以下、目取真俊さんの7月30日付けの訴え。ほんとうに人間の生命を無視したこんな危険な行政のやりたい放題が許されていいはずがありません。これでもニッポンは法治国家と名乗れるのか! アベよ、恥を知れ!行政のおもねり小役人たちよ、恥を知れ!
 
目取真俊さんの訴えの後に「米軍普天間飛行場を名護市辺野古沿岸部へ移設しようとする安倍政権の問答無用の姿勢がむき出しになっている」と安倍内閣のあまりもの無軌道を弾劾する沖縄タイムスの7月29日付けの社説も掲げておきます。
 
キャンプ・シュワブゲート前に危険な鉄板を設置したことについての沖縄防衛局の説明(目取真俊「海鳴りの島から」2014-07-30)

キャンプ・シュワブゲート前の鉄板1
目取真俊さんのブログより 

キャンプ・シュワブゲート前の鉄板2 
同上
 

沖縄防衛局がキャンプ・シュワブのゲート前に、住民を排除することを狙って、危険な鉄板を設置したことが問題となっている。この件について、沖縄防衛局の現場責任者のNさんに話を聞いたので、ぜひ見てほしい。
 
https://www.youtube.com/watch?v=Ig-JSAK3ibA&feature=youtu.be
 
沖縄防衛局の現場責任者の説明は、とうてい納得できるものではない。私はこれまで北部訓練場のメインゲート前に長期間立ってきたが、赤土流出問題が大きく取り上げられた同訓練場でも、ゲート前にこういう鉄板は設置されていない。キャンプ・ハンセンや嘉手納基地など、ほかの米軍基地のゲート前にもない。
 
この鉄板が設置されたのは、ゲート前での監視・抗議行動が始まってからだ。しかも、設置された場所は米軍への提供区域外であり、県民がいつでも自由に出入りしていい場所だ。だからこそ、これまでこの場所を使ってデモやシュプレヒコールを行ってきた。その場所に限定して、鉄板は敷かれている。
 
鉄板には三角形の鉄のコーナーガードを溶接し、わざと歩きにくくしたうえで、転べば大けがをしかねない危険な状態を作り出している。この沖縄防衛局のやり方は極めて悪質であり、嫌がらせとしても異常である。この鉄板の上で事故が起これば、責任は沖縄防衛局、日本政府、防衛省にある。厳重に抗議するとともに、即刻撤去させるため、大きく声をあげましょう!
 
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[辺野古衝突]知事の責任は免れない(沖縄タイムス社説 2014年7月29日)
 
米軍普天間飛行場を名護市辺野古沿岸部へ移設しようとする安倍政権の問答無用の姿勢がむき出しになっている
 
11月の知事選前に海上でのボーリング調査などの既成事実をつくるため、全国の海上保安本部から巡視船十数隻をかき集め、キャンプ・シュワブ沖合をはじめ、沖縄近海に展開している。海上でカヌーなどを使って反対行動をする市民らを排除するためだ。
 
陸上ではキャンプ・シュワブのゲート前で資機材を運び込む大型トラックを阻止しようと体を張って座り込む市民と、警察官との衝突が続いている。いつ不測の事態が起きてもおかしくない。
 
安倍政権が移設を「負担軽減」というのはまやかしである。新基地には米海兵隊の強襲揚陸艦が接岸できる軍港機能が備えられ、最新鋭のステルス戦闘機F35の運用を想定。中部訓練場上空の訓練空域を拡大する考えだ。シュワブの陸上にも多数の軍関連施設を建設する計画であることが明らかになっている。
 
オスプレイの配備を環境影響評価(アセスメント)の最終段階である評価書の段階になって初めて記載したように、これらは究極の後出しじゃんけんか、米側からもたらされる情報だ。政府が徹頭徹尾、情報を隠したまま負担軽減といってはばからない。だまし討ちである。
 
新基地ができると北部訓練場、キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセンと一体となった一大軍事要塞が形づくられるのである。これのどこが負担軽減というのだろうか。
 
政府が工事を進めるのは仲井真弘多知事の「承認」があるからだ。仲井真知事は2期目の出馬に当たって「普天間の県外移設」を掲げ、1期目の公約を転換して当選した。
 
再選した仲井真知事の公約の肝だ。それを自ら覆して承認したのは、どんな理屈をつけようが県民に対する裏切りである。しかも移設問題を最大の争点にした名護市長選では移設に断固反対することを公約に掲げた稲嶺進市長が再選されているのである。
 
仲井真知事は、辺野古移設が普天間問題を解決する最短の方向だと言明するまでになっている。県民の生命と財産を守るのが知事の最大の使命だ。県民同士を衝突の前線で争わせながら、知事の振る舞いは人ごとのようである。安倍政権の強権発動に高みの見物を決め込むつもりなのだろうか。一触即発の元をたどれば仲井真知事の承認に行き着く。不測の事態が起きた場合に知事はどう責任を取るつもりなのだろうか。
 
2013年1月、県議会各会派、41市町村長・議会議長らが署名し、安倍晋三首相に提出した「建白書」は1995年以来の県民総意の到達点だ。普天間の閉鎖・撤去、県内移設断念、オスプレイの配備撤回である。「オール沖縄」から自ら進んで、または中央の圧力に屈し離脱したのが自民党国会議員であり、県連であり、一部首長らである。
 
このままでは沖縄は半永久的に基地から逃れられない島になる。子や孫の世代から承認の責任を問われたとき、知事はそれに答えられるか。
26日のエントリで『南京!南京!』の日本語字幕版をご紹介させていただきましたが、同映画を観たという人から『南京!南京!』を基本的に評価しながらもラストシーンで主人公格の日本兵が自殺する場面について「このような行いをした日本兵が実際にいたのかと私はいぶかしげにみています」というレスポンスがありました。この批評者は陸川(ルー・チューアン)監督と同世代の人のようです。だから、同世代の者として『南京!南京!』という作品の出来具合について同世代的感覚で批判的にコメントする気になったのかもしれません。それはそれでよいのですが、同批評は少し的が外れています。批評者はおそらくドキュメンタリーを「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された」(wikipedia『ドキュメンタリー』)記録映画と解釈して、ドキュメンタリーにフィクションを持ち込む陸川監督の手法を批判しているのでしょうが、批評者は、報道のありかたとドキュメンタリーの違いについて認識が不十分であるといわなければならないでしょう。
 
左記のウィキペディアの記事は、「社会問題を取り上げるという点においてはドキュメンタリーも報道も同じだが、ドキュメンタリーは制作者の主観や世界観を表出することが最優先順位にあるのに対して報道は可能な限り客観性や中立性を常に意識に置かなければならないという違いがある」という森達也監督の言葉を紹介して両者を混同しないよう説いています。批評者にはドキュメンタリーと報道の違い、さらにはドキュメンタリーとフィクションの違いについて改めて認識を深めていただきたいものだと思います。
 
以下、陸川監督と同世代の批評者に宛てた私のリプライとドキュメンタリーとはなにか。日本の代表的なドキュメンタリー作家として著名な土本典昭監督(故人)がかつて山形国際ドキュメンタリー映画祭スタッフのインタビューに応じて語った『戦ふ兵隊』(亀井文夫監督、1939年)のあるエピソードを巡っての挿話を書き留めておきたいと思います。土本監督が語る以下のエピソードは、私は、同監督のいう「ドキュメンタリーの核心はフィクションである」ということと同じことを言っているように思います。
 
ある批評者への私のリプライ
 
『南京!南京!』のご感想を拝読しました。その中で『南京!南京!』を全体として評価しながらも映画のラストシーンで主人公格の日本兵が自殺する場面について「このような行いをした日本兵が実際にいたのかと私はいぶかしげにみています」というご感想を述べられていますが、私はこの場面は陸川監督のフィクションだろうと思っています。
 
陸川監督はやはりラストシーンの南京「攻略」を祝う日本軍の祝賀パレードのシーンについて「ここで表現したかったのは戦争がいかに人の魂をコントロールするかということ」だと述べた上で、「異なる民族の文化を被侵略者の廃墟の上で踊らせる」構想をうとうとしながら夢で見たと語っていますが、もちろんこのラストシーンもフィクションですね。
 
ただし、ここで私のいうフィクションとは「事実とは反事実をふくむ」「事実とはしたがって異同そのものである」(辺見庸「日録27」2014/07/24)という意味でのフィクションです。
 
たしかゆふいん文化・記録映画祭の折に、いまはもう故人になられたドキュメントの大御所の『水俣』の映画監督の土本典昭さんが「ドキュメンタリーの核心はフィクションである」という趣旨のことをおっしゃっておられたように記憶しているのですが、そういう意味でのフィクションです。
 
事実としては私も良心の呵責に苛まされて日本兵が自殺したという例は知りません。
 
土本典昭監督インタビュー(山形国際ドキュメンタリー映画祭 1995年10月3日)抜粋:
 
映画の文体とキャメラワークについて(見出しは引用者)
 
つい最近、病床の瀬川さん(引用者注:瀬川順一さん。『戦ふ兵隊』のカメラ助手)をお見舞いにいったんですが、本当にドキュメンタリーにとって一番大事なことを話して頂いたんです。そこでも何十回と聞いた、『戦ふ兵隊』のあるエピソードを巡っての話です。多分、瀬川さんの五十年前からの一貫した自問自答があるんです。
 
具体的に話しましょう。『戦ふ兵隊』の撮影にこういう出来事があったというんです。撮らなかったシーンの話ですから、映画には勿論ないんです。あくまで瀬川さんのロケ現場での忘れ難い記憶ですが。
 
彼の話はこうです。日本軍がひとびとを苦しめ、家を焼き払ったりした村を通り過ぎたあと、たまたま亀井さんが畑にいた子供を見つけて掴まえ、抱いて、「三木君、コレを撮ってよ」と言ったんだね。かれは助手だったからキャメラの脇で、いつでもクランクを回せるようにしていた。しかし、三木さんはどうしても撮ろうとしなかった。その撮れない理由に「だって亀井君、きみの手が入るじゃないか」と言い、亀井さんは「手が出てもいいから撮れ」。瀬川さんによれば三木さんは臆病で"有名"だったそうですが、顔をこわばらせて撮ることを拒否したというんですね。
 
その晩に激怒のおさまらない亀井さんと三木さんの抗弁のやりとりが果てしなく続いて言葉では三木さんがやりこめられた。けれども納得してはいない、三木さんは。亀井さんは「僕が編集すれば、戦争の恐ろしさをあの子の表情からだせるんだ」 「あの顔は使えるんだから、僕の言う通り撮ってくれればいい」ということだったらしい。
 
三木さんは「僕には撮れない」と譲らない。「僕にはできない」ってね。この論争が瀬川さんの一生のこだわり、自分のキャメラマン論の根底にあったというんですね。
 
瀬川さん自身、四十歳台くらいまでは、「亀井さんの言う通り撮ってもよかったんじゃないか」 「撮れと監督に言われたものは撮って、そのラッシュで決めればいいじゃないか」と思ってきたけれども、人生後半になって三木さんの理屈にならない拒否感覚みたいなものが理解できるようになったと言われる。やはりキャメラマンには「撮れといわれても、どうしても撮れない事がある、三木さんはどうも正しかったと思うようになった」と。さらに最近、瀬川さんの記憶が鮮明に蘇ってきたことがある。それは自分が招集されて兵士だった時、占領地でバッタリ元の職場の映画監督とキャメラマンに会った時のことらしい。瀬川さんは「もうその人たちも亡くなったから言うが」といって、あるシーンのために中国兵をわざと逃がして、機関銃で撃ちまくったという話を彼等から聞かされたというんです。「機関銃って撃ってもなかなか命中しないものなんだね。バタバタ倒れる敵兵という風にはいかなんだ」と。瀬川さんは先輩キャメラマンが中国兵捕虜を映画のために殺したのか!と慄然とされたそうだ。しかも、それを平然と自分に話しをする神経はなんだ。「これが映画人か、恐ろしい、恥ずかしい」と思ったが、また、忘れようともしてきたと。瀬川さんもほとんど忘れかけていたが、三木さんの理屈にならない理屈の先を突き詰めていく内に、その記憶は蘇ってきたそうです。これははじめて聞く話でした。
 
二年か三年の兵役を終えて、瀬川さんが三木さんについた仕事が『戦ふ兵隊』だったんでしょう。「亀井さんと三木さんの論争をふりかえって見ると、こっちが加害者、侵略者側というのが三木さんの根底にあったんだ」。つまり、瀬川さんの言ですが、「戦場の記録映画班はみな従軍服、軍服に似たものを着せられているし、キャメラはレンズは光るし、鉄砲みたいな武器に似ている。それを三脚につけた前で、抱きすくめられたら誰でも怖い。中国の子供にとって、きっと僕らも日本兵に見えた。殺されると思った顔だった」。
 
三木さんには、被害者を写すのに加害者側からは撮れなかったのだと。その点、亀井さんに、あの時、自分らは加害者側だという意識があったろうか、無意識にせよ、その演出には差別 があったのではないか、二つの記憶が結びついて恐ろしい輪になってしまった。つまり、「キャメラマンとして、どうしても撮れないという肉体がある」ということを言いたいんですね。いわば遺言ですよ。キャメラマン歴六十有余年の瀬川さんの。
 
劇映画の世界はよく知らないんですけど、瀬川さんの若い時代、監督は"天皇"っていわれてる人もいたよね。その監督の指示は命令と同じだった。だけど「身体が言うことを聞かなくなる」というのは、実は深い本質的な知性なのではないか。体のなかに染み込んだ知性というか。
 
キャメラマンが一旦撮ったカットは、人にどう使われても文句が言えない、撮ったのは自分だから。瀬川さんが後輩に言いたいのは、キャメラマンは「カメラ番」じゃないという言葉の実質、精神を言われたと。五十年前に及ぶ亀井・三木論争へのこだわりを突き抜けて、自分の答をだされた。戦場でのいわば耳打ちされた同輩の話の記憶まで引き摺り出して、正当に三木さんに敬意を表し、同時に、いわゆる厭戦作家と言われる「亀井神話」まで突き刺してしまった。そういう気がして、瀬川さんからキャメラマン論の仕上げをして頂いた感じ…。僕は粛然としましたね。
本ブログの「今日の言葉」の2014年7月13日から同年7月28日にかけての記録です。

アフリカの朝、または夜、または昼


・イスラエルのガザ空爆つづく。(略)カネッティ「時間のある正確な一点から先、歴史は現実であることをやめてしまった、という痛ましい思いがよぎる。あるいは人間的ジャンルの総体が突如として現実と決別したとでもいうべきか」。まず、子どもに無理やりガソリンを飲ませ、しかるのちに、着火し、焼き殺した、という。ガザ空爆つづく。時間のある正確な一点から先、歴史は現実であることをやめてしまった。歴史が現実であることをやめたのは、かなり以前のことだろう。それから、かれこれ1世紀は閲しているのではないか。(2014/07/12)ガザ空爆つづく。(略)ガザ北部ベイトラヒヤで、重度身体障害者の養護施設を、イスラエル軍のF16戦闘機が爆撃し、女性の障害者2人が死亡、5人が重傷 を負った。わたしたちが戦争と大量虐殺でまなんだ唯一のこと――それは、人間は戦争と大量虐殺によっても、なにひとつとして体得しない、ということ。否。(略)わたしたちは存在するかぎり、「くりかえさない」ことができない、ということをとことん知らされる。そして、わたしたちは新奇で奇抜な虐殺方法を次から次へとおもいつく。第3次世界大戦がおきている。いまはまだおきてはいないという者たちも、とうぜんおこりえないとは、だれひとりとして胸をはって断言できない。起点をどこにするかだけなのだ。起点とは、修辞と感性の問題でもある。カネッティ「いまやわれわれに課された責務とは、この一点を見いだすことであり、それを捉えることができない以上、われわれは現在進行中の破滅のうちに踏みとどまらねばならない」。この一点とは、歴史が現実であることをやめてしまった、そのときのことである。(辺見庸「日録25」2014/07/13

・「今から思えば、『静かにやろう』と麻生(太郎)氏が言ったのは閣議決定のことだったのでしょう。憲法改正はあきらめたが、実質は同じ。結局、狙い通りになっている」。開口一番、三島さんは麻生財務相のナチス発言に切り込んだ。(略)「憲法の空文化という点ではナチスの手口と同じです。あからさまな暴力を使わないところは違いますが。ただ、国民操縦の手段はもっと巧みになっています 」。厳しい口調でそう言い切った。(略)「閣議決定という手続きで解釈改憲に踏み切った政権側だけでなく、護憲派にも責任があると私は考えています。9条を守ろうとするあまり自衛隊の議論を後回しにし、結果的に、空文化を招いた一面もある。憲法を自衛隊に合うように改正させたら、その先なにをやられるかわからないという恐怖は私も共有していましたが、改正させてそこで『戦争をしない国家』という歯止めを作るという手段もあったかもしれません」三島さんは今年4月、学者らでつくる市民団体「立憲デモクラシーの会」の呼びかけ人になった。「憲法の理念である国民主権とは、公論を通じて実現します。声を上げ、日常生活で憲法を生かし、憲法に内実を与え続けることでしか空文化は防げない。空文化を謀る勢力に論争を挑んで憲法を国民の手に取り戻さないといけません」黙っていたら憲法の空文化に手を貸すことになる。それがワイマール憲法の教訓だ。(毎日新聞「三島憲一・大阪大名誉教授に聞く」 2014年07月14日

・沖縄返還の際の日米間の密約文書の開示を国に求めた情報公開訴訟の上告審判決で、最高裁第二小法廷は7月14日、上告を棄却し、密約文書を不開示とした政府の決定を妥当だとする判断を下した。判決で最高裁は密約文書の存在そのものは認めたが、文書は「秘密裏に廃棄された可能性がある」として現在は存在しないとする行政側の主張を認定。存在しないものは開示できないとの理由から、不開示は妥当と判断した。沖縄密約をすっぱ抜いた元毎日新聞記者の
西山太吉氏は判決後の記者会見で「これでは都合の悪い情報は廃棄してしまえば公開しなくてもいいということになる。ひどい判決だ」と語り、同判決を批判した。(ビデオニュース・ドットコム 2014年07月14日

・『
審判』の末尾はこうだった(略)――「『まるで犬だ!』と、彼は言ったが、恥辱が生きのこっていくように思われた」……。1972年の沖縄返還をめぐる日米間の密約文書の開示を元毎日新聞記者・西山太吉さんたちがもとめた訴訟の上告審判決で、最高裁第2小法廷が、1審の開示命令をとり消した2審東京高裁判決を支持し、原告側の上告を棄却。西山さんたちの敗訴が確定した。(略)この司法判断には国家の悪しき母型がある。西山さんは日米密約の存在を暴いた。だが、沖縄返還がせまった72年、密約を示す機密電文を西山さんにわたした外務省女性事務官とともに国家公務員法違反容疑で逮捕される。メディアと世間は密約の重大な中身ではなく、西山氏と事務官の関係に目をうばわれ、またそうなるべくメディアと社会を「なにか」がたくみにマニピュレートして、ひとのなすべきまっとうな行為を「恥辱」へと変えていった。そうさせた絶大な力。事実の在・非在の判断権さえうばわれたなら、ひとではなく、まるで犬だ 。司法は腐敗している。国家は腐爛している。恥辱だけが〈民主主義〉の顔をして生きのこっている。(略)「なにか」の息の根をとめなければならない。( 辺見庸「日録25」2014/07/15

ジョルジョ・アガンベンによると、狂宴(サバト)のさなかにサタンの肛門に接吻をしたと審問官に訴えられた魔女たちは、「そこにも顔があるから」と応えたのだという。魔女のたわごととはいえ、これは傾聴すべきかんがえではなかろうか。そこにも顔があるから。うん、おもしろい。「顔」とは、人間がとりかえしのつかないしかたで露出しているということだ、とアガンベンはいう。集団的自衛権の行使をみとめた閣議決定をめぐる閉会中審査をテレビで見たときに、「そこにも顔があるから」をおもったのだ。(略)首相と呼ばれている貧相な男の口は、フジツボの形をしていて、なにかわたしには理解しがたい言葉のようなことを早口で話すとき、あれは舌なのであろうか、直腸の下端の粘膜に似た肉色ものが、まさに脱肛した肛門のように不気味にうごくのだった。面妖で貧寒とした光景であった。(略)あれは国会というより、ウンベルト・エーコの『醜の歴史』の図録にでてくるような、悪魔崇拝の集会か魔宴なのではなかろうか。とすれば、肛門をさして「そこにも顔があるから」といった魔女らのいいぶんにもなにがしかの道理がある。あんなものを国会などと呼ぶべきではない。(2014/07/16)米国の国務長官だとかいう、顔が臀部のようにおおきな男が、イスラエル軍のガザ爆撃はイスラエルの「自衛」のためだと恥ずかしげもなく支持表明している。組織的計画的なパレスチナ市民虐殺行為を「自衛」のためだというのである。この者たちは身体各部と論理のあるべき位置がひっくりかえってしまっている。顛倒。この男の脳は臀部にあり、顔であるべき場所に臀部がのっかっている。英語らしいものをしゃべるあの横柄な穴は、口ではなく肛門なのである。かんちがいしてはならない。(辺見庸「日録26」2014/07/17

17日夜、イスラエル軍がガザ地区への地上侵攻を開始した。イスラエルの高圧的な姿勢を背後で支えているのは、米国の巨大な軍事力である。沖縄は米軍の戦略拠点の一翼を担わされ、住民は米軍基地と隣り合わせの生活を強いられている。目の前で実戦的な訓練が行われているこの地に住む者として、中東で起こっている戦禍は他人事ではすまされない。イスラエル軍のガザ地区への地上侵攻に反対する。(目取真俊「海鳴りの島から」2014-07-18

原子力規制委員会は、審査を進めてきた九州電力川内原子力発電所1・2号炉について「新規制基準を満たしている」とする審査書案を7月16日に了承し、(略)政府と九州電力は、これを受けて速やかに再稼働させるとしている。しかし原子力規制委員会の審査は、過酷事故の防止と発生した場合の拡大を防止する技術的方策について、東電福島第一原発の事故の実態が不明のまま1年前に決めた新規制基準への適合性を調べただけのものである。安全対策設備の中には、審査の終盤に新たに設置がきまったものもあり、(略)事故時の対策の拠点となる「オフサイトセンター」の改修完了は2015年3月と言われている。これが事実なら、工事完成の確認をしないまま審査終了の結論をだした原子力規制委員会は、責任を持って審査をしなければならない権限を放棄していることになる。さらに、これらの基準を満たしたからといって、原発再稼働にともなって必要になるその他の事項① 事故が発生した場合に、影響が及ぶことが予想される範囲の住民の安全な避難計画、② 発生する放射性廃棄物、特に高濃度廃棄物の処理方法、③ 使用済核燃料の処理と管理、④ 廃炉後の解体処理、特に過酷事故を起こした原子炉の処理などは、原子力規制委員会の権限外として何らの検討も行われていないことを指摘したい。これら未解決の課題は、1950年代に日本の原発計画が開始され1960年代に運転が始まった時に問題にされたにもかかわらず、事故は起こらないと根拠なく主張して、技術発展を期待して先送りにされてきたものであり、責任の所在をあいまいにしたまま、これ以上積み残しにして先に進むことは許されない。(「原発再稼働の条件は整っていない」世界平和アピール七人委員会2014年7月18日

・選挙のたびに問題になるのが
争点隠しです。(略)自民党は今後は争点隠しに躍起になるでしょう。特に沖縄県知事選挙(11月) では、普天間移設問題も絡みます。仲井真氏は公約をあっさりと破り、普天間移設を「承認」しました。仲井真氏はほんとうは「容認派」なのに、口先だけ「反対」を言うことによって、マスコミは『争点はなくなった」という言い方で争点隠しをするのです。その仲井真氏がまた次回も立候補するそうです。争点隠しに一番、加担するのがマスコミです。集団的自衛権の行使の是非など、沖縄県知事選挙では争点そのものです。沖縄県は最前線基地に位置づけられるのですから、その影響は大きく、投票先を決める上では極めて重要なことです。しかし、マスコミのお得意の報道は「自民党県連は、集団的自衛権の行使容認については中央のことであり争点としない考え」という趣旨のことを垂れ流しのままに報道し、そして、「争点化を避ける」と結び、さも争点ではないかのように報じる手法です。普天間移設問題も同様。「自民党県連は、辺野古への移設是非については、承認は既に済んだこととして争点としない考え」とした上で、集団的自衛権の行使と同様の手法で争点隠しをすることになります。仲井真氏が嘘つき時代であれば、マスコミは、仲井真氏が頃合いを見計らって「容認」に態度を変えるのを認識しているのですから、当然に争点はあるわけです。しかし、マスコミはこの争点そらしに加担するのです。政権側の情報操作とそれに加担するマスコミの争点隠しに騙されてはいけません。(略)自公政権の軍事大国化路線にノーを突きつける意思を示すことこそ重要です。(弁護士 猪野 亨のブログ 2014/07/19

・今日(7月17日)公共放送のナショナル・パブリック・ラジオで、マレーシア航空機がウクライナで撃墜されたことに関する
BBCニュース報道を聞いた。報道は率直なものだったかも知れないが、ロシアと、ウクライナ“分離主義者”に濡れ衣を着せているように聞こえた。BBCは、より偏った意見を売り込み、番組は、分離主義者が、ロシアの兵器で旅客機を撃墜したという、ソーシャル・メディアの報道で終わった。番組出演者の誰一人として、旅客機を撃墜して、分離主義者が一体何を得るのか疑念を持ったものはいなかった。そうではなく、ロシアの責任がはっきりした場合、アメリカのより強硬な対ロシア経済制裁を、EUが支持するように強いるだろうかという議論だった。BBCは、アメリカ政府の筋書きと、アメリカ政府が望んでいる見出し記事をなぞっている。アメリカ政府工作の様相が見て取れる。あらゆる戦争屋がタイミングを見計らったかのように乗り出した。アメリカのジョー・バイデン副大統領は、旅客機は“撃墜された”と宣言した。“事故ではなかった”。特に何らかの魂胆がない人物が、いかなる情報も得る前に、一体なぜそこまで断言できるのだろう 明らかに、バイデンには、旅客機を撃墜したのはキエフだという含意はなかった。バイデンは、ロシアを非難する証拠の強化に精を出している。実際、アメリカ政府のやり口は、証拠が不要なまでに、非難を積み上げるというものだ。ジョン・マケイン上院議員は、乗客リストと、旅客機の墜落原因が判明する前に、アメリカ国民の乗客がいた推測に飛びついて、対ロシア懲罰措置を呼びかけている。“捜査”は、アメリカ政府傀儡のキエフ政権によって行われている。既に結論がどういうものかわかろうというものだ。(マスコミに載らない海外記事 Paul Craig Roberts 2014年7月20日

・親愛なる友人諸君、昨夜は凄まじかった。
ガザに対する「地上侵攻」がもたらしたのは、貨車何十両分もの、変形し、ばらばらになり、血を流し、震え、死にかけた――ありとあらゆる種類の怪我を負ったパレスチナ人たち、あらゆる年齢の、あらゆる市民、あらゆる無辜の人々。救急車の、そしてガザの病院すべての英雄たちは、12時間から24時間勤務で働いている。疲労と非人間的な仕事量に蒼ざめながら、彼らは治療し、負傷者を分け、さまざまな肉体の把握不能な混沌をなんとか理解しようとする、体格、四肢、歩ける者も歩けない者も、呼吸している者もしていない者も、出血している者もしていない者も、人間たちを!今、「世界でもっとも道徳的な軍隊」(ママ!)によってまたも獣のように扱われて。負傷者に対する私の尊敬の念に終わりはない。痛みと苦しみと衝撃の只中にありながら、感情を抑えた彼らの決意。[病院の]スタッフやボランティアに対する私の称賛の念に終わりはない。パレスチナ人の「ソムード」(不屈の意思)に身近に接していることが私に力を与えてくれる。(略)オバマよ、あなたに人間の心はあるのか?あなたを招待しよう。私たちとともにシファー病院で一晩――たったの一晩でいい――過ごしてほしい。清掃係のふりでもして。私は確信している、100%、そうすれば歴史が変わると。誰であろうと人間の心と、そして、権力のある者は、シファー病院で一晩を過ごしたなら、パレスチナ人の殺戮に終止符を打つという決意なくして、ここを立ち去ることなどできないはずだ。(略)どうか。あなたにできることをしてほしい。こんなことは、こんなことは、続いてはいけない。(マッヅ・ギルベルト(ノルウェーの医師)、岡真理訳「ガザからの手紙」2014年7月21日

・「僕には自由がない。学校にも行けないし、遊ぶこともできない。奴隷のように働くだけなんだ」中米カリブ海に浮かぶ西半球最貧国ハイチ。首都ポルトープランスにあるスラムで、ラルフ・ジャン・バプティスト君(13)が、部屋の窓から外を眺めながらつぶやいた。ラルフ君は叔母の家で暮らす「レスタベック」だ。植民地支配、クーデター、大地震−−。太陽と青い海がきらめくこの国で、過酷な運命にさらされ、外の世界への扉を閉ざされた子どもたちがいる。レスタベックの語源はフランス語の「一緒にいる」だが、貧しさなどから他人に預けられた子どもたちを指すようになった。「子ども奴隷」「奉公奴隷」などと訳される。多くのレスタベックは学校に通わせてもらえず、食事も満足に与えられずに、家事や労働を強制される。暴行や性的虐待を受けるケースも多い。米国務省によると、ハイチ全土で50万人に上るとも言われており、社会問題化している。(「ハイチ:子ども奴隷の闇」毎日新聞 2014年07月22日

・〈パレスチナ自治区ガザへのイスラエル軍の攻撃で、
死者は500人を超えた 。片や、イスラム過激派のハマスは徹底抗戦で構える。「世界の良心」のはずの国連は、例によって音無しだ。炎と煙の中で民衆の悲嘆がわき上がる〉。今の話ではない。5年前の1月の当欄の一節である。手抜きだとお叱りを受けそうだが、言葉を変えずに使い回しができる。昨日の国際面に「死者500人超に」の見出しがあった。なぜ、こうも流血が繰り返されるのか。国連児童基金(ユニセフ)によれば、この2週間で少なくとも子ども121人が死亡している。口をあけた泥沼は呑(の)み込む者を選ばない。力の差が歴然とした イスラエルの過剰さに、国際社会の非難は強まるばかりだ。「みんな殺された。ユダヤ人に死を」「イスラエル人が殺されたら、お祝いだ」。ガザでわき上がる怒声本紙記者は伝える。殺し合いが次の殺し合いに理由を与え、憎しみの火薬は湿ることを知らない。問題の根は深いが、1948年、パレスチナの地にイスラエルが建国されたことで衝突が始まる。一方は独立と歓喜し、片や「ナクバ(大破局)」と悲嘆した。このときだけで70万人が難民になった。〈天蓋花この世をおほふ愛足りずガザ地区にまた少年が死ぬ〉米川千嘉子。過去をひもとけば、おそらくは愛よりも憎悪が人間の歴史の「主役」だった。血の物語が何ページも綴られてきた。一刻も早い停戦、そして双方が新たな犠牲を出さぬ知恵を絞れないか。(「天声人語」2014年7月23日

・7月2日の読売新聞「
編集手帳」がべンヤミンの言葉を集団的自衛権擁護のために引用したという(俺は読売新聞など購読していない、ネットで知った)もはや死んでいる人の言葉を、本人の思想に反して使用するのは、死者へのはなはだしい冒涜であると考える。俺は、ベンヤミンにかわって抗議する(笑)その“言葉”は、第一次大戦のさなか、まだ20歳代のベンヤミンが、ある友人への手紙に記したものだ;《夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは、橋でも翼でもなくて、友の足音だ》(野村修ベンヤミンの生涯』平凡社ライブラリー1993)(Don't Let Me Down「友の足音」2014-07-22

・元
日本赤軍最高幹部の重信房子受刑者(68)とパレスチナ人活動家の間に生まれた。子どものころは暗殺を恐れ、偽名で無国籍のままレバノンなど各地を転々とした。母が2000年に大阪で逮捕された後、初めて本名を明かし、01年に日本国籍を取り帰国した。テルアビブ空港襲撃事件などの事件を起こした日本赤軍は、パレスチナでは英雄だった。帰国後、母が「テロリスト」「人殺し」と呼ばれることに強い衝撃を受けた。母は公判で「未熟さの中で、当事者でない人々を戦闘に巻き込み、苦痛を与えた」と謝罪。娘は「母たちの活動の背景には当時の時代状況があったが、今は過ちにしか見えないかもしれない。違う解決の方法を探したい」と語る。日本赤軍とドイツ赤軍の女性幹部の娘を追った記録映画「革命の子どもたち」に出演したのは「獄中の母の代わりに自分の知っている母の姿を伝えたい」と考えたからだ。自分が育ったベイルートの難民キャンプや母が軍事訓練を受けたキャンプをたどり、母の思い出を語った。同じ映画で、ドイツ赤軍女性リーダーの娘が突き放すように母を語る姿とは対照的だ。レバノンを拠点にジャーナリストとして活動。パレスチナ情勢への関心がなぜ日本で広がらないのかと感じる。ときどき日本に帰るが、母とは医療刑務所で、10分ほどしか面会できない。(朝日新聞「(ひと)重信メイさん」2014年7月23日

またぞろアジア女性基金方式の蒸し返し従軍慰安婦問題:河村氏が「謝罪の手紙と基金」で解決提案|引用者注1:同紙抜粋【ワシントン西田進一郎】日韓議員連盟の河村建夫幹事長(自民党選対委員長)は23日、米首都ワシントンで講演し、従軍慰安婦問題について「(韓国で生存する54人に)これまでのやり方を踏襲できるのではないか」と述べ、首相による謝罪の手紙と「償い金」を柱としたアジア女性基金(2007年解散)と同様の方法による解決を提案した。同議連が韓日議員連盟と10月にソウルで開く合同総会で取り上げ、韓国側の反応を探る考えだ。注2:前田氏には以前にも次のような発言がありました。|被害者や被害者支援団体の反対にもかかわらず強引に発足し、金さえ渡せばいいだろうといわんばかりの姿勢で、「慰安婦」問題に混乱を持ち込み、被害女性を侮辱し、傷つけてきたアジア女性基金。その中心人物たちでさえも、基金の失敗を認めざるを得なかったアジア女性基金。その名がふたたび出て来るとは(前田朗 2014年3月28日)。注3:次の私の発言もご参照ください。「再び『アジア女性基金』とは何であったか」(前田朗 2014年7月24日

ケリー 国務長官がエジプト入りし、エジプトが提案した停戦案(封鎖緩和については停戦後に協議)を受け入れるよう、ハマースに迫っています。日本の主流メディアの報道ぶり を見ていると、ハマースが停戦を受け入れないことが、パレスチナ人・イスラエル人双方の死者の拡大を招いており、700人を超えるパレスチナ人が犠牲になっているのはハマースの責任であるかのような印象を抱いてしまいます。問題の根源には、ガザの封鎖と占領という問題があるわけですが、日本の主流メディアは、ガザ47年にわたり国際法上違法な占領にあり、また8年にわたり国際法上違法な封鎖にあり、占領と封鎖により住民がその基本的人権をことごとく否定されているという事実をほとんどまったく報道していません。そのため、ハマースが封鎖の解除を停戦の絶対的な条件として掲げ、これが受け入れられない限り、停戦を受託しないという姿勢を、ハマースが身勝手な要求を掲げて妥協しないために、パレスチナ人市民が犠牲になっているかのような誤った印象を広めることに貢献しています。しかし、ハマースは先のエジプトによる停戦案を拒否した直後、10年間の休戦協定をイスラエルに提案しています。以下の10の条件をイスラエルが受け入れるならば、10年間の休戦協定を結ぶと提案しているのです。10年間の休戦協定のための10の条件(略)しかし、この停戦案をイスラエルが受け入れることは政治的敗北です。地上戦にまで踏み込み、イスラエル兵側にも大きな犠牲を出した挙句、封鎖解除という政治的勝利まで勝ち取られたとあっては、ネタニヤフ首相の大失策になります。そのため力でますますねじ伏せようとして、攻撃が激化するのではないかと心配です。イスラエルに対し、「一刻も早く攻撃をやめろ」だけではなく、封鎖の解除、そして、ハマース提案の休戦協定案を受け入れろ、ということを、国際社会が――私たちのことです――声を大にして訴え、もし、イスラエルがガザの違法な封鎖の継続を望み、ガザの人々を「生きながらの死」「緩慢な死」の状態にとどめおくことを臨んで、この休戦案を蹴るならば、そのようなイスラエルこそを弾劾し、制裁する必要があるのだと思います。(岡真理 2014/07/25

・2008年以来6年ぶりに日本の人権状況を審査した
国連自由権規約委員会は「最終見解」で、従来よりも厳しい調子で改善を迫った。国際社会が日本の人権状況に危機感を抱いている表れといえそうだ。(略)最終見解では、「遺憾(リグレット)」という深刻な言葉が、複数の項目で書き込まれた。(略)死刑や代用監獄など刑事司法の問題点については、(略)委員会のナイジェル・ロドリー議長(英国)は「日本政府は明らかに国際社会に抵抗しているようにみえる」と苦言を呈した。さらに注目を集めたのが慰安婦問題だった。(略)最終見解も「矛盾した(日本政府の)立場に懸念を表明する」と批判したうえで、「日本軍が犯した性奴隷、あるいはその他の人権侵害に対するすべての訴えは、効果的かつ独立、公正に捜査され、加害者は訴追され、有罪判決が下れば、処罰すること」「被害者を侮辱、あるいは事件を否定するすべての 試みへの非難」などの措置を日本が取るよう勧告した。ヘイトスピーチについては、日本政府の名誉毀損や脅迫などに当たるケース以外は取り締まれないという説明に「 差別や敵意、暴力の扇動となる人種的優越あるいは憎悪を唱える宣伝のすべてを禁止し、そのような宣伝を広めるデモを禁止すべきだ」と、新たな規制を求める勧告をした。特定秘密保護法についても「ジャーナリストや人権擁護者の活動に深刻な影響を及ぼしうる」との懸念が示され、適用対象を狭く定義するよう勧告した。 (東京新聞「ニュースの追跡」田原牧 2014年7月27日)

日本の人権が危うい!
国連自由権規約委員会は、20以上に及ぶ懸案について、最終見解を発表した。世界の 先進国から見れば異例な内容だ。1年以内に改善を求める課題として、まず従軍慰安婦問題を挙げる。元慰安婦への人権侵害は続いており、「国家責任を公式に認め て謝罪し、行為者は処罰されること」を求めた。さらに死刑確定後に再審が認められ釈放された、袴田巌さんのケースを踏まえ、代用監獄や死刑制度の廃止を検討するよう勧告。次回の審査までの課題としては、特定秘密保護法を挙げ、「秘密の範囲があいまい」との懸念を表明し、厳格な運用を求めた。ヘイトスピーチについては、人種や国籍差別を助長する街宣活動を禁じ、犯罪者を処罰するよう勧告した。政府は「法的拘束力はない」ととぼけるのでな く、直ちに改善に向け手を打つべきだ。それにしても安倍首相は「地球儀を俯瞰する外交」を謳い、就任以来1年7か月で23回の外遊を繰り返し、集団的自衛権の行使容認へのアピールや原発の売り込みに躍起。国内の人権など眼中になし。これでは世界から見放される。 (Daily JCJ 2014/7/27

・テレビで国会中継を見ることが少なくなった。リアルタイムでじっくりみる価値のある質疑が格段に減ったということも大きい。かつては野党各党に論客がいて、丁々発止の質疑に手に汗握ったこともあった。いまはどうだろう。特に第二次安倍内閣になってから、首相の態度がよろしくない。まず議員の質問への答弁は、「すなわち国民に話しているのだ」という自覚がまったくない。非常に不遜で無礼な態度である。また、答弁者の野次に対しては、「いいですか!私があなたの質問に対して真面目に答えているんですから聞きなさい!」と、首相にしては高圧的かつやや病的なほど怒る。それでいて自らは首相席から質問者に野次を飛ばす。まともに答弁しない。同じフレーズの繰り返し、言いっぱなし、すり替え、居直り…。そもそも質疑として成立していないことが多い。なぜか。安倍晋三 という人は、自分と異なる意見に耳を傾けることができない、政治家としては致命的弱点をもっている、としばしば指摘されている。私もそう思う。経験と知識、知性と理性の問題というよりも、人間としてのキャパシティが圧倒的に小さいことが主たる理由だろう。(略)この質疑を通じて浮き彫りになったことは、安倍首相とその周辺が「他者」を意識的に排除して、権力の自己抑制を喪失していることである。それは立憲主義の深刻な危機でもある。日銀総裁や法制局長官、NHK会長などをすべて自分と同意見の人にすげかえ、自分と異なる意見の人を決して加えない諮問機関を憲法解釈変更の根拠に使うという異様な政治手法の数々は、ここで指摘するまでもないだろう。(水島朝穂「今週の『直言』」2014年7月28日
本ブログの「今日の言葉」の2014年6月28日から同年7月13日にかけての記録です。

アフリカの朝、または夜、または昼

・【
集団的自衛権―ごまかしが過ぎる】「憲法上許されない」と言ってきたことを、これからは「できる」ようにする。いま、自民党と公明党が続けている集団的自衛権の議論の本質は、こういうことだ。憲法の条文を改めて「できる」ようにするならば、だれにも理解できる。だが、安倍政権はそうしようとはしない。憲法の解釈を変えて「集団的自衛権の行使」をできるようにする。いままでとは正反対の結論となるのに、自民党と公明党はきのうの協議で、これは「形式的な変更」であり「憲法の規範性は変わっていない」とわざわざ確認した。理解不能身勝手な正当化だと、言わざるを得ない。与党の政治家はこぞってこの理屈を認め、閣議決定を後押しするのか。考え直す時間は、まだ残されている。(略)理屈にならない理屈をかざし、多くの国民を理解できない状況に置き去りにして閣議決定になだれ込もうとしている。閣議決定に書き込めないことでも、実はできると説明する。日本の安全を守るためのリアルな議論はどこかに消えた。あとに残るのは、平和主義を根こそぎにされた日本国憲法と分断された世論、そして、政治家への不信である。( 朝日新聞社説 2014年6月28日

・集団的自衛権に基づき自衛隊が派遣されるような事態を迎え訴訟が起こされれば、司法判断が出ることになる。(略)行使を可能にする解釈変更が憲法上「適正」かどうかを最終判断する権限(違憲審査権)は最高裁にある。その時、違憲判決が出ないとは言い切れない。政府・与党には、三権の一角を占める司法の場で、いずれ事後チェックを受けることを見据えた慎重で冷静な論議が欠けているのではないか。他国を守るための武力行使を認める集団的自衛権は、国際紛争解決のための武力行使の放棄や戦力の不保持、交戦権否定をうたった憲法9条に反するとの学説は憲法学者の間に根強い。(略)今の裁判所に違憲判決を出せるはずがないと、政府・与党は高をくくってはいないか。(略)集団的自衛権をめぐる訴訟になれば初の憲法判断となる。最終的には15人の裁判官による最高裁大法廷で審理され、結論が示されるはずだ。(略)違憲判決が出た場合の影響は計り知れない。自衛隊活動の正当性に疑念が深まり、賠償責任を負うなど政府が抱え込む訴訟リスクはあまりに大きい(略)司法の憲法判断をあなどってはならない。政府・与党には、憲法学者らの意見に耳を傾ける謙虚さが足りない。(毎日新聞社説:視点 2014年06月29日

・公明党は28日、集団的自衛権を巡って47都道府県の地方代表による懇談会を東京都内で開き、党執行部が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定などを説明した。しかし第二次世界大戦の記憶が色濃く残る広島、長崎、沖縄をはじめ、地方側は「北から南まで慎重・反対論が100%」(出席者)となり、「地元で連立離脱を求める声 がある」「『次の選挙は応援できない』と言われた」と悲鳴もあがった。(略)地方代表は25人が発言。慎重姿勢から容認に転じた執行部に対し、「憲法解釈の変更を本当に閣議決定でやっていいのか。本来は憲法改正だ」という疑問を皮切りに、発言を求める挙手が殺到した。出席者によると、広島代表 は「平和に敏感な県だ。県の全議員から意見を聞いたが、いくら限定的でも集団的自衛権の容認は納得も理解もできない」、長崎代表 は「被爆県では行使容認にかなり拒否反応が起きている」と訴えた。沖縄代表は「基地を抱え、万一の時に攻撃されかねないと県民が心配している」と危機感を示した。「日本が戦争に突き進むのかと言われる」(静岡)「閣議決定ありきでなく、まず地方議員に説明すべきだ」(長野)などと執行部批判が続いた。自民党との連立政権について「『解消すべきだ』との声がある」との発言が複数出た(略)執行部は地方の意見は取りまとめず、30日の国会議員の会合で一任を取り付ける方針。7月1日に与党合意、閣議決定に踏み切る構えで、地方や支持者の反発が続くのは避けられない。(
毎日新聞 2014年06月29日

・「介錯改憲 」は『東京新聞』6月21日付のコメントで使った。学問的な言葉ではないが、安倍晋三首相とその政権が憲法に対して行っている狼藉を表現するのに、これ以外の言葉が見当たらなかったからである。私は本当に怒っている。安倍首相に対してだけではない。この狼藉に加担してしまった公明党執行部に対してである。(略)
公明党執行部は、ここ数日の間に、驚くほどの単純論理で自民党の「修正」に乗ってしまった。この2週間ほどの「抵抗」は何だったのだろう。「他国」を「我が国と密接な関係にある他国」に変えることで「限定」や「歯止め」になると本気で考えているのか。集団的自衛権が「同盟関係」(つまり「密接な関係」)にある「他国」との話であることは常識である。「おそれ」を「明白な危険」に変えたところで、何の「歯止め」にならないことは、ご本人もよくわかっていることだろう。26日の記者会見で、それを「二重三重の歯止めが効き、拡大解釈の恐れはない」(『東京』6月27日付)と言い切った山口那津男公明党代表の知的不誠実は極まれり、である。まがりなりにも「平和」を掲げてきた公明党にとって、これは大きな打撃となるだろう。執行部は歴史的な判断ミスの責任を免れないしかし、まだ、かすかな希望がある自民党公明党の地方組織や議員たちの動きである・・・・(水島朝穂「今週の『直言』」2014年6月30日

クロノロジカルにいえば、明日、歴史が大きく変えられる。もともと「ない」はずのものが、今後「ある」ことにされてしまう。参戦権。そもそも現行憲法がみとめていない権限であり、そして歴代政権も「ない」としてきた参戦権を、一内閣がとつじょ「ある」と強弁して、みとめてしまうというのだから、ただごとではない。これは国家権力によるひとびとへのあからさまな暴力にひとしい。(略)しかし、ことここにいたり、わたしは言葉のたよりなさと、この状況にたたずむことの羞恥と屈辱と、いうにいえない嫌悪とをかんじている。(略)わたしとわたしらは、とても貶められている。(略)鬆(す)のように疎外されたこのような心象を、外部への「プロテスト」につなげていくのは、筋ちがいというものだろうか。(略)わたしは内面の鬆をさらけだして、(略)安倍政権に永遠に敵対することとする。この病んだ政権が、ファシストの、右翼ポピュリストの、国家主義者の砦だからという図式的な理由からではない。それよりも、
この政権の全域をつらぬく人間蔑視、弱者・貧者さげすみ、強者礼賛、あられもない戦争衝動、「知」の否定、財界すりより、ゼノフォビア、夜郎自大、組織的大衆(メディア)操作、天皇制利用……が堪えがたい段階にまできているから、安倍政権をうちたおすべきだとおもった。(略)この政権とその同伴者たちには、かつて精神科病院の入院患者らを「優生学的見地」から多数薬殺したナチス政権と似た、なにかとてもいやなにおいがする。( 辺見庸「日録23」2014/06/30

・1950年代から60年代にかけて注目を集めた劇作家・
ウージェーヌ・イヨネスコの「禿(はげ)の女歌手」は、ひとびとの対話から、言葉の意味や論理が抜け落ちていく不条理劇だ。最初はその異様さに笑うが、無意味な「音」と化した言葉の応酬を聞くうちに、もしかしたら、おかしいのは言葉が通じると思い込んでいる自分の方ではないかという気分になってくる。不条理劇の妙味である。いま集団的自衛権の行使容認をめぐり政治の世界で繰り広げられている事態はまさに、「安倍不条理劇場 」とでも呼ぶにふさわしいものだろう。なぜ憲法改正ではなく解釈改憲なのか。自衛隊員に命を捨てろというのか。この根本的な問いに、首相が真正面から答えたことがあるだろうか。代わりに発せられるのは「日本は戦後、平和国家としての道を歩んできた。この歩みが今後、変わることはない」「自衛隊の諸君に愛する家族がいることを私は知っている」。全く答えになっていない。対話や説得の意思を欠いているから、言葉は言葉として機能しない。言葉が最大の武器である、政治という舞台で。 「『必要最小限度』の集団的自衛権の行使」という概念は、「正直なうそつき」「慈悲深い圧政」と同じような語義矛盾 である――。政治学者や憲法学者らが結成した「立憲デモクラシーの会」はこう指摘している。(略)首相はある種の全能感すら抱いているのではないか 「現実」は私が決める、私の現実に合わせて、解釈を変えればいいではないかと。そして、公明党は語義矛盾の世界に身を沈める覚悟を決め、いつの間にか国民は「時の内閣」の「総合的」「合理的」「主体的」判断に身を預けることにされている。この不条理劇の幕が下ろされた時、外の光景は以前とは違ったものになるだろう。他国で戦争ができる国へ。時の政権が憲法を都合よく解釈できる国へ。( 朝日新聞社説 2014年7月1日

憲法9条の「生前葬」は、これまでもなんどもみてきた。葬儀委員長は、おおむね自民党総裁がつとめたが、非自民のコバンザメ政党幹部も葬儀委員に名をつらねていた。しかし、自公野合協議にもとづく昨日の閣議決定ほど、あからさまな憲法蹂躙はなかった。元自民党幹事長・
小沢一郎にさえ、この国は「憲法なき国家」になった、といわしめたのだから、アベの常軌を逸した暴走・独裁ぶりが知れる。(略)昨夜のニュースをみていてあきれた。NHKのオーゴシがまるで政府広報みたいに(毎度そうですが)、集団的自衛権行使容認で戦争抑止力がたかまる……などと例によって珍解説。これは受信料をはらってまでみるようなシロモノではない。(略)にしても、報道各社の政治部記者、デスク、部長、政治部OBの質の悪さよ!堕落ぶりよ!共同OB後藤某(引用者注:元共同通信編集長。辺見の同紙記者時代の後輩)の話なんざ、田舎のご隠居さんがよろこびそうな、どうでもいい永田町のうらばなしかうわさ話オンリー。歴史観も世界観も政治理念も批判精神もあったものではない。(略)このたびの集団的自衛権行使容認にいたるプロセスで、報道各社政治部現職およびOBの、はなはだしい不見識がはたしたやくわりは看過できない。(略)さて、憲法9条の「生前葬」の件ですが、いうまでもなく、「本葬」はまだだ。仮葬もまだ である。わたしの勘と切ない願望をいわせてもらえば、9条は仮死状態でも、どっこいなんとか生きのこり、安倍政権の瓦解とアベじしんの「本葬」こそを、われわれはみることになるのではないか。あまりにも愚かで、慎みを欠き、ひとびとをみくびっているからだ。( 辺見庸「日録23」2014/07/02

・国会前で徹夜抗議をしていた友人が、暗がりで不意に、テルアビブの話をしだした。なにも大した話ではないのだが、なぜだろう、荒くれていた気分がいくぶん凪いだ。(略)わたしも、夕暮れどき、
テラヴィーヴのアロマにいって、カプチーノを飲みたくなった。できれば犬と。この数日、いやもっと長くか。荒んだ。言葉がむくみ、みにくくたわんだ。このままではこのクニがダメになるといわれた。だからどうした。もうとっくにダメになってるぜ。もっともっとダメになればいい。おもっていても、いいはしない。戦争になる。わたしもいい、ひともいう。戦争になれよ、やれよ、ガンガンやりゃあいい、きれいさっぱりぜんぶなくなりゃいい。そういいはしない。言葉が水腫みたいでいやになる。なんとかいう首相の話なんか、ほんとうはこんりんざいしたくない。ばからしい。おそろしくばからしい。なんでしたかといえば、あいつをヤラないと、こちらがヤラれる。いくらヤキがまわったって、そのくらいの勘はある。ヤルかヤラれるかだ。(略)正義の言葉くらい安っぽい言葉はない。平和の言葉もおおむねチープだ。殺人者が殺人直後にもらす、わけのわからない譫語のほうが、すうばいマシだ。(略)『迷子の警察音楽隊』をおもいだす。あれ、いいな。かわいた空。かわいた土。濃紺の夜。青いインク瓶のようにして記憶をしまう、か。「なにも約束するな」か。よくわからないけれど、ほんとうにそうだとおもう。(略)わからないから、死ぬまでは、なんとなく生きていられる。みあげたら、ことし最初の白いサルスベリが咲いていて、もう風にさらさら散っていた( 辺見庸「日録24」2014/07/02午後

・7月1日の
ニュース7で、「戦後日本の安全保障政策の大転換」と表現した集団的自衛権の行使を安倍政権が閣議決定で容認しようとした今年の前半(1~6月期)に「クローズアップ現代」は一度もこの問題を取り上げなかった。このこと自体、異常といってよい。(略)NHK問題に関心を持つ人々の集まりに出かけ、(略)スピーチをすると、必ずと言ってよいほど、「NHKの制作現場のスタッフは(略)優れた番組を作ろうと必死に頑張っている人々がいるし、現に優れた番組も放送されている。だから、批判ばかりでなく、激励も大事だ」という意見が必ず出る。(略)しかし、最近、私はこうしたやりとりに懐疑的な見方をしている。(略)今、NHKの報道番組が向き合うべき死活的テーマは、国の憲法体制の根幹を揺り動かす集団的自衛権の解禁問題であり、わが国の言論の自由に甚大な影響を及ぼす特定秘密保護法の法整備をめぐる動きである。(略)このような大局的観点に立つと、(略)優れた番組を数多く輩出してきた「クローズアップ現代」や「NHKスペシャル」も、集団的自衛権や特定秘密保護法を封印している現実を直視することが、総体としてのNHKの報道番組を評価するにあたって欠かせない視点である。それなしに、個々の優れた番組を取り上げ、「激励を送ろう」と呼びかけるのは、視聴者運動のすすむべき方向を誤らせる恐れさえある、と私は感じている。(略)批判にせよ、激励にせよ、理性に裏付けられた大局観が欠かせない。(醍醐聰のブログ 2014年7月3日

安倍好戦内閣は尖閣問題でも中国を煽るだけ煽り、あたかも軍事的緊張があるかのように演出 し、集団的自衛権の行使への解禁へと突き進みました。しかし、集団的自衛権の行使容認のための解釈改憲に対する国民世論ははっきりとノーを突きつけています。(略)
共同通信の世論調査では集団的自衛権の行使容認賛成34.6%反対54.4%行使容認の範囲が広がる恐れない19.0%ある73.9%当然の結果が出ています。そもそも日本周辺諸国から日本に侵攻してくる外国の軍隊など存在しないのです。それにも関わらず中国脅威論を煽り、集団的自衛権の行使解禁を結びつけようとしていたのですから、悪質なプロパガンダなのです。(略)このような安倍政権のプロパガンダに接したとき、やはり思い起こされるのはヒトラーです。我が民族は今、滅亡の危機に陥っている。このまま他の民族に隷属するか、再び強国となって生き残るかどちらかだというのがヒトラーの言葉ですが、別に当時のドイツも対外侵略に矛先を向けなくても滅亡するなどという状況は全くありません。滅亡があるとすれば(略)経済界とドイツ軍部が革命により自らの地位が奪われることを恐れていただけです。それを防ぐため独裁者ヒトラーを支持し、その結果、ドイツ国民1000万人の犠牲を出し、ドイツも廃墟と化したという顛末です。極論が示され、そして強国への道を熱狂したドイツ国民。しかし、今の日本で違うのは、かつてのドイツ国民のような熱狂は(略)日本国民全体ではないということです。(略)とはいえ、黙っていてはいけません 。このような集団的自衛権の行使を黙認するのと同じ結果になってしまいます。(弁護士 猪野 亨のブログ 2014/07/04

・日本の内閣は今週、同盟国を防衛する日本の権利を宣言し、戦争放棄を規定した憲法の名残を破り捨てた。(略)米国占領軍のメンバーが日本の憲法を起草した1947年以降、日本は交戦権を放棄した。「平和主義条項」と言われる憲法9条は、「日本国民は国権の発動たる戦争を永久に放棄する」と書いている。(略)だが、
10年前、当時首相だった小泉純一郎氏が「平和主義」の定義を徐々に変え始めた。同氏はアフガニスタンでの戦争のために補給支援を行った。イラクには、(困ったことに)戦うことは許されなかったものの、自衛隊の小さな部隊を派遣した。小泉氏はまた、たとえ米軍の空母が日本の海岸沖で攻撃を受けたとしても、厳密には日本は米国を助けることができないと指摘し、集団的自衛権の問題を提起した。安倍氏は事をさらに進めた。同氏の下で、日本は国家安全保障会議を創設し、特定秘密保護法を制定し、武器輸出の制限を弱めた。2008年刊行の著書『Japan Rising』で日本の防衛政策の抜本的な見直しを予想した学者のケネス・パイル氏は、安倍氏は次第に強まる中国の力と強硬姿勢によって容易になった「大転換」を成し遂げたと言う。(略)安倍氏はずるかったか? 名高い学者のドナルド・キーン氏は憲法9条を「日本の誇り」と呼ぶ。修正するのではなく解釈を見直すことで、安倍氏はほぼ間違いなく負けただろう国民投票の必要性を回避した。「人々は、安倍氏が日本をどこに向わせようとしているのかについて大きな不安を抱いている」。東京のテンプル大学ジェフ・キングストン氏はこう言い、平和主義は日本国民のアイデンティティーの「試金石」になったと指摘する。(フィナンシャル・タイムズ訳:JBPRESS 2014.07.04

白井聡氏は、現在の日本の閉塞状態「敗戦レジーム」なるものに永続的に隷属することから起きているものだと説く。「敗戦レジーム」とは、総力戦に敗れた日本は本来であればドイツと同様に、それまでの国家体制は政治も経済も社会もすべて木っ端微塵にされ、既得権益など何一つ残っていないない状態からの再スタートを余儀なくされなければならなかったはずだった。しかし、日本を占領統治したアメリカは対ソ連の冷戦シフトを優先するために、あえて天皇制を含む日本の旧国家体制の温存を図ったために、A級戦犯などほんの一部の例外を除き、日本を絶望の淵に追いやる戦争に導いた各界の指導者たちが、平然と戦後の日本の要職に復帰することが許されてしまった。(略)そして、その旧レジームの担い手たちに対する唯一絶対の条件が、アメリカの意向に逆らわないということになるのは、当然のことだった。(略)「敗戦レジーム」はある時期、空前の経済的繁栄をもたらした。アメリカにとって日本を経済的に富ませることが、日本の共産化を防ぐ最善の手段だったこともあるが、 日本人の多くが、実は戦後レジームの矛盾に薄々気づきながら、経済的な豊かさと引き替えに、それを見て見ぬふりすることを覚えてしまった。しかし、冷戦が終わり、「敗戦レジーム」が前提としてきた外部環境は既に根底から崩れている。(略)しかし、日本では「敗戦レジーム」の担い手たちが依然として大手を振って歩き、「敗戦レジーム」の行動原理から抜けることができそうにない。(略)「敗戦レジーム」を続ける限り、日本に未来はない。(ビデオニュース・ドットコム 2014年07月05日

アマゾンなどのオンライン書店が、最大5%まで値引きした書籍を、さらに無料で配送するサービスを禁じる「反アマゾン法」が、フランスで成立した。フランス政府は「町の本屋」を文化の担い手と位置づけ、グローバル企業の攻勢から守るための法律だと自負する。さらに900万ユーロ(約12億5千万円)を投じて、小規模書店の保護・振興策を打ち出している。日本でも、書籍・雑誌の売り上げトップのアマゾンが、送料無料サービスを、佐川急便からヤマト運輸に切り替えて続けている。これは送料分、本の値段を下げて売っているのと同じ。これでは既存の「町の本屋さん」が、アマゾンに太刀打ちできるわけがない。日本にある本屋の数は全国で1万店。だが毎年、522店の本屋が消えていく。電子書籍の販売だって、アマゾンには消費税が課されていない。その分、利益は増える。しかもアマゾンは、肝心の出版物の企画・編集・製作にはタッチせず、できあがった出版物の単なるデジタルコピーというコスト安の電子書籍を、さらに値引きして販売する。日本の出版界が壊滅的な状況に追い込まれるのは目に見えている。(Daily JCJ 2014年07月06日

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識者の話

改めて閣議決定の全文を通読してみて、全6900字強のなかで印象に残った言葉がある。それは「切れ目のない」である。(略)安倍首相の記者会見でも複数回出てきたこの言葉の意味するところは何か。(略)集団的自衛権の行使の問題と言いながら、(略)閣議決定では「駆け付け警護」に伴う武器使用、「任務遂行のための武器使用」、邦人救出のための武器使用など、これまで日本が抑制してきた軍事的機能を解き放とうとしている。その意味では、従来のハードルを次々と撤去していく「切れ目のない」法制化が狙われている。「切れ目のない」とは、「歯止めのない」と同義語なのである。(略)「新3要件」は自衛権の3要件の実質的な否定の上にたっている。「我が国に対する急迫不正の侵害(武力攻撃)」がないのに、「我が国と密接な関係にある他国」に対するものまで「我が国」と同じ扱いで「自衛の措置」が憲法上認められるとするのは、従来の政府解釈が自衛力合憲論の決定的理由としてきた「自衛のための必要最小限の実力」という根幹部分を否定することと同義である。「自衛」は「他衛」であると強弁することで、「新3要件」は政府の自衛隊合憲解釈を「根底から覆して」しまったのである。閣議決定の最後の一文が、新3要件が「憲法の規範性を何ら変更するものではなく…」としているのは、「戦争は平和である」(ジョージ・オーウェル1984』)と同じようなダブルスピークに聞こえる。(水島朝穂「今週の『直言』」2014年7月7日

政治的な知性とは個人から離れた懐の深い複眼的思考にあると私は考えているが、2001年の小泉第一次政権以降の首相にはそういった複眼的、あるいは玉虫色的な多面性が失われ、あきらかに単一志向化している。(略)世界どこの国に行っても国と国とは国境や海域で接しており、かならずそこには紛争の火種というものがあるわけだが、政治の知恵というものはそこにグレーゾーンという領域を暗黙のうちに設定し、緩衝地帯を作って来たわけである。(略)「よっしゃ、よっしゃ」のかけ声とともに何が「よっしゃ」かわからぬまま、相手を”グレーゾーンの和”に巻き込んだ田中角栄のような人生経験によって培われた複眼的器量の持ち主が象徴するように、2000年代以前の日本の首相にはこの玉虫色を操る魅力的な個性の持ち主が多かった。だがこれは国民にとって非常に不幸なことだが、小泉以降、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田、そしてふたたび安倍と、戦後の日本においてこの15年は角栄に見られるような人間力が失せ、首相の単細胞化(あるいは幼児化)が進行している。(略)私は先のトークで集団的自衛権を脱し、単独での自衛をすべきだとの意見を書いている。しかしそれは軍備最優先という意味ではないのである。私たちの保持する最大の”武器”とは政治の知性であることは言うまでもない。政治の知性や胆力、時には巧妙な駆け引きこそが平和の均衡を維持できるもっとも有効な”武器
であるからこそ私たちは野獣ではなく人間なのである。(藤原新也「Shinya talk」2014/07/08

・ニッポン外務省のホームページをみて仰天した。絶句。みまちがいとおもい、目をこすった。(略)「
盧溝橋事件の発生」にかんし外務省はいう。1937当時の外務省ではない。2014年現在の外務省が、である。「昭和12年7月7日、北京郊外で日中間に軍事衝突(盧溝橋事件)が発生しました。(略)17日、日本は中国政府に対して、挑戦的言動を即時停止し、現地解決を妨害しないよう要求しました。(略)28日、華北駐屯の日本軍は総攻撃を開始し、31日までに北京・天津方面をほぼ制圧しました」。(略)ここからはニッポンによる中国の侵略、軍事占領、半植民地化という重大な歴史的事実が、ごそっとえぐりとられている。なんということだろう。(略)「日本政府は自衛行動をとるのやむなきに至った」は、いまのアベ政権でもそのまま再現可能な、「自衛」または「自存自衛」という名の「戦争の論理」以外のなにものでもない。(略)どうも気流がおかしい。気圧が尋常ではない。息が苦しい。(略)基底に狂気じみたなにかがあって、それが連鎖しあい、日々ふくらんでいる。どこでも極右と民族主義者、国家主義者が台頭している。歴史が映像のように巻きもどされている。(略)佐藤とかいう評論家が、集団的自衛権行使容認に賛成した公明党を堂々と賞賛している。(略)アベ政権支持率は50パーセント以下になったが、まだ40パーセント以上が支持している。(略)おなじ本をなんども読む。(略)〈委託権を失った市民は行動にでることもなく、全体をあらわす一部としてかりだされ、「民衆の役割」を演じるだけだ〉〈こうして、民衆は「演劇的機能」にすぎないものとなる〉(辺見庸「日録24」2014/07/08

・社会はますます暴力化している。暴力はいまや「反暴力」ないしは「非暴力」の表皮をすきまなくまとって、静謐に組織化され社会化された。
貧困と格差拡大、社会の階級化は、個々人の能力や無能力によってもたらされているのではない。「非暴力」の表皮をすきまなくまとったもの――すなわち、民主的に組織化され、社会化され、経済システム化された不可視の巨大暴力によって生成され、ささえられている。(略)わたしはどこまでも暴力に反対する。だからこそ、最大の組織的暴力である集団的自衛権に反対しつづける。ただし、集団的自衛権行使容認に反対する明るく楽しい「パレード」が、〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をまとった不可視の巨大暴力を、意図せず承認し、ひっきょう、巨大暴力の一構成要因となっていることについては、もっと思考をめぐらさなければならない。不可視の巨大暴力を可視化する方法とはなにか。〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をベリベリと引っ剥がす端緒とはなんだろうか。(略)不可視の巨大暴力に民主的、合理的に制圧され統御されることに、どこまでもジタバタと身体的に抗い、あがくことだ。そのとき、不可視の巨大暴力=権力は、有り体なすがたを、さらけだすにちがいない。そこにさえこぎつけないで、集団的自衛権反対が0.1パーセントでも実現するわけがない。(辺見庸「日録25」2014/07/09

アガンベンの短文「しないでいられることについて」がすきだ。「わたしたちが所有する真理を保証するのは、わたしたちには所有できない身を焦がすような認識だけである」「できないこと、あるいは、しないでいられることをめぐる目も眩むような見通しだけが、わたしたちの行動に中身をあたえてくれるのである」。疲れきると、バートルビーをおもふ。バートルビーは、たぶん最後にのこされた、死ぬまで「わたし」として在りつづける唯一の方法である。「こうした無能力=非の潜勢力からの疎外は、何にも増して人間を貧しくし、自由を奪い去る」のだ。わたしたちは、おおむね「せずにすめばありがたいのですが」(I would prefer not to)とつぶやき、だんことして力や流れや指示に逆らいたいまともな衝迫を日々、衰微させられている。「できることでなく、できないことにたいして、しないでいられることにたいして、盲目になっている」。(辺見庸「日録25」2014/07/10

・「『
この人』が元原発官僚の小鑓滋賀県知事候補を応援するとますます三日月氏有利になるでしょうね。本人とともに自滅戦略か? 滋賀知事選、自公推薦候補の支持表明 維新・橋下代表 - 朝日新聞 http://t.asahi.com/f8tz」(飯田哲也 ‏@iidatetsunariこのつぶやき自体には間違ったことは書かれていないのだろうが、自らが大阪府市の特別顧問を務めた過去についての総括を何もしない男に言われても「お前が言うな 」と思うだけなのである。飯田が橋下のブレーンを務めた過去を自己批判し、誤りを認めて初めて橋下批判が説得力を持ちうると思うが、この人は小沢一郎とよく似て、自分の誤りを認めたがらない「お山の大将」なのだろう。それどころか、飯田は今年1月に山口県知事選から逃げ出した時、自らについて「知事を担う方は数多くいるが『ミスターエネルギーシフト』と言われる仕事をしてきた私に代わる人はいない」(2014年1月21日付毎日新聞より)と述べたのである。なんという厚顔無恥。引用者附記:さらに私が腹立たしいのは、飯田哲也という人が「大阪府市の特別顧問を務めた過去についての総括を何もしない」ばかりでなく、民主主義陣営に属すると自称 する少なくないリベラリスト=脱原発主義者がいまだに大阪府市の特別顧問を務めた飯田哲也を批判しないばかりか進んで擁護派に与して恥じることも知らないことです。これで「脱原発」々々と声高に叫んで「騒ぐ」ことだけには長けているのですからこれでは集団的自衛権問題は言うに及ばず「脱原発」も1mmも前進しないといわなければならないでしょう。実にたわけたこと、と私は憤りを超えた思いでいます。(kojitakenの日記「飯田哲也よ、『橋下ブレーン』の過去を総括してから橋下を批判しろ」2014-07-12

・学生時代の友人である須田育邦君からお誘いを受けた。(略)古稀を迎えた須田君の処女出版発表会となれば参加せずばなるまい。(略)私にとっては馴染みのない雰囲気の日中交流会。在日中国人と中国ビジネスに携わっている日本人との名刺交換会のようなもの。なるほど、中小業者はこのような会合で人脈を掴み、ビジネスチャンスをゲットするのだ。(略)会合の合間に日本版・人民日報の見本紙が配布された。たまたま私に配布された号を見ておどろいた。一面トップの大見出しが、「高円宮妃久子殿下ご来臨 承子女王も」 というのだ。なんのことはない。東京ドームでの世界蘭展の紹介記事。取り立てて中国と関係がある展覧会ではない。なぜ、この展覧会がトップの扱いで、しかもなぜ皇族が見出しに踊るのか。ほどなく、「人民日報副社長氏」が名刺交換にやってきた。どうしても一言発せずにはおられない 。「私は、かつては中国革命に心惹かれた世代で、『人民中国』を定期講読していたこともある。中国共産党に幻滅を味わった今も、対中・対韓関係での日本政府の歴史認識はおかしいと声を上げ続けている。天皇や皇族の戦争責任をうやむやにしてはならないとの思いは強い。ところが、人民日報が、なんのこだわりもなく皇族礼賛に等しい紙面をつくっているのを見るのは悲しい。日本人に対する配慮でそのような紙面をつくっているとすれば考え直した方がよい。靖国や歴史認識問題を真面目に考え、日中友好を願う人々を失望させることのないように、お願いしたい」(澤藤統一郎の憲法日記 2014年7月12日

・パレスチナ自治区ガザ地区では7月12日、イスラエルによる空爆が5日目になって激しさを増し、これまでのガザ地区の死者が150人を超えた。障害者施設やガザ地区の警察署長宅への空爆により、さらに死傷者が増える見込みだ。BBCなどが報じた。12日には、ガザ地区の2ヵ所のモスク(イスラム教徒の礼拝所)や、イスラム原理主義組織ハマスの幹部の親族が住む住宅にも空爆が行われた。また、ガザ地区北部ベイトラーヒヤーにある障害者施設も空爆され、身体障害者2人が死亡、5人が重傷を負った。ロイターによると、ガザ地区の警察署長の邸宅周辺が空爆された際に15人のパレスチナ人が死亡、署長も重体だという。(略)イスラエルのネタニヤフ首相11日の声明で、「私たちを滅亡させようとするテロ組織への攻撃は、あらゆる国際的圧力でも止めることができない」と述べ、空爆を継続することを明らかにし、ガザとの境界付近に地上戦部隊を結集させている。(The Huffington Post 2014年 07月13日

・ヒューマンライツ・ナウは、イスラエル軍のガザにおける無辜の市民に対する無差別攻撃を強く非難する。「境界防衛」(Protective Edge)作戦が開始されてから、女性や子どもを含む多数の無辜の民間人が殺害されたと報告されている。この作戦は、イスラエルの10代の少年三名の殺害とこれに対する報復とみられるパレスチナの10代の少年への殺害後にハマスのロケット砲撃が増加したことに伴い、ロケット砲撃をやめさせるために開始されたとされる。しかし、作戦の結果は、一人の死者も出ていない砲撃に対し均衡性を著しく欠いている。(ヒューマンライツ・ナウ「ガザ攻撃 声明」 2014年07月13日
youtubeの日本語字幕版で『南京!南京!』(監督:陸川(ルー・チューアン)、2:14:50、2009年)を観ました。はじめは意図がわからず、なかなか観通すのに難儀したのですが、それでもこの映画の映像の美しさは私にもわかるものでした。私は久しぶりに「硬質のリリシズム」という言葉を思い出しました。特に被「攻略」側(中国側)の情念を内向させた寡黙な男性を演じるリウ・イエの描き方に私はそれを感じました。そのことがはっきりとわかるようになった頃には作品の意図も見えてきて、私は一層この作品に魅かれていきました。ラストにすでに遺影となった登場人物の写真がクローズアップされて映し出されるのですが、時間にすればほんの数十秒のことでしょうが、私は長いことその遺影に見入っていたような気がします。
 
辺見庸はこの『南京!南京!』について次のように書いています。
 
『南京!南京!』。1937年12月から翌年1月までの出来事が、1971年生まれの中国人監督によって、このように映像化された。まずそのことに、言いしれないおどろきをおぼえる。歴史、経験、記憶、映像、忘却、視圏、写角……。見ることと、見られること。記憶すること、記憶されること。曝すことと、曝されること。死者の山のざわめき。(略)事実とは反事実をふくむ、糸のきれて散らばった数珠玉である。事実とはしたがって異同そのものである。陸川監督が資料と証言というおびただしい数珠玉を、かれの歴史観、人間観、想像力という糸でつないでみたら、こんな全景になったということだろう。(略)
 
『南京!南京!』は、中国製というより、陸川監督の手になる南京大虐殺にかんする映像テクストである。日本ではこれに比肩しうる映像テクストがない。みずからの非を飾ることのさもしさもさることながら、日本というクニには、かかわってきた戦争と戦争犯罪のテクストがほとんどないこと――それは「学ばない」という習性のあわれをこえた不可思議であり、それこそが恐怖のみなもとだ。南京攻略祝賀式典のシーン。うち鳴らされる大太鼓。ドンドコドンドコ。多数の兵士たちの、なにやらドジョウすくいのような、異様なダンスと行進。神輿のようなもの。はためく各師団の幟。必見である。思い切ってデフォルメされた、このありえそうもないシーンこそ、わたしにはもっともリアルで、卓抜な映像とかんじられた。シュールである。シュールであったのだ。リーベン(日本)の素振りと律動が、こうみられたのだ。(「日録27」)

上記で辺見が「必見である」と言い、「シュール」と言い、「卓抜な映像」と言う『南京!南京!』のラストシーン(南京「攻略」を祝う日本軍の祝賀パレードのシーン)について陸川監督はインタビューに答えて次のように言っています。
 
ここで表現したかったのは戦争がいかに人の魂をコントロールするかということ。戦争が起こる前には必ず文化によって戦争の執行者への洗脳が行われる。精神の絶対的なコントロールと占領こそが戦争の本質です。戦争の核心的結果は、異なる民族の文化を被侵略者の廃墟の上で踊らせることです。これは私が夢の中で思いついたことです。2007年8、9月に脚本と葛藤しているときにうたた寝をして、うとうとしながらこの場面を夢見ました。

以下は、映画『南京!南京!』と陸川監督に関するウィキペディア記事。
 
南京!南京!
 
『南京!南京!』(なんきん!なんきん!)(英題 City of Life and Death)は、陸川監督によって製作された中国映画。日中戦争の南京戦とその後に起こったとされる南京事件を題材にした作品。モノクロで制作されており、南京戦の一連の様子が一日本兵の視点から描かれている。
 
概要
4年以上の歳月をかけて脚本を練り、製作がおこなわれた。陸川監督は脚本を書くために膨大な数の日本兵の日記を読み、友人が日本で収集した2000冊以上のモノクロ写真集を参考にしたという。そうした史実資料から構想のヒントを得ているものの、陸川監督は「これは記録映画ではない。戦争での人々の感情を描いた」と述べている。慰安婦のシーンも大きな割合を占めており、監督はこれらのエピソードは大量の歴史的資料の裏づけがあって設定されたと述べている。
 
反響
2009年4月25日より中国にて、2010年4月28日より欧州にてロードショーが開始される。戦争の狂気と悲惨さを製作側は意図したため、中国国内では映画中に登場する日本兵の姿に激しい賛否両論を呼んだ。杭州で催された試写会では、日本人俳優に対し、「日本帝国主義打倒!」や「バカ!」といったののしり声が客席の一部から飛ばされる場面があったが、「彼らは尊敬すべき人たちだ!」という声がはるかに多くの観客から上がり、会場は拍手でいっぱいになり、日本人俳優もこれに深い感動をおぼえたという。さらに出演した日本人俳優に対して、「(帰国後の日本からの弾圧を避けるために)今後保護するために中国で暮らしてはどうか」との申し出もあった。人民網日本語版は「全ての中国人は、南京大虐殺から70数年が経った今こそ、民族史上に受けた苦難をしっかりと心に刻まなければならない」と評論した。
 
本作は日本では公開されていないが、陸川監督は日本国内での上映を強く希望しており、2009年9月21日、スペインで開催された第57回サンセバスチャン国際映画祭における公式会見の席上で、配給会社が決まり日本公開されることが監督によって明らかにされた。だが、劇中で使用している楽曲の著作権問題で配給会社との交渉は決裂し、2011年8月21日に、史実を守る映画祭により一日限りの上映が行われた。
 
受賞
第57回サンセバスチャン国際映画祭(2009年):コンペティション部門 ゴールデン・シェル賞(最優秀作品賞)・審査員賞(最優秀監督賞)・カトリック映画賞(シグニス賞)
第46回金馬奨(2009年): 最優秀撮影賞(曹郁)
 
陸川
 
陸川(ルー・チューアン、1971年2月8日 - )は、中華人民共和国新疆出身の映画監督・脚本家。いわゆる第6世代の監督の1人として知られる。
 
経歴
6歳のときに北京に移住。
出身校:
解放軍国際関係学院 英語科(1993年卒)
北京電影学院 導演科 修士課程終了(1998年卒)
 
主な作品
『ミッシング・ガン』(尋槍)(2002)
ココシリ』(可可西里)(2004)
『南京!南京!』[3](南京!南京!)(2009)史実を守る映画祭で上映
『項羽と劉邦 鴻門の会』(王的盛宴)(2012)
 
受賞歴
『ミッシング・ガン』で台湾優良シナリオ大賞を受賞。(2001)
『ココシリ』で第17回 東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞。(2004)
『ココシリ』で台湾金馬奨最優秀作品賞と撮影賞を受賞。(2004)
『ココシリ』で中国華表奨の劇映画賞を受賞。(2005)
『ココシリ』で中国金鶏奨最優秀劇映画賞を受賞。(2005)
『ココシリ』で香港電影金像奨最優秀アジア映画賞を受賞。(2006)
『南京!南京!』で第57回サンセバスチャン国際映画祭コンペティション部門で、ゴールデン・シェル賞(最優秀作品賞)、審査員賞(最優秀監督賞)、カトリック映画賞(シグニス賞)を受賞。(2009)
 
最後に陸川監督の言葉をもうひとこと引用しておきます。
 
まず偏見を捨てて、平常心になってください。これは単なる方法論であって私の世界観を代表するものでも、私の感情でもない。戦争を反省している日本人がいるのかと聞かれれば、「いる」と答えます。その資料をお見せしよう。この点を認めても中国人が損するわけではない。反対に世界からより尊重を受けることになる。これまでの私たちの映画はすべて自分たちの角度から語ったものだった。自己満足に浸っても永遠に外には出られない。
 
週刊誌『FRIDAY』(7月25日号)が「NHK『クローズアップ現代』を首相官邸が叱責」と報道した問題について、菅官房長官は「事実とまったく違う。ひどい記事だ」と反論し、NHK広報局も「官邸から抗議を受けた事実はない」と否定しているが、官邸とNHKのやりとりの真相はどういうものか? 否定するのであれば、NHKはその真相を明らかにする責任があるというべきだろう。
 
NHKはこの7月22日に週刊新潮を相手方として東京地裁に名誉棄損への謝罪と損害賠償の支払いを求める訴訟を提起したが、名誉棄損というのであれば、『FRIDAY』(7月25日号)に掲載された記事が伝えた内容の方がはるかに重大である。なぜ『FRIDAY』は訴えないのか? この問題は官邸と単にNHKの上層部だけの問題ではない。「クローズアップ現代」の制作現場のスタッフも真実を追求する放送ジャーナリストとして事の真偽と事実の有無を公にする責任があろう。このまま責任の所在をあいまいにしたまま明らかにすることがなければ、ETV番組改ざんの二の舞になってしまうだろう。NHK職員はいま勇を奮え。醍醐聰さんの今回のNHK批判を要約的に言えば左記のようになるでしょうか。
 
醍醐さんは今回の論では『FRIDAY』記事の信憑性についてはなにも述べていませんが、NHKが官邸とのやりとりの真相を明らかにすれば、『FRIDAY』記事の信憑性についてもおのずから明らかになる、という判断も当然あるでしょう(当事者の証言がない限り、いま第三者がその信憑性を明らかにすることはできません)。
 
なお、このエントリは、「醍醐聰さんのNHK批判 ――『クローズアップ現代』がおかしい」 「週刊フライデーの『安倍官邸がNHKを"土下座〟させた』報道は醍醐聰さんの『クローズアップ現代』がおかしい』という記事から読み解く必要がある」の続きとしても書いています。
 
ETV番組改ざんの二の舞にしてはならない~「クローズアップ現代」をめぐる官邸とNHKのやりとりの真相は?~(醍醐聰のブログ 2014年7月25日)
 
NHKの名誉棄損というなら
7月22日、NHKは『週刊新潮』4月24日号に掲載された、籾井会長の初出勤の日の言動などを取り上げた記事について、NHKおよび籾井会長に対する重大な名誉棄損にあたるとして同誌出版元の新潮社を相手どり、損害賠償の支払いと謝罪広告の掲載を求める訴訟を、東京地方裁判所に提起した。
 
「籾井会長に関する週刊新潮の記事をめぐる訴訟の提起について」
 http://www9.nhk.or.jp/pr/keiei/opinion/index.html
 
 『週刊新潮』の記事に個人の人格を貶める不適切な表現や誇張、事実の裏付けに疑義があったことは否めないが、NHKの上記告知文によると、今回の提訴はNHKと籾井会長が原告となって起こしたとある。訴因となった『週刊新潮』の記事が籾井氏の名誉にとどまらず、NHKの名誉まで棄損し、NHKの信用まで失墜させるものだったからというのがその理由のようだ。
 
NHKが訴訟に参加するとなれば、訴訟費用の一部はNHKが負担することになる。さらに、損害賠償が認められれば、訴訟費用補てん後のその一部はNHKが受け取ることになる。それだけに、『週刊新潮』の記事が籾井氏の名誉にとどまらず、NHKの名誉も傷つけたとする理由を示される必要がある。
 
「籾井よくやったと書いて」というけれど
~140万円の期末報酬返上で償われるのか?~
しかし、『週刊新潮』の記事を離れて言えば、籾井氏の会長就任会見以来の一連の妄言でNHKの名誉は著しく棄損されてきた。7月15日の定例記者会見で籾井氏は上期の期末報酬の全額140万円を自主返上した理由を質した記者に対して、「籾井よくやったと書いてくれれば十分じゃないか」と応えたという(『毎日新聞』7月16日)。
 
それで本当に十分か?
 
金銭に換算するのは容易ではないが、会長就任会見で「政府が右というものを左と言うわけにはいかない」、「通ちゃったもの〔特定秘密保護法案のこと〕はカッカすることはない」、「戦時には従軍慰安婦はどこにでもあった」などと言い放って国民を仰天させ、NHKの自主・自律、政治的公平、不偏不党の立場に対する信頼を貶めた籾井氏の罪は140万円で引き合うとは、とても思えない。
 
名誉毀損というならNHKは百田氏を訴えるべき
私は『週刊新潮』を擁護する気はないが、NHKが名誉を毀損されたというなら、その深刻さにおいて百田尚樹氏の一連の暴言は『週刊新潮』の記事の比ではない。百田氏の暴言を挙げると枚挙にいとまがないが、代表的なものを摘記しておく。
 
「日本がアジア諸国を侵略したというのも南京大虐殺も嘘である。」「他の候補者は人間のクズだ。」(2月3日、東京都内で行った都知事候補・田母神俊雄候補の応援演説で)
 
「護憲派の人たちは大ばか者に見える。・・・・侵略されて抵抗しない国と、侵略されたら目いっぱい自衛のために戦う国、どちらがより戦争抑止力があるかというリアリティの問題だ。」(5月3日、「21世紀の日本と憲法有識者懇談会」が都内で開いた公開憲法フォーラムで)
 
「(軍隊を持たない南太平洋の島しょ国、バヌアツ、ナウルは)家に例えると、くそ貧乏長屋で、泥棒も入らない」(5月24日、自民党岐阜県連の定期大会で)
 
いずれもNHKの監督機関のメンバーとして、その稚拙な歴史認識、下品な言辞は、いかに職務外の発言と弁明しても、聴き手には通用しない。それぞれの言動に現れた見識と人格の低劣さがNHKの名誉をはなはだしく棄損したことは明白である。
 
したがって、NHKは自らの名誉が棄損されたというなら、百田尚樹氏を訴えるのが道理である。また、経営委員会の他のメンバーは経営委員会の名誉と威信をかけて百田氏の言動を厳しく質し、それでも悔い改めないなら、彼に辞職を勧告するのが道理である。
 
(追伸)今朝の「朝日新聞」に次のような見出しの記事が掲載された。
「百田氏、番組へ異議 『強制連行で苦労』キャスター発言に 放送法抵触の恐れ」(2014年7月25日、朝日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140725-00000007-asahi-soci
 
NHKの名誉というなら『FRIDAY』の指摘をなぜ放置するのか?
NHKが公表した前記の「籾井会長に関する週刊新潮の記事をめぐる訴訟の提起について」によると、NHKは『週刊新潮』に対し、4月22日付で謝罪と訂正を求めて抗議した、と記されている。問題の記事を掲載した『週刊新潮』は4月24日号となっているが、発売日は4月17日だった。したがって、NHKは発売日から5日後に新潮社に対して問題の記事について謝罪と訂正を申し入れたことになる。
 
ところで、公共放送NHKの名誉というなら、『FRIDAY』7月25日号に掲載された記事が伝えた内容の方がはるかに重大である。記事によると、7月3日放送の「クローズアップ現代」(「集団的自衛権 菅官房長官に問う」)の放送終了直後に、待機していた菅氏の秘書官が、国谷キャスターの突っ込んだ質問、再質問に不快感を覚え、「いったいどうなっているんだ」と抗議したという。さらにそれから数時間後に官邸からNHK上層部に「君たちは現場のコントロールもできないのか」と抗議が届いたという。
 
これに対し、NHKの上層部は平身低頭、籾井会長は菅氏に詫びを入れ、NHK上層部は番組制作部署に対し、「誰が中心になってこんな番組作りをしたのか」など「犯人捜し」まで行ったと記されている。この番組は私も視聴し、感想を番組専用サイトに送った。このことは本ブログに書いたとおりである。
 
もともと、この番組は7月1日の閣議で集団的自衛権の行使を容認する決定がされた件について、菅義偉官房長官を招き、国谷裕子キャスターと原聖樹・政治部記者が討論を交わすというものだった。国民の過半が異論・疑問を持つ閣議決定を担った官房長官だけを出演させる番組を放送したこと自体、問題だったが、国谷キャスターは閣議で憲法解釈を変えてよいのか、集団的自衛権の行使を認めると他国の戦争に巻き込まれるのではないかという、多くの国民が抱いている疑問を代弁する形で菅氏に質したまでであり、何ら非とするべき点はなかった。
 
そうした質問を受けたことに官房長官側が不快感を覚え、クレームを付けたのだとしたら、NHKは官邸の意向通りに放送をするのが当然だと言わんばかりの傲慢な態度であり、NHKの放送の自主・自律を定めた「放送法」や「放送ガイドライン」への無理解を露呈したものである。
 
にもかかわらず、籾井会長以下、NHK上層部が官房長官側の不当な干渉にうろたえ、番組制作現場に締め付けをしたのが事実なら、外部からの圧力を排除し、放送の自主・自律を守る活動の先頭に立つべきNHK会長らが、あろうことか、それと正反対の行動――官邸からの圧力を番組制作現場に伝える導管の役割――を演じたことになる。
 
放送の自主・自律、とりわけ、時の政権からの独立は公共放送としてのNHKの生命線であるから、『FRIDAY』が指摘したNHK上層部の対応の真偽はうやむやにされてよいはずがない。NHKが自らの名誉を確固として守るというなら、事の真相を主体的に調査し、記事に誤りなりねつ造があるなら、直ちに『FRIDAY』編集部なり出版元の講談社なりに記事の訂正と謝罪を求めるのが道理である。
逆に、記事で指摘されたことが真実なら、籾井会長ほかNHK上層部は自ら、事実関係を公表し、引責辞任するか、罷免されるのがふさわしい大罪を犯したことになる。
 
NHKの静観は何を意味するのか?
ところが、菅官房長官は7月11日の記者会見で、『FRIDAY』の記事について「事実とまったく違う。ひどい記事だ」と発言したものの、同誌編集部なり出版元の講談社なりに抗議するかどうかは「効果があるかを含めて考えたい」と述べるにとどまった。
 
NHKの対応はどうかというと、『FRIDAY』の記事では、「ご指摘のような事実はありません。NHKは放送法の公平・公正、不偏不党などの原則に基づいて放送しております」という広報局のそっけないコメントが掲載されただけである。また、7月15日の会長会見の際、この件を質した記者に対し、広報局は「官邸から抗議を受けた事実はない」と答えたにとどまる。
 
さらに、『東京新聞』7月19日によると、籾井会長は、「NHKで菅氏を出迎えたことは認めているが、『収録には立ち会っていない。テレビで放送を見ていた。菅さんはお化粧を落として帰っていった』」などと述べたという。
私自身も何度かNHK視聴者部に問い合わせたが、7月17日現在、同誌編集部なり出版元の講談社なりに記事の訂正も謝罪を求める抗議も行っていないとの返答だった。その後も、一昨日(7月23日)までのところ、NHKがこの件で同誌編集部なり出版元の講談社なりに何らかのアクションを起こしたとは伝えられていない。
 
しかし、「そのような事実はない」という広報局の応答では『FRIDAY』の記事への反証力は無に近い。『東京新聞』が伝えた籾井会長の説明は肝心の場面を飛ばした駄弁である。
 
また、NHKの会長が収録現場に立ち会うなど、もともと、ありえないことだから、「収録には立ち会っていない」という説明はアリバイ説明としての意味はゼロであり、「語るに落ちる」の感さえある。
 
それにしても、問題の『FRIDAY』は7月24日号であるが、発売日は7月11日であるから、すでに12日が経過している。『週刊新潮』に対して発売日の5日後に記事の訂正と謝罪の申し入れをしたことと対比すると、記事が伝えた模様を頭から否定するにしては、反応が鈍すぎる。
 
NHKとしては、事実を否定して見せるだけで、事の真偽には一切、立らないという「戦術」で押し通すつもりかと思われる。
 
しかし、NHKは、その意思さえあれば、指摘された点を反証することは十分に可能である。にもかかわらず、「事実無根」と繰り返すだけで、進んで反証し、新潮社に対して行ったのと同様に、記事の訂正、名誉棄損の謝罪を求めないのはなぜなのか?
 
NHKの名誉という点では『週刊新潮』の記事の場合と比べ、『FRIDAY』の記事の真偽の方がはるかに重大である。にもかかわらず、NHKが『FRIDAY』の編集部に対しても出版元の講談社に対しても何らの対応も取らないとなれば、記事で指摘された点を反証する自信のなさを意味するか、指摘された点を真実と認めたかのいずれかである。
 
「クローズアップ現代」の制作現場も声を上げるべき
もう一つ、言いたいのは、NHKの上層部にとどまらず、「クローズアップ現代」の制作現場のスタッフも事の真偽について語るべきだということである。
 
報道によれば、7月3日の放送の折、キャスターは事前の打ち合わせと異なる質問を繰り返した、それについて官房長官側がクレームを付けたとも伝えられている。一体、どのような事前の打ち合わせがあったのか、番組ではすべて台本通りに進行させないといけないのか、番組終了後、官邸から届いたクレームを受けて、NHK上層部が番組制作部署に対し、「誰が中心になってこんな番組作りをしたのか」など詰問したという事実はなかったのか、あったとしたら、それに対して番組制作スタッフはどのように応答したのか? こうした事実の有無を公にするべきだ。
 
そんなことは無理強いだと言われるかもしれない。しかし、韓国の公共放送KBSでは4月16日に起こった客船「セオル号」沈没事故の報道をめぐって、大統領府から報道内容に圧力があったとして同局の2つの労組は、この圧力を受け入れた吉社長の解任を求め、記者や番組制作スタッフらが29日からストライキを決行した。その際、前報道局長は大統領府からKBS社長に事故報道に干渉する圧力があったと暴露した。KBSの理事会は6月5日、吉社長の解任決議案を可決、その後、朴大統領もこの決議を承認した。
 
さる6月21日、大阪中之島中央公会堂で開かれた集会に発言者の一人として参加した私は第2部のパネル討論の折、壇上にいた元NHKプロデュサー/ディレクターに向かって、こうした内部からの告発が「韓国のKBSではできてNHKではできないのはなぜか」と質した。
 
元NHKディレクターからは、日本と韓国での民主化闘争の歴史の違いが主な要因、という応答があった。しかし、このやりとりの前に、「内部から声を上げられないのを環境のせいにしていては、いつまで経ってもNHKの体質は変わらないのではないか」と質していた私としては、納得できる回答ではなかった。
 
『FRIDAY』の記事の指摘を全面否定するNHKの上層部に対して制作現場が異議を申し立てるのがいかに困難かは十分、承知している。しかし、記事の指摘が要所において真実なら、「クローズアップ現代」のスタッフは一致結束して官邸からの圧力に媚びるNHK上層部を告発し、真相を国民の前に明らかにすることが強く期待される。
 
否、問題は「クローズアップ現代」の制作現場にとどまらない。NHKの様々なドキュメンタリー番組や報道番組の制作現場のスタッフは、今回の問題を我が事として、番組編集の自由と自律を守るために結束し、真相を告発するよう求められている。
 
また、『FRIDAY』の記事の指摘がありもしない事実のねつ造なら、それはそれで「クローズアップ現代」のスタッフはNHK上層部に対して、記事の訂正と謝罪を『FRIDAY』編集部と講談社に求めるよう意見を提出すべきだ。
 
一遍の否定でこのまま真相を闇に葬るなら、「ETV2001」特集第2夜の番組改ざん問題の二の舞になる。
中国という国はほんとうに「脅威」なのか? 事実関係を話そうとしても「私の話はほとんど『通らない』」。「なぜ、これほどまでに中国に対する批判感情が支配しているのか」について考え込まされる毎日」ですと浅井基文さん(元外交官、政治学者)は最近の日のことを慨嘆します。それはひとことで言って「大国主義・中国はけしからん」という現代日本人のそれとは意識されないきわめてプリミティブな感情と思考スタイルがそうさせているのではないか。その始原を明らかにし、そこから脱却する必要がある――そう考えて浅井さんが依拠しようとしているのが溝口雄三さん(中国思想史)と相良亨さん(日本思想史)の思索です。
 
-「日本人が近代以降の西欧化をいう時に念頭に浮かべる語の一つに「脱亜入欧」があるであろう。アジアを脱するという時の「アジア」は地理的な概念ではなく、文明概念であり、具体的にはそれは中華文明圏のことであった。‥遅れた文明から進んだ文明に移転するという、明らかに価値の優劣を伴った話であった。…問題は、21世紀に入った今日にも、こういった優劣の構図の脱亜入欧観が、日本では依然として根強く生き続けている、ということである。
 
-「中華文明圏諸国は、部分ごとに遅速や濃淡の差はありつつも、‥全体としては欧化を遂げた。であるなら、なぜ日本人は、自己が属すると見なしてきた文明圏全体が欧化を遂げたという考え方に立たないで、自分だけがそこから離脱した、という考え方に固執するのだろうか。それは、一つには、西欧化=近代化の時間的先後関係を、民族性や歴史過程などにおける優劣関係と見なす考え方に囚われていたからであり、またもう一つには、そのほうが自分たちの(アジアの盟主という)アイデンティティの自足にとって幸便だったからである。…こうして、西欧化をいち早く成し遂げた優者・日本とそれに後れをとった劣者・中国という構図およびアジアの優等生であると自認するアイデンティティの位置づけは、分かりやすさによって日本の一般民衆の間にさえ普及しているが、分かりやすさによって単純化され、形式化され、その結果いくつかの事実が隠蔽されてしまっている。
 
なるほど。浅井さんが「これほど夢中になったのは丸山眞男以来のことです」と称揚される理由が私にも少しわかります。いかにすれば私たちは「脱亜入欧」の精神(それはとりもなおさず「優者志向」、裏返せば「劣者差別」の精神ということにもなりますね)から脱却しうるか。私たち日本人は南京大虐殺のあった南京「陥落」のときに東京だけで40万人の人が提灯行列をし、万歳三唱をして祝いました。そうした集団狂気とも日本人の「脱亜入欧」の精神は結びついていますね。
 
私も浅井さんに誘われて「私たちの対中国認識を妨げる思想上の問題」について勉強してみようと思います。
 
私たちの対中国認識を妨げる思想上の問題(浅井基文 2014.07.21)
 
最近、中国にかかわるお話しをする機会が何度かあります。参加者の関心が集中するのは「中国脅威論」であることは容易に予想がつきますので、そのことについて事実関係を紹介する形(実事求是)でお話しするのですが、「大国主義・中国はけしからん」という印象が浸透しているために、私のお話はほとんど「通らない」状況です。
 
なぜ、これほどまでに中国に対する批判感情が支配しているのかを考え込まされる毎日になっています。私がこの半年ほど夢中になって読み込んできたのが中国思想史の溝口雄三先生と日本思想史の相良亨先生の著作です。これほど夢中になったのは丸山眞男以来のことです。
 
お二人の指摘は、私が実務をやっていた頃から暖めてきた、日中の相互理解の難しいことの原因に関する問題意識を学問的に裏づけてくれるものばかりで、私は本当に興奮しました。お二人の指摘を伺う集会で詳しく紹介することを心掛けてもいます。その内容をこのコラムでも紹介しておきたいと思います。
 
1.私たちの対中国認識を妨げる要素
 
<溝口雄三『中国の衝撃』(東京大学出版会 2004年5月)>
 
①(「脱亜入欧」における「日本=優者、中国=劣者という構図」にしがみつく日本人)
 
-「日本人が近代以降の西欧化をいう時に念頭に浮かべる語の一つに「脱亜入欧」があるであろう。アジアを脱するという時の「アジア」は地理的な概念ではなく、文明概念であり、具体的にはそれは中華文明圏のことであった。‥遅れた文明から進んだ文明に移転するという、明らかに価値の優劣を伴った話であった。…問題は、21世紀に入った今日にも、こういった優劣の構図の脱亜入欧観が、日本では依然として根強く生き続けている、ということである。
 
ところが、中国についていえば、‥明らかに位相上の何らかのギャップが生じつつある。「脱亜」によってリードしてきたはずの「アジア」、後ろから追随してくると見なしていた「アジア」によって、今はいつのまにかこちらがリードされはじめているという状況、日本人の「脱亜」という認識と現実の「アジア」という事実の間の微妙なギャップ、しかもその現実のギャップにほとんどの日本人が気がついていないという認識上の二重のギャップ。 このギャップを"中国の衝撃"という呼称で問題にしたいと思う。
 
問題を原初の地点に戻して問うてみよう。そもそも、はたして日本は明治以降、中華文明圏を離脱し西欧文明圏に移転したといえるのか、と。」(pp.2-4)
-「脱亜とは要するに日本の資本主義が他のアジア諸国に比べて早かった、ということに尽きる。‥資本主義化したことが即時に西欧文明圏入りしたこと、あるいは中華文明圏を出ることを意味するわけではない。…事実関係に即して見れば、たとえば明治以降の日中関係は、明治以前と多くの点で不変である。社会文化面すなわち社会風俗、慣習、宗教、生活倫理などの面でいうと、‥もともと日中間に共通性は稀薄であり、その点では明治以前も以後も基本的に変わっていない。…
 
思想文化関係では、儒学を受容した近世はもとより、西欧文明圏に移転したといわれる明治以降も、…日本を論ずるときの背景装置として中国は欠かせないものであった。つまり日本人はしばしば中国を媒介にして自己のナショナル・アイデンティティを策定してきた。…卑近な例でいえば、現在でも日本人の多くは自己の近代化の成果を測るとき、「進んだ」ヨーロッパと比較すると同時に、意識的にかあるいは無意識的にか、「遅れた」とされる中国と比較して満足感を得るのであり、この場合も中国は日本認識の媒体となっている。
 
つまり、日本人が日本の座標を策定しようとするとき、意識的・無意識的に中国を媒体にして考えるという性癖は、明治以前から以降も、そして現在も不変である。
 
ここで、ほとんどの日本人が知らないままでいて是非知っておくべきことは、日本に存在する、以上のような意味での中国関心に見合うような日本関心が、中国には基本的に存在していなかったということである。…日本における中国関心の持続と中国における日本関心の稀薄さという思想文化面における非対称的関係も、明治以後も明治以前と変わっていない。…(この)非対称的関係は、実は中華文明圏時代からの「中心と周辺」の関係構造の頑固な名残にほかならないのである。
 
にもかかわらず、日本が中華文明圏を出た、というこの言葉は日本人の大多数に実感的に支持されている。それは、日本人の主観においては、明治維新を境に、尊崇する文明が「文明開化」の合唱とともに中華文明から西欧文明に明らかに移転したからである。」(pp.5-7)
 
-「しかし、‥中華文明圏諸国は、部分ごとに遅速や濃淡の差はありつつも、‥全体としては欧化を遂げた。であるなら、なぜ日本人は、自己が属すると見なしてきた文明圏全体が欧化を遂げたという考え方に立たないで、自分だけがそこから離脱した、という考え方に固執するのだろうか。それは、一つには、西欧化=近代化の時間的先後関係を、民族性や歴史過程などにおける優劣関係と見なす考え方に囚われていたからであり、またもう一つには、そのほうが自分たちの(アジアの盟主という)アイデンティティの自足にとって幸便だったからである。
 
…こうして、西欧化をいち早く成し遂げた優者・日本とそれに後れをとった劣者・中国という構図およびアジアの優等生であると自認するアイデンティティの位置づけは、分かりやすさによって日本の一般民衆の間にさえ普及しているが、分かりやすさによって単純化され、形式化され、その結果いくつかの事実が隠蔽されてしまっている。
 
まず、日中両国の西欧化=近代化の過程の時間的な先後のように見える差が、実は両者の近代化の過程のタイプ(型)の差をあらわすものである、という歴史の実態が隠蔽された。
 
また、日本を西欧化世界、中国を中華世界という二分法方式で差別することにより、‥両者間に持続する歴史上の不変の共同-非共同的共同-関係が隠蔽された。
 
タイプの差ということについていえば、…二千年来の王朝体制そのものの倒壊への歴史過程がそれに先行して進んでおり、欧化への転換は日本ほど身軽ではなく、半世紀の時間は十分にかかったし、その近代過程の前段階も日本や西欧とは異なったタイプの、中央集権体制から地方分権体制(省独立)という過程であったうえ、伝統的な社会文化、思想文化の地盤の特性から資本主義(弱肉強食・競争原理)よりも社会主義(扶弱抑強・・協同原理)に宥和的であったなどの理由により、資本主義的な近代過程から見れば、遅れて進んでいると見えたに過ぎない。…
 
問題は歴史観にある。…他の人々が日中間の歴史認識問題といえば主に日中戦争についての歴史認識の問題としているのに対し、私の場合は、日中戦争の時期も含めて、16世紀から21世紀の現在にいたる日中関係、東アジア関係をどのような歴史の目で捉えるかを、長期の歴史観の問題として問題化しようというのである。…タイプの異なる諸国の雑居的な中華文明圏の関係構造の、16世紀以来の長期的な変態の過程として俯瞰する歴史観によって、アジアの近代を多元的・多極的に見ようというのである。」(pp.8-13)
 
②(「大国」・中国を素直に受け入れられない日本人)
 
-「問題は経済関係である。現在、日本と中国の間に生起している新しい問題は経済関係から生起した問題なのである。…この経済問題を思想文化の問題として捉えるならば、これは、かつて中華文明圏に属したとされる諸国間の関係構造の歴史的な変貌を意味する。…旧中華文明圏とは異なったかたちでの、日本に対する中国の位相の上昇という局面に否応なく想到する。にもかかわらず、まだ大半の日本人はこのことの深刻さに気づいていない。そして日本=優者、中国=劣者という構図から脱却していない。その無知覚こそが日本人にとっての"中国の衝撃"である。衝撃として自覚されないがゆえに、衝撃は日本人にとって深刻なのである。かつて、清末の"西洋の衝撃"が、中華=優者、外夷=劣者という古い構図に囚われている中国人知識人に自覚されなかったときのように。政権中枢から国民一般までが無自覚であることの、またそうであるがゆえの、何重もの鈍重な衝撃。
 
誤解のないように言っておかねばならないが、私はここで「中国脅威論」を説こうとしているのではない。この「中国脅威論」は、一つに、問題を排他的な国民国家の枠組みで捉えていること、二つに、中国を国際秩序外の特殊国家と見なすことを前提にしていること、三つに、「脅威」という発想自体が蔑視の裏返しで、もともと世界の歴史的な差別構造の産物であること-などの問題点を抱えている。私は、むしろそういった前世紀的な偏見からどう脱出するかを前提にするべきだと考えている。…
 
これまでの近代過程を先進・後進の図式で描いてきた西洋中心主義的な歴史観の見直しが必要である。…とくに明治以来、中国を経済的・軍事的に圧迫し刺激しつづけてきた周辺国・日本‥が、今世紀中、早ければ今世紀半ばまでに、これまでの経済面での如意棒の占有権を喪失しようとしており、日本人が明治以来、百数十年にわたって見てきた中国に対する優越の夢が覚めはじめていることに気づくべきである。現代はどのような歴史観で捉えたらいいのか、根底から考え直す必要がある。…
 
われわれにとっての"中国の衝撃"は、優劣の歴史観からわれわれを目覚めさせ、多元的な歴史観をわれわれに必須とさせ、今後関係が深まるがゆえにかえって激化するであろう両国間の矛盾や衝突のなかに、「共同」の種を植えつけさせるものでなければならない。」(pp.14-17)
 
③(私たちの思考を縛る欧州発「知の差別構造」)
 
-「<中国とはなにか>というのは、われわれ日本人にとっては、結局、世界をどのような視座で見るか、ということである。それが<中国を問題にすることの意味>でもある。
 
かつて、世界は西陣営と東陣営の二分法であった。今、われわれは二分法によってその本来の姿を歪曲されてきた、未知の世界としての、そして生の、いきいきと生きたイスラム文明世界や中華文明世界を目の当たりにしている。…イデオロギーの冷戦構造が崩壊した今、われわれははじめてそれらの世界を、赤裸々に目の当たりにしているのである。
 
日本人は明治以来、ずっとヨーロッパ<近代>という視座に依拠して中国を蔑視してきた。中国を蔑視するその度合いが日本のヨーロッパ度として自覚された。日本人は、そのヨーロッパ度を、ヨーロッパと比較するのではなく、中国と比較することで計測してきた。日本アイデンティティは中国蔑視を一つの不可欠の要素としてきた、とさえ言える。しかし、‥われわれは、その気にさえなれば、多くの点でヨーロッパとは歴史の文脈を異にする中国を発見し、それを媒介にしてわれわれの内部のヨーロッパ視座を相対化することができる。
 
あるいは、われわれの気づかないところで、われわれの思考をある特定の方向に配列させている目に見えていないある力-例えば「民主」に特定の意味づけや方向づけを与えているある力-の働きを自覚させる媒介にすることもできる。その目に見えない力とは何か.それは近三百年来、世界を覆ってきたヨーロッパの<近代文明>を背景にした知の差別構造である。」(pp.34-35)
 
-「残念なことに、この隣国の警告を受け入れる切実な座標感覚が、日本では、国民の間で欠如している。日本における、欧米追随と裏腹の、アジア軽視、日本優位という構図の無意識的・無自覚的な感情は、すでに一世紀有半にわたり、積弊というにふさわしく、麻酔薬のように全身に行きわたって、アジアの現実への認識力をいびつにし、また阻害している。」(p.78)
 
2.基本的概念に関する日中の決定的な違い
 
<「対談・異と同の瀬踏み-日本・中国の概念比較-」(岩波書店『文学』 1987年1月号。溝口雄三『中国思想のエッセンスⅠ』岩波書店 2011年11月に再録>
 
①(中国の思想における普遍的価値尺度)
 
-「勢いは理ではないですね。理というからには普遍的な正しさ、何が正しいかは別問題として、それが含意されます。もっともその正しさが歴史の必然性として観念されたときには勢いは理となりますがね。(理には普遍的な正しさが)あるという前提がみんなに共通にあるわけですね。ただ何が正しいかは時代によって決まっていく。そういう点では、普遍性は通時的ではなく単に共時的ですが。」(溝口 p.21)
 
-「今のお話を聞いていると、中国には普遍的な正しさが考えられている。またそれを捉えようとする姿勢があるということが、まず印象的です。もう一つは、その中国でいう「正しさ」は時代を超えて働くことを内的要請としてもっているかどうかという点です。どうも時代を超えてという要請を内包していないようですね。」(相良 p.21)
 
*溝口「理とはけっきょく、ヒトにとって本然と観念された秩序の観念であるにすぎず、極論すればそれは時代の主観にすぎない‥。しかしながらそれは、…ある種の絶対性普遍性をともなった観念、すなわちこれこそ絶対的であり普遍的であり、「天下万世」に「不可易」のものであるはずとする観念であるため、その主観は常に客観的と観念された主観である。ただしそれは客在を認識する存在論上の客観ではない。たとえばそれは自然法則のようにあらゆる人に共同認識される、つまり客在性が立証されうる客観ではない。」(p.58)
 
<相良亨『日本の思想』(ぺりかん社 1989年2月)>
 
②(日本の思想における普遍的価値尺度の欠如)
 
-「理あるいは理的な概念を中心に日本人の思惟の仕方をこのように見てくると、置かれた状況への適切さを求める姿勢の強調が浮かび上がってくる。同時に、その適切さは、主体の態度、特に心情の純粋化によって到達されるべきものとする傾向が強く、判断の基本的な規準となるものを客観的に追究する姿勢は熟してこなかったように思われる。…日本人として一番、今日的に問題になる点は、この判断の規準を客観的に追究する姿勢をめぐる問題であろう。なお、これは、宇宙の究極を捉える捉え方の問題にかかわってくる。」(pp.34-35)
 
-「natureおよび中国の自然をみてくると、質的には異なるが、それぞれある客観視する姿勢において捉えられる内容を内包していることがわかる。Natureはテオリア(=「人間そのものを客観的に見る姿勢」)の伝統において捉えられた本性・本質の意を内包し、一方は格物致知・窮理の伝統の下において捉えられた状態・あるべきあり方であった。この両者との比較において、われわれの「おのずから」としての自然を見る時、もっとも注目すべきことは、質がいかなるものであれ、ものの本性・本質、あるいは秩序といった意味内容がそこに含まれていないということである。これは、(上記で理について述べた)日本の伝統における基本的傾向としての客観視の姿勢の欠落と相応ずるものである。」(pp.40-41)
 
-「普遍的な法則・秩序を客観的原理的に追究する姿勢が、日本には基本的傾向として欠落している」(p.104)
 
③(日本の思想における「個」「他者感覚」の欠落)
 
-「日本では、人間の本来的な内面的主体性(浅井注:「個」)を対象的に把握する姿勢が熟さなかった。また現実と超越とが否定的関係において捉えられなかった。この日本において、西欧的な良心意識が形成されなかったということは、価値判断を抜きにすれば、まことにその通りであると認められよう。今日われわれがいうところの良心は、明治以降の翻訳語であり、良心は西欧より摂取した思想といえよう。」(pp.216-217)
 
-「人間の内面的主体性は、どこの世界においても重んじられている。日本人はこれを「こころ」として捉えた。問題はその内面的主体性の把握の質である。‥日本人の内面的主体性の把握の特色は、おかれた場における主観的心情の純粋さの追求であり、その本来的ありようとしての心を対象的に把握する姿勢が熟さなかったことである。本来的な心を性とし、性即理とする中国のそれ、あるいは道徳法則を立法する実践理性の内在を説く思想を生んだ西欧のそれと比較する時、われわれはここに、われわれの心理解の特殊性をみてとらないわけにはいかないであろう。右にあげた中国のそれ、西欧のそれは、いかなる状況においても貫くべく、則るべき原理的規準をもっている。それは、現実を否定する可能性を内包するものでもある。しかし、日本的な主観的心情の重視は、そのおかれた状況において純粋に、私なく、全力的であることであるから、基本的には現実否定の方向をもたず、また行為の仕方が、おかれた状況によって変化し、換言すれば矛盾するという可能性を構造的にはらむことになる。状況(場)をこえた行為の一貫した方向性をもたないということになるであろう。
 
主観的心情の純粋無私は、物と我・自と他との交感の中に深められることが求められてきたが、ひたすらなる主観的心情の純粋さの追求は、また、たとえば、至誠であれば天に通じ、他者に通ずるといった主観的心情重視のオプティミズムとしても現れることになる。おかれた状況における主観的心情の重視が、他者の他者性の認識を阻害するからである。」(pp.220-221)
 
-「日本人における対象的客観的把握の姿勢の未成熟…という伝統の中において徹底的な対象化を問題にする姿勢は、伝統を超えるものである。…中国および西欧には、質は異なるが対象化の伝統があった。その点において、隣国中国はむしろ日本より西欧に近い。われわれが彼らから学ぶべきものは、そのもっとも根本的なものはこの対象化の姿勢ではないであろうか。
 
なぜ、私がこのように対象的把握にこだわるか。私は「人間とは何か」という問いをもっている。問いをもってしまっている。もたされてしまっているといってもよい。…
 
日本人は、現実的な自他のかかわりの中で、他者への思いやりの心をそだててきた。他者が自分とは違う人間であるという方向に他者観は深められてきている。だが、他者も「人間」であるという、その「人間とは何か」という認識にまで、この現実的なかかわりの場の中に働く実践知は深まりうるであろうか。「人間とは何か」は、方法的に外に出て客観視する姿勢がなければ生まれてこないのではなかろうか。」(pp.244-246)
 
<溝口雄三『中国思想のエッセンスⅠ』>
 
④(中国の思想における「個」と「公(全体)」)
 
-「個と全体において全体が優位することを、日本式の「わたくし」と「おおやけ」の関係でとらえてはならない。優位する全体とは「万物がならび育つ」ことを「天下の達道」とする共同生活のことで、古代や中世ではその共同生存が上下秩序の理によってこそ保証されるとみなされていた点で封建的全体となるが、近代では自由平等の理をそれの保証としたということからわかるように、全体は多数人民であり、めざすところは多数人民共同生存、即ち経済的平等を不可欠とする「公」革命であった。…
 
この共同生存原理は「均貧富」を具体的な内容とし、為政層からは仁の指標、被支配層からは革命のスローガンとして、いずれの側からも、漢代以降えんえんと清末まで政治の中心原理とされてきたもので、‥孫文、さらには毛沢東革命はそれの近、現代の継承である。…
 
乱暴ないい方をすれば、中国の道の中心原理はけっきょくこの共同原理である。ここでは共同すること、共同であることの自覚が政治でありまた同時に道徳であり、よりよい社会関係とはけっきょくよりよい共同関係、すなわち人倫の道である。…
 
つまり道徳と政治は、中国では原理的に不可分であり、それが中国の政治観の特質でもある。道徳からの政治の分離を、政治思想の近代過程に普遍的な指標であるかのようにみなしている人があるので一言しておくと、中国では、修身(為政者個人の道徳的完成)から平天下(「公」の天下的実現)へのオプティミスティックな同心円的拡汎が否定されたのは明末で、これを狭義に分離といえなくもないが、ただしこの分離によって平天下すなわち「公」の政治原理が、たとえば個私を基礎にした契約とか法へと転換したわけではなく、依然その原理は「仁」「公」でありつづけた。…
 
こうみてくると、この共同生存原理すなわち全体原理が日本のおおやけ原理とは異質であることがよくわかる。この全体は個私(専制、利己)を「公」の名によって排除するというかぎりで優位的だが、一方、抽象的全体すなわち民が、近代に入って「人人」「四万万人(四億人)」といわれる具体的全体となり、その過程で「個人」概念が生みだされた、いいかえれば「人人」からアトム的な「個人」が析出されるかたちで個は全体と同位化され、個と個は「必ずしも己の為めにしない」という道徳的な有機関係によって全体の構成者となった、という中国的全体の独自性がここにみてとられる。恐らく今後とも個に対する全体の道徳優位性は変わらず、個と個はいわゆる「社会主義的道徳」を関係の基礎とするほかないだろう。」(pp.106-109)
 
-「道が伝えられてここにあるとア・プリオリに信じての、この信仰にも近い信念の吐露こそ、中国の道について、もっとも注目すべきところである。道についてのこのア・プリオリの共同観念およびそれの継承というのは、われわれからすれば、ヨーロッパ人の神についてと同じように不可解なことである。
 
おそらく神がヨーロッパ人のある観念の表象であるように、中国でもまず道があったのではなく、ある観念、たとえば共同生存の観念がまずあり、それが道という表象に結ばれた、そしてそういう観念が人々の間に普遍的に共有されているとする観念、つまり観念の共有観念が道であり、だからそれは個にも全体にも革命にも、文学にも政治にも道徳にも、つまり「人倫日用」のすべてに自在に結びつく「広大」な「包括」性をもつのだろう。中国では、「道」の語というよりは、語として明示されないこの共有観念および継承への帰服が、文学にも革命にも浸透し、ア・プリオリの世界観、社会観、人生観として共有されつつ、近代はもちろん現代にも生きつづけている、ということなのだ。」(p.111)
 
-「天のこの外枠性、存立原理性こそが、日本の天(「日本の古代は対象のはっきりしない、ヒミコなど‥によって媒介される一種の自然力信仰であった」p.114)と弁別される中国の天の第一のそしておそらく根本的な特質で、この点では-主宰的か造物的かの性格上の差異に目をつむれば、むしろ中世のキリスト神に類似的である、ともいえる。…
 
この外枠性とは、‥場(=王朝、国家、社会、秩序)の外から場そのものの存立を問うだけの力をもった根拠性、原理性である。‥場を時には崩壊させ、また創成し変革するといった場そのものの存立を左右するだけの原理力である。」(pp116-117)
 
-「社会あるいは政治関係上の公・私に、(中国では)なぜ、どのように道義上の観念が浸透したのか、逆に、日本のおほやけ・わたくしには、なぜそれがふくみこまれていないのか…。中国の公・私は、共同体的なそれから、君・国・官と臣・家・民の間の政治的なそれへと整備されていく過程で、‥天の無私・不偏を、政治の原理としてうけいれ、公を「平分」、私を「姦邪」とする、すなわち公平、公正に対する偏頗、姦邪という、道義的な背反・対立をふくみこむに至った、と考えられる。…もういちどいいなおせば、古代の中国では、公・私は、日本の場合と同じように、共同体的なそれから、君・国・官のそれへと膨張していったが、一方、それと並行して、日本にはみられない天の公・私という、より高次なつまり原理的・道義的な概念世界が形成され、それが政治的な公・私にインパクトを与え、浸透というかたちでその内容に影響を与えていた、のであり、この公・私における天と政治との重層的な構造が、まず原初における中国の公・私の特質であった。
 
さて、この中国的な、天の公であるが、政治的な公に浸透し、原理的、道義的な内容をもたらしたそれは、政治・社会・道徳の場では、具体的には、天下の公であった。つまり、中国では、君・国・官すなわち朝廷・国家の公は、その外側により上位の天下の公をもち、朝廷・国家の公は、公義、公正、公平といった、原理的、道義的の天下の公によって、みずからをオーソライズしており、この天下の公に対しては、朝廷・国家といえども、その位相として、一姓一家の私であることをまぬがれない。…
 
明末期には、民の所有欲、生存欲が‥肯定されるようになり、…私の調和態としての公、すなわち「天下の私を合して以て天下の公を成す」‥といった公が、民の立場から主張された。天下の公は、為政層の道義、原理ではなくなり、民の私の調和的な集積、すなわち天下の民の間相互の道義、原理となった。
 
清末期には、民の自然権すなわち民権が天下の公の実質とされ、皇帝ら為政層の政治権力が、少数の権力であるという理由で私として斥けられ、天下は、名目、実質ともに民の天下となり、公は道義的にも原理的にも民のものとなった。(pp.201-212)
 
-「天、天下の公を政治や社会のレベルでとらえたとき、具体的にそれは何であろうか。結論をさきにすると、ひとつは「生民」、ひとつは「均」であろうと思う。
 
生民というのは、たんなる地上の民ではなく、まして朝廷の民ではない。…天の生民のことで、つまり生存を天に依拠する民である。この生民は、天に依拠して生きるのであって、朝廷・国家まして官に依拠して生きるのではなく、少なくとも原理的に、天の民であって、朝廷・国家の民ではない。「民の欲する所、天必ずこれに従う」‥といわれるゆえんである。…
 
「天下の公」が、政治・社会レベルでは「生民」であるというのは、具体的には、民の生存、所有などの自然権がかたよりなく充足されている状態をいうが、当初は皇帝の公正な政治姿勢として期待されていたにすぎないものが、明代以後には、民の側からの要求度をまし、民の私の集積および民の私の間の調和を「天下の公」の実質とするようになりさらに、清末にはこの自然権のなかに政治的な権利の平等という観念が浸透し、民の存在じたいが、その多数性によって、公とされるにいたった‥。
 
つぎに、「天下の公」の政治・社会レベルでの内容のふたつめとしてあげた「均」であるが、これは‥生存、所有の自然権のかたよりのない充足、ということのなかに明示されている。…
 
この「均」が生存、所有欲についていわれるようになるのは、やはり明末になってからで(ある)。ただし、‥この「均」は、地主や農民がそれぞれの「分」に応じ、それぞれの「分」が均しなみに充たされるということで、「分」間の所有の不平等を等しくしようというのではない。
 
それからすれば、清末の革命派の「均」は、‥「公産」「共産」を志向する、具体的には土地の公有、共有、国有化を社会主義的にめざしたもので、ここでは所有関係上の「均」が「天下の公」の実質である。
 
そしてこの「均」が、「生民」の経済的自然権に政治的な民権が加わったのと呼応して、貧富だけではなく、貴賎、人種、男女のあらゆる「分」の不平等を均しくするという、社会的な平等、自由の権利についての「均」となった‥。ここで留意しておきたいのは、ここでも平等であるがゆえに、数の論理がはたらき、「小己」「個人」の自由は時として「少数人」すなわち専制者の自由として斥けられ、そのばあいには、自由は「多数人」の「団体」「総体」「国民」「国群」の自由であってはじめて容認されるということである。…
 
日本のおほやけは、おおざっぱには、共同体的な公に由来する「朝廷・国家の公」にほぼ相当するだけで、外円部の天、天下の公、人人の公、天下為公、均平などの原理的・道義的な公については、それらのすべてを欠いている、といえる。」(pp.216-223)
 
*溝口雄三『中国の衝撃』:「ここで留意すべきことは、‥歴代王朝によって継承されてきた「天」の統治理念(民以食為天、均貧富、万物得其所)は、例えば清末の大同思想、孫文の民生主義‥、またその後の社会主義理念として、構造式を変えながらも、基本的には依然として継承されつづけた。それは、統治理念としての天が、実は民の声である、ということを反映している。中国においては、天の統治理念は、本来的に社会主義的であり、社会主義の名目いかんにかかわらず、天(相互扶助)の理念は、中国の人民の総体的生存にとって軽々しくは破棄できないものである。」(p.113) 
浅井基文さん(元外交官、政治学者)がマレーシア旅客機「撃墜」事件について報道する米欧メディアと日本のメディアの〈ロシア・バッシング〉という「はじめに結論ありき」の報道姿勢を厳しく批判しています。その上で浅井さんとほぼ同様の視点を提起している中国「環球時報の社説を紹介しています。どちらとも傾聴すべき見解だと思います。もちろん、この記事は、昨日の「洞察力も説得力もあるポール・クレーグ・ロバーツ記者の『マレーシア旅客機に何が起きたのか?』という記事」の続き物としても書いています。
 
マレイシア機「撃墜」事件(中国側見解)(浅井基文 2014.07.22)
 
5月17日に起こったウクライナ東部上空におけるマレイシア旅客機「撃墜」事件に関しては、日本国内では「親露派(及びその背後にいるロシア)の仕業」という見方がもっぱら支配的で、もはやそれで「決まり」という感じの報道が溢れかえっています。米欧メディアが国際報道を牛耳っており、日本もその中にどっぷりつかっていることを踏まえれば、いつもながらの当然の現象ではありますが、真相究明はまだこれからであることを踏まえますと、私としてはこういう世論状況にはついていけません。
 
国連安保理では、オーストラリア提出の決議案について議論が行われていますが、同国提出の原案にある「撃墜」(shooting down)という表現について、まだそう確証されたわけではないとして、「墜落」(downing)という表現にするべきだという修正提案が出される状況があるそうです(7月21日付環球網が紹介した同日付ロイター電)。このような動きは、決議案成立のために「ロシアに妥協する必要がある」ためだとロイター電は解説しているようですが、その点はともかく、「撃墜」であるかどうかについてすらまだ確たる根拠がないことを、安保理としては考慮せざるを得ないということです。
 
この一事が示すように、「親露派の仕業」「したがってロシアの責任は免れない」という決めつけ一色の国内報道には、私としてはますますついていけないものを感じる次第です。むしろ、こういう事件が起きてしまうウクライナ情勢の危険性に目を向け、犯人捜しにうつつを抜かすよりも、ウクライナに平和と安定を回復するために目の色を変えて取り組むことこそが本来あるべき国際社会のあり方だと思います。
 
米欧メディアに支配される「国際世論」に常に苦い目をあわされている中国は、こういう結論先にありきでロシア・バッシングの風潮に対しては当然に批判的です。真相究明が先だという立場はすべての論者に共通しています。もっとも、環球時報特約評論員の王徳華のように、「アメリカなどの西側主導の調査によって「原因が証明」されても、ロシアは断固として否認するだろう。独立の第三者機関の調査結果がロシアに有利となれば、西側が異議を唱えて、自分たちが望むような結果が得られるようにするだろう」、したがって、「ネット世論が指摘するように、「公正な調査結果が出るはずはない」、「真相は政治によって覆われるだろう」、「真相はもはや重要ではなく、めいめいが必要とする「真相」だけが重要なのだ」」(7月21日付環球網掲載文章)として、真相究明自体が茶番劇に終わるだろうと醒めきった目で見ている文章もあります。
 
この問題について、環球時報は、7月19日付で「マレイシア機撃墜 これは戦乱だ」、同21日付で「世界はマレイシア機事件の真相を知る必要がある」と題する社説を発表しています。特に19日付の社説の内容は、冒頭に述べた私の見方と軌を一にするもので、冷静かつバランスが取れたものだと思いますので、参考までに紹介します。
 
実は私は、今回の事件に接した時に、軍事緊張にある日中間でもこういう偶発的事件が起こりうると連想しました。いわゆる「第二の盧溝橋事件」です。この環球時報社説の「政治衝突に基づく反理性及び破壊力に対して人類は相変わらずコントロール能力を持っていない」、「周りが対決あるいは戦争となると、善悪のはっきりしていた境界が偶然の要素によっていとも簡単に破られてしまう」という自戒を含めたくだりは日中双方が拳々服膺すべきところだと思います。
 
マレイシア機撃墜 これは戦乱だ(環球時報 2014年7月19日)
 
これはショッキングな人道的災禍であり、誰が撃墜したかは今のところ確定できない。ロシアはウクライナ政府がこの事件に責任があるとし、ウクライナは親露派が撃墜したと発表し、親露派は1万メートルの高度の旅客機を撃墜する能力を持っていないと主張し、西側世論は真っ先に撃墜したのは「プーチンのミサイルだ」とした。明らかに、それぞれが自らの一貫した政治的立場に基づいて非難し合っており、信用できるだけのテクニカルな情報の裏付けを伴っていない。  
 
犯人が捜し当てられない間は、ウクライナの激動の情勢にこの悲劇の責任をまずは帰せしめるべきだろう。そういう意味においては、「ウクライナが平和であったならば、この悲劇は発生することはなかった」というプーチンの発言には一定の道理がある。  
 
人類史上における民間旅客機の撃墜事件はすべて政治的緊張と関係があった。1983年の冷戦ピーク時にソ連の操縦士が航空軌道を逸れた韓国旅客機を撃墜し、イラン・イラク戦争の中で1988年に米海軍がホルムズ海峡付近でイラン旅客機を撃墜したが、ともに地域の緊張に原因があった。このような過ちは永遠の過去の出来事と思いがちだが、ウクライナ東部の「欧州の戦場」で突然に再現してしまった。この事件が示していることは、政治衝突に基づく反理性及び破壊力に対して人類は相変わらずコントロール能力を持っていないということを明らかにしたということだ。  
 
数カ月前までは、ウクライナの首都・キエフの市民で、自分たちの国家が内戦に入り込んでしまうことを信じるものはほとんどおらず、それぞれの強硬姿勢は「見せかけ」だと思っていただろうが、今やこの国家は「演技」から「戦い」に変わってしまったことを見届けている。  
 
民間の旅客機を撃墜することはもっとも許されない罪悪の一つであり、米ソ両大国が同じことをやったことがあるように、周りが対決あるいは戦争となると、善悪のはっきりしていた境界が偶然の要素によっていとも簡単に破られてしまうのだ。ウクライナ政府は、親露派が旅客機を撃墜したという通話の録音を握っているとしているが、仮にその証拠がホンモノであるとしても、それは慌てふためいた犯人が軍用機を打ち落としたと考えて、目標を見誤ったことを示すものだ。米軍はアフガニスタン、イラク、パキスタンで一般民衆を「軍事目標」として攻撃し、大量の犠牲者を生みだしてきた。悲劇が起こる度に、アメリカは謝るだけであり、時には謝ることすらしない。これが戦争というものだ。  
 
マレイシア機が撃墜された同じ日に、イスラエル軍はガザ地区に進入してハマスを掃討したが、どれだけの民衆が無辜の犠牲となったかは想像できるところだ。中東は地上、ウクライナは空中という違いはあるが、戦乱が原因であるという点で本質は同じだ。  
 
その実、ウクライナにおける今回の悲劇の政治的原因については外部から見れば極めて明らかだし、ウクライナが平和を回復することが様々な災難を解決するための根本的方途であることも分かるはずだ。ところが西側世論は、明白な証拠もないのにロシアに対する新たな攻撃を発動している。これはまったくウクライナのためではなく、この災難に乗じてロシアに対する道義的攻勢の立場をうち固めようとするものに過ぎない。  
 
西側は一貫してウクライナの「民主革命」を奨励し、支持しており、西側の東方拡大の地縁政治上の最前線になるようにそそのかしている。その結果、ウクライナは巨大な代価を支払い、今や世界でももっとも引き裂かれた場所の一つとなっているのだ。  
 
我々は、マレイシア機撃墜事件の徹底した調査によって犯人が見付け出され、厳罰に処せられること、悲劇の全過程が完全に明らかにされて全世界に対する警告となることを強く希望する。悲劇を生んだ政治環境上の要因も十分に反省されるべきであり、西側の強大な世論形成力はこの反省の推進者となるべきだ。推測と揚げ足取りで攻撃し合うことは反省の表現とは言えない。ウクライナひいては世界がもっとも必要なのは平和と安寧である。

以下は、いましがた見たばかりのyahoo!ニュース(時事通信配信)です。
 
プーチン政権 苦しい責任回避(yahoo!ニュース 2014年7月21日 19時48分掲載)
 
写真説明:7月18日、ロシアのプーチン大統領(写真)はオランダのルッテ首相との電話会談で、ウクライナ東部で墜落したマレーシア航空機をめぐり「徹底的かつ先入観のない」調査を求めた。写真は6月、モスクワで代表撮影(2014年 ロイター)
 
プーチン政権、窮地の泥沼=苦しい責任回避―マレーシア機撃墜
 
【モスクワ時事】乗客乗員298人全員が死亡したマレーシア機撃墜事件でロシアのプーチン政権が窮地から抜け出せない。撃墜犯はロシアが支援するウクライナ東部の親ロシア派という見方で国際社会は固まりつつある。有効な反論を行えないまま、何を言っても責任回避の宣伝戦と受け止められている。(時事通信)
 
記事に添付された写真説明には「ロシアのプーチン大統領はマレーシア航空機をめぐり『徹底的かつ先入観のない』調査を求めた」とあるにもかかわらず、記事の見出しは「プーチン政権、窮地の泥沼=苦しい責任回避」。記事本文は「撃墜犯はロシアが支援するウクライナ東部の親ロシア派という見方で国際社会は固まりつつある。有効な反論を行えないまま、何を言っても責任回避の宣伝戦と受け止められている」。「ロシアが主犯」という「先入観のある」記事づくりになっています。これが欧米諸国、日本を含む西側のメディアの報道姿勢です。
 
こうした西側のメディア記事に疑義を呈しているのが元米国経済政策担当財務次官補でウオール・ストリート・ジャーナル共同編集者のポール・クレーグ・ロバーツ記者。私はいわゆる西側報道よりも同記者(も西側の人ですが西側陣営の人ではありません)の記事の方に証拠(説明)も説得力もあるように感じます。マスコミに載らない海外記事(2014年7月21日付)から。
 
マレーシア旅客機に何が起きたのか?
(マスコミに載らない海外記事 2014年7月21日)
 
2014年7月19日
 
ワシントンのプロパガンダ装置がフル回転しているので、我々は既知の事実すら失いかねない危険な状態にある。
 
分離主義者には、高価なブク対空ミサイル・システムもなければ、それを操作するよう訓練を受けた要員もいないという事実がある。
 
もう一つの事実は、分離主義者には、旅客機を撃墜する動機は無く、ロシアも同様だ。低空飛行の攻撃機と、高度10,000メートルの旅客機の違いは誰にでも分かる。
 
ウクライナはブク対空ミサイル・システムを保有しており、ブク砲兵中隊はこの地域で活動しており、旅客機に対するミサイルが発射された可能性がある場所に配備されていた
 
分離主義者とロシア政府に旅客機を撃墜するは動機が無いのと同様、ウクライナ政府にも、更には、ウクライナ軍が余り乗り気ではない、対分離主義者への戦いを仕掛ける為に民兵を組織した、狂った過激派ウクライナ人民族主義者にも無いはずだと考えたくなる。ロシアをはめようという計画でも無い限りは。
 
武器体系に詳しいあるロシア人将軍は、兵器使用訓練を受けていないウクライナ軍がしでかした過ちだったという説を提唱している。ウクライナが多少はこの兵器を保有してはいても、ウクライナ人は、ウクライナがロシアから独立して以来23年間、使用法の訓練を受けていないとこの将軍は言う。この将軍は、これは無能さによる事故だと考えている。
 
この説は、ある程度辻褄があっており、ワシントンのプロパガンダより遥かに辻褄が合っている。この将軍の説明の難点は、一体なぜブク対空ミサイル・システムが、分離主義者の領土の近く、あるいはその領土に配備されていたのかを説明していないことだ。分離主義者は航空機を持っていない。ウクライナが、軍事的用途が無く、その分離主義者によって侵略され、装置が捕獲されてしまうかも知れない場所に、高価なミサイル・システムを配備するというのも奇妙な話だ。
 
ワシントン、キエフと売女マスコミが、プーチンがこれをしでかしたというプロパガンダを何としても推進することにしている以上、アメリカ・メディアからは信頼できる情報を得られることはあるまい。我々自身で何とか考え出すしか対策はない。
 
手始めの一歩は、こう質問することだ。一体なぜ、ミサイル・システムはその場所にあったのだろう? 一体なぜ、高価なミサイル・システムを、そもそも使い道の無い紛争地帯に配備するようなリスクを冒すのだろう? 無能が一つの答えで、もう一つの答えは、ミサイル・システムには意図された用途があったというものだ。
 
意図された用途とは一体なんだろう? ニュース報道と情況証拠から得られる答えは二つある一つは、超国家主義の過激派が、プーチン大統領機を撃墜するつもりだったが、マレーシア旅客機と、ロシア旅客機を混同したというものだ。
 
インターファックス通信社は、航空管制官と思われる匿名情報源を引用して、マレーシア旅客機と、プーチンの旅客機は、数分の間隔をおいて、ほぼ同一の航路を飛んでいたと報じている。インターファックスは情報源をこう引用している。“プーチンの飛行機と、マレーシアのボーイングは、同じ点、同じ格子を通過したと申しあげることができる。それはワルシャワに近い、330-m格子、高度10,100メートルだ。大統領機は、モスクワ時間の16:21にそこを通過し、マレーシア旅客機は、モスクワ時間の15:44に通過した。旅客機の輪郭は似ており、大きさも非常に良く似ており、色については非常に遠距離からはほぼ同様に見える”
 
公式なロシアの否定は見ていないが、ニュース報道によれば、インターファックス・ニュース報道に対応して、ロシア政府は、プーチンの大統領機は、戦争状態が始まって以来、ウクライナ航路は飛行していないと述べた。
 
否定を額面通り受け取る前に、ロシア大統領暗殺というウクライナの企みには、ロシアが避けたがっている戦争を暗示しているという含意に配慮する必要がある。これにはまた、キエフのワシントン傀儡が、アメリカ政府の支援無しに、それほど危険な行為をする危険を冒すとは到底考えがたいので、アメリカ政府の共謀という含みもある。知的で合理的なロシア政府が、アメリカ政府と、そのキエフ傀儡によるロシア大統領暗殺未遂の報道を否定して当然だろう。そうでなければ、ロシアはこれに対し何かせざるをえず、それは戦争を意味するのだ。
 
二つ目の説は、公式ウクライナ軍の埒外で活動している過激派が、ロシアに責任をなすりつける為、旅客機を撃墜する陰謀を企てたというものだ。もしそのような陰謀が起きたとすれば、恐らくは、CIAか何らかのアメリカ政府の手先と一緒に仕組んだもので、EUに、アメリカ政府の対ロシア経済制裁に抵抗するのを辞めさせ、ヨーロッパのロシアとの貴重な経済関係を断ち切らせることを狙ったものだ。アメリカ政府は、その経済制裁が一方的で、イギリス首相というポチからの支持という可能性を除けば、NATO傀儡諸国や、世界の他のどの国からも支持されていないことに苛立っている。
 
この二つ目の説明を裏付けるかなりの情況証拠がある。ロシア人将軍と分離主義者達との会話とされるもので、誤って民間航空機を撃墜したと話し合っているとされるユーチューブ・ビデオがある。報道によれば、専門家による、ビデオ中のコード分析で、ビデオが、旅客機が撃墜される前日に制作されたことが判明している。
 
ビデオにまつわるもう一つの問題は、分離主義者が、10,000メートル上空の旅客機と、軍の攻撃機とを混同することは考えられうるが、ロシア軍が混同することなど有り得ない。唯一の結論は、ロシア軍を引き合いにだすことで、ビデオは二重にその信憑性を損なっているということだ。
 
専門家でない人々でも容易に理解できる情況証拠は、is on cueニュース番組organizedいかなる事実が判明するより前に、ロシアに罪をなすりつけるように。
 
前の記事で、http://www.paulcraigroberts.org/2014/07/17/sanctions-airliners-paul-craig-roberts/ 私が聞いた、明らかに、ロシアに全ての罪をなすりつける様、準備していたBBCニューズ報道について書いた。BBC特派員がかたずをのんで、ユーチューブ・ビデオを見たばかりだが、ビデオはロシアがこれをしでかしたことを証明する決定的証拠だと報じるところで番組は終わった。もはや何の疑念もないと彼は言う。ウクライナ政府やアメリカ政府が入手する前に、情報は何故かビデオになり、ユーチューブに載ったのだ。
 
プーチンがこれをしでかした証拠は旅客機攻撃前に制作されたビデオだ。ナショナル・パブリック・ラジオで放送されたBBC報道丸ごと、いかなる証拠よりも前に、ひたすら、それがロシアのせいであると決めつける目的の為に画策されていたのだ。
 
実際、全ての欧米マスコミ全員一致で言っている。ロシアのしわざだ。そして、売女マスコミは同じことを言い続けている。
 
こうした全くの意見の一致は、単に、欧米マスコミが、自動的に、アメリカ政府に賛成するようにさせる、パブロフ風条件反射訓練を受けた結果に過ぎないのかも知れない。反米的であることで、批判の対象となったり、勝利をおさめる大多数の意見から孤立し、間違えたことで、黒星をつけられたりすることを望むマスコミなど存在しない。アメリカでも最も重要なニュース雑誌の元ジャーナリスト、そして寄稿者として、私はこの仕組みを良く知っている。
 
その一方、もしパブロフ風条件反射訓練を無視すれば、唯一の結論は、あらゆるニュース展開はマレーシア旅客機撃墜に関するプーチンに罪をなすりつける為に画策されたものということになる。
 
ブルームバーグ・ビジネスウィーク副編集長ロメシ・ラトネサールの7月17日の記事は、画策に対する説得力ある証拠になっている。http://www.businessweek.com/articles/2014-07-17/the-malaysia-airlines-shootdown-spells-disaster-for-putin?campaign_id=DN071814 ラトネサール説の題は“マレーシア旅客機撃墜はプーチンの災いとなる”だ。ラトネサールは、プーチンがはめられたと言おうとしているわけではない。彼が言おうとしているのは、プーチンがマレーシア旅客機を撃墜させるまで、“大多数のアメリカ人にとって、ウクライナへのロシア介入は、アメリカ権益にとって、重要性はほとんどないものに見えていた。この計算は変わってしまった. . . . 何ヶ月か、あるいは何年もかかるかも知れないが、プーチンには、必ずやその無謀さを償わされる時がやってくる。そうなった暁には、MH17機撃墜は、彼の破滅の始まりと見なされるようになろう。”
 
元ウオール・ストリート・ジャーナル編集者として、私は、ラトネサールが書いたような屑記事を提出するような連中を首にしていたろう。裏付ける証拠皆無の中での当てこすりをご覧願いたい。アメリカ政府によるクーデターを“ロシアのウクライナ介入”だというウソをご覧願いたい。我々が目にしているのは、アメリカ政府の帝国主義という狙いによる欧米ジャーナリズムの完璧な堕落だ。ジャーナリストたるもの、すべからくウソに参画せねばならず、さもなくば踏み潰されるのだ。
 
今でも誠実なジャーナリストを、周辺で探して頂きたい。一体誰がいるだろう? 全員売女である同業ジャーナリスト連中から、絶えず攻撃の的になっているグレン・グリーンウォルド。他に誰を思いつけるだろう?ワシントンの命令でロンドンのエクアドル大使館に閉じ込められているジュリアン・アサンジ。イギリス傀儡政権は、エクアドルへ亡命する為のアサンジの自由通行を決して認めようとしない。これと同じことをした最後の国はソ連だった。ソ連は、ハンガリー傀儡政権に、ブダペストのアメリカ大使館に入ったミンツェンティ枢機卿を、1956年から、1971年まで15年間、閉じ込めるよう要求していた。ミンツェンティはアメリカ合州国に政治亡命を認められたが、アメリカ政府傀儡のイギリスが、ワシントンの命令で、アサンジ亡命を認めようとしないのと同様、ハンガリーは、ソ連の命令で、彼の亡命を認めようとしなかった。
 
もし我々が正直で現実に直面する強さがあれば、ソ連が崩壊しなかったのを実感するに違いない。毛やポル・ポトらと共にワシントンとロンドンに引っ越ししたにすぎない。
 
プーチン外交の欠点は、プーチン外交が、善意と、真実が勝利することとに依拠していることだ。ところが欧米には善意など存在せず、アメリカ政府は真実が勝利することには興味皆無で、アメリカ政府が勝利することにしか関心がないのだ。プーチンが対決している相手は、理性的“パートナー”ではなく、彼に狙いを定めた宣伝省なのだ。
 
ロシアの思慮分別と、アメリカ政府の脅しの好対照である、プーチンの戦略を私は理解しているが、これはリスクの高い賭けだ。ヨーロッパは長らくアメリカ政府の一部であり、権力の座には、ヨーロッパをアメリカ政府から独立させるのに必要な構想を持ったヨーロッパ人は皆無だ。しかもヨーロッパの指導者連中は、アメリカ政府に仕えることで膨大な金をもらっている。首相職を離れて一年で、トニー・ブレアは5000万ドル稼いでいる。
 
ヨーロッパ人が災難をいくつも経験しても、ヨーロッパの指導者連中が、自らの安楽な暮らし以外の何事かを考える可能性はまずない。そうした安楽な暮らしは、アメリカ政府に仕えることで、維持できる。銀行がまんまとギリシャを搾取したことが証明している通り、ヨーロッパ諸国民は無力なのだ。
 
 
ガザ・ゲットーに閉じ込められたパレスチナ人に対するイスラエルの最近の残虐行為から注目を逸らしてしまったのだから、アメリカ政府の対ロシア・プロパガンダ攻撃は二重の悲劇だ。イスラエルは、空襲とガザ侵略は、パレスチナ人テロリストがそれを通って、イスラエルに押し寄せて、虐殺を行うトンネルとされるものを見つけ出し、閉鎖するための、イスラエルによる取り組みに過ぎないと主張している。もちろんイスラエルには、トンネルも、テロリストによる虐殺も存在しない。
 
せめて、アメリカ・マスコミのどれかで、ジャーナリストの一人くらいは、一体なぜ病院や民間人住宅を爆撃し、イスラエルへの地下トンネルを閉鎖するのか尋ねて欲しいと考えたくもなる。だが、それは、アメリカ・メディアの一員たる売女には無理な注文だ。
 
アメリカ議会とて、全く頼りにならない。下院も上院も、イスラエルのパレスチナ人虐殺を支持する決議を可決した。二人の共和党上院議員、卑しむべきリンゼイ・グラハムと、がっかりさせられたランド・ポール、そして二人の民主党上院議員、ボブ・メンデスとベン・カーディンが、イスラエルによるパレスチナ人の女性や子供達の計画的殺害を支援する上院決議を提案したのだ。決議は“例外的で、欠くべからざる”国民の上院で、満場一致で可決された。
 
集団大虐殺政策に対する報酬として、オバマ政権は、4億2900万ドルものアメリカ納税者の大金を、虐殺への支払いで、イスラエルに即座に送金する。
 
アメリカ政府のイスラエルによる戦争犯罪への支持と、ウソに基づく対ロシアプロパガンダの猛攻撃を比較願いたい。“サダム・フセインの大量破壊兵器”“アサドの化学兵器使用”“イランの核兵器”を、今我々は一からやり直しているのだ。
 
アメリカ政府は余りに長期間ウソをつき続けた為、もはや何も他のことはできない。
 
Paul Craig Robertsは、元経済政策担当の財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者。ビジネス・ウィーク、スクリプス・ハワード・ニュー ズ・サービスと、クリエーターズ・シンジケートの元コラムニスト。彼は多数の大学で教えていた。彼のインターネット・コラムは世界中の支持者が読んでい る。彼の新刊、The Failure of Laissez Faire Capitalism and Economic Dissolution of the West、HOW AMERICA WAS LOSTが購入可能。
 
澤藤統一郎弁護士が被告として訴えられているDHCスラップ訴訟の第1回口頭弁論は8月20日に開かれる予定ですが、その第1回口頭弁論が開かれる前から同訴訟は驚くべき展開になっているようです。裁判前から原告(吉田嘉明DHC代表)は訴状のほかに「準備書面1」を提出し、被告と裁判所に次のような通告と注意喚起なるものをしてきたということです。
 
被告への通告「本件は既に訴訟係属しており、原告の請求に対する反論は訴訟内で行うべきであり、訴外において、かかる損害を拡大させるようなことをすべきでない旨本準備書面をもって予め被告に通知しおく」。
 
裁判所への注意喚起「裁判所にも損害が拡大されている現状について主張しておく」。
 
およそ尋常な主張とはいえないでしょう。裁判を提起されれば被告たる者は訴訟外での「表現の自由は制約される」という驚くべき主張。こんな無茶苦茶な主張が通るようであれば、権力犯罪であれ、民事事件であれ、金のある者は、裁判さえ提起すれば自分への批判を封じることができるということになってしまいます。こんな道理に外れた主張を道理を裁く裁判という場に持ち出して平然としている。その原告(弁護団)の民主主義感覚の絶対零度以下ともいうべき欠落には被告ならずとも呆然、いや慄然とせざるをえません。
 
その経緯について述べているのが「この頑迷な批判拒否体質(2)-『DHCスラップ訴訟』を許さない・第6弾」ですが、ここでは副題が「表現の自由を脅かす高額《口封じ》訴訟」という今回の『DHCスラップ訴訟』そのままの『ジャーナリストが危ない』(編者:田島泰彦ほか。花伝社。2008年)という著作の紹介をされている澤藤弁護士の同シリーズ第7弾の記事をさらに転載、紹介させていただこうと思います。『DHCスラップ訴訟』のなんたるかを理解するには格好の解説になっているように思います。
 
この頑迷な批判拒否体質(3)-『DHCスラップ訴訟』を許さない・第7弾(澤藤統一郎の憲法日記 2014年7月20日)
 
私の手許に、「ジャーナリストが危ない」という単行本がある。副題が「表現の自由を脅かす高額《口封じ》訴訟」と付けられている。2008年5月に花伝社から出版されたもの。スラップ訴訟がジャーナリスト・ジャーナリズムへ及ぼしている影響の深刻さが、シンポジウム出席の当事者の発言を中心に生々しく語られている。花伝社は学生の頃からの知人である平田勝さんが苦労して立ち上げた出版社。あらためて、フットワーク軽く良い仕事をしておられると思う。
 
編者が田島泰彦(上智大学教授)・MIC(日本マスコミ文化情報労組会議)・出版労連の3者。発言者は、山田厚史烏賀陽弘道斎藤貴男西岡研介釜井英法などの諸氏。
 
私は、スラップ訴訟とは、「政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言動を嫌忌して、口封じや言論萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう」と定義してよかろうと思う。恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟・言論封殺訴訟・ビビリ期待訴訟などのネーミングが可能だ。同書では、「高額《口封じ》訴訟」としている。
 
言論の口封じや萎縮の効果を狙っての提訴だから、高額請求訴訟となるのが理の当然。「金目」は人を籠絡することもできるが、人を威嚇し萎縮させることもできる。このような訴権の濫用は、諸刃の剣でもある。冷静に見て原告側の勝訴の敗訴のリスクは大きい。また、判決の帰趨にかかわらず、品の悪いやり方であることこの上ない。自ら「悪役」を買って出て、ダーティーなイメージを身にまとうことになる。消費者からの企業イメージを大きく傷つけることでもある。
 
それでも、スラップ訴訟があとを絶たないのは、それなりの効果を期待しうるからだ。
 
この書の前書きがこう言っている。

「このシンポジウムをとおして浮き彫りになったのは、「裁判」という手段によって、フリージャーナリストに限らず、研究者の発表も市民の発言さえも場合によっては巨額の賠償請求をされる事態が進行しているということであった。裁判の勝ち負けに関係なく、訴えられただけで数百万円もの裁判費用の負担が課せられるのでは、公権力や企業の情報を取材・報道することも困難になるということも明らかになった。すでに表現活動の自由と新自由主義を背景にした企業活動の自由の激しいせめぎ合いが起きていて、その前線に立だされているのは、もはやマスコミの企業ではなくペンやカメラを頼りにしたフリーランスだといっても過言ではない状況だということであった。」
 
要するに、企業ではなく個人が狙い撃ちされているのだ。もちろん、そのほうが遙かに大きな萎縮効果を期待できると考えてのことなのだ。
 
シンポジウムで、オリコンから5000万円のスラップ訴訟を提起された烏賀陽弘道さんが語っている。少し長いが引用したい。

「訴訟そのものを相手の口封じのために利用するという例が、アメリカで70〜80年代にかけて問題になっていることがわかりました。提訴することで、反対運動を起こした相手に弁護士費用を負わせ、時間を食い潰させて、疲弊させて結局潰してしまう。まあ、いじめ訴訟とかそういった感じなのです」

「このSLAPP(スラップ)については、この言葉を考えたデンバー大学の法学部の先生が書いた本が出ています。スラップは、裁判に勝つことを目的にしていないんですね。相手を民事訴訟にひきずりこんで、市民運動や市民運動を率いている人、あるいはジャーナリスト、酷い場合は新聞に投稿した投稿主までを訴えて、業務妨害・共謀罪・威力業務妨害などで、億ドル単位の訴訟を起こす。それによって相手を消耗させる。それがスラップです」

「アメリカ50州のうち、25州でこのスラップが禁止されているんですね。カリフォルニア州の民事訴訟法をみますと、スラップを起こされた側は、これはスラップである、と提訴の段階で動議をまず出せる。裁判所がそれを認めれば、審理が始まらないということになります。そこで止まるんですね。提訴されたほうが裁判のために、時間やお金を浪費しなければならないという恫喝効果が無くなります」

「カリフォルニア州民事訴訟法は、2001年にもう一度、スラップに関する法律を改正しまして、スラップを起こされた側は、スラップをし返していい、ということになったようです(笑)。アメリカってすごいところだな……と思いますね。というわけで、日本でも民事訴訟法に『反スラップ条項』というのが必要ではないかと考えます」
 
この書では、スラップ訴訟の被告になったジャーナリストが、「萎縮してなるものか」と口を揃えている。合い言葉は、「落ちるカナリアになってはならない」ということだ。
 
これも、そのひとり、烏賀陽さんの発言の要約である。

「一人のジャーナリストを血祭りにあげれば、残りの99人は沈黙する。訴える側は、『コイツを黙らせれば、あとは全員黙る』という人を選んで提訴している。炭坑が酸素不足になると、まずカナリヤがコロンと落ちる…。カナリヤが落ちれば、炭坑夫全部が仕事を続けられなくなる」
 
私もカナリアの一羽となった。美しい声は出ないが、鳴き止むことは許されない。ましてや落ちてはならない。心底からそう思う。
 
なお、紹介されている具体的なスラップ訴訟は以下のとおり。

※「原告・安倍晋三事務所秘書」対「被告・山田厚史/朝日新聞社」事件
※「原告・オリコン」対「被告・烏賀陽弘道」事件
※「原告・キャノン/御手洗富士夫」対「被告・斎藤貴男」事件
※「原告・JR総連他」対「被告・講談社/西岡研介」事件
※「原告・武富士」対「被告・週刊金曜日/三宅勝久」事件
※「原告・武富士」対「被告・山岡俊介」事件
※「原告・武富士」対「被告・消費者弁護士3名/同時代社」事件
 
武富士の3件の提訴が目を惹くが、「なるほど武富士ならさもありなん」と世間が思うだろう。武富士とスラップ。イメージにおいてよく似合う。

その点、DHCも武富士に負けてはいない。こちらもスラップ訴訟提起の常連と言ってよい。まだ、全容は必ずしも分明ではないが、「みんなの党・渡辺喜美代表への金銭交付」に対する批判の言論を名誉毀損として、同社からスラップ訴訟をかけられたのは私一人ではない。この点は、東京地裁の担当裁判所も、「同じ原告から東京地裁に複数の同様事件の提起があることは裁判所も心得ています」と明言している。
 
同種の訴訟が複数あるということは、当該の批判の言論を嫌忌したことが本件提訴の主たる動機であることを推察する証左の一つとなりうる。また、同種の訴訟の存在は、共通の批判の意見が多数あることによって、批判の意見の合理性を推認する根拠となるべきものでもある。
 
また、なによりも同種批判が多数存在し、各批判への多数の訴訟提起があることは、原告の頑迷な批判拒絶体質を物語るものである。(2014年7月20日)
新しい冷戦だという。なんてばかげたネーミング。冷戦は、マルクーゼにいわせれば、「核戦争による破局、人類を絶滅させるかもしれないこの破局があたえる脅威が、ほかでもない、この危険を永続させている勢力を保護するのにも役立っている……」おぞましい「秩序」や「均衡」や「規範」でもあったのだ。いまある脅威は、それらがなくなってしまった空白のなかで、息を呑んで立ちすくんでいる瞬間のことである。たとえどんなにおぞましくても、「秩序」や「均衡」や「規範」が結果的に形成されていたcold warならば、まだしも救いがありえた。これから訪れるもの、すでに訪れているもの、打つ手なしの下絵にみえているのは、「冷戦」ではない。「熱戦」である。弾道ミサイルにせよ核ミサイルにせよ、テクノロジーは中立ではありえない。所有者→使用者の愚昧性がテクノロジカルに顕現したのがマレーシア航空機撃墜事件であり、「破壊とたわむれることを可能ならしめる社会の論理、精神と物質をテクノロジカルに支配している社会の論理である」。戦争狂どもが目をかがやかせている。(辺見庸日録26」2014/07/20)
 
 
今日(7月17日)公共放送のナショナル・パブリック・ラジオで、マレーシア航空機がウクライナで撃墜されたことに関するニュース報道を聞いた。報道は率直なものだったかも知れないが、ロシアと、ウクライナ“分離主義者”に濡れ衣を着せているように聞こえた。BBCは、より偏った意見を売り込み、番組は、分離主義者が、ロシアの兵器で旅客機を撃墜したという、ソーシャル・メディアの報道で終わった。番組出演者の誰一人として、旅客機を撃墜して、分離主義者が一体何を得るのか疑念を持ったものはいなかった。そうではなく、ロシアの責任がはっきりした場合、アメリカのより強硬な対ロシア経済制裁を、EUが支持するように強いるだろうかという議論だった。BBCは、アメリカ政府の筋書きと、アメリカ政府が望んでいる見出し記事をなぞっている。アメリカ政府工作の様相が見て取れる。あらゆる戦争屋がタイミングを見計らったかのように乗り出した。アメリカのジョー・バイデン副大統領は、旅客機は“撃墜された”と宣言した。“事故ではなかった”。特に何らかの魂胆がない人物が、いかなる情報も得る前に、一体なぜそこまで断言できるのだろう 明らかに、バイデンには、旅客機を撃墜したのはキエフだという含意はなかった。バイデンは、ロシアを非難する証拠の強化に精を出している。実際、アメリカ政府のやり口は、証拠が不要なまでに、非難を積み上げるというものだ。ジョン・マケイン上院議員は、乗客リストと、旅客機の墜落原因が判明する前に、アメリカ国民の乗客がいた推測に飛びついて、対ロシア懲罰措置を呼びかけている。“捜査”は、アメリカ政府傀儡のキエフ政権によって行われている。既に結論がどういうものかわかろうというものだ。(マスコミに載らない海外記事 Paul Craig Roberts 2014年7月20日)
 
こんなグロテスクな死体の処理があったのかと、驚かされ、背筋が寒くなった。ドライな火葬方法に慣れた現代日本人にはショックの連続である。ヨーロッパを代表する貴族ハプスブルク家では、心臓、内臓、それ以外の部位を丁寧に切り分け、3つの場所に保管した。なぜなら死体は死んでも「生きて」いて、物ではなかったから燃やせなかったのだと、解剖学者である著者は冷静に結論づける。各臓器の中には各機能が死なずに残っていると信じられていた。たとえば心臓には間違いなく心、精神が生きているはずだから、分離して、大事な場所に保管した。ハプスブルクの埋葬法は共同体が崩壊中途の、移行期の産物であると感じた。本書は、単なるメメントモリ(死を忘れるな)の書ではなくて、死のあり方、人間の死の受け入れ方の変遷を俯瞰して、整理してくれる。読み終わって、死の意味が腑に落ちて、僕自身、救われた。家族をはじめとする共同体が完全に機能していた時代には、人は死んでも、共同体の中では生き続けていたから、それぞれの個人は死を恐れる必要はなく、死体の保存にこだわる必要もなかった。マダガスカルでは、人は祖先になるために生きたので、死といわず、「祖先になる」といって、死をこわがらなかった。そのように共同体が強い時、死と生の境界は曖昧である。この日本でも江戸時代には、「死体の生死」は決定できなかった。自宅で医者にも機械にも頼らずに死んだ僕の祖父の死も、生と連続していて分節できなかった。しかし共同体という時間を超越した居場所がなくなって、生と死は分節され、人はさびしく死ななければならなくなった。(略)立派な墓も、共同体が消えたことの補完物であった。共同体がしっかりしていれば、墓はどうでもよかったのである。墓の延長上に、建築や都市というモニュメントがある。本来の仏教は、墓を重要視しない。安らかに死ねない人が、立派な墓を作り、その延長として立派な建築を作るのである。安らかに死ねないから、立派な建築や、都市を作って、死を隠蔽しなければならないのだと、僕は感じた。そのデザインにたずさわる、自分の人生も見返してみた。(『身体巡礼 ドイツ・オーストリア・チェコ編』(養老孟司著)書評 隈研吾 朝日新聞 2014年7月20日

この8月8日に東京・杉並の阿佐ヶ谷ロフトAで今年で3年目を迎えた「ブラック企業大賞」の「ノミネート企業 徹底解剖!――残業代ゼロ?規制緩和?それでブラック企業は減るのか? 私たちのシゴトはどうなるのか!?――」というプレイベントが行われるそうです。
 
以下、そのブラック企業大賞実行委員会のプレイベント企画を無批判に拡散する者に対して私としてのサジェスチョンを述べたものです。

 
「ブラック企業大賞2014」を決めるといいますが、その選考委員(ブラック企業大賞実行委員会)がブラック(ハラスメント)行為をしてきたことについてはどう思うのか。そのハラスメント行為に反省のない人たちに「ブラック企業大賞」を決める(あるいは云々する)資格などないのではないか?
 
下記のブラック企業大賞実行委員会メンバーのうち内田聖子氏(アジア太平洋資料センター〈PARC〉事務局長)と河添誠氏(首都圏青年ユニオン青年非正規労働センター事務局長)は先の先の東京都知事選の折、さらにその都知事選での宇都宮陣営の選挙母体をになった「人にやさしい東京をつくる会」の運営委員会の総括会議の席上で多人数を笠に着て民主主義運動者としてはあるまじきあなたたちのいう「ブラック」行為、一種パワーハラスメント行為を進んで行った人たちです。
 
まず内田聖子氏の「ブラック」行為について。先の先の東京都知事選で宇都宮候補のスケジュール管理の責任を担っていた澤藤大河氏は同氏の「ブラック」行為について次のように指摘しています。少し長くなりますが、その「ブラック」行為のなんたるかを明らかにするために内田聖子氏の「ブラック」行為に到る一件の前振りとしての報告を含めて引用します(澤藤統一郎の憲法日記 2013年12月27)。
 
「・随行員としての任務外し
私は、選挙戦を4日残した12月11日午後9時30分に、突如上原本部長から、選対事務所に呼び出され、そこで、随行員としての任務外しを言い渡された。青天の霹靂のことである。これは事後にわかったことだが、後任の人選まで事前に済ませており、周到に準備された『だまし討ち』だった。熊谷伸一郎事務局長(岩波)は、『翌日休むように命令しただけで、任務を外す命令ではない』と言っているようだが、詭弁も甚だしい。選挙戦はあと3日しかないこの時期に、候補者のスケジュール管理に責任をもっている私を、慰労のために休まようとしたとでも言うのだろうか。一刻も選挙活動のための時間が惜しいこの時期に、私を休ませる理由があるはずはない。実際、私を外したことによる後任の不慣れによる不手際は現実のものとなっている。上原本部長や熊谷伸一郎事務局長(岩波)は、選挙運動の円滑な運営よりも、私への『小さな権力の誇示』と『嫌がらせ』を優先したのだ。(略)私が、任務外しの理由を問い質したところ、まずは『疲れているから』というものだった。それに加えて、『女性は厳禁とされた随行員に、選対本部の許可なくTさんを採用したこと』も、理由とされた。なんと馬鹿馬鹿しい理由。」
 
「私は反論した。ここで一歩も退いてはならないと思った。直感的に、これは私だけの問題ではない。選挙共闘のあり方や、『民主陣営』の運動のあり方の根幹に関わる問題性をもっていると考えたからだ。まず、『命令』なのか確認をしたところ、上原公子選対本部長は『命令』だと明言した。私はこれは極めて重要なことと考え、上原選対本部長には『命令』する権限などないことを指摘した。お互いにボランティア。運動の前進のために、合理的な提案と説得と納得の関係のはず。上命下服の関係を前提とした『命令』には従えない、ことを明確にした。このときの上原公子本部長の表情をよく覚えている。彼女は、熊谷事務局長と目を合わせて、にやにやしながら、『この人、私の命令を聞けないんだって』と笑ったのだ。私はこの彼らの態度に心底怒った。」
 
「それでも、論理的に説得しようと務めた。逃げ腰の上原公子選対本部長を制して、この不当な措置に対する私の言い分を聞くよう要求した。その結果、私は上原公子本部長にようやく2分間だけ弁明の時間を認めさせた。上原公子選対本部長は、夜の9時半にわざわざ私を呼び出しておいて、『忙しいから2分間だけ』ということだった。私は、その2分間で、『ボランティアのTさんに随行員となってもらったのは、車長(引用者注:杉原浩司氏)も含む街宣チーム全員の話し合いの結論だったこと。選対事務局に人員増強の要請をしても応じてもらえず現場の必要に迫られての判断だったこと。そして、市民選対の誰にも、命令の権限も服従の義務もないこと』を喋るつもりだった。しかし、このわずか2分間の約束も守られなかった。私の弁明は途中で打ち切られた。上原公子選対本部長は、『会議に呼ばれているから、そっちに行かなくちゃ』と、結局は1分半で席を立って姿を消した。(略)こうして、私とTさんとは、随行員としての任務から外された。翌日のスケジュールにしたがって、いつものとおり街宣車に乗ろうとしたが、気の毒そうに車長から拒否された。私は、その後は本郷の自宅付近で、近所の勝手連の人々と一緒に街宣活動やビラ撒きに参加した。」
 
「Tさんは、心配して遠巻きに候補者を気遣い、ある局面では後任者の手際の悪さから、うろうろしていた宇都宮さんを誘導して昼食がとれるように案内したことがあったという。このとき、内田聖子運動員(選挙運動報告書によれば選挙運動報酬5万円受領)(引用者注:同じボランティアでも一方で「報酬」を受け取る人と「無報酬」の人がいる。その差別性については『澤藤統一郎の憲法日記』の「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」記事に詳しい)から、「あなたは任務を外されたのだから余計なことをしないで」と面罵されたそうだ。これは、宇都宮さんの面前のことだったが、宇都宮さんは見て見ぬ振りだった。そう、涙ながらに聞かされた。」
 
河添誠氏の「ブラック」行為については『澤藤統一郎の憲法日記』の「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその10」に次のような尋常ならぬ指摘があります。
 
「私は、10日前に、『自ら反みて直くんば、千万人と雖も吾往かん』(孟子)という、やや高揚した気分でルビコンを渡った。これまで付き合ってきた仲間からの孤立無援も、あるいは袋叩きも覚悟したうえでのこと。(略)私がこのような形で、ルビコンを渡る決断をしたについては、河添誠さん(首都圏青年ユニオン)の発言に負うところが大きい。彼は、12月20日の、だまし討ち決議をした会議の席(『人にやさしい東京をつくる会・運営会議』で、私にこう言っている。『澤藤さん、あなたはいいよ。しかし、息子さんのことを本当に考えたことがあるのか。これから先、運動の世界で生きていこうと思ったら、そんなこと(会と宇都宮君の責任の徹底追及)をやってどうなると思う。よく考えた方が良い』『それは恫喝か』『いや忠告です』『君がそのように言えば、君の人格が、君の言葉を恫喝にしてしまう。私には恫喝としか聞こえない』。これが最後の会話。私は、このときに、ルビコンを渡らねばならないと決意した。」
 
「河添誠さんの類似の発言は以前にもあった。総合して、彼の発言内容を、私はこう忖度した。『ここに出席している運営会議のメンバーは、みんなそれぞれの革新的な政党や政治勢力あるいは民主運動、さらには民主的なメディアまでを背負っているのだ。その大きな革新・リベラル勢力の結集体として、『やさしい会』があり、宇都宮選対がある。この会や選対に刃向かった場合には、革新・リベラル勢力全体を敵に回すことになる。そうすれば、あなたもあなたの息子も、この世界では大手を振っての活動できなくなる。あなたは老い先短いから、もう活動ができなくなってもよかろうが、将来ある身のあなたの息子さんについてはそれでよいとは言えないはずだ。息子のためを思って、会に刃向かうような愚かなことをしない方が良い。それでも、やるというなら、こちらも総力をあげて対抗して、思い知らせてやることになる』発言者は河添誠さんただひとり。しかし、その場で彼をたしなめる者はなかった。私が感得したのは、議長を務めた宇都宮君を初めとするその他の出席者全員の暗黙の了解。そうか、そんな『会』なら、そんな宇都宮選対なら、私も覚悟を固めて徹底してやらなければならない。腰の引けていた私だったが、ようやくこれで決意ができた。」
 
このように澤藤弁護士及び澤藤大河氏から指弾されている(上記の指摘から1年以上が経過していますが関係者からはなんの反論もありません。私は事実と認定します)ブラック(パワーハラスメント)行為の当事者がなんらの反省もないまま「ブラック企業大賞」について云々する資格などあろうはずはないと私は思いますが、いかがお考えでしょうか。
 
反省がないままにことごとに民主主義の名を冠したイベントがまたこともなげに進行されていく。また、そのイベントを分別もないまま民主主義の行事のように拡散する人も絶えない。こうして運動は根腐れされていく。辺見庸のいう「〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をまとった不可視の暴力」辺見庸「日録25」2014/07/09)とはまさにこういう現象を指しているのではないか? 私は心(しん)にそう思います。
辺見庸「日録26」(2014/07/16,17)から。
 
要旨:(辺見庸「日録26」2014/7/16)
ジョルジョ・アガンベンによると、狂宴(サバト)のさなかにサタンの肛門に接吻をしたと審問官に訴えられた魔女たちは、「そこにも顔があるから」と応えたのだという。魔女のたわごととはいえ、これは傾聴すべきかんがえではなかろうか。そこにも顔があるから。うん、おもしろい。「顔」とは、人間がとりかえしのつかないしかたで露出しているということだ、とアガンベンはいう。集団的自衛権の行使をみとめた閣議決定をめぐる閉会中審査をテレビで見たときに、「そこにも顔があるから」をおもったのだ。(略)首相と呼ばれている貧相な男の口は、フジツボの形をしていて、なにかわたしには理解しがたい言葉のようなことを早口で話すとき、あれは舌なのであろうか、直腸の下端の粘膜に似た肉色ものが、まさに脱肛した肛門のように不気味にうごくのだった。面妖で貧寒とした光景であった。(略)あれは国会というより、ウンベルト・エーコの『醜の歴史』の図録にでてくるような、悪魔崇拝の集会か魔宴なのではなかろうか。とすれば、肛門をさして「そこにも顔があるから」といった魔女らのいいぶんにもなにがしかの道理がある。あんなものを国会などと呼ぶべきではない。
 
全文:(辺見庸「日録26」2014/07/17)
米国の国務長官だとかいう、顔が臀部のようにおおきな男が、イスラエル軍のガザ爆撃はイスラエルの「自衛」のためだと恥ずかしげもなく支持表明している。組織的計画的なパレスチナ市民虐殺行為を「自衛」のためだというのである。この者たちは身体各部と論理のあるべき位置がひっくりかえってしまっている。顛倒。この男の脳は臀部にあり、顔であるべき場所に臀部がのっかっている。英語らしいものをしゃべるあの横柄な穴は、口ではなく肛門なのである。かんちがいしてはならない。
 
いまガザでおきていることは「復讐の連鎖」「暴力の応酬」などではない。200発以上の核兵器を保有し、実質世界第4位の軍事力をもつイスラエルが、世界一の人口密集地、貧困都市・ガザ市に、F16戦闘機などにより爆撃をくわえるとはどういうことなのか。これは、病弱な赤ちゃんに完全武装した大人がおそいかかるのとなにもかわらない、文字どおりのジェノサイドである。米国はそれを知っている。知っていながらとめたことはない。ジェノサイドはすでにあった。知っていてなぜやめさせないのか、とお怒りのむきは、ケネディ大使にでも電話してみたらどうだろう。かのじょは「現実的なものは理性的(引用者注:ヘーゲル)だからです」とでもやさしくおしえてくれるかもしれない。現実的なものは理性的であるという幸せな世界には、〈罪〉が存在する余地がないのだ。世界とはグーグルアースの衛星写真のことであり、ミサイルはたんなる記号か、テレビゲームと同等のハイテク遊具である。ゲームを理解するには参加すべきだ、という。
 
イスラエルの防空システム「アイアンドーム」は、おそるべき最先端兵器産業ラファエル・アドバンスト・ディフェンス・システムズイスラエル国防軍により共同開発されたものであり、米国により資金提供されている。ラファエル・アドバンスト・ディフェンス・システムズは米国と戦術高エネルギーレーザー (THEL: Tactical High-Energy Laser)などのレーザー兵器 を共同開発している。これにたいしハマスの打ちあげているロケット弾など打ち上げ花火ほどの威力もない。
 
「強制収容所の世界は……例外的に極悪非道の社会であったのではなかった。われわれがそこに見たものは、われわれが現に毎日投げこまれているこの地獄の社会のイメージであり、またある意味ではそのエッセンスであった」。1949年生まれのベンヤミン・ネタニヤフはこのことを知らないのかもしれないな。E.Ionescoを知らない、知ろうともしていないかも知れない。知らないのはまだよい。だが知ろうともしないということは、なんとおそろしいことだろうか。「強制収容所の世界は……例外的に極悪非道の社会であったのではなかった。われわれがそこに見たものは、われわれが現に毎日投げこまれているこの地獄の社会のイメージであり、またある意味ではそのエッセンスであった」。3ひねりのアイロニー。このくらいのことをおしえてくれる賢人たちがネタニヤフのまわりにはまだいくらかはのこっているだろうに。消えたのか?なんということだ。ガザのジェノサイドはイスラエルの「自衛」のためだといってのけた、首のうえに臀部をのせた米国の国務長官とかいう男。集団的自衛権とやらをニッポンは、こうした首のうえに臀部をのせた男のために、命をかけて行使するというのである。
 
なぜだろうか。謎である。せいぜいおもいあたるのは、シュショウとか呼ばれる、あのみるからに貧相な男もまた、首のうえに頭部ではなくして、クソまみれのケツをのせ、どうみても肛門でしかない穴をゴニョボニョとうごかして言葉のようなことを話しているという不可思議な、そしてありふれた光景である。肛門に発声させてはならない。肛門が発した痴れ言にしたがってはならない。エベレストにのぼった。 
 
引用者注:私の知る限り、辺見庸のこの檄文に匹敵する文章をものしているのは、イスラエルのジャーナリストのギデオン・レヴィ(Gideon Levy)ただひとりです。レヴィは、「30年以上昔の、第一次レバノン戦争以来、アラブ人殺害は、イスラエルの主要な戦略手段となった。イスラエル国防軍は軍に対して戦争をしかけるのではなく、主な標的が一般市民なのだ。目標のない戦争は、戦争の中でも、最も悪魔的だ。意図的に、一般市民を標的にするのは、極悪非道の極みだ。ガザは“スズメバチの巣”ではなく、人間絶望の地域だ」と激しくイスラエル国防軍の無差別ガザ爆撃を批判します。

しかし、にもかかわらず、次のようにハマスをも強く批判の対象としています。「(イスラエルの)人々はハマースの手口に激怒している。イスラエルの人口稠密な部分を狙うロケット攻撃のみならず、ガザ西岸の過密状態を考えれば、代替案はないかも知れないが、自ら人口稠密な中心地に身を置いており、ガザの一般市民は、サイレンに気を配ることも、避難所や守られた場所も無しに、イスラエルの残虐な攻撃にあいやすくしている。これは犯罪的だ。イスラエル空軍による集中砲火も、結果、意図、いずれの点においても同様に犯罪的だ。ガザには、何十人もの女性や子供達が暮らしていない家屋など、一軒たりとも存在しない。それゆえ、イスラエル国防軍は、無辜の一般市民を傷つける意図はないと主張するのは不可能だ。最近行われた、ヨルダン川西岸テロリスト住宅の破壊への反対はわずかだったにせよ、今や何十軒もの家屋が、住民共々破壊されているのだ。(「イスラエル・ガザ攻撃の本当の狙いは、アラブ人殺戮」マスコミに載らない海外記事 2014年7月15日)
ビデオニュース・ドットコム(神保哲生宮台真司)と辺見庸「日録25」から。
 
要旨沖縄密約文書の開示請求を棄却
沖縄返還の際の日米間の密約文書の開示を国に求めた情報公開訴訟の上告審判決で、最高裁第二小法廷は7月14日、上告を棄却し、密約文書を不開示とした政府の決定を妥当だとする判断を下した。判決で最高裁は密約文書の存在そのものは認めたが、文書は「秘密裏に廃棄された可能性がある」として現在は存在しないとする行政側の主張を認定。存在しないものは開示できないとの理由から、不開示は妥当と判断した。沖縄密約をすっぱ抜いた元毎日新聞記者の西山太吉氏は判決後の記者会見で「これでは都合の悪い情報は廃棄してしまえば公開しなくてもいいということになる。ひどい判決だ」と語り、同判決を批判した。(ビデオニュース・ドットコム 2014年07月14日
 
要旨「なにか」の息の根をとめなければならない
審判』の末尾はこうだった(略)――「『まるで犬だ!』と、彼は言ったが、恥辱が生きのこっていくように思われた」……。1972年の沖縄返還をめぐる日米間の密約文書の開示を元毎日新聞記者・西山太吉さんたちがもとめた訴訟の上告審判決で、最高裁第2小法廷が、1審の開示命令をとり消した2審東京高裁判決を支持し、原告側の上告を棄却。西山さんたちの敗訴が確定した。(略)この司法判断には国家の悪しき母型がある。西山さんは日米密約の存在を暴いた。だが、沖縄返還がせまった72年、密約を示す機密電文を西山さんにわたした外務省女性事務官とともに国家公務員法違反容疑で逮捕される。メディアと世間は密約の重大な中身ではなく、西山氏と事務官の関係に目をうばわれ、またそうなるべくメディアと社会を「なにか」がたくみにマニピュレートして、ひとのなすべきまっとうな行為を「恥辱」へと変えていった。そうさせた絶大な力。事実の在・非在の判断権さえうばわれたなら、ひとではなく、まるで犬だ。司法は腐敗している。国家は腐爛している。恥辱だけが〈民主主義〉の顔をして生きのこっている。(略)「なにか」の息の根をとめなければならない。(辺見庸「日録25」 2014/07/15) 
今日の朝日新聞の『天声人語』の冒頭の書き出しは「私雨」。今回の滋賀県知事選では民意の雨が降った、という内容です。「民意の雨」とはなにか? なにを「民意」と言っているのか? 比較的短いので全文を引用してみます。
 
「私雨」と書いて「わたくしあめ」と読む。限られた区域にだけ降るにわか雨をいい、山間部では麓は晴れているのに山中だけ降ることが多い。ものの本によれば「鈴鹿の私雨」や「比叡の私雨」がよく知られる。旧東海道を西へ向かい、鈴鹿峠を越えれば湖国・滋賀である。比叡山の東にもあたる。滋賀県に日曜日に降った雨は、この地方に限られた私雨だったのか、それとも安倍政権への全国レベルの不信が降らせた雨だったのか。知事選で自公系の候補が敗れた。自公系の小鑓隆史氏が有利とされたが、中盤になって前民主党衆院議員の三日月大造氏に風が吹いた。集団的自衛権の行使容認が閣議決定されたころだ。その前だが原発事故をめぐる石原環境相の「金目」発言もあった。「一強多弱」の政界を、自民党はガリバーよろしく大股で歩む。こんなときこそ丁寧であるべきところ、「得意傲然(ごうぜん)」が目立つ。サッカーに例えれば、ボールを蹴りたい方向にゴールを担いで動かすような。その一つが集団的自衛権だった。原発の再稼働も同様だ。ゴールを広げるかのような原子力規制委の人事もあった。「これでいいのだ」式のもろもろに、驕りを正したい広範な民意が、投票の機会を得た滋賀で噴き出たともいえる。そのあたりの分析は難しいが、政権への不安は薄雲のように広がりつつあると思われる。さらに上昇気流が強まれば、私雨にとどまらず雨は降るだろう。土砂降りの民意の怖さを政治家ならご存じのはずである。(天声人語 2014年7月15日)
 
この『天声人語』の滋賀県知事選の分析は私もそうだと思います。同知事選における前民主党衆院議員の三日月大造氏の勝因(逆にいえば自公系候補の敗因)は、集団的自衛権の行使容認の閣議決定に象徴される安倍政権への全国レベルの不信にあっただろう、というのが『天声人語』の滋賀県知事選の分析です。
 
しかし、多くのマスメディアは、今回の同知事選の選挙の結果を「『卒原発』を前面に掲げた三日月氏が当選したことで、安倍政権の原発政策に対する根強い批判が示された」(朝日新聞 2014年7月14日)、「三日月さん『卒原発』に支持」(毎日新聞 2014年7月14日)などと報じています。しかし、こうしたマスメディアの報道のありかたはミスリードというべきではないか。私がミスリードという理由のひとつは、上記にあげた『天声人語』の滋賀県知事選の分析に示されています。そのつもりで私は『天声人語』を引用しました。私がミスリードという理由になる別の次のような報道もあります。
 
同知事選告示日の前日の先月25日付けの東京新聞は「『脱原発』かすむ 滋賀県知事選 選挙戦略、争点回避」という記事で「原発問題は今のところ大きな争点になっていない。いったい、なぜなのか」という問いを発した上で、「原発問題は大事だけど、一番じゃない」「原発に賛成か反対か、判断基準が分からない。事故が怖いから今すぐやめろ、とまでは言えない」「僕らは震災の影響が少なかった。事故から3年以上がたち、ちょっとした過去の出来事になっているのかもしれない」などと言うふつうの市民の声を拾っていました。
 
また、投票日直後の14日付けの同紙は、「滋賀県知事選で自民、公明両党が推薦した小鑓隆史氏が敗れた背景には、十分な議論のないまま集団的自衛権の行使容認を閣議決定したり、自民党議員による女性蔑視やじが相次いで発覚したことをめぐる安倍政権への不信がある。選挙戦は原発政策が焦点になるとの見方があった。だが、論争は低調なまま、序盤は小鑓氏が有利とみられていた。自民党が六月に行った情勢調査でも高い政権支持率をバックに小鑓氏がリードしていた。だが、安倍晋三首相が集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更を選挙期間中の七月一日に閣議決定すると、潮目が変わった。戦後の歴代政権が維持してきた憲法解釈を、国民的な議論のないまま変更したことに対する有権者の不信が、選挙情勢の変化に表れたといえる」という選挙分析も掲載しています。
 
「安倍政権の原発政策に対する根強い批判が示された」(朝日新聞)、 「三日月さん『卒原発』に支持」(毎日新聞)などというのは、なんとか「争点」をつくって記事らしくしたいという記者の思惑(別の言葉でいえば功名心)が優先し、三日月氏が同知事選出馬にあたって嘉田前知事の「『卒原発』を継承する」と後継指名者として当然の礼儀として語った言葉でしかない「政策」をことさらに争点化して記事をつくったというだけのことにすぎないのではないか。
 
事実は、上記の東京新聞の記事にあるように「選挙戦は原発政策が焦点になるとの見方があった」が、「安倍晋三首相が集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更を選挙期間中の七月一日に閣議決定すると、潮目が変わった」。「戦後の歴代政権が維持してきた憲法解釈を、国民的な議論のないまま変更したことに対する有権者の不信が、選挙情勢の変化に表れた」というものだったでしょう。私が多くのマスメディアの報道はミスリードというべきではないか、とメディア批判をいうゆえんです。
 
さて、報道のミスリードはこれまでなにをもたらしてきたか。かつての小泉劇場。その結果としての自衛隊海外派兵法(イラク特措法)の制定、小泉構造改革という名の日本型格差社会の創出。民主党神話。その結果としての民主党=第二保守政党の本質の露呈。さらにその絶望の結果としての国民の自民党一強体制へのシフト。安倍、アベノミクス礼賛。その結果としての日本の戦前化。戦争国家への突入。
 
メディアは三日月氏を嘉田現知事と同様に「卒原発」の人と持ち上げますが、その三日月氏の「卒原発」なるものは、「三日月氏が国会議員時代に、原発輸出を可能にする原子力協定調印に賛成した」(東京新聞 2014年6月25日)ことと矛盾しない範囲内の「卒原発」でしかありません(実際は矛盾することはいうまでもありません)。また、同日付けの東京新聞は、三日月氏の「原発反対の考えは、計24ページの政策提案集で17ページ目に登場するだけ。政策の中で、全面的に押し出しているわけではない。その内容も『実効性のある多重の防護体制が実現しない限りは、原発の再稼動には同意できない』と、防護体制次第では再稼働を許容するようにも受け止められる」、同氏が「推薦を受ける連合滋賀には、脱原発には否定的な関西電力労組も入っており、配慮したようにも見える」とも指摘しています。事実関係に照らして見れば、三日月氏を「卒原発」の人というのはメディアのミスリードというほかないでしょう。
 
そもそも三日月氏を後継者に指名した嘉田現知事自身がはじめは関西電力大飯原発の再稼働は慎重であるべきだ(すなわち「反対」)と言いながら、「2012年10月16日の定例記者会見で、関西電力大飯原子力発電所3、4号機の稼働について『現状では認めるしかない』と述べ、従来の慎重姿勢を大きく軌道修正した」(読売新聞 2012年10月16日)前歴のある人です。また、1991年の青森県知事選で核燃サイクル推進派の現職知事を当選させるために剛腕を発揮したり、東電原発事故後も民主党代表選で海江田万里を推薦したり、さらに自らが率いる民主党在任当時の小沢派の議員が電力総連(東京電力労組)から多額の政治献金を受けている事実が判明しても(「AERA」 2011年4月25日号)同小沢派議員に対して派内からの除名はおろか、なんらの注意処分もしてこなかった実質非「反原発」の小沢一郎氏と手を組んで未来の党を創り、その後の選挙で大惨敗をした経歴を持つ人です。その嘉田現知事を「卒原発」の人というのもメディアの創出したミスリードといわなければならないでしょう。
 
広原盛明さん(元京都府立大学学長)は「嘉田新党(日本未来の党)はなぜ失墜したか~「極右第3極」の台頭、「保守補完第3極」の消滅~(「広原盛明の聞知見考」第27回 『ねっとわーく京都』 2013年4月号)という論攷の中で「卒原発」の人、嘉田現知事評価に関して次のように指摘していました。
 
「総選挙で『偽りの第3極=嘉田新党』を煽ったマスメディアは、深く反省して出直してほしい。『極右第3極=維新』を支援したマスメディアは、戦前の『「いつか来た道』をもう一度思い起こしてほしい。革新政党の存在を無視した政治部記者やデスクは、顔を洗って目の鱗を落としてほしい。マスメディアに迎合するだけの若手政治学者やその他の識者は、もっと勉強して主体性を確立してほしい。そして相も変らぬ選挙総括を書いた革新政党は、直面している政治情勢の厳しさを再認識してほしい。」
 
さらに広原さんは同論攷の中で民主党が先の衆院選で歴史的な惨敗・大敗を喫した「貴重な教訓」に触れて次のような指摘もしていました。
 
「この総選挙を通して得られた貴重な教訓は、目下進行中の保守大連立(独裁体制)への道は、同じ「第3極」であっても「保守補完第3極」では到底阻止できないということだろう。嘉田新党を天まで持ち上げた先の若手政治学者の言葉を借りるなら、『偽りの第三極』ではなく『真の第三極』でなければ安倍自民党・維新の極右連合軍には対抗できないということだ。そして『真の第三極』は、広範な護憲勢力が結集する“護憲第3極”以外には存在しないということなのである。」(同上)
 
上記のメディアばかりでなく(ここでは朝日新聞と毎日新聞の今回の記事を書いた記者の例。また、同じ朝日新聞の例でも、『天声人語』子はきちんと情勢を見極めた記事を書いていました)、そのメディアの論調に影響されてということもあるのでしょうが、あるブロガーは今回の滋賀県知事選挙の結果について「滋賀県知事選で自公候補が敗北した。重苦しかった気分が少し軽くなり、絶望の中で微かに希望の光を見出す心理状態になった」などと書いています。同様の感想を述べている人を私はメーリングリストのメールでもたくさん確認しています。
 
今回の選挙結果について、比較の問題として私もベターな選挙結果であったことを否定するつもりはありません。しかし、それはあくまでも相対としての問題でしかありません。彼ら、彼女らには広原さんが「『真の第三極』は、広範な護憲勢力が結集する“護憲第3極”以外には存在しない」と指摘する先の総選挙における革新の敗北から痛切に学びとった「貴重な教訓」の認識が決定的に欠如しているがゆえに上記のような単純な感想に陥ってしまうのだと私は思います。
 
真の政治革新の実現をめざすためにはまず事実をありのままに見るところからはじめなければならないでしょう。今回の同知事選の選挙の結果を「安倍政権の原発政策に対する根強い批判が示された」(朝日新聞 2014年7月14日)とか滋賀県民が「『卒原発』に支持」(毎日新聞 2014年7月14日)などという事実に基づかない評価は百害あって一利なしと強く指摘しておかなければならないでしょう。
 
滋賀県民は「戦後の歴代政権が維持してきた憲法解釈を、国民的な議論のないまま変更したことに対する」(東京新聞)ノーの声を先駆的に突きつけた。安倍政権の「『これでいいのだ』式のもろもろに、驕りを正したい広範な民意が、投票の機会を得た滋賀で噴き出た」(天声人語)と見るのが政治革新の実現につながる事実に即した見方というべきではないか。 
今回澤藤統一郎弁護士のブログ記事「万国のブロガー団結せよー『DHCスラップ訴訟』を許さない・第2弾」の大概をそのまま転載させていただこうと思います。
 
*念のため「万国のブロガー団結せよ」という言葉の注をつけておきます。「万国のブロガー団結せよ」は有名な「万国の労働者よ、団結せよ!」というスローガンのパロディー(もじり)。また、「万国の労働者よ、団結せよ!」というスローガンの初出はカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスの1848年の『共産党宣言』。このスローガンを聞くと、私は、ほぼ条件反射的に「起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し」の歌、「あぁ インターナショナル 我等がもの」の歌を思い出します。もちろん、私の青春の歌でもあるからです。
 
万国のブロガー団結せよー『DHCスラップ訴訟』を許さない・第2弾
(澤藤統一郎の憲法日記 2014年7月14日)


「ブロガーは自らの思想や感性の表明に関して、妨害されることのない表現の自由を希求する。わけてもブロガーが望むものは、権力や経済的強者あるいは社会的権威に対する批判の自由である。プロガーの表現に不適切なところがあれば、相互の対抗言論によって是正されるべきである。ブロガーの表現の自由が実現するときにこそ、民主主義革命は成就する。万国のブロガー万歳。万国のブロガー団結せよ」
 
『DHCスラップ訴訟』の被告になって以来、ブログ・ブロガーを見る目は明らかに変わってきた。私もブロガーの1人だが、ブロガーというのはたいした存在なのだ。これまでの歴史において、表現の自由とは実質において「メディアの自由」でしかなかった。それは企業としての新聞社・雑誌社・出版社・放送局主体の自由であって、主権者国民はその受け手の地位に留め置かれてきた。メディア主体の表現の受け手は、せいぜいが「知る権利」の主体でしかない。
 
ブログというツールを手に入れたことによって、ようやく主権者一人ひとりが、個人として実質的に表現の自由の主体となろうとしている。憲法21条を真に個人の人権と構想することが可能となってきた。「個人が権利主体となった表現の自由」を手放してはならない。
 
だから、「立て、万国のブロガーよ」であり、「万国のブロガー団結せよ」なのである。各ブロガーの思想や信条の差異は、今あげつらう局面ではない。経済的な強者が自己への批判のブログに目を光らせて、批判のブロガーを狙って、高額損害賠償請求の濫訴を提起している現実がある。他人事と見過ごさないで、ブロガーの表現の自由を確立するために声を上げていただきたい。とりわけ、弁護士ブロガー諸君のご支援を期待したい。
 
いかなる憲法においても、その人権カタログの中心に「表現の自由」が位置を占めている。社会における「表現の自由」実現の如何こそが、その社会の人権と民主主義の到達度の尺度である。文明度のバロメータと言っても過言でない。
 
なにゆえ表現の自由がかくも重要で不可欠なのか。昔からなじんできた、佐藤功ポケット注釈全書・憲法(上)」が、みごとな要約をしている。
 
「思想は、自らの要求として、外部に表現され、伝達されることを欲する。人は思想の交流によって人格を形成することができる。かくして、思想表現の自由の価値は、第一に、それが人間人格の尊厳とその発展のために不可欠であることに求められる。また、民主政治はいろいろの思想の共存の上に成り立つ。かくして、思想表現の自由の価値は、第二にそれが民主主義の基盤のために不可欠であることに求められる」
 
まず、人はものを考えこれを他に伝えることを本性とする。だから、人間存在の根源的要求として表現の自由が尊重されねばならない。また、政治社会の視点からは、表現の自由は民主主義に原理的に不可欠、というのだ。
 
このような古典的なそもそも論には、メディアの登場はない。インターネット・デバイスの発展によって、古典的なそもそも論の世界に回帰することが可能となりつつある。要するに、主権者の誰もが、不特定多数の他者に情報や思想を伝達する手段を獲得しつつあるのだ。これは、表現の自由が人格の自己実現に資するという観点からも、民主的政治過程に不可欠という観点からも、個人を表現の自由の主体とする画期的な様相の転換である。人権も民主主義も、形式的なものから実質的なものへの進化の可能性を秘めている。
 
憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。ブロガーこそは、今や先進的な「言論の自由」の実質的な担い手である。
 
私は、一ブロガーとして、経済的強者を「カネで政治を壟断しようとした」と批判して、はからずも被批判者から高額損害賠償請求訴訟の提起を受けた。ブロガーを代表する立ち場で、批判を甘受すべき経済的強者と対峙している。
 
この際、私は全国のブロガーに呼び掛ける。ブロガーの権利を守るべく、あなたのブログでも、呼応して声を上げていただきたい。「『DHCスラップ訴訟』は不当だ」と。「カネの力で政治に介入しようとした経済的な強者は、あの程度の批判は当然に甘受しなければならない」と。また、「言論を萎縮させるスラップ訴訟は許さない」と。
 
さらに、全ての表現者に訴えたい。表現の自由の敵対者に手痛い反撃が必要であることを。スラップ訴訟は、明日には、あなたの身に起こりうるのだから。
 
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このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。
 
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(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
 
(以下、省略)
以下、澤藤統一郎弁護士の『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾記事を全文転載させていただこうと思います。
 
金にまかせたお大尽(「贋金つくり」ならぬ裏金つくりのお大尽)のスラップ訴訟を私も許せません。僭越ながら、私も澤藤弁護士を側面から援護するため裁判中ブログを書き続けます。第1弾は文字どおり澤藤弁護士の『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾記事の全文掲載。

なにゆえに澤藤弁護士は応訴したか。むろん、訴えられたから(売られたケンカを買った)、というのが端的で明快な答といってよいのですが、株式会社ディーエイチシー代表の吉田嘉明氏が「カネで政治を買おうとした」ことを澤藤弁護士がペン(ブログ)で批判した。その批判が気に入らないからといって吉田氏は今度は「カネで裁判を買おう」としてきた。「本来、司法は弱者のためにある。政治的・経済的弱者こそが、裁判所を権利侵害救済機関として必要としている。にもかかわらず、政治的・経済的弱者の司法へのアクセスには障害が大きく、真に必要な提訴がなしがたい現実がある。これに比して、経済的強者には司法へのアクセス障害はない。それどころか、不当な提訴の濫発が可能である。不当な提訴でも、高額請求訴訟の被告とされた側には大きな応訴の負担がのしかかることになる。スラップ訴訟とは、まさしくそのような効果を狙っての提訴にほかならない。このような訴訟が効を奏するようでは世も末である。決して『DHCスラップ訴訟』を許してはならない」という怒りの方がさらに大きいというべきでしょう。
 
なお、澤藤弁護士は、「このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697号)までご連絡をお願いします」と全国の弁護士諸氏の協力を要請されています。そのことも第1弾記事としてお伝えしておきたいと思います。
 
いけません 口封じ目的の濫訴ー『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾(澤藤統一郎の憲法日記 2014年7月13日)

当ブログは新しい報告シリーズを開始する。本日はその第1弾。
 興味津々たる民事訴訟の進展をリアルタイムでお伝えしたい。なんと、私がその当事者なのだ。被告訴訟代理人ではなく、被告本人となったのはわが人生における初めての経験。
 
その訴訟の名称は、『DHCスラップ訴訟』。むろん、私が命名した。東京地裁民事24部に係属し、原告は株式会社ディーエイチシーとその代表者である吉田嘉明(敬称は省略)。そして、被告が私。DHCとその代表者が、私を訴えたのだ。請求額2000万円の名誉毀損損害賠償請求訴訟である。
 
私はこの訴訟を典型的なスラップ訴訟だと考えている。
スラップSLAPPとは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの頭文字を綴った造語だという。たまたま、これが「平手でピシャリと叩く」という意味の単語と一致して広く使われるようになった。定着した訳語はまだないが、恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟などと言ってよい。政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言論や行動を嫌悪して、言論の口封じや萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう。自分に対する批判に腹を立て、二度とこのような言論を許さないと、高額の損害賠償請求訴訟を提起するのが代表的なかたち。まさしく、本件がそのような訴訟である。
 
DHCは、大手のサプリメント・化粧品等の販売事業会社。通信販売の手法で業績を拡大したとされる。2012年8月時点で通信販売会員数は1039万人だというから相当なもの。その代表者吉田嘉明が、みんなの党代表の渡辺喜美に8億円の金銭(裏金)を渡していたことが明るみに出て、話題となった。もう一度、思い出していただきたい。
 
私は改憲への危機感から「澤藤統一郎の憲法日記」と題する当ブログを毎日書き続けてきた。憲法の諸分野に関連するテーマをできるだけ幅広く取りあげようと心掛けており、「政治とカネ」の問題は、避けて通れない重大な課題としてその一分野をなす。そのつもりで、「UE社・石原宏高事件」も、「徳洲会・猪瀬直樹事件」も当ブログは何度も取り上げてきた。その同種の問題として「DHC・渡辺喜美事件」についても3度言及した。それが、下記3本のブログである。
 
  http://article9.jp/wordpress/?p=2371
    「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判 
   http://article9.jp/wordpress/?p=2386
    「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
   http://article9.jp/wordpress/?p=2426
    政治資金の動きはガラス張りでなければならない
 
是非とも以上の3本の記事をよくお読みいただきたい。いずれも、DHC側から「みんなの党・渡辺喜美代表」に渡った政治資金について、「カネで政治を買おうとした」ことへの批判を内容とするものである。
 
DHC側には、この批判が耳に痛かったようだ。この批判の言論を封じようとして高額損害賠償請求訴訟を提起した。訴状では、この3本の記事の中の8か所が、原告らの名誉を毀損すると主張されている。
 
原告側の狙いが、批判の言論封殺にあることは目に見えている。わたしは「黙れ」と威嚇されているのだ。だから、黙るわけにはいかない。彼らの期待する言論の萎縮効果ではなく、言論意欲の刺激効果を示さねばならない。この訴訟の進展を当ブログで逐一公開して、スラップ訴訟のなんたるかを世に明らかにするとともに、スラップ訴訟への応訴のモデルを提示してみたいと思う。丁寧に分かりやすく、訴訟の進展を公開していきたい。
 
万が一にも、私がブログに掲載したこの程度の言論が違法ということになれば、憲法21条をもつこの国において、政治的表現の自由は窒息死してしまうことになる。これは、ひとり私の利害に関わる問題にとどまらない。この国の憲法原則にかかわる重大な問題と言わねばならない。
 
本来、司法は弱者のためにある。政治的・経済的弱者こそが、裁判所を権利侵害救済機関として必要としている。にもかかわらず、政治的・経済的弱者の司法へのアクセスには障害が大きく、真に必要な提訴がなしがたい現実がある。これに比して、経済的強者には司法へのアクセス障害はない。それどころか、不当な提訴の濫発が可能である。不当な提訴でも、高額請求訴訟の被告とされた側には大きな応訴の負担がのしかかることになる。スラップ訴訟とは、まさしくそのような効果を狙っての提訴にほかならない。
 
このような訴訟が効を奏するようでは世も末である。決して『DHCスラップ訴訟』を許してはならない。
 
応訴の弁護団をつくっていただくよう呼びかけたところ、現在77人の弁護士に参加の申し出をいただいており、さらに多くの方の参集が見込まれている。複数の研究者のご援助もいただいており、スラップ訴訟対応のモデル事例を作りたいと思っている。
 
本件には、いくつもの重要で興味深い論点がある。本日を第1弾として、当ブログで順次各論点を掘り下げて報告していきたい。ご期待をいただきたい。
 
なお、東京地裁に提訴された本件の事実上の第1回口頭弁論は、8月20日(水)の午前10時30分に開かれる。私も意見陳述を予定している。
 
是非とも、多くの皆様に日本国憲法の側に立って、ご支援をお願い申しあげたい。「DHCスラップ訴訟を許さない」と声を上げていただきたい。
(2014年7月13日)
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     普通預金 3546719
     名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
 (カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」) 
昨日の7月11日付け発売の週刊フライデーの「国谷キャスターは涙した 安倍官邸がNHK(クローズアップ現代)を"土下座〟させた一部始終」という記事が注目を浴びています。
 
このフライデーの「大スクープ記事」をいち早く紹介する記事を書いたのは名古屋高裁で違憲判決が出たイラク派兵訴訟の原告のおひとりで元外交官の天木直人氏。続いていち早く記事にしたのは弁護士の澤藤統一郎氏。おふたかたの記事を独立系メディアの「-wave Tokyo」があわせて記事にしていますのでご紹介しておきます。
 
そのほかにも目についたものを4本以下にあげておきます。
 
「NHK『クローズアップ現代』を首相官邸が叱責」フライデー報道 菅官房長官は否定(The Huffington Post 2014年07月11日)
安倍政権官邸のNHK恫喝フライデー報道の深層(植草一秀の『知られざる真実』 2014年7月11日)
フライデー報道が本当なら、国谷キャスターは安倍政権ではなく、NHKの体質に涙したと思う(BLOGOS 木村正人 2014年07月12日)
「クローズアップ現代」についての誤報(アゴラ 池田信夫 2014年07月12日)
 
当日のクローズアップ現代の番組「集団的自衛権 菅官房長官に問う」の全文書き起こしは上記のNHKのサイトで見ることができます。
 
また、当日の番組の録画は右記のYouTubeで観ることができます。
 
書き起こし記事と実際の会話の違いや週刊フライデーの記事やハイファンポストがフライデーの記事を引用して書くように「国谷さんが菅さんの発言をさえぎって」までほんとうに「『しかしですね』『本当にそうでしょうか』と食い下がった」のかどうか。そのあたりのニュアンスや事実関係を確かめることができます。
 
結論から言えば、週刊フライデーの記事は正確さに欠けます。ビデオを観て確認しましたが、「国谷さんが菅さんの発言をさえぎって」自身の意見や疑問を述べた形跡は見当たりません。国谷氏は菅氏の発言を最後まできちんと聞いた上で質問をしています。この部分は週刊誌の記事にありがちな扇情的な記事の書き方というべきでしょう。そこから敷衍して結論するのは飛躍の感は免れませんが、フライデー記事の「官邸サイドからNHK上層部に『君たちは現場のコントロールもできないのか』」と抗議が入った」「局上層部は『クロ現』制作部署に対して『誰が中心となってこんな番組作りをしたのか』『誰が国谷に『こんな質問をしろ』と指示を出したのか』」という”犯人捜し”まで行った」「国谷さんは居室に戻ると人目もはばからずに涙を流した」などの描写についてもその描写の信憑性についても私は疑問を持たざるえません。
 
この点については上記のアゴラの記事で池田信夫氏も次のように言っています。「『菅さんは秘書官を数人引き連れて、局の貴賓室に入りました。籾井会長も貴賓室を訪れ『今日はよろしくお願いします』と菅さんに頭を下げていました。その日の副調整室には理事がスタンバイ。どちらも普段は考えられないことです』(NHK関係者)これは間違いだ。国会議員が出演するとき貴賓室を使うのは当たり前で、NHKは幹部が出迎える。官房長官なら会長があいさつしてもおかしくない。毎週の「日曜討論」でも、副調整室には理事が来る。これは「普段」を知らないアルバイトの話だろう」などなど。私は政治家諸氏を迎えるにあたってのNHKの対応については知見はありませんが、おそらくこの点についての池田氏の説は正しいだろうと思います(私はかつて金光翔さん(元『世界』編集部員)が池田氏の評価について「池田は無茶苦茶な主張を展開していることも多いが、マスコミやリベラル・左派があえて『空気』を読んで沈黙しているか、何らかの『空気』を作ろうとしている点を、身も蓋もないやり方でぽーんと衝くことがある」(私にも話させて「メモ21」2011-09-24)と述べていたことを思い出します)。
 
さて、上記の私の観察を踏まえれば、天木直人氏や澤藤統一郎弁護士の安倍内閣とNHK批判自体には思いを共有するものの、フライデーの評価について少し早まった判断があるように思います。フライデー記事の評価についてはもう少し事実関係を確かめてからのことにした方がよいでしょう。
 
私はこの問題の本質は、先の「醍醐聰さんのNHK批判 ――『クローズアップ現代』がおかしい」というエントリでも紹介しましたが、籾井氏がNHK会長に就任して以降、NHKスペシャルやクローズアップ現代は秘密保護法や集団的自衛権の問題について「一度もこの問題を取り上げなかった」という事態にあるだろうと思っています。
 
今回、クローズアップ現代が「集団的自衛権 菅官房長官に問う」という番組でNHKとしての静かながらの硬骨のジャーナリスト魂を見せてくれたことは、現場サイドでのNHKのジャーナリスト魂はまだまだ決して死んではいないことを私たち視聴者に改めて示してくれたということでもあるでしょう。私たちはこのNHK職員の放送ジャーナリストとしての「信」をバックアップするためにも安倍・籾井体制を一日も早く退陣に追い込みたいものです。
集団的自衛権の行使を容認する国家安全保障会議決定が閣議決定された7月1日の夜、私は、あるメールにうながされて「官邸前抗議行動」なる実況中継を観ました。写しだされたのは、ハンドマイクを握って「憲法を壊すな」「アベはやめろ」と絶叫する女性のパフォーマーの姿。そう、プロテスタント(抗議者)というよりもパフォーマーと呼んだ方が実質に見合っているように見えます。踊っているようにも見えました。その姿には恍惚とした姿は認められても、「怒り」の形相と様相は認められません。ひたすら騒いでいるだけのようにしか見えない。その姿は“負けてもハイタッチ”の若者たちの姿と変わるところはない。騒ぎたい場所が渋谷スクランブル交差点道頓堀川から官邸前に変わっているだけのことでしかないのではないか。激しい嘔吐感と強い嫌悪感に堪えられずすぐに消しました。むろん、共感などするはずもありません。辺見のいう「集団的自衛権行使容認に反対する明るく楽しい「パレード」が、〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をまとった不可視の巨大暴力を、意図せず承認し、ひっきょう、巨大暴力の一構成要因となっていることについては、もっと思考をめぐらさなければならない」(「日録25」2014/07/09)とはそういうことではないか?
 
辺見は脳出血で倒れる以前、「明るく楽しい『パレード』」の違和について次のように書いています。
 
「気だるい土曜の昼下がりに都心のビル街を皆とだらだらと歩いていたら、ふと遠い記憶が蘇った。足下の路面が大きく波打つようにゆらゆらと揺れたときのこと。足の裏が、あの不安とも愉悦ともつかない弾性波の不可思議な感覚をまだかすかに覚えている。アスファルト道路がまるで地震みたいに揺れたのだ。それは、身体の奥の、なんとはなし性的な揺らぎをも導き、この弾性振動の果てには世界になにかとてつもない変化が継起するにちがいないという予感を生じさせたばかりでなく、足下の揺らぎと心の揺らぎが相乗して私をしばしば軽い眩暈におちいらせさえしたものだ。あれは錯覚だったのだろうか。錯覚を事実として記憶し、三十六年ほどの長い時間のうちに、そのまちがった記憶をさらに脚色して、いまそれが暗い脳裏からそびきだされたということなのか。冗談ではない、と歩きながら私はひとりごちる。冗談ではない、ほんとうにこの道がゆっさゆっさと揺れたのだ。誓ってもいい。数万の人間が怒り狂って一斉に駆けだすと、硬い路面が吊り橋みたいに、あるいは春先に弛んだ大河の氷のように揺れることがあるのだ。」
 
「足下の道が揺れると、いったいどうなるか。このことも私はかすかながら記憶している。道が揺れると、〈世界はここからずっと地つづきかもしれない〉と感じることができたりする。勘ちがいにせよ、世界を地づづきと感じることはかならずしもわるいことじゃない。なあ、おい、そうじゃないかとだれかにいいたくなる。地つづきの道が揺れる。弾性波がこの道の遠くへ、さらに遠くへと伝播してゆき、知らない他国の女たちや男たちの、それぞれの皺を刻んだ足の裏がそれを感じる。ただこそばゆく感じるだけか心が励まされるのか、こちらからはわからないけれども、とにかくなにか感じるだろう。伝播する。怒りの波動が、道を伝い、道に接するおびただしい人の躰から躰へと伝播していく。つまり、この場合、人も道も大気も、怒りの媒質となって揺れるのだ。なあ、おい、そういうのを経験してみたいと思わないか。世界の地つづき感とか自分の内と外の終わりない揺れとかを躰で感じてみたくないか。そのことをだれかに問うてみたくなる。本当のところは、ま、錯覚なんだけどね、一回くらい躰で感じてみたくないか、と。私の隣りを歩いている若い男に声をかけようとする。彼はさっきから盛んにタンバリンを鳴らしている。腰をくねらせたり片足を宙に跳ね上げたりして踊りながら、タンバリンを叩いている。男の眼がときおり細まり恍惚とした面持ちになる。遠くのスピーカーから「ウィー・シャル・オーバーカム」が聞こえてくる。皆がそれを歌い始める。ご詠歌みたいに聞こえる。私は話しかけるのをやめる。やかましい、と叫びたくなる。寒さと気恥ずかしさが、躰の奥の、あるかなきかの怒りをかき消しそうになる。地面はむろん揺れはしない。揺れるわけもない。たった三千人ほどの行進なのだから。いや、人数なんか少なくてもいい。せめても深い怒りの表現があればいい。それがない。地を踏む足に、もはや抜き差しならなくなった憤りというものがこもっていない。道は当然、揺れっこない。」(「抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか ――閾下のファシズムを撃て」『世界』2004.3)
 
辺見庸「日録25」(2014/07/09)から。
 
要旨
社会はますます暴力化している。暴力はいまや「反暴力」ないしは「非暴力」の表皮をすきまなくまとって、静謐に組織化され社会化された。貧困と格差拡大、社会の階級化は、個々人の能力や無能力によってもたらされているのではない。「非暴力」の表皮をすきまなくまとったもの――すなわち、民主的に組織化され、社会化され、経済システム化された不可視の巨大暴力によって生成され、ささえられている。(略)わたしはどこまでも暴力に反対する。だからこそ、最大の組織的暴力である集団的自衛権に反対しつづける。ただし、集団的自衛権行使容認に反対する明るく楽しい「パレード」が、〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をまとった不可視の巨大暴力を、意図せず承認し、ひっきょう、巨大暴力の一構成要因となっていることについては、もっと思考をめぐらさなければならない。不可視の巨大暴力を可視化する方法とはなにか。〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をベリベリと引っ剥がす端緒とはなんだろうか。(略)不可視の巨大暴力に民主的、合理的に制圧され統御されることに、どこまでもジタバタと身体的に抗い、あがくことだ。そのとき、不可視の巨大暴力=権力は、有り体なすがたを、さらけだすにちがいない。そこにさえこぎつけないで、集団的自衛権反対が0.1パーセントでも実現するわけがない。
 
全文
いうにいえない衝迫がある。デストルドー(destrudo)がもっとも蒼古的な人間衝動かどうか知らない。が、現在の風景はとうてい受けいれがたい。できうることなら、いまはもっと物理的なぶつかりあいがあってもよいのではないか、とおもう。それに身体的に加わることのむつかしくなったわたしには、せめて大がかりなぶつかりあいをみてみたいという、とくに秘匿するにはあたらない欲動がある。それはマチスモとはまったくちがう衝迫である。
 
ラテン語のウィオレンティア(violentia。引用者注:暴力)が女性名詞であることはなにか示唆的だ。わたしは暴力に反対する。どこまでも反対する。暴力は人間存在の基本をおびやかすものであり、あらゆる対立と矛盾は、非暴力的な手段によって創造的に解決されるべきであることには論議の余地がない。
 
しかしながら、そうした方法意識は、実現途上にあるどころか、社会はますます暴力化している。暴力はいまや「反暴力」ないしは「非暴力」の表皮をすきまなくまとって、静謐に組織化され社会化された。貧困と格差拡大、社会の階級化は、個々人の能力や無能力によってもたらされているのではない。「非暴力」の表皮をすきまなくまとったもの――すなわち、民主的に組織化され、社会化され、経済システム化された不可視の巨大暴力によって生成され、ささえられている。
 
この不可視の巨大暴力を可視化する方法――〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をベリベリと剥ぐ契機――がかんがえられてわるいわけがない。暴力に実際的に対抗できるのは同等量以上の暴力だけである、という。暴力を抑えるためには、より強力で組織的な暴力が社会のなかで形成されなければならない、という。
 
わたしはそうはおもわない。わたしはどこまでも暴力に反対する。だからこそ、最大の組織的暴力である集団的自衛権に反対しつづける。ただし、集団的自衛権行使容認に反対する明るく楽しい「パレード」が、〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をまとった不可視の巨大暴力を、意図せず承認し、ひっきょう、巨大暴力の一構成要因となっていることについては、もっと思考をめぐらさなければならない。
 
不可視の巨大暴力を可視化する方法とはなにか。〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をベリベリと引っ剥がす端緒とはなんだろうか。わたしのいうウィオレンティアは、殴ることではなく、おそらく、殴られることだ。他を打擲するのではない。まったく理不尽に打擲されること、殴打されること、わが身体から血が流されることである。不可視の巨大暴力に民主的、合理的に制圧され統御されることに、どこまでもジタバタと身体的に抗い、あがくことだ。そのとき、不可視の巨大暴力=権力は、有り体なすがたを、さらけだすにちがいない。そこにさえこぎつけないで、集団的自衛権反対が0.1パーセントでも実現するわけがない。霧雨のなか、エベレストにのぼった。
日本報道検証機構(GoHoo。マスコミ誤報検証・報道被害救済サイト)が自身のサイトに「『閣議決定で集団安保の武力行使可能』は誤報」(2014年7月2日付)という朝日新聞記事(同月同日付)を〈誤報〉と断定、論難する記事を掲載しています。

「閣議決定で集団安保の武力行使可能」は誤報
(日本報道検証機構(GoHoo) 2014年7月2日)

しかし、私の見るところ、GoHooの記事は森あるいは木の総体の枝葉(One Paragraph)の部分の字句上の違いをあげつらっているだけで、その枝葉の部分の論理が導き出される森あるいは木総体の論理や別の枝葉との論理の関連性(いわゆる文脈)をまったく無視した「木を見て森を見ない」のたとえを地でゆく文字どおり暴論というべきもので、GoHooの記事こそ論難に値する重大な誤りに満ちた〈誤報〉記事になっているというべきでしょう。
 
GoHooの記事は朝日新聞記事(2014年7月2日付)を批判して次のように言います。
 
「安倍内閣が7月1日夕、自衛権の憲法解釈などに関する閣議決定をしたのを受け、朝日新聞は2日付朝刊1面トップで「9条崩す解釈改憲 集団的自衛権 閣議決定 海外での武力行使容認」と見出しをつけて報じた。その中で閣議決定された政府見解について、「日本が武力を使う条件となる『新3要件』を満たせば、個別的、集団的自衛権と集団安全保障の3種類の武力行使が憲法上可能とした」と報じた。しかし、閣議決定には、集団安全保障に基づく武力行使を容認する記述は存在せず、明らかな事実誤認といえる。また、自衛隊が他国軍に後方支援する場所を「非戦闘地域」に限る制約について、同紙は「撤廃」もしくは「線引きをなくす」と報じたが、実際は「現に戦闘行為を行っている現場」以外に限るという新たな制約に変更されたにとどまり、制約の有無について誤解を与える可能性が高い。」(《注意報1》2014/7/2)
 
「朝日新聞の1面記事には閣議決定で集団安全保障に基づく武力行使が容認されたかのような記述がある。しかし、閣議決定は、「国際社会の平和と安定への一層の貢献」という項目で、集団安全保障活動への後方支援について、従来の「武力行使の一体化」と評価されない限度で認めるという枠組みを維持しつつ、活動範囲を広げるための法整備を進めるとしたにとどまっている。また、国際連合平和維持活動(PKO)などの国際的な平和協力活動に伴う武器使用についても、「駆け付け警護」に伴う武器使用や武力の行使を伴わない警察的な活動などを可能とする法整備を進めるとしたにとどまっている。閣議決定に、「集団安全保障に基づく武力の行使」を可能とするような解釈や法整備を可能とする文言はみられない。」(同上)
 
しかし、一例をあげれば、閣議決定の「1 武力攻撃に至らない侵害への対処」の(4)には「我が国の防衛に資する活動に現に従事する米軍部隊に対して攻撃が発生し、それが状況によっては武力攻撃にまで拡大していくような事態において」「自衛隊法第95条によるものと同様の(略)「武器の使用」を自衛隊が行うことができるよう、法整備をすることとする」との記載があります。自衛隊法第95条による「武器の使用」とはいうまでもなく個別的自衛権に基づく「武器の使用」のことを指しています。それを「米軍部隊に対して攻撃が発生」したときに「必要最小限」であっても「『武器の使用』を自衛隊が行うことができるよう、法整備をする」と宣言しているのですから、もはやその「武器の使用」は個別的自衛権に基づくものではなく、集団的自衛権に基づく「武器の使用」といわなければならないものです。それを「閣議決定には、集団安全保障に基づく武力行使を容認する記述は存在せず、明らかな事実誤認」などということはできないでしょう。

もう一点。今回の閣議決定が「集団安全保障に基づく武力行使を容認する」方向に大きく踏み出したことは、水島朝穂さん(早稲田大学教授・憲法学)が「『7.1事件』――閣議決定で『憲法介錯』」(2014年7月7日」という論攷で明確に論証、指摘されていますので、以下、該当部分を抜粋しておきます。
 
現行の安全保障法制には「切れ目」が随所にあり、それにより種々の不都合を生じているという認識のもと、武力行使を含む対応が迅速にとれるようにするため、現行法制にある事前手続きの簡略化をはかるということで、「切れ目のない」状態をつくるということではないだろうか。
 
実際、「切れ目のない」が使われた前後の文章を見ると、タイトルや総論を除けば、「武力攻撃に至らない侵害〔グレーゾン事態〕への対処」の項で2箇所ある。一つは警察・海保との密接な関係をはかる上で、手続きの迅速化と、状況に応じた早期の下令ができるようにするという文脈であり、もう一つは米軍との連携に際して、武器等防護(自衛隊法95条)を「参考にしつつ」法整備をはかるという文脈である。米軍の「武器等」を守るために、自衛隊が武器を使用できる。仰天の発想である。
 
自衛隊法95条は、「自衛隊の武器、弾薬、火薬、船舶、航空機、車両、有線電気通信設備、無線設備又は液体燃料」の警護の際に、その防護に必要な限度内で武器が使用できるという規定である。本来、地上にある弾薬庫や武器庫などが襲われたときの防護を想定している。自ら地球の裏側まで行って、そこで自分の武器(艦艇も含む)を守るために武器が使えるというのは、かなりの拡張解釈である。閣議決定はさらに「米軍の武器」までも守れるように95条の法改正をするという趣旨だろう。武器使用の範囲は際限なく広がっていく。このように、「切れ目のない」法整備とは従来のハードルをことごとく下げたり、外したりすることの言い換えではないだろうか。
 
今回の閣議決定を読んで改めて問題と感じた点をさらに挙げると、従来の政府解釈の「武力の行使と一体化」論を前提にすると言いながら、その実質的な放棄が行われていることである。これまでの解釈では「後方地域」にせよ「非戦闘地域」にせよ、地理的概念ではないことは強調されてはいた。しかし、今回それすら、「自衛隊が活動する範囲をおよそ一体化の問題が生じない地域に一律に区切る枠組みではなく…」として相対化し、その上で、「現に戦闘行為を行っている現場」のみを外して、活動範囲を一気に拡大した。従来は、「現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる一定の地域」というのが「非戦闘地域」の定義だった(旧イラク特措法2条3項)。今回、それを、数時間前まで戦闘が行われ、死体がゴロゴロ転がっている地域でも、「現に」戦闘が行われていなければ活動できることになる。米軍の戦闘部隊に随伴して行動することが可能となる。「武力の行使の一体化」論は「歯止め」としての賞味期限を終えたことになる。
 
集団的自衛権の行使の問題と言いながら、閣議決定では「駆け付け警護」に伴う武器使用、「任務遂行のための武器使用」、邦人救出のための武器使用など、これまで日本が抑制してきた軍事的機能を解き放とうとしている。その意味では、従来のハードルを次々と撤去していく「切れ目のない」法制化が狙われている。「切れ目のない」とは、「歯止めのない」と同義語なのである。
 
この閣議決定のコアは、「新3要件」なるものを、内閣の全員一致の意思としてオーソライズしたことにある。「新3要件」は自衛権の3要件の実質的な否定の上にたっている。「我が国に対する急迫不正の侵害(武力攻撃)」がないのに、「我が国と密接な関係にある他国」に対するものまで「我が国」と同じ扱いで「自衛の措置」が憲法上認められるとするのは、従来の政府解釈が自衛力合憲論の決定的理由としてきた「自衛のための必要最小限の実力」という根幹部分を否定することと同義である。「自衛」は「他衛」であると強弁することで、「新3要件」は政府の自衛隊合憲解釈を「根底から覆して」しまったのである。閣議決定の最後の一文が、新3要件が「憲法の規範性を何ら変更するものではなく…」としているのは、「戦争は平和である」(ジョージ・オーウェル1984』)と同じようなダブルスピークに聞こえる。 
 
日本報道検証機構(GoHoo)が自らを「マスコミ誤報検証・報道被害救済サイト」と自負するのであれば、「日本報道検証機構」という言葉にふさわしく自らの記事の方こそ〈誤報〉であることをいますぐ、潔く、真摯に認めるべきでしょう。安倍政権の集団的自衛権容認閣議決定問題は、日本という国が「時の政権が憲法を都合よく解釈できる国」(朝日新聞2014年7月1日社説)に真に変質してしまったのかどうか。私たちの国のジャーナリズムと国民はいままさに匕首を喉もとに突きつけられて問われている。その歴史の瞬間に立ち会わされているのです。
今日7月7日は77年前に盧溝橋事件が起こった日。

辺見庸「日録24」(2014/07/07)から。
 
要旨
1937(昭和12)年7月7日夜半、北京郊外の盧溝橋近くで、日本の「支那駐屯軍」部隊が夜間演習をはじめ、その最中に、数発の射撃音があり、(略)これは中国軍の「奇襲作戦」にちがいないと断定した牟田口連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃した。(略)
 
9月には天皇ヒロヒトが「中華民国深く帝国の真意を解せず濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事変を見るに至る」と中国側に戦争責任を押しつけ、明かな侵略行為を「中華民国の反省を促し速に東亜の平和を確立」するため……などと、正当だと強弁した。これをうたがったリーベンレン(引用者注:日本人)はほぼ皆無。それでもヒロヒトは戦犯にもならず、「人道に対する罪」にも問われなかったのだから、リ-ベンてのはものすごいクニなのだ。「暴支膺懲」を口実にした侵略と殺戮は、昭和天皇のお墨付きをえて勢いづく。戦線はひろがる一方だった。他国の軍事占領は是か非か、人道上よいかわるいか、国際的準則にもとずいているか……など、かえりみられたふしはない。
 
12月にはついに南京を「攻略」。このときである、南京大虐殺がおきたのは。せいかくな数はわからない。だが、どんなに少なくても、数百、数千なんていう人数ではない。最低でも数万人が殺された。(略)日本軍が中国の都市を占領するたびに、日本では提灯行列をし、万歳三唱をして祝った。12月13日の南京陥落のときは、とくに日本中が大パレードでわきたった。大フィーバー。東京の「奉祝」提灯行列には40万人が参加し、「日本勝った、日本勝った、また勝った、シナのチャンコロまた負けた!」などととはやしたてた。中国人なんてだれもいわなかった。かりに南京大虐殺の事実が報じられていたとしても、提灯行列のもりあがりは、なにも変わらなかっただろうな。軍は中国各地に際限なく戦線を拡大して、「連戦連勝」に酔いしれ、宣戦布告のないまま、全面戦争に発展していった。それに異をとなえる者は、なきにひとしかったのだから、massacre(引用者注:大虐殺)は「戦勝」とほとんど同義であったはずだ。(略)
 
盧溝橋事件なんてもうだれも知らない。日中戦争でどれだけひとが殺されたか知らない。先生も知らない。先生が知らないのだから、生徒がわかるわけもない。南京大虐殺もなかったことにされる。けふは七夕。盧溝橋事件の数日前、現地駐屯日本軍将兵のあいだには、「七夕の日になにかかがおこる」という噂が流れていたという。
 
全文
冬、月の夜、盧溝橋の欄干に手で触ってみたことがある。あれは大理石だったか、えぐられた弾痕を指でなぞったら、指が凹みにはりつき、皮膚が剥がれそうなほど冷たかった。永定河のことは憶えていない。ひとりで車を運転し、なんどか行ってみた。橋のたもとで、兵士に誰何されたこともあった。怖かったな。
 
1937(昭和12)年7月7日夜半、北京郊外の盧溝橋近くで、日本の「支那駐屯軍」部隊が夜間演習をはじめ、その最中に、数発の射撃音があり、点呼したら日本軍兵士1人が足りなかったという。その兵士は腹痛で草むらにかけこんでいただけだったのだが、これは中国軍の「奇襲作戦」にちがいないと断定した牟田口連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃した。わたしは学校でそう習った。関東軍がみずから満鉄の線路を爆破した1931年の柳条湖事件もそうだが、日中戦争はリーベン(引用者注:日本)の謀略だらけだ。さて、37年7月9日に停戦交渉がおこなわれ、11日には両軍間で停戦協定が調印されて事態は収拾されたかにみえたのだが、日本政府はただちに「華北派兵に関する声明」を布告。「満州国」に駐屯していた関東軍などが次々に侵攻し、北京・天津地方を占領。8月には第1次近衛内閣が「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとる」と宣言、約10万の大部隊の華北派兵を決定して、上海方面にも戦線を拡大する。やりたいほうだいである。
 
9月には天皇ヒロヒトが「中華民国深く帝国の真意を解せず濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事変を見るに至る」と中国側に戦争責任を押しつけ、明かな侵略行為を「中華民国の反省を促し速に東亜の平和を確立」するため……などと、正当だと強弁した。これをうたがったリーベンレン(引用者注:日本人)はほぼ皆無。それでもヒロヒトは戦犯にもならず、「人道に対する罪」にも問われなかったのだから、リ-ベンてのはものすごいクニなのだ。「暴支膺懲」を口実にした侵略と殺戮は、昭和天皇のお墨付きをえて勢いづく。戦線はひろがる一方だった。他国の軍事占領は是か非か、人道上よいかわるいか、国際的準則にもとずいているか……など、かえりみられたふしはない。
 
12月にはついに南京を「攻略」。このときである、南京大虐殺がおきたのは。せいかくな数はわからない。だが、どんなに少なくても、数百、数千なんていう人数ではない。最低でも数万人が殺された。
大虐殺記念館ができるというニュースをわたしは、20世紀後半に、リーベンに送った。南京で取材した。ほっつきあるいた。足が棒になったな。汗をいっぱいかいたな。日本軍が中国の都市を占領するたびに、日本では提灯行列をし、万歳三唱をして祝った。12月13日の南京陥落のときは、とくに日本中が大パレードでわきたった。大フィーバー。東京の「奉祝」提灯行列には40万人が参加し、「日本勝った、日本勝った、また勝った、シナのチャンコロまた負けた!」などととはやしたてた。中国人なんてだれもいわなかった。かりに南京大虐殺の事実が報じられていたとしても、提灯行列のもりあがりは、なにも変わらなかっただろうな。軍は中国各地に際限なく戦線を拡大して、「連戦連勝」に酔いしれ、宣戦布告のないまま、全面戦争に発展していった。それに異をとなえる者は、なきにひとしかったのだから、massacre(引用者注:大虐殺)は「戦勝」とほとんど同義であったはずだ。
 
吉本隆明が「戦争中の気分」について語ったことがある。こちらは太平洋戦争時らしいが、「社会全体が高揚していて、明るかった」そうなのだ。「戦争中は世の中は暗かった」というのは戦後左翼や戦後民主主義者の大ウソ、戦争中は、世の中がスッキリしているというか、ものすごく明るいんです……云々と話している。それはそうだったかもしれぬが、吉本さん、どうもおかしい。「かわいさあまって憎さが百倍」がもっとねじれ、高じて、戦後左翼や戦後民主主義者は、戦争発動者より、ヒロヒトよりもっとわるい、てな舌鋒になっていく。歴史はボロボロである。
 
盧溝橋事件なんてもうだれも知らない。日中戦争でどれだけひとが殺されたか知らない。先生も知らない。先生が知らないのだから、生徒がわかるわけもない。南京大虐殺もなかったことにされる。けふは七夕。盧溝橋事件の数日前、現地駐屯日本軍将兵のあいだには、「七夕の日になにかかがおこる」という噂が流れていたという。エベレストにのぼらなかった。
辺見庸「日録24」2014/07/07
今日の言葉 ――白井聡神保哲生宮台真司鼎論。白井聡氏の発言から。
 
要約:
白井聡氏は、現在の日本の閉塞状態を「敗戦レジーム」なるものに永続的に隷属することから起きているものだと説く。「敗戦レジーム」とは、総力戦に敗れた日本は本来であればドイツと同様に、それまでの国家体制は政治も経済も社会もすべて木っ端微塵にされ、既得権益など何一つ残っていないない状態からの再スタートを余儀なくされなければならなかったはずだった。しかし、日本を占領統治したアメリカは対ソ連の冷戦シフトを優先するために、あえて天皇制を含む日本の旧国家体制の温存を図ったために、A級戦犯などほんの一部の例外を除き、日本を絶望の淵に追いやる戦争に導いた各界の指導者たちが、平然と戦後の日本の要職に復帰することが許されてしまった。(略)そして、その旧レジームの担い手たちに対する唯一絶対の条件が、アメリカの意向に逆らわないということになるのは、当然のことだった。(略)「敗戦レジーム」はある時期、空前の経済的繁栄をもたらした。アメリカにとって日本を経済的に富ませることが、日本の共産化を防ぐ最善の手段だったこともあるが、日本人の多くが、実は戦後レジームの矛盾に薄々気づきながら、経済的な豊かさと引き替えに、それを見て見ぬふりすることを覚えてしまった。しかし、冷戦が終わり、「敗戦レジーム」が前提としてきた外部環境は既に根底から崩れている。(略)しかし、日本では「敗戦レジーム」の担い手たちが依然として大手を振って歩き、「敗戦レジーム」の行動原理から抜けることができそうにない。(略)「敗戦レジーム」を続ける限り、日本に未来はない。
 
全文
戦後レジームからもっとも脱却できていないのは安倍総理、
あなた自身です

(ビデオニュース・ドットコム 神保哲生/宮台真司 2014年07月05日)
 
ゲスト:白井聡氏(文化学園大学助教)
 
やっぱり安倍さん自身が戦後レジームから抜けられてなかった。
 
安倍政権によって行われた集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈の変更は、通常2つの理由で強い批判にさらされている。
 
それはまず、そもそも今そのようなことを行わなければならない切迫した必要性も正当性もない中で、単に安倍晋三首相個人の情念や思い入れに引きずられてこのような大それた事が行われているのではないかという、「反知性主義」としての批判が一つ。そして、もう一つが、平和憲法として世界に知られる日本国憲法の要諦でもある憲法第9条の解釈の変更は事実上の憲法改正に相当することは明白で、それを私的な有識者懇談会に提言させ、友党公明党との「ぎりぎりの交渉」なる茶番劇の末に閣議決定だけで強行してしまうことは、明らかに憲法を蔑ろにすると同時に民主プロセスを破壊する行為であり、立憲主義に反するのではないかという批判だ。
 
それらの批判はいずれも正鵠を得ていて重要なものだ。しかし、それとは別の次元であまり指摘されていないより重要な点がもう一つあるように思えてならない。それは戦後レジームからの脱却を掲げていたはずの総理にとって、このような行動が正当化できているのかということだ。
 
戦後レジームからの脱却という場合の戦後レジームとは、恐らくこんな意味だろう。総力戦に負けた日本はアメリカ軍による国土占領の屈辱を受け、武力行使を放棄する条文を含む屈辱的な憲法までのまされた上に、日米安保条約なるもので未来永劫アメリカの属国として生きていく道を強いられた。また、特に近年になって、社会制度面からもアメリカ的な制度を押しつけられ、日本の伝統的な社会制度が崩壊の淵にある。
 
となると、そこから脱却するために次に来るフレーズは明らかなはずだ。今こそ日本はそのような戦後レジームから脱却し、自らの意思で独自の憲法を制定し、日米安保条約を破棄しアメリカへの軍事力への依存を減らすとともに、アメリカと対立・緊張関係にあるロシアや中国と友好的な関係を樹立し、アメリカ一辺倒の偏った外交からより均衡の取れた外交へとシフトしなければならない。(また戦後のアメリカ主導の世界秩序を代表するブレトン・ウッズ体制、すなわちGATTやIMF・世銀、そしてWTOに代表される自由貿易体制からの脱却云々にまでここで触れるのはあえてやめておこう。何と言っても日本がその体制の最大の受益者だったのだから。)
 
ところが、今回行われた解釈改憲はどうだ。首相が自ら指さしながら示したポンチ絵には、日本人を救助したアメリカの艦船が描かれている。どこかの国で有事が起き、避難する日本人を乗せた米軍の艦船が攻撃された時、それを守ることができるようにするためには、集団的自衛権の行使が必要だと安倍首相は繰り返し強調する。
 
集団的自衛権というのは自国が攻撃された時に反撃する権利を意味する個別的自衛権に対し、自国が攻撃されていない場合でも武力を行使する権利のことを意味する言葉だが、そこでいう他国がアメリカのことを念頭に置いていることは明らかだ。とすると、今回の解釈改憲というのは、早い話が今よりももっとアメリカに貢献するために日本は憲法まで変えようとしていることを、首相が率先して喧伝していることになる。しかもそれを、首相があれだけこだわりを見せ、自民党が党是にまで謳っている憲法改正という正攻法ではなく、まるで裏口入学でもするかのような憲法解釈の変更の閣議決定という姑息な手段によって実現するのだという。そこに見えてくるのは、アメリカを助けるためには憲法を蔑ろにすることも裏口を使うことも何でもできてしまう日本の無様な姿以外の何ものでもないのではないか。これが安倍総理が「戦後レジームからの脱却」と大見得を切ったものの正体だったのか。
 
『永続敗戦論』の著者で、戦後の対米従属問題や政治思想に詳しい文化学園大学助教の白井聡氏は、現在の日本の閉塞状態を「敗戦レジーム」なるものに永続的に隷属することから起きているものだと説く。「敗戦レジーム」とは、総力戦に敗れた日本は本来であればドイツと同様に、それまでの国家体制は政治も経済も社会もすべて木っ端微塵にされ、既得権益など何一つ残っていないない状態からの再スタートを余儀なくされなければならなかったはずだった。しかし、日本を占領統治したアメリカは対ソ連の冷戦シフトを優先するために、あえて天皇制を含む日本の旧国家体制の温存を図ったために、A級戦犯などほんの一部の例外を除き、日本を絶望の淵に追いやる戦争に導いた各界の指導者たちが、平然と戦後の日本の要職に復帰することが許されてしまった。そして、それもこれもすべてアメリカの意向、アメリカの都合だった。そして、その旧レジームの担い手たちに対する唯一絶対の条件が、アメリカの意向に逆らわないということになるのは、当然のことだった。
 
今日本を動かしている指導層の大半は、その時に「敗戦レジーム」を受け入れることで権力を手に入にした人たちの子や孫たちである。自民党に至っては、議員の4割以上が、そして先の総裁選挙の全候補者が2世、3世議員だったが、それは決して偶然の現象ではない。また、今回の集団的自衛権の解釈改憲を主導した外務省も外交官2世3世が多いことで知られる。彼らは実益面もさることながら、彼ら自身のメンタリティや行動原理の深淵に最初から「敗戦レジーム」が埋め込まれており、自分たちにとってもっとも合理的に行動することが、「敗戦レジーム」を強化するにつながるが、無論彼ら自身にそのような自覚はない。
 
白井氏は続ける。この「敗戦レジーム」を永続させるシステムが残る限り、日本は本当の意味での独立を勝ち取ることはできないし、真に日本のことを思う政治家が現れたとしても、多勢に無勢の状態では敗戦レジームの担い手たちによって足を引っ張られ、失脚させられることが目に見えている。それは、そういう政治家こそが、敗戦レジームの担い手たちにとっては最も大きな脅威となるからだ。
 
幸か不幸か「敗戦レジーム」はある時期、空前の経済的繁栄をもたらした。アメリカにとって日本を経済的に富ませることが、日本の共産化を防ぐ最善の手段だったこともあるが、日本人の多くが、実は戦後レジームの矛盾に薄々気づきながら、経済的は豊かさと引き替えに、それを見て見ぬふりことを覚えてしまった。しかし、冷戦が終わり、「敗戦レジーム」が前提としてきた外部環境は既に根底から崩れている。アメリカは自らの国益をむき出しにして日本と対峙するようになったばかりか、今や軍事同盟関係にある日本よりも、その日本と緊張関係にある中国を重視し始めているようにさえみえる。しかし、日本では「敗戦レジーム」の担い手たちが依然として大手を振って歩き、「敗戦レジーム」の行動原理から抜けることができそうにない。
 
今問われていることは、われわれはこれから先も問題から目を背け、「敗戦レジーム」を継続するのか。問題を正視するということは、今あらためて日本が総力戦に敗れたという事実と向き合い、それを認めた上で、アメリカから属国扱いされることと引き替えに、免罪されてきた他国との様々な懸案に自主的に取り組んでいくことが求められる。敗戦レジームに慣れきってしまったわれわれ日本人にとって、恐らくそれは辛く痛みの伴う行為になるだろう。しかし、「敗戦レジーム」を続ける限り、日本に未来はない。
 
「敗戦レジーム」のもう一つの特徴は、誰も責任を取らない体制だ。そしてそれは政治家に限らず、われわれ市民の側についても言えることだ。われわれの多くが、国や自治体や共同体の意思決定に一切参加もせずに、一部の人間に汚れ仕事を押しつけておきながら、何か問題があると文句を垂れるという態度を取ってきた。悪弊を変えることは容易ではないが、少なくとも手の届くところから意思決定に参加することが、変化への第一歩となる可能性を秘めているのではないか。
「敗戦レジーム」脱却のための処方箋をゲストの白井聡氏とともに、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。
(文:神保哲生)
先のエントリで三重県松阪市の山中光茂市長が集団的自衛権行使違憲確認訴訟を提起した問題について若干の異議を述べましたが、そのついでにということでもあります。 集団的自衛権容認の閣議決定に反対する演説をした後に自殺を図ったとされる焼身自殺未遂事件の一件についてもひとこと私の異見を述べておきたいと思います。
 
一部の人たち(私は率直なところ「軽薄な人たち」と呼びたいのですが)は集団的自衛権行使容認が閣議決定された日の2日前の6月29日に新宿の歩道橋で焼身自殺を図ったある初老の男性についても、集団的自衛権行使容認の閣議決定に抗議するために焼身自殺を図ったと一義的に断定し、死をもって抗議を表明しようとしたプロテスタントとして英雄視します。
 
しかし、実のところ、自殺未遂の直前に集団的自衛権に反対する演説をしたとされるその男性の演説の中身についてはよくわかっていません。メディアの記事は私が見る限りすべて「・・・・という」と伝聞調の記事になっていて、実際の事実関係は不明。客観的な報道とは言い難いものがあります。法政大学名誉教授の五十嵐仁さんはその中でも比較的丹念にメディアの報道を拾って「火を付ける前、この男性は(略)『70年間平和だった』『戦争しない』『政教分離』などと話し、『君死にたもうことなかれ」と与謝野晶子の詩の一節を口にした後、火を付けたそうです」(「五十嵐仁の転生仁語」2014年6月30日)と書かれていますが、五十嵐さんの紹介される自殺未遂者の「話し」を反芻してみても、ほんとうに男性の「話し」が集団的自衛権に反対する演説だったのかどうかはよくわかりません。「政教分離」という言葉が発せられているところをみると、もしかしたら創価学会、公明党批判が主眼だったのかもしれない、とも読みとれないこともありません。ともあれ、一義的に「演説」の内容が「集団的自衛権に反対する演説」だったと決めつけることはできないでしょう。理由のわからない自殺未遂の原因を「単一のストーリー」として描くことはWHOが2008年にまとめた自殺に関する報道のありかたを提示したガイドラインにおいても厳しく戒められているものです。
 
また、THE NEW CLASSIC編集長のKEN ISHIDA氏も「男性が自殺に至った経緯などが不明瞭なままで、報道が先走ることこそが危険である」と警鐘を鳴らしています(THE NEW CLASSIC 2014年6月30日)。また、左記の記事では、「自殺がメディアなどで報じられることで模倣を呼ぶこと」の危険性(ウェルテル効果)も指摘されていますが、日本でも1986年にアイドル歌手の岡田有希子が18歳で自殺すると30余名の青少年の模倣自殺が相次いだという事件がありました。傾聴に値する指摘だと思います。
 
この件についてNHKがまったく報道しなかったことについて批判がありますが、NHK新会長の籾井氏が会長就任時に「放送では政府批判をしてはならない」旨述べた点との関連のみをクローズアップしてNHK批判をするのは(もちろん、籾井氏批判及びNHKのときの権力におもねたジャーナリズムとしての主体性を欠如した政治報道のありかた自体は大いに批判しなければならないし、また、批判に値するというべきですが)自殺報道のありかたの本質に目を背けることになりはしないか、と私は危惧するものです。この際、その私の危惧も表明しておきます。
 
最後に以下に掲げる文章は私は何度も引用しているものですが、「社会は人の死をどんな形でも利用してはいけない」という池澤夏樹の言葉を共感をもって再度引用しておきたいと思います。ここで話題になっている「人の死」は直接的には1960年の安保闘争で死亡した樺美智子の死を指しています。
 
池澤夏樹 夏のかたみに10「亡き伯母との会話」(要旨):

「死んだ人はもう死んでいるわけだから、後から出てきて弁明もできない。死んだ者の気持ちはわからない。それなら、社会は人の死をどんな形でも利用してはいけないでしょう。もともと人は決して大義のために死ぬわけじゃなくて、それぞれにひっそりと小さな個人の死を死ぬのよ。そこに生者の勝手な都合を上乗せしてはいけない。誰かの死をテコにして、社会を変えようとしてはいけない。死の瞬間だけでその人の人生を意味づけるようなこともやっぱりいけない。共感をもってその人の生を見なおすことしか、残った者にはできないし、それで充分なんじゃないかな。」(朝日新聞文化欄 1993.8.18)
 
池澤夏樹 夏のかたみに10「亡き伯母との会話」(全文):
 
かつて、伯母が一人いた。大正半ばの生まれ。戦前、現在のお茶の水女子大で数学を学び、一度卒業してからもう一度北大に学士入学して、植物学を勉強しなおした。そのまま大学に留まって、生涯の大半を生化学の研究者として過ごした。チェコスロバキアに一年間留学、仲間たちとよく山に行き、甥(おい)にはたくさん本を買ってくれた。
 
ずっと独身だったが、淋しいようには見えなかった。定年を待たずに退職し、海辺に小さな家を買って、温室でハイビスカスを育てたり、草木染をやってみたり、優雅に遊んで暮らした。いささか頑迷な面もあって、周囲の者を時おりあきれさせたが、よく考えてみれば言うことは一々筋が通っていた。隠居してから数年で病を得て、長く患うことなく死んだ。享年六十四歳はいわゆる平均寿命をずいぶん下回るが、それは一つの人生を評価する上でさほど重要なことではない。
 
最近、この死んだ伯母と話すことが多い。生きているうちに話したいことはたくさんあったが、ぐずぐずしているうちに伯母はあちら側へ転居してしまった。今ならば対等に話もできるし、聞きたいこともある。こちらが書いた物の感想も聞きたい。そういう気持ちでいると、たとえ死者とでも話はできるものだ。このところ死についてよく話す。なにしろ一度死んでいるのだから、この話題で議論になると伯母の方がずっと有利だ。
 
振り返ってみて、どういう人生だった、と聞いてみる。
 
「人と比較して差ばかりをあげつらえばともかく、素直な目で見れば、そう悪くなかったんじゃない」と彼女は言う。「好きな研究をずっと続けられたのが一番よかった。独り者だったけれど、あんたたちの成長は見ていた。大学という旧弊な場で女であることは大きなハンディキャップだったといっても、その不満だけを抱えて生きるほど料簡が狭くはなかったしね。生化学がどんどん発達して、生命観が速やかに変わった時期に、それを研究者として間近で見ているのはおもしろかったわよ」
 
時代については?
 
「若い時はともかく、社会人になってからは戦争がなかったから。戦争中の生活の不自由や、非常時のあの落ち着かない雰囲気も嫌だけど、国が個人に死を強制して、しかもその死に特別の意味を上乗せするのが戦争というものの一番嫌な面でしょ。そういうことが四十年以上なかったんだから、その点ではよい時代だったと思う。死刑を別にすれば、国は国民を死なせはしなかった」
 
じゃ、死と国家はいかなる意味でも無縁なわけ?
 
「そう、死んでみると、人にとって死とは何か、よくわかるのよ。生物学的な死生観で言えば、死とはかぎりなく個人的なことなのね。その個体にとってだけ意味があること。生れたこと自体が祝福だって、生物はみんな知っている。この世に一日生きることは一日の幸福、十年生きることは十年の幸福。人間だってそれがわかっていれば、他人との比較で自分の人生を評価しないで済む。はるか昔、人間は自然に背を向けて生きることに決めて、人生を構成する要素の大半を文化で置き換えた。だけど、生まれることと死ぬことだけはどうしても自然に任せるほかない。だから、死も幸福」
 
普通はそこまで達観できないと思うけど。
 
「生命それ自体が虚無の海に浮かぶ奇跡の島でしょ。朝、目を覚まして、日の光を目蓋(まぶた)の裏に感じとること、枝を揺する風の音を聞き取ること、それだけで生はもう充足している。そういう目で死を見れば、すべての死は、状況がどうでも、いくつで死ぬんでも、後にどんな影響を残すんでも、一つの成就だってことがわかる。人はついつい死を中断だと思いたがるけれど、でもどんなに唐突にやってくる死だって生を中断するわけじゃない。すべて死は生の完成だと思えばいいのよ。
 
私は個人として生きて、個人として死んだ。これは大事なことだった。社会生活は人間にとって大事なものだけど、でも社会が立ち入るべきでない部分も人生には少なくないんだから」
 
なるほどね。でも、社会が死に意味を与えることもあるでしょ。個人の死に社会が意味を乗せてしまうことは少なくなかったよ。米兵に撃ち殺された農婦の死や、警察官によって殺されたデモの参加者の死は、どうしても一人の死という以上の意味を持ってしまう。いわば死よりも葬儀の方が大きい。
 
「そう(と、死んだ伯母は言うのだ)、残された人の立場は死んだ当人とはまた違うから。自然の災害で死ぬんならばまだ納得するけれど、他の人間の悪意や過失による死は、残された者としては受け入れにくいかもしれない社会が死を大きく仕立てなおしてしまう。自分の死に過剰な意味を乗せた上で自殺する人さえいる。それでも、死の意味は死んだ当人の中にとどまるんじゃない? 遺族といえどもそれを肩代わりするはできない。それが死の救いってものなんだけど」
 
それじゃ、残された者はどうすればいいわけ?
 
「死んだ人はもう死んでいるわけだから、後から出てきて弁明もできない。死んだ者の気持ちはわからない。それなら、社会は人の死をどんな形でも利用してはいけないでしょう。もともと人は決して大儀のために死ぬわけじゃなくて、それぞれにひっそりと小さな個人の死を死ぬのよ。そこに生者の勝手な都合を上乗せしてはいけない。誰かの死をテコにして、社会を変えようとしてはいけない。死の瞬間だけでその人の人生を意味づけるようなこともやっぱりいけない。共感をもってその人の生を見なおすことしか、残った者にはできないし、それで充分なんじゃないかな」
 
こういう問題を残して、伯母はまた向こう側の世界に帰ってゆく。ぼく自身について言えば、達観はまだ遥(はる)かに遠い。
 
いけざわ・なつき
1945年北海道生まれ。埼玉大理工学部中退。『スティルライフ』で第98回芥川賞受賞。『真昼のプリニウス』『タマリンドの木』などのほか、最新作に『マシアス・ギリの失脚』。小説のほか書評集やエッセー集も多い。(朝日新聞文化欄 1993.8.18)
三重県松阪市の山中光茂市長が「集団的自衛権は憲法侵す」として国を被告とする違憲確認と損害賠償を求める国家賠償訴訟を起こすことを決断したという報道があります。
 
「集団的自衛権の行使を認めた1日の閣議決定は、憲法が保障する国民の平和的生存権を侵すとして、三重県松阪市の山中光茂市長(38)が2日、違憲確認と損害賠償を求める国家賠償訴訟を起こすことを明らかにした。山中市長は本紙の取材に「愚かな為政者の暴走で平和国家の原点が覆された。暴走を止めるため国民の声を結集したい」と述べ、全国から広く原告を募る考えを示した。平和的生存権は、憲法前文、九条(戦争の放棄)、一三条(幸福追求権)を根拠にする。山中市長は「戦争への道が開け、市民の生命や財産、当たり前の幸せが侵害される具体的な危険が生じた」と主張。提訴の時期や訴額は未定で、フェイスブックで賛同者を募るほか、全国市長会でも呼び掛ける。特定のグループや政党に属さない集団で提訴を目指すという。」(「『集団的自衛権は憲法侵す』 松阪市長、国提訴へ」中日新聞 2014年7月3日)
 
そして、この山中松坂市長の「決断」を「英断」と無条件に肯定して上記の報道を拡散する自称「リベラル」、実質は軽薄な一部の人たちがいます。以下は、その行為を私はなにゆえに「軽薄」というのか。私なりの根拠と理由を述べたものです。こうした「軽薄」な現象については市民運動を立ち上げようとするときにしばしば見出される現象です。「軽薄」な現象を「軽薄」なままに放置しておくといつのまにかその「軽薄」さが市民運動全体に蔓延してしまうということがこれもしばしば見出されます(否定される人もおられるでしょうが、率直なところ、いまの「脱原発」運動にその形骸(むくろ)の跡を私は見ます)。下記の私の文章にはそうした反省と批判がこめられています。

◇ ◇ ◇ 

三重県松阪市の山中光茂市長が集団的自衛権容認閣議決定違憲確認訴訟を起こす考えを明らかにしたということですが、すでにもうおひとかたからの指摘にもあるように現行の「日本の裁判制度では、違憲確認訴訟は極めて困難です」。
 
違憲(無効)確認訴訟については、1950年に日本社会党を代表して当時の鈴木茂三郎委員長が警察予備隊設置に関する一切の行為の無効確認を求めて最高裁判所に訴えを起こした例がありますが、最高裁は昭和27年10月8日大法廷の全員一致の判決で警察予備隊の違憲性については一切触れることなく、訴えそのものを不適法として却下しました。その却下の理由は、「日本の裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予想して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下す権限はない」というものでした(wikipedia『警察予備隊違憲訴訟』)。
 
この点についてウィキペディアの解説は次のように述べています。
 
「憲法81条はアメリカ型の付随的違憲審査制を採っていると解するのが通説である。裁判所は具体的争訟の解決に付随してのみ違憲審査をすることができることになる。日本国憲法の違憲審査制は制定過程の経過をみてもアメリカの制度の流れをくむものであると考えられ、また、「第6章 司法」の章に違憲審査権について定める憲法81条の規定を置いており、この「司法」とは伝統的に具体的事件に法令を適用して紛争を解決する作用を指すからである。」(wikipedia『違憲審査制』)。
 
違憲(無効)確認訴訟に関する最高裁大法廷の昭和27年10月8日判決はいまも通説として踏襲されており、具体的争訟を提起することなく違憲確認訴訟を起こしても、訴えそのものが不適法として現行の日本の裁判制度下では門前払いの判決を受けることは確実です。
 
問題はそれでも違憲確認訴訟を提起することに意義があるかどうかです。そこで第一に考えなければならないことは、集団的自衛権の憲法上の違憲性を問うはじめての裁判は、敗訴確実の裁判よりも、勝訴の可能性及び勝訴を追求しうる裁判闘争として闘うべきであろうということです。集団的自衛権の憲法上の違憲性を問うはじめての裁判で敗訴必至の裁判を闘う積極的な理由を私は見出すことはできません。形式的な門前払いの敗訴であってもその敗訴を敵側(ズル賢さにおいては優秀な安倍政権)が狡猾に利用しないということはまず考えられません。集団的自衛権の憲法上の違憲性を問うはじめての裁判はあくまでも勝訴をめざす裁判闘争でなければならない。次の国政選挙という政治日程も射程に入れておく必要もあるだろう、と私は思います。
 
第二に私はこの集団的自衛権行使の違憲確認訴訟を起こそうとしている三重県松坂市の山中光茂市長という人はなにものか、ということも考えます。ウィキペディアによれば山中市長は慶大法学部法律学科を卒業しているようですから、現行の日本の裁判制度の下では具体的争訟の提起をともなわない違憲確認訴訟は不適法として却下される可能性大であることについては当然の法律知識として知悉しているものと思われます。
 
にもかかわらずなにゆえにいま違憲確認訴訟を起こそうとしているのか。端的に言って私は人気取りだろうと思います。やはりウィキペディアによれば山中氏は政府と財界公認のネオリベラリストの中核的な供出母体になっている感のある松下政経塾の出身者であり、同塾終了後は民主党議員の秘書などをつとめ、前回の松阪市長選挙ではみんなの党の渡辺喜美の支援を受けて当選しているようです。こうした経歴から見る限り彼が根っから集団的自衛権行使に反対する主張の持ち主だとは判断しがたいものがあります。みんなの党の渡辺喜美は同党の前回党大会の折に集団的自衛権の行使容認について、「憲法解釈を変えれば、自衛隊法などを部分的に直すだけでいい。非常に合理性がある」(The New Classic 2014年2月24日付)と高言した人であり、その妄言の人を支持し、その妄言の人の支援を仰ぐ人物が集団的自衛権行使違憲確認訴訟を提起するというのですからその真意を疑うのは当然というべきでしょう。少なくとも私はその真意を疑います。
 
以上、この件に関する私の若干の感想です。山中松阪市長の「決断」を「英断」のように言う行為は端的に言ってミスリードだと私は思っています。
NHKの受信料支払いの凍結を呼びかけるなど先進的な市民運動のオーガナイザーとしても活躍されている醍醐聰さん(東大名誉教授)が「クローズアップ現代』がおかしい」という記事を書いて、「集団的自衛権」問題に関するNHKの不作為の報道姿勢のあり方を批判しています。
 
クローズアップ現代」がおかしい(醍醐聰のブログ 2014年7月3日)
 
醍醐さんの問題提起はNHK批判にとどまらず、「総体としてのNHKの報道番組を評価するにあたって欠かせない視点」の問題を提起してNHK視聴者の同局報道番組の評価姿勢のありかたをも問うものになっています。その醍醐さんの問題提起は、さらに新聞、雑誌メディアを含むメディア総体に対する読者、視聴者の評価姿勢のありかたの問題としても敷衍できるものでしょう。大切な視点だと思います。
 
以下、醍醐聰さんの上記記事の要約です。全文は同氏のブログを開いてお読みください。
 
要約
籾井氏がNHK会長に就任して以降、政府が行う特定秘密の指定や解除が適切かどうかをチェックするために国会に常設される「情報監視審査会」の権限、実効性を定める改正国会法が成立したのは、この6月20日。この間の国会審議は籾井氏がNHK会長に就任して以降である。ところが、NHKスペシャルクローズアップ現代はこの改正国会法についても、取り上げたことは皆無だった。(略)もちろん、この時期に「クローズアップ現代」が放送した番組の中には、NHKの取材力、企画力を存分に発揮した貴重な番組も少なくなかった。例えば、4月16日に放送された「イラク派遣 10年の真実(略)また、5月21日(水)に放送された「戸籍のない子どもたち(略)
 
しかし、この時期、「クローズアップ現代」が沈黙を続けたのは特定秘密保護法だけではなかった。7月1日のニュース7で、「戦後日本の安全保障政策の大転換」と表現した集団的自衛権の行使を安倍政権が閣議決定で容認しようとした今年の前半(1~6月期)に「クローズアップ現代」は一度もこの問題を取り上げなかった。このこと自体、異常といってよい。(略)その一方で、「なぜこのテーマを今?」と、首をかしげたくなる番組もあった。例えば、6月23日には、「四国遍路1400キロ 増える若者たち」が放送された。(略)また、政府が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした翌7月2日に、「クローズアップ現代」が「“野球女子” 私が球場に行く理由」と題する番組を放送したのには唖然とした。(略)
 
なぜこの日なのか? なぜ、お昼の時間帯ではいけないのか?・・・・疑問を拭えなかった。と訝しがっていた昨夜、NHK ONLINEで「クローズアップ現代」の専用サイトを見ると、「集団的自衛権 菅官房長官に問う」を今夜(7月3日)放送するという予告が目に飛び込んだ。(略)「時の政権の要である官房長官に閣議決定の趣旨、今後の政権運営の抱負を聞いてなにがおかしい」という意見があるかも知れない。しかし、NHKは政府広報の放送局ではない。官房長官に、「なぜ今、集団的自衛権の行使容認が必要なのか」を問えても、「過半の世論の反対があるなか、集団的自衛権の行使を憲法改正を経ず、閣議決定で容認したのは立憲主義に照らして正当化できるのか」と正面から質せるのか、そう質す気概が原記者にあるのか? 多様な意見を反映させるというなら、解釈改憲反対論者、さらには集団的自衛権の行使にそもそも異議を唱える論者をなぜ登場させないのか?(略)政府見解を独演させる場にならないか?(略)
 
NHK問題に関心を持つ人々の集まりに出かけ、(略)スピーチをすると、必ずと言ってよいほど、「NHKの制作現場のスタッフは(略)優れた番組を作ろうと必死に頑張っている人々がいるし、現に優れた番組も放送されている。だから、批判ばかりでなく、激励も大事だ」という意見が必ず出る。(略)しかし、最近、私はこうしたやりとりに懐疑的な見方をしている。(略)今、NHKの報道番組が向き合うべき死活的テーマは、国の憲法体制の根幹を揺り動かす集団的自衛権の解禁問題であり、わが国の言論の自由に甚大な影響を及ぼす特定秘密保護法の法整備をめぐる動きである。(略)このような大局的観点に立つと、(略)優れた番組を数多く輩出してきた「クローズアップ現代」や「NHKスペシャル」も、集団的自衛権や特定秘密保護法を封印している現実を直視することが、総体としてのNHKの報道番組を評価するにあたって欠かせない視点である。それなしに、個々の優れた番組を取り上げ、「激励を送ろう」と呼びかけるのは、視聴者運動のすすむべき方向を誤らせる恐れさえある、と私は感じている。(略)批判にせよ、激励にせよ、理性に裏付けられた大局観が欠かせない。
今日の言葉 ――辺見庸「日録24」(2014/07/02午後)から。

サルスベリ

要旨
国会前で徹夜抗議をしていた友人が、暗がりで不意に、テルアビブの話をしだした。なにも大した話ではないのだが、なぜだろう、荒くれていた気分がいくぶん凪いだ。(略)わたしも、夕暮れどき、テラヴィーヴのアロマにいって、カプチーノを飲みたくなった。できれば犬と。この数日、いやもっと長くか。荒んだ。言葉がむくみ、みにくくたわんだ。このままではこのクニがダメになるといわれた。だからどうした。もうとっくにダメになってるぜ。もっともっとダメになればいい。おもっていても、いいはしない。戦争になる。わたしもいい、ひともいう。戦争になれよ、やれよ、ガンガンやりゃあいい、きれいさっぱりぜんぶなくなりゃいい。そういいはしない。言葉が水腫みたいでいやになる。なんとかいう首相の話なんか、ほんとうはこんりんざいしたくない。ばからしい。おそろしくばからしい。なんでしたかといえば、あいつをヤラないと、こちらがヤラれる。いくらヤキがまわったって、そのくらいの勘はある。ヤルかヤラれるかだ。(略)正義の言葉くらい安っぽい言葉はない。平和の言葉もおおむねチープだ。殺人者が殺人直後にもらす、わけのわからない譫語のほうが、すうばいマシだ。(略)『迷子の警察音楽隊』をおもいだす。あれ、いいな。かわいた空。かわいた土。濃紺の夜。青いインク瓶のようにして記憶をしまう、か。「なにも約束するな」か。よくわからないけれど、ほんとうにそうだとおもう。(略)わからないから、死ぬまでは、なんとなく生きていられる。みあげたら、ことし最初の白いサルスベリが咲いていて、もう風にさらさら散っていた(辺見庸「日録24」2014/07/02午後)
 
全文
左耳に「テラヴィーヴのね……」と聞こえた。左耳は右耳よりよく聞こえる。国会前で徹夜抗議をしていた友人が、暗がりで不意に、テルアビブの話をしだした。なにも大した話ではないのだが、なぜだろう、荒くれていた気分がいくぶん凪いだ。テルアビブにはいきたかったのに、いったことがない。テルアビブには「アロマ」というカフェチェーンがあるのだそうだ。友人は夏の夜、大通り脇のアロマで、あるひとを待っていた。「約束はしてなかったけれども、なんだか会えるような気がしてね、2杯くらいかな、カプチーノをおかわりした。たぶんその間、私が待っていたひとは、自転車で他の場所のアロマをハシゴしていた。そんな気がする……」。自転車でアロマをハシゴ。なんだろうか。待っていたひとがだれだったのか、用向きはなんだったか、わからない。いわれなかったし、こちらから問うこともしなかった。友人じしんのことだって、じつは、あまりよく知らない。口ぶりからすると、どうも数年前にお母さんを亡くしているようだ。認知症だったのだろうか。いまでもときどき母親を怒っている夢をみるという。
 
「アイムソリーっていわなくていいよ。私は楽になったのだから」と、犬へか、わたしへか、どちらかにいった。アイムソリーっていわなくていいよ。ビールでも飲んでいたのだろうか。聞いていて、からだがほぐれた。話はとぎれた。友人がつぶやいていた。「……青いインク瓶のようにして、記憶をしまう……」。えっ?応諾でも反問でもなく、わたしは口のなかで声を泳がせた。えっ?青いインク瓶のようにして記憶をしまう。友人は前後になにかをいっていたのかもしれない。きっとそうだろう。拡声器の音で、前後の言葉がかき消えた。わたしも、夕暮れどき、テラヴィーヴのアロマにいって、カプチーノを飲みたくなった。できれば犬と。
 
この数日、いやもっと長くか。荒んだ。言葉がむくみ、みにくくたわんだ。このままではこのクニがダメになるといわれた。だからどうした。もうとっくにダメになってるぜ。もっともっとダメになればいい。おもっていても、いいはしない。戦争になる。わたしもいい、ひともいう。戦争になれよ、やれよ、ガンガンやりゃあいい、きれいさっぱりぜんぶなくなりゃいい。そういいはしない。言葉が水腫みたいでいやになる。なんとかいう首相の話なんか、ほんとうはこんりんざいしたくない。ばからしい。おそろしくばからしい。なんでしたかといえば、あいつをヤラないと、こちらがヤラれる、とおもったからだ。さっさとヤラないと、こっちがヤラれる。いくらヤキがまわったって、そのくらいの勘はある。ヤルかヤラれるかだ。こちらのなにがヤラれるか。いちいち説明するのも面倒くさい。こういう話になると、だれの言葉もぶよぶよ水ぶくれになって、くだらなくなる。正義だ、平和だ、といえば聞こえはよいが、そんなマシュマロみたいなもんじゃない。正義の言葉くらい安っぽい言葉はない。平和の言葉もおおむねチープだ。殺人者が殺人直後にもらす、わけのわからない譫語のほうが、すうばいマシだ。ね、アイムソリーっていわなくていいよ。楽になったんだからさ。あなた、あのとき、サッポロビア飲んでたんだろ。
 
ああ、テラヴィーヴのカフェに行きたいな。約束もしてないのに、夕方、カプチーノを飲みながら、だれかを、犬とともに、じっと待つ。そのだれかはイスラエル製の自転車でアロマのハシゴをしているようだ。だれかは、なかなかこない。あっ、血のような夕焼けだ。犬にテルアビブのビスケットを一枚やる。犬はオスワリをし、フセをし、いつまででもマテをする。テルアビブだろうがテヘランだろうが、気にしない。核戦争になったって、犬はオスワリをし、フセをし、マテをする。OKといわれるのを待つ。テルアビブのカプチーノはダフネのと味がちがう。どこかがちがう。あたりまえだ。『迷子の警察音楽隊』をおもいだす。あれ、いいな。かわいた空。かわいた土。濃紺の夜。青いインク瓶のようにして記憶をしまう、か。「なにも約束するな」か。よくわからないけれど、ほんとうにそうだとおもう。なにも約束するな、だ。わかるようで、なんだかわからないことはいいことだ。ぜんぶわかったら、反吐がでる。わからないから、死ぬまでは、なんとなく生きていられる。みあげたら、ことし最初の白いサルスベリが咲いていて、もう風にさらさら散っていた。エベレストにのぼった。
今日の言葉 ――辺見庸「日録23」(2014/07/02)から。
 
要旨
憲法9条の「生前葬」は、これまでもなんどもみてきた。葬儀委員長は、おおむね自民党総裁がつとめたが、非自民のコバンザメ政党幹部も葬儀委員に名をつらねていた。しかし、自公野合協議にもとづく昨日の閣議決定ほど、あからさまな憲法蹂躙はなかった。元自民党幹事長・小沢一郎にさえ、この国は「憲法なき国家」になった、といわしめたのだから、アベの常軌を逸した暴走・独裁ぶりが知れる。(略)昨夜のニュースをみていてあきれた。NHKのオーゴシがまるで政府広報みたいに(毎度そうですが)、集団的自衛権行使容認で戦争抑止力がたかまる……などと例によって珍解説。これは受信料をはらってまでみるようなシロモノではない。(略)にしても、報道各社の政治部記者、デスク、部長、政治部OBの質の悪さよ!堕落ぶりよ!共同OB後藤某(引用者注:元共同通信編集長。辺見の同紙記者時代の後輩)の話なんざ、田舎のご隠居さんがよろこびそうな、どうでもいい永田町のうらばなしかうわさ話オンリー。歴史観も世界観も政治理念も批判精神もあったものではない。(略)このたびの集団的自衛権行使容認にいたるプロセスで、報道各社政治部現職およびOBの、はなはだしい不見識がはたしたやくわりは看過できない。(略)さて、憲法9条の「生前葬」の件ですが、いうまでもなく、「本葬」はまだだ。仮葬もまだである。わたしの勘と切ない願望をいわせてもらえば、9条は仮死状態でも、どっこいなんとか生きのこり安倍政権の瓦解とアベじしんの「本葬」こそを、われわれはみることになるのではないか。あまりにも愚かで、慎みを欠き、ひとびとをみくびっているからだ。
 
全文
憲法9条の「生前葬」は、これまでもなんどもみてきた。葬儀委員長は、おおむね自民党総裁がつとめたが、非自民のコバンザメ政党幹部も葬儀委員に名をつらねていた。しかし、自公野合協議にもとづく昨日の閣議決定ほど、あからさまな憲法蹂躙はなかった。元自民党幹事長・小沢一郎にさえ、この国は「憲法なき国家」になった、といわしめたのだから、アベの常軌を逸した暴走・独裁ぶりが知れる。現行憲法と集団的自衛権行使容認の法的整合性について、そんなものは「抽象的、観念的議論」だと切ってすてるにいたっては、1933 年に政権を掌握したナチスの言いぐさと同じだ。具体的に「朝鮮有事」を明示し、ニッポン軍出撃の意欲もしめしたのだから、戦地には行かない、戦争はしないという口上とまるっきりつじつまがあわず、理屈が支離滅裂。察せられるのは、クレージー・アベのオツムテンテン、つぎは徴兵制でもかんがえてるのではないかということ。昨夜のニュースをみていてあきれた。NHKのオーゴシがまるで政府広報みたいに(毎度そうですが)、集団的自衛権行使容認で戦争抑止力がたかまる……などと例によって珍解説。これは受信料をはらってまでみるようなシロモノではない。返金しろ。オーゴシ、きみはエヌステをやめて籾井のカバンもちか、内閣参与にでもなって、下痢男アベのケツでもぬぐっているのが天職だよ。にしても、報道各社の政治部記者、デスク、部長、政治部OBの質の悪さよ!堕落ぶりよ!共同OB後藤某の話なんざ、田舎のご隠居さんがよろこびそうな、どうでもいい永田町のうらばなしかうわさ話オンリー。歴史観も世界観も政治理念も批判精神もあったものではない。したがって、閣議決定による集団的自衛権行使容認という憲法破壊がどれほどの暴挙か、どれほどの危険性をはらむものか、歴史的に位置づけられず、客観的に論じえず、自民党専属の私娼よろしく料亭のお座敷芸のようものをひろうしてギャラをかせいでいるだけだ。このたびの集団的自衛権行使容認にいたるプロセスで、報道各社政治部現職およびOBの、はなはだしい不見識がはたしたやくわりは看過できない。にしたって、政治部のアホどもはうす汚い政治家に、社会部の警察担当はわるずれしたデカに、髪型から衣装、にごった目つき、口ぶり、ジャーゴンまで、歴代ほぼ例外なく、似てくるのはなぜかね。さて、憲法9条の「生前葬」の件ですが、いうまでもなく、「本葬」はまだだ。仮葬もまだである。わたしの勘と切ない願望をいわせてもらえば、9条は仮死状態でも、どっこいなんとか生きのこり、安倍政権の瓦解とアベじしんの「本葬」こそを、われわれはみることになるのではないか。あまりにも愚かで、慎みを欠き、ひとびとをみくびっているからだ。
今日の言葉4 ――辺見庸「日録23」(2014/07/01)から。
 
要旨
それぞれの〈場〉、それぞれの〈時〉、それぞれの〈声〉、それぞれの〈無声〉、それぞれの〈身ぶり〉で、安倍体制をこばみ、内と外の「安倍的な脅威」をしりぞけ、(古い言葉で恐縮ですが)覆滅すること。打ち倒すこと。(略)なにかが、なにかに、ふさわしくない。みあっていない。釣りあわない。自己と外界。内心と言葉。「状況」といわれるものと自己存在。「状況」と抵抗。滑稽なほどみあってはいない。釣りあわない。なにをしたって割があわない。そうおもう。(略)存在と抵抗と〈あがき〉に、割があうも割があわないもない。抵抗は、もともとなにかにみあうものではない。一切にみあわないのだ。非常階段上の、ちぢみ、黒ずんだ葉。消えることだけが確約された記憶。それでいい。それがよい。それだからよい。それでもなお、くどくどといえば、アベとかれの同伴者たちはまったく呪わしい「災厄」以外のなにものでもないのだ。(略)なによりも、なによりも堪えがたいのは、権力をのっとったアベの一派が、貧寒とした頭で、人間存在というものをすっかり見くびっていることなのだ。国家が個人を虫けらのように押しつぶすのを当然とおもっていることだ。みずからを、(議会制民主主義を批判したカールシュミットの言い方にそくせば)「例外状態にかんして決断を下す者」、つまり国家非常事態(戦争)を発令できる者とかんぜんに錯覚してしまったこと。(略)しかし、なお、身じろぐのだ。一枚のちぢんだ葉にすぎないわたしは、無為にふるえ、不格好に身じろぎ、声にもならない声で、「否!」といおうとする。風に吹き飛ばされながら「否!」という。
 
全文
それぞれの〈場〉、それぞれの〈時〉、それぞれの〈声〉、それぞれの〈無声〉、それぞれの〈身ぶり〉で、安倍体制をこばみ、内と外の「安倍的な脅威」をしりぞけ、(古い言葉で恐縮ですが)覆滅すること。打ち倒すこと。ああ、面倒くさい。うっとうしい。どうせムダだ。徒労だ。雲も樹も街路も、日常は昨日ととくになにもかわってはいないじゃないか。安倍体制はたしかに厭わしい。だが、人間であることじたいがそもそも悲惨なのではないか。他にやらなければならないことが山ほどある。読まなければならない本が何冊もある。かまわなければならない、かまうべきことごとがたんとある……。
 
とつおいつしながら部屋をでた。なにかが、なにかに、ふさわしくない。みあっていない。釣りあわない。自己と外界。内心と言葉。「状況」といわれるものと自己存在。「状況」と抵抗。滑稽なほどみあってはいない。釣りあわない。なにをしたって割があわない。そうおもう。非常階段に、すっかりちぢれて黒ずんだ小さな葉っぱが一枚、いじけたように落ちていた。いじけたように、というのは、わたしがおもっただけだ。主観。葉はじつは、いじけてさえいないのだ。あるともなくそこにあったのだ。葉は、ほどなく、木の葉らしい色形を、さらにくずし、ただのクズとして、いや、クズとさえ認識されずに、風にとばされ、世界から消えさってしまうだろう。哀しくはない。空しくもない。葉は葉。無は無。風は風。死は死。それだけのことだ。なにも大したことではない。わたしだってアパートの非常階段上にたまたま舞い落ちた、葉にすぎない。葉と同等である。一枚の病葉。その存在に、ふさわしくないも、みあわないも、割があわないもない。葉は葉だ。どうあれ、いずれはふっと消える。
 
それなら、そうであるならば、それぞれの〈場〉、それぞれの〈時〉、それぞれの〈声〉、それぞれの〈沈黙〉、それぞれの〈身ぶり〉で、安倍とその一味をこばみ、安倍を転覆し覆滅しようとすることは、葉の、葉と同等のものの、ちょっとした仕草として、あってもよいのではないか。存在と抵抗と〈あがき〉に、割があうも割があわないもない。抵抗は、もともとなにかにみあうものではない。一切にみあわないのだ。非常階段上の、ちぢみ、黒ずんだ葉。消えることだけが確約された記憶。それでいい。それがよい。それだからよい。それでもなお、くどくどといえば、アベとかれの同伴者たちはまったく呪わしい「災厄」以外のなにものでもないのだ。覆滅すべし!集団的自衛権行使容認はとんでもない錯誤だ。秘密保護法はデタラメだ。武器輸出解禁も許せない。原発輸出政策もとんでもない恥知らずである。朝鮮半島がかかわる(征韓論者たちを正当化する)史観、およそ反省のない日中戦争・太平洋戦争史観、強制連行・南京大虐殺・従軍慰安婦にかんする破廉恥な謬論、居直り的東京裁判観、靖国観、天皇(制)観、ニッポン神国史観という本音、核兵器保有可能論……どれをとっても、じつは「同盟国」米国でさえあきれている(ドイツであれば身柄逮捕級の)ウルトラ・ナショナリストである。そんなこと、もう言い飽きたよ。口が腐るよ。
 
なによりも、なによりも堪えがたいのは、権力をのっとったアベの一派が、貧寒とした頭で、人間存在というものをすっかり見くびっていることなのだ。国家が個人を虫けらのように押しつぶすのを当然とおもっていることだ。みずからを、(議会制民主主義を批判したカールシュミットの言い方にそくせば)「例外状態にかんして決断を下す者」、つまり国家非常事態(戦争)を発令できる者とかんぜんに錯覚してしまったこと。錯覚したのは本人であり、錯覚させたのはかれのとりまきと自民党、およびファシズムを大いに補完する公明党=創価学会、財界、一部民主党をふくむ親ファシスト諸党派、砂のように無意識に流れてゆく「個」のない民衆、最終的にはいかなる質の権力であれ、権力に拝跪するのだけを法則づけられているメディア……と、いまいったところでなんになろう。しかし、なお、身じろぐのだ。一枚のちぢんだ葉にすぎないわたしは、無為にふるえ、不格好に身じろぎ、声にもならない声で、「否!」といおうとする。風に吹き飛ばされながら「否!」という。
藤原新也さんの「集団的自衛権に関する個人的見解」(Shinya talk 2014/07/01)から。
 
「私はこれまでマスメディアから何度も集団的自衛権に関するコメントを求められている。(略)だが私はそのインタビューを断った。(略)これまで集団的自衛権に関することを書かず、インタビューも受けなかったのは右か左かの二者択一で敵対する傾向にあるこの硬直した世の中にあって、マスでそのような言葉が出た場合そういった複雑な思いが誤解される危険性があると思ったからだ。」
 
引用者注:下記の藤原新也さんのコメントの中の認識には私には賛成しがたいところがあります。が、ここではそのことについて私見は述べないことにします。
 
集団的自衛権に関する個人的見解。
(藤原新也「Shinya talk」2014/07/01)
公明党の賛成を得て今日閣議決定されるに集団的自衛権に関してだが、公明党がずっと集団的自衛権に反対し続けていたのは私個人は当初から茶番だと思っていた
 
公明党の母体である創価学会は日蓮大聖人の仏法に基づく「平和・文化・教育」 活動を根幹としており、中でも「平和」は創価学会が内外に向けての活動展開のもっとも重要な会是となっており、安倍政権の持ち出す集団的自衛権に簡単に雪崩合意することは出来ない事情がある。
 
つまり一定の”抵抗”というポースを取る必要があるのだ。
 
そのポースは国民に向けてではなく、創価学会員に向けてである。
 
日蓮大聖人の教えにそむくことを簡単に許しては会そのもののデゾンデートル(存在理由)を失い、あわせて創価学会員に申しわけが立たない。
 
そういう意味では左派系のメディアなどが、集団的自衛権に異議を唱え続けた公明党を頼りにし、持ち上げていたのは滑稽である。
 
今日はしごを外され、やっと正体を見ただろう。
 
公明党が集団的自衛権に反対し続けてきたのは”思想”ではなく内部に一定の理解を得るためのネゴシエーション(とりひき)に過ぎない
 
政教分離の原則に則って公明党は創価学会とは異なることを常に標榜し、そういった観点からの論調に目くじらを立てるが、これまで選挙があるたびに私の読者であるということを騙って何人もの人(主にオバサン)が押しかけてきて、公明党のこの候補者を応援してくれと言ってきた。
 
その人たちはみな創価学会員だった(簡単に素性を知れてしまう実にワキの甘い人々だ)。
 
ということで公明党の茶番がはっきり収まるべきところに収まったというのが集団的自衛権が閣議決定される今日ということになる。
 
                               ◉
 
ところで私はこれまでマスメディアから何度も集団的自衛権に関するコメントを求められている。
 
近いところでは朝日新聞の「異論」というインタビューコラムがあって、この集団的自衛権に関してのインタビューを求められたのがつい10日前のことだ。
 
だが私はそのインタビューを断った。
 
つまりそのコラムのタイトルがそうであるように、最初から集団的自衛権に反対の趣旨を述べてほしいという前提のものだったからだ。
 
かりに私が集団的自衛権に反対の立場だったとしても、紙面を提供する側が私の思想や思いを最初から決められては困るのである。
 
特にこういった思想信条に関わることはいかなる誘導尋問もなく、枠組みもなく、白紙の状態で耳を傾けるというのがジャーナリズムというものである。
 
                                 ◉
 
「ということですでに紙面上ですでに反対という枠組みが出来ており、その範囲内でしゃべるというのはこれはちょっと違うんじゃないでしょうか。
 
かりにそこで藤原が集団的自衛権に賛成の意見を述べたとするならどうなるのかな」
 
「藤原さんは集団的自衛権には賛成なのですか」
 
「いや反対です。
 
それは多くの人が標榜しているように憲法第九条や平和を是とする大原則に反するという理由からではありません。
 
私が集団的自衛権反対するのは、つまり他の国とつるんで自国を守るというのは究極的には破綻をきたすと思っているからです。
 
それはすでに歴史が証明していることでもある。
 
もっとわかりやすく言いましょう。
 
戦争というのはひらったく言えばケンカですね。
 
それも集団のケンカです。
 
協定のようなものを結び、他の集団とケンカをする。
 
勝っているうちはいいが、自分の命が危ない、となったとき、自分を犠牲にしてでもつるんでいる人間を助けますか。
 
あり得ないことです。
 
たしかにそれは前近代における同民族同士の義兄弟や任侠世界のような濃い連帯関係の中では起きうる美談かも知れないが、血の異なる他民族同士の間では絶対に起こりえない。
 
それは確信を持って言えます。
 
しかし集団的自衛権に反対だからといって、無条件で平和を標榜するのもあまりにものどかだと思っている。
 
日本人は島国の中でこの七〇年平和に暮らして来ました。
 
20年前に私が読売新聞の文化面で「平和ボケ」という言葉を使って以降自虐好きの日本人はその言葉を多用するようになりましたが、さらにこの平和ボケは深化していると私は思っている。
 
私は自分の若い時の人生の半分はこの島国ではなく、身ひとつで外の国に自分を曝して来ました。
 
そしてショットガンからジャックナイフまで武器は常に携帯していました。
 
軍備をしていた。
 
危ないからです。
 
この平和な日本の国境を出るということは何が起こるかわからない。
 
日本人のように世の中みな”いい人”ばかりではない。
 
突然とんでもないヤツが目の前に出てくる。
 
それが世界というものです。
 
自分の身は自分で守らねばならない。
 
それが私の基本的な考えです。
 
つまり私が集団的自衛権に反対なのは、それが甘いと考えているからです。
 
断っておきますが、私も平和が大好きで、戦争は大嫌いで、人殺しも大嫌いです。
 
大嫌いだから、そういうものが避けて通ってくれるとは限らない。
 
現に争いが嫌いな私のようなものが人様に向けてナイフを抜いたこともあります。
 
残念ながら世界とはそういうものです」
 
                                ◉
 
これまで集団的自衛権に関することを書かず、インタビューも受けなかったのは右か左かの二者択一で敵対する傾向にあるこの硬直した世の中にあって、マスでそのような言葉が出た場合そういった複雑な思いが誤解される危険性があると思ったからだ。
目取真俊さんの「このA級戦犯の孫はどこまで暴走していくのか」(海鳴りの島から 2014-06-30)から。
 
注:標題中の「右翼ナショナリスト安倍晋三」のパラグラフはニューヨーク・タイムズ社説」(2013年1月2日)

このA級戦犯の孫はどこまで暴走していくのか
(目取真俊「海鳴りの島から」2014-06-30)
 
敗戦から69年、一夜明ければ集団的自衛権容認の閣議決定がなされ、自衛隊が海外で米軍の属軍として戦争を行いかねないという、歴史を画する状況がもたらされようとしている。首相官邸前の数万人のデモから上がる容認反対の声や、慎重審議を求める地方議会の決議立憲主義の破壊を戒める憲法学者・文化人の批判反対が多数を占める世論など、そのすべてを無視して安倍晋三首相は戦争をできる国へと突っ走っている
 
安倍首相は自らが政権の座についている間に、日本という国のあり方を根本から変え、後戻りできない地点にまで推し進めようという考えなのだろう。ブレーキの役割を果たし得る野党が存在しない今、このA級戦犯の孫はどこまで暴走していくか分からない。その独裁者然とした動きから改めて昨年12月26日の靖国神社参拝を振り返ると、安倍政権の危険性がいっそう浮き彫りになる。
 
昨年の12月25日に安倍首相は、沖縄県の仲井真弘多知事と会談し、辺野古埋め立て容認の確約を取り付けた。翌26日、安倍首相は靖国神社に参拝した。その日は中国共産党の創立者の一人であり、中国の初代国家主席でもあった故毛沢東の誕生日だった。しかも生誕120年の記念日であり、そういう日に中国が最も反発する靖国神社参拝を強行したのだ。
 
習近平国家主席からすれば、面子を潰された、と捉えたかもしれない。わざと習主席を怒らせ、中国共産党と人民解放軍の幹部を挑発する。現在の国内政治で安倍首相がやっている強権的な政治手法を見れば、昨年12月26日の靖国神社参拝は、日中関係をこじらせるための計算尽くの行為だったとしか思えない。その結果、中国と韓国の間で歴史認識をめぐり対日批判の関係強化が作り出されている。日中間の火種を弄ぶような手法が外交面でもたらすマイナスも、安倍首相には織り込み済みなのだろう。
 
石原慎太郎衆院議員が東京都知事時代に尖閣諸島の購入を打ち出し、それに対応を迫られた民主党の野田政権が同諸島を国有化した。日本が棚上げ状態を破棄したことによって、中国との間で「領土・領海問題」が一気にエスカレートし、軍事的緊張が高まった。安倍首相はそれを沈静化させるどころか、さらに火に油を注いだ。日中関係を悪化させることによって中国の脅威を煽り、排外的ナショナリズムをかき立てた。
 
沖縄からはその効果がよく見える。辺野古新基地建設や先島への自衛隊配備を進めるうえで、尖閣諸島をめぐる中国との緊張の高まりは、大きな推進力として利用された。集団的自衛権の行使容認の議論でもそうだ。東アジアにおいて中国が軍事的影響力を拡大し、日本の領土・領海を脅かすのに対抗するためには、米軍と自衛隊の連携強化、相互防衛が必要である、という国民意識の形成が図られていった。
 
中国に対する外交・防衛面での安倍首相の強硬にして挑発的な姿勢は、沖縄にとって極めて危険なものだ。日中間の対立がさらに悪化して、尖閣諸島周辺で軍事衝突が発生すれば、その影響を真っ先に受けるのは沖縄である。八重山・宮古住民の生活と安全が直接的に脅かされるのはもとより、沖縄旅行のキャンセルによって観光産業が大きな打撃を受け、沖縄経済の混乱と衰退は一気に進むだろう。
 
中国に対して安倍首相がいくら強気の姿勢を見せても、しょせんは虎の威を借る狐である。中国に対抗するためには、是が非でも在沖米軍の現有戦力を維持し、米海兵隊を引き止めなければならない。そのためには米国・米軍が望むように沖縄の基地を整備する。そういう意思を固めて安倍首相は、辺野古の海底ボーリング調査や高江のヘリパッド建設工事において、沖縄県民を力でねじ伏せようとしている。
 
それに屈してしまえば、沖縄は中国と対抗する米日両軍の拠点として、これまで以上に利用され、いつか破局的事態を迎えかねない。そういうことを許してはならない。ウチナンチューにとって、大きな試練が始まる7月となる。