「世に倦む日々」ブログが1月29日付けの同ブログ記事で宇都宮健児氏が「後出しジャンケン」ならぬ「前出しジャンケン」までして早々と立候補表明するに到った経緯について「内部事情を知る者から」の「内部告発」に基づいて重要な指摘をしています。
 
落合恵子への都知事選の出馬打診 - 宇都宮健児のフライング
(世に倦む日々 2014-01-29 23:30)
 
冒頭の書き出しで「『前出しジャンケン』までして」と私が言っているのは、宇都宮氏ははじめは市民集会などで「最終的にどなたも出られなくてあんたしかいないということで、それであんたでもいいということであれば、そういうことは考えなければいけないかなあと思ってはいます」(2013年12月20日)と語っていたことを指しています。同氏はいまだ「最終的にどなたも出られなくてあんたしかいない」という状況になっていなかったにも関わらず「後出しジャンケン」ならぬ「前出しジャンケン」までして早々と立候補表明をしてしまいました(弊ブログ2013.12.30付参照)。
 
その経緯の詳細については下記の「世に倦む日々」ブログ記事をご参照いただきたいのですが、同記事の信憑性についてひとこと先に述べておけば、同記事で紹介されている「暴露文書」は、「世に倦む日々」ブログの筆者が状況証拠を積み重ねて論証していることには証拠(ただし、状況証拠)も理もあることからおそらくほんものであろう、というのが私の見方です。私がこれまで推論してきた(物証がないので推論するほかなかったわけですが)私の見方とも符合します。
 
さて、「世に倦む日々」氏の宇都宮健児氏の立候補表明に到るまでの経緯をたどったうえでの結論は次のようなものです。
 
「宇都宮健児とその仲間は、この内紛と粛清の中で、トラブルを内に抱えつつ、その窮地を強引に突破するべく、落合恵子の出馬を潰し、都知事選の左派候補の地位を掴もうとしたのである。いわゆる宇都宮健児のフライングと澤藤統一郎との内紛、その二つが密接に関係していることは疑いない。」
 
重要な指摘だと思います。
籾井NHK新会長の「従軍慰安婦『どこの国にもあった』」発言がアジア諸国だけでなく、ヨーロッパを含めて国際的にも大きな批判を巻き起こしていることのひとつの例証としてご紹介させていただこうと思います。
 
NHK会長発言は日本の恥だ―BBC報道が示すもの
(坂井定雄 (龍谷大学名誉教授) リベラル21 2014.01.30)
 
籾井NHK新会長が旧日本軍の従軍慰安婦について「戦争をしているどこの国にもあった」と発言し、ドイツ、フランスの名前をあげ、しかもペロッと否定してみせた、籾井氏とNHKの恥だけではない。安倍首相に媚びて籾井氏を選んだ経営委員会の恥であり、安倍人脈の5人を送り込んだ安倍首相の恥であり、いまでもそう考えている国民がいることを世界に見せつけた日本の恥だ。
 
その速さと幅広い内容、確固とした中立・公正な立場から、世界で最も信頼され、圧倒的な聴取者数を誇る英国の国際的公共放送BBCは、籾井NHK新会長の発言を全アジアに伝えた。その東京発のニュースを電子版全文で紹介しようー
 
▽1月26日:「日本のNHKのモミイ会長か第2次世界大戦の”慰安婦“論争を燃え上がらせる」(見出し)
 
「日本の公共放送NHKの新会長は、第2次大戦中に日本軍による性奴隷いわゆる“慰安婦”の使用を軽くみた発言で論争を巻き起こした。新会長就任後間もないモミイ会長は、このような行いは戦争中どの国でもあった、と述べた。彼はまた、NHKは中国との領土紛争で日本政府を支持すべきだと述べた。公共の受信料で予算を得ているNHKは、政治的に中立であるべきだとみられている。BBCのウングフィールド・ヘイズは東京で、新会長が最初の記者会見で極めて政治的な見解を表明したことはショックだった、と語る。
 
『おかしい』
 
第2次大戦中、20万人に達する慰安婦が日本軍の兵士たちのために働くことを強いられ、その大部分が朝鮮人だったと推定されている。中国、台湾、フィリピン、インドネシアの女性たちも徴用された。モミイ氏は『戦争ではフランスやドイツを含めどの国でも、このような女性たちがいただろう』と述べた。彼は国際社会の怒りを『おかしい』と表現した
 
戦時中の日本の行為の戦後処理問題は、しばしば近隣諸国との緊張の原因になってきた。東シナ海の島々をめぐる日本と中国の厳しい対立について、モミイ氏は『政府が右というのにNHKが左というわけにはいかない』と述べた。NHK内部の人は、モミイ氏の選任は、この公共放送を従わせようとする安倍首相の試みだ、といっている。そうだとしても、それは下手というより逆効果になるようだ、と付け加えた。モミイ氏はまた、日本の秘密保護法については全く心配していない、と述べた。」  
目下進行中の東京都知事選について毎日新聞の「風知草」の筆者の山田孝男さんが27日付けの同コラムで「思考停止から抜け出せ」という問題提起をしています。山田記者の問題提起の要旨は次のようなもの。
 
「原発ゼロ」は東京都知事選(2月9日)の争点にふさわしいか−−。世論は歩み寄りの余地がないほど割れているが、先週末、近所の映画館で遅ればせながら見た映画「ハンナ・アーレント」(2012年)が重要な視点を提供していると思った。哲学者、アーレント(1906~75)の、人間がなす悪についての考察が、原発と東京の有権者の責任という問題につながる−−と思われたのである。
 
アーレントはドイツ系ユダヤ人女性だ。ナチスに追われ、アメリカへ亡命。第二次大戦後、ユダヤ人虐殺に深く関わったナチス親衛隊中佐、アドルフ・アイヒマン(1906~62)の裁判を傍聴した。アーレントは、アイヒマンを「どこにでもいる平凡な人物」と見た。戦時下では誰でもアイヒマンになり得たのであり、イスラエルの法廷で被告席に座っていたのは人類全体だとも言える−−と米誌「ニューヨーカー」で論じた。これが激しい議論を呼んだ。アイヒマンは冷酷、残忍、狂気の極悪人−−という、戦後の支配的な歴史認識を侵したからだ。アーレントの断定。「世界最大の悪(600万人以上とされる20世紀のユダヤ人虐殺)は平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も、悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです」
 
戦時のホロコースト(大虐殺)と平時の原発事故に何の関係がある−−といぶかる向きもあろうが、似た側面があると思う。思考停止のまま、未完の巨大技術への依存を続ければ、時に途方もない惨害を招く。そういう中での都知事選である。なるほど、エネルギーの選択は国策には違いない。だが、難しいことは国が決める、専門家が決める、上司が決める、オレは知らん、自分さえ無事なら後は野となれ山となれ、という構えでよいか。
 
アーレントは米誌への寄稿「エルサレムのアイヒマン/悪の陳腐さについての報告」の最後でこう言っている。被告には殺意も憎悪もなかったにせよ、絞首に値する。なぜなら「政治においては服従と支持は同じもの」だから……。  都知事選に限らず選挙に臨む有権者が胸に刻むべき言葉ではないか。(「思考停止から抜け出せ」毎日新聞『風知草』山田孝男 2014年01月27日)
醍醐聰氏(東大名誉教授・会計学)のブログに「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」の以下の申し入れ書が掲載されています。
 
NHK籾井会長の解任を求める要望書を提出:視聴者コミュニティ
(醍醐聰のブログ 2014年1月27日)

NHK経営委員会宛「籾井NHK会長の解任を求める申し入れ」
NHK会長・籾井勝人氏宛「会長職の自主的辞任を求める申し入れ」

詳細は上記の醍醐氏のブログの頁を開いてお読みください。
 
以下は、本ブログのプラグイン(右端)に設けている「今日の言葉」からこの問題についての辺見庸の発言の援用です。

籾井勝人
という男の、いわゆる「従軍慰安婦」問題発言にからみ、もっとも悲しむべき、そして衝撃的でもあったシーンは、籾井の発言内容以上に、NHKおよびいくつかのマスメディアが、これを知っていながらまったく報じなかったという「空白」にあることは、あらゆる見地から疑いを入れない。これは「ブラックアウト」(blackout=報道管制、放送中止)にまったく等しい。(略)この社会はいま、生きかつ微笑みながら、緩慢に死につつある。巨大メディアの「安倍機関化」がすすんでいる。日刊安倍新聞安倍放送局安倍チャンネルがさかんに自己増殖中だ。 毎日が画時代的シーンに満ちあふれている。なんという壮大な反動だろう!
なんということだ、と叫びたい衝動にかられるのは、だが、状況そのものに理由があるというより、怒る神経と血管が目詰まりし、ついに石化してしまった人間たちが社会の絶対的マジョリティになっており、かつてよりますます「個人」がいなくなった、個人が絶滅しかかっているからだ。(略)籾井という反社会的人物をすぐにでもNHK会長職から引きずりおろせないようでは、憲法改悪を阻止するのはとうてい無理というものだ。
辺見庸「日録5」2014/01/26

治安維持法制定時(1925年)の新聞の見出しと秘密保護法制定時(2013年)の新聞の見出しを比較してみようと思います。
 
以下が治安維持法制定時(1925年)の新聞の見出しです。

治安維持法2 治安維持法

治安維持法3  治安維持法4 
                

以下が秘密保護法制定時(2013年)の新聞の見出しです。

治安維持法5  治安維持法15 

治安維持法10治安維持法18  
 
まるで1925年のできごとが2013年の昨年のことのようです。
とら猫イーチ氏が本ブログの25日付け記事「今日の言葉~抜録~」のコメントとして下記のような一行(コメント自体はもう少し続きますが)の辺見庸評価を送信されてきました。
 
貧者と弱者と失業者への共感と抵抗、すなわち人間への興味を失った荒野には、なにもない。
 
辺見庸氏の言葉には、甘さの一片も無いのですね。
 
とら猫イーチ氏によれば、辺見庸のその「甘さの一片も無」さは、次の行で例示されている「澤藤氏の一連の批判では、何んともやり切れない思いがしています。 相手方の、それこそ『甘さ』の無い徹底した切り捨て方と、無視、村八分の手法」に結びつく「甘さの無さ」のようです。
 
辺見庸に限らず、作家(もう少し拡張して「人」)の評価は、もちろん人それぞれであっていいわけですが、また、同じ人格、同じ人性の人間はこの世に2人と存在しない以上、人それぞれになるほかないものでもあるのですが、私の辺見庸評価は、「甘さの一片も無い」作家(人間)という評価とは逆で、辺見はその「甘さ」ゆえに失敗も、悲しみも、哀しみもしている作家(人間)というべきではないか、というものです。以下の私の文章がその辺見の「甘さ」の説明になるものかどうかについては私ながらに若干の疑問はありますが、以下は、6年ほど前に書いた私の辺見評価に関する断片です。数年前に弊ブログにもエントリしているものですが、再度、断片の断片として抜粋してみるのもまったく意味のないことではないだろうと思います。

荷役労働者2 
はしけで港のどこかの作業場に向かう寄せ場労働者たち(於:横浜港)
私は東京都知事選告示の前日の1月22日に「『宇都宮健児君、立候補はおやめなさい』問題 最後の反論 ――東京都知事選の告示日を明日に控えて」という記事を書いたとき、その記事の最後を下記のように結んでおきました。
 
「標題に『最後の反論』とあるのは『『立候補』はおやめなさい』問題に関してのみのことです。憲法会議の「言論弾圧問題』や『希望のまち東京をつくる会』の体質批判の問題はまだ終っているわけではありません。」

リブラ8 
正義の女神・ユースティティア像。女神が左手
に持つのはリブラ(天秤)。 ユースティティアは
そのリブラで人の善
悪の量を判断したという。

澤藤統一郎弁護士も昨日からあらたな装いで憲法会議の「言論弾圧問題』と『人にやさしい東京をつくる会』の体質批判をはじめられています。その第1回は昨日付けの「『憲法を暮らしに生かす』ことの意味」という論攷と憲法会議から送付されてきた執筆謝礼金相当額の受領を拒絶する「返信状」。
 
「憲法を暮らしに生かす」ことの意味
(澤藤統一郎の憲法日記 2014年1月24日)
 
第2回目はステファン・エセルさんの 「人権の侵害は、相手が誰であれ、怒りの対象となるべきだ」という言葉を引用した「『選挙運動費用収支報告書』記載ミス訂正の実例」という論攷。
 
「選挙運動費用収支報告書」記載ミス訂正の実例
(澤藤統一郎の憲法日記 2014年1月25日)
本ブログのプラグイン(右端)に設けている「今日の言葉」の2014年1月20日から同年1月25日にかけての記録です。 

戦争

・地元テレビ、新聞が稲嶺ススムさんの当確を報じると歓声が上がった。4000票余の大差をつけての勝利は、金で心は売らない、という名護市民の良識の勝利である。投票日を間近にひかえて突然、500億円の「名護振興基金」を打ち出した石破茂自民党幹事長の発言は、名護市民の反発を買っただけだった。(
目取真俊「海鳴りの島から」1/20

沖縄にたいし自民党政府のやってきたことは、組織暴力団と本質的に変わるところがない。政治の位相生身のひとの生活の位相は、おなじ空間にあるようでいて、おなじ位相空間にはまったくない。前者は後者を負いはせず、支えもせず、ただ壊すのみである。 政治と生活は、畢竟、根本から対立する。どのみちすべてはめくりかえされ、 剥きだされる。言葉は日ごとにとどける意思をおびたものではなくなっており、いまよりさらにとどかなくなるだろう。(
辺見庸「日録4」2014/01/20

・政治思想史家、丸山真男さん(享年82)の記事を書くため著作を読み進め、ふと気になった。1933年、19歳で治安維持法違反容疑で検挙された丸山さん、激しい特高の取り調べにポロポロと泣き伏した夜のことを65年以降、ある小説の題名にちなんで「留置場での『いのちの初夜』」だったと語るようになった。小説とは、ハンセン病の診断を受けた北条民雄さんが療養施設に入所した最初の夜を描いた「いのちの初夜」。(略)登場人物は語る。「僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼(め)を持つ時、全然癩(らい)者の生活を獲得する時、再び人間として生き復(かえ)るのです」。(略)丸山さんの「大日本帝国の実在よりは戦後民主主義の虚妄に賭ける」という思想を支えたのは、19歳で体験した留置場での「初夜」だったのではないか。北条さんはこの作品で36年、文学界賞を受賞。翌年、23歳で死んだ。若くして他界した小説家と戦後民主主義のオピニオンリーダー。同じ年に生まれながら接点もなく、生きた時間も異 なる二つの人生は、「いのちの初夜という言葉で今も結ばれ、私たちに多くのことを物語る。2人は今年、生誕100年を迎える。(毎日新聞「発信箱」:「丸山真男と北条民雄」=小国綾子 2014年01月21日

・芥川龍之介が傾倒したフランスの文人、アナトール・フランスにこんな言葉がある。「大衆に対しては、いかにしてとか、どんな具合にとか言ってはならない。ただ、<そうだ>、あるいは<そうではない>と言わなければならない」。そもそも「大衆は断言を求めるので、証拠は求めない。証拠は大衆を動揺させ、当惑させる」からだ(略)この言葉、仏文学者の鹿島茂さんの小紙連載が本になった「悪の引用句辞典」(中公新書)からの孫引きである。鹿島さんは橋下徹大阪市長を評するのにこの引用句を用いたが、その<そうだ>と<そうで はない>の二者択一に政治を落とし込む手法の元祖として小泉純一郎元首相の名を挙げている。(「芥川龍之介が傾倒したフランスの文人、アナトール…」毎日新聞「余録」 2014年1月22日
 
・「失業者、世界で2億人突破」の記事にはとくに打ちのめされた。18世紀産業革命 後の一大事件として特筆されるべき世界史的なその内容もさることながら、日本の各メディアの①あまりのおどろきのなさ②あつかいの小ささ③視線の浅さーーに、したたかに打ちのめさ れた。(略)世界で貧富の差が拡大し、最富裕層85人の資産総額が下層の35億人分に相当するほど悪化したという。戦慄すべき富の集中 G-W-G'の基本になにか変化が生じたとはおもわない。ただ、G-W-G'の奥に、ひととして切実な関心をもつ者がほとんどいなくなった。儲け話、サクセスストーリーばかりだ。 貧者と弱者と失業者への共感と抵抗、すなわち人間への興味を失った荒野には、なにもない。この国には、政権の知能程度にみあったマスメディアしかない。ずっとそうだった。
辺見庸「日録4」2014/01/22

・彼の歌には他の『万葉集』歌人の誰にもない 自分自身 に対する皮肉、一種の「黒い 諧謔」に近い調子がある。たとえば、「風雑(まじ)へ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は 術(すべ)もなく 寒くしあれば」ではじまる「貧窮問答」の長歌は、塩をなめて、濁酒を啜ることをいった後に続けている。……しかとあらぬ 鬚かき撫でて 我を除きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば……自分自身を含めての対象への知的な距離は、子どもや老人から「我よりも 貧しき人」に到るまで、他の歌人には見えなかったものを、憶良の眼には見えるようにさせたのであろう。<加藤周一『日本文学史序説』(1999)>(Don't Let Me Down「貧窮問答」2014-01-24

・現在忘れられているのは、“メディア”(新聞・テレビ・ネットなど)の、ちがいではなくて、そこで発せられる《文章》の品位 である。“品位”という言葉を誤解してはならない。それは小ぎれいなレトリックを意味しない。 “文は人なり”を意味する。“文”は“顔”と同じく、そのひとを表す。“論文”であって も、 “文学”であっても、文字限定のツイートであっても、同じである。(Don't Let Me Down 2014-01-25
明日は東京都知事選の告示日です。私はこれまでこの東京都知事選の「革新」の候補者問題についてけっして見過ごしてはならない問題として「革新候補者はどうあるべきか」という問題について澤藤統一郎弁護士の問題提起を軸としてそれに呼応する形で私なりにもさまざまに問題提起をしてきました。しかし、そうした問題提起などなにもなかったかのような能天気な、その実、曇天の空模様の中で都知事選の告示日を迎えることになりました。歴史とはそういうものなのかもしれません。「まことに尋常ならざることを、実時間では、当然のようにながめていたり」するのが歴史というものだから。「人間集団とは、けだし度しがたい。戦争は、 それが戦争とも意識されずに、ある日、ふと気がついたら、はじまっているだろう」(辺見庸『私事片々』(2013/12/31)より)。
 
しかし、いつの場合も(「治安維持法」の時代を除いて、とつけ足しておかなければならないでしょう)一片の違和感を述べることはできます。以下は、その私の違和感の断片です。もちろん、東京都知事選に関連しての断片です。
 
私は1月16日付けのエントリで澤藤弁護士への「言論封殺事件」に関して「とりわけ『憲法会議』所属の研究者、弁護士の率直なご意見をお伺いしたいところです」という愚見を述べておきましたが、いまのところ(東京都知事選告示前日の「いまのところ」ということです)「憲法会議」所属の研究者、弁護士がこの「言論封殺事件」についてなんらかの意見を表明したという事実を私は知りません。しかし、下記にご紹介する「kojitakenの日記」ブログのコメントは、もしかしたら、その文面の内容から判断して、「憲法会議」所属の研究者なり、弁護士のおひとりによるものではないか、と、私はひそかに疑っています。
昨日の1月19日、沖縄県名護市長選挙の投開票があり、米軍普天間基地の名護市辺野古移設に反対する現職の稲嶺進氏が、辺野古移設推進を掲げ、 安倍自民党内閣と同党本部の全面的な支援を受けて出馬した前自民党県議の末松文信氏に4000票余の大差をつけ再選されました。
 
昨年の11月には沖縄県選出の自民党国会議員、同党県連を辺野古移設反対から容認に強引に転じさせ、さらに昨年末の12月には仲井真沖縄県知事の国の辺野古埋め立て申請承認という沖縄県民への裏切り行為を共謀、画策し、その上さらに投票日を間近にひかえて突然、 500億円の「名護振興基金」を打ち出し、名護を金で買おうとした自民党政府と自民党候補に名護市民が「金で心は売らない」という良識の鉄槌を下した「沖縄の心」の勝利といってよいでしょう。
 
しかし、この「沖縄の心」を支えたのは名護市民だけでなく、「沖縄の心」をともにしようとする米国の知識人ら29人もいました。その米国の知識人ら29人は連名で同市長選が本番に入る直前の1月8日に沖縄と世界に向けて「辺野古移設中止を」求める抗議声明を発表しました。声明連帯者の氏名はノーム・チョムスキー、ジョン・W・ダワー、マイケル・ムーア、ナオミ・クライン、ダニエル・エルズバーグ、ピーター・カズニック、オリバー・ストーン、アン・ライトなど。この声明の発表が名護市民を励まし、名護市長選勝利に大きな役割を果たしたこともまた確かなことといってよいだろうと思います。
 
さて、「世に倦む日日」というブログがその「米国知識人29名の署名による辺野古埋め立てへの抗議声明」に焦点を当てて、対比して現代の日本人知識人の不甲斐なさを論じた記事を書いています(世に倦む日日 2014-01-14)。
 
この「世に倦む日日」は、ある側面をフォーカスしてそれを焦点化するという点でしばしば手腕を発揮します。しばしば慧眼といってもよい視点を提起することもあります。その「世に倦む日日」の筆者は上記の日本人知識人の不甲斐なさについて次のように言います。
 
「もし、これが30年ほど前なら、きっとこんなことはなく、すぐに抗議文書が発信され、マスコミの記事になって紹介されたことだろう。加藤周一、丸山真男、鶴見俊輔、久野収、小田実、日高六郎、藤田省三、家永三郎、木下順二、掘(堀)田善衛、こういった面々が動いたに違いないのだ。」
 
「オリバー・ストーンやマイケル・ムーアやチョムスキーなど、今の米国の知識人たちは、この上に並べた戦後民主主義の知識人と重ね合わせて存在を見ることができる。同じ知識人範疇と認められる。だが、その知識人範疇に入る日本の現在の人物がいない。名前を挙げて並べることができず、リストにすることができない。無理もないと言うか、「憲法とは何か」を岩波新書から出している学閥の憲法学の権威が、秘密保護法は必要だと言い、国会で安倍晋三の代弁をやって正当化しているのだ。岩波の「世界」に記事を書いている者も、似たり寄ったりで長谷部恭男と大差なく、学閥官僚かアカデミー・サラリーマンだ。」
 
しかし、「世に倦む日日」氏の作家の辺見庸評価は少し違うようです。同氏は辺見庸について次のように言います。
醍醐聰氏(東大名誉教授・会計学)の「人にやさしい東京をつくる会」批判の第5弾です。今回は同会構成団体のひとつの「憲法会議」批判です。
 
私は1月16日付けのエントリ「『怒り』をもって言う ――『憲法会議』(憲法改悪阻止各会連絡会議)の澤藤統一郎弁護士への言論封殺事件」で「とりわけ『憲法会議』所属の研究者、弁護士の率直なご意見をお伺いしたいところです」という愚見を述べておきましたが、いまのところ「憲法会議」所属の研究者、弁護士がこの「言論封殺事件」について意見を表明したという事実を私は知りません。*醍醐聰氏の今回の意見表明は私の知る限り「憲法会議」所属の研究者ではないもののもっと大きな研究者総体としてははじめての意見表明ではないでしょうか。

護憲を掲げる団体が自由な言論を抑圧するおぞましい現実(1)
(醍醐聰のブログ 2014年1月19日)
護憲を掲げる団体が自由な言論を抑圧するおぞましい現実(2)
(醍醐聰のブログ 2014年1月19日)
 
詳細は上記の醍醐氏のブログの頁を開いてお読みください。
 
*kojitakenの日記」ブログの1月18日付けの記事にこの件に関して下記のようなコメントがありました。私は文面の内容から判断して「憲法会議」所属の研究者なり、弁護士のおひとりではないかと疑っていますが、もちろん私の「疑い」の範囲を超えません。
昨年の11月から、私は、本ブログのプラグイン(右端)に「今日の言葉」というカテゴリを設けて、私の心に遺ったその日、その日の言葉と言葉の節を書きつけてきました。以下は、昨年の2013年12月21日から昨日の2014年1月18日までのその「今日の言葉」の記録です。
 
ハンナ・アーレントと母


宇都宮健児君、立候補はおやめなさい。(「
澤藤統一郎の憲法日記」 2013年12月21日)

・わたしは『水の透視画法』を執筆中精神がかつてなく自由でいられた。(略)おそらく、マスコミが宿命的に依存し、それがためにファシズムさえもあおってしまう多数者の常識を、連載中あえて無視することができたからではないだろうか。それがわたしの精神の自由をささえた。(略)わたしという、よるべないひとりのこころが、読者という、よるべないひとりのこころに、か細い橋をかける行為。散文であれ詩であれ、文を書くとはそういうことである。「辺見庸『水の透視画法』(共同通信社2011)」 (Don't Let Me Down 2013年12月23日
「憲法会議」の澤藤統一郎弁護士への「言論封殺」(批判の自由の封殺)問題について「きまぐれな日々」ブログ、「kojitakenの日記」ブログの主宰者の古寺多見(kojitaken)氏の下記のような反応とコメントもあります。私はきわめて正統な反応というべきだろう、と思います。ご紹介させていただこうと思います。
 
やっぱり宇都宮健児は支持できない。俺は寝る。白票投票だ
(kojitakenの日記 2014-01-16)
 
澤藤統一郎弁護士の下記ブログ記事を読んで、「リベラル・左派」界隈に蔓延する「同調圧力」ひいては「全体主義」に驚き呆れた。宇都宮健児を支援する輩どもが現に行っている「言論封殺」の見本である。
 
澤藤統一郎の憲法日記 » 宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26(2014年1月15日)
 
怒り心頭に発した俺は、この都知事選では寝ることにした。候補者の誰も支持しない。投票日には白票を投じて全候補者を拒絶する意思表示をすると決めた。

承前(kojitakenの日記 2014-01-17)
 
細川護煕応援団が宇都宮健児陣営に「脱原発候補の一本化」を迫るのも、宇都宮健児を支持する人たちが、宇都宮氏個人とは全然関係ない論文を、宇都宮氏を批判したことを理由に掲載しないのも、ともに「同調圧力」を迫る「全体主義」的あり方にほかならない。現在批判されている宇都宮氏の取り巻きの体質はとりわけひどい。そんな人たちに支えられた宇都宮氏を支持しない意思表示をするために宇都宮氏には絶対に投票しないと決めたが、同じ体質はもちろん細川護煕陣営にも舛添要一陣営にも田母神俊雄陣営にもあるのであって、だから私は今回の都知事選で白票を投じる。万一、私が最低最悪の候補者とみなしている田母神俊雄が当選圏に迫るという事態が起きるのであれば、田母神を当選させないための投票行動を取るが、そんなことは万に一つどころか兆に一つもあり得ず、田母神は宇都宮健児との3位争いが確実だから、白票の投票行動を変えることはない。
 
東本コメント
私は都知事選告示日前日の最後の最後まで革新・リベラル 勢力の候補者 としてふさわしい候補の確立と擁立に努力するべき、という立場です。たとえその努力が水泡に帰したとしても、です。まだ告示日までにはいくばくかの時間があります。
東京都知事選告示の日の1月23日を目前にしたこの同月19日に東京・文京シビックセンターで「活憲左派の共同行動をめざす会発足記念講演会」(講師:伊藤誠東大名誉教授)が開かれるようですが、その日、同集会では、あわせて現在、 焦眉の急の課題となっている東京都知事選候補者問題に関して澤藤統一郎氏(2014年都知事選宇都宮陣営批判者・弁護士)と吉田万三氏(7年前の「革新都政をつくる会」を母体にした東京都知事選候補者)を特別発言者とした「澤藤統一郎VS 吉田万三」と題された両氏の特別発言もあるようです。
 
澤藤統一郎弁護士と希望のまち東京をつくる会(旧称:人にやさしい東京をつくる会)はいま激しい 「敵対」関係(批判、被(反)批判の関係)にありますが、その一方の会の政党としては最大の構成団体としての共産党の吉田万三元都知事選候補者と同会の批判者としての澤藤統一郎氏がどのような「対話」をするのか。また、どのような「対話」が成立するのか。私としてはもっとも注目したいところです。もちろん、意義のある「対話」が望まれます。
 
同講演会(活憲左派の共同行動をめざす会主催)のタイム・スケジュール等は以下のようです。
 
集会名称:活憲左派の共同行動をめざす会発足記念講演会
 
日時:1月19日(日)午後1時30分〜

場所:東京・文京シビックセンター 3F会議室A
 
テーマ:日本経済はどうなるか?
 
講 師:伊藤 誠さん(東大名誉教授)
 
特別発言:澤藤統一郎 VS 吉田万三 13:35~13:55
 
伊藤 誠講演 質疑応答 14:00~16:30
 
討論:都知事選をどうする 16:35~17:25
岩波書店『世界』編集部員の経験を持つ若手思想家の金光翔さん(現岩波書店社員・裁判中)がご自身の経験に即して澤藤統一郎弁護士が前回東京知事選候補者(現候補予定者)の宇都宮健児氏及び宇都宮選対、人にやさしい東京をつくる会に「宣戦布告」した「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい。」(「澤藤統一郎の憲法日記」ブログ)という連載批判記事のうち岩波書店、岡本厚岩波書店社長(人にやさしい東京をつくる会運営委員)、熊谷伸一郎岩波書店社員(同会事務局長)に関わる批判の部分を中心的に取り上げて澤藤弁護士の同記事の見解について首都圏労働組合という特設ブログに1月15日付けでご自身の「私見」を述べています。
 
岩波書店(岡本厚社長)に「公職選挙法違反」の疑いありとの澤藤統一郎氏の告発(金光翔 2014/01/15)
 
金光翔さんの同記事は長文で、かつ、そのうち1は澤藤弁護士側の批判、それに対する人にやさしい東京をつくる会側の反批判(同会3弁護士による「法的見解」)を整理してまとめている引用文によって構成されているものですから、ここでは金光翔さんの私見によって構成されている2と3の部分のみをご紹介させていただくことにします。
 
金光翔さんもまた、私には当然のことと思えますが、澤藤統一郎弁護士の論に軍配をあげています。
 
この金光翔さんの「私見」で特に注目すべきは、金さんが岩波書店の『世界』編集部員として勤務していたご自身の経験から澤藤弁護士からその法律違反を指摘されている熊谷宇都宮選対事務局長の岩波書店からの合法的な「有給休暇」の取得の問題に関してその取得の「ありえない」ことを間接的に証明されていることです。その上で金さんは岩波に「澤藤氏の主張に対する極めて有力な反証とな」り、かつ、「5分もあればアクセスと印刷は終わるはずの」ウェブ上に記録のある「勤務管理データの記録等」の情報を開示せよと進言しています。そして、岩波は「なぜそれをしないのだろうか」と疑問を投げかけてもいます。
 
以下、金光翔さんの「岩波書店(岡本厚社長)に「公職選挙法違反」の疑いありとの澤藤統一郎氏の告発」(2、3)。
 
2.
 
上記の記述をもとに、以下、若干の私見を述べることとする。
 
まず、上で引用したように、「人にやさしい東京をつくる会」は、「澤藤氏は事実と証拠に基づかない私憤に基づく憶測から事務局長らの名誉を毀損する主張を繰り返している」と主張している。しかし、澤藤氏が、熊谷が「世界」編集部員と事務局長を同時にこなすことの可能性について疑問を持つこと自体は自然なことである。
今日付け(2014年1月15日)の澤藤統一郎弁護士の「憲法日記」「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26」はとりわけ重要です。
 
「憲法の番人」(司法)の番人とでもいうべき民主・革新陣営のはずの「憲法会議」がその「憲法会議」の所属会員でもある澤藤統一郎弁護士(元日本民主法律家協会事務局長)に対して「言論封殺」(批判の自由の封殺)といっても差し支えない依頼原稿の撤回を申し入れてきたというのです。理由は下記の澤藤弁護士の記事でも明らかなように澤藤弁護士の宇都宮健児東京都知事選立候補予定者、「人にやさしい東京をつくる会」運営会議批判への「報復」措置とでもいうべきものです。
 
こういうことが許されていいのか。
 
とりわけ「憲法会議」所属の研究者、弁護士の率直なご意見をお伺いしたいところです。
 
あなたは今回の「月刊憲法運動」の澤藤弁護士への執筆依頼撤回事件、それに対する同弁護士の「怒り」の声をどう思われますか?
 
以下、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26」(澤藤統一郎の憲法日記 2014年1月15日)。

私のコメントを入れずにそのまま転載させていただきます。

「人にやさしい東京をつくる会」の運営会議の席で、私は、出席者から少なくとも2度、「今後運動の世界で生きていけなくなるからよく考えろ」という「忠告」を受けている。「だから、おとなしくしておいた方が身のためだ」という恫喝と私は理解した(「その10」)。
 
「いまどき馬鹿げたことを」と私は一顧だにしなかったが、ようやくにして思い当たる事件にぶつかった。私は、新たな怒りを燃やして報告する。直接の怒りの対象は、「憲法会議」(憲法改悪阻止各会連絡会議)だ。事件は、その機関誌である「月刊憲法運動」の執筆依頼の撤回である。些細なことではない。私は重要な問題と考える。「憲法会議」に、憲法を語る資格があるのかを問わねばならない。そして、そのような人々に支えられている宇都宮君に、改めて「立候補はおやめなさい」と言わねばならない。 
*私の「祝島漁協総会における漁業補償金受け取り賛成票の増加をつくりだしたのは誰か」論を先に掲げておきます。冒頭から読もうとする場合は「続きを読む」をクリックしてお入りください。

さらに飯田哲也の山口県知事選出馬は、祝島島民・漁民にとんでもない負の負担を背負わせることになりました。
 
というのは、反原発の島・祝島の漁協総会ではこれまで総会の度に「漁業補償金受け取り」反対票が圧倒的に上回るというのが常でしたが、飯田哲也が山口県知事選に出馬し、その余勢で安倍現首相夫人の安倍昭恵さんを祝島に誘った翌年(2013年)の祝島漁協総会では「漁業補償金受け取り」派が激増したという事実があります。
 
この事実をどう見るか。そのことについて私は私なりの見方にもとづく記事を書いたことがあります。事実関係がはっきりしないところもありますので私の推測も含まれますが、私は根拠のある推測だと思っています。飯田哲也という脱原発を「売り」にする「脱原発」商売人の本性を見誤まらないようにしなければ、山口県、上関、祝島の真の「脱原発」の道は少なくとも今後数年間にわたってさらに閉ざされてしまうように私には思われます。以下、私の「祝島漁協総会における漁業補償金受け取り賛成票の増加をつくりだしたのは誰か」論です。ご参考にしていただければ幸いです。
 
 
上記の3通の祝島島民などのコメントでは触れられていないのですが、私にはこの3年間ほどの祝島漁協総会における漁業補償金受け取りに関する同漁協組合員の評決の推移が気にかかります。この3年間の評決の推移は以下のとおりです。
 
2010年1月29日総会 正組合員66名 反対43名 態度保留・賛成15名(議長除く)
2012年2月22日総会 正組合員58名 反対40名 賛成17名(議長除く)
2013年2月28日総会 正組合員53名 反対21名 賛成31名(議長除く)
 
2012年度には約70パーセントあった反対票(これまでの総会でも反対票が圧倒的というのが常でした)が2013年度には約40.4パーセントまで激減しています。逆に賛成票は2012年度の約30パーセントから2倍の約60パーセントにまで増加しています。これは単に組合員の高齢化や「漁獲量や魚価の低迷」などという経済事情だけでは説明はつかないでしょう。祝島の漁業者の高年齢化はいまにはじまったことではなく、経済不況もいまにはじまったことではないからです。昨年から今年にかけてなにかが変化したと考えるほかありません。 
私の昨日の記事に下記のようなコメントがありました。
 
「澤藤氏と醍醐氏のブログ、ならびに貴ブログで展開されている議論は、政治的スローガン(それ自体の妥当性はさておき)の影で、これまであまり語られて来なかった個人の責任倫理権利という基本的な問題についてのことです。日本社会で、最も欠落している部分でしょう。
 
社会的な運動に係わった人のかなりの方が、運動内部で体験する問題ですが、大抵は集団圧力や'大義'の名のもとに沈黙するか、運動から去っていきました。この歴史が、民主主義を根付かせることに成功してこなかった日本の姿だと考えます。
 
澤藤氏の問題提起を真正面から受け留められる人があまりに少ないことに、それが如実に表れています。」                                                                                                                             Rocky 2014/01/14
 
 「社会的な運動に係わった人のかなりの方が、運動内部で体験する問題ですが、大抵は集団圧力や'大義'の名のもとに沈黙するか、運動から去っていきました・・・・」
 
そのとおりです。私もどれほどそういう人たちを見てきたことでしょう。そして、私自身がそうでした。
 
「澤藤氏の問題提起を真正面から受け留められる人があまりに少ないこと・・・・」
 
まさにそのとおりだと思います。強く、激しく、言われることへの共感。
 
と同時にこみあげてくる悔しさと哀しさと涙をじっと唇を噛んで堪えています。
 
でも、私は燃え尽きない。死ぬまで燃え尽きない。そういう思いで生きています。
 
おそらく澤藤さんも、醍醐さんも。そして、大河さんも、Tさんも。
 
私のブログの端に辺見庸の言葉を置いているのですが、私の選んだその辺見庸の言葉は次のようなものでした。
 
      われわれはひとりひとり
        例外になる。
      孤立する。
        例外でありつづけ、悩み
      敗北を覚悟して
        戦いつづけること。
      これが、じつは深い自由だと
        私は思わざるをえません。
        (辺見庸講演記録 2013年8月31日

小説」は、なにができるか? 
              (Don't Let Me Down「小説は、なにができるか?」より)

第1(承前)。第3の論点に入る前に前エントリで述べた第1の論点について若干の補充をしておきます。
 
第1の論点の終わりで私は次のように述べました。
 
「もう一点、週刊新潮の記事の中にある「澤藤氏の息子がスタッフを怒鳴りつけるなどトラブルになったり」した点については、私は澤藤大河氏側の「釈明」を知りませんので(おそらく上原公子氏や熊谷伸一郎氏に対して「抗議」したことを捉えて宇都宮陣営側は「スタッフを怒鳴りつける」などと言っているのだろう、と私は理解していますが)この点については措いておきます。」
 
しかし、この「澤藤氏の息子がスタッフを怒鳴りつける」(「週刊新潮」の記述)問題については澤藤統一郎弁護士の次のような証言があります(「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその24」 2014年1月13日)。この澤藤弁護士の証言が間接的にこの問題の解説と証言になりえているように思いますので、以下、当該部分を引用してみます。
 
「後に、熊谷伸一郎事務局長(岩波書店勤務)主導で、大河に対する任務外し正当化の攻撃材料が集められる。任務外し時点では一切告げられていなかった、「事後的に作りあげられた」理由である。「スケジュールの作成が遅いと事務所で大声で怒鳴った」「街宣先で腕組みをしてふんぞり返っていた」「放送局員に突っ慳貪な応対をした」「協調性がない」「たくさんのクレームが寄せられている」「大河さんの名誉を考えたら騒がない方が良い」…。
 
企業が望ましからざる労働者を追放しようという場合には、トラブルメーカーに仕立て上げるのが常套手段である。情報を集積して、些細な出来事を積み上げる。針小棒大に言い立てて孤立させる。ブラック企業とまったく同じことを、宇都宮選対はやってのけた。
 
熊谷伸一郎事務局長(岩波書店勤務)は、情報の独占者であった。どんなクレームが寄せられているか。彼以外には誰も知らない。まことに、情報の独占こそが「小さな権力の源泉」である。みっともなくその手先になった面々が哀れである。」
 
同記事には「大河は任務外しを、自分が遠慮なく熊谷伸一郎事務局長(岩波書店勤務)を批判したことへの報復と理解した」という澤藤弁護士の証言もあります。「週刊新潮」に掲載された宇都宮陣営側の「澤藤氏の息子がスタッフを怒鳴りつける」云々の証言は、「どんなクレームが寄せられているか。熊谷事務局長以外には誰も知らない」クレームを澤藤大河氏が「遠慮なく熊谷伸一郎事務局長を批判したことへの報復」として熊谷氏及びその意を受けた宇都宮陣営側の誰かが創作してメディア(「週刊新潮」)に流した公算が大です。すなわち、フレームアップの公算が大だということです。
ある人が、あるメーリングリストで、要約、下記のような澤藤統一郎弁護士、醍醐聰東大名誉教授の論の批判をしてきました。
 
1.澤藤弁護士の「人にやさしい東京をつくる会」批判なるものはおのれの「私憤」に基づく批判にすぎない。
 
2.澤藤弁護士の論には「道理もない」(澤藤弁護士の記事で紹介されている週刊新潮の記事によれば、「運動員をしていた澤藤氏の息子がスタッフを怒鳴りつけるなどトラブルになったり、女性の随行員を勝手に採用した件などを理由に選対から外されてしまったことだ」ということがあるそうです。勝手な人事配置をしたり怒鳴るなどトラブルメーカーだったんでしょう。そんな協調性もない人だったとしたら、排除されても仕方はないでしょう)。
 
3.醍醐氏の批判も「憶測」にすぎない。
 
4.醍醐説が通るなら、もっと多くの専門家が違法性を指摘するに違いないのだがそういうこともない。また、マスコミもぜんぜん騒がない。
 
5.「本当に疑いが濃厚ならば、収支報告書を修正する際に選管から指摘があるはずだがそれもないようだ。
 
6.推薦を決めた政党や団体にも法律対策の部門があるがその法律対策の部門からも違法性の指摘はない。
 
7.「澤藤氏の主張する法的問題について簡潔に検討したが、それらのどれもが、些細な事務的ミスを針小棒大に取り上げたものである」という「人にやさしい東京をつくる会」の3弁護士の「法的見解」を追認する主張。
 
以下、その人の「論」への私の反論です。まだ上記1、2の点の反論でしかありませんが、続きはまた明日にでもアップするつもりです。
 
O氏は昨日付け「都知事選挙に思う」という返信投稿において澤藤統一郎弁護士と醍醐聰東大名誉教授の「人にやさしい東京をつくる会」批判についていくつかの反批判を試みていますが、澤藤、醍醐両氏の論を「憶測で批判している」などと一蹴しながら、一蹴しているおのれの論こそが実は「憶測」に基づく誤謬だらけの論でしかないことにはこれっぽちも気づいていないようです。
 
以下、そのことを彼の「論」に基づいて5点ほどにわたって証明します。
 
第1。まず、O氏の「憶測」「誤謬」の論の典型として同氏の言うところの「澤藤氏の息子が」「女性の随行員を勝手に採用した件などを理由に選対から外されてしまった」件について。
 
この件について、O氏は、澤藤弁護士の2014年1月10日付けのブログ記事に引用されている週刊新潮の記事をそのまま真実の記事のようにみなして次のように言います。「澤藤さんの昨日のブログ記事をみれば、私憤であるどころか道理もなさそうだと思わざる得ません。ここで週刊新潮の記事を引用しているように、「運動員をしていた澤藤氏の息子がスタッフを怒鳴りつけるなどトラブルになったり、女性の随行員を勝手に採用した件などを理由に選対から外されてしまったことだ」ということがあるそうです。勝手な人事配置をしたり怒鳴るなどトラブルメーカーだったんでしょう。そんな協調性もない人だったとしたら、排除されても仕方はないでしょう」、と。
 
しかし、澤藤弁護士の記事では週刊新潮の記事はいうまでもなく否定的に取り上げられているのです。「週刊新潮の記者は、私のブログを真面目に読もうともせずに、宇都宮君の言い分のとおりに「私憤」の筋書きで記事とした。「私怨・私憤」として立論することは、具眼の士には「一読して失笑してしまう」体のものであっても、週刊新潮の記者や読者には、問題の論点外しに有効なのだ。見過ごせないのは、週刊新潮の記事の中に「運動員をしていた澤藤氏の息子がスタッフを怒鳴りつけるなどトラブルになったり、女性の随行員を勝手に採用した件などを理由に選対から外されてしまったことだ」とあること」だ、と。その澤藤弁護士が否定している記事をO氏はそのことにはなんら触れずにさも澤藤弁護士も肯定しているかのように書きます。そして、週刊新潮の記事を真実とみなした上で「(澤藤氏の息子は)勝手な人事配置をしたり怒鳴るなどトラブルメーカーだったんでしょう。そんな協調性もない人だったとしたら、排除されても仕方はないでしょう」、と「澤藤氏の息子」を非難するそれこそ勝手な「憶測」を述べる。そこで描写されている人が否定していることを肯定しているかのように述べる点で、こういう作文技法は、「黒」のものを「白」と言いくるめるたぐいのまやかしの技法でしかない、と指弾しておかなければならないでしょう。 
醍醐聰氏(東大名誉教授・会計学)の「人にやさしい東京をつくる会」批判の第4弾です。
 
「利敵行為」論を考える(1)(醍醐聰のブログ 2012年1月12日)

詳細は上記の醍醐氏のブログの頁を開いてお読みください。
「生活・小沢代表は細川氏支持 菅元首相も」という報道について ――関連ブログ記事2題
 
小沢一郎と菅直人が細川護煕を支持へ(呆)
(kojitakenの日記 2014-01-12)
 
やっぱりな。
 
【都知事選】生活・小沢代表は細川氏支持 菅元首相も
 
生活の党の小沢一郎代表が東京都知事選への出馬を決断した細川護煕(もりひろ)元首相を支持することが10日、複数の関係者への取材で分かった。政党色を薄めたいという細川氏の意向に配慮し、党として推薦など表立った手続きは行わず「勝手連」として応援する方針だ。
 
小沢氏は、細川氏と同様「脱原発」が持論。細川氏と小沢氏側近は昨年末から、都知事選の見通しについて意見交換を重ねており、「今後、選挙資金の提供も検討している」(小沢氏周辺)という。
 
一方で、「脱原発」を主張する菅直人元首相も、9日のブログで「原発ゼロを求める都民は、当選可能な細川さんの応援に集中すべきだ」と書き込み、全面的な支援を呼びかけている。
 
(MSN産経ニュース 2014.1.11 09:03)
 
「今後、選挙資金の提供も検討している」ねえ。その金はもともとどこから出てきたんだろうねえ。
 
靖国参拝に開き直る小泉(vanacoralの日記 2014-01-11)

【小泉元首相記者会見】「靖国参拝しないで日中うまくいったか」(2013年11月16日付MSN産経ニュース)
 
小泉純一郎元首相は12日、東京・内幸町の日本記者クラブでの記者会見で、靖国神社参拝について「私が首相を辞めた後、(首相は)一人も参拝しないが、日中問題はうまくいっているか。外国の首脳で靖国参拝を批判するのは中国、韓国以外いない。批判する方が今でもおかしいと思っている」と述べた。
 
ただ、「これから中国に対する対応は、今の安倍晋三首相の対応でよい」とも語った。
 
こういう人に担がれてるのが細川元首相。安倍の靖国参拝に反対する「リベラル」な人たちが「脱原発」のシングルイシューで細川・小泉を支持するのはチャンチャラおかしい話であります!!

【東本コメント】
 
vanacoral(「vanacoralの日記」)さん。
 
「こういう人に担がれてるのが細川元首相。安倍の靖国参拝に反対する「リベラル」な人たちが「脱原発」のシングルイシューで細川・小泉を支持するのはチャンチャラおかしい話であります!!」とあなたはおっしゃる。まさにそのとおりだと私も思います。
 
しかし、そのあなたは、あなたのブログの1月8日付けの記事で「来月には新しい東京都知事が誕生します。(略)来る東京都知事選では前回に引き続き宇都宮健児さんを支持する事に致します」と表明されています。
 
今日、私のもとに到着した「宇都宮けんじニュース第7号(2014年1月12日号)」(メールニュース)の「2.いよいよ! 事務所オープン」の項には次のような記載がありました。
 
「希望のまち東京をつくる会」の事務所がオープンしました。昨日夕方5時から行なわれた事務所開きには100人を超す方々が駆けつけ、宇都宮けんじの、「脱原発を訴える候補が出てくるのはいいこと。大歓迎!」を皮切りに、木内みどりさん他みなさんの気合いの入ったスピーチで大盛り上がりでした。
 
上記で宇都宮健児氏が「脱原発を訴える候補」と言っているのは細川元首相のことに違いありません。宇都宮氏は、細川元首相のことを「脱原発を訴える候補が出てくるのはいいこと」と言い、「大歓迎!」とも言っているということになります。だとすれば、あなたのご認識によれば、この宇都宮氏の「話」も「チャンチャラおかしい」ということにはなるのではありませんか? あなたの「論理」のゆきつくところの必然として。
 
さて、vanacoralさん。

あなたは上記のあなたのブログの記事で「ただし“内ゲバ”の問題に関しては、火消しが遅すぎる印象が否めませんので」云々とも述べています。だとすれば、あなたは、その「“内ゲバ”の問題」についてもよく承知されているということになります。
 
あなたのおっしゃる「“内ゲバ”の問題」とは(ちなみに私は「“内ゲバ”の問題」とは思っていません。「正義」の問題だと思っています)、前回の都知事選では「人にやさしい東京をつくる会」の中心的な会員でもあった澤藤統一郎弁護士や醍醐聰東大名誉教授(会計学)が各々のブログで宇都宮健児氏及び「人にやさしい東京をつくる会」を批判していることを指しているのだと思いますが、その澤藤氏の宇都宮健児氏及び「人にやさしい東京をつくる会」批判の中心的論点は、同会の上原公子選対本部長(元国立市長)と熊谷伸一郎選対事務局長(岩波書店勤務)が「小さな権力」を笠に着て不当に同会のやはり中心的ボランティアだった澤藤大河さんとTさんに対する選対本部の随行員任務外しを強行し、その行状を宇都宮健児氏が見て見ぬふりをした一件を指し、さらに同会の多くのボランティアが無償で労務提供しているのに対し、上原公子選対本部長や服部泉出納責任者には各々10万円の「選挙報酬」を支払っていた一件(一部の例。なお、この「選挙報酬」の支払いについては「交通費等」の実費支払いだったという会側の反論もありますが、この反論も澤藤氏、醍醐氏によって論破されています)を指していることは明らかです。
 
   注:その「論破」の一端として醍醐聰氏の下記の論を提示しておきます。  
   ■新旧宇都宮陣営は問題の重大性を自覚すべきである(1)
   (醍醐聰のブログ2014年1月11日)
   ■新旧宇都宮陣営は問題の重大性を自覚すべきである(2)
   (醍醐聰のブログ2014年1月11日)
 
この一件がいかに不当なものであったか。いまもあるか。
 
上原公子選対本部長と熊谷伸一郎選対事務局長によって不当に選対本部の随行員任務外しをされた当事者の澤藤大河氏の弾劾の声(権利を侵害された当事者の訴え)を昨日の「澤藤統一郎の憲法日記」ブログの記事から一部だけ引用してみます。
 
この澤藤大河氏の弾劾の声(権利を侵害された当事者の訴え)をいまも無視し続けている「人にやさしい東京をつくる会」責任者としての宇都宮健児氏を、あなたはそれでも「支持する」ことが正当であるとお考えでしょうか? そうだとすれば、私は、あなたの「考え」は断じて誤っていると思います。これは「革新統一候補」の重要性云々以前の問題。その候補者は真に「革新」と言いうるかどうかというより本質的な「人間」としての道義性に関わる問題。すなわち、それは「革新」の道義性に関わる問題。下記で澤藤大河氏が「訴え」ておられる「人権」や「民主主義」の問題というべきだろう、というのが私の「考え」です。
 
以下、澤藤大河氏の「再々々度、「命令」の撤回と謝罪を求める」(2012年12月15日付)の引用(「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその22」から)。
 
再々々度、「命令」の撤回と謝罪を求める
2012年12月15日
上原公子様
  澤藤大河
 
  12月12日から14日の各日、私はあなたに宛てて、私への「命令」の撤回と謝罪を求める旨の3通の通知をした。事情を知悉し、あなたの「命令」の執行として私を任務から排除することに加担した熊谷伸一郎さんにもその写しを通知している。
 
  しかし、現在なお、あなたからの返答に接していない。前回通知での質問も、無視されたままである。
 
  私は、かつて労働組合のない民間企業に勤務していて、職場の労働者代表として労働条件改善について会社と交渉した。その際、私は労働者の要求の実現に徹した立場を貫いて会社側から徹底的に敵視された経験をもつ。その際には3回の理不尽極まる懲戒処分を受けつつ、まったく一人でたたかった。
 
  そのときの自分の怒りの原点は、労働者をプライドある人間として尊重することのない資本の論理に対するものであった。そのころ、福島第1原発の事故が起こって、姑息に情報を隠して人間の尊厳を蹂躙する東電の資本の論理に激怒した。
 
  それと同質の怒りが市民選挙の運動に献身した末のものとして、今、私の内にある。同時に、市民選挙に大きく期待した自分の不明に対する失望感も大きい。
 
労働者として会社の理不尽と対決した際には、私にはそれなりの予想と覚悟があった。しかし、あなたの私に対する仕打ちは、まったく予想もできない突発の事態で、訳のわからなさに情けないとしか言いようがない。今冷静に考えると、あなたのやり方は、公権力や資本以上に陰湿で酷薄というしかない。
 
かつて会社とたたかった際には、さまざまな人間模様を見せつけられた。味方であったはずの人の引き方、保身のために会社側に加担した人、保身のために事態を見て見ぬ振りをした人も多かった。そして私に味方してとばっちりを受けた少数の人もいた。このたびの件では、その既視感を禁じ得ない。
 
何度でも繰り返すが、あなたはボランティア参加者を人格ある人間としてみることができない。あなたは市長ではなく、私は市の職員ではない。にもかかわらず、あなたは、私たちをあたかも将棋の駒か兵隊のようにしか見ることができない。問答無用で、人に命令ができると考えている「人にやさしくない」その体質こそが、問題なのだ。
 
あなたには心に銘記していただきたい。一寸の虫にも五分の魂がある、ということを。あなたから、任務を外された二人の候補者随行員とも、虫けらではない。五分よりは遙かに大きな魂をもっている。ボランティアとして運動に参加した人の一人一人がそのような魂をもっていることを理解していただきたい。
 
私に対する「命令」の撤回と謝罪なくして、あなたには人権も民主主義も語る資格はない。あらためて、速やかに「命令」を撤回し、「市民が市民に「命令」する権限などない」ことを確認する意味で自らの非を認めての誠実な謝罪を求める。
醍醐聰氏(東大名誉教授・会計学)が「人にやさしい東京をつくる会」(とりわけ同会弁護団の「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解)批判の第3弾として本日付け(1月11日)で下記の記事をアップされています。
 
新旧宇都宮陣営は問題の重大性を自覚すべきである(1)
(醍醐聰のブログ2014年1月11日)
新旧宇都宮陣営は問題の重大性を自覚すべきである(2)
(醍醐聰のブログ2014年1月11日)
 
なお、これまでの醍醐氏の「人にやさしい東京をつくる会」批判は以下のとおりです。
 
宇都宮健児氏を支持する前にやるべきことがある(1)
(醍醐聰のブログ 2014年1月4日)
宇都宮健児氏を支持する前にやるべきことがある(2・前篇)
(醍醐聰のブログ 2014年1月4日)
宇都宮健児氏を支持する前にやるべきことがある(2・後編)
(醍醐聰のブログ 2014年1月4日)
宇都宮健児氏を支持する前にやるべきことがある(3)
(醍醐聰のブログ 2014年1月4日)
 
旧宇都宮陣営の選挙運動支出に関する法的見解は真実の証明になっていない(1)(醍醐聰のブログ 2014年1月7日)
旧宇都宮陣営の選挙運動支出に関する法的見解は真実の証明になっていない(2)(醍醐聰のブログ 2014年1月7日)
 
詳細は上記の醍醐氏のブログの頁を開いてお読みください。
昨日(1月10日付け)の弊ブログの「澤藤統一郎氏の『吾レノ論ヲ『利敵行為』トイフ論二応フルノ書』」という記事に下記のようなコメントがつきました。
 
澤藤統一郎氏の宇都宮氏一派(と云わせて頂きます)批判は、背水の陣を敷かれた上でのことと思われます。 自分は如何に非難されようとも、また、如何に敵対されようとも、「一寸の虫にも五分の魂」の名言どおりに、護憲・民主を掲げる陣営中の「獅子身中の虫」を退治すべく勇気を振るい立ち上がられたのでしょう。
 
でも、ネットを少し観ましても、氏の心中を察している方は、少数のようで、旧宇都宮選対の三弁護士に依る「弁明」で事は済むが如く言われている方々も居られるようです。
 
でも、これは、見込み違いです。 ことは、公職選挙法の解釈・適用を巡る法律問題です。当該法令は、言うまでも無く行政法です。行政法は、各種の行政分野に渡り多くの法令があり、如何に弁護士と云えども、これ等行政法全てに通じておられる方は居られません。中でも、公職選挙法は、その行政実例と解釈例規に通じて、更には、判例に通じ無ければ、精確に理解が出来ない法令です。 通常は、弁護士は、民事関連法令には通じた方々ですが、技術的な行政法令には、通じておられる方は多くは居られません。
 
私事ですが、或る地方官庁に在職の折に、宅地開発関連の一部門に弁護士の方が来庁されて、依頼者よりの案件に関して折衝を受けたことがありますが、開発関連の諸法令を全く理解されておられず、一方的な主張をされることに閉口したことがあります。ところが、今回の件では、澤藤統一郎氏は、当該法令と、何よりも関連判例を調査されて、御自身のブログで的確に説明もされておられます。
 
醍醐聡東大名誉教授の御指摘と相まって、当該法令に関しての理解では、勝負はついたものと思っております。更に、若し仮に、宇都宮氏が当選されれば、その時点で地獄を経験されることを覚悟されないといけないでしょう。
 
即ち、地方自治法に依り、議会で百条委員会が設置されて、公職選挙法違反の事実の有無と関連事実を詳細に調査されるでしょう。これには、選挙に於いて、都職員労働組合が果たした役割等の調査も加わり、ことは、宇都宮選対関連の事実調査だけでは済まなくなり、議会では、あらゆる機能が停止し、予算を始めとして全ての議案は議決されない異常事態となることでしょう。
 
矢張り、護憲・民主を掲げられるならば、身を慎んで居られるべきでした。 今でも遅くはありません。 宇都宮氏は、立候補を取り下げられるべきでしょう。(とら猫イーチ「宇都宮氏は立候補を取り下げられるべきでしょう」 2014/12/05)
 
上記のコメントはやはり昨日の澤藤統一郎弁護士の「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその21」という記事の冒頭で次のように取り上げられている人のものです。
 
当ブログにおける訴えを「私憤・私怨」と誹り、これで問題を片づけようという宇都宮陣営の姿勢を情けないものと思う。
 
とあるブログに、下記の発言が掲載されていることを教えられた。筆者がどなたかは存じないが、引用をお許しいただきたい。
 
「宇都宮氏擁護のための「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」を一読して失笑してしまいました。何の反論にもなっていないのみ為らず、澤藤氏の批判を「私憤、私怨」に依るものである、とこれが、弁護士の「論理」か、と疑うような記載があったからです。凡そ、弁護士に依る論説とも思えません。 これを書かれた弁護士諸子は、冤罪を償うべく国家賠償を請求される無実の人に「私怨」を晴らすのは罪とでも云われるのでしょうか。 或いは、公害病に苦しむ患者を代理して公害企業に被害を償うべく訴訟を提起することは、「私怨」を晴らすことに為り出来ない、と云われるのでしょうか。法学徒ならば、イェーリング(Rudolf von Jhering)の次の言葉を知っているのか、と問わねばなりません。 即ち、「人格そのものに挑戦する卑劣な不法、いいかえれば、その実行の着手の仕方のうちに権利の無視、人格的侮辱といった性質をもっているような権利侵害に対する抵抗は義務である。 それは、権利者の自分自身に対する義務である」と。澤藤統一郎氏は、この自己に課せられた義務を果たそうと「権利のための闘争」(Der   Kampf ums Recht)に立ち上がられたのです。
 
我が意を得たり、と快哉を叫びたい思い。
 
上記のコメントの投稿者のとら猫イーチ氏はそのコメントから察するところかつて行政の現場で自治体行政関連の法律実務を担われていた人のようです。

そういう人の「今回の件では、澤藤統一郎氏は、当該法令と、何よりも関連判例を調査されて、御自身のブログで的確に説明もされておられます。醍醐聡東大名誉教授の御指摘と相まって、当該法令に関しての理解では、勝負はついたものと思っております。 更に、若し仮に、宇都宮氏が当選されれば、その時点で地獄を経験されることを覚悟されないといけないでしょう」。

「即ち、地方自治法に依り、議会で百条委員会が設置されて、公職選挙法違反の事実の有無と関連事実を詳細に調査されるでしょう。これには、選挙に於いて、都職員労働組合が果たした役割等の調査も加わり、ことは、宇都宮選対関連の事実調査だけでは済まなくなり、議会では、あらゆる機能が停止し、予算を始めとして全ての議案は議決されない異常事態となることでしょう」という指摘です。

澤藤統一郎弁護士(法律家)の指摘、醍醐聡東大名誉教授(会計学)の指摘と相俟って今回のとら猫イーチ氏(自治体行政・法律実務)の指摘は鼎(かなえ。円形三足の器)の論をなしているように私には見えます。

鼎2
鼎  

以下、澤藤統一郎氏の「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその20」の抜粋です。私は、この論を「吾レの論ヲ『利敵行為』トイフ論二応フルノ書」と仮題として題することにします。お読みいただければその理由はおわかりいただけるものと思います。
 
「見知らぬ人の意見の典型パターンは、次のようなもの。/「既に本人が出馬を決め社共が支持を表明した。選挙運動は事実上始動して後戻りのできない事態となっている。ベストの候補を得難いことは分かりきったこと。宇都宮候補は他と比較してベターなのだから、宇都宮候補を推すしか選択肢はない。いまだに批判を継続するのは利敵行為ではないか」/この意見は筋が通っている。良識にもとづく真っ当な見解と言ってもよい。(略)しかし、今私はこのような「良識的見解」と闘っているのだ。/この種の意見は正しいからこそ厄介だ。批判しがたい論理の正しさの中に、実は大きな副作用を内在させている。ベターなるが故に推すべしとされる候補者の諸々の欠点や問題点への批判を封殺してしまうという副作用。この副作用の重大さは、「良識的見解」本体の本質的欠陥と指摘せざるを得ない。
 
「ベターな候補を推すべきだ」という考えは、「小異を捨てて大同に就くべし」と、小異を唱える者に「異」の意見を捨て去るように要求する。ベターな候補の欠点に目をつぶることを強要して批判を許さない。要するに、宇都宮候補への批判を封じることになるのだ。/「利敵行為を許すな」は、実は恐ろしい言葉だ。「利敵」という言葉に怯まぬ者はない。敵は、大きな敵ひとつに絞られ、その余はすべて「味方」とされて批判を許されないものとされる。結局は、「味方」内部の異論を許さず、思想や行動の統制と統一とを強要する。/ベターな候補を推すための味方内部での統制を正当化する論理が、「味方全体の利益」あるいは、選挙に勝つことの利益が候補者批判に優先する、ということになろう。はたしてそれでよいのだろうか。
 
私の嫌いな言葉が、「小の虫を殺して大の虫を生かす」というものだ。私はいつも、「小の虫」の側にいる。大の虫のために殺されてたまるものか。(略)「大所高所から考えろ」「大局を見よ」「利敵行為をするな」という人は、例外なく、弱者の側、被害者の側にのみ譲歩を求める。「小の虫なんだからしかたがない」「邪鬼が踏みつけられるのは宿命」として、弱者・被害者に我慢を強いるのだ。積極的に、被害者に泣き寝入りを強要しているに等しい。/人権侵害は、国家権力ばかりがなしうるものではない。社会を多重多層に構成している部分社会のそれぞれに小さな権力があって、その小さな権力が弱者の権利を侵害する。弱者の立ち場にあるものは、何層もの小さな権力と闘わねばならない。それぞれの局面での大局論、利敵論は体制の論理であって、権利を侵害された弱者の側の論理ではない。
 
だから、「大局的見地に立て」と言われても、「利敵行為」と言われても、また「ベターな候補者を推すべきだ」と言われても、私はけっして黙らない。宇都宮君と宇都宮選対の薄汚さを私なりのやり方で、告発し続ける。(略)世の中には、そのような「物わかりの悪い」人間が必要なのだ。」
 
私もそう思います。
 
というよりも、社会の変革、あるいは弱者の立場に立つ国政の変革というより大局的、かつ、根源的な見地に立てば、むしろ澤藤氏の論こそが正統な論というべきでしょう。「利敵行為」論、いわれるところの「大局的見地」論はけっして真の意味での大局的見地の論ということはできない。みせかけの「利敵行為」論、「大局的見地」論にすぎない、というべきだろうと私は思います。「薄汚さ」は「薄汚さ」でしかない。それを「世間知」「処世術」のようにいう者を私は唾棄する。世の中にはそういう「物わかりの悪い」人間が必要なのだ、と私も思います。
元首相の細川護煕氏が小泉純一郎とタッグを組んで東京都知事選に出馬するといううわさがあります。かなり信憑性の高いうわさのようです。この細川護煕の東京都知事選出馬をどう見るか。
 
まず報道から。
 
【都知事選】細川元首相が出馬を検討 小泉氏と「脱原発」で連携模索
(産経新聞 2014.1.9)
 
東京都の猪瀬直樹前知事の辞職に伴う都知事選(23日告示、2月9日投開票)をめぐり、細川護煕元首相(75)が出馬を検討していることが9日、複数の関係者への取材で分かった。細川氏の側近は産経新聞の取材に対し「出馬の可能性は五分五分だ」と話している。首相経験者で知名度の高い細川氏が名乗りを上げれば、選挙戦の構図が一変する可能性もある。
 
細川氏は熊本県知事を2期務めた後、日本新党を結成。平成5年8月から6年4月まで首相として非自民8党派による連立内閣を率いた。10年に還暦を区切りに政界を引退し、陶芸家として活動していた。東日本大震災後は、「反原発」の立場でメディアなどで発言を行うようになっていた。
 
細川氏は立候補する場合には無所属で、「脱原発」を争点に幅広い支持を得たい意向で、小泉純一郎元首相との連携を模索しているという。民主党が今年に入って出馬を打診したが、固辞していた。
 
都知事選をめぐっては、舛添要一元厚生労働相(65)が出馬の意向を表明。このほか、元日弁連会長の宇都宮 健児氏(67)、元航空幕僚長の田母神俊雄氏(65)らが記者会見などで立候補を表明した。
 
次に細川護煕出馬の評価について。2本記事をあげておきます。
 
第1。「kojitakenの日記」から(抜粋)。
 
細川護煕出馬説濃厚に「小沢信者」が狂喜乱舞の醜態(呆)
(kojitakenの日記 2014-01-10 )
 
赤字ボールドにした部分(引用者注:「小泉と並んで小沢一郎も支援するとかいう話がある」)を読んで、私は「生活の党」という泡沫政党が、宇都宮健児を真っ先に推薦するだろう(引用者注:1年前の都知事選では生活の党は宇都宮支持でした)という私の予想に反して今まで動かなかった理由がわかった気がした。民主党などは一昨日舛添を推していた極右の松原仁が昨日は細川にエールを送っていたし、生活の党ともども前回の都知事選で宇都宮健児を支援した菅直人も、細川護煕応援の旗幟を鮮明に打ち出した( http://ameblo.jp/n-kan-blog/entry-11746489362.html )。民主党主流派、小沢一郎(生活の党)、菅直人という「呉越」ならぬ「三すくみ同舟」というか「オール民主党」支援の構図には呆れてしまう。もちろん、細川護煕の最大のバックは小泉純一郎であるが、小泉はともかく細川にとっては民主党だの小沢一郎だのに支援されて「色」がつくことを警戒して、あくまで「無所属」を押し通すだろう。自民党の「色」がつくのを嫌っている舛添要一と同じである。「色」がつくことによる悪影響は自民党より民主党の方がずっとひどいからなおさらである。
 
細川護煕、小泉純一郎、小沢一郎の「老害トライアングル」でまとめるつもりだったのに収拾がつかなくなりそうだが、昨夜の報棄て(引用者注:報道ステーション)を見ていたら、細川護煕出馬への流れが強まったことを報じるニュースを、同番組で古舘伊知郎のサブを務める女性アナウンサーの小川彩佳が嬉しげに読み上げていた。
 
この番組は、前の市川寛子の頃もそうだったが、局(テレビ朝日)や古舘伊知郎が気に入ったニュースを、女性アナに笑顔で読み上げさせるという悪弊があり、古舘の価値基準と私のそれは大いに異なるため、私はいつも腹が立つのだが、昨夜もそうだった。どうやらテレビ朝日や古舘は細川護煕の後押しをしそうな悪寒がする。
 
「細川、小泉、小沢、民主、古舘」にすると、誰かさんの大好きな「ペンタゴン」になってしまうのだが、植草一秀は一昨日(8日)、「都知事選で最も深刻な問題は主権者勢力の人材枯渇」と書いていた。植草は、
 
舛添、宇都宮、田母神での選挙になるなら、やる前から勝負はついている。
 
と書いている。このことは、植草が信奉する小沢一郎が宇都宮健児を推すつもりがないことを示している。今後の植草のブログが注目される。
 
なお、id:ichikawa123さんの予想に反し、「小沢信者」の多くは小泉純一郎へのアレルギーなど何もなさそうである。たとえば、『ハイヒール女の痛快日記』とかいう「小沢信者」のブログは、「小沢、小泉、細川のトライアングルで細川護煕新都知事誕生!」などという開いた口が塞がらないタイトルの記事を書いている。本文は読まなくてもわかるから読んでいない。「小沢信者」には主義主張や思想信条の持ち合わせなど全くなさそうだ。かつて小泉純一郎を批判していたのも、単に周りのブログがみな小泉を批判していたから「付和雷同」しただけの話であろう。
澤藤統一郎弁護士や醍醐聰東大名誉教授ほかの「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」問題、「人にやさしい東京をつくる会・運営会議」批判問題をいまもなお理解しない「革新や左翼を標榜する」人々に対して下記のようなコメントがありましたのでご紹介させていただこうと思います。
 
私も「同調圧力で少数者を切り捨てる」ことに「政治的スローガンに隠れて」、すなわち、「政治的スローガン」を盾にして、違和感すら持たず、抗議しようとする意志も持ちあわせない人々に対して「満身の怒り」を覚えます。「倶に天を戴かず(不倶戴天)」(「礼記」曲礼・上)の思いです。
 
「澤藤氏は、民主主義の内実を根底から問いかえし、いわゆる革新や左翼を標榜する勢力のなかに、同調圧力で少数者を切り捨てる、民主主義とは相容れない状況があることを明らかにしました。政治的スローガンの影に隠れて不正義を行っている人々に満身の怒りを覚えます。一人一人が民主主義を作り出してこなかったこの国の、危機的状況です。

沖縄の市民からは本土の「差別」が厳しく告発されていますが、まさに沖縄に住む人々の私憤です。この事が理解できない人が、物分り良く沖縄の基地問題を口にします。「私憤」に端を発する問題を矮小化する人が何と多いことでしょう。自らの差別性に鈍感か、もしくは、見たくないからでしょう。

澤藤氏、醍醐氏に告発されている人々は、未だ沈黙を守っています。沈黙を許しているのは、我々です。彼らが二度とリベラルや左翼の装いで現れてこないように、見守りましょう。」(Rocky 2014/01/09
 
いまだに下記のような配信をして自らの「政治的立場」を正当化し、合理化しようとしている人々がいます。澤藤統一郎弁護士らによって問われている問題の「本質」をまったく理解していない、また理解しようともしない自己合理化の論、すなわち詭弁の論の典型というべきであろう、と私は思います。
醍醐聰氏(東京大学名誉教授)は4日前の1月4日に「人にやさしい東京をつくる会」(東京都知事選での宇都宮陣営の選挙母体)の組織運営のあり方とその道義性に疑問符を突きつける下記のような批判記事を書かれていました。
 
宇都宮健児氏を支持する前にやるべきことがある(1)
(醍醐聰のブログ 2014年1月4日)
宇都宮健児氏を支持する前にやるべきことがある(2・前篇)
(醍醐聰のブログ 2014年1月4日)
宇都宮健児氏を支持する前にやるべきことがある(2・後編)
(醍醐聰のブログ 2014年1月4日)
宇都宮健児氏を支持する前にやるべきことがある(3)
(醍醐聰のブログ 2014年1月4日)
 
その醍醐氏が今度は7日付けで同会弁護士団(中山武敏氏、海渡雄一氏、田中隆氏の3弁護士)の「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」なる文書を批判する以下のような記事を書かれています。
 
旧宇都宮陣営の選挙運動支出に関する法的見解は真実の証明になっていない(1)(醍醐聰のブログ 2014年1月7日)
旧宇都宮陣営の選挙運動支出に関する法的見解は真実の証明になっていない(2)(醍醐聰のブログ 2014年1月7日)
 
醍醐聰氏はいうまでもなく「財務会計」をご専門とする会計学者、「財務会計」のエキスパートです。その醍醐氏の目から見た先の東京都知事選収支報告書記載に関する宇都宮陣営(「人にやさしい東京をつくる会」)弁護士団の「法的見解」批判です。専門的立場からの批判と見てよいでしょう。私の前エントリ記事とも問題意識が重なるところも多いため参考としてその記事の存在を示しておきたいと思います。詳細は上記の醍醐氏のブログの頁を開いてお読みください。
がっかりしたという体のものではありません。 激しい怒りがこみあげてきました。「人にやさしい東京をつくる会」の中山武敏氏、海渡雄一氏、田中隆氏3弁護士の連名による「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」という澤藤統一郎さん(昨年の12月20日に同会運営委員を「だまし討ち」解任されるまでやはり同会の会員・弁護士でした)の昨日段階で17回を数える「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」という「宇都宮健児君」「宇都宮選対」「人にやさしい東京をつくる会」批判に対する反論文書を読んだときの私の感想です。
 
その3氏による澤藤氏批判の「法的見解」は「1 はじめに」で次のように言います。
 
「同ブログ「宣戦布告」第1弾で、同氏自身が「『宣戦布告』の動機の半分は私憤です」と記載し、自ら私憤で宇都宮健児氏や上原公子選対本部長(当時)を攻撃していることを自認している。澤藤氏は弁護士であるが、法律家は事実と法律に基づいた法的主張をなすべきであり、私憤に立脚する同氏の主張が恣意的なものであることはこの点からも容易に察せられる。」
 
自らの主張を「法的見解」と名づけながら、そしてさらに澤藤氏を「澤藤氏は弁護士であるが、法律家は事実と法律に基づいた法的主張をなすべきであ」ると批判しながら、自らは「法的見解」とはいうべくもない「私憤」という法外な批判から始めるのです。澤藤氏が以下のようにその「法的見解」の反批判をするのも当然というべきでしょう。
 
「「見解」は、私が「『宣戦布告』の動機の半分は私憤です」と言っていることを捉えて、「私憤に立脚する同氏の主張が恣意的なものであることはこの点からも容易に察せられる」と言う。しかも、この「非法律的論点」について、不自然なまでの紙幅を割いている。これが、何か私の主張に対する「法的な」批判となっているとお考えなのだろうか。「私憤」と「主張が恣意的」とは無関係。主張そのものに対する批判が困難なので「私憤」を持ち出したに過ぎない。」(「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその17」)
 
さらに「私憤」とは澤藤氏によれば本来次のようなものです(前の記事でも引用しているものですがもう一度繰り返しておきます)。
 
「さらに、『私怨論』というべき批判がある。私が、自分の息子のことだから、怒っているのだという指摘だが、これが『批判』になり得ているのだろうか。不当な権利侵害があれば、被害者側に『私怨』『私憤』が生じるのは当然だ。『私怨』論は、傍観者の自己正当化の理屈でしかないだろう。『大所高所』論に対応するには、『私怨』『私憤』重視論である。私は、人権侵害を批判するには、被害者の『私怨』『私憤』に共感する感性が必要だと思う。」(前掲「その11」)
 
さらに上記にいう「大所高所」論とは次のようなものです。
 
「『大所・高所』論とは、弱者の権利救済をネグレクトし、泣き寝入りを強いることを合理化する論理だと私は思う。将の論理であって、兵の論理ではない。体制の側の論理であって、弱者の側の論理ではない。『大所高所』論には、個別の権利侵害に対する怒りで対抗しなければならないと思う。」(同上)
 
「不当な権利侵害があれば、 被害者側に『私怨』 『私憤』 が生じるのは当然だ」。それをさも問題であるかのように言挙げする論理(すなわち、「法的見解」の論理)は「弱者の権利救済をネグレクトし、泣き寝入りを強いることを合理化する論理」「体制の側の論理であって、弱者の側の論理ではない」と澤藤弁護士は反批判しています。蓋し、当然な反批判というべきでしょう。
 
次のような反批判もあります。
 
「宇都宮氏擁護のための「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」を一読して失笑してしまいました。何の反論にもなっていないのみ為らず、澤藤氏の批判を「私憤、私怨」に依るものである、とこれが、弁護士の「論理」か、と疑うような記載があったからです。凡そ、弁護士に依る論説とも思えません。 これを書かれた弁護士諸子は、冤罪を償うべく国家賠償を請求される無実の人に「私怨」を晴らすのは罪とでも云われるのでしょうか。 或いは、公害病に苦しむ患者を代理して公害企業に被害を償うべく訴訟を提起することは、「私怨」を晴らすことに為り出来ない、と云われるのでしょうか。法学徒ならば、イェーリング(Rudolf von Jhering)の次の言葉を知っているのか、と問わねばなりません。 即ち、「人格そのものに挑戦する卑劣な不法、いいかえれば、その実行の着手の仕方のうちに権利の無視、人格的侮辱といった性質をもっているような権利侵害に対する抵抗は義務である。 それは、権利者の自分自身に対する義務である」と。澤藤統一郎氏は、この自己に課せられた義務を果たそうと「権利のための闘争」(Der   Kampf ums Recht)に立ち上がられたのです。(とら猫イーチ2014.01.07
 
これも宜なるかなというべき反批判というべきでしょう。中山武敏氏、海渡雄一氏、田中隆氏3弁護士による「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」はおよそ「法的見解」にはなっていないのです。とら猫イーチ氏ならずとも「失笑してしま」う体のものでしかありません。私ははじめにこの「法的見解」を読んで「激しい怒りがこみあげてきました」と書きました。「法的見解」になっていないばかりでなく、「私憤」を持ち出しながらその「私憤」批判にもなっていない。「私憤」というものの本質性。「私的な深い憤りの感情こそが、この世の不当な仕打ちを是正して、すべての不合理を正そうとする行動の原動力となる」ことの意味を3氏が3氏とも法律家でありながらまったく理解していないのです。私が「激しい怒りがこみあげてき」たというのはそういうことなのです。
 
「法的見解」はさらに「2 選対本部長等が報酬を受領していたとの主張について」に続いていきますが、以後の反批判は澤藤弁護士の「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその17」で簡潔周到に述べられていますのでその反批判に譲りたいと思います。私はただ私も先の都知事選における宇都宮選対の収支報告書に添付されている「選挙報酬として」上記(100,000円)正に領収いたしました、という上原君子氏の領収書の写しを所持しているということだけをつけ加えておきたいと思います。いうまでもありませんが、「選挙報酬」と「法的見解」の弁解する「交通費等のごく一部の実費弁償」は当然異なります(あえて書き加えておきますが、それがほんとうに「交通費等」であるならば、「但」書き欄には「選挙報酬として」という記載ではなく「交通費等として」と記されているはずです)。そのことをひとつ見ただけでも「法的見解」の「非法的見解」性は明白というべきでしょう。
取り上げるには値しない馬鹿げた論にすぎませんが、どんなに馬鹿げた論であっても「宇都宮氏擁立」を支持する論であればいまのこの時機、その論の誤りを指摘せざるをえません。いま、「宇都宮氏擁立」を支持することは来月の2月に差し迫った(告示日は1月23日)2014都知事選で革新・リベラル勢力が勝利することを放棄することに等しい、と言わなければならないからです。
 
宇都宮氏は前回の都知事選では前都知事の猪瀬直樹の4.48分の1しか得票することしかできず、かつ、今回は、そうした都民の支持度の実態の問題に加えて、先の都知事選では宇都宮陣営であったその革新・リベラル勢力の内部の少なくない人たちからも強い批判を浴びています。こうした革新・リベラル勢力内での状況では、どちらの側の議論が正しいのか、そうした議論の正当性の如何の問題とは関係なく、宇都宮氏が勝利する見込みはまったくないというほかありません。仮に宇都宮氏が革新・リベラルを代表する候補者となったとしても、保守勢力側はこの革新・リベラル勢力内での宇都宮氏批判の議論を対立候補を落選させる手段として抜け目なく利用するに違いありません。そういうことも目に見えています。
 
いま、革新・リベラル勢力が都知事選で勝利するためには、一日も早く態勢を立て直して、きたるべき都知事選に勝利することのできる、そして、革新・リベラル勢力の候補者としてふさわしい候補者を早急に確立・擁立する以外ありません。
 
反論の中で引用した先の都知事選で宇都宮弁護士が立候補を表明した際に同時に発表された「<声明> 新しい都政に何を求めるか」(21頁)は、いま読み直しても清新で、「声明」賛同者の革新都政を実現しようとする深い情熱が伝わってくるものです。この歴史的文書としての「声明」を読み直して私たちは初心にかえるべきだろう、とつくづく思わざるをえません。このエントリになんらかのとりえがあるとすれば、「<声明> 新しい都政に何を求めるか」を改めて起こしたことでしょうか。