安倍内閣、公明党批判第2弾。辺見庸「日録23」(2014/06/30)から。 
 
【要旨】
クロノロジカルにいえば、明日、歴史が大きく変えられるもともと「ない」はずのものが、今後「ある」ことにされてしまう参戦権。そもそも現行憲法がみとめていない権限であり、そして歴代政権も「ない」としてきた参戦権を、一内閣がとつじょ「ある」と強弁して、みとめてしまうというのだから、ただごとではない。これは国家権力によるひとびとへのあからさまな暴力にひとしい。(略)しかし、ことここにいたり、わたしは言葉のたよりなさと、この状況にたたずむことの羞恥と屈辱と、いうにいえない嫌悪とをかんじている。(略)わたしとわたしらは、とても貶められている。(略)鬆(す)のように疎外されたこのような心象を、外部への「プロテスト」につなげていくのは、筋ちがいというものだろうか。(略)わたしは内面の鬆をさらけだして、(略)安倍政権に永遠に敵対することとする。この病んだ政権が、ファシストの、右翼ポピュリストの、国家主義者の砦だからという図式的な理由からではない。それよりも、この政権の全域をつらぬく人間蔑視、弱者・貧者さげすみ、強者礼賛、あられもない戦争衝動、「知」の否定、財界すりより、ゼノフォビア、夜郎自大、組織的大衆(メディア)操作、天皇制利用……が堪えがたい段階にまできているから、安倍政権をうちたおすべきだとおもった。(略)この政権とその同伴者たちには、かつて精神科病院の入院患者らを「優生学的見地」から多数薬殺したナチス政権と似た、なにかとてもいやなにおいがする(略)友よ、痙攣のように抗うか、まどろむか、だ
 
【全文】
さて、クロノロジカルにいえば、明日、歴史が大きく変えられる。もともと「ない」はずのものが、今後「ある」ことにされてしまう。参戦権。そもそも現行憲法がみとめていない権限であり、そして歴代政権も「ない」としてきた参戦権を、一内閣がとつじょ「ある」と強弁して、みとめてしまうというのだから、ただごとではない。これは国家権力によるひとびとへのあからさまな暴力にひとしい。憲法は「宣戦布告」と「講和」の権限を規定していない。戦争に負け、戦争を反省し、ゆえに戦争を放棄したのだから、あたりまえである。だから、憲法第9条は2項において「戦力を保持しない」「交戦権を認めない」とはっきりさだめており、これまでの歴代政府解釈も、名うての右派政権でさえ、この2点を、たとえしぶしぶにせよ、みとめてきた、みとめざるをえなかったのだ。じっさいには着々と軍備を増強してはきていたのだが、憲法上にかすれた母斑のように消えのこる平和主義=不参戦主義は、おそらく荒んだこのクニにおける、たった、たったひとすじの理想のあかしではあった。いま、安倍内閣はこの最期の薄ら陽をも、集団的自衛権行使容認により消し去ろうとしている。わたしはそれを受容しない。交戦権が否定されているのに、参戦して他国の防衛をする、すなわち戦争をするというのは、子どもでもわかる大矛盾である。
 
しかし、ことここにいたり、わたしは言葉のたよりなさと、この状況にたたずむことの羞恥と屈辱と、いうにいえない嫌悪とをかんじている。それは、全景がすでに言葉ごとこなごなに砕かれているというのに、かつ、あてはまる活きた言葉のかけらさえないというのに、まるで一幅のまとまった風景をかたるように、「いま」をかたらなければならないからである。いまは、ただここに在るだけで、じゅうぶんに悲惨である。内奥がズキズキと痛い。わたしとわたしらは、とても貶められている。なにかひどいものに晒されている。外部に融けることもできずに、ただ疲れたまま、むきだされている。こうした心象を、外部への「プロテスト」につなげていくのは、筋ちがいというものだろうか。
 
わたしは数日よくよくかんがえてみた。ひとはひとをたえず殺しつづけてきた。それらの「ひと」は歴史一般の他者ではなく、わたしやあなたをふくむひとだ。わたしやあなたをふくむひとはいまも、ひとを殺しつづけている。沈黙により傍観により無視により習慣により冷淡により諦めにより空虚さにより怠惰により倦怠により、みずからを殺す衝迫をかんじつつ、ひとを殺しつづけている。それはむしろ常態化している。だが、だからといって、今後ともそうであってよいということにはならない。鬆(す)のように疎外されたこのような心象を、外部への「プロテスト」につなげていくのは、筋ちがいというものだろうか。
 
数日かんがえた。わたしはおもう。筋ちがいではない。わたしは内面の鬆をさらけだして、それらとこのクニの参戦という事態をつなげて、安倍政権に永遠に敵対することとする。この病んだ政権が、ファシストの、右翼ポピュリストの、国家主義者の砦だからという図式的な理由からではない。それよりも、この政権の全域をつらぬく人間蔑視、弱者・貧者さげすみ、強者礼賛、あられもない戦争衝動、「知」の否定、財界すりより、ゼノフォビア、夜郎自大、組織的大衆(メディア)操作、天皇制利用……が堪えがたい段階にまできているから、安倍政権をうちたおすべきだとおもった。でなければ、わたしの内面にはさらに多くの鬆がたつからだ。この政権とその同伴者たちには、かつて精神科病院の入院患者らを「優生学的見地」から多数薬殺したナチス政権と似た、なにかとてもいやなにおいがする。
 
本ブログ読者たち、友人たちに、わたしは「たたかい」をよびかけない。「連帯」もしない。連帯を呼びかけない。それぞれがそれぞれの〈場〉とそれぞれの局面で、それぞれの声を発すればいいのだ。もしくは、あくびして、まどろめばよい。もうなにも規範はない。あってもよかった平和的規範を安倍とその一味は毀した。主体はみずから解体された。許されるべきではない。友よ、痙攣のように抗うか、まどろむか、だ。エベレストにのぼった。辺見庸「日録23」2014/06/30)
いま公明党を全否定しても無益以外のなにものでもない、と「怒り」と「批判」を封じ込めていましたが、同党は今日午後の衆・参国会議員合同会議で集団的自衛権行使の閣議決定を了承したもようです。
 
封じ込めていた公明党批判を解禁します。はじめに留保していたDaily JCJブログの「7月1日は、人間の命にかかわる決定的な日だ」から。
 
自民・公明の両党よ、ここまで憲法や国民を愚弄するとは、恥を知れ。1日にもくろむ閣議決定─「集団的自衛権の行使容認」は、「戦争しない日本」が滅ぶ日だ。戦後70年にわたり、平和国家としての歩みを無にし、他国が始めた戦争に自衛隊を動員し、武器を持たせて前線に立たせるとは、正気の沙汰ではない。「専守防衛」といいながら、「他国への攻撃」に対処するため、発足して60年の自衛隊と隊員たちを動員する。まさに自分の命まで失う危険を冒して、他民族の人びとを殺しに行かせるのだ。いま日本全国で190以上の議会が、閣議決定に反対、慎重な対応を求める意見書を採択している。政権与党間での1か月ちょっとの密室協議で、憲法9条をズタズタにしていいのか。国会での議論もせず、詭弁とごまかし、矛盾だらけの武器使用3要件で戦争する国へと舵を切る。7月1日は、人間の命にかかわる決定的な日だ。ほかにも生活保護費を抑える改悪法が施行される。水際作戦で申請を却下する、手練手管のマニュアル・大阪方式が広がりかねない。(Daily JCJ 2014/6/29

ニュース
集団自衛権行使、公明受け入れ=執行部に一任(時事通信 2014/06/30-16:56)
 
公明党は30日の関係部会の合同会議で、集団的自衛権の行使容認について、党執行部に対応を一任し、受け入れる方針を決めた。
 
集団的自衛権の行使、公明が了承 あす閣議決定(日本経済新聞 2014/6/30 17:14)
 
公明党は30日、国会内で開いた党会合で、集団的自衛権の行使容認問題について、対応を執行部に一任することを決めた。執行部は容認する方針を既に固めている。与党は7月1日の協議会で行使容認を正式に合意する見通し。自公両党の党内手続きを経て、政府は1日夕の臨時閣議で行使容認を決定する方針。閣議後に安倍晋三首相が記者会見し、国民に直接、説明する予定だ。
 
公明党、集団的自衛権めぐる対応を執行部に一任(ロイター 2014年 06月 30日 17:00 JST)
 
[東京 30日 ロイター] - 公明党は30日に党内会合を開き、集団的自衛権をめぐる対応を執行部に一任した。執行部は政府が示した閣議決定の文案を受け入れることを決めており、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認が事実上決まった。自民党と公明党が7月1日に与党協議を開いて最終合意した上で、政府が同日中にも閣議決定する。
 
集団自衛権、1日閣議決定の意向…菅長官(読売新聞 2014年06月30日 13時49分)
 
菅官房長官は30日午前の記者会見で、集団的自衛権行使を限定的に容認する新たな憲法解釈の閣議決定について、「最終的に与党間で調整できれば、明日行いたい」と述べ、7月1日に行う意向を明らかにした。一方、公明党は30日午後、外交安全保障・憲法両調査会合同会議を国会内で開き、行使を容認する方向で意見集約する。閣議決定に盛り込まれる武力行使の「歯止め」が厳格で、容認できると判断した。公明党幹部は30日午前、「意見が出尽くすまで議論することになるが、理解は広がっているから、賛同を得られるのではないか」と語り、党内意見のとりまとめに自信を示した。28日の地方議員を集めた意見交換会では、山口代表が「憲法9条の規範は全く変わるものではない」と語り、憲法解釈見直しに理解を求めた。山口氏は30日の党内会合でも、集団的自衛権の行使が限定的であることを改めて説明するとみられる。
今日の言葉 ――「まだ、かすかな希望がある」:
 
・「介錯改憲」は『東京新聞』6月21日付のコメントで使った。学問的な言葉ではないが、安倍晋三首相とその政権が憲法に対して行っている狼藉を表現するのに、これ以外の言葉が見当たらなかったからである。私は本当に怒っている。安倍首相に対してだけではない。この狼藉に加担してしまった公明党執行部に対してである。(略)公明党執行部は、ここ数日の間に、驚くほどの単純論理で自民党の「修正」に乗ってしまった。この2週間ほどの「抵抗」は何だったのだろう。「他国」を「我が国と密接な関係にある他国」に変えることで「限定」や「歯止め」になると本気で考えているのか。集団的自衛権が「同盟関係」(つまり「密接な関係」)にある「他国」との話であることは常識である。「おそれ」を「明白な危険」に変えたところで、何の「歯止め」にならないことは、ご本人もよくわかっていることだろう。26日の記者会見で、それを「二重三重の歯止めが効き、拡大解釈の恐れはない」(『東京』6月27日付)と言い切った山口那津男公明党代表の知的不誠実は極まれり、である。まがりなりにも「平和」を掲げてきた公明党にとって、これは大きな打撃となるだろう。執行部は歴史的な判断ミスの責任を免れないしかし、まだ、かすかな希望がある自民党公明党の地方組織や議員たちの動きである・・・・」(水島朝穂「今週の『直言』」(2014年6月30日)より抜粋)
 
・「第三文明」という言葉を聞いて、その意味するところが即座に理解できる人の大半は多分創価学会の会員なのでしょうね。私にしてからが、書店の雑誌コーナーで、「世界」や「中央公論」や「正論」などと並んで「第三文明」という月刊誌が置かれており、どうやら創価学会系の出版社が出している雑誌らしいという程度の知識はあったものの、実際に購入したこともなければ、「第三文明」の意味を調べてみたこともありませんでした。その私が「WEB第三文明」というサイトを訪ね、「第三文明」という概念を説明する文章に出会ったのも、「集団的自衛権騒動」のお陰なのですが。(略)
 
実は、月刊「第三文明」の2014年6月号では、「集団的自衛権を考える」という特集が組まれており、その内の以下の4本の論考が6月中旬から下旬にかけて、順次WEB第三文明にアップされていました。なかなか読み応えのある特集なので、ご紹介することとします。なお、同誌5月号に掲載された阪田雅裕さんのインタビュー記事も併せてご紹介することとします(引用者注:以下、見出しのみ)。
 
・憲法解釈変更による集団的自衛権行使容認の暴挙を防ぐ 元内閣法制局長官 阪田雅裕 (月刊「第三文明」5月号掲載)
・日本ができる国際貢献のあり方とは 東京外国語大学教授 伊勢﨑賢治 (月刊「第三文明」6月号掲載)
・立憲主義の立場から集団的自衛権行使は絶対に認められない 伊藤塾塾長/弁護士 伊藤 真 (月刊「第三世界」6月号掲載)
・日本は憲法9条の考えを世界に輸出していくべき 国際交流NGOピースボート共同代表 川崎 哲 (月刊「第三世界」6月号掲載)
・民主主義を破壊する解釈改憲は阻止すべき 北海道大学大学院法学研究科准教授 中島岳志 (月刊第三世界」6月号掲載)
 
6月号に掲載されたこれらの特集記事(阪田さんのインタビューを除く)は、雑誌発売日との関係から、当然、安倍首相による「5.15クーデター宣言」前に書かれたものではありますが、既に「限定容認論」は、北岡伸一安保法制懇座長代理らによって流布されていたという状況下に書かれたものでしょう。これらの論者・論考を特集する月刊「第三世界」編集部の見識を評価するのにやぶさかではありませんが(「公明党や創価学会の「変節」の隠れ蓑に過ぎない」というような意地の悪い見方はとりません)、問題は「閣議決定」後に、編集部の方針自体が「変節」することはないか?ということです。
 
WEB第三世界に掲載された記事を読んでいて、気になる文章に出会いました。それは、青山樹人氏というライターのコラム記事で、6月に刊行されたばかりの『公明党の深層』(大下英治著/イースト・プレス)という本についての書評でした。そこには以下のような文章が書かれていました。
 
【コラム】結党50年。綿密な取材が描き出す、その素顔
――書評『公明党の深層』ライター 青山樹人
公明党が自民党と連立を組んでいることには、世論の一部はもちろん、支持者の中からもしばしば異論が噴出する。とりわけ、今般の集団的自衛権をめぐっては「連立離脱」という4文字をメディアは幾度も煽り立てた。だが、仮に公明党が連立を離脱すれば、「維新」や「みんな」といったナショナリズムの強い政党勢力が自民党と連立することは目に見えている。他方で今の野党がそれに対抗できる勢力を結集できるとは誰も信じまい。近隣諸国との関係も含め、日本は一気に危険な方向へ雪崩れ落ちるだろう。公明党に〝オール・オア・ナッシング〟の態度を求める人々が一時の溜飲を下げて喝采を送ったとしても、国民の誰も幸福にはならない話だと筆者は思う。
 
おそらくは、公明党の(場合によっては創価学会の)「変節」を擁護する究極の「論理」はこれなんでしょうね。見えすいた「詭弁」であることは、心ある公明党党員や創価学会会員の方々には説明するまでもないと思いますが。
 
とりあえずの「破局」までのカウントダウンもあと「2日」。場合によっては1日前倒しで「明日」という可能性もあるんだろうか? その日をどういう風に迎えるのか?その事態に対してどう責任をとるのか? これは公明党党員や創価学会会員だけの問題でないことは明らかであり、私たち自身の問題なのです。もちろん、6月号で「集団的自衛権を考える」という特集を組んだ月刊「第三世界」編集部にも、実際に迎えた「その日」についての総括をする責任があることは当然であり、注目を続けていこうと思います。(「弁護士・金原徹雄のブログ」(2014年06月29日)より抜粋)
今日のメディアの記事から。「考え直す時間は、まだ残されている」(朝日新聞社説 2014年6月28日)。だれとなく問うてみたい。以下の記事は、「考え直す」というよりも、私たち(諦めそうになっている私たちもです)は「考え直さなければならない」ことを示している。そうは思いませんか?
 
集団的自衛権:公明、地方から異論 「慎重・反対100%」「連立離脱の声」(毎日新聞 2014年06月29日)
 
公明党は28日、集団的自衛権を巡って47都道府県の地方代表による懇談会を東京都内で開き、党執行部が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定などを説明した。しかし第二次世界大戦の記憶が色濃く残る広島、長崎、沖縄をはじめ、地方側は「北から南まで慎重・反対論が100%」(出席者)となり、「地元で連立離脱を求める声がある」「『次の選挙は応援できない』と言われた」と悲鳴もあがった。執行部は「憲法9条の規範は守る」と説得に追われ、閣議決定後に党幹部が各地を回り、支持者に直接説明する方針を示した。
 
与党協議の座長代理を務める北側一雄副代表は会合で、閣議決定について「1972年の政府見解をベースとし、従来方針との整合性は保たれている」と強調。集団的自衛権の全面容認ではないと理解を求めた。一方、地方代表は25人が発言。慎重姿勢から容認に転じた執行部に対し、「憲法解釈の変更を本当に閣議決定でやっていいのか。本来は憲法改正だ」という疑問を皮切りに、発言を求める挙手が殺到した。出席者によると、広島代表は「平和に敏感な県だ。県の全議員から意見を聞いたが、いくら限定的でも集団的自衛権の容認は納得も理解もできない」、長崎代表は「被爆県では行使容認にかなり拒否反応が起きている」と訴えた。沖縄代表は「基地を抱え、万一の時に攻撃されかねないと県民が心配している」と危機感を示した。「日本が戦争に突き進むのかと言われる」(静岡)「閣議決定ありきでなく、まず地方議員に説明すべきだ」(長野)などと執行部批判が続いた。自民党との連立政権について「『解消すべきだ』との声がある」との発言が複数出たが、北側氏は「離脱はしない。公明がブレーキ役を果たす」と訴えた。
 
執行部は地方側にかん口令を敷いたが、会合後は記者団の取材に応じる代表者が続出。鳥取の代表者は「党と地方、支持者の意識に相当差がある」と指摘し、福岡の代表者は「地元の説得は難しい」と述べた。だが、執行部は地方の意見は取りまとめず、30日の国会議員の会合で一任を取り付ける方針。7月1日に与党合意、閣議決定に踏み切る構えで、地方や支持者の反発が続くのは避けられない。
 
社説:視点:集団的自衛権 司法の審査=小泉敬太(毎日新聞 2014年06月29日)
 
◇憲法判断をあなどるな
 
集団的自衛権に基づき自衛隊が派遣されるような事態を迎え訴訟が起こされれば、司法判断が出ることになる。安倍晋三首相は「政府が憲法を適正に解釈するのは当然」と強調するが、行使を可能にする解釈変更が憲法上「適正」かどうかを最終判断する権限(違憲審査権)は最高裁にある。その時、違憲判決が出ないとは言い切れない。政府・与党には、三権の一角を占める司法の場で、いずれ事後チェックを受けることを見据えた慎重で冷静な論議が欠けているのではないか。
 
他国を守るための武力行使を認める集団的自衛権は、国際紛争解決のための武力行使の放棄や戦力の不保持、交戦権否定をうたった憲法9条に反するとの学説は憲法学者の間に根強い。木村草太・首都大学東京准教授(憲法学)によると、国民の生命・自由を国が最大限尊重すると定めた憲法13条などを根拠に政府が従来認めてきた個別的自衛権と異なり、集団的自衛権は憲法に行使を認める根拠規定も手続きの規定もなく、想定されていないという。「政府解釈を変えても違憲は違憲。認めるには憲法改正が不可欠」と話す。ドイツの憲法裁判所などと違い、日本では具体的な紛争が起きて初めて訴訟として裁判所に認められる。集団的自衛権の場合、自衛隊派遣命令などが出た時に差し止め請求が起こされたり、武力行使に伴い生命・財産などの被害を受けた当事者や家族から国家賠償訴訟が提起されたりすることが想定される。
 
今の裁判所に違憲判決を出せるはずがないと、政府・与党は高をくくってはいないか。「憲法9条はわが国固有の自衛権を否定していない」と初判断した砂川事件最高裁判決(1959年)は、日米安保条約について「高度の政治性を有しており、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り、司法審査権の範囲外」との見解を示した。いわゆる「統治行為論」だ。集団的自衛権をめぐる訴訟になれば初の憲法判断となる。最終的には15人の裁判官による最高裁大法廷で審理され、結論が示されるはずだ。もし「統治行為論」が再び持ち出され、審査の対象とされないようでは司法の消極姿勢が問われるだろう。そして、違憲判決が出た場合の影響は計り知れない。自衛隊活動の正当性に疑念が深まり、賠償責任を負うなど政府が抱え込む訴訟リスクはあまりに大きいと、木村氏は警告する。司法の憲法判断をあなどってはならない。政府・与党には、憲法学者らの意見に耳を傾ける謙虚さが足りない。(論説委員)
 
■参考:ブルース・アッカーマン「安倍首相は日本のリベラル・デモクラシーの遺産をさらに破壊する憲法クーデターを行おうとしている」発言(「浅井基文 2014.06.26」より)
「安倍首相は、特別の国民投票による日本国民の支持を得ないままで憲法の根本を無効にしてしまう、憲法クーデターを行おうとしている。このクーデターが成功してしまうならば、日本のリベラル・デモクラシーの遺産をさらに破壊することを許す先例を作ることになる。これまでのところ、オバマ大統領は抗議もせずに安倍がそうすることを許している。しかし、これ以上そのような受け身的姿勢を続けるならば、将来に向けたアメリカのアジア政策の道義的基礎が損なわれるだろう。憲法は、首相が経済上の成功による人気を利用して根本的な諸価値に対して革命を企てることを許していない。しかも選挙民は圧倒的に安倍の解釈改憲キャンペーンに対して反対している。権威ある共同通信の6月の世論調査では、世論の55%が安倍の動きに反対しており、それは5月の48%よりアップしているのだ。安倍は内閣法制局に圧力をかけて従来の憲法解釈を変えさせようとし、法制局は今や、集団的自衛権の名のもとに広範な先制的軍事行動を可能にするように第9条の解釈を変えようとしている。このような先制的攻撃は、国連憲章第51条で認められている自衛の範囲をも大幅に超えるものであり、第9条に言う「武力による威嚇又は武力の行使」の禁止を根こそぎにする。(ブルース・アッカーマン、松平徳仁)
 
注:ブルース・アッカーマンは大学院レベルでは全米最難関として知られるイエール大学・ロー・スクール(法科大学院)教授、松平徳仁は神奈川大学准教授。
集団的自衛権 公明党の転換 「平和の党」どこへ行った
 
実態は陥落であろう。集団的自衛権行使を可能とする憲法解釈の変更に慎重姿勢を示していた公明党が容認に転じた。海外での武力行使へ歯止めをかけられない内容の閣議決定案の受け入れはこれまで培った「平和の党」の党是にもとる。9条の根幹維持よりも自民党との連立を優先した判断と言わざるを得ない。
 
「二重、三重の歯止めがきき、拡大解釈のおそれはない」。山口那津男代表はこう語り、解釈変更の閣議決定の核となる「新3要件」受け入れを明言した。だが、「解釈改憲ではなく憲法解釈変更だ」(北側一雄副代表)と強調すればするほど説明の苦しさが逆に浮き彫りになる。もともと山口氏は「(解釈変更は)国民に何も聞かず一方的にやることになり、憲法の精神にもとる」と主張していた。公明党はこれまでも安全保障政策の見直しを重ねてきたが、海外での武力行使を可能とする議論はまったく次元が異なる。政府が挙げた事例ごとに、従来の個別的自衛権の範囲で対応できるかどうかを時間をかけて検証すべきだとした当初の主張は筋が通っていた。
 
ところが、早期決着を譲らぬ安倍晋三首相の強硬姿勢に押される形で1972年の政府見解を根拠とする行使容認に踏み切った。今やタガは外れ、執行部は収拾を急いでいるようにすら見える。政府の想定問答が物語るように、同党が強調する「歯止め」はまやかしに過ぎない。同党が難色を示す戦時の機雷掃海も認められている。新3要件次第では集団安全保障による武力行使も可能だ。とても山口氏が胸を張るような成果を勝ち取ったとは言えまい。こうした対応に党所属国会議員や地方組織、支持団体の創価学会などから批判が出ても当然だ。山口氏はかつて「公明党はどこまでも自民党についていく下駄の雪」との批判に「(切れると歩けなくなる)下駄の鼻緒だ」と反論してみせた。だが、今回の経緯を見る限り結局は99年以来続く自民党との連立を壊せない判断ありきだったのではないか。連立離脱のカードを持たない限り、足元をみられるだけである。
 
公明党はさきの特定秘密保護法制定においても与党内で歯止め役を果たせなかった。与党でいる限り自民党から際限なき譲歩を迫られ、変質を続けるのではないか。今回の転換は憲法9条を尊重し歩み続けた党のあり方に大きく影響する。その重さをわきまえるべきだ。
毎日新聞社説 2014年06月28日
「今日の言葉」から。
 
集団的自衛権―ごまかしが過ぎる
 
「憲法上許されない」と言ってきたことを、これからは「できる」ようにする。いま、自民党と公明党が続けている集団的自衛権の議論の本質は、こういうことだ。憲法の条文を改めて「できる」ようにするならば、だれにも理解できる。だが、安倍政権はそうしようとはしない。憲法の解釈を変えて「集団的自衛権の行使」をできるようにする。いままでとは正反対の結論となるのに、自民党と公明党はきのうの協議で、これは「形式的な変更」であり「憲法の規範性は変わっていない」とわざわざ確認した。理解不能身勝手な正当化だと、言わざるを得ない。与党の政治家はこぞってこの理屈を認め、閣議決定を後押しするのか。考え直す時間は、まだ残されている
 
きのう政府が与党に示した閣議決定案の改訂版は、72年の政府見解を根拠としている。その論理の組み立ては、憲法前文や「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」への尊重を求めた13条の趣旨を踏まえれば、9条は「必要な自衛の措置」をとることは禁じていないというものだ。しかし72年見解は、武力行使が許されるのは日本に対する急迫、不正の侵害に対してであって、他国への武力攻撃を阻止する集団的自衛権は「許されない」と結論づけている。その組み立てはそのままに、結論だけ書き直す。そんな都合のいいことは通らない。
 
さらに見過ごせないのが、国連決議に基づく集団安全保障の扱いだ。安倍首相は、集団安全保障の枠組みでの武力行使は否定していた。ただ、それでは自衛隊によるペルシャ湾などでの機雷除去ができなくなるとみた自民党が、これを認めるよう提案すると、公明党は猛反発。この問題は棚上げされた。だから閣議決定案にこのことは明示されていない。ところがきのう明らかになった想定問答には、機雷除去などは「憲法上許容される」と書いてある。その場しのぎのごまかしだ。
 
理屈にならない理屈をかざし、多くの国民を理解できない状況に置き去りにして閣議決定になだれ込もうとしている。閣議決定に書き込めないことでも、実はできると説明する。日本の安全を守るためのリアルな議論はどこかに消えた。あとに残るのは、平和主義を根こそぎにされた日本国憲法と分断された世論、そして、政治家への不信である。
朝日新聞社説 2014年6月28日
 
本ブログの「今日の言葉」の2014年6月19日から同年6月27日にかけての記録です。

アフリカの朝、または夜、または昼 


おい、安倍晋三よ、以下を読め。衆院本会議での答弁。吉田茂首相「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定しておりませぬが、第9条第2項において、一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります。従来、近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。満州事変が然り、太平洋戦争また然りであります」「戦争放棄に関する憲法の草案条項におきまして、(質問者は)国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きことを認むることが有害であると思うのであります(拍手)。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認むることが戦争を誘発するゆえんであると思うのであります。(自衛のための軍隊などという)御意見の如きは有害無益の議論と私は考えます(拍手)」(昭和21年=1946年6月26日。下線は引用者)。安倍、高村、石破よ、よく読め。「正当防衛権を認むることが戦争を誘発するゆえん」。日本の戦後はこうしてはじまり、〈新しい戦前〉のいまがある。(辺見庸「日録22」2014/06/19

・ドスのきいたセリフである。「政界のドン」と呼ばれた
金丸信・元自民党副総裁は言った。「このシャバは君たちの思うようなシャバではない。親分が右と言えば右、左と言えば左なのだ」。永田町はかたぎの世界ではない、ボスがどんな無理無体を言おうが黙って従え、ということだろう。当時の派閥政治の体質をよくあらわす。このところの与党の協議を見ていて、久しぶりに思い出した。憲法の解釈を変えるだけで集団的自衛権を行使できるようにする。安倍政権の方針は無理無体そのもの だ。歴代内閣は、行使するなら9条の条文を改めよ、としてきた。それを突如ひっくり返すことがどうしたらできるのか、説明はいまもない。首相も当初は、条文を改めやすくするためにその要件を緩めようとしていたはずだ。「憲法を国民の手に取り戻す」と。しかし反対論が噴出し、分が悪いと見るや一転、解釈変更へ。憲法を政府の手に握り、国民から取り上げる方向への回れ右だ。なりふりかまわぬ暴走であり、迷走である。(略)憲法を軽んじるこの姿勢こそ、一番の問題だろう。(略)きのうの党首会談で協議は継続となった。集団的自衛権を使いたいと考えるなら、国民を巻き込んで正面から9条改憲を論じればいい。それが私たちの思うようなシャバであり、かたぎの人々による議論の姿である。(朝日新聞「天声人語」 2014年6月20日

・本川裕氏「
統計データが語る日本人の大きな誤解」(略)の中に、興味深いグラフがある(略)。やや難解なグラフであるが、高齢化に伴って、各国の医療費が対GDP比でどのように変化したかを表している。各国の折れ線グラフの点は、2011年までの一年ごとの各国の医療費がGDPに占める比率と、高齢化率(65歳以上の高齢者が人口に占める比率)の交点に打たれている。注目すべきは、米国の医療費率の増大の仕方である。ほぼ垂直にグラフが立ち上がっている。つまり高齢化していないのに、GDPに占める医療比率が急激に上昇しているのだ。(略)グラフの点の数を数えてみると、こうした傾向は、80年代くらいから顕著になっている。米国ほどではないが、英国も同様の傾向がある。特別な要因が指摘できないとすれば、医療費が年々高騰したことを示している。(略)対して、日本は、高齢化率は最も高いが、医療費の対GDP比は相対的に低い。しかも高齢化に伴う医療費の対GDP比率の上昇が相対的に緩やかになっている。高齢化しても他国ほどには医療費の比率が増大しないということで、これは日本の医療制度のコストパフォーマンスが総体的に良好だということを示しているものと思われる。政府は、「経済成長戦略」と称して、混合診療を拡大し、壊れていないモノ=健康保険制度に敢えて手を加えようとしている。(略)絶妙なバランスの上に成り立ち、コストパフォーマンスのすぐれた健康保険制度が破壊されることになる。国民全体の健康が悪化することが避けられないだろう。(街の弁護士日記 2014年6月20日

安保法制懇報告を受けての5月15日首相記者会見は今や指弾の的。リアリティのない状況設定をむりやりに拵えあげて、集団的自衛権行使容認のための世論つくりをねらった姑息なやり口と悪評この上ない。とはいうものの、同日の記者会見の席上、首相は「自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」と確かに言った。これは集団安全保障への日本の参加はないことを明言したものである。(略)6月19日に突如として降って湧いたように、自民党は「国連の集団安全保障での武力行使にも自衛隊が参加できるようにすべきだ」と言いだした。(略)憲法がもてあそばれている 。これまでの与党協議では、自衛権の話しをしていたはず。「集団的自衛権とは『他国防衛のための武力行使を認める』ということ自衛とは無関係ではないか」などと議論していたはずが、自衛とも他衛とも無関係の、集団安全保障という「特定国に対する武力制裁の話し」にまで進行してしまっている。同様の議論を20年前にたっぷりした経験がある。(略)しかしあの頃、「戦争終結以前に、多国籍軍の一員として、戦闘海域に自衛隊の掃海艇を派遣して多国籍軍艦隊の航路を啓開せよ」などという乱暴な議論は聞かなかった。いま、臆面もなくそのことが言い出されている。当時の「海部・小澤」と、今の「安倍・石破」との危険度の開きの大きさを痛感せざるを得ない。(澤藤統一郎の憲法日記 2014年6月21日

・安倍首相が執念深く集団的自衛権行使を進めようとするので、私もしつこくこれに反対するコラムを書かなければならない。今のところ、ペルシャ湾を念頭に置いて、機雷の掃海作業に自衛隊を派遣するため集団的自衛権が必要だという話になっている。これまた新たな詭弁である。石油の輸送が止まったらわが国の存立に著しい影響が出るから、輸送路を確保するために自衛隊が出動しなければならないというのが政府の言い分である。しかし、機雷除去は戦闘活動の一環であり、名目は何であれ自衛隊は戦争に参加することになる。また、ペルシャ湾口のほとんどの海域では機雷除去作業は必ず他国の領海に入って行わざるを得ない。その意味でも、他国の戦争に自衛隊を派遣しないという首相の従来の説明と矛盾する。石油の輸入が止まったら一大事だが、機雷をどければ石油輸送が可能になるのか。これも政府はごまかしている。戦闘状態が続いている限り、自衛隊が危険を冒して機雷を除去しても、安定的に石油を運ぶことはできない。機雷は小手先の話であり、中東での戦争を回避すること以外に石油の安定供給の道はないのである。見え透いた詭弁を弄するとは、自ら設定した期限が迫り、戦争好きのペテン師もあわてているのだろうか。(
東京新聞「本音のコラム」山口二郎 2014年6月22日

・憲法9条を踏みにじり、「戦争する国」へと突っ走る安倍首相─どの顔さげて、「
慰霊の日」の<沖縄全戦没者追悼式>に列席するのか。沖縄では太平洋戦争末期の悲惨な地上戦で、20万人を超える犠牲者が出た。日本軍によって集団自決に追い込まれ、スパイの疑いで銃殺された悲劇もある。平和の礎を清掃する小学生たちは「ふたたび戦争は起こさない」「永遠の平和を祈り求めていく」と誓う。だが東村高江のヘリパッド建設は進む。反対する住民への脅迫やスラップ訴訟を、最高裁判決は容認する。どこまで安倍政権の顔色を伺うのか 。普天間基地に配備の米軍オスプレイは空中から部品を落とし、住民の危険は増す。仲井真知事は、昨年まで3年連続で明記してきた「米軍普天間飛行場の県外移設」を、平和宣言に盛り込まないという。辺野古沿岸部の埋め立てを承認した以上、不要だからとは呆れる。26~27日に天皇、皇后両陛下は沖縄を訪問する。それが過ぎれば、さっそく政府は辺野古周辺の海底ボーリング調査を始める。度し難い。(Daily JCJ 2014年6月22日

今日は「
新日米安保条約」が発効してから54周年にあたる。集団的自衛権をめぐる与党協議が続くなか、自民・公明の支持基盤である地方からも批判の声があがりはじめた。しかし、安倍首相は、集団的自衛権行使についての閣議決定を強行する構えである。会期中は断念したものの、国会閉会後、可及的速やかに行うだろうと言われている。7月7日(盧溝橋事件)の前後になるとすれば、昨年12月26日(毛沢東の誕生日)の靖国神社参拝と同様、安倍首相は、周辺諸国との間であえて波風をたてることを狙っているとしか思えない。ドイツの政治家が周辺諸国との関係で、「記念日」を活かした外交を展開してきたのとは、実に対照的である。(略)安倍首相は、いいかげんに自分の主張の破綻を認めたらどうだろうか。15事例だのと、細かな事例で細かな議論を展開して、公明党の同意を得ようとやっきだが、少なくとも6月21日のTBSテレビ「報道特集」を見た視聴者には、安倍首相が何を覆い隠そうとしているかがわかってしまった。もはやこれまで、である。機雷掃海程度の「受動的かつ限定的な」行為ならばいいだろうと与党協議で納得してしまえば、公明党もそれまで、である。(水島朝穂「今週の『「直言』」2014年6月23日

・戦争を経験した創価学会員による4000篇近い数の「体験記録」と「平和と反戦」への訴え(略)、婦人平和委員会による
「平和への願いをこめて」シリーズを、亡き鶴見和子が解説している。彼女は、本シリーズの特徴を、一つは「制作の過程における世代をこえて/戦争体験を「戦争を知らない世代」へひき継ぐという、もっとも困難な、そして大切なことに成功していること」であり、もう一つは「被害者であると同時に加害者であることを、具体的な事実をとおして、しっかりと見とどけていること」であると評価している。それから四半世紀が過ぎた。創価学会の反戦平和はどこへ行ったのか。いま、自・公両党の集団自衛権協議を、誰も「異様な政治空間」と感じない空気がある。「戦争体験を〈戦争を知らない世代〉へひき継ぐという、もっとも困難な、そして大切なことに成功した」という鶴見の称賛はいまも通用するのか。否である。(略)可能ならば日本の宗教者が共に立ち上がり政治の暴走への抵抗戦線が構築できないのか。そういう問題提起をしたいのである。安倍晋三という歴史修正主義者が権力の頂点に立っている。にもかかわらず、政治とメディアの領域では、この情況に対してまともな批判が行われない。反対する側も混沌としている。現状分析すらままならぬ現状だ。我々は戦後70年を「戦争体験を〈戦争を知らない世代〉へひき継ぐという、もっとも困難な、そして大切なこと」に失敗したのではないか。その疑念から再出発することしかない。 (リベラル21」 半澤健市 2014.06.24

・アベとその一味にたいする
セケン(the Seken)の全般的嫌悪と危惧はこのところいくぶんうすれてきているようにみえる。しかしアベ一味へのわたしの嫌悪はいっこうにうすまらない。どころか、吐き気がつのるばかりだ。一方で、アベ・ファシズムは悪性腫瘍のようにセケンに浸潤し、発育しつつある。マスメディアを内にふくむthe Seken(どうじに、the Sekenを心臓部に内包するマスメディア)を、わたしはますます嫌悪している。the Sekenは「社会」などという上等なものではない。(略)ニッポンの戦争を下支えしてきたのはthe Sekenというしろものであった。従軍慰安婦問題に関する河野談話を安倍政権は故意に貶めようとしている、という韓国政府の感じ方は、ほぼ正しい。安倍政権による歴史の「見直し」「再検討」の底意が那辺にあるか、とうに見すかされている。「識者」というやからが、いかにインチキな権力の太鼓もちか、だれもが知っていることだ。(辺見庸「日録22」2014/06/22,24

どうして新聞はこんなに批評性を失ってしまったのか。ひとつには「マーケットは間違えない」というビジネスの論理を受け入れ、それに基づいてことの適否を判断しているのにもかかわらず、自分たちがマーケットに選好されていないという事実は隠蔽しているからです。読賣新聞はこの半年で部数を52万部減らしました。朝日は9万部。去年紙面審議委員会で訊いたときは朝日の部数減は「1年5万部」でした。そのペースがわずか1年で4倍に加速している。そのことの「意味」についてなぜ紙面は問わないのか。マスメディアが壊滅するというのは情報における「一億総中流」が底抜けし、アクセスできる情報の質による階層化がこのあと急激に進行することを意味しています。自分がアクセスできる情報の「質」についての情報(メタ情報)を持たない情報弱者が激増しているのは、その徴候です。僕は新聞にもテレビにもできれば生き延びて欲しいと思っています。でも、生き延びるためには「死につつある」という病識を持つ必要がある。繰り返しますが、メディアの命は批評性です。なぜ世界は今あるようにあり、それとは違うかたちを取らなかったのかを考えることです。(
内田樹 2014年6月25日

・雷光に、一刹那、照らされる顔が、おもわず悲鳴をあげたくなるほど狂気じみて見えることがある。
メルヴィルの「避雷針売り」のように。ほんとうのことを言えば、これは「狂気じみて」いるのでなく、狂気そのものだ。狂気をみとめなければならない。吐き気とともに、狂気の蔓延を肯定しなければならない。(略)従軍慰安婦の歴史的事実を受けいれない政治権力の底にある、もっとも本質的な女性蔑視、居座りNHK会長(下品きわまりないこの男ひとり引きずり下ろせずに、改憲反対も女性差別反対もありゃしない)の蛮人発言、ヤジられた女性議員が所属するファシスト会派の本来的性格、アベ政権の騙る「女性尊重」のとんでもないまやかし……を、まったく不問にふしておいて、「美しい国ニッポン」があたかも「加害」と「被害」の関係が成立する正気のクニとおもいこんでいる、右や左のアホどもよ。マロニエの根方をまえにして、ロカンタンは吐き気をおぼえた(引用者注:サルトル『嘔吐』)。その無意味さに、ただたんに在ることの猥雑さに。ニッポンとは、かく無意味で、けちくさく、チンケで、無自覚的に猥雑で、なぜかあとかたづけの大好きな、存在そのものを自己嫌悪するよう余儀なくされている、あらかじめファッショ的な小国にすぎない。(辺見庸「日録22」2014/06/26

これほどわけのわからない文章はない。集団的自衛権の行使をめぐる与党協議で示された原案である。自公がそれぞれ都合よく説明できるよう表現を仕組んだせいか、普通の人には意味不明だろう。両党は大筋合意し、きのうは国会の日程まで相談したが、信じがたい乱暴さだ。(略)わけがわからない点は大きく二つある。第1。原案は、他国に対する攻撃であっても、そのせいで日本の存立が脅かされたりする「明白な危険」がある場合は、集団的自衛権を使って反撃していい、ということにしたいらしい。そんなに危ない状況なら日本が攻撃されたのと同じではないかという疑問が浮かぶ。現に原案は、日本による反撃について「憲法上は、あくまでも我が国を防衛」する措置だと書いている。これは集団的ではなく個別的自衛権の話ではないのか。第2 。原案は、集団的自衛権の行使は憲法上許されないと結論する1972年の政府見解を引いて、この理屈は今後も維持すると書いている。歴代内閣の憲法解釈を変更するといっているのに、それを引き継ぐ。つじつまがあわない。およそ理解しにくいこの文章を国民に読めというのだろうか。振り出しに戻ってもう一度議論し直すべきだ 。(
朝日新聞「天声人語」2014年6月26日

安倍首相は、特別の国民投票による日本国民の支持を得ないままで憲法の根本を無効にしてしまう、憲法 クーデターを行おうとしている。このクーデターが成功してしまうならば、日本のリベラル・デモクラシーの遺産をさらに破壊することを許す先例を作ることになる。これまでのところ、オバマ大統領は抗議もせずに安倍がそうすることを許している。しかし、これ以上そのような受け身的姿勢を続けるならば、将来に向けたアメリカのアジア政策の道義的基礎が損なわれるだろう。憲法は、首相が経済上の成功による人気を利用して根本的な諸価値に対して革命を企てることを許していない。しかも選挙民は圧倒的に安倍の解釈改憲キャンペーンに対して反対している。権威ある
共同通信の6月の世論調査では、世論の55%が安倍の動きに反対しており、それは5月の48%よりアップしているのだ。安倍は内閣法制局に圧力をかけて従来の憲法解釈を変えさせようとし、法制局は今や、集団的自衛権の名のもとに広範な先制的軍事行動を可能にするように第9条の解釈を変えようとしている。このような先制的攻撃は、国連憲章第51条で認められている自衛の範囲をも大幅に超えるものであり、第9条に言う「武力による威嚇又は武力の行使」 の禁止を根こそぎにする。(ブルース・アッカーマン松平徳仁)(「浅井基文 2014.06.26」より)
本ブログの「今日の言葉」の2014年6月11日から同年6月18日にかけての記録です。

アフリカの朝、または夜、または昼 

・「そもそも、わが〈国家〉の本質は、なぜ〈天皇(制)〉に収斂するように描かれるのだろうか。そしてなぜ、戦後になってこの収斂が一定の度合いまで断ち切られたとき、わが〈国家〉の本質は、〈天皇(制)〉を息の根がとまるところまで政治体制の外に弾きださずに、いわば不問に付するという形をとったのだろうか
?」。と、吉本隆明は1960年代に問題をなげかけ、「わたしたちは戦後において、〈国家〉の本質が、〈天皇(制)への収斂の過程を断ちきられたとおなじ度合いで〈公〉と〈私〉の生活関係が分離しきれないままで双頭化しているという事態に当面している」と書いている。「公」と「私」の双頭化はなんとなくわかる。だが、「〈天皇(制)への収斂の過程が断ちきられ」るなどということが、戦後の政治・社会状況のなかで一度でもあったであろうか。わたしたちは、いわゆる「國體」を不問に付すどころか、つくづく自照することもなく、白日のもとにさらけだすこともまったくせずに、ここまできたのではないか。〈天皇(制)〉というヌエは結局、無傷ではないのか。(辺見庸「日録20」2014/06/11

沖縄の現状に関心をもつ人でも(略)目下強行されている琉球弧(奄美・沖縄)への自衛隊派兵に対する関心はまだ低い。(略)「本土」の反戦運動では自衛隊の存在を根本から問わず、現に眼前で展開されている自衛隊の動きに目をそむける人が少なくない。それは「憲法9条を守れ」と主張しながら同条第2項に明記されている〈戦力不保持〉、すなわち〈非武装〉に触れない人が多いことと連動する事態であるにちがいない。過日、「自衛隊に触れるならまず『自衛隊さん、ありがとう!』と言いましょう」という声がある反戦・反基地グループから上がったという話を聞いて一瞬耳を疑った。東日本大震災時の自衛隊の災害派遣を評価してのことらしいが、こういう親軍論調が反戦運動内から浮上することは戦後反戦運動の著しい後退を象徴していると私は思う。しかし、反米軍には熱心でも自衛隊となると腰が引けるようでは、安倍政権・防衛省による〈琉球弧の要塞化〉を阻止し「尖閣」戦争を防止することはできない。5月15日、安倍〈好戦宰相〉が解釈改憲の強行を宣言したが、そのとき沖縄戦の体験者たちが「また捨て石か」とうめきつつ反応したことに「本土」の私たちはもっと敏感であるべきである。(井上澄夫 2014/06/12

・安倍晋三首相は、「国の交戦権は認めない」と明記している日本国憲法の根幹に反する集団的自衛権の武力行使容認をめざし、憲法を改正しないまま、あいまいな形で速やかに最終的閣議決定を行い、実施を強行しようとしています。私たちはこの動きに強く反対します。首相は、米国との絆を絶対視し、日本国内の米軍基地と無関係に日本周辺の米国海軍が攻撃されるとか、米国本土が攻撃されるなどの現実的でない事例を示して限定するかのように見せかけています。(略)一連の動きに対して、自衛隊員も含めて人を殺すことはいけないという規範の下で生きてきた国民の支持は得られていません。専門家集団である憲法学者は一致して反対しています。(略)首相の言動は、国民主権の下での三権分立に基づく法治国家としての日本を破壊し、日本が攻めてくることはないと信じてきた周辺諸国をはじめとする世界における日本の評価をおとしめ、近隣諸国の軍備増強に口実を与え、日本の危険を増大させるという取り返しのつかない汚点を歴史に残すことになります。黙っているわけにはいきません。今こそ主権者である日本の国民は、自らの考えを発言し、政府に誤りない日本の針路を選ばせるべきときです
。(
世界平和アピール七人委員会 2014年6月12日

・【
公明党と憲法―自民にただ屈するのか】集団的自衛権の与党協議で、公明党が行使容認を前提とした条件闘争に向かっている。憲法解釈を変える閣議決定に向けた安倍首相の意思は固い。一方で公明党は、連立離脱を自ら封印した。自民党の攻勢に耐えきれそうもないが、せめて厳しい条件はつけておきたい。そんな思いがうかがえる。だが、どんな条件をつけたところで、集団的自衛権を認めることに変わりはない。妥協は将来に禍根を残す。公明党はその重みを肝に銘じるべきだ。きのうの与党協議で、自民党の高村正彦座長が、日本が自衛権を発動するための新しい「3要件」の私案を示した。(略)自民党が主張する「限定容認」どころではない。集団的自衛権がかなり広範囲に認められることになりかねない。(略)公明党は反発する。なんとか一矢を報いたいということなのだろう。だとしても、政権が意のままに憲法解釈を変えることに手を貸すのは間違いない。そんな「法の支配」からの逸脱が許されれば、どうなるか。(略)公明党は、それでもついて行くというのか。自民党の力ずくの憲法改変に。(朝日新聞社説 2014年6月14日

・1934年夏、16歳の
イングマール・ベルイマンは交換留学生としてドイツに行き、チューリンゲン地方の小さな村の牧師の家に6週間ほど滞在する。「私が牧師に、自分もみんなと同じように手をあげて『ハイル・ヒトラー』と言わなければいけないのかと訊くと、かれは『イングマールさん、それは礼儀作法のひとつと見なされているんです』と答えた。私は手をあげ、『ハイル・ヒトラー』と言ってみた。(略)「強制収容所についてはじめて知ったとき、私の頭は、目に映るものをほとんど受けいれることができなかった。(略)ついに真実を認めざるをえなくなったとき、私は救いようのない絶望におそわれ、そうでなくてもすでに心の重荷となっていた自己軽蔑の気持は忍耐の限度をこえるほどふくらんだ。何はどうあれ自分はほとんど無実なのだと思うようになったのは、かなり後のことである。(略)(『ベルイマン自伝』)。(略)〈多くのひとと同様…〉〈全員が…〉〈兄も父も…〉(略)実時間における絶対的多数者の共通感覚、ほとんど無意識の集団発声、唱和、共同行動、集団陶酔の記憶が、あのベルイマンにさえ、後々まで、恥の感覚とどうじに、存外に月並みな自己正当化と「言い訳」の気分を残しているのを、あっさりと見逃すべきではない。さほどに実時間は手ごわい。強力だ。そうじて恥じるということのなかったニッポン(ヌッポン)ではさらにむずかしい。(辺見庸「日録21」2014/06/14

・6月13日、自民・公明の与党協議において、高村正彦自民党副総裁は、集団的自衛権行使を認めるための「高村私案」として
「新3要件」を公明党に示した。1972年田中内閣のときの政府解釈(集団的自衛権の違憲解釈)をつまみ食い的に使って、まったく逆の結論を導いたものだ。もはや論理の世界の話ではない。法学部出身で弁護士資格をもつ高村副総裁は、「安倍的」なるものに「誠実」であるために、もはや「知的」ではない(注:「知的なナチスは誠実ではなく、ナチスに誠実な人は知的ではなく、知的で誠実な人はナチスにはならない 」『世界』2014年7月号水島論攷冒頭)。(略)公明党は、6月14日付各紙の観測によれば、「高村私案」に乗る方向だというが、どうなるだろうか。(略)憲法研究者としては、20条1項後段の理解は、「政治の宗教への介入の禁止」と「宗教の政治への支配の禁止」の両方向からのアプローチが必要だと考えている。しかし、『世界』7月号の拙稿でも指摘したように、「国会等における論議の積み重ねを経て確立され定着しているような解釈」については、政府がこれをその時々の事情で簡単に変更することはすべきでないだろう。その意味で、現段階において、公明党の執行部に対しては次のように言いたい。ここで、集団的自衛権をめぐる安易で簡易な憲法解釈変更に乗るならば、これが前例となって、やがて、宗教団体に関する政府解釈も「時の権力者の趣味や気分によって変更される」ことを覚悟しなければならない、と。(水島朝穂「今週の『直言』」2014年6月16日

・2013年1月25日に「
時代に即した新たな刑事司法制度の基本構想」が公表されました。(略)ところがその中には従来より反対を表明 し続けてきた通信傍受の対象拡大も含まれていますが、何故か日弁連執行部がこのような問題のある通信傍受の対象拡大にまで賛成しようとしているのです。日弁連執行部は狂ったとしか言いようがありません。(略)それにも関わらず、日弁連執行部がこのようなデタラメな根拠を主張して事務当局試案に賛成したいのは、法務省(検察庁)との間で、バーターが成立 しているからです。要は裏取引です。(略)そうしているうちに何と、産経新聞が「通信傍受捜査の対象犯罪、拡大が確実に 法制審」と報じました。(略)朝日新聞は、「全事件の可視化「日弁連主張を」冤罪被害者ら要請」と報じています。(略)当たり前のことです。冤罪被害者たちにとっては日弁連の対応は裏切りにしか見えません。日弁連執行部が権力に擦り寄り、刑事司法制度改悪に加担した汚点は将来に渡って消えることはありません。(「弁護士 猪野 亨のブログ」2014/06/16

甘く見てはならない。高をくくってはならない。相手を見くびってはならない。前例はもうなにもあてにならない。これは、この機に自衛隊を「日本国軍隊」として、どうしても直接に戦争参加させたがっている、戦後史上もっとも狂信的で愚昧な国家主義政権およびそのコバンザメのような群小ファシスト諸派と、9条を守り、国軍化と戦争参加をなんとしてもはばみたいひとびととの、とても深刻なたたかいである。それぞれの居場所で、各人が各人の言葉で、各人が各人のそぶりで、意思表示すること。「日常」をねつ造するメディアに流されないこと。ことは集団的自衛権行使の「範囲」の問題ではない。そもそも集団的自衛権に同意しない、うべなうことができないのだ。9条に踏みとどまること。ひとり沈思すること。にらみ返すこと。敵と味方を見誤らないこと。いまを凝視すること。静かにきっぱりと、反対と告げること。「これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性」をいま眼前にしている。(
辺見庸「日録21」2014/06/17

・「
こころ」の「先生」って、ダメですよね~。エゴイストにしてナルシスト。漱石作品のダメ男の典型です。この人、「私が」「私は」と、自分のことしか言ってない。プライドが高いから、自分のことしか考えられないんです。(略)「坊っちゃん」の主人公も自分勝手で甘ったれで困ったもんですが、(略)子どものまま大人になっているから、明朗で痛快ですらあります。(略)ダメ男ナンバーワンは「それから」の代助ですね。高等教育を受けたのに働きもせず、平気で実家にカネの無心をしている。いまでいうパラサイト。そのくせ他人をぼろくそに言う。(略)朝から風呂場で肌をぴかぴかに磨いて、鏡を見てうっとりする。すごいナルシスト。働かない理由がまたふるってて、「僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ」「日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ」。突っ込み所が多すぎて笑うしかないキャラです。でも、だから代助は、現代の私たちにとって等身大のダメ男なんですよ。上から目線のパラサイトで、「自分は何者なのか」をうじうじ悩んでいる。私たちの中にも見当たるダメさなんです。「先生」もずっと秘密を隠してきたけれど、結局、告白するわけですよ。プライドは高いんだけど、最後に弱さを見せるあたりが共感できる。(略)人間は多少ダメなほうが面白い。ものすごくダメだと困りますけど。漱石の主人公のような「ちょっとダメ男」くらいが一番いいんです。(朝日新聞 豊崎由美 2014年6月17日

・集団的自衛権とは、「同盟国が攻撃を受けた時に、反撃支援に参加する義務」があるということだ。安倍首相が示した架空の事例ではなく、具体的事例に照らしてみなければ、その意味することは理解できない。第二次大戦以後で最大の総力戦となった
ヴェトナム戦争が本格化したのは、1964年にアメリカが本格的に参戦してからである。この参戦の契機になったのは、ヴェトナム沖トンキン湾における米軍艦船への魚雷攻撃である。遠く母国を離れ、他国の領海近辺に威嚇出撃し、攻撃されたと「因縁をつけて」、アメリカは北ヴェトナムへの爆撃と南ヴェトナムへの地上軍派遣を決定した。「同盟国」の艦船が攻撃されたのだから、「同盟国」はこのような強引な侵略にも付き合う義務がある。およそ8年にわたるアメリカのヴェトナム侵略によって、北ヴェトナムの森林は廃墟となり、南ヴェトナムの地上戦ではアメリカは一時50万人を超える兵士を派遣 したが、そのうち5万人もの軍人が命を落とした。ヴェトナム人の軍人と民間人の死者は300万人とも400万人とも言われている。アメリカの参戦によって、膨大な人命が地球上から失われたのだ。(略)アメリカへの軍事的従属下の「集団的自衛権」の行く末は見えている。(リベラル21 盛田常夫 2014.6.17

産業革命を出発点とする科学技術の発展は、20世紀に情報通信革命を生みだし、(略)国際相互依存の不可逆的進行という流れを生みだした。そのことを劇的な形で示したのは、2008年にギリシャで起こった財政破綻(デフォルト危機)が一気に世界金融危機を引き起こした事実である。即ち、今やアメリカを含む世界のいかなる大国といえども、世界のいずれかの地域で発生する事件から無傷ではあり得ず、世界のすべての国々及び人々が運命共同体の一員になったということだ。これが国際相互依存の持つ人類史的意味 である。世界において軍事的一極支配を続けることに執着するアメリカですら、尖閣問題をめぐる日中間の軍事的緊張を前にして、「国際経済は脆弱なので、日中が仲違いをすることを見逃す余裕はない」という深刻な認識表明をせざるを得ないのも、正に国際相互依存の働きを認識するからにほかならない。(略)安倍政権の恐るべき好戦的態度を貫いているのは、この国際相互依存及びその国際関係に対して持つ意味に対する認識の致命的欠落である。(略)最近のIMFの安倍政権の経済政策に対する批判・勧告にも明らかなとおり、アベノミクスに対する国際的評価は極めて厳しい。アベノミクスに対する正面からの批判が一部の識者のレベルに押さえ込まれている日本の現状は寒心に堪えないものがある。(浅井基文 2014.06.18
今朝のニュースで安倍政権で9人目という1人の人の死刑が執行されたことを知りました。
 
昼のニュースでその死刑を執行された人の名前が大阪拘置所に収容されていた川崎政則さんであることを知りました。享年68歳だったといいいます。
 
夕方、アムネスティ・アップデートで川崎政則さんの死刑執行を改めて確認しました。アムネスティ・インターナショナル日本は以下のような「死刑執行に対する抗議声明」を発表しています。

アムネスティ・インターナショナル日本は、本日、大阪拘置所の川崎政則さんに死刑が執行されたことに対して強く抗議する。安倍政権は昨年、4回の死刑執行で8人を処刑し、これまでに9人の命を奪ったことになる。谷垣法相の就任から1年半が経過し、死刑をめぐる情報の公開や全社会的な議論にまったく改善がみられないまま、執行が続けられてきた。現政権のもとで恒常的に行われる死刑執行は、再三にわたり死刑廃止への真摯な努力を求める国際社会の要請に、真っ向から反するものである。(以下、省略)
 
夜、辺見庸のブログの頁を開いてみました。辺見は川崎政則さんの死刑執行について次のように記していました。
 
国家とはなんだろうか、国家とは。国家とはひとつの、神をでっちあげるような幻想(妄想)の産物であり、幻想の結果としての、まぎれもない災いである。それ以外ではない。国家幻想は、戦争をやむをえないものと正当化し、戦争へとひとびとを駆りたてる。ニッポンの国家幻想はまた、死刑を正当化し、生身の人間の首に縄をかけ、絞首刑にして殺すことの罪をためらいもなく無化する。殺す者も殺される者も生身の人間なのだが、死刑の執行は、まるで役所の道路清掃作業のようにかえりみられない。今朝、68歳の男性を、谷垣法相の命を受けて、絞首刑にして殺した大阪拘置所の担当刑務官数人は、おそらくそれぞれ現金で殺人にはとうていみあわない特別手当をもらい、今夜は、家族には内緒で、ジャンジャン横丁か鶴橋、京橋、新世界、飛田新地あたりで、浴びるほど酒を飲むことだろう。つらかろう。死刑囚の最期の絶叫、滑車のまわる音、ロープのしなる音、頸骨が破砕される音、つけ根まで飛びでる舌、眼球、絶命しかけたひとの空中回転、血しぶき、失禁のにおい……を忘れるために。忘れようとしていっかな忘れえない記憶と消そうとしても胸に浮沈する罪の意識を散らしつくすために。

この男は、べつに死にかけているわけでもなんでもない。われわれと全く同じように生きてピンピンしているのだ。彼のからだのすべての器官は、ちゃんと働いている――腸は食物を消化し、皮膚は新陳代謝を繰り返し、爪はのび、組織は形成され続ける、というふうに、――すべてが、滑稽なほど厳粛に、そのいとなみを続けているのだ。彼の爪は、彼が絞首台の踏み板の上に立ったときも、十分の一秒間だけ生命を保ちながら空中を落下していく、その瞬間にも、相変わらずのび続けるであろう。・・・彼の脳は、依然として、記憶し、予想し、思考し――推理しているのだ。彼とわれわれとは、いっしょに歩きながら、同じ世界を見、聞き、感じ、理解している仲間なのだ。ところが、二分後には、突然、ガタンという音とともに、この仲間のひとりが消え去ってしまう――心がひとつ減り、世界がひとつ消滅するのだ」(ジョージ・オーウェル絞首刑」高畠文夫訳)。
 
そのまさに「生命の絶頂を、突然、断ち切ってしまわなければならない不可解さと、そのいうにいわれぬ邪悪さとに、はっと気がついたのだ」と、一九二〇年代にビルマに暮らしたオーウェルは、死刑囚を観察しつつ自他を厳密に描写した。オーウェルは絞首刑にいたる男の罪には一顧だにしていない。絞首台に立たされた男の身体各器官とじぶんのそれらを同等のものとして感じ、極刑そのものの不条理と邪悪さに全感覚を集中してゆく。死刑囚を「仲間」と言い、

仲間のひとりが消え去ってしまう――心がひとつ減り、世界がひとつ消滅する

と書く。こう言えることと、こう言うことがあざ笑われ、歯牙にもかけられない世界のあいだには深い虚無の峡谷がある。ということは『いま語りえぬことのために――死刑と新しいファシズム
のなかでもう書いた。

しかたがない。なんどもくりかえし、死刑に反対するしかない。災いを結果する幻想でしかない国家にとって、せいぜいできる善きこととは、死刑の永久停止、死刑制度の廃絶くらいしかない。けふの死刑執行の報せは、電話で病院の検査予約をとりつつあるときに、ふと聞いた。ひどいものだ。数年来、おりおり胸をかすめていたイメージを、またおもう。カマイタチのような、瞬時の、みえない傷。衝迫。〈おい、国家よ、どうだ、こんどはおれを刑場にひきたてて、身代わり絞首刑ってのをやってくれないか。おれにはそうされる用意がすでにある〉……。おれの内面は死刑囚たちのそれより万倍も(死に値するほど)邪悪なのだから。いまの政権を蛇蝎のように嫌悪し、おまえらがしきるクソのようなこの世に生きることに、もうほとほとうんざりしているのだから。どうだ、安倍よ、谷垣よ、次の「昭和の日」あたりに、おれを公開処刑にしてくれないか?ただし、刑務官たちを煩わせるのではなく、安倍よ、谷垣よ、おまえたちファシストが、手ずからおれの絞首刑執行にあたれ。おれはおまえたちの顔におれさまの血反吐をぶっかけてやる。これは冗談ではない。(「日録23」2014/06/26
最近の集団的自衛権に関する与党間の自公協議について以下のような感想があります。
 
「集団的自衛権の件、「公明党頑張れ」と声を枯らしているリベラル系ブログもあるが、私は最初から公明党なんかはこれっぽっちも信用していない。」)(kojitakenの日記 2014-06-21
 
「(与党間)協議会の席で、公明党の北側氏が「我が党の議論で(自民党に)迷惑をかけているが、いつまでも引きずる考えはない。そう遠くなく結論を得たい」と語った(毎日)(略)北側氏の「迷惑をかけている」発言(は)(略)「できれば、安倍自民のご言い分を直ぐにでも呑んで、ご迷惑をお掛けするようなことはしたくない」と本心を語っている(略)彼の頭の中には、国民がなく、安倍政権と自民党だけがあることをものがたっている。また、憲法の理念を守れるか壊さざるを得ないのかの重大な議論をしていることについての自覚がない。慎重に審議をすることを「いつまでも引きずる」「迷惑をかけている」と本気になって考えているのだ。(略)当てにできない者を当てにし、もしかしたらと幻想を抱いた国民が愚かだったというほかはない。」(澤藤統一郎の憲法日記 2014年6月25日
 
しかし、こうした「公明党はこれっぽっちも信用していない」論のいわば「強硬」派の人たちも、「公明支持者、反発・戸惑い」という集団的自衛権に反対する公明党の支持者、地方組織の様子を伝える朝日新聞(2014年6月26日付)の記事を紹介したり(kojitakenの日記 2014-06-26)、「かつての保守本流と言われた人々も憂慮を深めている。自治体の首長にも慎重論が広がっている。地方議会の反対決議も100の大台を超えて増えつつある。(略)まだ遅くはない。まだ、蟻の一穴をふさぐことは可能だ。公明党に、「自民に擦り寄ることは、結局墓穴を掘ること」と判断させる世論の形成まで、もう一歩ではないか」(澤藤統一郎の憲法日記 同上)という期待を表明したりしています。
 
私の立場は、「当てにできない者を当てにした私が愚かだった」という嘆息をはくのは事後のことでもけっして遅くはないだろう。いまはただ「小○(困る)」の筵旗を立ててお上に昂然と抗(あらが)うこと。そこに活路の道も開けるのではないか、というものです。
 
「ペリー浦賀来航の年嘉永6年(1853)、わが国の内側からも徳川封建支配の終焉を予兆させるできごとがあった。南部領農民3万人が「小○(困る)」の旗を立ててお上に昂然と(むろん、困窮の極みの果てに、ということでもある)逆らった百姓一揆がそれである。そのときの指導者が遠近の農民たちから「小本の祖父」と呼ばれていた64、5歳の老人小本村の弥五兵衛、栗橋村の三浦命助、安家村の俊作、同村の忠兵衛。「彼らは秩序ある統制をもってついに弘化4年の御用金の重課をはねのけ、一揆の目的を貫いた」(大佛次郎『天皇の世紀』)
 
以下、公明党の支持者や地方組織の「不安」と「不満」を取材した毎日新聞と朝日新聞の2本の記事。
 
集団的自衛権:公明の意見集約が難航(毎日新聞 2014年6月26日)
 
◇「全国県代表協議会」を閣議決定前に
 
集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定を巡り、公明党執行部と所属議員のせめぎ合いが続いている。党執行部は閣議決定の核となる自衛権発動「新3要件」の修正案を大筋で容認。これに対し、25日の党内会合では依然、異論が相次いだ。来春に統一地方選を控える地方組織にも慎重論が根強く、党執行部は28日に地方代表を東京都内に緊急招集し、政府・自民党との協議内容を説明する。【高本耕太、田所柳子】
 
公明党執行部は25日の幹部会で、28日に全都道府県の代表らを招集し、集団的自衛権の行使容認に向けた現状を説明する方針を確認した。地方代表による「全国県代表協議会」は国会終了後の定例行事。今年は7月5日に予定しているが、「4日の閣議決定後になると、執行部批判が続出しかねない」(党幹部)と懸念が出て、急きょ2回に分けて説明の場を設けることになった。
 
一方、党所属国会議員が参加した25日の会合では、出席者から「新3要件で修正された『明白な危険』はあいまいで、行使容認の歯止めにならない」「今は認められていない先制攻撃も可能になるのではないか」と改めて異論が続出した。
 
党執行部は当初、今週中の意見集約を狙ったが、党所属議員や地方組織に「丁寧に説明する」(幹部)ため、執行部への一任を取り付ける時期を来週に先送りした。与党協議の座長代理を務める北側一雄副代表は記者団に対し、27日までに意見集約するのは困難との認識を強調。これに伴い、正式な与党合意も来週前半にずれ込む見通しだ。
 
党執行部は「連立離脱」カードを早々に封印しており、集団的自衛権行使容認の「ブレーキ役」としての役割をアピールする方針。しかし、山口那津男代表がこだわった過去の政府見解との「論理的な整合性」もあいまいなまま、首相の「期限ありき」の要求に応じることに対し「出来レース」(党関係者)と批判する声も上がっている。
 
公明党内からは「平和の党は死んだ」「どうせ何を言っても聞かない」など、党執行部への不満が募る。今後、地方組織からも執行部批判が相次いだ場合、政府・与党が描く与党合意や閣議決定のスケジュールが狂う可能性も残っている。
 
公明支持者、反発・戸惑い 集団的自衛権(朝日新聞 2014年6月26日)
 
集団的自衛権の行使容認をめぐる自公の大筋合意。「平和の党」を掲げてきた公明党支持者や地方組織は、どう受け止めているのか。
 
「おそれ」の文言は「明白な危険」に変更へ――。公明新聞や一般紙を読みながら宮崎市に住む60代の女性は「難しすぎておばちゃんには分からん」とため息をついた。公明党の支持母体である創価学会婦人部のメンバー。「表現や形容詞でもめているけど、そもそもは憲法解釈を変えることの恐ろしさだったはずよね」と党の方針に首をかしげた。
 
福岡県宇美(うみ)町議会では、集団的自衛権の行使容認について慎重審議を求める意見書案が20日、可決された。提案したのは公明党の町議2人。町議は「どこが問題なのかさえ、よくわからないのが実情。憲法に関わることでもあり、慎重に議論すべきだ」と話す。
 
与党協議がスタートしたのは約1カ月前。以来、9回の協議があった。「ぎりぎりのところで、合意はやむを得ないのでは」。金沢市の会社員女性(27)は一定の理解を示す。大阪市西成区の男性学会員(85)も「いまの日本をとりまく環境を考えれば、仕方ないのではないか」と話した。念頭にあるのは尖閣諸島をめぐる中国の動きだ。「誰かが守ってくれるわけではない」
 
ただ、多くの支持者らは「大筋合意」に反発する。
 
創価学会員でさいたま市の自営業男性(45)は「将来、自衛隊が際限なく紛争に巻き込まれる心配が大きい」と憤る。東京都大田区の女性(66)も創価学会員。「最初は(自民を)押し返してくれるかと思ったけれど……。自民党と連立を組み続ける必要があるのか」
 
都内の党本部前では25日、市民らが集まり、「まだ間に合う」などと呼びかけた。埼玉県所沢市の派遣会社員西尾典晃さん(46)は「亡くなった母は『平和の党だから、弱い者の味方だから』と40年間支持していた。今の姿を知ったら、裏切られたと思うはずだ」。
醍醐聰さん(東大名誉教授)は自身の「7年少し前」の「ためにする強制の「広狭」論 ~「従軍慰安婦」問題をめぐる安倍首相の理性に耐えない言辞 ~」という記事を自身のブログに改めて再録しようとする理由について以下のように述べています。
 
「政府は6月20日、「従軍慰安婦」の問題をめぐって日本政府としての謝罪と反省を明らかにした1993年の河野官房長官談話の作成にあたり、韓国側と事前に綿密に調整していたなどとする有識者の検証結果を衆院予算委員会理事会に提出した。その一方で、政府は河野談話を引き続き踏襲していくとも述べている。しかし、自民党内には慰安婦の連行に「強制」があったか否かに関して河野氏の発言を質す必要があるとして同氏を国会に招致するよう求める意見が出ている。このような議論がむし返されるのを見て、私は7年少し前に書いた上記の記事を思い起こし、ぜひ、多くの方に一読いただきたいと願わずにはいられない気持ちになった。そこで、元の記事をそのまま、再録することにした。」
 
醍醐さんの「7年少し前」の記事を「再録することにした」理由、また、お気持ちは私にもよくわかります。醍醐さんの意を勝手に承けて私の場合はそのURLをご紹介させていただこうと思います。
 
(再録)ためにする強制の「広狭」論 ~「従軍慰安婦」問題をめぐる安倍首相の理性に耐えない言辞 ~(醍醐聰のブログ 2014年6月25日)。
文字どおり「今日の言葉」として。辺見庸の言葉から。
 
下記に辺見のいう「『加害』と『被害』の関係」を文字どおりの「加害」と「被害」の二分法でしか捉えることのできない「右や左のアホども」のひとつの例はたとえば下記の論のようなものでしょう。
 
性差別野次を擁護した酷使様、そして駄目リベラルな天木直人
(vanacoralの日記 2014-06-23)
 
一般的には私も天木直人に対しては批判的ではあるのですが、上記に例としてあげる天木直人の論を「二次被害をもたらす言説」と批判するのは当たらない批判だと思います。筆者には失礼ですが、ある事象を「『加害』と『被害』の二分法でしか捉えることのできない」「左のアホ」の論の典型といってよいものだと私は思います。ただし、いまの段階では詳説は避けます。
 
以下、共鳴した辺見庸の「今日の言葉」です。やや難解と思われる箇所、誤解を招くかもしれないと思われる箇所には私注を入れました。
 
・雷光に、一刹那、照らされる顔が、おもわず悲鳴をあげたくなるほど狂気じみて見えることがある。メルヴィルの「避雷針売り」のように。ほんとうのことを言えば、これは「狂気じみて」いるのでなく、狂気そのものだ。狂気をみとめなければならない。吐き気とともに、狂気の蔓延(引用者注:『嘔吐』)を肯定しなければならない。そもそもヤジの性質そのものの日常的蛮性、話しにもならぬ土賊的性格、天皇制のなかの根生いの女性差別、性にかわかわる禁中の秘密・病性・オカルティズム、ニッポンの政(まつりごと)と祭りがともにもちつづける歪んだ女性観と「性的無礼講」(引用者注:辺見庸2013年8月31日講演後篇)、ヤジの音声分析だか声紋鑑定だかをやる白衣の男たちのテクノロジカルでイカレた顔つき、それを得々として報じる、じつは社内外セクハラだらけのキチガ×・メディア、従軍慰安婦の歴史的事実を受けいれない政治権力の底にある、もっとも本質的な女性蔑視、居座りNHK会長(下品きわまりないこの男ひとり引きずり下ろせずに、改憲反対も女性差別反対もありゃしない)の蛮人発言、ヤジられた女性議員が所属するファシスト会派の本来的性格、アベ政権の騙る「女性尊重」のとんでもないまやかし……を、まったく不問にふしておいて、「美しい国ニッポン」があたかも「加害」と「被害」の関係が成立する正気のクニとおもいこんでいる、右や左のアホどもよ。マロニエの根方をまえにして、ロカンタンは吐き気をおぼえた(引用者注:サルトル『嘔吐』)。その無意味さに、ただたんに在ることの猥雑さに。ニッポンとは、かく無意味で、けちくさく、チンケで、無自覚的に猥雑で、なぜかあとかたづけの大好きな、存在そのものを自己嫌悪するよう余儀なくされている、あらかじめファッショ的な、醜(しこ)の小国にすぎない。(辺見庸「日録22」2014/06/26
日本のメディアの社説(朝日、毎日、東京、読売、産経、日経)と海外メディア(ニューヨーク・タイムズ)の社説の違いをクローズアップしてみました。日本のメディアの場合、ウルトラ・ライトの産経新聞の主張は論外としても他のどのメディアの社説も程度の差こそあれ「アンタも悪いが、アイツも悪い」的なけんか両成敗論。およそ批評の名に値しません。対して、ニューヨーク・タイムズの社説は明確に安倍首相及び日本の国家主義者を批判するものです。この彼我の社説の違いはなんでしょう? どこからくるものでしょう?

「ニッポンの戦争を下支えしてきたthe Sekenというしろものを心臓部に内包するマスメディア」(辺見庸「日録22」2014年6月24日)の「大勢順応主義」という世間性に起因するものでしょうか?それとも、「『マーケットは間違えない』というビジネスの論理を受け入れ、それに基づいてことの適否を判断しているのにもかかわらず、自分たちがマーケットに選好されていないという事実は隠蔽している」(内田樹「twilog」2014年6月25日)日本のメディアの体質がそうさせているものでしょうか? 

「どうして新聞はこんなに批評性を失ってしまったのか」(同前)。それはおそらく「the Seken」を構成する私たちの責任でもあります。私たちの国のメディアの退廃は私には日本がW杯で敗けてもなぜかハイタッチしたり、道頓堀川に飛び込んで空騒ぎする若者たちの現代世相の光景と重なって見えます。私たちは「世間」から外れる(志を持つ)。「われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづける」(辺見庸8月31日講演)ほかないのでしょうか。
 
日本による歴史の目隠し 第二次世界大戦時性奴隷への謝罪(注:河野談話)が再び論争になる
ニューヨーク・タイムズ社説 peacephilosophy訳:2014年6月24日)
「アジアの安全保障のために日本と韓国の間に建設的な関係が今ほど大切なときはないというときに、米国の同盟国であるその二国は困難な歴史を乗り越えることができないでいる。(略)安倍晋三首相はこの報告書の発表をもって、1993年の談話へのコミットメントを再確認した。(略)しかしこの報告書が韓国との緊張を和らげることを意図されたとしたらそれは失敗に終わった。(略)この報告書は、河野談話が舞台裏における韓国との激しい交渉の結果生まれたものであると言っており、確実な証拠に基づいたものであるかどうかに疑問を呈しているように見えるものだった。日本国外の多くの歴史家は、日本の軍隊が女性たちに慰安所で働くことを強いたことに合意しているが、日本の国家主義者たちはこの女性たちが売春婦であった、そして当局によって奴隷状態を強いられたのではないと主張し続けている。安倍氏は、そもそも検証を指示することで、限定的な国家主義的政治一派の歓心を買うことにより、この戦時中の犯罪の被害者たちを不当に扱い、自国に損害をもたらしている。(略)日本の国家主義者たちは疑いようもなくこの報告書を政府に談話を撤回させるよう圧力をかけるために使うであろう。今こそ安倍氏は自国と世界に対し「否定論者」は間違っているということを明確にすべきであろう。安倍氏が進んでこの政治一派のご機嫌を取り続けることは日本が地域における指導的役割を果たしていく能力を妨げている。米国が、アジアにおいて増している中国の強気の行動に対処していくために合理的な戦略を作っていくには、日本と韓国との協力がどれだけ得られるかに大きく掛かっているのである。(略)民主主義国家であり世界第三位の経済大国として、日本が過去を書き換えようとしているとみられるようなことがあってはならない。」
 
慰安婦検証 問題解決の原点に返れ
朝日新聞社説 2014年6月21日
「この検証が行われたのは、日本政府が行った元慰安婦の聞き取り調査の信頼性を問題視する声が上がったからだ。談話の作成過程を明らかにすることで韓国を牽制する狙いもあったのだろう。(略)安倍首相はかつて、慰安婦への謝罪と反省を表明した河野談話の見直しを主張していた。だが、国際社会からの強い反発もあって、河野談話を見直さないとの方針に転じた。もう談話に疑義をはさむのはやめるべきだ。慰安婦問題が日韓の大きな懸案に浮上して、四半世紀がたとうとしている。(略)もっとも大切なのは元慰安婦たちの救済であることは論をまたない。韓国政府に登録した元慰安婦の生存者は54人になった。日韓両政府に、互いをなじり合う余裕はない。河野談話をめぐって「負の連鎖」を繰り返すことなく、今度こそ問題解決の原点に返るべきだ。」
 
河野談話の検証 これで論争に終止符を
毎日新聞社説 2014年06月22日
「談話が問題解決を目指した政治的文書の性格を帯びていたのは確かだ。事前調整があったのは、韓国が受け入れ可能な内容でなければ意味がないと日本も考えたからだろう。そのことで談話の信頼性や正当性が損なわれたと考えるのは誤りだ。(略)菅義偉官房長官が談話継承を改めて強調したのは当然だ。米国務省のサキ報道官は「米国は河野談話を見直さないとした菅長官の声明に留意している」とその姿勢を支持した。韓国側にも配慮を求めたい。過剰な表現で一方的な批判をするのは控えてほしい。こうした言動への日本国民の不快感が、談話見直しへの一定の支持につながっているからだ。過去を冷静に見つめ、未来に生かす発想を互いに今一度思い起こそう。検証をその契機にしたい。」
 
日韓と慰安婦 互いに譲歩し解決図れ
東京新聞社説 2014年6月21日
「政府は従軍慰安婦問題で旧日本軍の関与を認めた「河野談話」の検証結果を国会に報告した。韓国側は反発しているが、互いの見解に接点を見いだし、もう一度解決を図るべきではないか。(略)韓国政府は河野談話の内容には関与していないと主張しており、検証結果に反発している。韓国側に説明を尽くさねばならない。(略)韓国の元慰安婦たちの生存者は五十四人、平均年齢は八十代後半になった。日本側の償い事業は未完のまま終了したが、日韓両政府は互いに譲歩し、被害女性を救済する人道的な解決策をもう一度探るべきではないか。 オバマ米大統領は四月に訪韓した際、「慰安婦問題はおぞましい人権侵害だ」と述べた。国連機関の会議でも、日本批判が出る。これまでの努力が十分理解されないのは残念だが、国際社会の視点は依然厳しいものがある。」
 
河野談話検証 外交的配慮が事実に優先した
読売新聞社説 2014年06月21日
 「いわゆる従軍慰安婦に関する河野官房長官談話の綻びが、改めて浮き彫りになった。(略)韓国側が「韓国国民から評価を受け得るものでなければならない」と談話の修正を求めるなど、日韓両政府が緊密に表現を調整した実態が明らかになった。焦点の慰安婦募集の強制性について、談話は「甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」としている。(略)事実関係よりも政治的妥協と外交的配慮を優先したのは明らかだ。極めて問題の多い“日韓合作”の談話と言えよう。(略)河野氏は談話発表時の記者会見で、強制連行の有無についての質問に、「そういう事実があった」と答えた。誤った認識をさらに広げた河野氏の罪は重い。(略)談話の見直しは、いずれ避けられないのではないか。」
 
河野談話の論議打ち止めに
日本経済新聞社説 2014/6/21
「安倍政権が従軍慰安婦問題に関する「河野談話」の作成過程を検証した報告書をまとめた。(略)新たな論争を生みそうだが、あえて提言したい。もう打ち止めにしよう、と。(略)自民党の保守派などは「軍の関与や強制連行を示す証拠はない」と談話を批判してきた。(略)検証すると決めた時点では、談話の信ぴょう性を弱め、見直しにつなげる思惑があったようだ。(略)昔のできごとにはいくら調べてもはっきりしないことが少なくない。元慰安婦の証言の食い違いなどを指摘しても水掛け論になるばかりで、得るものは少ない。いま政府が取り組むべきは、長期的な日本の国益を見据えて外交政策を進めることだ。東アジアの不安定な安全保障環境を考えれば、民主主義・市場経済の価値観を共有する日韓が角を突き合わせてよいことはない。河野談話の蒸し返しはもうやめて、未来につながる日韓連携を考えるときだ。」
 
「河野談話」検証 やはり見直しが必要だ 国会への招致で核心ただせ
産経新聞主張 2014.6.21
「信憑(しんぴょう)性のない作文をまだ継承しようというのか。(略)検証では、唯一の根拠とされた元慰安婦16人の聞き取り調査がまとまる前にほぼ談話がつくられ、聞き取りは事実の究明より「儀式」として行われたことが明らかにされた。事実に目をつぶり、政治決着を急いだ談話の虚構性が一層明確になり、その信頼性が、根本から崩れた。根拠のない談話により、日本の名誉は著しく傷つけられている。やはり談話は、破棄、撤回を含め見直さなければならない。(略)海外でも、韓国だけでなく米国など国際社会に「日本軍の性奴隷」といった誤解と曲解が広がっている。相手の意向を踏まえ、謝罪を重ねる外交姿勢は国益を害し、国際的にも信用されない。根拠が崩れた河野談話という負の遺産をなくし、事実を発信していかねば、過去の問題が蒸し返され、新たな謝罪要求を生むばかりだ。」
浅井基文さん(元外交官、政治学者)が日本の政府とまたあるときは(というよりも、しばしば)メディアが演出、創出する「中国脅威論」の実態についてリアルな解析を試みています。私たちはいかに中国という国を「実態の中国」としてではなく「虚構の中国」としてしか見ていないか。「虚構の中国」を見て、それを中国と思いなして判断し、批判しているか。そのことの認識上の、あるいは政治上の、あるいは人道上の非を思い知らされます。
 
以下、浅井基文さんの「中国脅威論」検証の(1)「中国軍機異常接近」問題と(2)「南シナ海における中越衝突」という論攷。
 
「中国脅威論」検証 -(1)「中国軍機異常接近」問題-
(浅井基文 2014.06.22)
 
中国経済の急台頭、日本を押し退けて世界No.2にのし上がったことを背景に、日本国内では「中国脅威論」が喧しく取り上げられるようになりました。アメリカ・オバマ政権が「アジア回帰」(第1期)及び「リバランス」(第2期)戦略のもとで中国を軍事的に牽制する政策を強め、中国がこれに対抗して軍事力強化に邁進していることも、多くの日本人にとっては「中国脅威論」を裏づけるものとして受けとめられていることを、私は様々な集会で会場から受ける質問を通じて実感しています。
 
「中国脅威論」の広がりにおける特徴の一つは、日米軍事同盟の強化、憲法第9条の解釈改憲による集団的自衛権行使を目指す安倍政権の動きに反対する人たちの間でも真剣みをもって受けとめられているということです。そうした人たちの中には、「中国は大国になって変わってしまった」という失望感が働いているようです。こういう心情は、「中国脅威論」を大上段に振りかざして集団的自衛権行使(及びそのための第9条解釈改憲)に突っ走ろうとする安倍政権に対してどうしても受け身にならざるを得なくします。
 
私は基本的に、「中国は大国になって変わってしまった」とする私たちの心情自体が基本的に大きな問題を抱えていると思います。
 
一つは、この心情の根底にあるのは、「大国」と「大国主義」とを一緒くたに捉えてしまう私たちの国際感覚における初歩的誤りです。国際関係においては、大国には中小国にはない大きな責任が伴います。分かりやすい譬えでいうならば、小さなアリが赤信号を無視しても車にひき殺されるのがオチですが、巨象が赤信号を無視して繁華街を横断しようとしたら大変な混乱が起こります。中国は、自らが押すに押されぬ大国になったことを認識して、国際関係において大国らしい振る舞いかたをしようとしているのです。それが「目障りだ」とするのは、あたかも成長した子どもに対して、「小さいときは親のことをよく聞く良い子だった」と慨嘆する身勝手な親と同じです。
 
もう一つは、この心情が根底にあると、安倍政権やメディアが意識的につくり出す「中国脅威論」の「証拠材料」を無批判に受け入れてしまうことになるということです。最近小野寺防衛相・防衛省が音頭をとった「中国軍機異常接近」、メディアが中国の「大国主義」「拡張主義」を喧伝する材料にしている「南シナ海における中越衝突」は、正に「中国脅威論」の正しさを示す「証拠材料」となっています。
 
(1)「中国軍機異常接近」問題
 
そこで、この二つの事件が本当に「中国は脅威である」ことを証明するものであるのかを検証してみようと思います。今回はまず「中国軍機異常接近」問題を取り上げます。
 
1.事実関係に関する日中それぞれの主張
 
<5月24日のケース>
5月22日から24日にかけて東シナ海において中露両国海軍による合同軍事演習が行われました。5月24日付の中国・新京報はこの演習の模様を報道する記事において、米日韓3国が偵察機、軍艦などを派遣して情報収集に当たっていることを報道していました。
 
5月24日に防衛省は、「5月24日午前11時頃及び12時頃、東シナ海において海上自衛隊機(OP-3C)、そして航空自衛隊機(YS-11EB)に対して、中国の戦闘機(Su-27)による異常な近接航空があった」と発表し、「外交ルートを通じて抗議をした上で公表」しました。翌日(25日)、臨時記者会見した小野寺防衛相は、自衛隊機の活動は「通常の警戒監視任務での飛行」「従前から行っている情報収集」であり、中国に対して「このような危険な行為は避けるべきだ」と注文をつけました。小野寺防衛相は、記者から「中露合同軍事演習の場所から考えると、その情報収集という認識でよいか」という質問に対しては、「そのような特定の目的ということではない」、「中露が演習を行うと設定した海域・空域とは全く違う場所」と答えました。
 
さらに記者が、「今回起きた空域は日本が防空識別圏と言っているエリアで、一方で中国が一方的に主張している防空識別区と重なるところだ。それについて中国軍機が自衛隊機にスクランブルしてきたとの認識なのか」と質問したのに対して小野寺防衛相は、「通常スクランブルというのは、一定の距離をもって領海の方に入ってくる場合の対応が通常であって、今回のようにごく普通に公海上を飛んでいることに関して近接するなんてことはあり得ないので、これは常識を完全に逸した近接行動だ」と答えました。ただし、発生した場所については「日本の防空識別圏と中国の防空識別区の重なる東シナ海上空」であることを認めました。
 
これに対して中国国防部HPは25日、次のように事実関係を報道しました。
 
「日本のメディアが報じた中国軍機が東海上で自衛隊機に「異常接近」した件に関し、国防部新聞事務局は25日、次のように表明した。5月24日午前に自衛隊機OP3C及びYS11EB各1機が中国の防空識別区に侵入し、中露海上合同演習に対して偵察、妨害を行った。中国軍機は緊急発進し、必要な識別、防犯措置をとり、演習参加の艦船及び航空機の安全を守り、演習の順調な進行を確保した。 国防部新聞事務局はさらに次のように表明した。中露海軍が東海の予定された海空域で行う海上合同演習は、双方が共同で組織した定例演習であり、国際慣例に従って演習前に様々なルートを通じて関連海空域における航行航空禁止を発表した。中国軍機は、空中の安全を守り中国倒海防空識別区関連空域に進入する外国の航空機に対して必要な識別及び防犯措置をとる権限を有する。日本軍機が勝手に演習空域に押し入り、危険な行動をとった行為は国際法及び国際通行準則に対する深刻な違反であり、誤読誤判ひいては空中における意外な事件を容易に引き起こしかねない。中国はすでに日本に対し、日本が中露海軍の合法的権利を尊重し、関係する人員に対する取り締まりを行い、すべての偵察及び妨害活動を停止するべきであり、しからざれば、これによって起こるすべての結果については日本側の責任となることを緊急に申し入れた。」
 
日中双方の主張における最大の食い違いは、小野寺防衛相は、①自衛隊機の活動は「通常の警戒監視任務での飛行」「従前から行っている情報収集」であり、②事件が起こった空域については「ごく普通に公海上を飛んでいることに関して近接するなんてことはあり得ないので、これは常識を完全に逸した近接行動だ」としているのに対して、中国国防部は、①自衛隊機は「中露海上合同演習に対して偵察、妨害を行った」、②事件が起こった空域は「中国の防空識別区」であると同時に、中露合同軍事演習として「国際慣例に従って演習前に様々なルートを通じて関連海空域における航行航空禁止を発表した」空域でもあった、としている2点です。
 
<6月11日のケース>
小野寺防衛相は6月11日の臨時記者会見で、「本日11時頃から12時頃にかけて、東シナ海の公海上において、通常の警戒監視活動を行っていた海上自衛隊及び航空自衛隊の航空機に対して、中国の戦闘機Su-27による異常な接近事案が発生した。これは先月24日に引き続きの事案となる。前回の事案を含む中国軍機の一方的な行動は偶発的な事故に繋がりかねない大変危険な飛行であり、決してあってはならない。政府として、改めて外交ルートを通じて、中国側に厳重な抗議を行い、公表した」と述べました。
 
発生地点及び状況として同相は、「今回も東シナ海の公海上であり、通常警戒監視を行っている場所だ。前回と同じように航空自衛隊及び海上自衛隊の警戒監視の任務にあたっている航空機に対して、中国の戦闘機が30メートル、45メートルといった大変近接する危険な飛行があった。また飛行の仕方についても、日本側のパイロットが危険を感じるような、そういう大変荒い、危険な飛行の状況だった」と説明しました。
 
これに対して中国国防部網は翌12日、耿雁生報道官の次の内容の談話を発表しました(外交部の華春瑩報道官及び空軍の申進科報道官も同趣旨の発言を同日の定例記者会見で行いました)。また同日、耿雁生報道官はビデオも公表してその裏付けとしました。
 
「6月11日、日本は中国の戦闘機が自衛隊偵察機に「異常接近」したとでっちあげ、中国の軍事的脅威を宣伝した。これは、5月24日に中国軍機が日本の自衛隊機に「異常接近」したとでたらめをいった後再び行った根拠ゼロの非難であり、その狙いは国際社会をさらに欺し、中国軍のイメージを真っ黒に描き出し、地域の緊張した雰囲気をつくり出そうとすることにある。日本側のこのような悪らつなやり方は事実を顧みず、黒白をひっくり返し、悪人が告げ口をする類だ。
 
  事実の真相は極めてハッキリしている。6月11日、中国空軍航空兵部隊が東海防空識別区でルーティンの巡邏を行っていた10時17分から28分にかけて、中国のTu-154機が中国近海関係空域で正常飛行をしていたときに、日本のF-15戦闘機2機の接近追跡に遭遇し、至近距離約30メートルで、中国機の飛行の安全を深刻に脅かした。同日午前には、自衛隊のYS-11EB及びOP-3偵察機各1機が東海防空識別区内で偵察飛行を行った。関係規定に基づき、中国空軍は殲-11戦闘機2機を出動させて日本機に対して識別確認を行ったが、日本機との距離は150メートル以上を保った。…
 
日本側は長期にわたって中国艦船・航空機に対して近距離追跡と妨害を行い、その安全を脅かしており、これが中日海空安全問題の根源である。しかる日本側は自らの誤りを深刻に反省しないだけではなく、しばしば無責任な欺瞞的及び煽動的言論を弄し、悪意に満ちた攻撃を行っているのは明らかにためにするものであり、対中関係における虚偽性と二面性とを完全に暴露している。日本側はこのことについて中国及び国際社会に対して問題の所在を明らかにするべきだ。中国はさらなる措置をとる権利を留保する。」
 
中国側が発表した自衛隊のF-15戦闘機2機の接近は日本側が11日に公表した事実関係に含まれていなかったことであり、また中国側がビデオまで公表したこともあり、6月12日に行われた小野寺防衛相の臨時記者会見では、その点に質問が集中しました。これに対して小野寺防衛相は、「そのような事実はない」、「今回の日本の自衛隊機に対しての接近事案に何らか後ろめたいことがあるので、自分たちで映像をわざわざ公開したのかな」、「いつどこで撮ったかは分からない」等と述べるにとどまりました(12日付の産経新聞等は、日本政府の某高官の発言として、「(このビデオ映像は)今回とまったく関係のない事件のビデオだ」という見解を紹介しました)。
 
今回のケースにおける日中の主張が食い違う最大のポイントは、事件が起こった空域が「今回も東シナ海の公海上であり、通常警戒監視を行っている場所だ」(小野寺防衛相)とする日本側と、中国が設定した「東海防空識別区」内であったとする中国側との違いにあります。また、日本側が明らかにしていなかった自衛隊戦闘機による中国軍機に対する「異常接近」が起こっていたということを中国側がビデオ映像とともに発表したことも問題となりました。
 
2.中国に客観的に軍配を上げたアメリカの反応
 
5月24日のケースにしても、6月11日のケースにしても、日中双方の主張は大きく隔たっています。しかも厄介なことに、事件が起きた空域における事実関係に関しては、私たち第三者としては確認のしようがありません。そうなると、先手をとった日本側の主張が耳目に受け入れられやすくなり、後手に回った中国側の主張はどうしても疑いの眼を向けられることになります。私自身としても、いずれの主張に軍配を上げるべきかについての判断材料の持ち合わせがあろうはずはありません。
 
しかし、この事件については実は事実関係を明確に判断できる当事者がいるのです。それはアメリカです。と言いますのは、アメリカの偵察機も関係空域で偵察飛行しているわけですから、日中双方の言い分のいずれが正しいかを判断する材料の持ち合わせがあるはずだからです。ですから私は、アメリカ国務省のサキ報道官が定例記者会見で行った発言に注目しました。その発言は以下のとおりでした。
 
<5月24日のケース>
 
地域の国々の間の強いかつ建設的な関係は平和と安定を促進する。平和と安定を促進することは両国及びアメリカの利益である。我々は、いかなる意見の違いについても対話と外交を奨励する。対話と外交が適切な前へ向けたステップだと思う。
 
<6月11日のケース>
 
(11日の会見)
中日の航空機が接近したという報告は読んだ。我々は、すべての国々が飛行中の航空機の安全を尊重することを確保するように主張する。すべての当事国は、意見の違いを平和的に処理し、海空域での計算違いまたはさらなる事件を避けることができるように危機管理の手続きを編み出すようにする必要がある。国際空域における飛行に干渉するいかなる試みも地域の緊張を生み出し、計算違い、対決さらには思わぬ事件の危険性を増大させる。
 
(12日の会見)
(中国国防省が公表したビデオに関するコメントを求められて)私はそのビデオを見ていない。私としては、すべての国々が飛行中の航空機の安全を尊重することを主張していることを繰り返したい。これらの報告によっても、中国及び隣接する国々が計算違いあるいは海空域でのさらなる事件を避けるための危機管理手続きを編み出す必要があるという認識を強める。また、国際空域における飛行の自由に干渉しようとするいかなる試みも、地域の緊張を高め、計算違い、対決及び思わぬ事件の危険性を増す。
 
(どちらかの側に責任があるという立場かという質問に)中国が防空識別圏を設定したことに対してこれまでに関心を表明したことは周知のことだ。今回のことがそれに関するかどうかについて私は知らないが、すべての当事国が飛行中の航空機の安全を尊重するように主張しているところであり、今回の事件についてはそれ以上の詳細を持ち合わせていない。
 
直ちに分かることは、日中いずれの側の主張に対しても判断を示していないということです。しかし、このこと自体が実は特別な意味をもっています。つまり、アメリカのこれまでの対応パターンは、①中国の主張に非があるとする材料があるときは中国を非難する、しかし、②中国の主張に歩がある場合には中立の立場を装う、とハッキリと色分けできるのです。特に6月12日の記者会見では「それ(中国の防空識別区)に関するかどうかについて私は知らない」とわざわざ言及していることは正に「語るに落ちた」ということです。アメリカ側の以上の対応から、「中国脅威論」を喧伝するために、小野寺防衛相及び防衛省が「中国軍機異常接近」を作り上げたことはほぼ間違いないでしょう。
 
ちなみに、5月24日のケースについては、5月28日付の環球網がロシア極東研究所のボフリヤジェンコ(中国語の表記直訳)の次の発言を紹介していることをつけ加えておきます。
 
ロシアと中国の演習は事前に発表した海空域で行われた。ということは、演習水域及び空域に対する進入を禁止することを事前に通報することは国際法に合致している。今回の事件に関して言えば、日本の好奇心が引き起こしたものだと思う。日本は最大限度まで演習区域に近づこうとし、事前に発表された空域を侵犯したのだ。中国がスクランブルをかけたのには根拠がある。日米が合同軍事演習を行うときにも、同じような安全措置をとる。ロシアも今回の日本と同じように日米の合同軍事演習には非常に関心があるが、近年ロシアに対してこのような抗議の口上書が行われたケースは記憶がない。今回の事件については日本はやり過ぎであり、中国が日本の軍機を露中合同軍事演習区域から追い出したのはまったく正当だ。
 
3.アメリカの反応に対する中国専門家の分析
 
6月15日付の中国網は、「中日軍機の「異常接近」 アメリカの見解表明はなぜ変わったのか」と題する馮創志署名文章で大要次のような見解を紹介しました。馮創志が「アメリカも中日軍機の「異常接近」については一目瞭然である」と指摘しているのは、アメリカの偵察機も当該空域にいたことを裏づける発言であることは明らかでしょう。
 
しかし、6月のケースでは「一方的に中国を批判した」と指摘し、その背景事情として「オバマは5月28日のウェストポイント演説で、「南海における侵略に反対する」という発言を行い、アメリカの政軍関係者が一斉に中国に圧力をかける出発点となった。したがって、アメリカは当然日本に肩入れすることになったのだ」という判断を示しているのは、それなりに興味深いことです。
 
私自身は、6月11日及び12日のサキ報道官の上記発言は「一方的に中国を批判した」とは言えず、馮創志のこの判断は「深読み」過ぎると思います。しかし、オバマのウェストポイント演説を契機として、アメリカの対中批判姿勢が顕著になってきていることは、6月15日のコラム「ウクライナ情勢を受けたオバマ政権の軍事戦略再表明」で指摘したところではありますので、馮創志がこのような見方を示すこと自体が荒唐無稽と片づけることもためらわれます。
 
注目されるのは、中日軍機の「異常接近」事件に関するアメリカの態度だ。5月のケースについては、サキ報道官は27日の記者会見では、「いかなる意見の違いについても対話と外交を奨励する」と述べただけだった。ところが6月のケースでは、「国際空域における飛行に干渉する行動は適切ではない。そのようなやり方は地域の情勢を緊張させ、思わぬ衝突の発生をもたらすだけだ」として、一方的に中国を批判した。
 
この2回の「異常接近」事件に対するアメリカの反応は何故かくも違っているのか。 自衛隊の2機の偵察機が5月24日に中国の戦闘機と接近したのには原因があった。中露は軍事演習を行っていたのだ。中国は事前に各国に対して通告を行っていた。しかも、中露の軍事演習は中国の防空識別区で行われていた。防空識別区に進入する飛行体は中国に通告しなければならない決まりだ。明らかに日本は中国の識別区を無視し、かつ中露軍事演習にも挑戦しようとしたのだ。中露の演習期間中、日米の偵察機はほぼ毎日偵察しており、24日の自衛隊機は偵察妨害を行った。だから、中国軍機はスクランブルをかけ、所要の識別及び防犯措置を行ったのだ。
 
日本が5月24日の「異常接近」に関して中国軍機を非難した際、ことさらに中露軍事演習についてなかったかのように扱ったのは、ロシアの反発を買わないようにという計算からだったことは明らかだ。アメリカも中日軍機の「異常接近」については一目瞭然であるのに、一方的に日本に肩入れするとロシアの不満を招きかねないので、当たらず障らずの対応をしたという可能性がある。
 
しかし、6月の「異常接近」についてのアメリカの見解表明に関しては、アメリカの戦略的意図を読みとることは難しいことではない。オバマは5月28日のウェストポイント演説で、「南海における侵略に反対する」という発言を行い、アメリカの政軍関係者が一斉に中国に圧力をかける出発点となった。したがって、アメリカは当然日本に肩入れすることになったのだ。

「中国脅威論」検証 -(2)南シナ海における中越衝突-
(浅井基文 2014.06.22)

今回は「南シナ海における中越衝突」問題を取り上げます。

1.日本・日本人が踏まえるべき出発点
 
   
私たちが西沙諸島及び南沙諸島にかかわる問題に向きあう上で踏まえるべき出発点は以下の事実関係です。
 
カイロ宣言(1943年11月27日):「(米英中の)目的は…第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取しまたは占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること並びに満州、台湾及び澎湖島の如き日本国が清国人より盗取した一切の地域を中華民国に返還することにあり。日本国はまた暴力及び貪欲により略取した他の一切の地域より駆逐せらるべし」
 
◯ポツダム宣言(1945年7月26日)第8項:「カイロ宣言の条項は履行せらるべく、また日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに我ら(米英中ソ)の決定する諸小島に局限せらるべし」
 
◯終戦詔書(1945年8月14日):「朕は帝国政府をして米英中ソ4国に対しその共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」
 
◯降伏文書(1945年9月2日):「(下名(重光葵及び梅津美治郎は(米中英が発し、後にソ連が参加した)宣言の条項を、日本国天皇、日本国政府及び日本帝国大本営の命によりかつこれに代わり受諾す。」
 
「下名は、ここにポツダム宣言の条項を誠実に履行すること…を天皇、日本国政府及びその後継者のために約す。」
 
◯対日平和条約(1951年9月8日)第2条(f):「日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」
 
◯日華平和条約(1952年4月28日)第2条:「日本国は、千九百五十一年九月八日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第二条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される。」
 
つまり、カイロ宣言及びこれを受けたポツダム宣言を受諾し(終戦詔書及び降伏文書)、誠実に履行することを約束した(降伏文書)ことにより、日本は西沙諸島及び南沙諸島(対日平和王役及び日華平和条約にいう「新南群島」)を含む日本が中国から「盗取」した一切の地域を中国に返還すべきことを約束したのです。そして中国は1951年以前に西沙及び南沙諸島に対する実効支配を回復しました。
 
対日平和条約には中国(中華人民共和国政府及び中華民国政府)は招請されず、参加していませんが、前者を代表して周恩来総理兼外相はサン・フランシスコ会議について声明を発表し、その中で、「西沙及び南沙諸島などが中国の領土であると指揮しました。また、日本は中華民国政府と日華平和条約を締結したのですが、その中でわざわざ西沙及び南沙諸島に対する放棄を確認しているのです。つまり、日本(及びアメリカ)は西沙及び南沙諸島が中国に属することについて何の異論もなかったということです。
 
2.ヴェトナム側主張に対する中国側立場
 
私はヴェトナム語はまったく分かりませんし、ヴェトナム側の主張に関する文献に直接当たる機会もありません。そういう中、5月27日以後に中国が西沙諸島海域で石油採掘作業を開始してから、中越間の衝突が大きく報道されました。
 
中国外交部は6月14日にこの問題に関する内外記者に対するプレス・ブリーフィングを行い、「中国は西沙群島は中国領であり、いかなる紛争もないと言うが、ヴェトナムは自国領であり、少なくとも紛争があるという立場で、自らの主張の根拠としてサン・フランシスコ会議、ジュネーヴ協定、中越指導者会談を挙げている」という指摘・質問に対して、次のように中国側の立場を明らかにしました。
 
以下の中国側主張・指摘に関して、このコラムを読まれた方から指摘がいただければとてもありがたいです。
 
第一に、西沙群島の発見、命名、開発経営がもっとも早かったのは中国であり、早くも西暦10世紀には中国の管轄下に置いており、ヴェトナムが主張する17世紀より700年早い。
 
第二に、ヴェトナム側は、フランスの植民地統治時代に、フランスが西沙に対する主権を主張したことがあり、ヴェトナムの主張は植民地政府の権利を継承するものだとも言う。しかし、これはまったく根拠がない。1921年8月22日、ブリアン首相兼外相は、中国政府が1909年には西沙諸島に対する主権を確立しており、フランスが要求を提起することは不可能であることを承認した。その後フランス政府は様々な行動をとったが、中国政府は断固反対して申し入れ及び闘争を行った。その点については大量の歴史的史実がある。
 
第三に、カイロ宣言等一連の国際文書は、西沙及び南沙諸島を含む、日本が侵略占領した中国の領土はすべて中国に返還すべきことを規定している。ヴェトナムは1951年のサン・フランシスコ平和条約を提起しているが、中国は1951年以前に西沙及び南沙諸島に対する回収作業を終えていた。西沙諸島最大の島嶼を永興島と言うが、その由来は、1946年から48年にかけて西沙及び南沙諸島に対する回収に当たった4隻の軍艦の一つである永興の名にちなんでつけたものだ。南沙の中業島、太平島なども、これら島嶼を回収した軍艦または軍人に由来する。
 
1954年のジュネーヴ会議について言うならば、この会議の目的は朝鮮問題及びインドシナ問題の平和的解決にあり、西沙及び南沙と一切関係なく、協定には西沙及び南沙にも言及がない。
 
第四に、1970年代以前におけるヴェトナム側の公的文書、教科書、地図などは西沙及び南沙諸島が中国領土であることを明確に承認している。1958年、ファン・バンドン総理は周恩来総理に対する口上書で、中国が1958年9月4日に発表した了解に関する声明に関し、西沙及び南沙が中国の領土であることを明確に承認した。
 
この点についてヴェトナム側は、当時承認したのは中国の領海が12カイリであり、これを承認し、尊重するとしただけで、領土主権に対する確認は含まれていないとしている。しかし、この主張も通用しない。なぜならば、この声明中には明確に西沙諸島、南沙諸島、中沙諸島、東沙諸島その他一切の中国の島嶼が12カイリの領海の権限を持つことを述べているからだ。
 
第五に、ヴェトナム側は最近になって突然、中国が武力で西沙諸島を占領したと言いだしたが、これは事実ではない。1974年1月、中国の西沙守備隊が西沙諸島の珊瑚島及び甘泉島を侵略しようとした南ヴェトナム軍を撃退した。「守備隊」ということは、中国軍が元々居たということであり、南ヴェトナム軍が侵略しようとしたのは30以上ある西沙諸島の中の2つだったということである。
 
第六に、ヴェトナム側は、1975年9月の中越首脳の会見における言葉を引用して、中国側が西沙について話し合うことができると言ったと主張しているが、これはまったく間違っている。ヴェトナムが根拠にしているのは1988年5月13日付の人民日報に載ったメモランダムだ。しかしこのメモランダムには、西沙及び南沙諸島が古来中国の領土であることを証明する十分な材料があり、これが前提であると中国指導者が述べたことを明確に記載している。ヴェトナム側はつぎはぎして事実を歪曲し、中国指導者の発言を曲解しているが、まったく通らない。
 
以上の諸事実から、西沙諸島についてはいかなる紛争もなく、中国が西沙について交渉することはあり得ない。中越間の紛争の重点は南沙諸島であり、特にヴェトナムが中国の29島嶼を侵略占拠していることである。中国の主権擁護の決意は変わらないが、直接かつバイの交渉で紛争を解決する用意がある。 

 
在日のNPO法人「三千里鐵道」が「日本政府は何を『検証』したのか?」という安倍内閣が6月20日に発表した「河野談話」検証報告書を批判する記事を書いています。
 
「『検証』の目的や背景を分析すれば、日本政府の意図がよく見えてくる。河野談話の意義と価値を貶めることで、安倍内閣は『慰安婦』問題の責任を回避し幕引きを図ろうとするのだろう。報告書の目的は次の一点に集約される。“河野談話は日韓両政府の政治的な妥協の産物に過ぎず、信頼すべき歴史的証拠に基づいたものではない”と暗示することである。」
 
「河野談話の根拠となった元『慰安婦』の証言に関しては“その信ぴょう性にまで踏み込まず、韓国側に配慮した”と、6月21日付『毎日新聞』朝刊は解説している。筆者は「韓国側への配慮」とする見方には同意しない。報告書に「事後の裏付け調査や他の証言との比較は行われなかった」と記載することで、証言の信ぴょう性は十分すぎるほどに損なわれてしまったからだ。」
 
「日本政府は、見え透いた小細工を弄しただけだ。毎日新聞が評した『韓国側への配慮』とは、被害女性たちの証言を冒涜する許し難い侮辱であり、韓国政府を「慰安婦」問題の不完全解決で妥協した“共犯”に仕立てる一撃にほかならない。」
 
「公正を期す意味で韓国政府の抗弁にも耳を傾けてみよう。(略)論評は“去る20年余の間、国連の特別報告官や米国議会などの国際社会が、日本軍『慰安婦』問題に対する日本政府の責任認定とこれに伴うしかるべき措置を求めてきた。しかし、これを履行しないだけでなく、『検証』という口実の下に被害女性たちの痛ましい傷を再びえぐるような行為は、国連と国際社会が決して容認しないだろう”と警告している。」
 
まったくそのとおりだと思います。つけ加えることがあるとすれば、「河野談話」の当事者の河野洋平元官房長官が政府の「河野談話」検証報告発表の翌日の21日に述べたという「全くそのとおりで、正しくすべて書かれている。足すべきことも、引くべきこともない」という発言についてです。
 
河野氏の上記の発言の真意がどうであれ、その発言を聞く側に届くのは、「『河野談話』検証報告は正しい」という河野氏の安易で肯定的なメッセージだけです。安倍内閣の「河野談話」検証の目的や政治的背景については一切分析することはせずにただ報告書の「文言」のみを「正しい」という。その態度は「正しい」といえるか? 強くノーと言わなければならないでしょう。政治家(に限りませんが)にはおのれの発言が布置する状況を読む目が求められます。河野氏には残念ながらその状況を読む目が決定的に欠落している、といわなければなりません。河野氏もやはり保守=墨守の政治家でしかない、ということでしょうか。
 
注:河野氏の21日の発言の要旨(産経新聞 2014.6.21)
 
河野談話-日本政府は何を「検証」したのか?
(NPO法人 三千里鐵道 2014年06月23日)
 
日本政府は6月20日、旧日本軍による従軍「慰安婦」への関与を認めた1993年の河野洋平官房長官談話(以下、河野談話)について、その作成過程を検証した報告書を衆院予算委員会理事会に提出した。
 
菅義偉官房長官による当日の会見内容を整理すると、報告書の要旨は以下の通りである。
 
①河野談話は、募集過程における強制連行は確認できないという認識を前提としている。
②河野談話は、韓国政府との綿密な文案調整を経て作成された。ただし、合意により調整内容は公表しないこととした。
③韓国側の打診を受け元「慰安婦」16人への聞き取り調査を実施したが、事後の裏付け調査は行われなかった。
④河野談話を見直さないという政府の立場に変わりはない。安倍内閣は談話を継承する。
 
“談話を継承する”というタテマエではなく、安倍政権のホンネを理解するためには、「検証」作業の経緯をたどる必要があるだろう。今年の2月20日、「日本維新の会」所属議員が衆院予算委員会で“河野談話が根拠とする元「慰安婦」の証言内容はずさんであり、裏付け調査もしていない。新たな官房長官談話を考慮すべきだ”と、河野談話の見直しを迫った。
 
答弁に立った菅義偉官房長官は、一切の反論をしなかった。それどころか、我が意を得たと言わんばかりに、2月28日には政府内に「検証チーム」を設置すると表明している。安部首相も、その議員に対し“質問に感謝する”と述べたそうだ。河野談話を継承すると言いつつその内容を検証するというのは、どう考えても整合性のない矛盾した立場であろう。「検証」はあくまでも、見直しや修正を前提とした行為であるからだ。
 
今回、「検証」の主な対象となったのは、談話作成過程での政府間交渉だった。報告書は“日本側は宮沢首相、韓国側は金泳三大統領まで文案を上げて最終了解を取った”と強調している。文案調整の一例として紹介されたのは、「慰安婦」募集に際しての軍の関与についてだった。韓国側が求めた“軍の指示”という表現に日本側は難色を示し、最終的には“軍の要請を受けた業者”が、主に募集を担当したとの文言で決着したそうだ。
 
特定秘密保護法の制定や集団的自衛権の行使に向けた解釈改憲など、安倍内閣の強権的な内政スタイルが目立っている。アジア外交においても同様なのか、その傲慢さは鼻持ちならぬ状況に至ったようだ。事前協議の内容を公開しないとの合意を無視し、日本政府が「検証」の名目で敢えてその詳細を公表したのはなぜか。筆者としては“河野談話の検証”よりも、“報告書の検証”に挑んでみたいところである。
 
「検証」の目的や背景を分析すれば、日本政府の意図がよく見えてくる。河野談話の意義と価値を貶めることで、安倍内閣は「慰安婦」問題の責任を回避し幕引きを図ろうとするのだろう。報告書の目的は次の一点に集約される。“河野談話は日韓両政府の政治的な妥協の産物に過ぎず、信頼すべき歴史的証拠に基づいたものではない”と暗示することである。
 
そして、河野談話の根拠となった元「慰安婦」の証言に関しては“その信ぴょう性にまで踏み込まず、韓国側に配慮した”と、6月21日付『毎日新聞』朝刊は解説している。筆者は「韓国側への配慮」とする見方には同意しない。報告書に「事後の裏付け調査や他の証言との比較は行われなかった」と記載することで、証言の信ぴょう性は十分すぎるほどに損なわれてしまったからだ。
 
日本政府は、見え透いた小細工を弄しただけだ。毎日新聞が評した「韓国側への配慮」とは、被害女性たちの証言を冒涜する許し難い侮辱であり、韓国政府を「慰安婦」問題の不完全解決で妥協した“共犯”に仕立てる一撃にほかならない。外務省の幹部が「日本政府は世界に恥じるやりとりを韓国としたわけではない。韓国は冷静に受け止めていただきたい」と釘を刺したのは、こうした事情を反映したものだろう。
 
それでは、公正を期す意味で韓国政府の抗弁にも耳を傾けてみよう。報告書が提出された6月20日、韓国外務省は報道官の論評を通じて次のように表明した。“河野談話は、日本政府が自らの調査と判断に基づいて作成した「日本政府の文書」である。我が政府と文案調整をしたというが、日本側が繰り返し要請するので、非公式的な意見を提示しただけである。”
 
論評はさらに、日本政府の真摯な謝罪と責任認定を求める被害女性たちの声を無視し、慰労金の名目で「アジア女性基金」の一時金支給を強行したことにも、1997年1月11日の声明で反対した事実を喚起している。そして、日本軍「慰安婦」被害者の問題が、1965年の日韓請求権協定では解決されなかった点を強調している。
 
最後に論評は“去る20年余の間、国連の特別報告官や米国議会などの国際社会が、日本軍「慰安婦」問題に対する日本政府の責任認定とこれに伴うしかるべき措置を求めてきた。しかし、これを履行しないだけでなく、「検証」という口実の下に被害女性たちの痛ましい傷を再びえぐるような行為は、国連と国際社会が決して容認しないだろう”と警告している。
 
ところで、政府与党や「日本維新の会」所属議員らは“募集過程で強制の事実は立証されていない”と主張することに没頭し、そのことで「慰安婦」制度の存在そのものを否定しようとする。
 
日本軍「慰安婦」制度は、大日本帝国による戦争犯罪、植民地犯罪のなかでも典型的な「人道に対する罪」である。強制的な連行を立証する日本側の公文書が見つからなかったというが、政府であれ軍であれ、明白な犯罪行為を指示する(示唆する)文書を作成するだろうか。そのような文書があったとしても、敗戦の過程で、他の戦争犯罪に関する資料とともに焼却処分されたであろう。
 
日本軍「慰安婦」制度の残忍さは、連行過程での強制性に加え、何よりも「慰安所」における強制使役の実態によって明らかであろう。監禁され一切の自由を剥奪された状態で軍人に性的奉仕を強要する「性奴隷制度」だった。ヒラリー・クリントン前国務長官が“「慰安婦」という表現は適切ではない。日本軍の「性奴隷」と呼ぶべきだ”と指摘したのは、全的に正しい。
 
河野談話の見直しを企図する勢力は、被害女性たちの証言を“裏付け調査で検証されたものではない”と主張し、その信ぴょう性を貶めようとする。では、当事者である河野洋平氏はどのように判断したのか、その「証言」を聞いてみよう。彼は『オーラルヒストリー、アジア女性基金』に収録されたインタビュー(2006年11月16日)で次のように述べている。
 
“話を聞いてみると、それはもう明らかに厳しい目にあった人でなければできないような状況説明が次から次へと出てくる。その状況を考えれば、この話は信ぴょう性がある、信頼するに十分足りるというふうに、いろんな角度から見てもそう言えることがわかってきました。”
 
十分に確信を持って強制性を判断できる聞き取り調査だったからこそ、「裏付け調査や他の証言との比較」に関しては、もとよりその必要性がないと見なされたのだろう。
 
さらに、各国の被害女性たちが日本政府に謝罪と賠償を求めた裁判で、日本の司法部がどのような判決を下したのかも「検証」に値すると思う。90年代に提訴された10件の裁判のうち、8件の裁判で35人の女性が被害の事実を認定されている(内訳は韓国人10人、中国人24人、オランダ人1人で、そのうち26人が10代の未成年)。「釜山『従軍慰安婦』・女子勤労挺身隊公式謝罪など請求訴訟」、山口地裁下関支部判決(1998年4月27日)の一部を以下に紹介する。
“甘言、強圧等により本人の意志に反して慰安所に連行し、さらに、旧軍隊の慰安所に対する直接的、間接的関与の下、政策的、制度的に旧軍人との性交を強要したものであるから、...極めて反人道的かつ醜悪な行為であったことは明白であり、...帝国日本が加担すべきものではなかった。...従軍慰安婦制度がいわゆるナチスの蛮行にも準ずべき重大な人権侵害であって、これにより慰安婦とされた多くの女性の被った損害を放置することもまた、新たに重大な人権侵害を引き起こす...”
裁判の結論はいずれも、原告の損害賠償請求を却下するものだったが、被害事実の認定では、ほぼ全面的に原告の主張を認めている。加害国である日本の司法が下した事実認定は、極めて重い意味を持つのではないだろうか。残念ながら司法の判断は、今回の「検証」対象には含まれなかったようだ。安倍政権が真に「河野談話の継承」を謳うのなら、司法の判断も「検証」すべきであろう。
 
今回の「検証」報告書は、河野談話に対する安倍政権の姿勢を明確に示してくれたようだ。内外世論の反発、とりわけ米政府の強い意志表示によって、河野談話の「見直し」という当初の目標は修正せざるを得なくなった。しかし、内容を歪曲し信頼性を傷つけることで、河野談話は「単なる紙切れ」に過ぎなくなる。それを口先だけで「継承」することに、何の躊躇もいらないだろう。
 
被害女性たちとともに日本軍「慰安婦」問題の解決に献身してきた韓国の市民団体『韓国挺身隊問題対策協議会』は6月19日、論評を発表した。そのなかで“日本政府が真に検証すべきなのは、河野談話作成に際した日韓政府間の文案調整過程ではない。日本政府が犯した日本軍「慰安婦」制度に対する徹底した検証であり、なぜ今も「慰安婦」問題を解決できずにいるのか、自らの過誤に対する厳正な検証であるべきだ”と強調している。
 
日本政府は聞く耳を持たないかもしれないが、折角なので、河野談話の一部を引用して拙文を終えたいと思う。(三千里コラム JHK)

“今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 
 ...いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多(あまた)の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。
 
 ...われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。...”
澤藤統一郎さん(弁護士)と山口二郎さん(法政大教授)の22日付けの安倍内閣の集団的自衛権論批判。同じ事態の説明の切り口の違い。共通しているのは安倍の論をそれぞれ「火事場泥棒」「詭弁」と論断していること。
 
なぜ安倍の論は「火事場泥棒」であり、「詭弁」なのか。澤藤さんは「自衛権」の話を「集団安全保障」の話にすり替える安倍の姑息なやり方を「火事場泥棒」的だと言い、山口さんは、安倍は「機雷の掃海作業に自衛隊を派遣するため集団的自衛権が必要だ」というが、「ペルシャ湾口のほとんどの海域では機雷除去作業は必ず他国の領海に入って行わざるを得ない。その意味でも、他国の戦争に自衛隊を派遣しないという首相の従来の説明と矛盾する」、と具体論として安倍の「詭弁」の中身を指弾しています。
 
この事態に対して、公明党の北側一雄副代表は「今まで自衛権の限界を議論していたのに、(略)集団的自衛権をやっている時に集団安保が持ち出されると党内がまとまらない」(毎日新聞 2014年6月20日)と反発しています。が、この解釈改憲の核心である自民党の高村副総裁が提案した自衛権行使の「新3要件案」は、「実はその原案は、公明党の北側一雄副代表が内閣法制局に作らせ、高村氏に渡したもの」(西日本新聞 2014年6月20日)でした。その「解釈改憲」共謀犯といってよい公明党の北側副代表すらこれでは「党内がまとまらない」と反発するという事態。これが集団的自衛権が閣議決定されるかどうかのいまの自公間の瀬戸際の攻防の正味の中身と見てよいでしょう。安倍首相の暴走は自らの暴走が火種となって逆危機を招いている。ここに自公決裂の目も伏在しているように見えます。
 
上記は集団的自衛権閣議決定問題に関する与党間の攻防を見てのいま現在の私の情勢認識です。
 
以下、澤藤統一郎さんと山口二郎さんの安倍内閣の集団的自衛権論批判。
 
安保法制懇報告を受けての5月15日首相記者会見は今や指弾の的。リアリティのない状況設定をむりやりに拵えあげて、集団的自衛権行使容認のための世論つくりをねらった姑息なやり口と悪評この上ない。とはいうものの、同日の記者会見の席上、首相は「自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」と確かに言った。これは集団安全保障への日本の参加はないことを明言したものである。(略)6月19日に突如として降って湧いたように、自民党は「国連の集団安全保障での武力行使にも自衛隊が参加できるようにすべきだ」と言いだした。こういうのを、「どさくさ紛れ」「火事場泥棒」というのではないか。いや、悪徳商法のあの常套手法、「高い値段をふっかけて、半値にまけて買わせる」ことを狙っているのだろうか。憲法がもてあそばれている。これまでの与党協議では、自衛権の話しをしていたはず。「集団的自衛権とは『他国防衛のための武力行使を認める』ということ自衛とは無関係ではないか」などと議論していたはずが、自衛とも他衛とも無関係の、集団安全保障という「特定国に対する武力制裁の話し」にまで進行してしまっている。(略)同様の議論を20年前にたっぷりした経験がある。(略)しかしあの頃、「戦争終結以前に、多国籍軍の一員として、戦闘海域に自衛隊の掃海艇を派遣して多国籍軍艦隊の航路を啓開せよ」などという乱暴な議論は聞かなかった。いま、臆面もなくそのことが言い出されている。当時の「海部・小澤」と、今の「安倍・石破」との危険度の開きの大きさを痛感せざるを得ない。(澤藤統一郎の憲法日記 2014年6月21日
 
・安倍首相が執念深く集団的自衛権行使を進めようとするので、私もしつこくこれに反対するコラムを書かなければならない。今のところ、ペルシャ湾を念頭に置いて、機雷の掃海作業に自衛隊を派遣するため集団的自衛権が必要だという話になっている。これまた新たな詭弁(きべん)である。石油の輸送が止まったらわが国の存立に著しい影響が出るから、輸送路を確保するために自衛隊が出動しなければならないというのが政府の言い分である。しかし、機雷除去は戦闘活動の一環であり、名目は何であれ自衛隊は戦争に参加することになる。また、ペルシャ湾口のほとんどの海域では機雷除去作業は必ず他国の領海に入って行わざるを得ない。その意味でも、他国の戦争に自衛隊を派遣しないという首相の従来の説明と矛盾する。石油の輸入が止まったら一大事だが、機雷をどければ石油輸送が可能になるのか。これも政府はごまかしている。戦闘状態が続いている限り、自衛隊が危険を冒して機雷を除去しても、安定的に石油を運ぶことはできない。機雷は小手先の話であり、中東での戦争を回避すること以外に石油の安定供給の道はないのである。見え透いた詭弁を弄(ろう)するとは、自ら設定した期限が迫り、戦争好きのペテン師もあわてているのだろうか。(東京新聞 山口二郎 2014年6月22日)
以下に引用するスティーヴン・コーエンというアメリカの歴史学者のことを私はよく知りません。彼の著作を読んだこともありません。私が彼について知っていることは、スティーヴン・コーエンという少し有名な彼の名前。彼は1968年から1998年までプリンストン大学で教鞭をとった現在は同大の名誉教授であること。また、現ニューヨーク大学教授であること。1980年代末期に先代のジョ
ージ・ブッシュ
大統領の顧問をしていたこと。私が彼について知っていることはきわめて少なく、かつ、それも辞書的知識でしかありません。
 
私はなにを言いたいのか。要するに、私は、スティーヴン・コーエンという人を適切に評価することはできない、ということです。彼が言表していることがどれほどアメリカの知識層のウクライナ問題に関する認識を反映しているのか。また、彼の「討論をよしとしない風潮」が蔓延っている、「体制順応主義(コンフォ
ーミズム)」の国、という自国批判はどれほど正鵠を射ているものか。私には適切な評価はできない、ということです。にもかかわらず、スティーヴン・コーエン教授の「ウクライナ、クリミア情勢の見方」を引用するのは、左記の事情については適切な評価はできないものの、私の認識、見方とは一致していること。参考にすべきアメリカのひとりの有力な知識人の見方ということだけはたしかなこととしていえるだろう、ということです。
 
 
歴史的な例えは正確ではないかも知れないが、アメリカ人は自分達の内戦を振り返り、現在ウクライナで起きていることとを比較する必要があるかも知れない。現在、アメリカは、国家統一とほとんど無関係な、残虐で犯罪的な火遊びを支援している
 
これはロシア研究で著名なアメリカ人学者・著者で、1980年代末期にジョージ・H・W・ブッシュ顧問をつとめたスティーヴン・コーエン教授による評価だ。コーエン教授は、RT(引用者注:旧ロシア・トゥデー紙)に、ひき続くアメリカ政権のロシア政策の過ち、その過ちがもたらしているここ数十年で最悪の危機、そして、ワシントンで物事の変化を妨げている、アメリカにおける政治論議の劣化について語った。
 
コーエン教授は、アメリカにおけるウクライナの出来事に関する主流の主張に異義を唱え、たしかに対象の諸州は反抗的とはいえ、それに対しキエフ政府が遂行している軍事弾圧を“浅はかで、無謀で、残忍で、非人間的な作戦だと言う。”

コーエン教授
スティーヴン・フランド・コーエン教授

“リンカーンは決して南部同盟諸州の人々をテロリストとは呼びませんでした。”と碩学は指摘する。“彼は常に[南部同盟諸州の人々を]、内戦がいかにひどくなっても、北部の合衆国に戻って欲しい、同胞と呼んでいました。一体なぜキエフは自国民をテロリストと呼ぶのでしょう? 彼等は反抗者です。彼等は抗議行動参加者です。彼等には政治的意図があります。一体なぜキエフは代表団を派遣し彼等と交渉しようとしないのでしょう?
 
“彼等の要求は理不尽なものではありません。彼等は自ら州知事を選びたいのです -我々アメリカでは、自らの知事を選挙しています。彼等は税金の使い道について発言権が欲しいのです。‘代表なくして課税なし’というのが一体何かを我々アメリカ人は知っています”とコーエン教授は語る。“彼等の中には過激派もいますが、皆が暮せるウクライナで暮らしたいと素直に考えている人々もいるのです。ところがキエフ軍は、アメリカ合州国による全面的支援を得て、この攻撃を行っています。”

ロイター1
2014年6月12日、東ウクライナの都市スラビャンスクで、現地住民達がウクラ
イナ軍による夜間砲撃だと言うものによって破壊された自分が住むアパート
 を見つめる男性(ロイター)
 
‘本質的に同盟国であるクレムリンを、ワシントンは突き放している’
 
アメリカが今、ウクライナで行っていることは、おそらく現在持ちうる最良の潜在的同盟国を遠ざけることだと、コーエン教授は語っている。
 
“イランからシリア、アフガニスタンから、更にその先までの、こうした全ての地域におけるアメリカ国家安全保障にとって、最も重要なパートナーは、現在その主がプーチンであるクレムリンだと確信しています。アメリカ合州国のプーチンに対する態度は、アメリカの国益に対する裏切りと呼びたいほどです。”
 
ロシアは、大統領が、化学兵器を巡って、シリア爆撃をするよう圧力をかけられていたオバマ政権がシリアで面目を保てるよう支援したのです。イランの新指導部と、数十年間で初めての本格的な交渉を開始するための架け橋を作るのを支援したのです。
 
“オバマ大統領はとうとう理解したのです。オバマ政権にとって誤った外交政策でしたから、アメリカの国益となる二大実績です。ところが連中はこっそり逃げ去り、オバマはプーチンをとんでもない程突き放してしまったのです。プーチンを余りに突き放した結果、ウクライナを巡り、我々[アメリカ]はロシアとの戦争の瀬戸際にあるも同然です。”

ロイター2
アメリカのバラク・オバマ大統領とロシアのウラジーミル・プーチン大統領
  (ロイター)
 
世界をこの欧米とロシア間の現在の対決への道をとらせるようにしたことで、コーエン教授は、アメリカ、特にクリントン政権を非難している。
 
“理由は何であれ、これは、NATOをロシア国境まで拡張するというアメリカ政策の推進です。これはクリントンで始まり、息子ジョージ・ブッシュの下で継続され、オバマが推進しています。そして、この因果応報です。”
 
“1990年代に一部の人々が… こういうことがおきかねないと警告していました。今やそうなりましたが、連中は責任をとろうとはしません”と彼は言う。“連中は‘わかった、我々が間違っていた、政策を考え直さなければいけないとは決して言いません。’それどころか、連中は私の様な意見の人々にこう言うのです。‘あなたはプーチン擁護者だ。あなたはクレムリンのために働いている。あなたは愛国的ではない。’”
 
‘オバマ大統領は、外交政策から自らを隔離している’
 
現政権において、政策を変更する能力の欠如は明白だと、この碩学は考えている。
 
“多くの大統領の為に働き、個人的に大統領達を知っている、私よりずっと年長の二人の男性と昼食を一緒にとりました。二人とも、彼等の人生で、この大統領ほど外交政策から隔絶している大統領はいないと同意しました。”
 
コーエン教授が挙げた逸話的な例は、元国務長官ヘンリー・キッシンジャーとの対話をオバマ大統領が拒否したというものだ
 
“本当かウソかは知りませんが、年に二回、プーチンと会っているヘンリー・キッシンジャーと非公式に会うのをオバマ大統領が拒否したと聞いています。キッシンジャーはおそらく、現在生存しているどのアメリカ政治家よりもプーチンを良く知っており、実に多くの大統領の顧問をしてきた人物です。キッシンジャーの過去については、色々ありますが、彼は既にアメリカの対ロシア政策批判を公表しています。それなのに、オバマ大統領は、彼と一時間会談して‘我々のやりかたに何かまずいところはありますか? 我々は状況を誤認しているのでしょうか?’と質問しようとしないのです”
 
ある問題に対する様々な視点を考慮しない指導者が、それに対処するための合理的決断ができなくとも驚くべきことではありません、とコーエン教授は語った。
 
“大統領に要求したいのは、現状の危機に関する最良かつ最も多様な造詣の深い見解を求める人物であるべきだということです。それだけです… 大統領は、知識、学識の上で正当性がある様々な対立する意見の人々の意見を聞くべきです。そうしようとしない大統領は、オバマやクリントンが我々を危機に追いやった様に我々を危機に追いやります。”

ロイター3
元アメリカ国務長官 ヘンリー・キッシンジャー(ロイター)
 
‘通説を打破する唯一の方法は異説だ’
 
アメリカにとって不幸なことに、現在、討論をよしとしない風潮はホワイト・ハウスだけではなく、アメリカ社会全般においてもそうなのです、と教授は言う。
 
“我々が本当に討論したり、大衆が論争したりしていた20-25年前の状況とは違って、アメリカではこれに関する議論や大衆の反対が皆無です”と彼は言う。“連中が[主流マスコミ - RT注]真実を知っていて、だから真実を語らないのか、それとも連中が、ソ連崩壊以来、ロシアについて言われている神話に捕らわれているのか私にはわかりません。”
 
“アメリカにおけるロシアに関する通説は、20年にわたって形成されました。”彼は言い足した。“しかもそれは単に誤っているだけではなく、無謀です。この通説が我々をこのウクライナ危機に至らしめたのです… 通説を打ち破る唯一の方法は異説です。私の意見の一部は異説、反逆的、非愛国的と見なされています。しかし必要な場合には、異説は望ましいことなのです”
 
この状況は、外交政策問題に関する国民的論議や既成政治勢力に好まれない意見を‘弱小メディア’に追いやろうとはしない他の民主主義諸国でおきている事とは雲泥の差だ。
 
“ロシア同様、酷い過去を持つ、比較的新しい民主主義国ドイツでは、出世の妨げになったり、論説欄に載ったりという心配なしに、人々がオープンかつ自由に議論できる民主主義を築きあげられている。三人の元ドイツ首相のうち二人が、ウクライナ危機は、ロシアではなく、ヨーロッパのせいだと主張している。”
 
“元大統領達はどこにいるのだろう? この政策を自分が始めたのだから、クリントン大統領が率直に話そうとなぞするわけがないのはわかる。だがカーター大統領はどこにいるのだろう? 異なる政策を遂行していた元国務長官達はどこにいるのだろう? この沈黙は一体何だろう? 他の多くの国々とは違って、アメリカでは、異義を唱えることにたいする対価はさほど大きくないとは言え、体制順応主義という政治文化を、既成権力集団中に築いてしまったのではないかと私は懸念する。”
 
浅井基文さん(元外交官、政治学者)はこのところ日本の民主主義者(を自認する者)が受容、あるいは自らの判断の材料とすべき現在の国際情勢認識に関して次々と重要な論攷を発表されていますが、以下にご紹介する「ポツダム宣言と憲法、そして集団的自衛権」(2014.06.20)という論攷も基本中の基本ともいえる認識を提示するがゆえにかえって意表をつく感のある国際情勢認識というべきものです。現代政治地政学(自身の座標位置(立ち位置)を定める)のケーススタディーとして学ぶところの非常に多いものです。他者の論攷ながらあえてご紹介したいと思うゆえんです。
 
 
*以下に紹介するのは、5月17日にある集会で行ったお話しを主催者が起こしてくれたものをさらに加筆訂正を行ったものです。その内容は、拙著『すっきり!わかる 集団的自衛権』(大月書店)がもとになっていますが、お話しでは、二つのことにポイントを置いています。
 
一つは、集団的自衛権に関する判断・議論を行う出発点はポツダム宣言であり、憲法(第9条)ではないということです。憲法自体がポツダム宣言を履行するという本質を持っており、憲法第9条は、ポツダム宣言が日本に要求した徹底した非軍事化を体現したものです。そのことを踏まえれば、集団的自衛権行使云々などというばかげた議論をする余地はあり得ないことが直ちに分かるのです。しかし、戦後日本のあり方を根底からくつがえし、戦前日本への回帰を目指す安倍政治(を代表とする戦後保守政治)は、ポツダム宣言そのものに最終的異引導を渡そうとしているのです。
 
しかし、ポツダム宣言は日本が受け入れた国際約束ですから、日本が一方的に破棄することは許されるはずがありません。その点に関する自覚が私たち日本人の間にないこと自体が異常を極めることなのです。その点を強調することが私の一つの目的です。
 
もう一つのポイントは、自衛権行使の主体は主権者・国民であって、国家ではないということです。この点については、上記拙著では敢えて触れなかったのですが、お話しでは強調していることです。ここでは4.で詳しく話していますので、是非ご一読願います。
 
◇ ◇ ◇
 
基本的にそもそも集団的自衛権とはどういうものなのか。国内では、集団的自衛権に関する議論は、もっぱら憲法(第9条)を判断基準にして、それとの関わりという視点で議論されている。しかし、集団的自衛権というのは、もともと国連憲章で定められた概念であって、国際政治、国際関係あるいは国際法といった脈略でまず捉えないといけない。そこを明確にしたうえで、憲法との関係はどうなるのか、そしてなぜいま安倍政権がしゃかりきになって集団的自衛権の行使容認を言っているのか、という流れで見ないと物事の本質はつかめない。
 
今日の話は柱が二つあって、一つ目は「国際的な戦争違法化の歴史と現実」である。国際関係、国際法という枠組みのなかで、どのような経緯を経て集団的自衛権という概念が生みだされたのか、そしてそれが現実の国際関係の中でどのような変遷をたどって今日に至っているのかを話したい。それから、二番目の柱としては、そのことが安倍政権においてどのように利用されようとしているのか、ということを話したい。
 
1.世界史における戦争の定義の変遷
 
そこでまず、歴史的に流れを追いながら、国連憲章で集団的自衛権が定められるまでの経緯を説明する。
 
まず、戦争は人類が登場して以来ずっとあったわけだが、国家というものが登場し、そして戦争が非常に残酷さを増してきて、戦争というものを野放しにしておいていいのか、という考えが一〇世紀頃から出てくる。それが「正戦論」という形をとって論じられた。
 
戦争について国際法のなかで位置づけるという体系的な試みをおこなったのが、かの有名なグロティウスで、かれが一六二五年に書いた『戦争と平和の法』という著作がある。要するに戦争というのは好き勝手にやってよいものではない、そこには正当な理由がなければならない、とかれは言った。大義名分なき戦争はあってはならない、ということだ。
 
それからもう一つかれが行った重要な貢献は、「戦争における法」を論じたことで、それがいまわたしたちが言うところの戦時国際法である。つまり、戦争を始めた後は何をやってもよいということではない、やはり、最低限護るべきことがある、とかれは言った。その中身として重要なことを2点挙げると、一つは戦闘員と非戦闘員とを区別することだ。戦争というのは戦場で戦うものであって、いまで言う後方、非戦闘地域にいる、いわゆるシビリアンを巻き込んではいけない、という考え方だ。
 
この考え方はその後原則として守られてきたのだが、この原則が破られたのが第一次世界大戦だった。つまり、産業革命以後の科学技術の飛躍的発展を背景にして兵器が非常に残虐さを増す、あるいは飛距離を大幅に伸ばすことによって、必然的結果として戦場と後方との区別をなくしてしまった。
 
そして、この原則は第二次世界大戦で完全に無意味化させられた。即ち、日本軍がやった重慶大爆撃あるいは欧州戦線でのドレスデン空爆のような、「戦略空爆」という概念がまかり通った結果、戦闘員と非戦闘員とを区別するという原則は完全に蹴散らされて、むしろ非戦闘員を大量虐殺することが当然視されるに至った。その最終的な帰結が広島・長崎への原爆投下だ。
 
もう一つ、グロティウスが「戦争における法」(戦時法)において強調したのは、目的と手段とのバランスということだ。戦争においては何かを達成しようとする目的が設定される。しかし、その目的を達成するためには手段を選ばず何をやってもよい、というということであってはならない。つまり、目的を達成する上で必要かつ最低限の手段に限って認められるべきだ、ということだ。それが目的と手段とのバランスということだ。
 
後で述べる自衛権という概念においても、相手が攻撃を仕掛けてきたら、それに対して「あいつは常日頃憎いやつだと思っていた」という理由で、相手を叩きのめすということがあってはならない。あくまで相手が攻めてきたら、相手の攻撃を撃退するのに相当な範囲で、あるいは必要にして最低限度の範囲で反撃をするということでなければいけない、とされる。国内の刑法で正当防衛は違法性が阻却されるが、過剰防衛は許されないのと同じことである。したがって、グロティウスの考え方が自衛権にも継承されてきているということだ。. ただし、この原則も近代戦争において崩されてきている。それの極めつけが「抑止力」だ。「抑止力」とは何かといえば、俗な言い方をすれば、「お前が攻めてきたら、おれはお前の国を叩き潰すぞ。それが怖かったら戦争を仕掛けるな」というのが、「抑止力」の基本的な考え方だ。それは、目的と手段とのバランスという原則からは完全に逸脱している。けれども、その「抑止」という考え方が第二次世界大戦後にまかり通ってきた。安倍首相も盛んに「抑止」という考え方が大切なのだというけれども、その「抑止」の根源にあるのは、相手がなにかやってきたら、コテンパンにやっつけるぞ、ということだ。「抑止」という概念は、グロティウスの『戦争と平和の法』で言われた、戦時国際法の根本を否定する概念だということにもなる。
 
それはともかく、そのようにして国際法が登場し、それとほぼ踵を接して三〇年戦争、ウェストファリア条約によって、欧州に今日私たちがいう「国際社会」が登場した。「国際社会」における「社会」が成立するための基本的条件は何かというと、構成員(メンバー)である国家、具体的には君主が対等平等だということが同条約によって始めて国際的に承認されるということだ。国家の大小強弱貧富に関わらず、主権国家である限り対等平等であるとみなされた。
 
今日でもわたしたちは「国際社会」という概念を使うが、それは決して古い考え方ではなくて、国際法と同じく、一七世紀になってやっと登場したものである。つまり、国際社会にしても、国際法にしても、まだいわば未成熟であり、これからの人類史の歩みの中で成熟させていくことが人類にとっての課題なのだ。
 
2.自衛権の登場と成立の経緯
 
そういうことを踏まえて、それでは自衛権や集団的自衛権という考え方がどのように発展してきたのかについて話を進める。実は、グロティウスが『戦争と平和の法』を書いたときにも、戦争に大義名分があるかどうかが主要な関心対象で、自衛のための戦争あるいは侵略的のための戦争という問題は直接には問われなかった。
 
自衛権という概念が国際社会で問題提起された最初のケースが、一八三七年にアメリカとイギリスとの間で起こったカロライン号事件であった。この事件は、カナダの独立戦争時に、カナダ側に武器を輸送していたアメリカのカロライン号をイギリスが沈没させたというものだ。アメリカは、何を根拠にこの船を沈没させたのかとイギリスに対して説明を求めた。そのときに、イギリスが「自衛権の行使」だと言った。そして、自衛権の行使を正当化する根拠として、「切迫性・必要性・相当性」という三つの要件を満たしていると主張した。これが今日まで「自衛権行使の三要件」ということで使われている。
 
「切迫性」とは、要するに急に相手が攻めてきたとか――日本の法制局は「急迫不正の侵害」と言っているが――非常に切羽詰まった状況になっていることだ。「必要性」とは、日本の法制局の言葉で言えば、「実力行使に訴える以外に、他に手段がない」状態にあることをいう。「相当性」は、グロティウスの「目的と手段とのバランス」、つまり、相手の攻撃を撃退するのに必要な限りでの武力行使であるということだ。これを日本の法制局は「必要最小限度の実力行使」と言っている。
 
話を戻せば、このカロライン号事件が、自衛権というものが国際法のなかで大きく取り上げられるようになった最初のケースだった。その後、一九二八年の不戦条約では、自衛権行使の戦争はいい、問題がない、しかし、それ以外の戦争はダメだとした。不戦条約は戦争を違法化はしなかったけれども、「非」とした。ここで「非」の戦争という考え方が国際法上に登場した。
 
集団的自衛権について考える上で重要だと思われることが、不戦条約の交渉時にあった。当時のアメリカはモンロー主義(前号の纐纈厚氏の報告参照――編集部)で、アメリカ大陸を全部自分の庭だと思っている。だから、自衛権をあまり狭く解釈されて、アメリカ大陸で武力行使をすることを縛られては困る、モンロー主義を適用する地域についての戦争を非とされては困る、とした。イギリスも、英連邦のなかの事柄は国際社会に関与してほしくない、と主張した。わたしは、この時のやりとりがアメリカが国連憲章に集団的自衛権を盛り込む際の一つのヒントになったのではないか、と考えている。
 
3.モンロー主義の延長としての集団的自衛権
 
不戦条約では、「非とされた戦争」、自衛権行使の戦争、そしてモンロー主義や英連邦などの特例と三つに分類された。国連憲章では、違法な戦争、個別的自衛権の行使、集団的自衛権の行使とやはり三つに分けられた。国連憲章によって初めて戦争は違法とされた。
 
集団的自衛権という概念はどのようにして出てきたか。第一次世界大戦が終わった後、「人類はそれほど愚かではないから、これほどの惨禍を二度と繰り返すことはあるまい」と楽観視した。ところが、第二次世界大戦が起こってしまった。しかも、その被害たるや、第一次世界大戦も顔色ないようなすさまじいものとなった。そこで、国連憲章は戦争を違法化した。不戦条約のように「非」とするだけでは人類は戦争をやめない。人類はそれほどに愚かであるということを認めた結果が国連憲章による戦争の違法化であるということでもある。
 
しかし、国連憲章をつくっている最中に(一九四三年につくりはじめて、一九四五年に完成)、米ソはかなり関係がギクシャクしはじめていた。とくに、国連憲章ができる直前の一九四五年四月には、ルーズベルト大統領が死んで、ルーズベルトとスターリンの個人的な信頼関係でもっていた同盟関係が崩れるのはもう目に見えていた。とくに、ルーズベルトの後を継いだトルーマンはごちごちの反共だったから、どう考えてもうまくいくはずがない状況になっていた。
 
そこでアメリカは、「自分で自分を護る」というのが固有の、あるいは個別の自衛権だが、それを、「自分「たち」で自分「たち」を護る」とする集団的自衛権をあみだした。要するに、自分が攻められなくても、自分と非常に密接な関係にある国が攻撃されたら、自分たちもその国と一緒になって反撃する、という考え方だ。
 
つまり、集団的自衛権という考え方、概念が挿入されるに至ったのは、戦争自体が違法化された結果従来の軍事同盟を作ることは法的に認められなくなることに対しての法的な抜け道づくりという意味がある。固有な自衛権しか認められないとなると、各国は自分で自分を護る以外にないということになり、けっきょく弱い国、小さい国はより強い国から攻撃されたら身を守れないことになってしまう。
 
また有り体に言えば、アメリカとしては、ソ連に軍事的に対抗することを正当化するための法的根拠がほしいという気持ちもあった。その考えはソ連も共有したから、いわば呉越同舟で、集団的自衛権という概念を挿入することに結びついた。アメリカが集団的自衛権という概念を発想した背景には、不戦条約交渉時のモンロー主義の特例という考え方が延長・発展されて、それが法的概念としての集団的自衛権という概念に至ったと言えはしないか。
 
4.自衛権を持つのは国家でなく人民
 
ところで、個別的自衛権、集団的自衛権というと、一般的には国家の自衛権、国家の集団的自衛権だと考えられている。確かに、国連憲章上では国家の自衛権、国家の集団的自衛権として扱っている。しかし、わたしは国家の自衛権という考えは根本的におかしいと思う。 自衛権を持っているのは、国家ではなくて主権者である人民だ。わたしはそこを強調したい。もちろん、カロライン号事件から国連憲章に至るまで、自衛権は国家の自衛権として扱われてきたことは事実だ。また歴史的に言えば、「朕は国家なり」とされた専制君主(君主主権)の時代には、「国家の自衛権=君主の自衛権」が当たり前とされていた。アメリカ独立戦争、フランス革命を経て君主主権に代わって人民主権が一国単位で主流になってきた後も、国際関係における主体は相変わらず国家とする伝統的考え方が支配してきたため、国連憲章もその考え方を踏襲して国家の自衛権として扱っているわけだ。

しかし、わたしが「国家の自衛権」という考え方がそもそもおかしいと思ったのは、民族自決権または人民の自決権と国家の自衛権とが概念的に結びつかないではないかという疑問を感じたからだ。

「民族自決権」なのか「人民自決権」なのかという問題にも考えるべき点は多々あるのだが、ここではそのことには立ち入らない。話しの便宜上、とりあえず同じものとして並列的に扱うことを断っておく。民族(人民)自決権は、第一次世界大戦の最中にレーニンとウィルソン(アメリカ大統領)が言い出して、一つの民族、一つのまとまったかたまりをなす人民はみずからの運命をみずから決める権利があるとする原則が確立するに至った。その基本的な考え方にしたがえば、人民主権の国家では、みずからを護る権利(自衛権)は国家にあるのではなくて主権者である人民になければおかしい。アメリカの独立宣言にも、人民には人民の意思に反する政府を廃止して新たな政府を樹立することができるとハッキリ謳っている。人民が最終的に政府を変える権利を持つのに、自らの国家を護る権利(自衛権)だけは相変わらず国家(政府)に委ねなければならないというのは、どう考えてもおかしい。

日本国憲法九条においても「日本国民は」で始まっているように、主語は国民なのだ。「日本国は」ではない。だから、わたしたちが戦争を放棄したのだ。それなのにどうして国家の自衛権の話になってしまうのか。問題はあくまで「われわれ主権者が自衛権を持つかどうか」ということなのだ。自衛権というのも自決権と同じように、人民に属するものだ。
 
以上のように考え方を整理することは、集団的自衛権を考えるうえで決定的に重要である。主権者である人民は自分で自分を護る権利は自然法としてある、とわたしは考える。わたしはいわゆる「非暴力平和主義」には立たないので、人民には自決する権利があるように、人民にはみずからを護る権利があると考えている。第九条は自然権としての人民の自衛権までも否定しているとは考えない。
 
ただし、人民が自衛権を行使する場合の方法としては様々な形があり得る。歴史的な実例としては、中国人民の抗日戦争、ベトナム人民の抗米自衛戦争がある。もっとさかのぼれば、たとえばナチス・ドイツに占領されたフランスやポーランドでレジスタンス運動が行なわれた。そのレジスタンスもまがうかたなき人民の自衛権行使だ。
 
だから、わたしたちの人民主権が外部から侵害され、わたしたちの人権・デモクラシーが犯される状況に対しては、あらゆる方法で抵抗することは認められる。それが人民の自衛権だ。
 
さらに二つのことを補足しておきたい。一つは、国際的相互依存が不可逆的に進行している21世紀においてはもはや日本に武力侵攻を本気で考える国家はあり得ない以上、以上に述べたことはあくまで法的、理論的に言えばそう考えるしかないという概念整理に過ぎないということだ。日本に攻撃を仕掛けることは、その国を含む世界経済全体が沈没に直結するわけで、国際相互依存という人類史の流れそのものが国家間の戦争を過去の遺物にしているということだ。
 
もう一つは、人民の自衛権という考え方は、民族(人民)の自決権だけではなく、個人の正当防衛の権利とも結びついているということだ。刑法上、個人の正当防衛権が認められているように、個人の集合体である人民には自衛権が認められるということだ。
 
集団的自衛権について考える上でもっとも重要なことは、自衛権というのはあくまで自分で自分を護るということであって、人様が犯されたらわたしがその人様のために戦う、などという発想を含むはずがない、ということだ。
 
自衛権という概念を主権者の自衛権と理解する考え方が確立すれば、集団的自衛権という概念は出てきようがない。国連憲章では国家の自衛権として考えられているから、国家の集団的自衛権という概念にまで膨らんでしまった。日本国内には「国連は正義の味方」とするいわゆる国連信仰が強く、国連そして国連憲章を絶対視する風潮が根強いが、国連、国連憲章を絶対視するべきではないことを皆さんには理解しておいてほしい。
 
5.集団的自衛権「拡大」の歩み
 
以上のことを頭に置いていたうえで、国連憲章に話を戻す。国連憲章は、国家の自衛権、国家の集団的自衛権として考える体制だから、それにしたがって、世の中が動いてきていることは否定できない。
 
国連憲章が想定する武力の行使は、先述のように違法な戦争、個別的自衛権行使、集団的自衛権行使の三つに分類される。一九四五年に国連憲章ができてから一九八九年までは、集団的自衛権行使については基本的に憲章制定当時の理解にしたがってあくまで限定的なものとして捉えられてきた。国連憲章が考えた許される自衛権の行使というのは、主として他の国から攻撃された場合にどう対処するのか、ということがほとんどだった。今日的にいえば、伝統的な国家から来る脅威を想定していたということだ。
 
ところが、一九九〇年に米ソ冷戦が終結し、ソ連が崩壊して今日に至る間に、アメリカが中心となって、集団的自衛権行使とするケースをどんどん広げてきた。その結果、本来ならば違法な戦争とみなされる領域が狭められるという結果を招いている。
 
どうしてそういうことが起こったのか。
 
最初のきっかけはブッシュ(父)の政権のときに起こった湾岸危機・戦争だ。湾岸戦争自体は国連憲章が禁じた戦争ということで説明がつく。イラクのサダム‐フセイン政権が隣国のクェートを侵略し併合したのだから、これは違法な戦争そのものだ。それに対して、ブッシュ政権が、アメリカにとって緊密な関係にあるクウェートを守るべく軍事力を行使してフセイン政権を撤兵に追い込んだことは、集団的自衛権の行使としてとりあえず「正当化」される。
 
しかし、国連憲章に即して考えるとき、違法な戦争をやったものを懲らしめるのは本来的には国連自体でなければならなかった。それが、憲章第7章が定めている「集団安全保障措置」というものである。つまり、国際的に違法なことをやったものを国連が自ら取り締まる、ということだ。
 
そこで問題が非常にややこしくなる。というのは、ブッシュ政権ははじめから国連の集団安全保障措置に委ねる気持ちはなく、自らイラク軍を撃退することを決めていた。そして、それを集団的自衛権の行使として正当化したのだ。しかも、「アメリカと志を同じくするものは集まれ」と史上最初の多国籍軍を組織し、NATO諸国やアラブ諸国が馳せ参じた。この多国籍軍の組織化及び参戦も集団的自衛権の行使として正当化した。
 
国連憲章は、集団的自衛権の行使は、国連が集団安全保障措置を発動するまでの間の一時的権利としてしか認めていない。アメリカ主導の多国籍軍の行動を一時的に認めるにせよ、いずれかの時点で国連がいわば「引き取る」のが筋だ。しかし現実には、国連としては自らの力でフセインの違法の行動を取り締まる実力を組織化できない。国連安保理はいわば苦肉の策として、ブッシュが組織した多国籍軍の行動を「集団安全保障体制のもとにおける措置」とするお墨付きを与えてしまった。こうして「集団的自衛権行使=集団安全保障措置」ということになってしまった。わたしはそれがつまずきの元だと思う。要するに、集団的自衛権の行使が集団安全保障措置と認定されることにより、本来一時的な権利としてしか認められていない集団的自衛権の行使が野放しで認められる先例となってしまった。
 
ブッシュ(父)の後を継いだクリントン政権は、アメリカが直面する脅威は国家だけからではないと言い出し、「さまざまな不安定要因」と規定した。つまり、国家から来る伝統的な脅威もあるけれども、その他にもテロリズム、民族紛争などがアメリカの安全保障に脅威を構成するとし、それらに対してもアメリカは軍事的に対処するとしたのだ。しかも、クリントン政権はアメリカの財政的不如意を踏まえ、アメリカが主導する多国籍軍方式で対処する方針を打ち出した。つまり、ブッシュ政権のときはまだアド・ホックで多国籍軍を組織したのだが、クリントン政権は多国籍運方式を戦略の中に組み込んだのだ。こうして、さらに集団的自衛権の中味を広げ、あるいは曖昧にすることにつながった。
 
クリントン政権の行った軍事力行使の極めつけがNATO軍によるユーゴ空爆だった。なにが極めつけかというと、NATO軍は少数民族を弾圧するミロシェビッチ政権に対する軍事力行使を正当化するために、「人道的介入」という概念を持ち出したことだ。「人道的介入」という概念は、19世紀以後しばしば侵略を正当化するために使われてきたが、今日もその法的正当性についてはなお非常に論争が続いている。ちなみに、安保法制懇の報告書でも、さすがに「人道的介入」までは踏み込んでいない。それぐらいに問題がある概念なのだ。しかし、ここで押さえるべきポイントは、アメリカは集団的自衛権行使の概念を限りなく広げていこうとしているということだ。
 
さらに、ブッシュ(子)政権は、二〇〇一年の九・一一を契機に「対テロ戦争」ということを言い出した。「国際的テロリズム」は、国際法においては、「国際犯罪」として位置づけ、扱ってきた。犯罪に対して、軍事力を行使するというのは、そもそもおかしい。犯罪に対しては警察力で対応するのが筋だ。ところが、ブッシュは九・一一に逆上して、「テロ戦争」と言い出した。そして、これまでも集団的自衛権の行使としたわけだ。
 
しかも、そのときの国連も完全にパニクってしまっていて、ブッシュ政権の対テロ戦争を承認してしまった。その対テロ戦争がその後のアフガニスタン戦争やイラク戦争につながっていく。この場合にも有志連合ということで、湾岸戦争以来の多国籍軍方式が利用された。こうして、何に対しても軍事力を行使してよい、それは集団的自衛権だと言えば皆が黙ってしまうという状況が生まれてしまった。
ブッシュ政権が起こした2003年の対イラク戦争においては、ブッシュはイラクを「ならず者国家」と決めつけることによって、自らの戦争を正当化した。「ならず者国家」という概念自体はクリントン政権が本格的に言いだしたという経緯がある。主な対象とされたのはイラク、イラン、朝鮮だ。しかしブッシュ政権は、「テロリストをかくまう国家」を「ならず者国家」と規定して、対テロ戦争の延長として対イラク戦争を正当化した。もちろん、それはその後の事態が示しているように、何の根拠もないことであった。大量破壊兵器をつくっていることも口実にされたが、それもなかった。今日では、「対テロ戦争」の正当性そのものが国際的に否定されていると言える。
 
一言だけ脱線すると、今回(2014年)の安保法制懇の報告では相変わらず、「対テロ戦争」をアメリカが戦う際に日本が参戦することを当然視している。いかに、かれらが「対テロ戦争」をやったこの十数年の国際的過ちの蓄積を吸収、消化していないか、故意に無視しているのかがこれでも分かる。
 
6.オバマ政権の軍事戦略
 
オバマ政権はブッシュが始めた「対テロ戦争」の終結に追われてきた。オバマはもはや「対テロ戦争」を口にしない。しかし、かれが平和の使者でも何でもないことは、リビア内戦に際してNATOが行ったいわゆる「反乱軍」を支援する作戦に同調し、あまつさえ、カダフィという主権国家の最高権力者を打倒するという、いまだかつてないようなことをオバマ政権は支持、支援したことでも分かる。
 
また、東日本大震災のときに、アメリカ第七艦隊が「トモダチ作戦」と称して被災地を支援し、被災者は非常に感謝したと宣伝されている。けれども、実は「トモダチ作戦」とは、オバマ政権が推進している、平時から戦時に至るまでシームレスに対応できる軍事態勢を構築するという戦略に基づくオペレーション、つまり軍事作戦行動でもあった。つまり、どこで何が起きても、アメリカが中心となって多国籍軍方式で対応するという軍事戦略の実践でありオペレーションだったのだ。そういうことで、オバマ政権も集団的自衛権行使の拡大に一貫して取り組んできている。
 
しかし、最近、ウクライナ問題でアメリカは非常に大きな壁にぶつかっている。ロシアがクリミアの住民投票の結果を受け入れて、クリミアをロシアに編入したことに対し、アメリカは「ロシアの拡張主義」だとか「覇権主義」だとか、ロシアがけしからんことをやっている、と非難している。確かに、国家の主権尊重、領土の保全という国際法上の原則からすると、ロシアの行動は非難の対象となる。けれども、クリミアについては本当にその原則だけで杓子定規で測っていいのか、とわたしは思う。
 
というのは、国際法には「民族(人民)自決」という原則もあるからだ。詳しいことは省略するが、クリミア住民の行動は民族自決権の行使であるとロシアは主張している。また、ロシアは、かつてコソボがユーゴからの分離独立を求めたとき、アメリカ以下の西側諸国はそれを認め、支持したではないか、ロシアはその先例に従ったのだともしている。クリミアは元々ロシアの一部だったという歴史もある。 今回の場合、もしロシアが軍事的に弱小だったならば、アメリカはNATO軍を動員して、プーチンの動きを阻止しようとしただろう。けれども、オバマはやらないし、やれない。わたしが非常に興味深く思っているのは、けっきょくアメリカは、ロシアや中国のような、アメリカにはかなわないが、しかし、アメリカが攻めてきたときにすぐに白旗をあげるということではない、それぐらいの強大な軍事力、民族的気概を持った国に対しては、軍事力行使はできないということだ。
 
今度のオバマのアジア四か国歴訪のときの記者会見で明らかになったことは、そういう国々との間では軍事力行使というオプションはない、とはっきりと言っていることだ。日中間で緊張が高まっている尖閣問題に関しても、軍事的解決はありえない、と実に率直に発言している。
 
わたしは決してオバマ政権に対して幻想を持っているわけでない。むしろそうではなくて、オバマ政権は、軍事力行使ができる場合とできない場合とに線引きしているということなのだ。軍事力行使でいけると判断すれば今後もやるだろう。しかし、ロシアや中国が相手となると、せいぜいやれることと言えば、制裁までだ。
 
以上に述べてきたように、一九九〇年代以後のアメリカの軍事戦略は、①アメリカの軍事主導権は手放さない、しかし②アメリカの財政力・経済力の衰えをカバーするためにNATO 、日米同盟などをフルに動員し、多国籍軍方式で世界ににらみを利かせる、しかも③アメリカにとって死活的関心がある問題については自らが先頭に立って実力行使をためらわないが、自らの死活的利益にかかわらない場合は、アメリカとしては手抜きをし、国連の軍事機能や地域機構の軍事力を活用するという方向を追求してきた。日本に対する軍事要求はその一環としてある。このアメリカの軍事戦略に全面的に応え、アメリカ主導の軍事力行使にも、また国連の軍事機能にも積極的に参加していこうというのが安倍首相のいう「積極平和主義」であるということだ。そのために是非突破しなければならないのが第九条の壁であり、「集団的自衛権の行使はできない」とする法制局の憲法解釈である。
 
7.ポツダム宣言が戦後日本の原点
 
そこで、冒頭に話した柱の二番目、日本国憲法と集団的自衛権に話しを進める。
 
まず、吉田茂首相はかつて、日本国憲法を審議した国会答弁において、自衛権そのものを認めるのもおかしいと発言したこともある。それは当時としては当然なことで、アメリカが日本をポツダム宣言にもとづいて徹底した非軍事化をさせることを対日占領政策の中心に置いたのだから、自衛権についてまともに考える余地はなかったまでのことだ。しかし、中国が社会主義化し朝鮮戦争が起こると、アメリカは対日政策をドライに転換し、「日本は自分で自分を守れ。アメリカはそこまでかまっていられない」と日本に再軍備を要求するようになった。
 
このアメリカの要求に応じるため、法制局が、日本国憲法第九条は固有の自衛権まで否定したものではないとする理屈を強引に編み出した。本来であれば、第九六条改憲という手続きを踏むのが立憲主義からすれば当然なのだが、敗戦直後の国民感情は圧倒的に反戦・厭戦だったから、政府にはまったく成算がなかった。そこで第九条の解釈を変更するという「禁じ手」に手を染めたというわけだ。
 
しかし、当時の政府・法制局はポツダム宣言を履行する日本国憲法という本質、特に徹底した非軍事化を要求する同宣言の趣旨を担保するものとしての第九条ということは理解していたから、第九条の解釈を変更するとしても、徹底して自己禁欲的でなければならないという意識は働いていた。アメリカの身勝手な要求とポツダム宣言との間での苦肉の策として、法制局が編み出したのが、「第九条は国家固有の自衛の権利まで否定しているとは言えない」という理屈だった。しかし、その理屈自体が無理やり編み出したものであるから、「自国が攻撃されていないのに、他国が攻撃されたときに、その国と一緒に戦う」という集団的自衛権行使までは到底認める余地はありえない。固有の(個別的)自衛権はあるということですら無理やりの解釈でこじ開けたわけだから、それをさらに広げて集団的自衛権行使も憲法九条は認めています、などということはありえないということだ。第九条について考えるときには、ポツダム宣言を抜きにしては語れないし、抜きにした議論はあり得ないということを、私たちは片時も忘れてはならないのだ。法制局はポツダム宣言を口にしないが、そういう認識は踏まえていると思う。
 
もう一度繰り返すが、ポツダム宣言は日本の徹底した非軍事化を要求している。日本はそのポツダム宣言を忠実に履行することを約束し、それをアメリカ、イギリス、中国などは受け入れて日本の降伏が実現した。だから、ポツダム宣言下では、日本が軍事化するということはありえない話なのだ。ギリギリの固有の自衛権のみが辛うじて認められている。それが集団的自衛権までも認めるということになったら、日本はポツダム宣言を忠実に履行するという厳粛な国際約束を一方的に破ることになる。
 
わたしたちはポツダム宣言が戦後日本の原点なのだという認識を再確認しなければならない。日本国憲法はポツダム宣言を履行するための国内法としての本質が明確にある。そのことを踏まえれば、集団的自衛権行使などということはそもそも考える余地もない、ということが自動的に出てくる。
 
中国にしても韓国にしても朝鮮にしても、日本に対する視線はポツダム宣言に基づいている。かれらからすれば「ポツダム宣言で戦争しないと国際的な約束をしたではないか。だから、わたしたちは日本を許したのだ。戦争する国になるというのはとんでもない」という話になるのは当然だ。
 
日本は国連憲章を受け入れて、国連に加盟したから、国際法上は集団的自衛権というのは国家の権利としてあるとは言える。それは国連憲章五一条に書いてあるからだが、日本国憲法は国際法より上に立つ法規だから、日本国憲法によって集団的自衛権行使はありえない。
 
8.法制局による自衛権の拡大解釈
 
戦後、法制局はなにをやってきたのか。初めは、非常に小さく限定的に解釈していた自衛権を法制局はどんどん大きくしていった。国際紛争解決の手段としての戦争ができないというタテマエは維持せざるを得ないが、固有の自衛権の範囲を限りなく拡大しようと解釈改憲を繰り返してきたのが法制局である。ただし、法制局は解釈改憲だとは絶対にいわないけれども。
 
例えば、自衛権はあくまでも自分を護るための実力行使だから、海外派兵はありえない。ところが、法制局は、一九八〇年頃から、「海外派遣」と「海外派兵」とを分けるという説明をしはじめた。それはどういうことかというと、実力を行使することを目的とした自衛隊の海外派遣は、憲法が禁じる海外派兵だけれども、実力行使を目的としない自衛隊の海外派遣は憲法の禁じるところではない、という主張だ。
 
次に、いわゆる「後方支援」に関しても法制局は無理やりの説明をして自衛権行使の幅を広げた。「後方支援」は、国際的に戦争の一部を構成する兵站に当たる。しかし、アメリカに対する後方支援を行うことを可能にするため、法制局は、戦場とは区別される地域での支援を行うことを憲法第九条は禁じてはいないとして、「後方地域支援」という概念を無理やりつくり出した。
 
さらに法制局は、「武力行使と一体化」という奇妙奇天烈な概念までつくり出した。「わたしは絶対に武力行使と一体化すると見なされる行動には関わりません。その限りで、アメリカに協力します。これは憲法の禁じる武力行使に当たりません」というものだ。
 
極めつけは、イラク戦争で自衛隊をイラクに派遣することを正当化するために持ち出した「戦闘地域」という説明だった。法制局の理屈は、「戦闘地域に自衛隊を派遣することは憲法第九条が禁じている。しかし、非戦闘地域に自衛隊を派遣することは禁じていない」というものだ。
 
「海外派遣」にしても「後方地域支援」にしても「武力行使との一体化」にしても、「非戦闘地域」にしても、国際法的に言ったら、すべて、集団的自衛権行使の範疇に入る。ところが、法制局は日本語が孤立した言葉であることをいいことに、国際的に到底通用しない、いわば言葉の遊戯でしかない議論を大まじめで行ってきたのだ。法制局長官経験者が、集団的自衛権行使は憲法上認められない、解釈改憲は立憲主義に反すると公然と言いだしてから、彼らが護憲の担い手であるかのような錯覚に陥っている人が多いが、私に言わせれば、それはとんでもない話だ。
 
9.小泉でも超えられなかった一線
 
なぜ安倍政権が現在しゃかりきになって、集団的自衛権の行使に踏み込もうとしているのだろうか。その点を正しく理解する上では、一九八〇年代後半からの動きについても理解しなければならない。
 
湾岸危機・湾岸戦争前に「米ソ冷戦」が終わる。その事態を前にして、ソ連に軍事的に対抗することを存在理由としてきたNATOは、新しい時代における存在理由は何かという問題意識に基づいて、八〇年代後半からものすごい議論を行なってきた。したがって、湾岸危機・戦争が起こったとき、NATO諸国は間髪入れずに対応できる、思想的・政策的・法的準備ができていた。それに対して「一国平和主義」に浸りきっていた日本は主体的に行動できなかった。それに業を煮やしたアーミテージが「カネだけでなく、血も流せ」と迫ってきたというわけだ。ちなみに、NATOはこの戦争を踏まえて、一九九一年に新戦略概念というものを定めた。
 
日本は、一九九三年から一九九四年にかけて起こったいわゆる「北朝鮮の第一次核疑惑」と言われている事態でも翻弄された。朝鮮は、ソ連が崩壊し、中国も改革開放で朝鮮をかまっていられない状況に直面して、国際的に非常に孤立した。そういうときに、アメリカが朝鮮の核疑惑なるものを持ち出して、朝鮮に対して本格的な武力行使を行おうとした。そのときにアメリカは日本に、一緒になって戦争をしろ、日本全土を基地にしないと戦争を続けられないから、その備えを用意しろ、と要求してきた。

日本政府は慌てて検討したけれども、何もできなかった。それは当たり前だ。日本は平和憲法のもとで有事法制もない、国民総動員体制もないから、戦争ができっこない。カーター元大統領が金日成と話をつけたこともあって、戦争は辛うじて回避されたが、アメリカはそれに懲りて、国防次官補だったナイによる「ナイ・イニシアティヴ」で日本に迫り、日米防衛協力の指針が一九九七年にでき、日本をNATO化する動きがこれ以後本格化することとなった。
 
その後、NATOは「人道的介入」と称してユーゴ空爆を行い、一九九九年にさらに戦略概念の更新を行った。そして、それを基にして、二〇〇一年以後のアメリカの対テロ戦争にNATOは全面的に関わっていくこととなった。
 
日本は、九〇年代の後手後手の対応に終始した事態に懲りて、小泉政権のもとで、しゃかりきに動こうとした。アメリカと一緒になって、戦争できるようにしようとして、有事法制、国民保護法という名のもとの国民動員体制、日米同盟再定義と進んでいく。けれども、強引を極める小泉政権をもってしても、「集団的自衛権の行使は憲法上認められない」とする最後の一線は越えられなかった。その小泉政権で官房副長官を務めていたのが、安倍晋三氏である。安倍氏は小泉政権のギリギリまでの努力をみて、最後の一線を越えないことには対米前面軍事協力は行えないという問題意識を持ったのだろう。それが、安倍政権の問題意識ということだ。
 
オバマ政権としては、集団的自衛権行使問題を乗り越えないと日米同盟の完結はありえないと踏んでいる。だから、今度の安保法制懇の報告にもいち早く歓迎を表明した。
 
オバマ政権の対外戦略を特徴づけるのは、アジア回帰/リバランス戦略だ。その狙いは、対等が著しい中国を軍事的に牽制し、押さえ込むことにある。しかし、アメリカ経済を浮揚させることもオバマ政権の最大課題であり、その点からすると、いまや世界第二位の経済大国である中国との関係を増進させることも至上課題であることをオバマ政権は熟知している。「抑止」と「関与」という相矛盾する要請をともに満たすという課題をオバマ政権は抱え込んでいるのだ。対中抑止力を高めるために、安倍政権の集団的自衛権への踏み込みは歓迎する、しかし、米中経済関係を壊すことに直結するような、安倍政権の対中強硬一本槍の政策に対しては距離を置く。日本のアメリカへの信頼をつなぎ止めるためには、日米安保条約は尖閣にも適用があると言わざるを得ない。しかし、安倍政権が暴走する危険性に対しては、領土問題の「軍事的解決はあり得ない」と釘を刺すことを忘れない。要するにアメリカ・オバマ政権が日本に対して求めているホンネの部分は、アメリカの言うなりに動く日本であれ、ということだ。
 
ところが、安倍政権がわたしたち主権者国民に、「アメリカの言いなりになるためには集団的自衛権行使への踏み込みが不可欠です」と正直ベースでアプローチするとしたら、いくら保守的な人でも、「とんでもない」と反発することは目に見えている。だから、安倍政権は中国脅威論を押し立ててくるというわけだ。もともとは朝鮮脅威論だったのだが、二〇一〇年の尖閣問題以来、ここぞとばかりに中国脅威論を言い出した。つい先頃までは「北朝鮮がミサイルをとばしたらどうする」式の議論だったが、今や、「中国が攻めてきたらどうする」「尖閣に中国の武装集団が上陸したらどうする」式の議論が国内を席巻している。中国が日本を攻めてきたらどうする、と言われれば、多くの日本人は「それは大変だ。アメリカに守ってもらわなければ不安だし、そのためにはアメリカと協力することも必要だ」ということになる。これは多くの世論調査が示しているとおりだ。まさに尖閣有事、日中対決を全面に押し出すことによって、オバマのアジア・リバランス軍事戦略に参加することへの国民の支持を獲得するというのが安倍政権の本音だと思う。ただし、安倍政権の危険極まりない本質は、中国脅威論が対米軍事協力を正当化するための煙幕であるにとどまらず、本気で中国とことを構えようとしていることだ。そのことを端的に示すのが、今回の安保法制懇の報告がことさらに提起した「グレーゾーン」だ。
 
10.安倍政権の狙いは戦後政治の否定
 
安倍政権が最終的にめざすものは何か。単に集団的自衛権行使、憲法九条の「改正」だけではない。戦後政治そのものを否定することだ。かれにとって、ポツダム宣言を受け入れて、平和国家として生まれ変わった日本ということがそもそも気に食わない。だから、それを全否定したい。かれのやりたいことは、具体的には以下の四点がある。第一、戦後史観を皇国史観に改める。第二、「国民が国家の上に立つ」あり方を改めて、「国家が国民の上に立つ」あり方として、国家あっての国民とする。第三、象徴天皇を元首天皇にする。第四、日本国憲法を「自主」憲法に改める。この四つを盛り込んだのが、自民党改憲草案である。
 
国際社会で、「力によらない」平和を構築するというのが憲法九条の理念だ。ポツダム宣言を受諾した日本にとって軍事立国はあり得ない。日本が勝手にポツダム宣言を否定して戦後国家のあり方を変えるということは、戦後の東アジアの国際秩序を否定するということでもある。そのポツダム宣言をなきものにすることを狙って、安倍は靖国参拝をしている。領土問題は、ポツダム宣言第八項にしたがって解決済みだ。そこでは、日本が領土として認められたのは、北海道、本州、九州、四国だけで、残りのすべての島は連合国(米英中ソ)が帰属を決めるとしている。日本は、自分の固有の領土であるとかないとか、言う立場にない。それを安倍は否定しようとしている。そして、憲法も憲法三原則プラス立憲主義を否定するというところに、かれの狙いがある。
本日のメディア各紙は「取り調べ可視化 対象拡大」の問題をトップ項目(ネット版)に掲げています。
 
━━━Yahoo! JAPAN:今日のトップニュース
取り調べ可視化 対象拡大へ
http://megalodon.jp/2014-0619-0947-50/www.yahoo.co.jp/
「検察の取り調べの録音・録画(可視化)について、最高検は18日、罪名に関わらず、供述が立証の中心となる事件の容疑者の取り調べと、犯罪被害者や事件の目撃者などの事情聴取を、新たに試行の対象に加える方針を明らかにした。裁判員裁判の対象事件や特捜部の独自捜査事件など、以前から試行対象としてきた事件は「本格実施」に移行する。全国の地検に通知を出し、10月から実施する。対象事件の限定を解き、裁判員事件や独自捜査事件以外に広げることで、録音・録画の件数は大幅に増える可能性がある。(毎日新聞)」
 
━━━朝日新聞:今日の注目ニュース
取り調べ可視化、拡大 逮捕事件全て対象 検察、秋から
「最高検は18日、取り調べの録音・録画(可視化)について、10月から実施範囲を大幅に拡大すると発表した。これまで裁判員裁判の対象事件や特捜部などによる独自事件で試行してきたが、これを原則実施に切り替える。さらに、容疑者を逮捕する事件全般に試行の対象を広げ、供述調書の信用性が裁判で争点になると検察が判…続きを読む」
 
━━━毎日新聞:主要ニュース
取り調べ可視化:拡大 検察改革、目撃者聴取も対象
「検察の取り調べの録音・録画(可視化)について、最高検は18日、罪名に関わらず、供述が立証の中心となる事件の容疑者の取り調べと、犯罪被害者や事件の目撃者などの事情聴取を、新たに試行の対象に加える方針を明らかにした。裁判員裁判の対象事件や特捜部の独自捜査事件など、以前から試行対象としてきた事件は「本格実施」に移行する。全国の地検に通知を出し、10月から実施する... 続きを
読む」
 
しかし、この「取り調べ可視化 対象拡大」は、日弁連執行部との「裏取引」の結果としての「可視化の対象拡大」でしかなく、本日のメディアの報道は一斉にこの問題の「本質」を覆い隠す役割しか果たしていません。
 
本日のメディアが一斉報道する(おそらく法務省及び検察のリーク)この「取り調べ可視化の対象拡大」のマヌーバ性(ごまかし)と「裏取引」の問題性については札幌市在住の猪野亨弁護士がその問題点の本質を厳しく指摘し、指弾しています。以下をご参照ください。
 
「日弁連執行部は狂った」とまで弾劾する猪野亨弁護士(北海道・札幌)の激しい日弁連執行部批判 ――通信傍受に賛成しようとする日弁連執行部 刑事司法改革で最大の汚点(弊ブログ 2014.06.16)
 
「日弁連執行部は狂った」とまで弾劾する猪野亨弁護士の追撃 ――法務省が可視化に向けた独自案 日弁連執行部が事務当局試案に賛成する理由は全くない(弊ブログ 2014.06.17)
「鼻血は事実」福島の母親「美味しんぼ」言論抑圧に抗議緊急記者会見の動画と文字起こしを教えていただいた(CML 2014年6月19日
 
どうしてあなた(たち)は「論理」というものがわからないのでしょう? あなたたちがいましていることはもはやデマゴギーの拡散というほかないものです。激しく断罪しておきます。
 
私を含む多くの人たち(医師や「放射能」学専門家多数を含む)が指摘し、批判しているのは、福島の母親(の子ども)に 「鼻血」の「事実」があったかどうかということではありません。自身に「鼻血があった」ということを根拠にして、それを主観的に敷衍、拡大して一方的に「福島の多くの人」全般に「鼻血が多発」しているかのように一般化してしまうことは明らかな誤りだ、と私を含む批判者は常識的に批判しているのです。
 
「福島の多くの人」全般に「鼻血が多発」していないことについては、この5月30日に福島県相馬郡医師会が発表した「4市町村の住民のべ3万2千人余りが受けた健康診断」結果によって明白かつ医学的に明らかになっていることです。その公的な医療機関の発表した調査結果(発表の場所の如何は問題になりえません)すら信用しないというのはもはやナンセンスという次元を超えて超次元の「盲信」と断罪するほかないものでしょう。この世界において「盲信」によってある文化、文明が滅び去ったという例はあっても、当然のことながら「盲信」によって文化、文明が発展したという例はかつて一度もありません。
http://www.asahi.com/articles/ASG5Z3PTNG5ZULBJ003.html
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-891.html
 
「盲信」が跋扈しては「脱原発」運動は遠からず滅び去っていかざるをえない運命を担うというべきでしょう。だから、そうならないように、私たちは、「盲信」が跋扈することを激しく批判しているのです。
群馬県立公園群馬の森にある「記憶 反省 そして友好」の追悼碑の存続要請運動は、昨年から続いていた「追悼碑の撤去を求める請願」という右翼の妨害行為を残念ながら阻止することはできませんでした。
 
私も『「記憶 反省 そして友好」の追悼碑』の存続を求める要請文を、この右翼の請願を群馬県議会の運営委員会で審議される日の5月19日まで弊ブログのフリースペース欄に貼りつけて小さな抵抗を試みていたのですが残念です。
 
「vanacoralの日記」の筆者がこの件について記事にしています。「公園に追悼碑を置いてはいけないの?
 
以下、この件に関する東京新聞の記事。
 
強制連行追悼碑の設置許可 取り消しの請願決定 県議会
(東京新聞【群馬】 2014年6月17日)
 
県立公園「群馬の森」(高崎市)にある韓国・朝鮮人の強制連行追悼碑をめぐり、碑を管理する市民団体が碑を政治利用したとして、別の市民団体が県に設置許可の取り消しを求めている請願三件が十六日、県議会本会議で賛成多数で決定された。
 
本会議の賛成討論で、自民の橋爪洋介県議は「設置許可は(政治利用しないなどの)条件付きで下りたのに、それがほごにされたのは遺憾」と述べた。
 
反対討論では、リベラル群馬の黒沢孝行県議が「日中、日韓関係が良くないときに、群馬の地から火に油を注ぐべきではない」と指摘。共産の伊藤祐司県議は「朝鮮人に過酷な労働を強いたのは歴史的事実」と述べた。
 
閉会後、大沢正明知事は報道陣に「追悼碑は公園に本当にあるべき施設かどうか、問題はある。公園は県民の憩いの場でなくてはいけない」と語った。
 
碑は二〇〇四年に設置され、「記憶 反省 そして友好の追悼碑を守る会」(前橋市)が管理。県は碑の前の追悼集会で一部の参列者が政治的な発言をしたとみて、一月末の設置期限後も設置許可の更新を保留している。
 
請願は市民団体「新しい日本を考える群馬の会」(富岡市)などが提出し、九日の常任委員会で二件が採択、一件が一部採択となっていた。 (菅原洋)
 
以下は資料として。
呼びかけ文
群馬県立公園群馬の森には、太平洋戦争中の労務動員により作業現場で亡くなられた多くの方々を偲び、二度と過ちを繰り返さず未来に向けて友好を深めていくことを決意した、『「記憶 反省 そして友好」の追悼碑』が2004年に建てられました。毎年5月には碑の前で追悼と未来の友好のための行事が行われてきましたが、昨年から、右翼の妨害によって碑前での行事が行えなくなっています。
 
妨害行為はさらにエスカレートし、公有地から碑を撤去せよとの請願が県議会に提出され、意見も多数(100件以上)届けられているとのことです。「撤去を求める請願」は県議会の運営委員会で来る5月19日に審議されることになっています。
 
上記撤去請願を採択させないためには、撤去の意見の数を上回る存続要請を県に届ける必要があります。碑を存続させるために、是非メール、電話、FAX、はがきなどで、県に存続を訴えて下さいますようお願い致します。
 
群馬県庁(〒371-8570 群馬県前橋市大手町1丁目1-1
電話:027-223-1111)
担当課:県土整備部都市計画課 電話 027-226-3651 FAX 027-221-5566
メール
keikakuka@pref.gunma.lg.jp
 
どうぞ宜しくお願い致します。
 
参考のために、碑文を以下に掲載します。
 
碑文
 
追悼碑建立にあたって
 
20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。21世紀を迎えたいま、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである。
 
2004年4月24日
 
「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を建てる会
 
碑文中「朝鮮」及び「朝鮮人という呼称は、動員された当時の呼称をそのまま使用したもので、現在の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、及び両国の人達に対する呼称である。
いうべき言葉もないほどの時代にいま私たちは生きている、あるいは遭遇しているということでしょうか?
 
悲しい。というよりも、痛いような感覚。でも、いや、だからこそ、「戦いつづける」以外ありませんね。
 
弊ブログ「今日の言葉」(2014.06.18)から。
 
・日曜日ですから。空騒ぎが悪いとは言いません。その狂態の裏に痛感覚が見えないのです。(略)私も彼らをクソと書いてはいるが、内心複雑な思いもなくはない。スポーツバーで10代から20代の気の弱そうな若者が集団に埋没することで自己陶酔が生じ、雄叫びを上げる姿は確かに身も蓋もない泥酔である。狂信者は大枚2、000万円も投入して握手券入りのCDを買い、おそらく国政選挙に多くが棄権したであろうことは想像に難くない若者が少女選挙に何万人も集結し、雨に濡れながら少女宗教の跡目相続を熱く熱く語るAKB48ファンの単細胞集団ときっちり重なり合う。こういう若者がアメーバのように分裂増殖することで早晩日本が滅びるのは目に見えてもいる。(略)だが私はあのW杯やAKB総選挙の泥酔集団を見るにつけ、平成現代の若者が、戦後かつてなく機構によって激しく搾取される大構造の中(略)に置かれ、かつてのように声すら上げる手段もなく、孤立している姿を二重映しに見る。企業優遇、労働者搾取のさらなる進化形を突き進む安倍政権の時代において、これらのバカ騒ぎは時の政権とタッグを組んだガス抜きとさえ目に映るのである。だからせめて勝って彼らの内に溜まる内向したエネルギーを浄化させてやりたかった、……と、このクソガキと思いつつも、とくに生活貧困女子らしい子供らの”負けてもハイタッチ”の自己愛撫の健気がやるせないのだ。(shinya talk 藤原新也 2014/06/17
 
・集団的自衛権とは、「同盟国が攻撃を受けた時に、反撃支援に参加する義務」があるということだ。安倍首相が示した架空の事例ではなく、具体的事例に照らしてみなければ、その意味することは理解できない。第二次大戦以後で最大の総力戦となったヴェトナム戦争が本格化したのは、1964年にアメリカが本格的に参戦してからである。この参戦の契機になったのは、ヴェトナム沖トンキン湾における米軍艦船への魚雷攻撃である。遠く母国を離れ、他国の領海近辺に威嚇出撃し、攻撃されたと「因縁をつけて」、アメリカは北ヴェトナムへの爆撃と南ヴェトナムへの地上軍派遣を決定した。「同盟国」の艦船が攻撃されたのだから、「同盟国」はこのような強引な侵略にも付き合う義務がある。およそ8年にわたるアメリカのヴェトナム侵略によって、北ヴェトナムの森林は廃墟となり、南ヴェトナムの地上戦ではアメリカは一時50万人を超える兵士を派遣したが、そのうち5万人もの軍人が命を落とした。ヴェトナム人の軍人と民間人の死者は300万人とも400万人とも言われている。アメリカの参戦によって、膨大な人命が地球上から失われたのだ。(略)主体性のない「軍事オタク」政治家が、日本の将来をもてあそんでいる。アメリカへの軍事的従属下の「集団的自衛権」の行く末は見えている。(リベラル21 盛田常夫  2014.06.17
 
・おい、安倍晋三よ、以下を読め。衆院本会議での答弁。吉田茂首相「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定しておりませぬが、第9条第2項において、一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります。従来、近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。満州事変が然り、太平洋戦争また然りであります」「戦争放棄に関する憲法の草案条項におきまして、(質問者は)国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きことを認むることが有害であると思うのであります(拍手)近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認むることが戦争を誘発するゆえんであると思うのであります。(自衛のための軍隊などという)御意見の如きは有害無益の議論と私は考えます(拍手)」(昭和21年=1946年6月26日。下線は引用者)。安倍、高村、石破よ、よく読め。「正当防衛権を認むることが戦争を誘発するゆえん」。日本の戦後はこうしてはじまり、〈新しい戦前〉のいまがある。(辺見庸「日録22」2014/06/19

附録
・【W杯】渋谷スクランブル交差点、敗戦にもなぜかハイタッチ
(フットボールチャンネル 6月15日)
 
日本代表は現地時間14日、レシフェのアレナ・ペルナンブーコでのW杯初戦でコートジボワールと対戦し1-2で逆転負けを喫した。
 
日本では、15日(日)の午前10時のキックオフだっただけに、多くの人々がテレビ中継を観戦。日本中が落胆し、静まり返った…はずだった。
 
しかし、もはや恒例となっている渋谷のスクランブル交差点には、逆転負けにも関わらず多くの人々がなだれ込み、なぜかハイタッチをしている。この状況に全く関係のない仕事中の人や買い物に訪れた女性なども巻き込まれ、警察は多数の出動を余儀なくされた。
 
仮に勝利を挙げたのであれば、喜びが必要以上に爆発したのだと思えるが、敗戦にも関わらず奇声を上げながらハイタッチしているのは理解不能だ。
 
これは、彼らが「サッカーファン」ではなく「お祭り騒ぎがしたいだけ」である事の証明だろう。普段は出来ない“バカ騒ぎ”の理由にW杯を利用しているだけなのだ。(後略)
前回に引き続いて浅井基文さん(元外交官。政治学者)のウクライナ危機以後の国際情勢の見方のパート2です。今回は、同ウクライナ危機で浮き彫りになった「国際法の欠缺」と「カラー革命」の問題点に絞って(焦点化して)の問題提起となっています。ウクライナ問題を考える上で基礎となるべき国際法と国際情勢の見方であるように思います。
 
ウクライナ情勢の展開は、米ソ冷戦終結後、事実上アメリカの一極支配で展開してきた国際情勢における重大な問題点をあぶり出すものとなった。それらの問題点は、アジアの平和を考える上でもゆるがせにできない重みをもっている。①米ソ冷戦終結後の国際関係のあり方をどのように認識するか(具体的には、アメリカ(米欧)とロシア(中露)との間でかつての冷戦が復活しつつあると見るべきかどうか、あるいは、米日で支配的な対露警戒感はリアリズムに基づく検証に耐える内実を伴っているのか)、②ウクライナ危機における国連安保理の機能マヒ(大国の拒否権問題という古くて新しい問題)、③軍事大国・ロシアに対しては軍事力行使というオプションを排除するほかないアメリカ(大国と小国とで対応が変わること自体が典型的な二重基準である)が選択した対露経済制裁をどのように評価するか等々、考えなければならない問題は多い。しかし、このレジュメ原稿を準備する時間的及び私自身の力量的制約に基づき、ここでは国際法の欠缺及びいわゆる「カラー革命」の問題を取り上げる。
 
<国際法の欠缺>
国際問題・紛争が生じた場合に、戦争が禁止された今日の世界では、交渉・対話による解決を追求することが唯一の合法的手段である。ところが、国際法は国内法と異なり、あらゆる問題について解決の根拠を与える包括性、網羅性からはほど遠い。また、法的強制力もほとんど備えていないから、合意された内容が一方的に履行されないというケースもしばしばである。また、アメリカに関しては二重基準の適用が常態化しているという深刻な問題も存在する。ここでは、これらを総称して「国際法の欠缺」という。
 
ウクライナ危機においては、国際法の欠缺が浮き彫りにされ、このことが危機のさらなる深刻化をもたらしてきた。ここでは、アジアの平和を考える上でも重要な意味を持つ二つの問題について考える。
 
◯国家主権・領土保全原則と人民(民族)自決原則の衝突
ロシアがクリミアを併合したことに対して、アメリカをはじめとするいわゆる西側諸国は、国家主権尊重及び領土保全という国際法上の基本原則に反するものとしてロシアの行動を非難、批判した。これに対してロシアは、クリミアが置かれてきた歴史的経緯、民族構成等を背景として、クリミア住民の選択は人民(民族)自決権の行使という国際法上の基本原則に合致するものだとして自らの行動を正当化し、一歩も譲らない。
 
ここには、国家主権・領土保全原則と人民(民族)自決原則というともに国際法(国連憲章)で承認された二つの基本原則の間に存在する矛盾を解決するための国際法・ルールが存在しないという問題がある。具体的には、多数者の支配を肯んじない少数者が分離独立を求める場合に、国際社会としては両原則のいずれを優先させるか、あるいは両者の両立を如何にして図るかという問題である。即ち、国家主権・領土保全原則を尊重すれば分離独立は認められないが、人民(民族)自決原則を重視すれば分離独立を認めるべきだということになる。ウクライナ危機において、アメリカ以下の欧米諸国は前者を、また、ロシアは後者を前面にそれぞれ押し立てたということである。
 
この問題は、米ソ冷戦時代には「臭いものにはフタ」式に公然化するケースは限られていた。ただし例外事例として、東パキスタン(バングラデシュ)のパキスタンからの分離独立、あるいはエリトリアのエチオピアからの分離独立闘争-独立実現は1991年-などがある。しかし、米ソ冷戦終結後、ソ連の解体と15独立国の誕生(ロシアを含む)を皮切りに、特に多民族国家において少数民族の独立を目指す運動・闘争となって噴出するに至った。
 
特に大きな争点となったのはコソボ問題である。アメリカ以下のNATOは、ユーゴからの独立を目指したコソボを支持し、安保理決議の裏づけもないのに「人道的支援」と称してユーゴに対して空爆作戦を行っただけでなく、「先例としない」としつつ、コソボの独立を承認した。当時、アメリカ以下の行動に反対したのはロシア及び中国だった。今回、クリミアの住民投票を尊重するとしてロシアへの併合を行ったプーチン大統領は、自らの行動を正当化する根拠の一つとして、米欧諸国によるコソボ独立承認という「先例」を挙げた。
 
国家主権・領土保全原則と人民(民族)自決原則との間に矛盾があり、互いに衝突することは早くから周知の事柄だった。しかし、「植民地独立付与宣言」(1960年)及び1970年の「友好関係宣言」(1970年)を審議した国連総会はこの問題に立ち入ることを回避した。米ソ冷戦時代には、米ソの角逐によってこの問題を正面から取り上げる機運は生まれようもなかったのだ。
 
また、米ソ冷戦終結後は事実上のアメリカ一極支配となり、この2原則間の矛盾を解決するためのルール作りという地道な作業に国際的に取り組むべきだとする国際世論が醸成されることもなかった。クリミア問題は、正に以上の国際的不作為の当然の帰結であるとともに、コソボとクリミアで示されたアメリカ以下の二重基準政策を客観的に問いただすものでもあった。
 
クリミア問題に対して中国がとった行動は検討に値する。中国は国内に少数民族問題(特に新疆ウイグル自治区及びチベット自治区)を持ち、少数民族の分離独立を認めない。「現行の国際ルールで確認されている独立国家の態様は、①自然に存在している国家、②植民地統治に反対して独立解放闘争を経て成立した国家、③元来所属していた国家の議会の同意を経て独立した国家、④議会が国家解体に合意しかつ新しい行政区画(国境線)に基づいて独立した国家」(紀明葵・国防大学教授)と限定する中国は国家主権・領土保全原則を重視する立場である。したがって中国は、「コソボ、南オセチア、アブハジア問題でもその立場を取ったから、クリミア問題で中国が支持することはロシアも期待するはずはなかった」(同)。
 
しかし中国は、「ウクライナ情勢が今日まで発展したことについては偶然の中に必然がある」(3月4日の習近平・プーチン電話会談における習近平発言)、より具体的には「この問題の背後には複雑な歴史的な経緯と利害の衝突がある」(3月8日の王毅外交部長発言)という認識に立ち、「ウクライナ各民族人民の根本的な利益を擁護するという考慮に基づき、また、地域の平和と安定を維持するという大局から出発して」安保理における対ロシア非難決議には棄権という選択を行った(決議自体はロシアの拒否権行使で成立せず)。
 
安保理でロシアを追い詰めることができなかったアメリカは、国連総会決議でロシアを非難する決議を採択させた(3月27日)。この決議に関しては、賛成100ヵ国、反対11ヵ国、棄権58ヵ国であった。反対と棄権を合わせた数は69ヵ国であり、100対69という結果は「ロシアの国際的孤立化を浮き彫りにした」とは言いがたいものである。むしろ、2大原則の矛盾をめぐる国際社会の複雑な問題意識が反映されたと言うべきだろう。
 
しかし、この問題を放置する、あるいは大国間の争いに委ねてしまうことは、21世紀国際社会の平和と安定を真剣に考える限り、あってはならないことだと考える。なぜならば、今後もこの問題は世界各地で起こりうるからだ。アジアにおいても中国だけでなく、フィリピン、インドネシア、ミヤンマーなどに火種が存在している。また、沖縄においても独立論が一部あるにせよ主張される現実がある。
 
◯テロリズム
テロリズムに関する確立した定義は存在しない。テロリズムを取り締まる目的で作られた最初の条約である「核によるテロリズムの行為の防止に関する国際条約」(2005年)においても、取り締まる対象である犯罪に関する定義は行われているが、タイトルにはテロリズムとあるにもかかわらず、条約本文では「犯人」として扱われ、「テロリズム」または「テロリスト」については、定義はおろか言及すらない。
 
このことは、ソ連解体後にアメリカ・クリントン政権が、ソ連に代わる脅威を「様々な不安定要因」と規定した際にテロリズムを含めて以来、テロリズムの脅威が国際的に重視されることとなった背景を踏まえるとき、奇異にすら感じられる。テロリズムは、いわゆる非伝統的脅威の最たるものと見なされているのだ。
 
より根本的な問題は、テロリズムは犯罪の一態様であって、本来は警察力によって対処するべきものである。そのことについて国際的認識がぶれているわけではないことは、上記条約において明確に犯罪として位置づけていることでも明らかだ。だが、2001年の9.11事件においてパニックに陥ったアメリカ・ブッシュ政権が「対テロ戦争」と叫んで以来、国際テロリズムに対して軍事力によって対抗することが当然視される風潮が出来上がってしまった。その結果、テロリズムに関する定義づけを行う国際的努力は等閑視されてきた。
 
ウクライナ危機は以上の問題を改めて浮き彫りにしている。即ち、クリミアが住民投票を経てロシアへの併合を実現した後、ロシア系住民が多数を占めるウクライナ東部諸州においてもウクライナからの分離独立を求める動きが活発化し、これを抑えようとするウクライナ中央政府との間に武力闘争となって、今や内乱状態を呈している。問題は、ウクライナ政府が東部諸州の分離独立を求めて戦う人々を「テロリスト」と断定したことだ。
 
ウクライナ中央政府を支持・支援する米欧諸国はこのことには沈黙して事実上黙認する一方、ロシアは当然のことながら東部諸州の行動を支持して対立し、かくして事態はますます複雑化することとなっている。もっとも、米欧諸国の二重基準は今に始まったことではないが、ロシア自身も例えばチェチェンの分離独立闘争をテロリストの仕業と決めつけるなど、その言動が一貫しているとは言えない。
 
付言すれば、最近中国国内で頻発している事件に関しても、中国政府はテロ事件と断定するが、米欧諸国の反応は必ずしも歯切れのいいものではない。そこには、「中央政府に弾圧される中国の少数民族」に対する米欧諸国世論の好意的見方が背景にある。
 
テロリズムという犯罪行為を取り締まることは必要であり、国際的テロリズムを有効に取り締まるためには国際協力は欠かせない。しかし、国際社会が結束して対処する前提はテロリズムに関する定義を国際的に確立することだ。各国が自分の都合次第でレッテル貼りを行う現実を野放しにする限り、21世紀における国際関係の安定化は期しがたいと言うべきだろう。また、テロリズムの温床は、世界的な富の偏在・貧富の格差、そして新自由主義にあり、これらの構造的原因を除去しない限り、テロリズムを根絶する展望はないことを認識しなければならない。
 
<「カラー革命」>
アメリカのメディアの圧倒的影響力のもとにある日本では、グルジアのバラ革命(2003年)、ウクライナのオレンジ革命(2004年)、キルギスのチューリップ革命(2005年)など、旧ソ連邦諸国で起こったいわゆる「カラー革命」を無条件で「民主化を目指す内発的な動き」として肯定的に受けとめられてきたが、ウクライナ危機はそうした受けとめ方が如何に皮相的なものでしかないかを事実で明らかにした。その点はアラブ諸国におけるいわゆる「アラブの春」も同じで、チュニジア、リビア、エジプト、シリアなどでの現実は、私たちに国際情勢認識に主観を持ち込むことの危うさ、言い換えれば徹底したリアリズムに基づく分析が欠かせないことを注意喚起している。
 
ウクライナ危機に視点を限定するとき、今日の危機を招致した原因として少なくとも次の諸点を挙げなければならない。
 
-欧州志向が強い西部とロシア志向が強い東部。この違いは、歴史的、宗教的、民族的諸要因に由来する。これらの違いは他の国々においても程度の差こそあれ存在するもので、これらのみを決定的要因とすることは誤りだが、以下の諸点と相乗作用を起こすときには、問題を複雑化・深刻化する方向に作用することは否定できない。
 
-政治的未熟性。ウクライナはフルシチョフ、ブレジネフなどを輩出しているが、国家としてはソ連解体を機に誕生した国家であり、かつまたデモクラシーを自ら実践した歴史もない。
 
-レベルの低い政治指導者。ウクライナ政治において台頭した政治的リーダーのほとんどは旧ソ連時代に政治経験を持たないいわばアマチュアであり、かつ、急速に経済的にのし上がった人々であり、かつまた西部か東部かのいずれかに地盤を持つものであって、国民全体を束ねる識見もカリスマも持ち合わせていない。
 
-経済の低迷。元々ウクライナは旧ソ連においてはもっとも豊かな先進地域だった。しかし、独立後は低迷し、経済困難は国民の不満感情をいやが上にも高めてきた。
 
-地政学的位置。米欧諸国はロシアに対していわば「やらずふんだくり」で接し(少なくともロシアはそう受けとめている)、NATO及びEUの東方拡大によってロシアは安全保障に対する危機感を深めてきた。そういうロシアにとってウクライナは絶対に手放すわけにはいかない地政学的緩衝地帯である。しかし、アメリカは委細構わずウクライナを自己の陣営に引き入れようと画策してきた(少なくともロシアはそう認識している)。レベルの低いウクライナの政治指導者は、米露双方の間でバランス感覚を働かせる最低限の分別も持ち合わせず、米露のいずれか一方に大きく傾斜することで、国内矛盾をますます深めることになった。
 
以上に概略見たとおり、今日のウクライナ危機の原因は複雑多岐にわたっている。国際社会は、これらの原因を正確に踏まえ(リアリズムに基づいて情勢認識を行い)、ウクライナが国家として自立することを支援するべきだった。しかし、「ソ連解体=アメリカ勝利」と錯覚したアメリカは、自らの戦略を実現することのみを追求し、ロシアを一方的に追い詰め、そのことがウクライナ危機を国際化させることになった。
 
私たちがハッキリ認識しておかなければならないことがある。それは、ロシアにとってのウクライナ問題は、中国にとっての朝鮮半島・東シナ海・南シナ海問題であるということだ。両者に共通するのは、アメリカの旧態依然の力による政治(power politics)に基づく対外戦略・政策がロシア及び中国の安全感を脅かし、対抗策に走らせ、そのことがまた緊張を高めるという悪循環を生んでいることにある。
 
ウクライナ危機を対岸の火事視する日本人が多いが、そのような見方しかできないことが「中国脅威論」という安倍政権の虚構づくりを見破ることができず、したがって「中国脅威論」を前面に振りかざした集団的自衛権行使・解釈改憲の策動に対して受け身を強いられる国民世論を生みだしている。
 
以下、昨日の記事に続く猪野亨弁護士の「日弁連執行部」批判追撃記事です。
 
法務省が可視化に向けた独自案 日弁連執行部が事務当局試案に賛成する理由は全くない(弁護士 猪野 亨のブログ 2014/06/17)
 
先般、「通信傍受に賛成しようとする日弁連執行部 刑事司法改革で最大の汚点」で述べましたが、日弁連執行部は、「法制審議会-新時代の刑事司法制度特別部会」で示された事務当局試案に対し、通信傍受の対象拡大など捜査権限を焼け太りさせ、取り調べの可視化自体も極めて不十分なものであるにも関わらず、全体として「賛成」しようとしています。
 
その理由は、繰り返しになりますが、今、日弁連がこの事務当局試案に反対したら取り調べの可視化を義務づけることそのものが頓挫するというのが、日弁連執行部の言い分です。
 
これだけでも成果が出たんだから、今は何としてもこれを実現しなければならない、そのためには捜査権限の拡大などの焼け太りもやむを得ないというのです。
 
前回、ご紹介した「インチキ可視化と引換に日弁連執行部が盗聴拡大を丸呑み! 日弁連執行部の裏切りと屈服を許すな! 」(ろーやーずくらぶ 増田尚弁護士のブログ)には、日弁連執行部の露骨な本音が紹介されています。
 
肉や野菜だけでなく、毒まんじゅうも出されている。肉や野菜しか食べないというわけにはいかない」(宮﨑誠の4月日弁連理事会での発言)などと世迷い言を吐いたり、反対すれば可視化の足がかりもなくなる上、さらにひどい案が実行されてしまうなどと恫喝して、理事に白紙委任を求めています。
 
その日弁連執行部の権力的発想を見事なまでに表現されています。
 
あたかも権力とネゴをして調整をするなど政治家まがいの立ち回りをするから、俺様の手柄を台無しにするのかなどと権力的な思考に陥るのです。
 
日弁連執行部が権力に取り込まれていく様子がよくわかります
 
ところで、法務省が可視化に向けた独自案を提案することが昨日、報じられました。
 
可視化、検察独自捜査にも義務付け…法務省案」(読売新聞2014年6月17日)
警察と検察の取り調べの録音・録画(可視化)の法制化を検討している法制審議会(法相の諮問機関)の特別部会で、法務省は、裁判員裁判対象事件に加え、検察の独自捜査事件でも可視化を義務付ける案を提示する方針を決めた。
 
背景としては、当然のことながら、捜査当局、法務省もある程度の可視化の義務化はやむを得ない、今、ここで一切を拒否することは国民世論やマスコミから叩かれることは必至です。
 
だからこそ日弁連が事務当局試案に反対しようとも、この程度の可視化の義務化が頓挫することは絶対にないのです。
 
百歩譲って、「棄権」という選択肢だってあるわけです。
 
日弁連が「賛成」しなければならない理由がどこにあるというのでしょうか。
私はこれまで「ウクライナ、クリミア情勢の見方」についてさまざまな角度からの見方を28回にわたってご紹介してきました。それは、ひとつには、日本のメディアの西側メディアから流れてくる情報に依拠したあまりにも偏った報道姿勢を正す必要があるというある種の対抗策としての意味合いを持っていました。しかし、その対抗策も、国際情勢に通じた専門家がその責を担ってくれるのであれば、私ごときがしゃしゃり出る幕はもちろんありませんでした。
 
しかし、現状は、アメリカという資本主義、大国主義国家の「平和」への提唱のマヌーバ性(クリミアの独立とウクライナの独立についての米欧諸国の身勝手なご都合主義。内政不干渉と民族自決原則の適用の二重基準)を誰よりもいち早く指摘、指弾しなければならないはずの日本共産党という日本の社会主義政党がほかならないアメリカを筆頭とする西側メディアの合唱する国家(民族)差別的、恣意的な二重基準に基づく「ロシア叩き」の口車に報道で明らかになっている事実関係すら無視した上で先頭を切って乗っている。そうした状況を正されなければならない、という私の目的意識に負っています。「保守」を糾す前に「革新」の誤りを正しておかないと「保守」を糾すことも当然できません。それが「ウクライナ、クリミア情勢の見方」を28回も続けてきた理由です。
 
さて、「ウクライナ、クリミア情勢の見方」の29回目は、浅井基文さん(元外交官。政治学者)という外交の専門家の眼を通じてウクライナ危機以後のオバマ政権の軍事戦略の変化を見ることです。それが今回の浅井基文さんの論攷のねらいでもあるでしょう。日本の革新勢力には特に読んでいただきたいウクライナ危機以後の国際情勢、とりわけアメリカの外交戦略の認識です。
 
ウクライナ情勢を受けたオバマ政権の軍事戦略再表明
(浅井基文 2014.06.15)
 
オバマ政権は、ウクライナ危機特にクリミアのロシア編入に対してなんら有効な対策を講じることができなかったことに関し、アメリカ国内から厳しい批判を浴びています。
 
オバマ政権の軍事戦略に対するアメリカ国内の批判は、実はウクライナ危機以前から顕在化していました。特に、シリア内戦に際してアサド政権の打倒を目指したオバマ政権が、シリア国内の反アサド勢力の武装闘争を支援するために、シリアに対する空爆作戦を実行しようとしたとき、ロシアのプーチン大統領がアサド政権による化学兵器全廃の約束と引き替えにアメリカの空爆作戦を押しとどめたことは、プーチンの外交手腕を際立たせると同時に、オバマ政権の優柔不断と後手後手に回る政策的稚拙さをも浮き彫りにしました。
 
ロシアによるクリミア併合に対してオバマ政権がなんら有効な対抗策を講じ得なかったことは、ロシアと国境を接する東欧諸国(その多くは自国の安全保障を期してNATOの東方拡大に進んで身を委ねている)から、「果たしてアメリカ(及びNATO)は、いざという時に自分たちを守る決意があるのか」という深刻な懸念を呼び起こしました。その懸念はアジア太平洋地域(APR)諸国のいわゆる親米政権当事者にも共有されることになっています。言うまでもなく、欧州正面のロシアに対応するのはAPR正面の中国です。
 
こうして、オバマ政権は東西の同盟諸国の対米懸念を払拭するために、アメリカの確固とした軍事戦略を明らかにする必要に迫られました。5月28日にオバマ大統領が陸軍士官学校卒業式で行った演説は以上の背景のもとで行われました。また、オバマ演説の直後の5月31日には、ヘーゲル国防長官がシンガポールのシャングリラ対話フォーラムで、アメリカの対APR軍事戦略に関する演説を行いました。両演説は、オバマ演説が軍事戦略を全般的に述べたものであるのに対して、ヘーゲル演説はオバマ政権の看板であるアジア・リバランス戦略について敷衍したものという関係に立ちます。

私たちが両演説に関してチェックする必要があるのは、次の2点です。
 
第一、果たして両演説は同盟諸国の対米懸念を払拭するだけの内容があるのか。
 
第二、そもそも、オバマ政権にはウクライナ危機で露呈された、「米ソ冷戦終結後のアメリカによる軍事的世界一極支配構造が、今や中露をはじめとする新興諸国によって根底から疑問視され、異議申し立てが行われている」という国際情勢の構造的変化(少なくともそういう変化に向けての胎動)に関する認識があるのかどうか。
 
また、ヘーゲル演説は、安倍政権が進めようとしている集団的自衛権行使を「可能」とするための第9条解釈改憲の狙いが奈辺にあるかについて、アメリカのホンネを示している点でも注目すべき内容があります。
 
以下では、以上3点に関して、オバマ及びヘーゲルの発言を紹介しつつ、私なりのコメントを加えようと思います。なお、末尾に両演説の要旨を紹介しておきます。
 
1.オバマ政権の国際情勢認識の危うさ・怪しさ
 
オバマ政権の国際情勢認識は、次のオバマの言葉に凝縮されています。
 
「世界は加速的に変化しつつある。そのことはチャンスであると同時に新たな危険を提起している。9.11以後、テクノロジーとグローバリゼーションは、かつては国家の独占物だった暴力を個人の手にも渡し、テロリストの能力を高めた。ロシアの旧ソ連邦諸国に対する侵略は欧州諸国を脅かしている。中国の経済的台頭及び軍事的拡張は近隣諸国を悩ませている。ブラジルからインドまで、台頭する中産階級は我々と競い、諸国政府は世界における発言力の増大を追求している。30年前だったらほとんど注目もされなかった内戦や破産国家や人民の蜂起が四六時中ニュースを賑わしている。」
 
私が、以上のオバマの発言について注目するのは2点です。
 
一つは、21世紀国際関係を特徴づける国際的相互依存の不可逆的進行(それはアメリカがもはや一国主義を追求し、世界覇権にしがみつくことを時代錯誤にしている)に対する認識のかけらも見られないということです。したがって、このようなリアリズムが欠落する国際情勢認識からは的確な政策を打ち出す可能性は生まれ得ないことが分かります。後で指摘するように、オバマが追求するのは、100年後もアメリカが世界の中心に君臨して世界を牛耳るとする、今や前世紀の過去の遺物としか言いようのない、むきだしの力による政治(power politics)になるのは当然
です。
 
今一つ私が注目したのは、ロシア及び中国を脅威扱いしていることです。確かにクリントン政権以来のアメリカが措定した旧ソ連に代わる脅威としての「様々な不安定要因」の中には、非伝統的脅威(その典型がテロリズム)をメインとしつつも、伝統的脅威としての国家から来る脅威も含まれています。しかし、上記オバマ発言ほど明確に、ロシア及び中国を「脅威扱い」したものは、管見による限り珍しいことです。
 
それはやはり、NATO軍によるユーゴ空爆、リビア内戦に対するNATO軍介入とカダフィ抹殺などを経験して、安易な対米欧協調は国際関係の基盤を揺るがすという危機感を深めた中露両国(中露が目指す国際関係のあり方に関する基本的考え方は、5月27日付のコラム「プーチン訪中と中露戦略連携パートナーシップの新段階」参照)が、ウクライナ危機に際して正面からアメリカに待ったをかけたことに対するオバマなりの正直な反応だと思います。ここでは、国際関係の民主化を前面に押し立てる中露両国を、力による政治の旧思考にしがみつくオバマが、アメリカの覇権に挑戦する「脅威」としか考えられない姿を反映しています。
 
ちなみにヘーゲル演説における次のくだりも、オバマの中国を脅威視する認識と連動していることが明らかです。
 
「APRは深刻な脅威に直面している。南シナ海及び東シナ海では領土及び海洋紛争、北朝鮮の挑発的行動及び核ミサイル計画、気候変動及び自然災害という長期的挑戦、サイバー攻撃(浅井注:サイバー攻撃は常に中国からのものとされている)がある。」
 
なお、私がオバマの国際情勢認識にリアリズムが完全に欠落していると強く感じたのは、シリア及びウクライナ問題に関して、自己の行動を美化、正当化することに汲々としている次の発言に呆れかえったときでした。
 
-「(シリアに関して)簡単な答、軍事的解決はない。私はアメリカ軍を送り込まない決定を行ったが、そのことは、独裁者に対して立ち上がったシリアの人々を助けないということではない。自らの将来を選ぼうとする人々を支援しつつ、混乱の中に紛れ込んでいる過激派を食い止めようとしている。テロリスト及び独裁者に対する最善の選択肢となるシリア反対勢力に支持を提供するよう、議会とともに行動する。」
 
-「ウクライナにおけるロシアの最近の行動は東欧にソ連の戦車が侵入した日々を思い起こさせる。しかし冷戦ではない。世界世論を形作ることでロシアを直ちに孤立させることができた。アメリカの指導力によって世界は直ちにロシアの行動を非難した。欧州及びG7は制裁に加わった。NATOは東欧同盟国に対するコミットを強化した。IMFはウクライナ経済の安定化に協力している。OSCE監視団は世界の目をウクライナの不安定な地域に向けさせた。世界世論及び国際機関を動員することにより、ロシアの宣伝及び国境に展開したロシア軍を牽制した。」
 
2.オバマ軍事戦略の説得力
 
同盟諸国の対米懸念を念頭においたオバマの軍事戦略のポイントは、オバマの発言を抜き書きすれば、次の諸点となります。
 
-「アメリカは常に世界をリードしなければならないということだ。アメリカ以外には誰もいない。アメリカ軍はその指導力のバックボーンだ。しかし、アメリカの軍事行動は、いかなる場合にもアメリカの指導力の唯一の要素でもなければ、主要な要素ということでもない。軍事行動に伴うコストは巨大であるがゆえに、それを如何に使用するかについて明確な判断がなければならない。」
-「核心的利益が要求するとき、つまり、アメリカ人が脅かされ、その生活が危殆に瀕し、同盟国の安全が危険にあるときには、アメリカは必要であれば単独ででも軍事力を行使する。…国際世論は重要だが、アメリカ人、母国あるいはアメリカの生活スタイルを守るために許可を求めるようなことはすべきではない。」
 
-「世界的な関心のある問題であってもアメリカに対する直接の脅威とならないもの、我々の良心を揺さぶり、または、世界をより危険な方向に導きはするがアメリカの直接の脅威とはならないものに関しては、軍事行動を執るかどうかの敷居は高くしなければならない。そういうケースでは、アメリカは単独行動を執らず、同盟国及び友好国を動員して集団的行動を執らなければならない。」
 
「アメリカは常に世界をリードしなければならない…。アメリカ軍はその指導力のバックボーンだ」と言い放つオバマが力による政治の旧思考にしがみついている本質は明らかです。しかし、その旧思考は同時に諸刃の刃でもあります。なぜならば、「アメリカに対する直接の脅威とならない」とアメリカが判断する(同盟国ではない!)時には、「軍事行動を執るかどうかの敷居は高くしなければならない」ということになるからです。
 
確かにオバマは、アメリカが単独ででも軍事力を行使する「核心的利益が要求するとき」の中に「同盟国の安全が危険にあるとき」を含めてはいます。しかし、「アメリカに対する直接の脅威とならない」ケースでは「アメリカは単独行動を執らず、同盟国及び友好国を動員して集団的行動を執らなければならない」としていることに重点があるのは明らかです。
 
そのことをさらに具体的に表明しているのが、ヘーゲルの次の発言です。中国をハッキリと脅威扱いしながらも、それに対抗する手段は「強固で協力的な地域的な安全保障構造」だとしており、それはオバマの「アメリカは単独行動を執らず、同盟国及び友好国を動員して集団的行動を執らなければならない」という発言を裏書きしているのです。
 
「この地域が直面している最大の試練の一つは、紛争を外交及び確立した国際的ルール・規範を通じて解決するか、脅迫・侵略によって解決するかの選択だ。この問題がもっとも際立っているのは、APRの心臓であると同時に世界経済の交差点でもある南シナ海である。最近数カ月来、中国は、南シナ海における権利を主張して、安定を損なう一方的な行動をとっている。アメリカは領土問題については立場をとらないが、権利を主張するために脅迫、強制、武力の威嚇を行うことに対しては、いかなる国によるものであれ断固反対する。アメリカはまた、飛行または航行の自由を制限する試みに対しては、いかなる国によるものであっても反対する。国際秩序の基本原則が挑戦を受けるとき、アメリカはよそ見しない。
 
  中国を含む地域のすべての国々は、安定した地域の秩序のもとで団結し、これにコミットするか、これにコミットしないで平和と安全を阻害するかのいずれかを選ぶことだ。アメリカは、緊張を弱め、国際法に従って紛争を平和的に解決する国々の努力を支持する。問われているのは主権や天然資源だけではない。問われているのはAPRの規則に基づく秩序の維持だ。その秩序を守るためには強固で協力的な地域的な安全保障構造が必要だ。」
 
3.安倍政権の集団的自衛権行使踏み込みに対するアメリカの期待
 
ヘーゲル演説の次のくだりは、リバランス戦略の具体化として、アメリカが日米同盟を基軸として中国のプレゼンス増大に対処することを主眼とする「恒久的な安全保障共同体」づくりを鋭意推進してきたことを自ら認めています。
 
「過去一年間、アメリカはAPR諸国とともに地域の諸制度を強化してきた。この地域的な仕組みは、共通の挑戦に対する解決の分担(shared solutions to shared challenges)によって強力にして恒久的な安全保障共同体を作り、集団的で多国間のオペレーションが例外であるよりは標準となるようにすることを可能にするものだ。」
 
日本がアメリカの対APR軍事戦略の中心に据えられていることは、ヘーゲルの次の発言に明らかです。
 
「同盟関係を現代化することには、同盟国間の連携を強化し、ミサイル防衛などの合同能力を高め、同盟国自身が安全保障の担い手になることが含まれる。昨日(5月30日)、私は豪日との三者会合を行い、今日は韓日との三者会合を行う予定だ。アメリカがこれらの緊密な同盟国との間で進めている協力向上は、これらの国々が東南アジアを含むAPRにおける安全保障に関するそれぞれの役割を拡大しようとしていることと連動している。アメリカは、第二次大戦後70年におけるこういう展開を歓迎する。」
 
そして、安倍政権がしゃかりきに進めようとしている集団的自衛権行使を可能にするための第9条解釈改憲の狙いが、アメリカの対日期待の所在を踏まえていることは、ヘーゲルの次の発言から明らかです。
 
「アメリカはまた、安倍首相が昨日述べたように、平和で抵抗力ある地域の秩序を作ることに貢献するべく、集団的自衛態勢を転換しようとする日本の新たな努力を支持する。これらの努力を補強するべく、アメリカと日本は両国の防衛ガイドラインの改定作業を開始した。その目的は、日米同盟が変化する安全保障環境及び増大する自衛隊の能力に見合って進化するように確保することにある。」
 
しかし、アメリカが求めて止まない日本の役割は、アメリカ主導でAPRに作り上げるべき「集団的で多国間のオペレーション」を行う「恒久的な安全保障共同体」において、日本がアメリカの意向に沿って行動することです。そこには、台頭する中国を牽制することはもちろん含まれますが、安倍政権がことさらに中国を軍事的に挑発することを容認するものではありません。ここでは再び、上記2.で述べた軍事戦略がそのまま当てはまることになるのです。
 
即ち、5月11日付のコラム「オバマ政権の対APR戦略」で紹介したように、オバマは日中間の領土紛争に関して、あくまでも非軍事的に解決する必要があるということをくどいほどに強調しました。そして、「この問題を平和的に解決すること、情勢をエスカレートしないこと、言葉遣いを抑制すること、挑発的な行動を取らないこと、そして日中がどのように協力し合えるかを決めるよう努力することの重要性」を「安倍首相との会談で強調した」と、首脳会談後の共同記者会見でわざわざ指摘したのです。
 
ということは、オバマの5月28日の演説が同盟国の対米懸念を払拭するにはほど遠い内容であるように、安倍政権をはじめとする日本の保守勢力にとっても、オバマ政権の軍事戦略に対する不満は内攻していることを窺わせるに十分なものがあると言えるでしょう。
 
参考
 
<5月28日の陸軍士官学校卒業式でのオバマ演説(要旨)>(省略)
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2014/610.html
 
<5月31日のシャングリラ対話フォーラムにおけるヘーゲル国防長官演説(要旨)>(省略)
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2014/610.html
猪野亨弁護士(札幌市在住)が「日弁連執行部は狂った」とまで強い言葉で激しく日弁連執行部を批判しています。猪野亨弁護士の以下の指摘はきわめて重要だと思います。
 
猪野亨弁護士ならずとも、全国のすべての良心的弁護士、また、ひとりの市民としても、この日弁連執行部の「狂った」さまをこのまま看過し、また、放置してよいはずがありません。
 
私も「日弁連執行部」という体制と「保守政治」という体制に追随する「外套」(ゴーゴリ)的小市民弁護士に対する強い異議と弾劾の意志をもって猪野弁護士のブログ記事を転載させていただこうと思います。
 
 
今、現在、「法制審議会-新時代の刑事司法制度特別部会」において刑事司法手続きのあり方について審議されています。
 
このような審議会方式は最初から御用学者などを集めて政府に都合のよい答申を出させるための仕組みですが、ここでも極めて捜査当局に都合のよい答申が出されようとしています。
 
2013年1月25日に「時代に即した新たな刑事司法制度の基本構想」(PDF)が公表されました。
 
ここには取り調べの可視化については、捜査当局の事実上の裁量を認めるような骨抜きのものとなり、他方で通信傍受の対象拡大や司法取引、被告人の虚偽供述の禁止など捜査当局に有利になるものばかりが並びました。
 
そして、その基本構想を元に審議が行われた結果、出されたのが本年4月30日の「事務当局試案」(PDF)です。
 
ここで出された主な内容は以下のとおりです。
 
1 取調べの録音・録画制度
A案 裁判員制度対象事件を対象事件とする。
B案 裁判員制度対象事件に加え、それ以外の全身柄事件における検察官の取調べも対象に含める。
2 司法取引
(1) 捜査・公判協力型協議・合意制度
(2) 刑事免責制度
3 通信傍受の合理化・効率化
(1) 対象犯罪の拡大
(2) 特別の機能を有する再生・記録装置を用いる傍受
(3) 通信事業者等の施設における通信内容の一時記録を伴う傍受
4 被疑者国選弁護制度の拡充
5 証拠開示等
(1) 証拠の一覧表の交付制度
(2) 公判前整理手続の請求権
(3) 類型証拠開示の対象拡大
6 証人の保護
(1) ビデオリンク方式による証人尋問の拡充
(2) 証人の氏名及び住居の開示に係る措置(非開示の制度化)
(3) 公開の法廷における証人の氏名等の秘匿
7 被告人の虚偽供述の禁止
 
これによって日弁連執行部からは、いよいよ取り調べの可視化の義務化が実現できるということが宣伝されるようになりました。
 
そして、今、日弁連執行部は、この事務当局試案に対し、一括して「賛成」を表明しようとしているのです。
 
ところがその中には従来より反対を表明し続けてきた通信傍受の対象拡大も含まれていますが、何故か日弁連執行部がこのような問題のある通信傍受の対象拡大にまで賛成しようとしているのです。日弁連執行部は狂ったとしか言いようがありません。
 
経緯からいえば、5月7日から9日かけて行われた日弁連理事会では、執行部が事務当局試案への対応に対する批判が多数出され、日弁連執行部は6月19日の理事会で再度議論するために単位会に持ち帰って検討してくるように述べていました。結論は6月19日の理事会に持ち越されるはずでした。この時点では未だ日弁連の正式な機関での承認手続きはありません。
 
むしろ、通信傍受の対象拡大に反対する意見などが昨年1月に理事会で承認されています。
 
 
それにも関わらず通信傍受の対象拡大するような事務当局試案に賛成するためには日弁連執行部は理事会の承認を得なければならいのは当然のことです。
 
理事からの批判が多数、出たことから、急きょ、日弁連執行部は、6月6日、日弁連の方針(案)を次期理事会の議題として提案してきました。
 
「承認・執行前につき取り扱い注意」とあるので、一応、ここでは本文そのものは掲載しませんが、要するに日弁連執行部に最終判断権を委ねることを承認せよ、というのです。
 
この意味するところは自ずと明らかです。日弁連執行部は、事務当局試案に賛成したいのです。
 
日弁連執行部が繰り返し、述べてきたことは、ここで事務当局試案に対し、日弁連が反対すれば、長年の悲願であった取り調べの可視化が頓挫しかねないというものです。
 
しかしながら、審議会内部には、弁護士の幹事(日弁連枠と思われます)、委員がいますが、それら幹事、委員がこぞって反対したとしても、最初から数で負ける審議会ですから、体制に影響は全くないのです。
 
それにも関わらず、日弁連執行部がこのようなデタラメな根拠を主張して事務当局試案に賛成したいのは、法務省(検察庁)との間で、バーターが成立しているからです。要は裏取引です。
 
そのような裏取引を示す事情は、マスコミ報道から漏れ伝わってきます。
 
朝日新聞2014年2月15日付では、日弁連側から取調べの可視化については警察を除外することを提案した報じられています。
 
 
この日弁連の提案も会員には知らされないまま独断専行され、報道によって知り得たものですが、日弁連執行部は少なくともこの時点でバーターを考えていたことは明らかです。
 
日本弁護士連合会(日弁連)は14日、対象から警察の取り調べを暫定的に除外し、検察の取り調べを先行させる案を示した。捜査機関側の慎重姿勢で、「法制化が前に進まない」との危機感が背景にある。」と指摘されています。
 
そうしているうちに何と、産経新聞が「通信傍受捜査の対象犯罪、拡大が確実に 法制審」(2014年6月12日)と報じました。
 
捜査と裁判手続きの改革を議論する法制審議会(法相の諮問機関)の刑事司法制度特別部会が12日開かれ、法務省が前回示した試案に基づき、電話やメールを傍受する盗聴捜査ができる対象犯罪の範囲の拡大などについて議論された。これまで拡大に反対していた弁護士会側の委員が、振り込め詐欺と組織的窃盗犯罪に限る形で対象拡大を容認したため、改革案に対象犯罪増が盛り込まれることは確実とみられる。
 
「弁護士会側の委員」が通信傍受の対象の拡大に「限定」付で容認したと報じられているのです。
 
この「弁護士会側の委員」が誰なのか。
 
翌日の6月13日付朝日新聞では、次のように報じています。
 
 
「日本弁護士連合会副会長の神洋明幹事も、「振り込め詐欺や外国人窃盗団のような組織窃盗以外への拡大には反対だ」とされており、要は限定であれば容認という姿勢を示したということなのです。
 
日弁連副会長たるものが独自の見解を審議会で述べてくるはずもなく、日弁連執行部のゴーサイン(了承)がなければなしえないことです。
 
要は6月19日に始まる日弁連理事会を前に日弁連執行部は、事務当局試案に賛成するという既成事実を作り上げてしまったのです。
 
日弁連たるものがこのような暴挙を行ったのです。既成事実を作り上げることによって反対する理事たちを屈服させようというのです。
 
このような日弁連執行部が、先の方針(案)が取り扱い注意などとよくも言えたものです。
 
しかも、日弁連執行部が独断専行によって得ようとした取り調べの可視化も実はザルであり、ほとんど実効性のないものです。
 
前述したとおり、事務当局試案は捜査当局の事実上の裁量を認めており、他方で、実は検察庁は先行して可視化を実施する段取りを表明していました。
 
 
可視化拡大のきっかけの一つは、可視化の制度設計を検討している法制審議会特別部会での議論。今年3月の会合で、最高裁の委員が、容疑者の供述がカギとなる事件を想定した上で、「可視化していなければ、供述の証拠能力について、検察に今より重い立証責任が負わされる」と指摘した。
 
既に検察庁では、骨抜き可視化を具体化する段取りをしているのです。しかも、検察当局に有利に働くようにするための可視化としてです。
 
これで本当に日弁連執行部のいうバーターになるのでしょうか。
 
前掲朝日新聞の記事によれば通信傍受の対象の拡大は10種類も追加になるというのです。そのようなものを日弁連執行部が賛成するのか反対するのかが問われているのですが、神日弁連副会長は、批判しているようですが、最終的には賛成するものと思われます。なぜなら、これまで日弁連執行部は、あくまで今、この事務当局試案に反対すれば可視化が頓挫するということを根拠にし、しかも当時の「時代に即した新たな刑事司法制度の基本構想」からほとんど前進の見られない可視化案でありながら、法務省(検察庁)とバーターという密約を結んでいることから、既に「賛成」という選択肢しか残っていないからです。
 
これだけザルの可視化で日弁連執行部は妥協し、他方で通信傍受などの捜査当局の権限の拡大を認めるのですから、批判が起きて当然です。
 
朝日新聞は、「全事件の可視化「日弁連主張を」冤罪被害者ら要請」(朝日新聞2014年6月14日)と報じています。
 
刑事司法改革の議論の柱となっている取り調べの録音・録画(可視化)について、冤罪(えんざい)事件の被害者らが13日、日本弁護士連合会を訪れて「全事件・全過程の可視化」を強く主張するように要請した。日弁連は冤罪被害者らとともに全面可視化を訴えてきたが、「妥協案」にも理解を示しているため、異例の批判となった
 
当たり前のことです。冤罪被害者たちにとっては日弁連の対応は裏切りにしか見えません。
 
日弁連執行部が権力に擦り寄り、刑事司法制度改悪に加担した汚点は将来に渡って消えることはありません。
 
参考
・安倍晋三首相は、「国の交戦権は認めない」と明記している日本国憲法の根幹に反する集団的自衛権の武力行使容認をめざし、憲法を改正しないまま、あいまいな形で速やかに最終的閣議決定を行い、実施を強行しようとしています。私たちはこの動きに強く反対します。首相は、米国との絆を絶対視し、日本国内の米軍基地と無関係に日本周辺の米国海軍が攻撃されるとか、米国本土が攻撃されるなどの現実的でない事例を示して限定するかのように見せかけています。(略)一連の動きに対して、自衛隊員も含めて人を殺すことはいけないという規範の下で生きてきた国民の支持は得られていません。専門家集団である憲法学者は一致して反対しています。(略)首相の言動は、国民主権の下での三権分立に基づく法治国家としての日本を破壊し、日本が攻めてくることはないと信じてきた周辺諸国をはじめとする世界における日本の評価をおとしめ、近隣諸国の軍備増強に口実を与え、日本の危険を増大させるという取り返しのつかない汚点を歴史に残すことになります。黙っているわけにはいきません。今こそ主権者である日本の国民は、自らの考えを発言し、政府に誤りない日本の針路を選ばせるべきときです。(世界平和アピール七人委員会 2014年6月12日

・【
公明党と憲法―自民にただ屈するのか
】集団的自衛権の与党協議で、公明党が行使容認を前提とした条件闘争に向かっている。憲法解釈を変える閣議決定に向けた安倍首相の意思は固い。一方で公明党は、連立離脱を自ら封印した。自民党の攻勢に耐えきれそうもないが、せめて厳しい条件はつけておきたい。そんな思いがうかがえる。だが、どんな条件をつけたところで、集団的自衛権を認めることに変わりはない。妥協は将来に禍根を残す。公明党はその重みを肝に銘じるべきだ。きのうの与党協議で、自民党の高村正彦座長が、日本が自衛権を発動するための新しい「3要件」の私案を示した。(略)自民党が主張する「限定容認」どころではない。集団的自衛権がかなり広範囲に認められることになりかねない。(略)公明党は反発する。なんとか一矢を報いたいということなのだろう。だとしても、政権が意のままに憲法解釈を変えることに手を貸すのは間違いない。そんな「法の支配」からの逸脱が許されれば、どうなるか。(略)公明党は、それでもついて行くというのか。自民党の力ずくの憲法改変に。(朝日新聞社説 2014年6月14日

・1934年夏、16歳の
イングマール・ベルイマンは交換留学生としてドイツに行き、チューリンゲン地方の小さな村の牧師の家に6週間ほど滞在する。「私が牧師に、自分もみんなと同じように手をあげて『ハイル・ヒトラー』と言わなければいけないのかと訊くと、かれは『イングマールさん、それは礼儀作法のひとつと見なされているんです』と答えた。私は手をあげ、『ハイル・ヒトラー』と言ってみた。(略)「強制収容所についてはじめて知ったとき、私の頭は、目に映るものをほとんど受けいれることができなかった。(略)ついに真実を認めざるをえなくなったとき、私は救いようのない絶望におそわれ、そうでなくてもすでに心の重荷となっていた自己軽蔑の気持は忍耐の限度をこえるほどふくらんだ。何はどうあれ自分はほとんど無実なのだと思うようになったのは、かなり後のことである。(略)(『ベルイマン自伝』)。(略)〈多くのひとと同様…〉〈全員が…〉〈兄も父も…〉(略)実時間における絶対的多数者の共通感覚、ほとんど無意識の集団発声、唱和、共同行動、集団陶酔の記憶が、あのベルイマンにさえ、後々まで、恥の感覚とどうじに、存外に月並みな自己正当化と「言い訳」の気分を残しているのを、あっさりと見逃すべきではない。さほどに実時間は手ごわい。強力だ。そうじて恥じるということのなかったニッポン(ヌッポン)ではさらにむずかしい。(辺見庸「日録21」2014/06/14
 
・6月13日、自民・公明の与党協議において、高村正彦自民党副総裁は、集団的自衛権行使を認めるための「高村私案」として
「新3要件」を公明党に示した。1972年田中内閣のときの政府解釈(集団的自衛権の違憲解釈)をつまみ食い的に使って、まったく逆の結論を導いたものだ。もはや論理の世界の話ではない。法学部出身で弁護士資格をもつ高村副総裁は、「安倍的」なるものに「誠実」であるために、もはや「知的」ではない(注:「知的なナチスは誠実ではなく、ナチスに誠実な人は知的ではなく、知的で誠実な人はナチスにはならない 」『世界』2014年7月号水島論攷冒頭)。(略)公明党は、6月14日付各紙の観測によれば、「高村私案」に乗る方向だというが、どうなるだろうか。(略)憲法研究者としては、20条1項後段の理解は、「政治の宗教への介入の禁止」と「宗教の政治への支配の禁止」の両方向からのアプローチが必要だと考えている。しかし、『世界』7月号の拙稿でも指摘したように、「国会等における論議の積み重ねを経て確立され定着しているような解釈」については、政府がこれをその時々の事情で簡単に変更することはすべきでないだろう。その意味で、現段階において、公明党の執行部に対しては次のように言いたい。ここで、集団的自衛権をめぐる安易で簡易な憲法解釈変更に乗るならば、これが前例となって、やがて、宗教団体に関する政府解釈も「時の権力者の趣味や気分によって変更される」ことを覚悟しなければならない、と。(水島朝穂「今週の『直言』」2014年6月16日
既報のとおり、世界平和アピール七人委員会は一昨日の12日、安倍政権の集団的自衛権の武力行使を容認する閣議決定に反対する「民主主義を破壊する閣議決定を行わせないために、国民は発言を」という声明を発表しました。
 
声明文に名前を連ねているのは武者小路公秀土山秀夫大石芳野小沼通二池内了の5氏。同委員会メンバーの一員であるはずの池田香代子さんの名前が見当たりません。どうしたんだろう、と思いました(もうひとりの委員の辻井喬さんは2013年11月に逝去されています)。
 
が、同委員会のホームページの「最新アピール」のすぐ下に「お知らせ:池田香代子委員の退任について」という記事があり、すぐにその理由がわかりました。
 
「世界平和アピール七人委員会
2014年4月24日
 
世界平和アピール七人委員会は、1955年の発足以来 一貫して意見の異なる人たちとも 対話を求め続けてきました。
 
このたび池田香代子委員が、ツイッターでこの基本的方針に反する記述を表明したことを知り 個人の発言であったにしても不適当だったと直ちに判断しました。池田委員からも「このたびの私の軽率な言動は、委員会の方針にもとるものでした」として辞任の意向表明があり、全員で討議した結果、委員退任を決定しました。
 
七人委員会は初心を大切にし、世界と日本の一人一人が安心して安全に生きていける社会を目指して、これからも人道的立場から努力を続ける所存です。」
 
見られるとおり、池田さんがツイッターで世界平和アピール七人委員会の「基本的方針に反する記述を表明した」ことが退任の理由になっています。では、そのツイッター上の表明とはどういうものか? 気になったので調べてみました。どうやら池田さんはツイッターに「あ べ し ね」という書き込みをしたようです。それが「不適当」「軽率な言動」として退任の理由になったようです。
 
「あ べ し ね」の「し ね」というのは「死 ね」という意味でしょうから、たしかに適切な表現とはいえません。世界平和アピール七人委員会の立ち位置の問題もあります。同委員会は「政治的な党派に無関係な立場で世界に平和を訴える会」として、また、「知識人による平和問題に関する意見表明のための会」として発足したという経緯があります。そういう意味では市民の「良心の府」という側面があります。
 
だから、(この場合の「し ね」というのは文字どおり「死 ね」という意味ではなく、世間流の口げんかの定番の「バカ」「アホ」「マヌケ」「カス」「イテマエ(殺ってしまえ)」のたぐいと同様の悪口、雑言にすぎないもの。まして、悪口の相手は「首相」という公人。場合によっては賞賛の的にもなりもするでしようが、また、場合によっては市民の批判の矢面に立たなければならないことは当然覚悟しておかねばならない立場の人です。口げんかのたぐいの悪口を言われたからといってそう問題視するほどのことではないのではないか、と私などは思いますが)市民の「良心の府」としての同委員会の戦後これまで培ってきた立ち位置、置かれている状況(市民から「信」を置かれているゆえん)に照らしてみると、池田さんの「しね」発言はやはり「不適当」のそしりは免れないでしょう。池田さんの「退任」はやむをえないものと思わざるをえません。
 
しかし、それにしても、なぜ池田さんは、自身でも「軽率な言動」と認めているまさに「軽率」というほかない言動をしてしまったのでしょうか。私は、池田さんは最近ツイッターにハマっていることと無関係ではないだろうと思っています。ツイッターは文字数の上限は140文字までと限定されています。だから、ツイッターというツールは「思想」表現のツールとしては不向きで、当世風のワンフレーズのつぶやき(「無思想」の表現)のツールとしては利便性を発揮します。むろん、ツイットを連投して、一連の「思想」や「理念」を表現する人もいますが、もともと140文字のツールですからその表現にはおのずから限度があるというべきでしょう。そういうしだいでツイッターの表現はどうしても安易、簡易な表現に流れやすくなります(そうした表現が大勢を占めるようになります)。そこにツイッター表現のダイアローグ(対話)の成立、あるいは「思想」の流通を阻害する現代的な陥穽(頻繁に通信しながら実は会話は成立していないという)があるといえるのではないか。実は、私は、現代の風潮をそのように批判的に見ています。
 
池田さんは1年10か月にわたって自身のブログを開店休業状態にしていましたが、昨年の9月にブログを再開しました。そのとき池田さんは次のように記しています。

引き返すとき道はもうないのだから
 
「パソコンを立ち上げる。夜の闇をくぐって朝の光の中まで届いた思考の澱に思いをこらしていると、もわっとしたかたまりが浮びあがる。(略)ブログとは、わたしにとって、思考がその時その時にたどった道筋の記録だ。それらは、ブログがなかったら文字にはならなかった。なぜなら、用命の文章にはテーマが決められているからで、テーマは、過去のわたしの文業からおのずと狭まってくるからだ。それらが、わたしの今現在の思考の中心にはないことも多い。だから、政治や社会現象、文化などなど、書きたいことを書けるブログに出会ったときは、なんとありがたい、という新鮮な驚きがあった。」(「ブログを書くということ それを本にするということ」 2013年09月06日)
 
池田さん。ツイッターには「夜の闇をくぐって朝の光の中まで届いた思考の澱に思いをこらしていると、もわっとしたかたまりが浮びあがる」という経験はありましたか? 「思考の澱に思いをこら」すというのは「文章を書く」という作業に特有の現象といえるのではないか、と私は思っています。ツイッターではそういう経験がなかったのだとすれば、ツイッターではおそらく「文章を書」いてはいなかった、ということではないかと思います。ツイッターは「文章を書く」ツールではありえない。だから、「思考の澱に思いをこら」すということもない、というのが私の独断です。池田さんはブログ上のことであるならばおそらく「あ べ し ね」という表現はしなかっただろうと思います。これは私の推察です。
 
私は何度か私のブログ記事として辺見庸の「糞バエ」発言を紹介しているのですが、この辺見の「糞バエ」発言もけっして上品なものとはいえません。そういうことはありえませんが、仮に辺見が世界平和アピール七人委員会の委員のひとりだったとすれば、辺見の「糞バエ」発言も池田さんと同様に「不適当」「軽率な言動」として即退任の理由になったでしょう。また、辺見も、委員のひとりである以上「退任」せざるをえなかったでしょう。
 
しかし、辺見は、この「糞バエ」発言に関して「私は拷問にかけられても撤回する気はない」と述べています。該当箇所を少しだけ引用すれば辺見の文は次のようなものです。
 
「私は人としての恥辱についてもっと語りたいのです。おそらく戦後最大の恥辱といってもいいくらいの恥辱、汚辱……そうしたものが浮きでた、特別の時間帯があった。(略)忘れもしない二〇〇三年の十二月九日です。名前を口にするのもおぞましいけれど、コイズミという一人の凡庸な男がいます。彼が憲法についてわれわれに講釈したのです。まごうかたない憲法破壊者が、憲法とはこういうものだ、「皆さん、読みましたか」とのたまう。(略)コイズミの話を直接聞いていたのはだれだったのか。政治部の記者たちです。彼らは羊のように従順にただ黙って聞いていた。寂として声がない。とくに問題にもしなかった。(略)ごく当たり前のように、かしこまって聞いていた。ファシズムというのは、こういう風景ではないのか。二〇〇二年に私がだした『永遠の不服従のために』(毎日新聞社刊、講談社文庫)という本で書いたことがあります。やつら記者は「糞バエだ」と。友人のなかには何度も撤回しろという者もいました。でも私は拷問にかけられても撤回する気はない。糞バエなのです。ああいう話を黙って聞く記者、これを糞バエというのです。」(辺見庸『いまここに在ることの恥』毎日新聞社 2006)
 
私はこの辺見の「糞バエ」発言を断乎支持します。「拷問にかけられても」支持します。池田さんが世界平和アピール七人委員会の委員のひとりという立場ではなく、辺見と同じような立ち位置で「あ べ し ね」と書いていたのであれば、私は今回の池田発言を「拷問にかけられても」支持したでしょう。ここで私が「辺見と同じような立ち位置」と言っているのは、世界平和アピール七人委員会の委員でありや否やのことを指しているのではありません。「夜の闇をくぐって朝の光の中まで届いた思考の澱に思いをこらし」た文章であったか否やの問題を問うているのです。辺見の文章は「夜の闇をくぐって朝の光の中まで届いた思考の澱」の中で書かれた文章であるがゆえに私は断乎支持できます。そこには当然思想性の光も届いているはずだからです。翻ってツイッターの表現には思想性はあるか? 残念ながら「ない」。「ない」がゆえに私は断乎池田さんを支持できないのです。
 
最後に以前書いた「ツイッター現象の『孤独』について」という文章(というよりも、ほとんどが辺見の「機器の孤独」という文章の引用)のURLを示しておきます。
 
ツイッター現象の「孤独」について(弊ブログ 2010.06.13)
辺見庸に「最近3人、ひとを切りました」という早稲田大学で教えていた当時の教え子(辺見は2003年4月から1年間客員教授をしていました)からメールがきたといいます。「ひとを切」ったといっても「あの人とはもう手を切った」という意味の「人を切る」の意。辺見によれば、メールの文面は次のようです。
 
「バカダ大学にて客員で授業をもっていたころの教え子(いま、五反田でカフェバーをやりながら、ときたまあまり上品ではない、ていふか、下品でまったく売れない小説を書いている)Sからメール。「ぼく最近3人、ひとを切りました。ひとりは、むかしからのムダな女友だちで、そのクソバカ女がブラジルのストをディスりやがったので、地獄の底まで叩き落とすような罵詈雑言をぶつけ、さようなら、ブス、と、切りました。もうふたりは、めんどくさい、エラそーな、ばかな、ケチな客。おれはあんたにパチキレとるぞ、とそのまま伝えました。自己変革なんて、できやしないと思ってたんですがね。いっしょうヘラヘラ生きていくのかと。ヘラヘラ生きてはいくんでしょうが、やはり、キレたり、切ったりは、実際いままであまりにしてこなかったのだな、とてもたいせつだな、と思いました。ぼくはまだ若すぎるみたいです。店は梅雨でヒマです。ひとり来てくれ、で、シャンパンあけてくれ、待ちです」
 
そこで辺見のキレる話になるのですが、辺見のキレた話をご紹介する前に市民ジャーナリストの井上澄夫さんのキレた話を先にさせていただきたいと思います。井上さんの話は「『尖閣』戦争を準備する琉球弧への自衛隊侵出を阻止しよう!!」というエッセイ。井上さんご自身は当然「キレた」話として書いているわけではありません。
 
しかし、私は、そのエッセイ中の「過日、『自衛隊に触れるならまず『自衛隊さん、ありがとう!』と言いましょう』という声がある反戦・反基地グループから上がったという話を聞いて一瞬耳を疑った」という箇所、「こういう親軍論調が反戦運動内から浮上することは戦後反戦運動の著しい後退を象徴していると私は思う」という箇所を読んで、井上さんは、おそらく「キレ」ているな、と思いました。
 
以下、井上澄夫さんのエッセイの全文(ただし、改行は引用者の恣意)。
 
「内地・外地」という言葉はもうほとんど使われないが、私が子どもの頃、九州の田舎では親戚が集まるとよく聞いたものである。「シナ」や台湾などの「外地」から引き揚げた家族が多かったからである。旅行代理店に置いてあるチラシを眺めると、グアム・サイパンや香港のチラシに沖縄が混じっている。そこでいつも思うのは、「本土」の大多数の人びとにとって沖縄は〈海外〉なのではないかということだ。その〈海外〉認識には実は戦前の「内地・外地」という区分け意識が投影されていて、漠然とではあれ、沖縄は「外地」と感じられているのではあるまいか。戦前、沖縄は大日本帝国の版図に含まれていたものの、小学唱歌「蛍の光」の歌詞4番はこうだった。〈千島のおくも、沖縄も、八洲(やしま)のうちの、守りなり。/至らんくにに、いさおしく。つとめよ わがせ、つつがなく。〉つまり、沖
縄は「内地」を守る防人(さきもり)役をつとめるべき国内植民地だったのだ。そして実際沖縄は、アジア・太平洋戦争の末期、「本土決戦」を準備する時間稼ぎのため、日米の凄絶な地上戦に巻き込まれた。沖縄を「海外」「外地」と感じるこの植民地本国人意識は戦後の始まりの時期に完全に拭い去られるべきだったが、今も地をはう霧のように漂い、安倍政権による構造的沖縄差別政策を支えている。
 
安倍首相は現在、「尖閣」有事(戦争)に備えるため、南西諸島の奄美大島・宮古島・石垣島・与那国島への派兵を急いでいる。与那国への陸自・沿岸監視部隊配備(固定式レーダー設置)はすでに駐屯地の建設に着手している。さらに最近、奄美大島に防衛副大臣がおもむき地元2自治体の長に陸自・警備部隊の常駐を打診した。6月11日には同副大臣が宮古島を訪問し、宮古島市長に同部隊配備の計画を説明する。そして同種の工作が石垣市長に対してもおこなわれることは確実である。だが、沖縄の現状に関心をもつ人でも、その関心はどちらかといえば、辺野古新基地建設や東村高江区でのオスプレイ・パッド建設に向けられていて、目下強行されている琉球弧(奄美・沖縄)への自衛隊派兵に対する関心はまだ低い。それは在日米軍基地の74%(専用面積比)が集中
する沖縄の〈米軍〉に関心が集まっているということだ。日米両政府はオバマ政権のアジア重視リバランス(再均衡)戦略に沿って両軍の軍事一体化を急速に進めているが、「本土」の反戦運動では自衛隊の存在を根本から問わず、現に眼前で展開されている自衛隊の動きに目をそむける人が少なくない。それは「憲法9条を守れ」と主張しながら同条第2項に明記されている〈戦力不保持〉、すなわち〈非武装〉に触れない人が多いことと連動する事態であるにちがいない。
 
過日、「自衛隊に触れるならまず『自衛隊さん、ありがとう!』と言いましょう」という声がある反戦・反基地グループから上がったという話を聞いて一瞬耳を疑った。東日本大震災時の自衛隊の災害派遣を評価してのことらしいが、こういう親軍論調が反戦運動内から浮上することは戦後反戦運動の著しい後退を象徴していると私は思う。しかし、反米軍には熱心でも自衛隊となると腰が引けるようでは、安倍政権・防衛省による〈琉球弧の要塞化〉を阻止し「尖閣」戦争を防止することはできない。5月15日、安倍〈好戦宰相〉が解釈改憲の強行を宣言したが、そのとき沖縄戦の体験者たちが「また捨て石か」とうめきつつ反応したことに「本土」の私たちはもっと敏感であるべきである。」(「『尖閣』戦争を準備する琉球弧への自衛隊侵出を阻止しよう!!」井上澄夫 2014/06/12
 
以下は、冒頭の辺見庸の「日録21」(2014/06/12)の続き。辺見の文も冒頭のSさんに負けず「あまり上品」とはいえない(「ていふか、下品」な)箇所もあります。しかし、まあその辺は文意(文意そのものは高尚です)を察していただきたいと思います(なにしろ「日録」ですから。改行は同じく引用者の恣意)。
 
「ふーむ。「ブラジルのストをディスりやがった」の「ディス」るというのがわからないが、ま、大意はとおる。Sはサッカーがらみの短篇を書いたことがあるくらいのサッカー好きなのだが、ここはキッチリ筋をとおしたといふことか。
 
時期が時期である。なるべく巨視的でありたい、おおきくかまえたいとはおもふ。けれど、わたすぃもキレかかった。「シュプレヒコールもプラカードも党派性もない、明るく身軽なパレードをやりましょう」といふ呼びかけ。サンバカーニバルじゃあるまいし、アホかとおもうが、ここはぐっとこらえる。まあよひではないか。やったんさい。安倍政権に反対し、集団的自衛権行使にむけた解釈改憲に反対するために、ひとりびとりが悔いないようになにかしましょう、というのだ。ええことではないか。よかですたい。市民ひとりびとりが悔いないように自由に屁えこくなり、パレードするなりしてりゃいいのである。でも、内心いやだなあとかんじている。年甲斐もなくからみたくなる。〈シュプレヒコールもプラカードもアジ演説もメットもゲバ棒も火炎瓶も党派性もある、暗くて重苦しい首都大流血デモ〉じゃ、なして、なじょして、どぼじで、あかんのか、われ。と言ひたくなるが、わたひ、ご老人、よう言わん。微笑む。にっと笑ふ。キレなひ。ひひひと笑ふ。
 
吉本隆明が言った〈市民主義ファシズム〉というのをおもいだす。あのひとは〈市民主義ファシズム〉といふのを嫌った。どうかすると、天皇制ファシズムよりも、〈市民主義ファシズム〉やスターリン主義を嫌った。ほとんど反動的なほど嫌った。それでいて、イトイ・シゲサトはOK牧場。いみ、わかんなひ。この期におよんで、野音あたりで、えっらそうに正義の味方面する進歩的文化人とやらを吉本は終生軽蔑した。わたすぃは、でも、そんなに狭量ではなひ。なにもやらないことの正当化はしない。ええではないですか。
 
円い縁の眼鏡かけて、しみったれた自己主張みたく、スタンドカラーのワイシャツ着はって、たったあれぐらいの徹頭徹尾スカスカの話をアドリブもようできんで、わざわざ手書きの原稿、読みあげるおっちゃん、えろ、ええやんけ。なんせノーベル賞作家やで。ええにきまっとる。善人面、被害者面、市民の味方面、苦悩する知識人面、それらの全般的うそくささが、ナウいんやなひ?
 
でもなあ、党派性なく、明るく、身軽なパレードって、とことんワヤやね。人間てのは、寝ぼけてても屁えこいててもエッチしてても、寝ぼけかた、屁のこきかた、エッチのしかた、それらの無意識的方法に、われしらず、政治性も党派性もついにじませてしまうものなのだ。
 
「シュプレヒコールもプラカードも党派性もない、明るく身軽なパレード」じたい、じつのところ、とてつもなく政治的、党派的で、無自覚に暗く、抑圧的で、それゆえに権力的なのである。などと、わたしはもう言わない。微笑む。オホホホ…(引用者注:「日録」2014/05/25参照)。ただ惨めに世界に存在させられているだけの、死にぞこないのジジババにはいま、歴史的課題がつきつけられている。どのように暴力的にキレまくるか、怒りまくるか、だ。などと言いませぬ。だいじゃうV、キレたって、どうせ全員ニンチあつかいですもの。(以下、省略)辺見庸「日録21」2014/06/12
 
以上、お三方の人の「斬り方」、あるいは「キレ方」。井上澄夫さん(市民ジャーナリスト)と辺見庸(作家)はおそらく同年代と思われます。カフェバーのマスターは、辺見が早稲田で客員教授をしていたのは10年ほど前のことですから、卒業して10年経ったとしてもまだ30代になったばかりというところでしょう。
 
お三方の「キレ方」を引用したのは、もちろん、まったく同じというわけではありませんが、私にも同様の思いがあるからです。
 
井上さんの「自衛隊に触れるならまず『自衛隊さんありがとう!』と言いましょう」という声がある反戦・反基地グループから上がったという話を聞いて一瞬耳を疑った。(略)こういう親軍論調が反戦運動内から浮上することは戦後反戦運動の著しい後退を象徴していると私は思う」という思い、辺見の「シュプレヒコールもプラカードも党派性もない、明るく身軽なパレード」批判は私の思いにも共通するところ大です。
 
この記事はお三方の引用を借りた私のいまの革新運動への強い「現状」批判でもあります。

そして、むろん、このいまの革新運動の「現状」は、いまの脱原発運動の革新運動と同様に「党派性なく、明るく、身軽な」問題(すなわち、「じつのところ、とてつもなく政治的、党派的で、無自覚に暗く、抑圧的で、それゆえに権力的な」問題)とも当然無縁ではありません。そのことも指摘しておきたいと思います。
 
なお、辺見の「明るく身軽なパレード」批判の一端は下記を参照されればいくらかはご理解いだけるものと思います。
 
・資料:辺見庸『抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか』(『世界』2004.3月号)(
・資料:辺見庸『抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか』(『世界』2004.3月号)(
本ブログの「今日の言葉」の2014年5月29日から同年6月10日にかけての記録です。

アフリカの朝、または夜、または昼

・弁護士ドットコムのこの見出しが刺激的でした。「
憲法がハイジャックされている」 (略)その表現のとおりです、まさに憲法が理不尽にも政府国家権力によって踏みにじられ、ハイジャックされようとしているのです。憲法改正という手続きを経ることなく、解釈の変更ということで憲法の原理を変えることができるのであれば憲法がないのと全く同じだということであり、常識レベルでもわかりそうなものです。しかし、安倍自民党政権には常識はありません。安倍氏は自分こそが憲法なのですから。憲法学者によって結成された「国民安保法制懇」は、現行憲法に関しても色々な考え方の方が集まっています。それを象徴しているのが元内閣法制局長官の阪田氏の説明です。「我々は反戦運動をしてきたわけでない。護憲の運動をしてきたわけでもない。集団的自衛権の行使の是非について、必ずしも意見が一致しているわけでもない。現在の政府の憲法9条の解釈についても、メンバー全員が『これが是である』と言っているわけではなくて、批判をしている方もいる。しかし、一政権の手で、現在の解釈を変更すること、それを許すということは文字通り、立憲主義の否定だ。法治国家の根幹を揺るがすものであるという危機感と怒りのようなものを覚えている点で共通している」(弁護士 猪野 亨のブログ 2014/05/29

・一般の生活で通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったものは、どれもただ心がそれによって動かされる限りでよいとか悪いとか言えるのだと知ったとき、私はついに決心した、われわれのあずかりうる真の善で、他のすべてを捨ててもただそれだけあれば心が刺激されるような何かが存在しないかどうか、いやむしろ、それが見つかって手に入れば絶え間のない最高の喜びを永遠に享受できるような、何かそういうものは存在しないかどうか探求してみようと。<
スピノザ『知性改造論』>(引用者注:思想をそこに表現されている見かけの言葉だけで判断するのは危うい。むろん、その言葉が紡ぎだされるまでには深い思索の跡があるからである。スピノザは神学者でありながら他のキリスト教神学者からは無神論者として攻撃された。スピノザはデカルトに大きな影響を受けた。そして、そのスピノザの思想はやがてヘーゲルに影響を与え、現代ではドゥルーズがスピノザの思想に存在論的な新しさを見出した)。(Don't Let Me Down 2014-05-29」

・出来事の連鎖に必然の様相を帯びさせる最後の審判の視点そのものが、究極的には、偶然の選択の所産である。(略)ある社会に内属する者として、歴史を振り返るとき、われわれは、その社会の基本構造を規定する規範や枠組みを受け入れてしまっている。言い換えれば、最後の審判の視点は、この場合、支配的な体制の視点と合致するほかない。それゆえ、過去の中の「存在していたかもしれない可能性」を救済するということは、現在の体制そのものを変換することを、つまり革命を意味しているのだ。革命は、未来を開くだけではなく、過去を救済するのである。逆に、こうも言える。「もし敵が勝てば、死者でさえも安全ではない」(
ベンヤミン“歴史哲学テーゼⅥ”)。今、歴史の中で、輝かしい勝者や英雄として登録されていた死者も、革命の結果によっては、無視される敗者の方へ、遺棄されるクズの方へと配置換えになるかもしれないからだ。死者が、もう一度死ぬこともあるのだ。<大澤真幸『量子の社会哲学』(講談社2010)>(Don't Let Me Down 2014-05-30

・いまぼくは、無料塾で中学2年の数学を教えている。(略)ぼくは大卒だけど、家庭教師の経験がない。だから、教え方に関してはド素人である。(略)ぼくは中学までの数学というのは、積み重ねだと思っている。わからなくなっているとすれば、そのわからなくなっている部分を見つけて、わからなくなっている部分まで戻って、積み直せばよい。そうすることで、大半の生徒は平均的な理解に達することができる──これがぼくの信念である。しかし現状は悲惨だ。大方の生徒は、自分がどこでつまずいているかもわからずに、次々と新しい課題や理解要求が積み増しされていく。途方に暮れる。自分がどこにつまずいているのか言えなければ教師のアドバイスは的確なものにはならない。失跡と屈辱だけが積み重なる。授業時間は苦行でしかなく、面白いわけがない。ていねいにこの混迷をほどく作業を誰もしないのである。そのわからない苦痛地獄を過ごす時間の想像何という恐ろしい時間が積み重ねられていることだろうか。(
紙屋研究所「偶数と偶数の和は偶数であることの説明」2014-05-31
 
天使ダミエルは、人間になろうとする。それは、天使たることの放棄であり、有限で一回的な世界に生きることである。人間になるとは、彼にとって、他者(女)を愛することである。そのとたんに、彼は前方が見えない世界のなかで生きはじめる。それは「暗闇のなかでの跳躍」である。天使たることとは、何たる隔たりであろう。にもかかわらず、天使たちは、人間になることを欲する。それは、「外部」を欲するということである。「形式的 」であることは、べつに特権的な事柄ではない。それはハイテク時代において、われわれのほとんど日常的といってよいような生の条件である。われわれは、そこでありとあらゆるものを「知覚」したり「経験」した気になっているだけで、実は天使と同じくモノクロームの世界、すなわち自己同一性の世界に閉じこめられているのである。私たちは、ブラウン管を通して血まみれの死体を見慣れているが、実際に血の色を見たことがないのだ。<柄谷行人内省と遡行』―“学術文庫版へのあとがき”>(Don't Let Me Down 2014-06-01
 
ロート(1935年)「19世紀になって人びとは個人が市民として認められたいのなら特定の国あるいは民族に属さなければならないことを発見した。オーストリアの劇作家グリルパルツァー『ヒューマニズムは民族主義を経るうちに野蛮化』するしだいを説いたが、おりしも当時、民族主義がわが世の春を謳歌していた。今日、猛威をふるっている野蛮化の先ぶれを演じていた。それは一般に愛国心といわれるもので、新時代の卑しい階層が、みずからに応じて生みだした卑しい感情のたまものである」「敗戦の憂き目をみたヨーロッパの首都にあって、死体を食らって大きくなり、それでもいっこうに食い足りず過去をしゃぶり、現在の汁を吸って、高らかに未来を謳歌している。この手の連中が戦後このかた、肩で風切ってのしあるいている」(「皇帝の胸像」)。ファシズムの妖気。装いをかえて反復する歴史。這いよってくる戦争の熱風。(辺見庸「日録19」2014/06/02

堀田善衛の本が好きでよく読む。次は、『UP』東大出版会の宣伝紙に書いた「東大教師が新入生にすすめる本」の記事。相当前である。(略)『美しきものみし人は』この本の原版がでたのは一九六九年一月。私が読んだのは、文庫本になった一九八三年である。何故でたときに読まなかったのか。金がなかったのか、知らなかったのかはわからないが、一九六九年一月といえば東大では七学部団交と確認書締結のまさにその時で、私も大学一年の冬、ちょうど母校の国際キリスト教大学で学生運動への参加を周囲から説得されていた時にあたる。とても、このおもにヨーロッパ絵画を扱った本を読むという雰囲気ではなかったに違いない。もし、これをその時に読んでいたら、もう少し「文化的な」人間になっていたかも知れないと思う。私は、堀田氏がヨーロッパにすみついてしまい、堀田氏はそんなことをいわれたら大変に不愉快であろうが、美術評論家か、文明評論家のようになってしまったことがたいへんに不満であった(引用者注:同感!)。しかし、その事情が、これを読んでいると理解できる気もする。堀田氏は、この八月亡くなり、実は、私は出発前後のあわただしさに取り紛れて、そのことを知らずにベルギーにきてしまったが、偶然、唯一「文化的な」本としてもってきていて、氏の小説のあちこちを思い出しながら、愉しんで読んでいる。(保立道久の研究雑記 2014年6月2日

読売が5月30~6月1日に実施した世論調査(略)記事では「集団的自衛権の行使容認派が7割を超えた」と報じたほか、「邦人輸送中の米輸送艦の防護」「国際的な機雷掃海活動への参加」の回答は、賛成がそれぞれ75%と74%。行使容認に前向きな読売だけに「圧倒的な支持が示された」と強調した。読売と同様、行使容認を支持する社説などが目立つ産経新聞も、FNNとの共同調査の結果として「7割容認」と伝えた。(略)ただし、どこも読売のような結果が出たわけではない朝日新聞の調査は行使容認に賛成が29%、反対が55%と慎重論が過半数東京新聞などが5月19付朝刊で掲載した共同通信 も賛成39%、 反対48.1%だった。(略)各社の世論調査結果に違いが出ると、それこそ世論 が 迷走する ことにならないか。(略)数字が独り歩きするような状況をつくってはいけない。なぜこの数字が出たのか、他の調査と何が違うのか、冷静かつ丁寧に伝えてほしい。(
東京新聞「ニュースの追跡」2014年6月4日より

・「……われわれを不安にさせることは、
全体主義運動が知的エリットや芸術的エリットに疑う余地のない魅力を揮うことである。われわれの時代に重きをなしている人々の驚くべき多数が、全体主義運動の共感者もしくは正式のメンバーであるか、あるいは生涯の一時期にそうであった前歴を持つかしているということは、彼らの世間知らずとか純真さとかで説明のつくものではない」(『全体主義の起源』大久保和郎・大島かおり訳)と、アーレントがしごくもっともなことを書いたのは第二次大戦後だ。わたしはひとびとの顔を見る。ひとつひとつの表情。飽きない。ヒトラーの顔、ヒムラーの顔、ゲッペルスの顔、ヘスの顔、行進者たちの顔、群衆の顔、顔、顔……。それらはかならずしも、ほとんど、あるいはまったく、「アブノーマル」ではないのである。「アブノーマル」はあと知恵である。醒めて見れば、それらはフツウである。(略)どこからどう見ても、いかにも小物っぽい。安っぽい。しかし、フツーで小物っぽい男ほど怖いものはない。(略)ともあれ、「第二次世界大戦後のヨーロッパの状況は第一次世界大戦後と本質的には変わっていない」(アーレント)。恐るべき反復である。(辺見庸「日録20」2014/06/04

・「
それは一九二六年八月二十七日午後四時のことだった。……彼ほど余計な人間はこの世にいなかった」。と、書いたひとがいた。そのことは、「それは二〇一四年六月五日午後四時のことだった。……彼ほど余計な人間はこの世にいなかった」ということとはまったくちがうことであるだろうに、目眩がするほどおなじことにおもわれるのは、「彼ほど余計な人間はこの世にいなかった」という時空をこえた言いきりかたに、ストンとじぶんをかさねることができるからだろう。「彼(じぶん)ほど余計な人間はこの世にいない」とかんじる以上に本質的な存在感覚はない。無用者の絶望的矜持。探すともなく求めている言葉と情景は、こんりんざいないのではなく、たぶん、神さまのような作用によって、じぶんのなかかじぶんの外の、どこかにうまいこと隠されていて、すぐに見つかることもあれば、死んでさえ出逢えないこともあるのだろう。どうにもいたしかたのないことだ。どんなに熱したにせよ、すべて渙散しないものはない。消散しつくしたかにみえても、またぞろ集合し爆発的に熱するものもある。これからは後者の反復にちがいない。(辺見庸「日録20」2014/06/05

韓国KBS理事会が、キル・ファニョン社長の解任を決定した。日本に置き換えれば、NHKの経営委員会が、籾井勝人会長の解任を決議したことに相当する。(略)隣国の公共放送経営体トップが、政権との癒着を指摘されて解任に至ったニュースを、同様の立ち場で、同様の問題を抱えるNHKがどう報道するか、関心津々たるところ。(略)「
韓国の公共放送KBSは、『社長が政府の立場に配慮して報道内容に不当に介入した』などとして報道局の幹部や記者らが職務を放棄する異例の事態が続いていることから、理事会が社長の解任を決め、混乱はようやく収拾に向かう見通しとなりました(略)呆れた報道姿勢と言わねばならない。NHKは、問題を「混乱」としかとらえられないのだ。だから、社長辞任を「混乱の収拾」としか表現できない。「視聴者を無視してストライキを続けたなどとしてKBS全体に厳しい目が向けられており」と根拠を挙げずに労組を誹謗し、「(KBS全体の)信頼回復には時間がかかりそうです」と、世論を「混乱への批判者」と決めつけて結んでいる。傍観者を決めこみ、ジャーナリズムの政治権力からの独立を重視する観点を意識的に否定した姿勢とも言えよう。これでは、「NHKに向けられた厳しい良識の目からの批判は避けられず」「国民からの信頼回復には時間がかかりそうです。」と言わざるを得ない。(澤藤統一郎の憲法日記 2014年6月6日

これはあまりにも乱暴ではないか。集団的自衛権の行使を認める閣議決定を今国会中にする。そのための公明党との協議を急ぐように――。安倍首相が自民党幹部にこう指示した。会期末は22日。首相は、延長は考えていないと言っている。政府の憲法解釈の変更によって集団的自衛権を認めることはそもそも、法治国家が当然踏むべき憲法上の手続きをないがしろにするものだ。それを、たった2週間のうちに行うのだという。認めるわけにはいかない。首相の指示を受けて自民党は、行使容認に難色を示す公明党との協議を強引に押し切ろうとしている。(略)自民党は、10年以上にわたって培われてきた公党間の信義をかなぐり捨ててでも、強行するというのだろうか。 公明党は、それでも与党であり続けることを優先し
、渋面を浮かべながらも受け入れるのだろうか。(略)与党間の信義という内輪の問題にとどまらない。国民に対してもまた不誠実な態度だ。(
「集団的自衛権―乱暴極まる首相の指示」朝日新聞社説 2014年6月8日

・「
戦間期」ということをぼんやりとかんがえていた。(略)死というのも、切れ目としての「瞬間」ではなく、生からとろとろと流れくる消失までの時間の幅にあるのだろう(引用者注:「日録20」6月6日付参照)。ひとつの紙片に似たそのひとのペラペラした手の甲に触れながら、わたしはそうおもう。戦間期(interwar period)はどちらかというと欧州史的概念だろう。年表的には、1919年から1939年までの時代。にしても、戦間期とはなんという言葉だろうか。敷衍すれば、ひとは戦前か戦中か戦後か戦間期にしか生きていないことになる。なんということか。いまは新・戦間期か新・戦前か新・戦中か……といぶかる。(略)母は身じろぎもしない。とつぜん、「『何も約束するな!』とパラノヴィッチは言った。これが別れだった」のくだりをおもいだす。欧州の戦間期にはすべてを胚胎し、すべてが肉色の闇で育っていたのだった。日本だってそうだ。見ろ、いまのこのザマを。三本脚の犬は、いつの間にか、窓の外から室内に入りこみ、朦朧とする母の薄桃色の視界をとぼとぼと歩いていた。(辺見庸「日録20」2014/06/08

・2週間後の6月23日は沖縄戦慰霊の日である。69年前、6月中旬の2週間に沖縄の住民と兵士たちは、島の南端に追いつめられ、米軍の攻撃によって生き地獄を味わっていた。住民にとって敵は米軍だけではなかった。日本兵による住民虐殺、壕追い出し、食糧強奪も相次いだ。渡辺憲央著『
逃げる兵 高射砲は見ていた』(文芸社)には、戦友から聴き取った6月の摩文仁の状況が記されている。(略)ひとりの婦人が壕の中に迷い込んで来た。(略)間もなく壕の奥で、「兵隊さんが私を殺す。助けてください。ヤマトの兵隊が……」と女の泣き叫ぶ声が訊えた。その瞬間、女の悲鳴とともにバーンという小銃の発射音が壕内にこだました。(略)大隊本部の壕で本部指揮班が酒宴を開いていたのは、菊水作戦が実施された日とあるので、4月6日頃のことである。すでに沖縄島に米軍が上陸し、連日空襲や艦砲射撃を受けているさなかで、(略)将校たちの中には、遊郭の女性や駐屯地域の女性を愛人、現地妻にしている者もいた。(略)壕の中に迷い込んだ〈婦人〉が殺害されたのは、69年前の6月10日頃のことである。(目取真俊「海鳴りの島から」2014-06-09
 
・(承前)
渡辺氏の著作が重要なのは、日本兵の側から見た住民虐殺の実例が示されていることだ。同書には、スパイ容疑で射殺された学生のことも記されている。(略)「こいつは怪しい。スパイだ」「いいえ」学生は一瞬たじろいだ。(略)「よし、助けてやるから行け」と中尾がいった。「ありがとうございます」学生が駆け出すようにその場を去ろうとしたとき、その背に中尾の小銃が鳴った。学生は声もたてずにばったりと倒れた〉。(略)米軍の攻撃に追われて沖縄島南部に追いつめられ、避難した住民と敗走する日本軍兵士は雑居状態となる。心身ともに追いつめられた日本兵の中には、挙動不審と見なした住民をスパイと決めつけ、虐殺する者もいた。(略)軍隊にとって住民は守る対象であるより先に、警戒すべき対象となっていたのだ。(略)69年前の壕の惨状は凄まじいものだ。〈あたり一面、垂れ流しの糞尿と傷口からこぼれ落ちる蛆の群れで泥沼のようになり、猛烈な臭気が鼻をついた〉という壕の中で、日本兵たちはのたうち、がなり散らし、泣きわめきながら死んでいった。そこには「軍神」の美談はない。戦場で何が起こるのか。集団的自衛権を論じる前に私たちは、このような戦争の記録を読まなければならない。(目取真俊「海鳴りの島から」2014-06-10