の罪で起訴されました。この当局が行った起訴に対して、日本のマスコミなどが言論の自由を侵害する行為として一斉に非難しています。産経新聞に対する政治的起訴であり、この起訴は不当だというものです。その前提として、前支局長が掲載したコラムに対する評価は、色々あるようですが。
 
この前支局長が産経新聞コラムに掲載した内容については、私も読みましたが、低俗な週刊誌レベルのものです。大手新聞であれば決して掲載されるような内容のものではありません。他紙のコラムを引用しただけのように言っていますが、どうみてもそこに「独自」の評価、表現を入れています。そして、これが事実でなければ名誉毀損にあたるのは当然のことでしょう。
 
これに対し、韓国検察当局は、明らかに産経新聞だから起訴をしたということになります。だから、この起訴は政治的起訴であることはその通りでしょうが、しかし、この起訴によって韓国における政治的言論の自由が萎縮させられてしまうというのでしょうか。
 
今回、問題になった前支局長のコラム記事は、どうみても韓国を挑発するためのものです。あの水難事故のときの朴槿恵大統領の対応は、韓国国内でも国会でも追及されていました。朴槿恵大統領の行動に問題があったとはいえ、あのようなレベルのコラムを掲載するのは、責任追及という視点はまるでなく、単に韓国を挑発するだけのものです。まさに産経新聞ならではの挑発行為です。
 
韓国当局も従軍慰安婦問題では、産経新聞を苦々しく思っていたでしょうが、右翼紙である産経新聞が、韓国を苦々しく思っていたことも明らかです。そのような背景の中で、産経新聞は、あのような挑発的なコラムを掲載するのですから、何ともいえず、下品な行為をしたものです。その挑発行為に踊らされる韓国当局も問題です。国家権力であり、ある意味では産経新聞(前支局長)とは対等ではない関係(一方が一方的に身柄を拘束し、裁判に掛けることができる)なのですから、そこは言論でもって対抗すべきところです。起訴という強権発動は抑制的であるべきであり、国家の対応としては疑問に思われるのは当然のことです。今回の韓国当局による訴追は、韓国の評価を下げました。
 
他方で原因を作ったのは、明らかに韓国を挑発した産経新聞側です。その意味では産経新聞側も厳しく批判されなけばなりません。このような言論の自由を濫用するような行動をとることによって当局の訴追を招くのは、言論の自由の濫用の結果といわざるを得ません。言論の自由の萎縮を招くという場合、当局に口実を与えている場合も少なくありません。今回の韓国当局による起訴に対する批判はおきても、産経新聞側を擁護する声は皆無と思われます。
 
ところで、このような言論の自由の価値を引き下げていく行為は産経新聞だけではありません。芸能などの覗き見趣味の週刊雑誌などの行為は、言論の自由と言うのもおこがましいものです。これを声高に言ってしまっている人がいました。「芸能リポーター・井上公造氏が一般人に怒り「ケンカ売るんなら、正々堂々としようよ!」」

この井上氏の主張は、全くもって屁理屈に過ぎず、また自分こそが言論の自由の価値を貶めていることの自覚もなく、せいぜい営業の自由の範ちゅうで語る程度のものです。例えば、「他人の仕事を否定する権利なんて、誰にもない」などということですが、当然に批判の対象になるという大前提がすっぽり抜けているようでは、言論人として失格です。また、「必要とされない職業だったら、需要がなくなるはず。」というのも商業レベルの話で、単に覗き見趣味の人の需要に応えているだけにすぎません。極めつけは、「芸能は格下と言う考えが差別です。政治、経済、社会ネタ、スポーツも含め、全て同じステージに立っています。」ですが、同じステージに立っているという認識がおかしいのです。政治的報道と、芸能人の離婚報道が等価値という発想があり得ないし、それは差別でも何でもない、むしろ当然のことです。民主主義社会を支える報道(批判)の自由は、まさに政治ネタ、経済ネタだったりするわけで、決して、芸能ネタではありません。
 
前掲、産経新聞の前支局長のコラムは、いってみれば、この芸能ネタの範ちゅうレベルなのです。このようなものが、結局は、報道に対する規制が強化されていくことのきっかけであったりもするのです。あるいは、他の政治経済に関する言論などの価値を相対的に弱めることになっているということも忘れてはなりません。
 
もう一本。産経ソウル前支局長起訴問題については岩月浩二弁護士(「街の弁護士日記」ブログ主宰)も昨日付けで「日韓両国視界不良 産経新聞ソウル支局長刑事訴追事件」という記事を書いています。同記事の中での「噂を噂として報じたのだから問題はないとするのが、産経新聞の主張のようだが、読者が新聞に期待するのはその程度のことだという認識であるのであれば、産経新聞のお気楽さは、『誤報』の朝日新聞の比ではない」という指摘はさすがに岩月弁護士と思わせる指摘ですが、同氏の今回の論は全体としては的を外しているように見えます。したがって、私としては、以下に記事の所在のみを示しておくことにします。
 
日韓両国視界不良 産経新聞ソウル支局長刑事訴追事件
(街の弁護士日記 2014年10月11日)
はじめにマララさんのノーベル平和賞受賞についてこの国の一般的な受け止め方を示す記事として日本ジャーナリスト会議の「今週の風考計」記事
 
ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんに、もう、母国のパキスタン・イスラム武装勢力は「イスラムの敵には鋭いナイフを用意している」と脅迫し、17歳のマララさんへの攻撃を続けると示唆した。いったい彼らは何を考えているのだろうか。マララさんは「子供たちには良質な教育を受ける権利、児童労働から逃れ人身売買の被害にあわないですむ権利、そして幸せな人生を過ごす権利がある」と、5700万人の教育を受けられない子供たちの救済をめざし、世界に向けてスピーチした。しかも共同受賞者の、インドで児童労働問題に取り組むカイラシュ・サトヤルティさんと話し合い、印パの国境紛争を憂い、両国の関係改善に向け、それぞれの首相に授賞式への出席を要請するとも語った。17歳、高校生の言葉に胸を打たれる。香港でも、行政長官の選挙をめぐり民主化を求めて大規模なデモが巻き起こっている。その活動の中心は、大学生や高校生などの若い世代が担っている。日本はどうか。高校の文化祭では<お化け屋敷>が人気だという。これでいいのだろうか。 
 
注: 上記のJCJの記事でマララさんが「イスラムの敵には鋭いナイフを用意している」とパキスタン・イスラム武装勢力から脅迫された件については以下の記事を参照。
 
マララさんへの攻撃を示唆 「敵にナイフ」と武装勢力
(共同通信 2014/10/12)
 
続いて「マララさんのノーベル平和賞で期待される変革」と題されたWSJの記事。
 
マララさんのノーベル平和賞で期待される変革
(ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 2014年10月12日)
 
By HUSAIN HAQQANI 
原文(英語)
 
パキスタン出身の17歳の少女マララ・ユスフザイさんが10日、史上最年少でノーベル平和賞を受賞することが決まった。反啓蒙的なタリバンに立ち向かい、近代的な教育を受ける権利を主張した勇気が評価された。その勇気のために、彼女は2012年にイスラム過激派に頭部を銃撃された。
 
マララさんと同時受賞が決まったカイラシュ・サトヤルティ氏は子どもの権利の擁護を訴えるインド人活動家だ。折しもパキスタンとインドの軍隊は領有権を争うカシミール地方の前線で銃撃戦を繰り広げている。このタイミングで、平和と人権を促進したことが評価されて世界の誰もが欲しがる賞を若いパキスタン人と子どもの権利を守ろうと訴えるインド人が分かち合うことに大きな意味がある。
 
タリバンの野蛮な振る舞いに抵抗したマララさんの勇気はノルウェーのノーベル委員会から称賛されたが、パキスタンで聞かれるマララさんへの批判の声は若い彼女が自身をかけて戦った国家の停滞の表れである。数百人のパキスタン人の若者――そのほとんどがクリケットの元スター選手イムラン・カーン氏の支持者だ――がツイッター上で「MalalaDrama(マララ茶番)」というハッシュタグを使い始めた。イスラム教国のパキスタンに西洋的な価値観を押し付けようとしている邪悪な西側の道具というレッテルをマララさんに貼るためだ。ツイッター上では神を冒涜(ぼうとく)した容疑でマララさんを告発すべきだという声もわずかだが上がっている。パキスタンでは昔ながらの思想以外なら何を主張しても神への冒涜として告発されることが珍しくない。幸いなことに、マララさんは頭部の傷の治療のために渡英し、現在はバーミンガムに住んでいる。
 
マララさんは09年にタリバンの支配下の生活について記録し始めた。そのころにはタリバンがパキスタン北西部のスワート渓谷を支配しており、マララさんが通っていた学校を閉鎖しようとしていた。タリバンとタリバンを支持するイスラム主義者は女子教育に反対しており、男子の教育についても進んだ考えは持っていなかった。外に出ることがほとんどない村の少女だったマララさんは世界とつながりたいと思っていた。彼女はパキスタン人のベナジル・ブット氏から刺激を受けたと語っている。ブット氏はイスラム世界で初の女性首相になり、2007年に自分たちの意向に逆らっていると受け止めたテロリストによって殺害された。
 
タリバンは彼らが主張するイスラム教を武力で容赦なく押し付けたが、マララさんはそれを拒否することで、イスラム過激派に譲歩を続ける多くのパキスタンの政治家、将軍、有名な知識人を超える先見性を示した。彼女はタリバンがパキスタンを数世紀前に後戻りさせる脅威だと認識しており、タリバンは米国の支配やインドの影響力にナショナリストが反発した結果であるというプロパガンダを受け入れなかった。
 
パキスタンの指導者は長い間、国家の優先課題を完全に無視してきた。1947年の誕生以来、圧倒的に広い国土を持つ隣国インドと軍事的に対等な立場に立つことを重視してきた国家にとって、多くの場合、宗教過激主義とテロリズムは深刻な脅威とはみなされない。パキスタンの戦略立案者はタリバンを近代化に抵抗する残虐な人間と見る代わりに、ソ連の撤退後、アフガニスタンでインドの影響力に共に抵抗した仲間だと考えている。
 
タリバンのイデオロギーに近いテロ集団は、カシミール地方をめぐるインドとの長年の紛争を解決したいと願うパキスタンの歴代政権から支援を受けていた。パキスタンは01年の米同時多発テロ以降、テロ攻撃で何千もの市民や兵士を失ったが、(テロ集団を支持するという)戦略上の妄想は今もはびこっている。
 
反西欧的な感情と集団的な被害者意識も醸成された。社会政策や経済政策が真剣に議論されることはなかった。パキスタンの資源はもっぱら大規模な軍隊の維持と核兵器の増強に投じられ、教育や医療などの社会的なニーズへの投資は不十分だ。その結果、パキスタンは事実上、ありとあらゆる所で失敗国家候補として名前が挙がっている。2億人近い人口の半分は字が読めず、人口増加率は高止まりしている。経済成長率が上昇するのは米国からの援助が増えたときだけだ。
 
パキスタン最大の大学であるパンジャブ大学のムジャヒド・カムラン副学長が13年に発表した著作はパキスタンやイスラム世界の大部分が直面している危機を的確に表している。カムラン氏――エジンバラ大学で物理学の博士号を取得した――は「9/11&The New World Order(9・11と新世界秩序)」の中で、9・11のテロ攻撃は内部による犯行で、アルカイダは米中央情報局(CIA)のスパイだと主張している。カラチの新聞エクスプレストリビューンが13年9月に掲載した記事によると、カムラン氏は本の出版記念式典で「米英政府は銀行家一族の高度な陰謀に支配されている。銀行家一族はわれわれの脳にマイクロチップを埋め込んでわれわれを操作しようとしたり、パキスタンのテロ攻撃に資金援助を行ったりしている」と述べた。
 
カムラン氏はかつて米国のフルブライト奨学生で、米国政府の民間外交プログラムの有効性欠如を如実に示しているともいえる。しかし、パキスタンが遅れているのは指導者の多くが無知であるせいではなく、米国の見えざる手による陰謀のせいだと信じているのは彼だけではない。一つ例を挙げよう。私はパキスタン軍の将軍が米国の電離層研究プログラム「Haarp」のせいでパキスタンでは繰り返し洪水が起きていると話しているのを聞いたことがある。
 
マララ・ユスフザイさんは勇気があることを示すと同時に、自分が生まれた社会にはびこる反啓蒙主義と陰謀説の妄想から距離を置き、年齢以上に賢明であることを証明した。マララさんは既に、パキスタンで近代化を求めて戦い続ける人々の英雄である。そして今、ノーベル平和賞によってマララさんの発言にはこれまでにないほど重みが増した。
 
(フセイン・ハッカニ氏はハドソン研究所の上級研究員。2008~11年に駐米パキスタン大使を務めた。著書「Magnificent Delusions: Pakistan, the United States and an Epic History of Misunderstanding(壮大な妄想:パキスタン、米国、誤解についての途方もない歴史)」は13年にパブクックアフェアーズから出版された)
 
最後に上記のWSJの記事で「イスラム教国のパキスタンに西洋的な価値観を押し付けようとしている」などの「数百人のパキスタン人の若者」の批判の声を解説するものとして田中真知さん(「王様の耳そうじ」ブログ主宰)の「タリバーン幹部からマララへの手紙」という2013年7月19日付けの記事をご紹介させていただこうと思います。マララさんのノーベル平和賞受賞についてパキスタン人のこういう声もあり、こうした見方もあるのだというご紹介のつもりです。タリバーン幹部の意見には聞くべきものがあるように思います。
 
タリバーン幹部からマララへの手紙
(田中真知「王様の耳そうじ」2013年7月19日)
 
昨年10月にタリバーンに頭を撃たれたパキスタンの16歳の女性マララ・ユスフザイ。やっと怪我から回復した彼女が、さる7月12日にニューヨークの国連本部で行ったスピーチは感動的なものとしてメディアで大きく取りあげられ、「マララさんにノーベル平和賞を」という動きまで起きているという。それはテロリズムや暴力によって子どもたちが教育の機会を奪われることがないように先進諸国に支援を求めるとともに、暴力ではなくペンによって戦うことを訴える内容だった。
 
そのマララに宛てて、数日前、パキスタンのタリバーン運動(TTP)の幹部アドナン・ラシードが書いたという反論の書簡が公開された。アドナンは、このような事件が「起きてほしくはなかった」とする一方、「タリバーンは教育そのものに反対しているわけではなく、あなたのプロパガンダが問題とされたがゆえに、あなたを襲撃したのだ」と書いている。
 
その反論や弁明にはいいわけがましい印象を受けるのもたしかだが、この書簡には西側諸国が主導してきたグローバライゼーションに対する、彼らの切実な危機感がよく表れているように思った。日本語の報道の多くは「こんな書簡が公開された」というだけで、内容には深くふれていない。
 
アドナンは書いている。「英国が侵攻してくる前、インド亜大陸の教育程度は高く、ほとんどの市民は読み書きができた。人びとは英国人士官にアラビア語やヒンドゥー語、ウルドゥー語、ペルシア語を教えていた。モスクは学校としても機能し、ムスリムの皇帝は莫大な資金を教育のために費やした。ムスリム・インドは農業、絹織物産業から造船業などで栄え、貧困も、危機も、宗教や文化の衝突もなかった。教育のシステムが高貴な思想とカリキュラムに基づいていたからだ・・・。
 
アドナンは、英国の政治家トマス・マコーリーがそうしたイスラム的な教育システムをくつがえして、肌の色と流れる血はインド人でも、趣向や思想、道徳観や知性は英国人、つまり英国かぶれのインド人という階級を打ち立てるために全力を尽くしたことにふれ、「それこそがあなたが命がけで守ろうとしている、いわゆる〈教育システム〉だ」と述べる。
 
「あなたが世界に向けて語りかけている場所、それは新世界秩序をめざそうとしているものだ。だが、旧世界秩序のなにがまちがっているのか? (新世界秩序を唱える人びとは)グローバルな教育、グローバルな経済、グローバルな軍隊、グローバルな貿易、グローバルな政府、そしてついにはグローバルな宗教を打ち立てようとしている。私が知りたいのは、そうしたグローバルな計画の中に予言的な導きというものが入り込む余地があるのかということだ。国連が非人間的・野蛮というレッテルを貼ったイスラム法の入る余地はあるのかということだ。・・・
 
「あなたはポリオの予防接種のチームに対する襲撃について語っている。だが、それなら1973年にユダヤ人である米国のキッシンジャー国務長官が第三世界の人口を80パーセントまで減らそうとしたことをどう説明するのか? 国連機関の主導のもとで避妊手術と優生学的なプログラムがさまざまな国で、いろんな形で進められたのはなぜなのか? ウズベキスタンでは100万人のムスリム女性が本人の同意なく強制的に不妊手術を受けさせられた。・・・バートランド・ラッセルは述べている。『食事と注射と強制命令を組み合わせれば、きわめて低年齢の段階で、当局にとって望ましい性格や考え方をもつ人間を生み出せる。権力を厳しく批判することなど心理的にできなくなるだろう』と。だからこそ、われわれはポリオ・ワクチンの予防接種に反対するのだ。・・・
 
「正直に答えてほしい。もしあなたがアメリカの無人機によって銃撃されたのだとしたら、はたして世界はあなたの医学的容態に関心を示しただろうか? 国の娘だと呼ばれただろうか? キヤニ陸軍参謀長があなたを見舞いに来たり、メディアがあなたを追いかけたり、国連に招かれたりしただろうか? 300人以上の罪のない女性や子どもたちが無人機(ドローン)の攻撃によって殺されてきた。でも、だれも関心を示さない。なぜなら、攻撃者たちは高い教育を受けた、非暴力的で、平和を愛するアメリカ人だからだ。・・・
 
書簡は、罪のないムスリムの血をこれ以上流すことがないように、と呼びかけるとともに、マララに対して、故郷に帰ってイスラムとパシュトゥン人の文化を学び、マドラサ(イスラム神学校)に通ってクルアーンを学び、イスラムとムスリム共同体のためにペンを用い、新世界秩序という名のもとの邪悪な計略のために、人間性を隷属させようとする一部のエリートの陰謀をあばくようにというアドバイスでむすばれている。
 
この書簡に述べられたことに筋が通っているかどうかはべつとして、マララをめぐる過度な報道に西側のプロパガンダ臭が最初からついてまわっていたのはたしかだ。マララが11歳のときからつけているという反タリバーン的な内容の日記が2009年にBBCラジオで流されたことがきっかけで、彼女は反タリバーンのオピニオンリーダーに祭り上げられた。そこには彼女の通っていた学校を運営する、詩人でもある彼女の父親の影響も当然強いだろう。だが、彼女の意見はパキスタン国内でかならずしも支持されているわけではなく、国連スピーチのあとは西側メディアの賞賛とは裏腹に、パキスタンのオンラインサイトは、マララのスピーチに対する反発のコメントであふれかえったという。
 
http://online.wsj.com/news/articles/SB10001424127887323309404578612173917367976?mod=wsj_share_tweet&mg=reno64-wsj&url=http%3A%2F%2Fonline.wsj.com%2Farticle%2FSB10001424127887323309404578612173917367976.html%3Fmod%3Dwsj_share_tweet

http://online.wsj.com/news/articles/SB10001424127887323309404578612173917367976?mod=wsj_share_tweet&mg=reno64-wsj&url=http%3A%2F%2Fonline.wsj.com%2Farticle%2FSB10001424127887323309404578612173917367976.html%3Fmod%3Dwsj_share_tweet
 
気の毒な少女が平和や教育の大切さを訴えれば、だれだってそれを表立っては批判しにくい。実際、マララという少女は勇気ある、高潔で、賢く、まっすぐな女性なのだと思う。しかし、だからこそ問題なのだ。問題はマララのスピーチの中にあるのではなく、そうしたまっすぐな子どもをプロパガンダの宣伝材料にする、というやり口にある。そうした少女が国連のスピーチで世界の賞賛を受け、ノーベル平和賞候補にまで祭り上げられる陰で、米軍の無人機による攻撃で昨年だけで300人以上、これまでには2000人以上が殺され、しかもそのほとんどが民間人であるという事実(米軍はそれを事実と認めていないが)はほとんど顧みられていないとは、どういうことなのか?
 
もっとも、子どもを戦争に利用するというのであれば、タリバーンだって同じである。子どもを誘拐して「自爆テロをすれば天国に行ける」と教え込んで送り出すというやり方は「罪のないムスリムの血を流すこと」にはならないのか。こうした自爆テロにかり出される少年兵たちについての報道もまた西側による誇張されたプロパガンダなのだろうか。どちらの発表も、どこまでが事実なのかどうか報道を見ているかぎりでは、よくわからない。現在では、あらゆる報道に、それを支えるイデオロギーやプロパガンダといったバイアスがかかっている。
 
たしかにいえるのは、このグローバル化の進んだ世界では、西洋的な教育と学校が自由や平等や平和をもたらすという考え方が、かならずしも正しいとはいえないことだ。現在いわれている自由も平等も平和もイデオロギーでしかない。エジプトでも一時期いわれていたが、女性が髪をおおっているヴェールをひきはがすことが、はたして「自由」といえるのか、ということだ。圧倒的な強者たちの中に弱者が「この世界は平等なのだから」と追いやられ、自由競争にさらされたら、ひとたまりもない。
 
話は変わるけれど、ケニアでは学校教育が義務化されたことによって、牧畜民であるマサイが青少年期に学校へ通わなくてはならなくなった。しかし、伝統的なマサイの年齢階梯では、ちょうどこの就学期が「戦士」としての修行と遍歴の期間にあたる。この戦士としての時代は10年以上つづき、その間にマサイは世界と自分の民族についての、さまざまな知識を学び、体験を積み、ライオン狩りといった試練を経て、誇りと知恵と力を身につけた一人前の存在となる。
 
この戦士期間が、彼らにとってどれほど特別なものであるか、マサイの旦那さんをもつ日本人女性の永松真紀さんから聞いたことがある。「グローバル」な教育を受けることで、英語の読み書きができるようになったりはするかもしれないけれど、戦士という伝統だけがあたえられるマサイとして生きることの尊厳のようなものは、この先、どんどん失われていくだろう。チャンスをものにして、グローバルな社会の中で成功する人たちもいるかもしれないが、伝統から引き離されて、自分の生き方に尊厳を感じられずにつぶれていく人たちだってきっといるだろう。
 
むろんそのことと、アフガニスタンの女性が教育機会を奪われていることとは同列には語れないけれど、その背景にあるグローバリズムに対する期待と危機感には共通するものがあるように思う。世の中とは変化するものだ。それも時代の必然だといってしまえば、それまでだけれど、現在の日本にあって、グローバルという名の一律な価値観や尺度にさらされながら、こんなんでよかったんだろうかと感じることの多い今日この頃だけに複雑だなあ。
凄いことになっている。公安情報を垂れ流すだけのメディア記事の量水標の水かさは増すばかりだ。この国のメディアとジャーナリズムはなぜ公安情報に抗することすらできないのか。なかには佐藤優のように公安情報を意図的に利用して世論操作する輩もいる。この佐藤優を重用しているのが「週刊金曜日」と「世界」というこの国のジャーナリズムと論壇の現実。それを支える自称「進歩的」なる「革新」市民。私にはもう言うべき言葉もない。辺見庸が謂うように「われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること」(「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」以外ないのだ、と私も思わざるをえません。
 
寺澤有さん(ジャーナリスト)の警告(寺澤有Twitter 2014年10月10日
「イスラム国」参加企て 支援者、渡航・生活費工面←いつもながら公安警察はすごいストーリーをでっち上げるなあ。それをたれ流す記者クラブメディアも悪いんだけど。
 
「イスラム国」参加企て 支援者、渡航・生活費工面(日本経済新聞 2014/10/11)
イスラム国:「非日常」への逃避か 北大生、疎外感募らせ(毎日新聞 2014年10月11日)
「力試しをしたかった」 日本人、シリアで戦った理由(朝日新聞 2014年10月11日)
イスラム国志願・北大生騒動は"トンデモ茶番劇"だった(DMMニュース 2014.10.11)
佐藤優のウチナー評論(琉球新報 2014年10月11日)
内藤正典Twitter(2014年10月10日)から。
 
マララさんが非道な暴力で殺害されようとし、奇跡的に回復し、女性の教育、こどもの権利を訴えることは称賛に値すると思う。彼女に対するパキスタン、タリバンの暴力も絶対に容認出来ない。しかし、パキスタンタリバンに襲撃されたことでノーベル平和賞の栄誉に輝いた彼女とは対照的に、アメリカの攻撃で命を失ったアフガニスタンやイラクの少女たちは何の賞賛も償いも受け取ることはなかった私はこのことを不公正だと思う。(略)マララさん受賞の記事が大方のメディアで誤解を招く内容。イスラームが女性の教育を否定しているのではない。日本の60年前、女性の4年制大学進学率、老眼でよく見えないスマホのページでグラフを見ると2%ほど。父権主義や封建的家族感が社会に根強かったことが原因で宗教のせいではない。問題はイスラーム社会の問題がみなイスラームに結びつけられること。マララさん一家のパキスタンでの社会もそうだし、アフガニスタンもそうだが、イスラームに名を借りた恐ろしく封建的男社会が女性の教育を阻害してきた。ローカルなイスラーム指導者たちや、政治家たちが、自分たちの権威や権益を守るために保守的な制度の温存を図ったために、あたかもイスラームに起因するかのように喧伝されることになった。しかし、こういうイスラームに名を借りた連中を糾弾するのは、サラフィジハーディスト。保守的な社会はこぞって彼らを過激派、テロ組織と非難。穏健なイスラーム社会なるものは、穏健の美名の陰でパターナリズムを隠蔽する。過激派のおかげで。
 
毎日新聞(2014年10月10日)から。
 
第2次安倍改造内閣に向けられる欧米諸国の視線が冷ややかになってきた。ナチスの思想に同調しているかのような極右団体やヘイトスピーチ(憎悪表現)を繰り返す団体と閣僚らの関係が疑われているのだ。このままでは「極右と一線を引けない政権」とのイメージが定着しかねない。(略)域内でネオナチ台頭を抱える欧州メディアの筆致は厳しい。英インディペンデント紙は先月27日の記事で「安倍晋三政権は極右の横顔を見せて人々を驚かせた」と伝え、安倍首相が戦犯として処刑された旧日本軍人の追悼法要に自民党総裁名で哀悼メッセージを送ったことも紹介した。英紙タイムズガーディアンも同じように批判的に報じている。インディペンデント紙に記事を書いたデービッド・マックニール記者は「外国人記者は戦時中の日本の歴史を蒸し返してばかりいると批判されるが、私を含めて大半の特派員はこの種の取材よりも他の取材をしたい。日本の政治家が歴史的事実をひっくり返そうとするから、この問題を取材しなければならなくなってしまう」(英字紙・毎日ウィークリー)と指摘する。主要海外メディアとしては早期の10年8月に在特会の実態を記事にした米ニューヨーク・タイムズ紙東京支局長のマーティン・ファクラーさんは「今の米国でネオナチKKK(白人至上主義組織)の関係者と閣僚が一緒に写真に納まることは考えられない。発覚したら即辞任。マイノリティーを攻撃するような団体と一線を引けない人は民主主義の根本原則に反しているとみられる」と説明する。
はじめに韓国の検察の産経記者起訴問題に関しての辺見庸(作家)と澤藤統一郎さん(弁護士)の「クリティーク(批評)」に関しての私の若干の感想。
 
私のここでの感想の対象の言葉は辺見庸(作家)と澤藤統一郎さん(弁護士)の以下の言葉。辺見庸も澤藤統一郎さんも内容的にはほぼ同じことを言っています。にもかかわらず、私は、辺見庸の言葉の側を支持します。それはひとことで言えば澤藤弁護士には失礼ながら、言葉の「深さ」の違い、あるいは「まなざし」の違いということになるでしょうか。辺見庸(作家。元共同通信記者)の言葉にはこの国のジャーナリズムに対する激しい憤りの思いを私として感受することができるのですが、澤藤弁護士の言葉はスマートすぎてそうした激しい思いを感受することができないのです。その違いはどこから来るか。おそらく私は「苦労」の違いだろうと思っています。「苦労」とは幼稚で雑な言葉ですが、ここでは私は「思想上の苦労」という程度の意味で遣っています。澤藤さんの言葉はスマートですが、辺見の言葉は彼のヘソ曲がりということも含めておおいにねじれています。一筋縄ではいきません。そこに私は辺見の「苦労」のようなものを感じるのです。辺見は共同通信の記者をやめた後、いっとき山谷で働いていました。そのときお連れ合いとも別れています。そんなこんな・・・・。
 
余話として次のことも書いておこうと思います。辺見の「日録」2014年9月10日付けに「昨日悲しいことがあった」という一行のみの日録があります。それから辺見は「日録」上では26日間にわたって沈黙を続けていました。この「悲しいこと」とは別れたお連れ合いの死ではなかったか、と私はひそかに思ってきました。しかし、まったく当たっていないかもしれません。そうであれば、私は、人の生死を想像で述べたことについて深く陳謝しなければなりません。それでも記しておきたかったことです。私の直観として。お詫びはいくらでもするつもりです。
 
辺見庸「日録1―3」(2014/10/10)から。
 
起訴はまっとうではない。しかし、毎度のことだが、どう読んでもジャーナリズムの筋をとおしているとはおもえない、いわゆるヨタ記事のたぐいを載せた事実上の極右・公安機関紙S紙が、おくめんもなく「言論の自由」をかたらって、被害者面、英雄面をしている。あきれる。あれが言論の自由にあたいする立派な記事かどうか、子どもにだってすぐにわかる。低劣!ところが、秘密保護法でも大した反対をしなかった公益社団法人・日本記者クラブが、このたびは、はげしくいきりたって韓国にたいし抗議声明をだす。日本新聞協会編集委員会とやらも「起訴強行はきわめめて遺憾であり、つよく抗議するとともに、自由な取材・報道活動が脅かされることを深く憂慮する」と声明。日本民間放送連盟もまた「表現の自由と報道の自由は民主主義社会に欠くことのできないものであり、韓国で取材活動をおこなう同じ日本の報道機関として、つよく懸念している」と報道委員長談話を発表。なーんだ、きみらはみんな嫌韓ファシストのお仲間だったってわけか。表現の自由と報道の自由と民主主義社会だと!?笑わせるなよ。この国のどこに表現の自由と報道の自由と民主主義社会があるのかね。「日本軍創設」を主張し、故土井たか子さんを「売国奴」よばわりする病的極右連中がいまでもNHK経営委員にいすわっている。ファシストたちのわが世の春。
 
「澤藤統一郎の憲法日記」(2014年10月9日)から。
 
私はあなたの普段の姿勢には嫌悪を感じている。今回のあなたの記事も立派なものとは思わない。しかし、あなたがこのことを記事にする権利は断固として支持する。いかなる国のいかなる形のものであれ、あなたの言論を封じる権力の弾圧には徹底して反対する。あらゆる国のあらゆるジャーナリズムが、萎縮することなく多様な言論を表現する権利を保障されなければならず、それを通じて各国国民の知る権利が全うされなければならないのだから。
 
イスラーム問題に関してはこのところ内藤正典さん(同志社大学大学院教授)の「Twitter発言」を続けて引用させていただいていますが、以下は、同氏の中田考さん(イスラーム学者)支持の弁。「中田考」理解のためには欠かすことのできないかつての同僚の友情と畏敬の言葉だと思います。
 
「内藤正典Twitter」(2014年10月9日)から。
 
のロジックはイスラームのロジックであり、ムスリムの日本人にはそのまま適用できない。だからこそ、私を含めて同僚たちが、氏の講義をいわば非ムスリムのコンテクストに翻訳し、もって日本としてテロの脅威を下げ、最困難国や地域においていかなる平和的貢献が可能なのかを討議するのである。2012年に同志社でアフガニスタンの和解と平和構築という国際会議を主催したとき、カタルに赴いて現地のタリバン代表部で折衝にあたったのは中田先生である。ついに、スタネクザイ大統領顧問、反体制派のヒズブイスラミ党首、タリバン政権の駐パキスタン大使のザイーフ師、それにタリバン公式代表、彼らの参加を得て、兎にも角にも、カルザイ政権の大臣とタリバン政権当時の大臣が同じテーブルについて発表をし、懇親会では同じ鍋を囲んで飯を食ったのである。私は主催者だったが、この会議を成功させた立役者が中田先生であることには一点の揺るぎもないのである。その直後、日本政府主催のアフガニスタン復興支援国会合が開催された。直前まで、西欧諸国は一向に和平のきざしもないアフガンから手を引こうとしていた。その空気を変えたのが、同志社での和平会議だった。私たちは民間の大学であり、政府とは異なる。しかし、タリバンが同志社に来たことで、本当に僅かな光明が見えたのである。その日、本当にタリバンも来たのかと世界中の新聞が取材をかけてきた。私は写真を送って同志社のチャペルに並ぶタリバンや大臣が来たことを伝えた。直後のアフガニスタン復興支援会合では、風向きが変わり西欧諸国も支援を継続した。カルザイ大統領はこれをDoshisha Processと呼んだ。クリントン国務長官は一言「ヒット!」と言った。それを陰で支えた人物こそ、ハッサン中田考先生なのである。(略)初めて大統領側と反政府勢力諸派とタリバンとが、同じテーブルにつくことができたのである。これは我が国政府にとって国益に反する行為だったろうか?そのことを考えてほしい。
内藤正典Twitter(2014年10月8日)から。
 
・ここへ来て、ようやくイスラーム国糾弾に声を揃えることの危険を人権団体*が認識し始めたのかもしれない。粗忽な記者に罵られても構わないが、イスラーム国を擁護しているのではない。ここまで迅速に、欧米諸国やアラブ諸国が一斉にテロ組織ゆえに壊滅せよと叫ぶことの胡散臭さに注意すべきだと言いたい。イスラーム国糾弾に名を借りて、政権に不都合な人々や団体を一斉に検挙したり、或いはテロ幇助ということで法的手続きを省略して処罰するなら全体主義への傾斜ではないか。
 
*リツイート:サウジ政府が新法でテロを「我が国の礎となるイスラム教の原理に対し疑問を呈する思想、又はあらゆる形態の無神論的思想」と定義。HRWが警戒。【詳報】英紙インディペンデントによると、 テロを定義する新法がサウジで施行されたのは今年4月の話。アブドラ国王が「国外で反政府的活動を行う者を禁固20 年に処す」との直令を発した後のことだった。新法施行により一部人権活動家らの解放が絶望的になったとHRWは悲観しているという。
 
引用者注:
イスラーム国」問題。日本のこととしてさらに具体的にいえば「私戦予備および陰謀」罪容疑で中田考さん(元同志社大学教授)らが事情聴取、家宅捜索された件に関しての内藤正典さん(同志社大学大学院教授)の懸念と同様の懸念は、放送大学教授で国際政治学者の高橋和夫さん、東京新聞・特報部デスクの田原牧さん、弁護士の河崎健一郎さん、そして下記番組メイン・パーソナリティの荻上チキさんらによっても表明されています。「イスラム国は、なぜ若者をひきつけるのか?」(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」2014年10月07日)参照。

朝日新聞「社説」(2014年10月9日)から。
 
これは憲法や日米安保条約が許容する防衛協力の姿なのか。拡大解釈が過ぎないか。日米両政府がきのう、年内の改定をめざす新たな日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の中間報告を発表し、自衛隊が世界規模で米軍を支援する方向性を示した。後方支援や情報収集、警戒監視、偵察などの分野で、自衛隊と米軍のグローバルな協力を進める内容である。米軍と肩を並べて攻撃に参加するわけではないが、平時から緊急事態まで「切れ目のない対応」を進め、有事に至る前の米艦防護も可能にする――。集団的自衛権の行使を認めた7月の閣議決定を受けて、できる限り同盟強化を進めたい政策当局者の本音だろう。だが日米安保体制は安保条約が基礎であり、ガイドラインは政府間の政策合意に過ぎない。1978年につくられた旧ガイドラインは、旧ソ連の日本への侵攻を想定していた。冷戦後の97年に改定された現行のガイドラインは「周辺事態」での対米支援の枠組みを整えた。新ガイドラインは、その周辺事態の概念を取り払い、地理的制約を外すという。安保条約の基本は、米国の対日防衛義務と、日本の基地提供にある。周辺事態は、安保条約の枠組みや憲法の歯止めと実際の防衛協力との整合性をとるぎりぎりの仕掛けだった。中間報告に書かれた中身が実現すれば、国会の承認が必要な条約の改正に匹敵する大転換と言える。安倍政権は憲法改正を避けて解釈を変更したうえ、ガイドラインの見直しで日米同盟を大きく変質させようとしている
本日の「今日の言葉」(少し変則的)です。

「街の弁護士日記」(2014年10月8日)から。
 
朝日新聞の「誤報」でなければ、今日10月8日、日米防衛協力ガイドライン改定に関する中間報告が発表される。先日同紙が報じたところでは、日本と日本周辺有事の限定を外し、世界規模・グローバル規模に拡大する。これに伴い、①平時②日本有事③周辺有事に分類されていた日米防衛協力のあり方を①平時と②有事に整理する。地理的限定が外れる結果、地球の裏側でも米国が有事と判断すれば、自衛隊は有事体制に即応する体制に入ることになる。日本の命運を左右しかねない歴史的な決定である。自衛隊創設時の密約によれば、有事には自衛隊は米軍指揮下に入るとされていたはずである。残念ながら、紙面の相当部分を割いた朝日の後を追う報道は気づいた範囲では見当たらなかった。週末のテレビは台風情報一色、御嶽山噴火と犯罪、スポーツ情報に埋め尽くされ、ガイドライン改定に触れるものはこれまた見当たらなかった。秘密保護法前夜、朝日バッシングを経たメディアは早くも秘密保護法体制に移行しつつある。おそらく今後のテレビはお天気情報と犯罪報道、スポーツ情報に埋め尽くされていくのだろう。そうならないことを祈るが、戦争体制国家前夜の様相である。
 
「中田考への任意の聴取及び家宅捜索に対する弊社見解」(2014年10月8日)から。
 
引用の前置きとして:
この6日、イスラム国問題に関連して「私戦予備陰謀罪」という聞きなれない罪名で北海道大の学生が警視庁から事情聴取されるという事件がありましたが(同事情聴取に関連して以下に述べる「元大学教授」宅と「フリージャーナリスト」宅もガサ入れされるという事態にもなりました)、この問題に関して本日8日付けの朝日新聞は「『就活うまくいかず…』 『イスラム国』参加計画の学生」という記事の「北海道大生のシリア渡航計画をめぐる人物相関図」という表の中でその人物相関関係を「北海道大の男子学生」(渡航希望を伝える)→「東京・秋葉原の古書店関係者」(学生を紹介)→「元大学教授」(学生を紹介)→「フリージャーナリスト」(渡航を計画)と説明しています。
 
その表の最後の「フリージャーナリスト」は常岡浩介氏であることは同記事の中でも触れられていますが、北海道大の学生をフリージャーナリストに紹介したという「元大学教授」の氏名は伏せられたままになっています。その伏せられた氏名の人が下記に引用する元同志社大学教授の中田考さんです。中田考さんが同志社大学教授を辞職した理由については昨日の弊ブログの記事(同記事を書いた時点では私は同事件と中田考さんとの関係は知りませんでした)でも紹介していますのでそちらをご参照ください。正しいイスラーム理解のためにも下記の中田考さんの弁明は知っておいた方がよいと思います。なお、「北海道大の男子学生」と「東京・秋葉原の古書店関係者」の関係(あるいは無関係)については下記の報道ビデオが参考になるかもしれません。
 
 
2014年10月8日
株式会社カリフメディアミクス
代表取締役社長 中田考
代表取締役CEO 宮内春樹
 
10月7日、弊社社長 中田考が「私戦準備及び陰謀」の容疑で捜索を受けている北海道大学学生の参考人として家宅捜査を受けました。以下に、本件における弊社と中田考の見解を記します。
 
本件に至るまでの経緯
 
弊社は、正義と人道に基づくグローバリゼーションの理念を表現する論文、ノベル及びコミックス等の企画、編集、制作及び出版等を主な目的としており、中田は「一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」を集英社から出版するなど、自社の理念の達成のために精力的な活動を続けています。
 
本件は、中田がイスラーム国の前身であるヌスラ戦線、イラクとシリアのイスラーム国を訪れ、現地の友人たちから彼らの月給が30-50ドルであることを聞き知り、それをツイッターなどで人々に知らせたことから、既知の古書の店員がイスラーム国に行けば戦闘員として有給で暮らせると理解し、店舗に求人の貼り紙を掲載したのが発端です。古書店員の周りには、変わった職業に興味を持ち求職中である若者が多く集まっていると伝え聞いており、本件張り紙はその活動の一環としてなされたものと推測しております。一部では、中田がイスラム国のリクルーターであり、張り紙は古書店員の方に依頼し中田が貼らせた、と報じられていますが、全く事実とは異なります。イスラーム国はそもそも日本で義勇兵のリクルートなど行っておらず、中田はイスラーム国のメンバーでもなく、リクルートを行う立場にもなく、また貼り紙の求人についても予め知ってもおらず、関与もしていません。古書店員は求人を見て興味を持ったという北海道大学の学生を中田に紹介し、中田は古書店で求人を掲載していたことを把握していませんでしたが、紹介を受けた学生のイスラム国渡航のための支援を開始しました。
 
イスラームの教えと本件における中田の思惑
 
中田は、イスラム世界において幅広い人間関係を持ち、本件以外でもエジプト・トルコ・イラン・マレーシアなどへ、希望する学生の留学の手配を行っており、本件もその一環に当たります。また厳密に言うと本件は戦闘員(ムジャーヒド)である前に、移民(ムハージル)として日本人が一人イスラム国に行くということが中田からイスラム国幹部に伝えられています。
 
一部報道においては、「学生は自殺するためにイスラム国入りを希望していた」「人を殺したいためにイスラム国を希望していた」とされ、「それを斡旋する元大学教授・中田考の良識を疑う」旨伝えられております。しかし、イスラームにおいては、他人の内心を詮索することはしません。信仰告白をした人間であれば、誰であってもイスラム教徒として扱う義務が生じます。そして、すべてイスラム教徒はカリフが支配する地で暮らすことが義務であり、中田は他にカリフのいない現状においてはイスラム国指導者のアブー・バクル・バグダディ師を現時点における正当なカリフとみなすのが最も妥当であると認識しております。以上のような事由により、渡航を希望している学生の斡旋をすることは、何ら不自然な点はなかったと認識しております。
 
また、こと本件においては中田の思惑としては平和憲法によって培われた戦後日本と他の先進国とは異なる「イスラーム過激派」とされる組織らとの関係の中で、学生にイスラーム国と日本の架け橋になってほしいという考えもありました。中田は以前から、同志社大学にターリバーンの幹部を招聘し宗教対話を行うといった活動をしてきました。そうした活動が、政府により積極的に阻害されないことが、「イスラーム過激派」とされる組織らが日本に一定の信頼を寄せる根拠になっていました。
 
言うまでもなく、「イスラーム過激派」といわれる組織にも一定の論理があり、正義があります。それを平和的言論で国際社会に伝えること、そしてそれが可能になる素地を作り、守ることが自身の使命であると、中田は考えております。しかし、強まるイスラーム国への国際社会の批判と、それに追随する日本政府という構造の中で、今回の捜査はなされました。今後は集団的自衛権を根拠としたイスラム国への武力行使もあり得るかも知れません。これまで「イスラーム過激派」と欧米との架け橋としてあり、今後もなり得た日本という国の特殊性は失われつつあり、本件はその表出であると考えております。
 
弊社見解
 
中田が日本という国家の枠内で定められた「私戦準備及び陰謀」という法律においてその容疑がかけられる余地が全くないかと言えば、否定せざるを得ず、外交的見地からも、真相を究明するために公安当局の捜査が入ることもやむをえないと考えます。しかし、真実が明らかになれば、法律的見地からも、違法とはみなされず、イスラームの教えおよび国際社会の平和という観点において本件の中田の行動に非はないことが明らかになるであろうというのが弊社の見解です。公安当局の厳正で中庸な捜査とマスコミの事実を綿密に調べた上での適切な報道を希望します。
今日の言葉2本。とりわけ「誰にも迷惑をかけないよう、同志社大学教授の職を辞し、日本ムスリム協会理事の地位、会員の身分も捨て、殺されても捕まっても失うものがないように家も財産も処分した」という中田考(イスラーム学者)の言葉はほんものの言葉として私の胸に沁みた。
 
同志社大学教授の内藤正典さんは「ハッサン中田考先生は、少なくとも、イスラームとはなにか、その本質に迫ることができる数少ない学者である。氏の人柄を知らぬ者は、言論の先鋭さから過激派呼ばわりする。だが氏こそ、慈悲の心とイスラーム的いい加減さを併せ持つ温厚篤実の人」(内藤正典Twitter 2014年10月6日)だという。「イスラーム的いい加減さを併せ持つ」、か。内藤さんはほんとうにハッサン中田考を尊敬しているのだな、と私は思う。
 
・中東で、日本で、いつ捕まっても、殺されてもおかしくはない。その時、誰にも迷惑をかけないよう、同志社大学教授の職を辞し、日本ムスリム協会理事の地位、会員の身分も捨て、殺されても捕まっても失うものがないように家も財産も処分した。全ては真実と信ずることを語る自由を確保するためだ。私は、イスラーム世界に対してはカリフ制の復興の義務を説くこと、日本人の同胞に対してはノイズを排して神の唯一性の精髄を伝えること、という2つの使命を自分に課してきた。しかしクルアーン古典注釈の翻訳とナーブルスィーの紹介を終えた時点で私の日本での仕事は終わったと思った。そこで私は、イスラーム世界にカリフ制再興の義務を伝えることに専念することに決めた。まだ「アラブの春」が起きる前だ。カリフ制再興を唱えることは、中東の反イスラーム独裁政権だけでなく、人道に敵対する領域国民国家システム全体に「ノー」と言うことだ。イスラームの教えを正しく実践するために闘っていた私の友人たちは皆、中東の反イスラーム独裁政権に弾圧され投獄され、メディアの言論は封殺され、彼らの声を伝える者はいなかった。だからイスラームに関する言論の自由の自由がある日本に住む私には真実を伝える義務がある。私はそう思った。(中田考@HASSANKONAKATA 「内藤正典Twitter」2014年10月6日から)
 
・札幌市で長い歴史を誇る北星学園大学は、キリスト教に基づく人格教育を掲げる。養成しようとするのは、「異質なものを重んじ、内外のあらゆる人を隣人と見る開かれた人間」だ。基本理念に記されている。他者への寛容と自由な交わりは、社会の風通しのよさを保つために欠かせない条件だろう。学園はまた、戦後50年の節目の1995年に「平和宣言」を出した。「あらためて平和をつくり出すことの大切さと、人権を尊ぶ教育の重要さを思います」とうたっている。この大学を応援する会が、きのう発足した。「負けるな北星!の会」という。作家の池澤夏樹さんや森村誠一さん、政治学者の山口二郎さん、思想家の内田樹さんらが呼びかけた。元自民党幹事長の野中広務さんらも賛同人に名を連ねる。大学を爆破する、学生に危害を加えるといった卑劣な脅迫にさらされているからである。慰安婦報道に関わっていた元朝日新聞記者が非常勤講師を務めていることを問題視され、辞めさせるよう要求されている。過去の報道の誤りに対する批判に本紙は真摯に耳を傾ける。しかし、報道と関係のない大学を暴力で屈服させようとする行為は許されない。このさい思想信条や立場を超え、学問や表現の自由、大学の自治を守ろうという識者らの呼びかけは力強い。「異質なものを重んじ……」という精神を忘れるわけにはいかない。気に入らない他者の自由を損ねる動きが広がる。放っておけば、社会のどこにも自由はなくなる(朝日新聞「天声人語」2014年10月7日
先月の26日に江渡聡徳防衛相の資金管理団体が2009年と2012年に江渡氏本人に4回にわたり計350万円を寄付したと政治資金収支報告書に記載していたことが明らかになった問題について、澤藤統一郎さんが同防衛相の政治資金規正法違反容疑を厳しく追及するとともに、関連して、2年前の東京都知事選の折の「人にやさしい東京をつくる会」(現希望のまち東京をつくる会)の澤藤弁護士に対する不当な解任劇を知る者にとっては江渡防衛相の政治資金規正法違反容疑事件と類似する事件としてただちに想起される事件の弁明書として同会所属弁護士の中山武敏氏、海渡雄一氏、田中隆氏の3弁護士(同知事選候補者の宇都宮健児氏を含めると4弁護士)が執筆した「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」と同「法的見解」執筆者らの論を再度、改めて批判する記事を自身のブログに昨日付けで書いています。
 
澤藤統一郎さんの同「法的見解」執筆者及び「人にやさしい東京をつくる会」運営委員ら、すなわち問題提起のためにさらに具体的に指摘しておこうと思いますが、宇都宮健児氏(弁護士)、中山武敏氏(同)、海渡雄一氏(同)、田中隆氏(同)、上原公子氏(当時選対本部長)、熊谷伸一郎氏(同事務局長)、河添誠氏(同運営委員)、内田聖子氏(同事務局)・・・らを批判した掉尾の文章中の言葉、「自らの手の内にあるはずの根拠となる資料を示すことなく、『この記載ミスを訂正すれば済む問題』とし、今は『既に訂正したのだから、もう済んだ問題』として押し通そうとしている。このようにして収束をはかろうなどはとうてい認められない。誤りを認めず、反省せず、真摯に批判に耳を傾けようとしない。こういう体質は改めなければならない。でなければ、この陣営に参集した者には、石原宏高猪瀬直樹渡辺喜美、そして江渡聡徳らを批判する資格がない」という指弾の言葉に私も強く同意するものです。
 
しかし、それにしてもさらに慷慨が増すのは、その指弾すべき人物群がいまだに自らの「誤りを認めず、反省せず、真摯に批判に耳を傾けよう」ともせず、指導者然として昂然とふるまっていること。さらにその「指導者然」と「昂然」を批判せず、あるいは批判できる理性を持たず、逆に下支えする「仲間」という正体不明のありようが「指導者然」と「昂然」のまわりを闊歩しているということ。このような人物群と、彼ら、彼女らの言うところの革新と革新面(づら)に私はなんら期待することはできません(ただし、局所的には、彼らは彼らなりに、彼女らは彼女らなりに力を発揮するということは当然あるでしょう。にしても、です)。少し憤りがすぎたかもしれません。そして、私の憤りはかえって澤藤統一郎さんにはご迷惑だったかもしれません。しかし、左記は、決して曲げようのない私の見るところの現在の「革新」の景色であり、心情というべきものです。
 
以下、澤藤統一郎さんの論。
 
防衛大臣の政治資金規正法違反を、報告書の訂正で済ませてはならない(澤藤統一郎の憲法日記 2014年10月6日)
 
共同通信などの複数メディアが伝えるところによると、
 
「江渡聡徳防衛相の資金管理団体(「聡友会」)が2009年と12年、江渡氏個人に計350万円を寄付したと政治資金収支報告書に記載していたことが9月26日に分かった。江渡氏は同日の閣議後記者会見で『事務的なミスだった』と述べ、既に訂正したと明らかにした」「江渡氏や訂正前の報告書などによると、09年に100万円を2回、12年5月と12月にも100万円と50万円を寄付したことになっていた」
 
という。
 
明らかな政治資金規正法違反。条文上は、法第21条の2「何人も、公職の候補者の政治活動(選挙運動を除く)に関して寄附(政治団体に対するものを除く)をしてはならない」に違反する。個人及び政党以外の政治団体は、公職の候補者(国会議員や首長など現職を含む)に対して、選挙運動に関するものを除き、金額にかかわらず政治活動に関する寄附を行うことが禁止されている。
 
ましてや、資金管理団体とは政治家個人の政治資金を管理するために設置される団体である。法は、政治家を代表とする資金管理団体を一つだけ作らせて、政治家個人への政治資金の「入り」も「出」も、この団体を通すことによって、透明性を確保し量的規制を貫徹しようとしている。だから、資金管理団体から政治家個人への寄付などという形で資金の環流を認めたのでは、政治資金の取り扱い権限を個人から資金管理団体へ移行しようとする制度の趣旨を没却することになってしまう。
 
総務省のホームページで、「政治資金収支報告書及び政党交付金使途等報告書」を検索してみた。残念ながら09年の報告は期限が切れて掲載されていない。12年の報告だけは閲覧可能である。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/contents/131129/1306400032.pdf
 
確かに、「聡友会」(代表者江渡聡徳)の収支報告書の支出欄に、
 
2012年5月25日 「江渡あきのり」への寄付100万円
2012年12月28日 「江渡あきのり」への寄付 50万円
 
と明記されていたものが、本年9月2日に「願により訂正」として、抹消されている。これに辻褄を合わせて、「支出の総括表」における「寄付」の項目が150万円減額となり、人件費が150万円増額となっている。これも、「9月2日 願により訂正」とされている。
 
記者会見による弁明の内容については、「江渡氏は『350万円は寄付ではなく、聡友会の複数の職員に支払った人件費だった』と説明。担当者が領収書を混同し、記載をミスしたとしている」(共同)と報じられている。
 
弁明の内容については、朝日の報道がさらに詳しい。
 
「江渡氏は『私から職員らに人件費を交付する際、私名義の仮の領収書を作成していたため、(報告書を記載する)担当者が(江渡氏への)寄付と混同した』と説明。人件費は数人分で、江渡氏が仮領収書にサインするのは『お金の出し入れの明細がわかるようにするため』と述べた」という。
 
この江渡弁明を理解できるだろうか。弁明が納得できるかどうかの以前に、どうしてこのような主張が弁明となり得るのかが理解できないのだ。
 
人件費としての支出には、その都度に受領者からの領収証を徴すべきが常識であろう。政治団体の場合は常識にとどまらない。政治資金規正法は、刑罰の制裁をともなう法的義務としている。
 
「第11条(抜粋) 政治団体の会計責任者又は、一件五万円以上のすべての支出について、当該支出の目的、金額及び年月日を記載した領収書を徴さなければならない。ただし、これを徴し難い事情があるときは、この限りでない。」
 
この領収証を徴すべき義務の対象において人件費は除外されていない。そして、その領収証について3年間の保管義務も法定されている。例外を認める但し書きはあるものの、職員への人件費の支払いに関して「領収証を徴し難い事情」はおよそ考えられるところではない。この11条の規定に違反して領収書を徴しない会計責任者には、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処せられる(24条3号)。政治資金規正法をザル法にしないための当然の規定というべきだろう。
 
江渡弁明を報告書訂正の内容と合わせて理解しようとすれば、職員に支払った人件費の支出を事務的ミスで江渡個人への寄付による支出と混同したということになる。しかし、いったいどのような経過があってどのような事情で、混同が生じたというのだろうか。職員に支払う際の義務とされている領収証を受領しておきさえすれば「混同」は避けられたはずではないか。それすらできていなかったということなのか。
 
なによりも、「私から職員らに人件費を交付する際、私名義の仮の領収書を作成した」ということが意味不明だ。「仮」のものにせよ、人件費の支払いを受けた資金管理団体の職員の側ではなく、支払いをした資金管理団体の代表が「領収証」を作成したということが理解できない。
 
政治資金収支報告書の届け出によれば、同年の「聡友会」の支出のうち、「寄付」はわずかに16件である。問題の2件を除けば14件。そのうち12件は、毎月定期的に行われる、各月ほぼ100万円の地元「江渡あきのり後援会」への寄付(合計1260万円)が占めている。他は、自民党青森県連へのものが1件と、靖国神社へ1件だけ。「江渡あきのり・個人」への2件150万円は、異色の寄付として目立つものとなっている。たまたま紛れがあって、事務的ミスが原因で報告書に記載されたとはとうてい考えがたい。直ぐには目にすることができないが、きちんと作成され保管されていた「江渡聡徳名義の領収証」があったに違いない。これを、苦し紛れに「仮の領収証」と言い訳をしたものとしか考えられない。これだけの疑惑が問題となっている。
 
この「事務的なミス」とする弁明は不誠実でみっともない。きちんと誤りを認めて謝罪し、再発防止を誓約することこそが、政治家としての信頼をつなぎ止める唯一の方策であろう。問題の「仮領収証」を公開することもないまま、「報告書を訂正したのだから、もう済んだ問題」として収束をはかるなどはとうてい認められない。
 
よく似た例はいくらでもある。たとえば、2012年都知事選がそうだった。
 
「上原氏の‥交通費や宿泊費など法的に認められる支出の一部にすぎない10万円の実費弁償に何の違法性もないことは明らかである」「上原さんらの上記10万円の実費弁償が選挙運動費用収支報告書に誤って『労務費』と記載されていることは事実であるが、この記載ミスを訂正すれば済む問題である」
 
とは、江渡弁明とよく似た言い分。
 
自らの手の内にあるはずの根拠となる資料を示すことなく、「この記載ミスを訂正すれば済む問題」とし、今は「既に訂正したのだから、もう済んだ問題」として押し通そうとしている。このようにして収束をはかろうなどはとうてい認められない。
 
誤りを認めず、反省せず、真摯に批判に耳を傾けようとしない。こういう体質は改めなければならない。でなければ、この陣営に参集した者には、石原宏高や猪瀬直樹、渡辺喜美、そして江渡聡徳らを批判する資格がないことになるのだから。
広原盛明さん(都市計画・まちづくり研究者、元京都府立大学学長)が福島県知事選における共産党を含む「みんなで新しい県政をつくる会」(略称、「県政つくる会」)の声明文を「福島知事選に見る共産党の顕著な変化、独自候補の擁立から『オール福島』大同団結の呼びかけへ」という論にまとめ、紹介しています。私は広原盛明さんの論にほぼ全面的に賛成します。「ほぼ」と限定的に述べるのは、ここでは詳説するつもりはありませんが、広原さんの論の最後の2行の「こんな動きを『自共対決』論を金科玉条にして『独自候補』の擁立にあくまでもこだわった関西のどこかの共産党はいったいどう見ているのだろうか」という神戸の選挙の現状認識と分析視点には賛成しがたいものを感じているからです。しかし、その他の分析視角には共感するところは大です。
 
福島知事選に見る共産党の顕著な変化、独自候補の擁立から「オール福島」大同団結の呼びかけへ、全国注目の福島知事選の行方を考える(その2)(リベラル21 2014.10.06)
 
10月9日の選挙告示を前にして、ようやく福島知事選の構図が決まったようだ。共産党を含む「みんなで新しい県政をつくる会」(略称、「県政つくる会」)が9月24日、県知事選で熊坂義裕氏(医師、前岩手県宮古市長)を自主的支援することを発表し、候補者がほぼ出揃ったからだ。福島在住の友人が早速「福島知事選挙の対応について」という「県政つくる会」の声明文を送ってくれたので、その大要を紹介しよう。
 
声明は2つの内容から成っている。第1は、福島知事選に対する「県政つくる会」のこれまでの取組みを述べたもので、6月16日に「福島県知事選挙に対する考え方と政策提案―県民一人ひとりの復興で、子ども・いのち・くらし輝く県政を」を発表し、8月12日には寄せられた意見をもとに「国にはっきりモノ言える県政実現へ、『オール福島』の願いで大同団結を-県民のみなさんへのアピール」を発表して基本的な立場を明らかにした経緯が述べられている。
 
注目すべきはアピールの明快な立場であり、その中の「提案」には、「思想信条や政治的立場、原発事故前の原発政策への立場の違いを乗りこえて、福島県を代表するにふさわしい県知事の実現に向けて努力する」ことが述べられ、以下の4点が「オール福島」の一致点、県民共通の願いとして集約された。
 
(1)国は、事故収束宣言を撤回せよ。事故収束に国が責任を果たせ、県内原発はすべて廃炉を国が決断せよ。
(2)原発事故前の福島を取り戻すために、国と東電の加害者責任を明確にせよ。その立場から徹底した除染、完全賠償に国の責任を果たせ。国による支援の打ち切りや線引き、分断は許されない。
(3)原発事故の被害から、子どもと県民の健康を守るために、健康診断・健康管理、地域の医療体制確立に国が全責任を果たせ。
(4)復興は県民一人ひとりが復興してこそ。暮らしと生業の再生が土台であり、県民一人ひとりに寄り添った長期にわたる国の復興支援策を求める。
 
声明はこの4点の実現に向けて知事選を戦うことを確認し、以下の3点を中心に据えた。
 
(1)県民共通の「オール福島」のねがいは、「県内原発全基廃炉」「徹底した除染と完全賠償」など4つにまとめられ、その実現のためには責任を果たすべき国に対してはっきりとモノ言う県政の確立が必要であること。
(2)現在、そのねがいの実現を阻み、最大の障害となっているのは、安倍政権の原発再稼働と福島切り捨ての政治にあること。
(3)したがって、県知事選挙で重要なことは「オール福島」のねがいで団結し、安倍政権の言いなりとなる県政を許さず、安倍政権に対してはっきりとモノが言える県政をつくることにあること。
 
第2は、この「アピール」を踏まえた知事選候補の選考経過に関するもので、「オール福島」のねがいで一致すること、安倍政権にはっきりとモノが言えること、「県政つくる会」との共同の意思があることの3点を基準に候補者選考をすすめ、「熊坂義裕氏を『自主的支援』する」ことを確認したとある。
 
私が注目したのは、その後に添えられた熊坂氏を「県政つくる会」が「自主的支援」するとした理由である。以下の文章は、共産党を含む「県政つくる会」が選挙情勢をどのように分析し、熊坂氏の「自主的支援」に踏み切ったかを示す興味ある内容なので、そのまま再録しよう。
 
「今回の県知事選挙の最大の特徴は、自民党中央本部が、自民党福島県連が推薦した鉢村健氏を承認せず、おろしてまで内堀雅雄前副知事の支援を決めたことです。この動きにはねらいがあります。ひとつは滋賀県に続き、福島県、沖縄県と連続する県知事選挙で負けるわけにはいかない、安倍政権にダメージを与えてはならないという『自民敗北回避』です」
 
「もうひとつは、原発問題、とくに再稼働問題などを争点化させないという『原発争点回避』です。自民党中央本部による内堀前副知事支援の決定は、安倍政権が『オール福島』の要求にもとづく県民の団結を前にして、自民党の独自候補では勝てないと判断したことによるものです。同時に、この動きは安倍政権が原発再稼働と福島切り捨ての政治を福島県民に押し付けるという動きであることも見ておかなければなりません」
 
「『オール福島』のねがいの実現のためには、安倍政権による原発再稼働と福島切り捨ての路線との対決が必要です。とりわけ、原発の再稼働に反対し、原発ゼロの日本をめざす姿勢を明確にする知事が求められています。この点で、安倍政権の原発再稼働反対、日本の原発ゼロを主張する熊坂氏を支援してたたかうことが、『オール福島』のねがいの実現にむけて、局面を切り開く大きな力、攻勢的な力になると判断しました」
 
「リベラル21」9月20日の拙ブログで、私は「原発再稼動政策への全国的波及を避け、原発災害処理問題を福島県内に限定しようとする安倍政権の思惑、全国注目の福島知事選の行方を考える(その1)」を書いた。これは自民党福島県連が推薦する鉢村氏(元日銀福島支店長)を自民党本部が承認しなかった背景を分析したものだが、図らずも「県政つくる会」の情勢判断と一致したことには驚いた。
 
同時に、共産党が1976年以来38年間にわたって続けてきた独自候補擁立の旗を降し、「原発再稼動反対と原発ゼロ」を掲げる無党派候補を政策協定や推薦は行わずに「自主的支援」とする政治姿勢の顕著な変化にも驚いた。沖縄知事選と同じく、自らの要求を実現するためには広範な政治勢力や市民運動と連帯することなしには首長選挙に勝利することができない情勢を客観的に(合理的に)判断してのことだろう。
 
同様の動きは、熊本市長選においても大規模開発プロジェクトに反対する民間人候補を共産党が(主義主張は別にして)「自主的支援」することにもあらわれている。共産党が独自候補を立てれば「票が割れる」ことを配慮してのことだ。こんな動きを「自共対決」論を金科玉条にして「独自候補」の擁立にあくまでもこだわった関西のどこかの共産党はいったいどう見ているのだろうか。