最近、あるメーリングリスト経由で次のような衆議院の緊急院内セミナーの案内メールが発信されてきました。

緊急院内セミナー「どうする? 放射線による健康被害への対応-市民・専門家による提言」
日時:3月7日(木)12:30~15:30
会場:衆議院第一議員会館 多目的ホール(190名)
※12:00からロビーにて入館証を配布します。
資料代:500円

福島の子どもたちから新たに甲状腺がんが見つかりました。甲状腺がんと診断されたのは、これで2011年度中に受診した原発周辺13市町村の3万8114人中、3人となり、他に7人が甲状腺癌が疑いがあるとされています。福島県側はいち早く福島原発事故との因果関係を否定(強調は引用者)。しかし、これでよいのでしょうか。

脱原発運動、あるいは反放射能(線)運動関連メールとしてはとりわけ変哲のないメールといってよいのかもしれません。しかし、私は、その文面にある「福島県側はいち早く福島原発事故との因果関係を否定」というフレーズの部分に3・11以後の脱原発運動に関わっている人たち、その少なくない人たちが共通して陥っているある種の陥穽のようなものを感じずにはいられませんでした。その陥穽とは、この後すぐにでも述べる今回のあらたな甲状腺がん患者2人の発見に関して「被曝の影響は考えにくい」(朝日新聞 2013年2月13日)と述べた福島県立医大の鈴木真一教授の発言を「被曝との関係はない」という発言に歪曲して批判するたぐいの思考方法、あるいは思考回路(自らの立ち位置を「絶対正義」とでも思いなして立ち振る舞う一種の逆説的なボナパルティズム)のようなものを指してそう言っています。


原発現状 
福島第1原発(現在)

そのことをもう少し具体的にいえば下記のようになるでしょう。その案内メールの発信者に向けて問題提起の形で述べたものです。

福島第1原発事故及び同事故後の政府の対応は被災者の補償の問題(「避難の権利」とその保障の問題を含む)、被災地の除染の問題、避難区域の基準の問題、原発再稼働問題を含む今後の災害管理計画の問題、原子力規制委員会の非民主制の問題、国連人権理事会特別報告者アナンド・グローバー氏が先に福島に訪れて発表した被災地住民の「健康を享受する権利」の問題、福島県内の放射線調査、健康調査の不十分性の問題などなどどれひとつとっても不十分、不徹底きわまるものであり、そのひとつひとつの政府と行政の対応は逐一批判されてしかるべきものです。

しかし、その批判は、正確な根拠とそれゆえの道理にもとづいてなされるべきものでなければ多くの人々を説得することはできないし、また、多くの人々の共感をうるところにもなりえないでしょう。

青木さんは下記(こちら)の批判で「福島の子どもたちから新たに甲状腺がんが見つかりました。(略)福島県側はいち早く福島原発事故との因果関係を否定」と書いておられますが、この批判は正確な根拠にもとづく批判とはいえないように思います。

メディアはこの問題について次のように報道しています。

「『(事故後1年半から2年の)今の調査では、もともとあったがんを発見している』とし、福島第一原発事故による影響を否定した。ただ、『断定はできない。きっちり見ていく』とも述べた。/検討委の山下俊一座長は『人数だけ見ると心配するかもしれない。しかし、20~30代でいずれ見つかる可能性があった人が、前倒しで見つかった』との見方を示した。」(「新たに2人甲状腺がん 県民健康管理調査」 福島民報 2013/02/14)

「福島県立医大の鈴木真一教授は『甲状腺がんは最短で4~5年で発見というのがチェルノブイリの知見。今の調査はもともとあった甲状腺がんを把握している』と述べ、福島第1原発事故による放射線の影響を否定。一方で『断定はできない。これからきっちり検討していく』とした。」(「福島、新たに2人が甲状腺がん 放射線による影響否定」 共同通信 2013/02/13)

なお、山下俊一氏と鈴木真一氏の13日の記者会見の模様とその内容は下記のビデオでも確認することができます。

第10回福島県健康管理調査 記者会見(37分)

上記の福島民報、共同通信の記事とも「福島第1原発事故による影響を否定」の部分は記者の地の文です。実際の「福島県側」(この場合は鈴木教授)の発言は「断定はできない。きっちり見ていく」(福島民報)、「断定はできない。これからきっちり検討していく」(共同通信)というものです。すなわち、実際には「福島県側」は「福島原発事故との因果関係を否定」しているのではなく「断定はできない」と現段階での因果関係の判断を保留しているというのが実相です。私は鈴木氏のこの発言は現段階において科学者としてとりうる当然の態度の表明というべきであり、なんら批判に値するものではないと思います。

それを事実上「福島原発事故との因果関係を否定」したことに等しいなどとして批判するのは「正確な根拠」にもとづく批判とは言い難く、逆に相手の論法を捻じ曲げて批判するに等しい行為だと非難されなければならない非論理のように思います。

先に私は「『100万人に1人のはずの子どもの甲状腺がん 福島で4万人中3~10人』という福島県・県民健康管理調査に関するナンセンスな言説について(「脱原発」の思いは同じですが)」という記事を書いて、その中で引用している徳岡宏一朗弁護士の論理を批判しましたが、徳岡氏はその論理の一環として次のように書いていました。

「これに対して、鈴木教授は/「チェルノブイリでは事故から4~5年たってから甲状腺がんが発生しているので、総合的に判断すると被曝(ひばく)の影響は考えにくい」/と述べています。しかし、同じ記者会見で鈴木教授は/「断定はできない。これからきっちり検討していく」とも述べています。断定できないものを被曝との関係はないと言ってしまうのは極めて不誠実でしょう。」

上記の引用からも徳岡氏は鈴木氏の「被曝(ひばく)の影響は考えにくい」という発言を「被曝との関係はない」という発言に捻じ曲げて、その上で鈴木氏を批判していることがおわかりいただけるでしょう。このような批判では当の鈴木氏はもちろん、当事者ではなくとも公正な目を持つ者のほとんどは説得されないでしょう。

ただ、

現行の福島県県民健康管理調査は、目的が「不安解消」、放射線影響は「極めて少ない」ことが前提となっているのにくわえ、小児甲状腺がん以外の疾病がわかるような項目となっていないこと、対象範囲が狭いこと、本人への情報開示や説明、議論や結果の透明性や開示が十分でないこと

などのご指摘はそのとおりだろうと思います。

私の問題提起がおわかりいただけるでしょうか?

正確な根拠の提示と道理のない批判(少し前までは少し冷静になって考えればすぐにわかるたぐいの明らかなデマが多数ありました。そして、そのデマ情報が次から次へと拡散されてしまう状況が続いていました)がまかりとおっている現状を「脱原発」という待ったなしの課題の達成のためにも私は憂えています。

考えていただきたいことです。

なお、私は、鈴木氏や山下氏の立ち位置や問題視点を擁護しているわけではないことをお断りしておきます。

前エントリに続けてやはり中日新聞の連載記事のご紹介です。今年の1月1日から中日新聞で「大地を汚し、人々の暮らしを奪い、作業員の被ばくが続く。それでも収束がおぼつかない福島事故。これだけの犠牲を強いられてなお、ニッポンの原発ゼロへの道筋は見えない。私たちは「豊かさ」を求め原発を制御するつもりで、逆に原発に支配され、贄(にえ)をささげる僕(しもべ)と化してはいないか。引き際の誤りが何をもたらしたのかは、あの戦争で学んだはずだ。沖縄と福島。原発の灯(あか)りが照らし出す犠牲を考える」(<犠牲の灯り 第1部「ちむぐりさ」>(1) 序章 取材班)連載が始まっています。
 
福島事故。これだけの犠牲を強いられてなお、ニッポンの原発ゼロへの道筋は見えない」という同連載取材班の問題意識は鮮明です。とても参考になる記事ですのでこれも記録としてその記事のウェブアドレスを下記に掲げさせていただこうと思います。なお、同連載は現在進行形で続いています。

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         福島事故で全町避難となった浪江町。津波で流
         れ着いた漁船などが今も残り、町は荒れ放題の
         ままだ(犠牲の灯り 第1部「ちむぐりさ」(8)より)
 
<犠牲の灯り 第1部「ちむぐりさ」>
(1) 序章(2013年1月1日)
(2) 父と子(上)(2013年1月3日)
(3) 父と子(下)(2013年1月4日)
(4) マイホーム(上)(2013年1月5日)
(5) マイホーム(下)(2013年1月6日)
(6) 目覚め(2013年1月7日)
(7) 島の神様(2013年1月8日)
(8) 鎮魂(2013年1月9日)
番外編(上)~沖縄・福島の叫び(2013年1月22日) 
年初から計八回にわたり報じた連載「犠牲の灯(あか)り」第1部「ちむぐりさ」。東京電力福島第一原発事故の収束作業で働く沖縄の作業員や技術者らの姿を通じ、戦後日本の「平和」や「豊かさ」が沖縄や福島の犠牲の上で成り立っていることを描いた。私たちは沖縄や福島の痛みにどう寄り添い、その解決を目指せばよいのか。大田昌秀元沖縄県知事(87)と清水修二福島大教授(64)に聞いた。 (「犠牲の灯り」取材班)
番外編(下)~原発労働 しわ寄せは末端に(2013年1月28日)
鉄骨がむき出しの崩壊建屋、体をむしばむ放射能。事故からまもなく2年、福島第1原発の現場では今も一日3000人が働く。被ばくの恐怖と闘い、過酷な作業を続ける彼らの存在なくして、事故収束はおぼつかない。連載「犠牲の灯(あか)り」第1部「ちむぐりさ」は、その事故現場で、不透明な雇用関係や劣悪な労働環境がはびこっている実態に切り込んだ。原発ピラミッドの底辺で、事故のつけを背負わされる作業員たち。弱者の犠牲の上に豊かさを追い求める格差社会ニッポンの縮図がそこにある。(「犠牲の灯り」取材班)

<犠牲の灯り 第1部「ちむぐりさ」読者からの反響>(2013年2月6日)
沖縄と福島、二つの舞台を通じ、原発がもたらす豊かさの背景に何があるのかを考える連載「犠牲の灯(あか)り」第1部「ちむぐりさ」。年初から計八回の連載と、二回の関連特集に手紙やメールで二百件以上の反響が寄せられた。狭い国土に五十基がひしめく原発列島ニッポン。元下請け作業員は自らの体験を基に「人を人とも思わない」被ばく労働の苦しみをつづり、原発の立地自治体からは「だれかを犠牲にした豊かさや社会を見直そう」という叫びも聞かれた。主な意見を紹介し、肝苦(ちむぐ)りさの精神をあらためて考える。

弓場清孝さん(61)
(2013年2月6日)
中田行洋さん(70)(2013年2月6日)
中島勝さん(43)(2013年2月6日)
浜下直太郎さん(60)(2013年2月6日)
谷内尾豊一さん(71)(2013年2月6日)
鈴木裕規さん(16)(2013年2月6日)
谷勇斗さん(28)(2013年2月6日)
高橋はやみさん(79)(2013年2月6日)
 
<犠牲の灯り 第2部「飯舘 女たちの哀歌」>
子を産み、守り、未来に命をつないでいく。福島第一原発事故は、絶えることなく続いてきた母性の営みをも脅かした。女性たちは母として妻として、放射能の見えない恐怖や一家離散の苦悩と闘いながら今を生きる。「犠牲の灯(あか)り」第二部では、放射能汚染で全村避難を強いられた福島県飯舘村を舞台に、経済至上主義が産み落とした原発が、かけがえのない母性を犠牲にして成り立つ現実を描く。(取材班=寺本政司、酒井和人、杉藤貴浩、角雄記、宿谷紀子、奥村圭吾、写真は畦地巧輝)

(1)安らぎの地(2013年2月25日)
(2)ベゴニアの咲く家(2013年2月26日)
(3)嫁の覚悟(2013年2月27日) (以下、随時追加していきます)
(4)ただちに…ない(2013年2月28日)
(5)二度目の離婚(2013年3月2日)
(6)異国の花嫁(上)(2013年3月3日)
(7)異国の花嫁(下)(2013年3月4日)
(附1)読者からの反響(2013年3月21日)

2013年1月26日付「中日新聞の『日米同盟と原発』という連載記事のご紹介(全37本)」という記事の続き(第2回目)です。

前回記事では「第5回 『毒をもって毒を制す』」(2013年1月23日)までのご紹介でしたが、同紙に第6回「アカシアの雨 核の傘」が2013年2月26日付けでアップされました。今回はその記事のご紹介ということになります。

第6回は「1960年、首相岸信介は、日米安全保障条約の改定を果たす。米ソ冷戦下、新たな同盟関係を結び日本は米国の『核の傘』に入った。『反米』『反核』を掲げ日本中を席巻した安保闘争は岸を退陣に追い込んだが、原発には触れずじまいだった。64年に中国が核実験に成功すると、直後に首相に就いた岸の実弟、佐藤栄作の下で、核兵器に転用可能な原発技術を利用した『潜在的な核保有』がひそかに検討される。原発と核兵器が政権の裏側で結びつく経緯と、その背景を探った」(「第6回『アカシアの雨 核の傘』 (1)昭和の妖怪」より。数字は算用数字に変更しました)ものです。

中日新聞 連載 日米同盟と原発

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1960年6月24日、国会突入デモで亡くなった東大生、
樺美智子さんの「国民葬」と銘打って行われたデモ行進
(中日新聞「アカシアの雨 核の傘」(3)より)

第6回「アカシアの雨 核の傘」
(1)昭和の妖怪(2013年2月26日)
(2)「岸に賭けよう」(2013年2月26日)
(3)最後にほほえみたい(2013年2月26日)
(4)デモは終わった就職だ(2013年2月26日)
(5)「原爆製造は可能」(2013年2月26日)
(附1)安保闘争と原子力をめぐる動き(2013年2月26日)
(附2)原発を核武装潜在力に 64年に首相ブレーン報告書(2013年2月26日)

和光大学教授でジャーナリスト(元朝日新聞記者)の竹信三恵子さんがWEBRONZAに「AKB48丸刈り謝罪、ブラック企業論からの検証を」という論攷を発表されています。

先の記事で「ブラック企業」の問題に触れたついでに竹信三恵子さんのAKB48丸刈り謝罪に関連しての「ブラック企業」考もご紹介させていただこうと思います。

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AKB48丸刈り謝罪、ブラック企業論からの検証を
(竹信三恵子 WEBRONZA 2013/02/06)

AKB48の峰岸みなみさんの丸刈り謝罪に、AKBよ、お前もか、という思いにとらわれている。この事件についてはさまざまな疑問の声も上がっているが、特に気になるのは、今回の事件に、日本のブラック企業文化の影が色濃く感じられことだ。

「ブラック企業」は、社員に過剰な労働を強いたり無理なノルマを課したりして、うつなどの深刻な健康障害や、過労死を引き起こすとして問題化している。今回の丸刈り謝罪は、これらの企業を生む文化的土壌と、次の3点で共通している。

まず、働き手が、仕事のためとして、自傷行為にまで及んでいることだ。ブラック企業についての相談では、社員への罰として社長が社員の髪を切ったり、ノルマを達成できないなら死んでわびろとどなったりするなど、仕事の失敗を社員が体の損傷であがなうことを当然視する例がしばしば見受けられる。今回の丸刈り謝罪でも、「仕事の責任をとるために体を傷つけてもしかたない」という主張が映像を通じて大々的に流され、AKB側もこれを阻止しなかった。

しかも、そうした自傷行為が、「商品だからしかたない」と受け手から「評価」される異様な事態も生まれている。たとえば、朝日新聞2月2日付記事では、この事件にからんで、「事務所にとってアイドルは商品。ブランドコントロールは何よりも重要」として正当化する広報コンサルタントの談話が紹介されている。ここには、体を傷つけずに働ける職場環境を目指す安全衛生の思想や、「労働は商品ではない」という国際労働機関(ILO)の人権の基本はかけらも見えない。

次の共通点は、「組織が命令したわけではなく、当人が勝手に決めたこと」として、組織の責任が不問に付されていることだ。2月1日付朝日新聞朝刊「働く」の欄では、2006年、27歳で亡くなったシステムエンジニア、西垣和哉さんの事例(リンク引用は引用者。以下同じ)を取り上げている。この業界では、人件費節減の中、一人が休むと周囲の仕事が過重になってみなが連鎖的に倒れる「デスマーチ(死の行進)」が頻発し、西垣さんはこれを心配して休めず働き続けたという。熊沢誠・甲南大名誉教授は、このような日本企業の労務管理を「強制された自発性」と呼ぶ。過労死するような働き方を働き手が自発的に行うよう強制することだ。

AKBでは昨年、異性との交際が発覚したメンバーが九州に「左遷」されたとして話題になったが、こうしたみせしめ人事が横行する中で、丸刈りにでもならなければ追い出されるという「強制された自発性」が働いた可能性は否定できない。だが、そうした組織の無言の圧力は「責任感の強いメンバーの自己責任」の言説に、隠されてしまっている。

最後の共通点は、20歳にもなった女性に「恋愛禁止」を言い渡す子ども扱いや、そうした個人の私生活への強い介入の中身の妥当性は問われることないまま、「事前に約束したはず」として、絶対服従を求めていく組織のあり方だ。

ブラック企業では、寝袋を職場に持参させ、仕事が終わるまで返さないといった私生活への極端な介入・管理がしばしば起きている。そんな職場に疲れ果て、退職したいと言うと「正社員として無期雇用で働くと約束したはず」として、やめさせない例が聞かれる。契約の妥当性は問わず「約束したんだから」の一点張りで服従を強いて行く手法だ。「約束したはず」によって公序良俗にもとるような管理が横行するブラック企業の内部に通じる。

ブラック企業は、一部の特異な業界の現象ではない。働き手の暮らしより会社を優先し、「自発的な貢献」を強要する日本企業の労務管理の特質が、市場環境の過酷化や経営者・管理者の力不足の下で極端な形をとって噴き出したものだ。今回の丸刈り謝罪事件は、こうしたブラック企業文化が、エンターテイメント業界という職場で、いびつな花を咲かせたといえそうだ。これを単なるアイドル論としてはやしている限り、目的達成のためには人間の体を傷つけても(ときには死んでも)かまわないという体罰肯定文化と、そうした文化的土壌を背景にしたブラック企業的な働かせ方から脱却することは難しい。その意味で、今回の事件について、ブラック企業文化論からの再検証と論議を期待したい。

 注:「福祉のパラドックス」とは「本当に困っている人」だけを救済しようとする福祉は、「本当に困っている人」さえも救済できなくなるというパラドックスのことをいいます。


「『福祉のパラドックス』を打破するために」の第3弾(注)としてブログ「すくらむ」紙の「生活保護改悪は福祉のパラドックスで『本当に困っている人』さえ救えずブラック企業を増大させる」(2013-02-22)という記事の中で紹介されている唐鎌直義氏(立命館大学教授)の「福祉のパラドックス」に関する講演(要旨)記録を転載させていただこうと思います。唐鎌氏のチャールズ・チャップリンの幼年時代の新救貧法(英国)と現在の「生活保護バッシング」(日本)の類似性の指摘についてはとりわけ感銘を受けました。

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貧しくとも逞しく- 『キッド』のワン
シーン。
ジャッキー・クーガンと。
(『チャールズ・チャップリン』より)


「福祉のパラドックス」とは、唐鎌氏によれば、「本当に困っている人」だけを救済しようとする福祉は、「本当に困っている人」さえも救済できなくなるという意味のようです。私の問題意識とも重なりますのでこのネーミングを私の今回の随時連載記事の標題としても活用させていただくことにしました。


なお、記事中の注(リンク)は読者の参考用として引用者が任意につけました。

注:(1)「福祉のパラドックス」を打破するために(1) ――日本共産党の安倍
   内閣の「インフレターゲット(物価上昇目標)」論への対抗政策としての「賃
  上げターゲット」論(賃上げ・雇用アピール)の提起
(弊ブログ 2013.02.16)

    (2)「福祉のパラドックス」を打破するために(2) ――ある農学生命科学研
   究者の「『ロスジェネ』の味方となる政党待望論」もしくは「『非正規雇用全
   面的禁止』規制論」
(弊ブログ 2013.02.16)

生活保護改悪は福祉のパラドックスで『本当に困っている人』
さえ救えずブラック企業を増大させる

唐鎌直義 すくらむ 2013-02-22)

 いまの日本における生活保護バッシングは、1830年代のイギリスの産業革命期の社会保障にまで後退させかねない危険性を持つものです。

 1834年にイギリスで成立した新救貧法の特徴は次の4つです。

 1つは、労働可能な人間に対する救済はすべて拒否。結果、どんなに悪い労働条件でも労働者は受け入れるほかないという惨状が広がりました。今で言えばブラック企業天国のような労働市場になってしまったのです。

 2つは、被救済者の地位は、働いている人間の中の最下層の生活水準以下にする「劣等処遇原則」を貫くこと。

 3つは、「本当に困っている人」のみを救済するため、劣悪な環境の救貧院に入ること=ワークハウス・テストを実施すること。

 4つは、全国で統一基準の救貧法運営が行われるよう救貧教区の合併、中央集権化をはかること。

 この新救貧法によって、貧困は犯罪と同列とみなされ(強調は引用者。以下同じ)バスティーユ監獄にもたとえられた貧民収容所の惨状をもたらすことになりました。

 チャールズ・チャップリンは、ロンドンの母子家庭で育ち6歳のときに救貧院に収容されています。2人の息子に食べ物を与えるために、自分は食べずに我慢し続けた母親は精神を病み、それでも新救貧法の適用を受けることを拒み続けましたが、家賃の滞納が続いたため大家が警察に通報し、母子別々に収容され、母親は救貧院で亡くなります。

 チャップリンの母親は、なぜ2人の息子に食べ物を与えるために、自分は食べずに我慢し続け精神を病んでまで、新救貧法の適用を受けることを拒み続けたのでしょうか?

 それは、「本当に困っている人」だけを選別して救済しようとする新救貧法で、誰しもが「国家公認の貧民」になって辱めをうけることだけは避けたいと思ったからです。

 「本当に困っている人」だけに新救貧法が限定されたとき、人間としての尊厳を大切にする人ほど、どんなに困窮しても新救貧法を受けたくない、「国家公認の貧民」というレッテルを貼られたくないと強く思うことになってしまうのです。

 こうして新救貧法は、絶望的な困窮に陥っている人でさえ二の足を踏む、できる限り回避すべきものとならざるをえません。これを「福祉のパラドックス」と呼びます。「本当に困っている人」だけを救済しようとする福祉は、「本当に困っている人」さえも救済できなくなるということです。

 それでは、なぜいま生活保護バッシングが日本社会で吹き荒れているのでしょうか? それは健康で一定頑張って働くことができる人たちが生活保護の受給を自分とは永遠に関係のない他人事と考えているからではないでしょうか。しかし、自分が本当に困ったときのことを考えてみる必要があります。困窮し、生活保護の受け手になるほかないような自分を真剣に想像してみてください。

 そもそも、日本には生活保護を受給することに対する根強いスティグマがあります。ヨーロッパでは、このスティグマをなくすために、福祉を「選別主義」から「普遍主義」へと転換してきました。「普遍主義」の福祉というのは誰もが当たり前のように受けられる公的サービスです。たとえば日本ならば「義務教育」を受けることは当たり前の「普遍主義」になっていますから誰もスティグマを感じたりしないわけです。逆に貧困を救済できなかったイギリスの新救貧法はまさに「選別主義」だったわけです。

 フランスにはRMIという「参入最低限所得制度」があります。「参入」というのは、労働市場への「参入」を意味していて、劣悪な労働条件の仕事には就かないことを選択可能にする国が最低生活を保障する福祉制度です。とりわけ、若者の労働市場への「参入」を支える所得保障制度は、雇用の劣化をストップさせる効果を持つと同時に、「失業者」も、所得保障による「保護受給者」も、いま働いている労働者の雇用劣化をストップさせるという一つの社会的地位として受け容れる社会をつくっているわけです。

 いまの日本は、非正規雇用とワーキングプアの増大、そして正規雇用でもブラック企業の横行などによって「働いたら普通に暮らせる社会」になっていません。こうした雇用の劣化を放置したままで、生活保護バッシングをして、「働けるのならば、働け」と、国民に「自立」を求めるこの国の社会保障制度では、孤独死・餓死・自殺などの悲惨な多くの事件を未然に防ぐことはできないのです。
先に私は「辻元清美氏の「小沢一郎」氏評と「未来の党」評(『世界』別冊3月号)についての感想 ――権力に対抗しうる言葉とはなにか」(弊ブログ 2013.02.19 )という記事を書いて「辻元氏の発言は少なくとも権力に対抗する精神から発せられた説得力のようには私には見え」ないと辻元氏の言説の背景にある彼女の政治的エスタブリッシュメント志向の「精神」を批判したのですが、その辻元氏の言説が掲載されていたのが標題にもあるとおり月刊誌『世界』別冊(臨時増刊号)の2013年3月号でした。
 
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『世界』別冊(2013年3月号)

その別冊の表紙には上記の写真に見るような言葉が巻頭言として記されています。すなわち、「政治を立て直す 政権交代とは何だったのか、新しい政治は拓けるか」。そして、その巻頭言をクリックすると次のような同号のガイダンスが現れます。

 
「2009年秋の総選挙で民主党が圧勝し政権交代が実現した直後、私たちは『世界』臨時増刊「大転換──新政権で何が変わるか、何を変えるか」を緊急出版した。あれから3年3カ月、振り子はまたしても大きく振れた。2012年師走の総選挙で自民党が「相対的大勝利」を収め、ふたたび政権についたのは、改憲をライフワークと名言する安倍晋三氏である。/いま必要なのは、まず民主党政権3年間の歴史的意味を総括し、引き継ぐべき成果と課題は何かを改めて考えることである。その延長線上に、新政権が背負うべき課題と方向性を明らかにすることができるだろう。そして、脱原発デモなどにみられる市民のうねりを政党政治にどう接続していくか、つまり「国会」と「街頭」という民主政治の場でどのような動きを起こしていくかという展望が求められる。/与野党のキーパーソンへのインタビューや、市民活動家たちの声なども交え、政治をどう再構築するかを検討する。」(強調は引用者)

この『世界』別冊臨時増刊号の性格について、上記の記事の中でご紹介した「kojitakenの日記」の主宰者の古寺多見さんは次のように指摘していました。
 
「巻頭に山口二郎の論文が置かれていることに別冊の性格が象徴されていて、要するに『世界』編集部による、政権交代を後押ししてきた立場からの民主党政権3年3か月と先の衆院選の総括だ。」(「辻元清美曰く『小沢一郎に政策の理念があったかどうか疑問』」(kojitakenの日記 2013-02-15)

古寺多見氏は上記で同号の性格を「『世界』編集部による、政権交代を後押ししてきた立場からの民主党政権3年3か月と先の衆院選の総括」と特徴づけていますが、さらに蛇足としてつけ加えれば、「巻頭に山口二郎の論文が置かれていることに別冊の性格が象徴されて」いるとは、山口二郎氏(北海道大学教授)は自ら「民主党政権の生みの親」とかつて自称していた「政治学」のプロフェッサーですから同号の性格は現時点でのあらたな「民主党応援歌」である、という批判の意味合いがこめられているでしょう。上記の編集部による同号のガイダンスにも「民主党政権3年間の歴史的意味を総括し、引き継ぐべき成果と課題は何かを改めて考える」とありますからその『世界』のあらたな「民主党応援歌」の性格は明らかというべきでしょう。
 
私はこれも前々の記事でも「日本の右傾化」の侵食の波は「革新」の内部にも押し寄せていることに警鐘を鳴らしておきましたが(*)そのひとつの実例を今回の『世界』臨時増刊号の特集に見ることができます。「民主党応援歌」をいままた歌うことはこれまでの自民党政治をさらに悪質化させた政治勢力の「応援歌」を歌うことにほかならず、すなわち「政治の右傾化」を擁護することにしかならないからです。

1月1日付1月22日付記事でも指摘している新NGO組織NDIの立ち上げも「日本の右傾化」の侵食の波が「革新」の内部にも押し寄せていることへのひとつの例証としてとりあげたものでした。近年、『世界』のほかにも『週刊金曜日』『NPJ』『マガジン9などのいわゆる「革新」メディアもこの侵食の波にさらされ続けています。また、共産党もその被浸食の例外ではありません。こちらの記事(最後の赤字部分参照)がそのひとつの例証になりえているでしょう。それらのことについても私はこれまでたびたび指摘してきました。弊ブログの検索欄に関連語句を記入してリサーチできます。
 
その『世界』別冊3月号の「右傾化」のさまを金光翔さん(元『世界』編集部員。現岩波書店社員。現在、同社の解雇通告の無効を争って裁判を起こしている)が私とは別の角度から指摘していますのでご紹介しておきます(インデント改行、強調は引用者)。
 
西谷修・五野井郁夫「デモは政治を開けるか」 (金光翔 私にも話させて 2013-02-21)
 
『世界』臨時増刊号を拾い読みしていたら、五野井郁夫という人の以下の発言に遭遇して驚いた。
 
「近年のデモの参加者は無理をせず、行ける時に参加しています。また、官邸前の弁護団がよい例ですが、「接見弁護があるから今日は行けません」とか「30分だけ行けます」とかいうのもあります。ここが気にくわないから出て行く、だけれども戻って来られるという、やわらかな共同体。
 
実際、いいことか悪いことかすぐに判断はできませんが、鬱憤晴らしで極右のデモにも行くけど、反貧困のデモにもコアメンバーとして参加するという人が出てきています。どちらも現代社会の犠牲者ではあるわけで、アイデンティティのクラスターが一つだけではなくなっていることは確かです。希望的観測ですが、そうなると世界の見方も複数性を持ってくるから変わるのかなと思います。」(西谷修・五野井郁夫「デモは政治を開けるか」『世界』臨時増刊、第841号、2013年2月)
 
この発言は、この人物のいろいろな点を曝け出している。
 
日本の極右が特定の人々や歴史的事実を排撃していることへの無関心・容認
 
「現代の犠牲者」だと規定することで、その行為の責任性を問わない点に見られる、同情したふりをしながらの若者への蔑視感情

・「反貧困」と「極右」を対立的にしか捉えられない無知。ファシズムや社会排外主義の問題性に関する認識の欠落

極右デモへの参加も「世界の見方も複数性を持ってくる」可能性の一つとして肯定的に捉える破廉恥さ。(運動の幅を広げるためには右翼の参加も許容しなければ、というよくある弁明ではなく(それ自体も問題であるが)、極右デモへの参加がポジティブなものとして捉えられているところに、この五野井の<新しさ>がある)

・主張それ自体としては極右デモへの参加を肯定しているにもかかわらず、「いいことか悪いことかすぐに判断はできませんが」「希望的観測ですが」などと自己弁明する小心さとセコさ(前回記事で書いた、川崎市長のようである)

私が指摘した<佐藤優現象>とは、「佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ」ものであるが(「<佐藤優現象>批判」)、五野井の発言は『世界』のそうした傾向が何ら変わっていないどころか、排外主義への加担を肯定する発言が掲載されているという点で、より進化していることを示していると言えよう。この臨時増刊号で、久しぶりに佐藤が書き手として『世界』に登場していることも示唆的である。

金光翔さんの『世界』別冊の「読み」は私の認識とも共通します。

『世界』別冊(2013年3月号)に元社民党、現民主党衆院議員の辻元清美氏のインタビュー記事が掲載されています。そのインタビュー記事で辻元氏は同誌インタビュアーの質問に応える形で自身の「小沢一郎」氏評と「未来の党」評を次のように述べています。

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『世界』別冊(2013年3月号)

「 -- 小沢一郎さんについてはどう思われますか。民主党政権は小沢さんなしでは樹立できませんでした。

辻元 政権交代には、自民党のやり方を熟知する小沢さんの力が不可欠でした。しかし、小沢さんに政策の理念があったかといえばやっぱり疑問です(強調は引用者。以下同じ)。彼が代表に就いたとき、小泉政権の後の自民党に勝つために、新自由主義的な方向へのアンチテーゼとして社民主義的な政策を旗印にしました。〇九年の民主党のマニフェストも、小沢さんが代表時代に作成したものが元になっていますが、結局小沢さんにとっては、選挙に勝つための『手段』だったのでは。だから大盤振る舞いだった。『実現できるかしら?』と聞くと、『政権とったら何でもできる』と小沢さんは言うばかり。理念があって心からこれを実現したい、実現すべきだと思っていたら、もっとしぶとく粘るはずですが・・・・。3.11後も、あの非常時に小沢さんは『菅おろし』に走りました。そういう小沢さんの政局的仕掛けに党内は振り回されて、反小沢・親小沢という対立軸で動いたようなところがあり、政治がゆがめられてしまいました


-- 小沢さんが仕掛けた未来の党についてはどうでしょう。


辻元 嘉田さんたちは本気で卒原発をやろうとしたのならば、もっと入念な準備が必要です。私は彼女に直接、そうアドバイスもしました。しかし、『卒原発と言っている、本気だ』と小沢さんの政治手法にナイーブに乗ってしまったのでしょうか。嘉田さんは小沢さんから『一〇〇人通ると言われた』と言ったらしいですが、そんな簡単な話ではないというのが、壁にぶつかり続けた私の実感です。小沢さんは嘉田さんというイチゴをショートケーキに乗せて、おいしそうにデコレーションしたわけですが、勝つための手段が今回は卒原発だった、と見透かされてしまったのではないでしょうか。


-- 未来の党に投票した人にすれば、裏切られた思いでしょうね。


辻元 ただ、私はそこに、市民運動のある種のナイーブさもあったと思います。脱原発で、格差を縮めていこう、平和主義を貫こう、そういう政治勢力をつくらなければいけないわけですが、それはそう簡単に即席でできるものではない。時間をかけて、しんどいことも引き受けてねばり強くやらないと、できないと思います。忍耐力が必要なんです。スローガンを叫び、すぐに結果を求めるだけでは実質的に政治を動かし、社会を変えることはできません。今回の結果だけをもって切り捨て続けたら、政党は育たない。」(『世界』別冊2013年3月号「政治を立て直す」54-55頁。「
kojitakenの日記」2013-02-15付より引用)

上記の辻元清美氏のインタビュー発言について「kojitakenの日記」の主宰者の古寺多見さんは次のように評価しています。

「小沢一郎と旧『日本未来の党』についての辻元清美の分析は、非常に説得力がある。(略)私は辻元清美に対しては、賛同できる部分とそうでない部分があるが、氏が日本の政治において今後も存在感を放つ有力なプレーヤーであり続けることは間違いないだろう」、と。

しかし、私の見方は古寺多見さんの見方とは少し異なります。

辻元清美氏の上記の発言は「説得力がある」という古寺多見さんの評価については私もある意味ではそのとおりだろうと思います。しかし、その説得力とはどのような性質の説得力だろうか、と私は思います。辻元氏の発言は少なくとも権力に対抗する精神から発せられた説得力のようには私には見えません

単純化していえば説得力とはリアルにものを見る力のことですから、権力者の側にも昔からリアルにものを見る力のある人は少なくなくいました。私の知るところでいえば田中角栄しかり、後藤田正晴しかり。その種の(政界を泳ぎ渡るための)直観のようなものを彼女一流の政治的カンで身につけた説得力。彼女の説得力とはそういう性質のものではないか。私の辻元清美氏の『世界』誌上における発言の評価はそういうものです。

権力の側の説得力とは本質の問題としていえば被権力者としての大衆を権力に屈服させるための説得力です。かつての池田勇人(元総理大臣)の「貧乏人は麦を食え」発言(実際の発言は少し違うようですがそういう言葉として人口に膾炙しました)は有名ですが、この言葉は明らかに貧乏人に屈服を強いる発言でした。

そして、私がいま設定した「権力の側の説得力」という命題からここですぐに思い出すのは、2007年5月に発表された当時の自民党政府の労働市場改革専門調査会の下部組織として設置された労働タスクフォースの悪名高い「脱格差と活力をもたらす労働市場へ――労働法制の抜本的見直しを」という提言の中にあった言葉です。

その提言には次のように記されていました。

「一部に残存する神話のように、労働者の権利を強めれば、その労働者の保護が図られるという考え方は誤っている。不用意に最低賃金を引き上げることは、その賃金に見合う生産性を発揮できない労働者の失業をもたらし、そのような人々の生活をかえって困窮させることにつながる。過度に女性労働者の権利を強化すると、かえって最初から雇用を手控える結果となるなどの副作用を生じる可能性もある。正規社員の解雇を厳しく規制することは、非正規雇用へのシフトを企業に誘発し、労働者の地位を全体としてより脆弱なものとする結果を導く。一定期間派遣労働を継続したら雇用の申し込みを使用者に義務付けることは、正規雇用を増やすどころか、派遣労働者の期限前の派遣取り止めを誘発し、派遣労働者の地位を危うくする・・・」

上記の言葉ほど権力者の側の思想の本質、そして、そのマヌーバ―性を見事に体現している言葉はほかにあまり例を見ないでしょう。たしかに提言の表面上の言葉としては「労働者の失業」とその「生活の困窮」を憂うる言葉があります。また、「労働者の地位」と「派遣労働者の地位」の「脆弱」化を憂うる言葉も散りばめられています。しかし、そこで主張されていることは「不用意な最低賃金の引き上げ」の反対、「過度に女性労働者の権利を強化する」ことへの反対、「正規社員の解雇を厳しく規制する」ことへの反対でしかありません。こうした言葉のマヌーバーが大衆を権力に屈服させるための説得術として使われるのです。

さて、辻元氏は上記の『世界』インタビューで「小沢一郎さんについてはどう思われますか」というインタビュアーの問いに応えて「小沢さんに政策の理念があったかといえばやっぱり疑問です。(略)結局小沢さんにとっては、選挙に勝つための『手段』だったのでは」と述べていますが、「やっぱり」という疑念を当初から小沢一郎氏に対して持っていたのであれば、なぜ相対的に「理念」の明確だった社民党を離党してまでそうした「理念」のあやふやな政党に入党し直したのか? 辻元氏が民主党に鞍替え入党した2010年9月の時点ではいまだ小沢氏は同党代表選挙で現職の総理大臣であった菅直人氏と国会議員票を二分する党内実力者の位置にいたのです。

私は3年ほど前の「辻元清美の社民党離党 社民党的なものの見方の限界と愚かしさについて」という記事の中で辻元氏の社民党離党に到る行動スタンスを次のように批判したことがあります。

「辻元氏は大阪での離党表明記者会見で『政権交代を逆戻りさせてはならない』『政権の外に出ると、あらゆる政策実現が遠のく』(読売新聞 2010年7月27日)と述べました。辻元氏は自民党政権から民主党政権へと変わった昨年夏の衆院選での『政権交代』を絶対視しすぎているようですが、政権交代で重要なのはいうまでもなく政権交代という形ではなく、その政権交代の結果として政治変革、政治の中身が変化したかどうか、ということです。自民党政治の延長にすぎない政権交代は政権交代の名に値しないのです。民主党政権は自民党政治に決別しえたか。普天間基地問題に象徴される民主党政権の対米従属、民意無視の政治姿勢を見る限り、民主党政権の政治は自民党政治の延長であり、というよりもさらに悪質化しており(たとえばSCC共同声明参照)、自民党政治に決別しえたとはとてもいえません。それを単純に「政権交代を逆戻りさせてはならない」などと言ってしまう。ここに辻元氏の信念に基づく『理念』の実現よりも『権力』によるまやかしの『理念』の実現(すなわち『理念』の非実現)の方を重要視する権力(政治的エスタブリッシュメント)志向の姿勢がよくあらわれていると見るべきでしょう」(要旨)、と。

辻元氏の今回の『世界』インタビューで見せた説得力はその延長線上にある説得力、政治的エスタブリッシュメント志向の人の眼から見た説得力でしかない。すなわち、その説得力には権力に対抗しようとする批判精神が見られない、というのが私の判断です。辻元氏には少し厳しすぎる評価であったかもしれません。が、私は、彼女をいまの状態のままで「日本の政治において今後も存在感を放つ有力なプレーヤーであり続けることは間違いないだろう」などと評価する気はさらさらありません。
この2月13日、福島医大は、「新たに2人が甲状腺がんと確定」という原発事故時に18歳以下だった子どもを対象とした甲状腺検査の2次検査の結果を公表しました。
 
新たに2人甲状腺がん 県民健康管理調査(福島民報 2013/02/14)
福島、新たに2人が甲状腺がん 放射線による影響否定(共同通信 2013/02/13)
 
が、その公表された数値を自身の素人の臆見でしかない判断で読み誤った上に、その読み誤った臆見(したがって非科学的)の数値を前提にして「通常の75倍から250倍」の発生率などといたずらに福島原発事故の放射能被害の危険を煽り、かつ、現地の福島に居住する(あるいはせざるをえない)人々の健康不安を結果として煽る言説がまことしやかに流されています。いま「まことしやかに」と書きましたが、こうした言説を流している人たちの中心にいるのが弁護士であるというところにその「まことしやか」性はいっそう増幅され、臆見情報であるにもかかわらず信用されてしまうというそういう意味での危険性があります。
 
こうした情報を流している弁護士の名前とその情報そのものを下記に記しておきます。いずれも民主的弁護士といってよい方々です。

100万人に1人のはずの子どもの甲状腺がん 福島で4万人中3~10人=75倍から250倍 さらに今後爆発的に増加か徳岡宏一朗 Everyone says I love you ! 2013年2月17日)
 
疎開裁判の最新情報報&拡散のお願い:2.13福島県の重大発表 2.23新宿デモへの参加と賛同アピールのお願い柳原敏夫 ★阿修羅♪ 2013年2月17日)
 
上記の弁護士たちの情報のなにが誤っているのか? たとえば徳岡弁護士は自身のブログに次のように書いています。
 
「甲状腺がんは珍しい病気で、子どもに甲状腺がんができる可能性は、通常では「100万人に1人」だというのが通説です(検討委の鈴木真一・福島県立医大教授)。ですから、4万人の中で3人ないし最悪10人という今の福島の子どもたちの現状はごく単純にかんがえるなら、通常の75倍ないし250倍ということになります(年間検出率でみると最高130倍)。」
 
徳岡氏は上記の鈴木福島県立医大教授の「子どもに甲状腺がんができる可能性は、通常では『100万人に1人』」という発言をひとつの根拠として「通常の75倍から250倍」の甲状腺がん発生率という計算をはじき出しているようですが、今回の「新たに2人が甲状腺がん」という「県民健康管理調査」の報告では「発生率」ではなく「有病率」しか判明しません。「有病率はその時点での患者の割合です。罹患率(引用者注:発生率)は一定期間に対象の病気に新たにかかった患者の割合ですから追跡を行わなければ分かりません。つまり今回のような一時点調査では有病率を見ていることになり、罹患率とは比較でき」ないからです(下記の内科医師の所見「甲状腺癌⑦」参照)。したがって、徳岡氏は、比較できないものを比較して「通常の75倍ないし250倍」という誤った臆断を述べているということになります。

ふくしま集団疎開裁判弁護団長の柳原敏夫氏も「小児甲状腺ガンは通常なら百万人に1名なのに、二次検査した151人の子どもから10名の小児甲状腺ガン(確定とほぼ確定の合計)が見つかりました」と述べて徳岡弁護士と同様の誤りを犯しています。
 
わが国における甲状腺がんの有病率は人口1000 人当たり1. 3(男性 0. 6、女性1. 9)と推定されています(日本癌治療学会『がん診療ガイドライン』「コラム4 わが国における甲状腺癌の罹患率,有病率,死亡率について」)。今回の調査では約3万8000人を対象に1次検査を実施し(福島民報 2013年2月14日)、そのうち3人が甲状腺がん、7人が甲状腺がんの疑いがあったということですから、その有病率は約4万人分の10人。すなわち4000人に1人の割合。通常よりむしろ4分の1程度低い調査結果だったということになります。ただし、今回の調査は原発事故時に18歳以下だった子どもを対象とした甲状腺検査ですから有病率は大人のそれよりももっと低くなるでしょう。すなわち、有意差はみられません。
 
なお、医師の松崎道幸氏も下記のような見解を発表していますが、医師でありながら上記の弁護士たちとほぼ同様の見方の誤りを犯しているように思います(私は以前にも松崎医師の所見の誤りを指摘したことがありますが(もちろん私だけではありませんが)、「思いこみ」とは恐ろしいものです)。
 
福島の小児甲状腺がんの発生率はチェルノブイリと同じかそれ以上である可能性:福島県県民健康管理調査結果に対する見解(松崎道幸 Peace Philosophy Centre 2013/2/16)

詳しくは下記のDrMagicianEARL氏という呼吸器内科医師の所見をご覧ください。
DrMagicianEARL氏の自己紹介:
呼吸器内科/感染対策室(ICT)/マジシャン。集中治療(敗血症・DIC)・感染症等の文献要約をツイート。ブログ「EARLの医学ノート」管理人。呼吸器学会/感染症学会/集中治療医学会/内科学会/化学療法学会/静脈経腸栄養学会/呼吸療法学会.反原発派ですがアンチ放射“脳”です

甲状腺がん 有病率 発生率(罹患率) 等について

前提1:
有病率、罹患率、発生率の定義の違いについて

有病率(prevalence)について.
.
発生率(incidence 罹患率とも訳される)について.

前提2:
罹患率と累積罹患リスクの違い」について(Q27)。

コメント:今回のように福島県で行われた積極的スクリーニングで分かるのは「有病率」で、「通常は100万人当たり1~2人」云々、は「罹患率」(引用者注:発生率)です。比べちゃいけない数を比べたら、当然ナンセンスな結論になります。
http://ganjoho.jp/professional/statistics/statistics_qa.html#q26 あたりもご参照。

DrMagicianEARL氏(内科医師)の所見:
甲状腺癌①:福島で8万人にスクリーニングかけて甲状腺癌が1人見つかりました。さて、非医療者で怖がってる皆さん、怖がる前にまず手始めに有病率を調べましょう。ネットで簡単に検索できます。まず手始めに甲状腺癌の有病率を調べて自分の目で確認しましょう。1000人に1~3人です

甲状腺癌②:実際には日本では1000人に1-3人が甲状腺癌という数字はむしろ少ないくらいで、死後病理解剖ではその10倍以上発見されます。日本の甲状腺ラテント癌微小癌の頻度は10~28.4%と報告されています。甲状腺癌は放射能に関係なく非常に多い癌です

甲状腺癌③:ただし、甲状腺癌は20~50歳代に多く、今回は非成人が対象の調査ですから必ずしも1000人に1~3人という数字は当てはまらないかもしれません。では次に10代のデータを調べましょう。

甲状腺癌④:日本医大の論文や国立癌研究センターのデータがネットで検索できます。これを見るとだいたい10歳代の甲状腺癌は10万人に1人くらい。今回は積極スクリーニングなのでやや増えるため8万人に1人は妥当な数字でしょう

甲状腺癌⑤:子供は癌の成長が早いというのはあくまでも悪性腫瘍の一般論です。甲状腺癌は例外的にむしろ逆で若年発症ほど予後が良好です。未分化癌や扁平上皮癌というレアなタイプ(放射能被曝では生じない)を除けば甲状腺癌の5年生存率は良性腫瘍なみに高くなります

日本医科大の論文国立がん研究センターのデータを御参照下さい

甲状腺癌⑥:「1万人に1人?発症率はもっと少ないぞ」というツッコミがあったので追記です。ここで私が提示しているのは有病率であり発症率ではありません。ある一点の時期における甲状腺癌罹患者数結果を発症率と比較してはいけません。誤解のもとです

甲状腺癌⑦:再度補足。有病率≠罹患率(発症率)です。有病率はその時点での患者の割合です。罹患率は一定期間に対象の病気に新たにかかった患者の割合ですから追跡を行わなければ分かりません。つまり今回のような一時点調査では有病率を見ていることになり、罹患率とは比較できません(引用者注:放射線影響研究所「有病率」「発生率」の解説を参照)

:10万人に1人というのは罹患率になりますので御注意を。ここで重要なのは有病率です(今回の8万人調査も有病率調査です)。10歳代の甲状腺癌はまず死にませんから、10年間の累積になる、すなわち単純計算で10倍の1万人に1人というのが有病率になります

付(上記に対する質問):そのデータのリソースを教えてくださいませんか?添付の国がんのデータおよび鈴木先生のレビューでは罹患率で100万分の2なのだけれど。

付(上記への回答):その癌研の10歳代罹患率(0.9758)から10年累積を計算し(10倍)、予測有病率が分かります。罹患率が有病率を上回るのはすぐ亡くなるかすぐに回復する病気の場合です。甲状腺癌はすぐに消えませんが小児では特に予後の良好な疾患ですから有病率が上回ります

甲状腺癌⑧:数値訂正です。途中1万人という表記がありましたが10万人の間違いです。甲状腺癌④の数値が正しいです。

付(上記に対する質問):もう一つ。小児ということで、10歳以下を入れると罹患率はさらに減るのは示したグラフの通りです。10歳台で比較ではなく、小児で比較していただけると有難いのですが。

付(上記への回答)http://t.co/bNTfrAFJはどうですか?

甲状腺癌⑨:竹野内真理氏(@mariscontact)は「甲状腺にヨウ素と共に溜まるセシウムの多い福島に子供がもうこれ以上居てはならない」とツイートしており、同様のツイートをしているジャーナリスト等のアカウントも多く、ここには誤解があります。次に理由を説明します

甲状腺癌⑩:まず、甲状腺にセシウムが溜まるか否か。バンダジェフスキーの論文があります(Swiss Med Wkly 2003;133:488)こんな重要な調査結果をなぜNEJMやJAMAなどの五大医学誌クラスに投稿しなかったのか?問題は解析法です

甲状腺癌⑪:バンダジェフスキー論文は1997年にベラルーシのゴメルで死亡した子供の遺体から標本をとってセシウムを計測し、その結果をだしたものです。共同著者はおらず、単独著者の論文。掲載誌はマイナーな雑誌でインパクトファクターは約1。

甲状腺癌⑫:バンダジェフスキー論文は統計学的に極めて不可解な解析をしており、対照となるK40の値すらなく、その検査機能の正確性を証明することもできていません。論文としての質は低く、メジャー誌には査読でrejectされた可能性があります

甲状腺癌⑬:バンダジェフスキー論文のデータには蓄積するセシウムの絶対量が最大となる骨格筋が調べられていません。ただ心筋が調べられているのである程度内部被曝の指標にはなります。この心筋より有意にセシウムが蓄積するのは膵臓のみです。甲状腺には有意差はありません

甲状腺癌⑭:また、最も高い甲状腺の値1200Bq/kgは、この論文の表に一致しません。いったいどの集団のデータなのか?捏造の疑惑すらでるわけです。さらには子供の年齢の定義もなく、最終的に何例で測ったのかも記されていません。これではメジャー誌にrejectされて当然です

甲状腺癌⑮:以上からバンダジェフスキー論文は査読の時点でメジャー誌にrejectされて当然なレベルで、「とりわけ甲状腺にセシウムが有意に蓄積するとは言い難い」となります。竹野内真理氏をはじめとするジャーナリストには査読能力がないようですから鵜呑みにしちゃったわけです

甲状腺癌⑯:仮に甲状腺にセシウムが蓄積したとして甲状腺癌は起きるのか?これについてはバンダジェフスキー論文と同じベラルーシでの調査結果J Radiol Prot 2006;26:127を見るとセシウムでは甲状腺癌が引き起こされないことは明白です。

甲状腺癌⑰:この論文では小児甲状腺癌は事故4年後から増加し、事故後9年後にピークとなり、事故16年後には事故以前の状態に戻っています。セシウム半減期は30年ですから、セシウム蓄積ではこのような結果は起こりません。同様に低線量被曝も原因にはならないことが分かります

甲状腺癌⑱:甲状腺癌の原因になるのは原発事故直後にでた半減期わずか8日のヨウ素(I131)による被曝です。よって竹野内真理氏(@mariscontact)が主張する「甲状腺癌が危ないから子供は福島から離れて」は“甲状腺癌リスクの観点”では意味がありません。

甲状腺癌⑲:福島原発の事故直後の被曝によりI131で今後小児甲状腺癌が生じる可能性は否定できないが、セシウムや低線量被曝と甲状腺癌の関連性が否定されている以上、I131が消失したであろう現在の福島には放射能関連による新たな甲状腺癌のリスクはない、という結論になります。

*さらに詳しくはこちらをご参照ください。
3日遅れのニュースのご紹介ということになってしまいましたが、日本維新の会とみんなの党が「憲法96条改正」で合意、というニュースです。

憲法96条改正で協力 日本維新とみんな(産経新聞 2013.2.14)
日本維新の会とみんなの党は14日午前、国会内で幹事長・国対委員長会談を開き、憲法改正の発議要件を定めた憲法96条の改正に協力して取り組む方針を確認した。維新の松野頼久国会議員団幹事長は記者団に「維新とみんなの党だけでは(賛同者が)足りないので他党にも呼びかけをしていく」と述べた。/安倍晋三首相は先月末の国会答弁で96条改正を目指す考えを表明している。

維新とみんな、憲法96条改正原案取りまとめへ(読売新聞 2013年2月15日)
日本維新の会の松野頼久国会議員団幹事長とみんなの党の江田幹事長は14日、国会内で会談し、憲法改正の発議要件を緩和するための憲法96条改正の原案を今国会中に両党で取りまとめることで一致した。/
維新の会とみんなの党は先の衆院選公約で、それぞれ96条改正を打ち出している。/憲法96条は、憲法改正の発議要件について、衆参両院の各議員の「3分の2以上」の賛成が必要と定めている。国会法は憲法改正原案の国会提出について、衆議院では100人以上、参議院では50人以上の賛成が必要と定めており、両党だけでは足りないことから、両党は他党の協力を求める方針だ。

維新 みんなに憲法改正案共同提出で申し入れ(NHK 2月14日 17時43分)
日本維新の会の松野国会議員団幹事長は、みんなの党の江田幹事長に対し、国会が憲法改正を発議する要件を定めた憲法96条について、要件を緩和する内容の改正案を今の国会に共同で提出したいと申し入れ、今後、調整することになりました。/
日本維新の会は、国会が憲法改正を発議する要件を定めた憲法96条について、発議には衆参両院それぞれで、すべての議員の「3分の2以上の賛成」が必要としているのを、「過半数の賛成」に緩和する内容の改正案を今の国会に提出し、憲法改正を巡る国会審議を本格化させたいとしています。/これについて、維新の会の松野国会議員団幹事長は、14日、みんなの党の江田幹事長と国会内で会談し、96条の改正案を共同で提出したいと申し入れ、今後、調整することになりました。/憲法の改正案を国会に提出するためには、衆議院では100人以上、参議院では50人以上の賛同者が必要で、維新の会は、みんなの党に加えて自民党や民主党にも協力を呼びかけたいとしています。

上記の記事(読売新聞)にもあるように「維新の会とみんなの党は先の衆院選公約で、それぞれ96条改正を打ち出して」いたわけですからこの両党の「憲法96条改正合意」は当然といえば当然で驚くに値しませんが、それにしても先の衆院選でいったい誰がこの日本維新の会とみんなの党を誉めそやし、かつ支持したのか、とこの国のとめどもない「一億総保守化」とでもいうべき風潮とその風潮に媚を売る体の一部の「革新」主義者なるもの、一部の「リベラリスト」なるものを弾劾したくもなります。

一、二例をあげておきます。

天木直人氏:「渡辺善美と江田憲司に告ぐ。事務次官を廃止してみろ」(天木直人のブログ 2010年07月14日)

上記で天木氏は「私は渡辺善美の地元である栃木県西那須野の住民である。/今度の参院選挙では比例区も選挙区もともに『みんなの党』に投票した。/それは「みんなの党」が政治家、官僚こそ真っ先に身を切れと掲げたからだ。/今度の参院選では大躍進した。支持者の一人としてはご同慶の至りだ」と公言していました。

●天木直人氏:「渡辺喜美『みんなの党』よ、橋下徹『維新の会』とともに『小沢新党』の下に結集せよ」(天木直人のブログ 2012年08月10日)

同記事の内容は標題のとおり。説明しなくとも天木直人氏のどうしようもない政治認識の愚かしさ、イカレポンチ(「ぽんち」(「ぼんち」の音便化)は、大阪弁で若旦那の意。「しっかりした考えのない軽薄な男」のことをこう言います)具合がわかるというものでしょう。この凡庸なる「天才」の天木氏は最近ではあの極右の稲田朋美氏(自民党)にも熱をあげているようです。「自民党稲田朋美議員の代表質問に完敗した菅首相」(同上 2010年10月06日)参照。彼のイカレポンチ具合はとどまるところをしりません。いったい誰が彼を「革新」の人士などと持ち上げるのでしょう? その見る目のなさにはうんざりです。うんざりするだけならまだいいのですが、政治の革新にとって害悪以外のなにものでもありえません。

もう一例。

飯田哲也氏(現「日本未来の党」代表代行)と古賀茂明氏(元経産省官僚)が日本維新の会共同代表の橋下徹氏(大阪市長)が事実上創設した大阪府・市統合本部の特別顧問であり、橋下氏の強力ブレーンであったことは天下周知の事実です(古賀氏はいまはみんなの党に秋波を送っているようです)。その日本維新の会とみんなの党が「憲法96条改正」で合意した、というのが今回のニュースです。飯田氏と古賀氏にもその今回の両党の「96条改正合意」に大きな責任があることはいうまでもないでしょう。その飯田氏と古賀氏をこれも「革新」の人士などと持ち上げてきたのは誰か? 彼らを持ち上げてきた者の責任も問われなければならないのは明らかというべきでしょう。

さらにもう一例。

みどりの風代表代行の行田邦子参院議員が「みんなの党で出馬検討」というニュースも流れています。

みどりの行田参院議員、みんなの党で出馬検討(産経新聞 2013.2.15)
参院選:みんなの党 みどりの風・行田氏に立候補求める(毎日新聞 2013年02月15日)
みんな・渡辺代表、みどり・行田氏に立候補要請(日本経済新聞 2013/2/15)

みんなの党の立候補要請にやすやすと乗るような議員を代表代行に担いでいるみどりの風という政党は革新政党と評価するにふさわしい政党といえるのか? また、その政党の代表の谷岡郁子という参議院議員をリベラリストのように持ち上げる風潮は正しい風潮といえるのか?

メディアやさまざまな論者によって「日本の右傾化」が指摘されてすでに久しいのですが(ことに1990年代以後)、いわゆる「革新」の側もその例外ではありえず、「革新」の内部にもその侵食の波は押し寄せている、ということはいえないか?

自省の眼で考えていきたいことです。

追記:
きょう17日は私の地元では大分市議選の告示日です。私の30年来の友人(後輩)がみんなの党の推薦を受けて無所属で出馬しました。3か月ほど前、私にどこの政党と連携するのがよいかという相談がありました。「生活が第一」か「みんなの党」か、「維新の会」か、と。私がことごとく批判したところ(お前は「福祉の重要性」を看板に掲げているがみんなの党も維新の会も生活が第一もみんな新自由主義の政党だ。新自由主義の特徴は「福祉」を「自己責任」の名において切り捨てるところにある、と。)その後私には連絡はなくなりました。残念なことです。しかし、当落の有無はともあれ30年来の酒飲み友達ですから今後も一緒に酒を飲むことはあるでしょう。思想上の問題はともかくとして。そして、彼は思想は保守ですが、善良なるヒューマニズムの精神の持ち主ですから保守の中では相対的によい仕事をしてくれるものとは思っています。

参考資料:
「憲法改正の限界」に関する衆議院憲法調査会事務局
最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会の
硬性憲法としての改正手続に関する基礎的資料
(衆憲資第24号、平成15年4月3日 p26-29)

Ⅲ 憲法改正の限界
憲法改正の手続に従えばいかなる改正も可能であるか否かについては「無限界説」と「限界説」の二説が存在しており、この問題は、憲法、人権、国民主権等の本質をどのように考えるかという、憲法の基礎理論と密接に関連する。通説は「限界説」を採るが、その論拠は、以下のとおりである。

1 権力の段階的構造―制憲権(憲法制定権力)と改正権(制度化された憲法制定権力)―
 民主主義に基づく憲法は、国民の「憲法制定権力(制憲権)」によって制定される法である。この「制憲権」は、憲法の外にあって憲法を作る力であるから、実定法上の権力ではない。そこで、近代憲法では、法治主義や合理主義の思想の影響も受けて、「制憲権」を憲法典の中に取り込み、それを「国民主権の原則」として宣言するのが、だいたいの例となっている。また、その思想は、憲法改正を決定する最終の権限を国民に与える憲法改正手続規定にも、具体化されている(日本国憲法96 条が定める国民投票制はその典型的な例である。)。憲法改正権が「制度化された憲法制定権力」とも呼ばれるのは、そのためである。

 このように、「改正権」の生みの親は「制憲権」であるから、改正権が自己の存立基盤とも言うべき「制憲権」の所在(国民主権)を変更することは、いわば自殺行為であって理論的には許されない(強調は引用者。以下同じ)、と言わなければならない。(『憲法 第三版』芦部信喜 366 頁)

2 人権の根本規範性―自然権思想の実定化―
 近代憲法は、本来、「人間は生れながらにして自由であり、平等である」という自然権の思想を、国民に「憲法を作る力(制憲権)」が存するという考え方に基づいて、成文化した法である。

 この人権(自由の原理)と1にふれた国民主権(民主の原理)とが、ともに「個人の尊厳」の原理に支えられ不可分に結び合って共存の関係にあるのが、近代憲法の本質であり理念である。したがって、憲法改正権は、このような憲法の中の「根本規範」とも言うべき人権宣言の基本原則を改変することは、許されない。もっとも、基本原則が維持されるかぎり、個々の人権規定に補正を施すなど改正を加えることは、当然に認められる。(『憲法 第三版』芦部信喜 366 頁)

3 改正の限界の内容
 日本国憲法には、明示的に改正の限界について規定する条文は存在しない。しかしながら、通常、以下の諸点について改正の限界が指摘されている。

ア 前文の趣旨
 限界説を採れば、日本国憲法前文が人権と国民主権を「人類普遍の原理」であるとし、「これに反する一切の憲法……を排除する」と宣言しているのは、ただ政治的希望を表明したものではなく、改正権に法的な限界があることを確認したものと解されることになる。つまり、改正禁止条項は、その内容が改正権の理論上の限界(憲法の根本規範と言われる人権尊重と国民主権の原理)と一致する場合には、改正の限界を明示することによって、改正権に対して注意をうながすという確認的意味をもつのである。ドイツ連邦共和国基本法が、人権保障と国民主権のような「基本原則に影響を及ぼす」改正を禁止し(79 条3 項)、フランス第五共和制憲法が「共和政体は改正の対象とすることはできない」と定めているのも(89 条5 項)、その趣旨である。(『憲法学Ⅰ 憲法総論』芦部信喜 77頁)

【改正の限界についての明示的な条項を有する諸外国の憲法の例】
   ドイツ連邦共和国基本法
第79条(基本法の変更)
(1)及び(2) 略
(3) この基本法の変更によって連邦の諸ラントへの編成、立法に際しての諸ラントの原則的協力、または、第1条〔人間の尊厳〕および第20条〔連邦国家、権力分立、社会的法治国家、抵抗権〕にうたわれている基本原則に触れることは、許されない。
   フランス第五共和国憲法
第89条(憲法改正)
①~② 略
⑤ 共和政体は、これを改正の対象とすることはできない。
   イタリア共和国憲法
第139条(憲法改正の限界)
共和政体は憲法改正の対象となることができない。

イ 平和主義
 国内の民主主義(人権と国民主権)と国際平和の原理は、不可分に結び合って近代公法の進化を支配してきたと解されるので、平和主義の原理もまた改正権の範囲外にあると考えなくてはならない。ただし、平和主義と軍隊の存在とは必ずしも矛盾するわけではないので、憲法9 条2 項の戦力放棄の条項は理論的には改正可能とみるべきである。(『憲法学Ⅰ 憲法総論』芦部信喜 78 頁)

【平和主義条項に関する憲法制定時の考え方】
平和主義条項についての改正の可否に関しては、第90 回帝国議会・衆議院帝国憲法改正案委員小委員会における金森德次郎国務大臣の以下の発言が知られている。

○金森国務大臣 是ハ非常ニ「デリケート」ナ問題デアリマシテ、サウ軽々シク言ヘナイコトデアリマスケレドモ、第一項ハ「永久にこれを抛棄する」ト云フ言葉ヲ用ヒマシテ可ナリ強ク出テ居リマス、併シ第二項ノ方ハ永久ト云フ言葉ヲ使ヒマセヌデ、是ハ私自身ノ肚勘定ダケカモ知レマセヌガ、将来国際連合等トノ関係ニ於キマシテ、第二項ノ戦力保持ナドト云フコトニ付キマシテハ色々考フベキ点ガ残ツテ居ルノデハナイカ、斯ウ云フ気ガ致シマシテ、ソコデ建前ヲ第一項ト第二項ニシテ、非常ニ永久性ノハツキリシテ居ル所ヲ第一項ニ持ツテ行ツタ、斯ウ云フ考ヘ方ニナツテ居リマス…
(昭和 21 年7 月30 日)

ウ 憲法改正手続
 96 条の定める憲法改正国民投票制は、国民の制憲権の思想を端的に具体化したものであるから、これを廃止すること(そして、それに代わって総議員の3 分の2 の多数決だけで改正が成立する制度に改めること)は、いわば改正権による制憲権の簒奪ないし改正権の自己否定(自殺行為)であり、国民主権の原理を根底からゆるがす意味をもち、改正権の対象とすることは理論上できない、と解される。もっとも、国民代表制の代わりに憲法改正を行うための特別の憲法会議(convention)の制度に改めることは、理論上は可能と考えてよいであろう。ただ、問題は、国民意思と代表者意思との一致を確保することが、事実上きわめて困難であることにある。(『憲法学Ⅰ憲法総論』芦部信喜 78 頁)

【憲法調査会における発言から】
 この問題については、第150 回国会・平成12 年11 月9 日に衆議院憲法調査会に参考人として出席した小林武南山大学教授からも、以下の発言があった。

○小林参考人 …憲法は、主権者である国民の作品でございます。九十六条が、憲法改正の発議権を内閣には付与せず、国民代表議会に限定いたしまして、その採択は国民みずからが行うことを定めているのも、単なる手続ではなくて、国民が憲法をつくるというその原理を表明したものにほかなりません。…(憲法改正について最近説かれていることで、気がかりに思うことの一つは、)九十六条の定める憲法改正手続の軟性化を説く議論であります。その一例は、国民投票を削除し、国会の発案要件も三分の二を単純多数決にすべしとする(意見であるが)、これはそれほど単純なものではありません。とりわけ国民投票を除くことは、国民主権の原則と抵触いたしますから、憲法改正の限界に当たるものとして、改正対象になり得ないとするのが憲法学の通説であります。

エ 全部改正
 憲法の「改正」は元の憲法典の存続を前提としているので、憲法典自体に「全部改正」を認める規定が存在しないかぎり、新しい憲法典にとって代える改正を行うことはできない、という説もある。しかし、「憲法は個別的規定の総体にすぎぬもので、全部はその部分と異なる性質のものではなく、全部を変更する権力は部分を変更する権力と当然に異なる権力であるとはいえない」と考えられるので、全部改正を憲法改正の限界を破るものとして、日本国憲法の下で不可能と説くのは、妥当ではなかろう。96 条の「この憲法と一体をなすものとして」とは、日本国憲法の基本原理を継承する憲法として、という、実質的な意味に解すべきだと考えられるからである。全部改正を禁止していると解しても、2 回以上に分けて改正を行えば、全面改正も可能となる。(『憲法学Ⅰ 憲法総論』芦部信喜 78 頁)
先のエントリでは共産党の「賃上げターゲット」論をご紹介しましたが、その論とも関連して今度はある農学生命科学研究者の「『ロスジェネ』の味方となる政党待望論」もしくは「『非正規雇用全面的禁止』規制論」をご紹介させていただこうと思います。この研究者の底冷えするような雇用不安と非正規雇用の拡大への怒りはほんものです。ほんものだからこその「非正規雇用全面的禁止」規制論です。
 
この研究者にあるのは経済学者の視点ではなく、マクロもミクロも関係のない生活者としての視点です。それで十分ではないでしょうか。生活者としての視点こそが真に経済学的な視点、といえなくもないのです。いや、そういうべきでしょう。日本の太平洋戦争後、すなわち敗戦後初(1946年)の東京の宮城前広場に50万人が集まったいわゆる食料メーデ(戦後第1回目)のスローガンも働けるだけ喰わせろ」「米よこせというものでした。考えてみれば(いや、考えるまでもなく)「日本の歴史上最大の民衆運動」といってよいあの1918年の米騒動も文字どおり米よこせという大衆の運動でした。

ゆふいん文化記録映画祭 
「米騒動」と「白虹事件」(1918年)とのかかわりについて熱を
込めて語る筑紫哲也さん(後ろ向き)。左隣は『水俣』の映画
監督の土本典昭さん。ゆふいん文化・記録映画祭(2006年)。
       (撮影/由布院・亀の井別荘 中谷健太郎さん)

「経済」というのは私たちの生活のことなのです。

以下、東京大学大学院農学生命科学研究科准教授の川島博之さんの「『ロスジェネ』の味方となる政党は現れないのか 規制緩和では豊かになれない」という論攷のご紹介です(ところどころに私の注を入れています)。

「ロスジェネ」の味方となる政党は現れないのか
規制緩和では豊かになれない

(川島博之 JBpress 2013.02.12)

1月31日、厚生労働省は2012年の給料(残業代やボーナスを含む額)が月額にして31万4236円になり(引用者注:「へぇ、平均給料がこんなにもあるの」と思った人も多いでしょう。ここになんらの注もないのはこの記事の筆者が東京大学大学院准教授という恵まれた地位にあることと関係なくはないでしょう)、これは1990年以降の最低であると発表した。ここまで賃金が低下した理由として、賃金が安いパートの割合が増えたことを挙げている。パート労働者が全体に占める割合は28.75%にもなっている。

一方、2月1日、総務省は製造業就労者人口が1000万人を割り込んで998万人になったと発表した。製造業就労者が全労働者に占める割合は16%でしかない。この厚生労働者と総務省の発表は無関係のようにも思えるが、実は深く関係している。

日本の産業構造は大きく変化している。高度経済成長を支えた製造業はアジア諸国の追い上げに苦しんでいる。韓国、台湾、中国をライバルだと思っていたが、昨今はASEAN諸国の製造業も急速に発展している。もはや、よほどのハイテク製品でない限り、日本製が安価なアジア製に太刀打ちすることは難しい。そのことは、パナソニックやシャープの苦境がよく表している。

製造業はリストラに忙しい。その結果、職を求める人々はサービス業に流れている。バブル崩壊以降に就職した、いわゆる「ロストジェネレーション」(ロスジェネ)(引用者注:私の息子、娘たちも「ロスジェネ」世代です。長男はいわゆる某一流国立大学を一応卒業しましたが、職がなくいまはお菓子屋の店長をしています(もちろん、お菓子屋が悪いというわけではありませんし、このお菓子屋で出会いがあっていまは夫婦になっていますからそれはそれでいいのですが)。末の娘も大学を出て3年になりますがいまだに就職浪人の身の上です。長女だけは一応新聞社に受かっていまは新聞記者をしています。子どもたちの中では一番高給取りです)の多くはサービス業で働いている。

そのサービス業には非正規雇用が多い。チェーン店化した飲食業やコンビニはバイトによって成り立っている。そしてサービス業でパート労働が一般化したことによって、平均給与が下がり続けている。これが、厚生労働者や総務省の発表したデータの根底にある現象である。

規制緩和で非正規雇用が増え、給与が下がり続ける

そんな日本で、アベノミクスが進行している。アベノミクスでは第1の矢が大胆な金融緩和、第2の矢が大幅な財政支出、そして第3の矢が新しい産業の創出である。

ここで気になるのが第3の矢だ。安倍政権は大胆な規制緩和によって新たな産業を作り出そうとしているが、それはできるのであろうか。

規制緩和による産業の創出は小泉政権でも言われたことであるが、いまさら言うまでもないが、小泉改革によって新たな雇用が生み出されることはなかった。おそらく、規制緩和によってハイテクを用いた未来産業が作り出されることを夢見ていたのだろうが、そのようなことはなかったし、今後もないだろう。

それにもかかわらず、新自由主義が金科玉条に掲げる規制緩和を政策の中心に置いていると、多くの労働が正規から非正規に換わってしまう。そして非正規雇用が増えるために、給与が下がり続ける。

そのような状況を見るにつけて、非正規雇用を全面的に禁止する強い規制を導入する必要がある(強調は引用者)と思う。

もちろん、そんな規制を行えば、経営者は雇用を減らすから、失業率を一気に高めることになる。それは、経済学を知らない者の暴論だとの批判があることは十分承知している。だが、政治は経済学とは異なる。学問的には間違っていると言われても(引用者注:私は「学問的」にも間違っているとは思いませんが)、自己の利害を強く主張することが政治である。

ロスジェネが低賃金で働くのは老人のため?

既にロスジェネは4000万人にもなっている。そして、今後ますます増え続ける。彼らの多くはパートで働き、また、たとえ正規社員になっても、中高年に比べて安い給料で、こき使われている。

本来、そのようなロスジェネの意見を汲み上げて、過激と言われようが、パートの禁止や同一労働同一賃金を党の綱領に掲げる政党が出現してもおかしくない時期に来ている。しかし、ロスジェネが政治に関心が薄く投票に行かないことを背景にして、これまで、ロスジェネの利害を代弁する政党が生まれることはなかった。

自民党は経団連や農民を支持基盤の中核に据えている。一方、民主党は連合に代表される労組を支持基盤にしている。自民党は保守党であるから、経営者の立場に立って規制緩和を推し進めることは理解できる。しかし、本来、社会民主主義的な政党であるはずの民主党が公務員労組や大企業の労組の立場に立ってしまい、 ロスジェネの待遇改善に興味を示さなかったことは、まことに残念なことであった。

どちらの政党の支持者も老人が多いから、ロスジェネをパートとしてこき使うことによって、自分たちが利用するファミレスやコンビニの物価が安くなればよいと思っている。老人が年金を使い切ることなく、その多くを貯蓄に回すことができるのは、低賃金で働くロスジェネがいればこそである。

そして、老人の貯蓄が銀行預金を通じて国債を買い支えているのであるから、ロスジェネが低賃金でこき使われていることは、財政が破綻しない理由にもなっている。

新自由主義を掲げるみんなの党はパートの立場に立つ政党ではない。それはパートを使って事業を立ち上げることができる頭のよい強者のための政党である。日本維新のイデオロギーもみんなの党に近い。

規制緩和が日本社会に与える負の側面

規制緩和を進めて、新たなサービス業が起きると、英雄になれるほんの一握りの経営者と、多数の非正規雇用が生まれることになる。それによって、ますます低賃金でこき使われる若者の数が増えるから、消費が伸びることはない。出生率も改善されない。多くの人は、規制緩和が日本社会に与えている負の側面を軽視しすぎている。

そもそも政治運動とは非理性的なものである。資本主義に追い込まれて、どうしようもなくなった労働者が社会主義政党を作った。当初、社会主義政党は非合法とされて弾圧されたのだが、それは20世紀の歴史を大きく動かすことになった。

そろそろ、ロスジェネを支持基盤にした政党ができてもよい頃だと思う。その政党は、全ての労働者を正規雇用にしなければならないと主張する。すぐに正規雇用にできないのなら、パートにも失業保険を、健康保険を、大企業や公務員並みの退職金や年金を、同一労働同一賃金は先進国の常識だ、と強く主張する。

労働条件に関しては、徹底的に規制強化だ。そして、20世紀の革新政党が掲げていた護憲や反原発、反米にはこだわらない。

21世紀の日本には、そのような政党が絶対に必要である。ロスジェネを支持基盤にした政党がないために、昨今、政治に関する議論が空を切っているのだと思う。

注:「福祉のパラドックス」とは「本当に困っている人」だけを救済しようとする福祉は、「本当に困っている人」さえも救済できなくなるというパラドックスのことをいいます。

共産党の志位委員長は昨日の14日に国会内で記者会見し、同党独自の「賃上げターゲット」論(賃上げ・雇用アピール)を発表しましたが、多くの金融経済のスペシャリストからも批判の頻出している行き先危うい自民党・安倍内閣の「インフレターゲット(物価上昇目標)」論が闊歩する一方で、底冷えするような賃下げと雇用不安、非正規雇用の拡大という勤労者サイドにとって二重、三重の経済的苦境が吹き荒ぶ日本社会の現状の中できわめて時宜と道理に適った雇用・経済政策のオブジェクションの提起だと思います。      

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(しんぶん赤旗 2007年12月29日付)

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(しんぶん赤旗 2012年11月25日付)


下記の産経新聞と朝日新聞の記事は珍しくまさに要点をついたショート記事だといえるでしょう(「賃下げ」への危機感はマスメディアで働く記者、サラリー(ウ)マン諸氏にも及んでいるということでしょうか?)。 
  
“賃上げターゲット”論を提言 共産党、企業内部留保切り崩し求め(産経新聞 2013.2.14)

共産党の志位和夫委員長は14日の記者会見で、デフレ不況からの脱却には賃上げによる内需拡大が不可欠だとして、政府に月額1万円程度の「賃上げ目標」を設定するよう求めた。/志位氏は「大企業が内部留保のわずか1%を取り崩せば、約8割の企業で月額で1万円の賃上げが可能だ。内部留保の一部活用を経済を好循環に乗せる突破口にすべきだ」と強調した。/「賃上げ目標」を掲げ、企業に内部留保の活用を強く要請するとともに、(1)正社員化の促進(2)最低賃金の引き上げ(3)地方公務員給与引き下げの中止-などの政策を実施するよう政府に促した。

賃上げ要請、志位氏「欧州ではどの国でもしている」(朝日新聞 2013年2月15日)

■志位和夫共産党委員長

安倍晋三首相が経団連に賃上げを要請したのは「利益が出た企業は、賃金に多少回してくださいよ」と腰を引いて言っただけ。「(労働者の賃金に回すことは)もっと出来るはずじゃないですか」と言うべきだった。「それは共産主義の国でなければ出来ない」と言った人もいるようだが、ヨーロッパではどの国でもしていることだ。財界がひどいリストラや首切りをするようなら、政府が介入してやめさせている。(記者会見で)

賃上げと安定した雇用の拡大で暮らしと経済を立て直そう
志位委員長が記者会見 共産党が「働くみなさんへのアピール」

(しんぶん赤旗 2013年2月15日)

日本共産党の志位和夫委員長は14日、国会内で記者会見し、「働くみなさんへのアピール 賃上げと安定した雇用の拡大で、暮らしと経済を立て直そう」と題した党の“賃上げ・雇用アピール”(全文)を発表しました。山下芳生(よしき)書記局長代行が同席しました。


志位氏は、賃下げが続き雇用不安が広がり続ける日本社会の現状が世界の流れからみていかに異常かを紹介。賃金が連続的に減り続け、最低賃金が最低水準で、非正規雇用の割合が異常に高いなど、世界の流れからみて二重三重に異常だと指摘し、労働者の生活実態からみても賃上げは当然の要求だと述べました。

賃下げと非正規雇用の拡大はデフレ不況の悪循環の元凶となっていると述べ、働く人の「使い捨て」は産業の競争力さえも脅かしていると批判。大企業がため込んでいる内部留保の多くは有価証券など換金可能な資産の形で保有されており、その1%程度で大きな賃上げを実施できることを表(別掲)で具体的に示して、賃上げと雇用の安定がデフレ不況打開の一番のカギだと述べました。

企業の経営者には、目先の利益や株主への配当だけでなく、「日本経済の成長の中で業績の回復をはかる」視点が必要ではないかと提起しました。

志位氏は、政府が「企業まかせ」にせず、「インフレターゲット(物価上昇目標)」ではなく「賃上げターゲット(目標)」をもち、それを実現する政策を実行するときだと主張。▽賃下げなど財界の間違った行動をただす▽違法・脱法の退職強要・解雇・雇い止めを根絶する▽賃上げを促進する政策をすすめる―ことを提言しました。

そして、日本経済後退と所得減少の根底には国民の暮らしを守るルールがないか、あっても弱いという問題があるとして、人間らしい暮らしと働き方を保障する「ルールある経済社会」への転換が日本経済を土台から強くする道だと強調しました。

志位氏は、「このアピールをもって労働者、労働組合、経済団体に働きかけていきたい。もちろん政府にも提起していきたい」と述べました。「消費税や社会保障では立場の異なる人々もふくめて、賃上げの“一点共闘”を広げようという思いでつくりました」と紹介しました。

衆院予算委員会での笠井亮議員の質問に対し、麻生太郎財務相が「内部留保をためこんでいるマインドが一番問題」と応じた(強調は引用者)ことも紹介し、「そこまで認識が一致するなら、内部留保の活用でデフレ不況から脱却することを、経済界に対して本腰を入れて要請すべきです」と強調しました。
(以下、略)

注:「福祉のパラドックス」とは「本当に困っている人」だけを救済しようとする福祉は、「本当に困っている人」さえも救済できなくなるというパラドックスのことをいいます。

帯広畜産大学教授(哲学・セクシュアリティ論)の杉田聡さんが『逃げられない性犯罪被害者―無謀な最高裁判決』(青弓社)という新著を出版されました(2月16日発売)。私はこの新著をご紹介したいわけですが、その理由は下記の杉田さんご自身の自著の自薦の文をお読みいただければご了解いただけるものと思います。私はただ同著書の重要性を思って紹介するのみです。

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(杉田聡著 青弓社 2013年)

委細は下記のとおりです。

帯広畜産大学・杉田聡(哲学・セクシュアリティ論)と申します。

ご承知のように、一昨年7月25日、ある強かん事件に関する第一審・控訴審有罪判決を最高裁がくつがえし、無罪判決を出しました。その2年前にも、「痴漢」事件で同じく逆転判決が出されましたが、2度つづけて性犯罪事犯に対して最高裁が逆転判決を出した以上、これがその後の性犯罪裁判に対して及ぼしうる影響は甚大です。(実際その影響はすでにじわじわと出ていると判断されます。)

しかし、子細に検討してみれば、この最高裁判決はきわめて無謀なものです。そこでは、性犯罪についてほとんど何も知らない男性裁判官が、性犯罪被害者の各種証言や、性犯罪に関する研究者の地道な研究成果を、「経験則」の名の下に一蹴して、個人的な、きわめて限られた経験・性認識を絶対視しています。以下の書名にもありますが、何より、性被害にあっても女性は逃げられると前提してかかり、それを含むいくつもの「レイプ神話」を下に、この強かん事件での女性の供述には信用が置けないと、最高裁は判断しました。

この無謀な判決を批判的に検証する本を直ちに出したいと思いましたが、実際に出版できるまでに紆余曲折がありました。しかしようやく2月16日付けで出版されました。これは『逃げられない性犯罪被害者―無謀な最高裁判決』という本で、青弓社から出されました。価格は2000円(+税)です。

私が本文を執筆し、私ではとうてい不十分な専門的知識を補ってもらうために、4人の専門家(弁護士、犯罪心理学者、精神科医、産婦人科医)にコラムを執筆いただいております。

目次は以下の通りです。

すでに判決が出されてから1年半がたちますが、こうした無謀な判決を「判例」とさせないためにも、ぜひとも皆様にご関心をお持ちいただけるよう、お願いいたします。
2・14 杉田 聡

『逃げられない性犯罪被害者――無謀な最高裁判決』
                        (杉田聡著 青弓社 2013年)

目次

序章 近年の性暴力事情と逆転判決の衝撃
1 近年の性暴力とその根絶へ向けての取り組み
2 二つの事件―「09年判決」と「11年判決」
3 本書の内容

第1章 逃げられない被害者
1 被害者は逃げられないことが多い
2 逃げられないのは暴力のためではない―被害者が陥る無力感
・コラム なぜ被害者は逃げられないのか:1―ショックと無力感
桐生正幸
・コラム なぜ被害者は逃げられないのか:2―精神医学による統計研究
橋爪(伊藤)きょう子
3 被害者の陥る心理状態―離人症・現実感の喪失
・コラム 被害のさなかに起こる離人感と現実感の喪失
橋爪(伊藤)きょう子
・コラム 強かん犯の犯人像―犯罪者プロファイリングから
桐生正幸
4 周囲の通行人はどれだけ力になるか
5 男女間の関係にはよけい介入できない
・コラム なぜ目撃者は助けることをためらうのか―援助行動の要因
桐生正幸
6 口封じ―加害者がとる策略:1
7 加害の隠蔽―加害者が取る策略:2
・コラム 傷つけないように「配慮」する加害者
堀本江美

第2章 身体に痕跡は残るのか
1 被害者に残る痕跡―誤解を生む「強(forcible)かん」イメージ
2 無抵抗・いいなりに状態で膣に傷がつくのか
・コラム かならず膣などが傷つくのか
堀本江美
3 精液はかならず残るのか
・コラム かならず膣内に精液が残るのか―消化器官としての膣
堀本江美
4 加害者・被害者の身体位置の問題

第3章 通報と告訴――なぜためらうのか
1 千葉事件に見られる被害者の行動・周囲の行動
2 なぜ通報・告訴をためらうのか:1―「汚れた」「恥ずかしい」という思い
・コラム 被害者はなぜ自分を責めるのか
桐生正幸
・コラム 被害女性は誰に配慮するか、何を恐れるか―被害者との面接から
橋爪(伊藤)きょう子
3 なぜ通報・告訴をためらうのか:2―脅迫と被害者が陥る無力感
・コラム 被害者が陥る無力感―被害者の心理的ダメージと通報前行動
橋爪(伊藤)きょう子
4 なぜ通報・告訴をためらうのか:3―警察・病院などでの検査
・コラム 検診時に見る被害者の心とからだ
堀本江美
5 なぜ通報・告訴をためらうのか:4―加害者の存在への恐怖、加害者による報復の恐怖
6 なぜ通報・告訴をためらうのか:5―セカンドレイプの恐れ、家族に知られる恐れ

第4章 記憶と神話――被害者が陥る心理、被害者に対する予断
1 供述の変遷を問題視する最高裁判決―これが「疑わしき」とみなす要因になるのか
・コラム 被害者は被害事実をどれだけ正確に記憶できるか
桐生正幸
2 人はどれだけ記憶できるか―被害事実が奪う記憶力
・コラム なぜ供述内容が変化するのか―急性乖離症状と心因性の健忘
橋爪(伊藤)きょう子
3 まかり通るレイプ神話―判決は被害女性の職業に予断を持たなかったか
4 被害者の「落ち度」は問題にならない―全裸で歩いても被害者は悪くない
5 「落ち度」と貞操観念にこだわる裁判官
6 女性がセックスできるのは特定のもしくは特定のタイプの相手―京教大事件に関する京都地裁判決
7 捜査・公判過程での被害者の扱われ方―依然として残る被害者軽視
・コラム 被害者は警察・検察・裁判所でどう扱われるか
養父知美

第5章 11年判決の基本原理――「経験則」と「疑わしきは被告人の利益に」
1 「経験則」と自由心証主義
2 「疑わしきは被告人の利益に」と強かん事件
3 法律審としての最高裁と無謀な「自判」―判例とはしえない最高裁判決
・コラム 裁判官は何によって心証を得るのか―書類審査が欠落させる心証形成
養父知美

第6章 司法官の性意識を生むもの
1 裁判官は性犯罪について学んできたのか―司法研修制度の問題点
2 特殊性が理解されないまま一般犯のように扱われている―男の常識への固執
3 どれだけ強かんが独自の犯罪として扱われてきたか―法学書・判例に見る強かんの理解
・コラム 性犯罪裁判の特異性―「物証」や「目撃者」が乏しい理由
養父知美
4 裁判官はどこから性情報を得るのか
5 市民生活のない裁判官
6 最高裁判事とは誰なのか―最高裁判事の任官システム
・コラム 最高裁判事とはどのような人か
養父知美
7 裁判員裁判への影響は?―判決を誘導する裁判官
8 強かん事犯では裁判官は無罪へと誘導するおそれがある
9 専門的な検察官・裁判官をもつ韓国の事情
・コラム 韓国の性犯罪と近年の取り組み
養父知美
10 訴えに対する警察の対応―近年、制度的な取り組みは進んだというが
・コラム 警察ではどのような教育が行われているか
堀本江美

終章 改革そして展望―性犯罪のない社会を
1 司法改革
2 被害者救済制度の改革
・コラム 性暴力被害者支援センターの役割―「ゆいネット北海道」の事例から
堀本江美
・コラム 生涯にわたる苦しみ―支援センターに求められる要件
橋爪(伊藤)きょう子
3 加害者更正プログラム・被害防止方法
・コラム 認知行動療法プログラムの概要と動向
桐生正幸
4 全般的な法的・破壊的改革
・コラム 被害者の性的経歴と「強かん被害者保護法」(Rape Shield Law)
養父知美
・コラム 親告罪の問題点
養父知美

11年最高裁判決判決文
あとがき
私は「『犬』シリーズの評価をめぐって」という連載の(4)で先日の5日に東京・飯田橋で開かれた「森美術館問題を考える討論集会に参加して言論の「暴力」行為に及んだ(本人は否定していますが)昼間たかしというフリーライターのことについても少し触れておきました。

同討論集会の主催者の前田朗氏(東京造形大学教授)によれば、その昼間氏の「暴力」行為について、同氏に同集会の取材を依頼した週刊金曜日編集部が同誌編集長名(ということですから、平井康嗣氏のことを指すものと思います)で下記のような謝罪と遺憾の意を表明しているとのことです。

以下、前田朗氏のこの件に関する報告メールから引用(孫引き)しておきます。

「2月5日に開催された「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」において、雑誌の「取材」と称して参加した男性が、他人を誹謗中傷する発言をし、女性参加者に暴力を振るおうとしたことはすでに報告しました。これまでAと書いてきましたが、昼間たかしというライターです。/私は2月6日に、Aに取材を依頼した週刊金曜日編集部宛に抗議文を出しました。/本日、週刊金曜日編集長から回答が届きました。結論部分を引用紹介します。

「昼間氏の行為の結果として、集会が騒然とした状態になったことを残念に思います。それにもまして昼間氏の行為の結果、恐怖を感じられた女性がいたことについて、取材を依頼した編集部としてお詫びいたします。」「また、「会田誠展問題」において、昼間氏では関係者取材が十分になされえないこと、昼間氏が記事を執筆した場合、その記事は読者に素直に届く可能性は低くなったと判断しました。そのことは会田誠展問題を考えるうえでもプラスに働かないことでしょう。編集部としましては、昼間氏と相談して合意した結果、今回の執筆者から降りていただくことにしました。」

以上は、この連載の主題とは直接関係するものではありませんが、関連する一事実関係ということで記録しておくことにします。
自民党のホームページにいまを時めく(テレビ番組などで人気者の意)「尾木ママ」こと教育評論家の尾木直樹氏が同党教育再生実行本部主催の初会合で講演したことが報じられています。

その自民党のホームページの記事によれば同党教育再生実行本部主催の初会合での尾木氏の講演内容は次のようなものであったようです。
 
「尾木教授が講演。尾木氏はいじめ件数が減少しない理由について、「加害者の罪の意識がまひしており教師が指導しても効果がでない」と指摘し、「心のノート」を使用した道徳教育を充実させる必要性(強調は引用者。以下同じ)を語った。/また、わが党の教育改革については、『スピードが速くパンチ力がある』と評価。そのうえで、『いじめ防止対策基本法案は可能な限り早く成立させてほしい」と要望し、「(同法案の成立により)社会全体でいじめ問題に取り組む体制を構築すべきだ」と訴えた。」(自民党ニュース「政府・与党一体で教育改革 教育再生実行本部が初会合」 2013年1月17日
 
この尾木氏の講演内容について子どもと教科書全国ネット21俵義文さんが先日教育関係者の多いメーリングリスト上で次のような警告を発していました。
 
「安倍政権の『教育再生』政策の基をつくった、自民党教育再生実行本部は、本部長の下村博文氏が文科相になったので、基本政策分科会座長だった遠藤利明議員が本部長になり、1月17日に安倍政権後の初会合を開催しました。/その会合で、『尾木ママ』こと尾木直樹氏が講演しています。/下記の自民党のHPによると、尾木氏は次のように語ったということです。/(記事の内容は上記と同じなので省略)/これが事実だとすれば、尾木氏までが自民党・安倍政権の『教育再生』政策にすり寄ったということで、大変重大であり、憂慮すべきことです。/無視できない情報なのでお知らせします。」

ところで尾木氏はどこかでこの俵氏のメーリス発言を知ったのでしょう。自身のブログ上でこの件について次のように反論しています。
 
「びっくり!!

・尾木氏までが自民党・安部政権の教育再生政策にすり寄ったということで、大変重大であり、憂慮すべことで、無視できない情報なのでお知らせします。
子どもと教科書全国ネット21/

こんなメーリスが送信されているようです。/読んだ人はびっくりしています。/当の私はもっと驚いています/第一に、こんな内容話すわけがないし、講義内容の確認もしないで主催が/載せるとは無責任甚だしい。/第二に、いかに引用とは言え、私への確認もしないで、メーリスに流すとは/これまたいかがなものか。ネットにアップすれば、世界中に次々流れること/ご存知ないのでしょうか!? いかにも軽率ではないでしょうか!?/私は送信者の名前は伏せます。

尾木ママブログの皆さん/ネットの噂は恐ろしいですね…/なりすまし被害には会いましたが、これもそんなに私を信用していないのか。/どうして事実だとすればー情報を流すのか。私は悲しくなります。/私は今日初めて知りましたので、当然ですが自民党に対して、抗議、訂正を求めます。/おかしいな?あの人がいつもと反対のこというかな?/って思ったら/皆さん/その情報/本人確認もしないで流しますか?/当日はメディアも詰めかけておられました/映像も配信、TVカメラも回っていました。/こんなに我田引水の記事はどこも書いていませんよ。/だから、私にとっては青天の霹靂です。

まぁ~せっかくいじめ問題の前進目指して、あらゆる人々と考え合おうとしているのに…/背後からバッサリ切られた心情です。/悲しくさみしいですね。/でも大津の子どもたちも/入試直前苦しい中奮闘しています!/尾木ママも一緒に頑張りますよ」(尾木直樹オフィシャルブログ 「事実確認してから情報流すべき」 2013-02-10)
*現在の文面は上記とは若干異なります。少し改稿したのでしょう。

さらに以下は、その尾木氏の反論への昨日10日付けの俵義文氏の再反論的コメントです。
 
「俵義文です。昨日、私が流した尾木直樹氏が自民党教育再生実行本部で講演した、/という情報について、尾木氏がブログで講演内容が事実ではないと書いています。/それを以下に紹介します。/(省略)/なぜ、本人に確認しないで流したのかという問い合わせをいただきましたので、/それについて、私の考えを以下に述べておきます。/私は尾木氏とは直接の親交はないので連絡先も知りませんので、/本人には確認していません。/私も自民党の記事を見たときにはびっくりしました。/自民党のHPは1月17日の記事であり、すでに3週間以上たっています。/もし、事実でないのなら、すでに尾木氏が自民党に抗議して削除されているであろう、/3週間も載っているというのは、事実と考えざるを得ない、という判断です。/それでも、私は、コメントの最初に『これが事実だとすれば』と書いています。/尾木氏のブログでは、なぜか、この『これが事実だとすれば』は引用されていません。」

さて、尾木氏は上記の自身のブログで「こんな内容話すわけがない」と自民党のホームページに掲載されている同党教育再生実行本部での自身の講演の内容を否定した上で「当然ですが自民党に対して、抗議、訂正を求めます」とも記していますが、「抗議、訂正を求め」るまでもなく下記のニコニコ動画のサイトに当日の尾木氏の講演の模様がアップされており、私たちは尾木氏と俵氏のどちらの言い分が正しいのかを検証することができます(ニコニコ動画を視聴するためには登録(無料)が必要です)。

H25/1/17 自由民主党【教育再生実行本部 いじめ問題対策分科会】(ニコニコ動画 2013年01月17日投稿)
 
その動画を見るかぎり上記の自民党のホームページに掲載されている尾木氏の講演内容に関する記事に粉飾はありません。尾木氏は同講演でたしかに自民党の教育改革について「スピードが速くパンチ力がある」(19:02頃)と評価していますし、「いじめ防止対策基本法案は可能な限り早く成立させてほしい」(28:42頃)とも要望しています。また、「『心のノート』を使用した道徳教育を充実させる必要性」(34:55頃)についてもその旨語っています。この部分の尾木氏の発言は次のようなものです。
 
「個々の教育の日常化ということ。心の教育、『心のノート』を使ったりとかそういう特別な時間も大事です。ぼくはいま道徳教育を大学で講義している専門家ですけれども道徳教育を世界で最も重視しているのは日本だと思います。直接道徳やそれからすべて、総合主義ともいいますけれども、すべての生活の中でも重視している国はないですね。日本だけなんですよ。」(34:55頃~)

講演の全体を聞いてみて、尾木氏が誠実に語っていることを私は否定しませんが、「心のノートについての認識は尾木氏は浅いようです。尾木氏は「心の教育」の重要性ということと、「『心のノート』を使用した道徳教育」の違いについて果たして認識しているのだろうかという疑問を持ちました。その違いを尾木氏は明確に認識していないのではないか。尾木氏はおそらく自民党教育再生実行本部での講演について次のように思っているのでしょう。「自分はくだんの講演では『心の教育』の重要性を語ったのであって、『心のノート』使用発言はその教授方法のひとつの応用としての例示でしかない」、と。そうした尾木氏の「心のノート」問題の非認識が自身のブログでの「こんな内容話すわけがない」発言になっているのでしょう。

私たちは尾木氏の教育思想をもう少し注意深く注視する必要があるように思います(私にとっては尾木氏が自民党の教育再生実行本部の初会合に出席し、同党の教育改革を「「スピードが速くパンチ力がある」と評価している時点ですでにアウトですが)。「いじめ」問題について一応理のある発言をテレビや雑誌でしているからといって(この点についてはいわゆるリベラル・左派の側が付和雷同的な無節操さで尾木氏がテレビ、雑誌などでもてはやされる時流に乗って彼を同じくもてはやしてきたことにも大きな責任があります。たとえばしんぶん赤旗日曜版教育評論家 尾木直樹さんに聞く」2012年8月5日号)、また30年の教員歴があるからといって、なにゆえに教育基本法は「公権力からの独立」(「教育は不当な支配に服さないこと」)を謳っているのか(現行法16条)。また、謳ってきたのか(旧法10条)。その精神を十分に理解しているとは限らないのです。尾木氏は「こんな内容話すわけがない」と否定する前に自身の考える「心のノート」問題についてのその認識、あるいは非認識を率直に語るべきでしょう。それが「現場」の教育をよく知る者の態度というべきものではないでしょうか。

なお、「心のノート」についてはこれまでも次のような批判がありました。

「心のノートは修身教科書の復活・現代版だ」「画一的・宗教的『徳目』による『心の支配』」「国家に忠実な『日本人』を作るための修身教科書」「差別・選別教育徹底のための道具」「女の子キャラクターが男の子キャラクターと比べて可愛らしく優しく語りかけたり、リボンを付けている点について『ジェンダー・イメージを固定化させる機能をもひそかに果たす』」(三宅晶子『「心のノート」を考える』p66)などなど。(ウィキペディア「心のノート」、「戦前の国定『修身』教科書復活につながる=文科省『心のノート』
低気温のエクスタシーbyはなゆーの主宰者のはなゆー氏が2月9日付けで「東京のアンチ朝鮮人デモで『朝鮮人を殺せ』と書かれたプラカードが出現」という記事を発信していました。以下は、そのはなゆー氏の記事を見て、読んで考えたことです。

はなゆー氏の情報から:

Ikuo Gonoï‏@gonoi「新大久保にて、在特会のデモ、200人ほど。参加者のなかには『善い朝鮮人も 悪い朝鮮人も どちらも殺せ(強調は引用者。以下同じ)というプラカードを掲げる者も。」
*引用者注:実際のプラカードには「良い韓国人も 悪い韓国人も どちらも殺せ」と書かれています。投稿者の単純な記載ミスのようです。

アンチ朝鮮人デモ1 
https://twitter.com/gonoi/status/300116613594763264/photo/1

Ikuo Gonoï‏@gonoi「新大久保の在特会デモにて『朝鮮人 首吊レ 毒飲メ 飛ビ降リロ』のプラカードを掲げる男。マスクで顔を隠しているのは、面割れしてもできるような主張ではないことに、気付いているが故だろうか。」
*引用者注:こちらのプラカードには「韓国人」ではなく「朝鮮人」とあります。

アンチ朝鮮人デモ2 

上記のはなゆー氏の情報にあるツイットへの下記の返信コメントの指摘も重要です。

堀 茂樹‏@hori_shigeki:「これはデモではなく、テロですね(デモとテロを同質と見なす相対主義のトンデモ学者がいた事を思い出す)。」

堀 茂樹‏@hori_shigeki:「もはや『無視』などという言葉で、見て見ぬふりはできませんね。」

Thoton Akimoto‏@thoton_a:「政治的なスローガンを掲げてるわけでない。これはデモとは呼べないね。」

Thoton Akimoto‏@thoton_a:「怖いですね。人間性が喪失してしまった人達。」

私は3年ほど前に上記の情報に見る「在特会」の行動を含む「行動する保守」「草の根保守」の動きについて下記のような記事を書いたことがあります。

「在特会」「行動する保守」「草の根保守」について分析したいくつかの記事(弊ブログ 2010.03.17)

その中で私は朝日新聞の藤生京子記者が2002年に書いた「『アンチ左翼』意識で結ばれる“草の根保守”」という記事(上記ブログ記事参照)を好意的に紹介していました。

「朝日新聞の藤生記者は上記『〈癒し〉のナショナリズム』の著者の上野さんの眼に託して草の根保守の思想の源泉を次のように見ています。/『持ち前の人なつっこさですぐに溶け込んだ上野さんが見たのは、どこにでもいるホワイトカラーの人々、堅苦しい政治運動とはほど遠い「サークル的」雰囲気だった/彼らを共同体としてつないでいたものが『アンチ左翼』意識だ。左翼、市民運動家、人権主義、マスコミ、官僚、中国といった攻撃対象に挑みかかる。といってナショナリスティックにすぎる言動はノー。天皇万歳を叫ぶ古典的な右翼を苦手とする意見もあった。/運動より仕事や家事という本業を大切にする個人主義、過激さを敬遠すること、皇太子の子どもの誕生を祝う程度の戦後世代の平均的な天皇観しか持ち得ないこと」/私として上記の分析につけ加える用意はいまありません」、と。

しかしいまは、「草の根保守の思想の源泉」を探ることだけでは弱いだろう。「運動より仕事や家事という本業を大切にする個人主義、過激さを敬遠すること、皇太子の子どもの誕生を祝う程度の戦後世代の平均的な天皇観しか持ち得ない」ふつうの市民が持つその草の根の保守思想が結果としてどこに帰着しようとしているのか。あるいはどこに着地させられようとしているのか。そのことについてももっと真剣な議論を喚起する、喚起しておく必要があるのではないか、と反省的に思っています。

はなゆー氏の上記の情報を見るにつけ、私たちの国のポイント・オブ・ノーリターン(帰還不能点)の日の到来することの決して遠くないことが実感として私の身内、心理に迫って来るのです。それは懼れ慄きの思い、戦慄の思いといってもよいでしょう。

再び堀茂樹氏の指摘をリフレーンしておきます。「もはや『無視』などという言葉で、見て見ぬふりはできませんね。

追記:なお、はなゆー氏は追加情報として饗場和彦氏(徳島大学総合科学部)の「ルワンダにおける1994年のジェノサイド―― その経緯,構造,国内的・国際的要因 ――」という論攷も紹介、添付していました。
ポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)などの抗議などによってにわかに社会面的なホットニュースになった感のある「会田誠展 天才でごめんなさい」の展覧会開催について同展の主催者の森美術館と同展作品出品者の会田誠氏が2月6日付けで「会田誠展について」という公式メッセージを発信しましたが、その公式メッセージの発信についてもさらに「誤魔化しだ」とか「会田氏は典型的な性差別主義者だ」などというPAPSやポルノ・買春問題研究会 (APP)の抗議文賛同者の間からの批判がとまりません。

以下は、「僕は必ず、芸術における屈折表現――僕はそれをアイロニーと呼んでいますが――として使用しています(あるいは、僕個人はこの言葉をあまり使いませんが、『批評的に使用しています』と言い直してもいいのかもしれません)。 け して単線的に、性的嗜好の満足、あるいは悪意の発露などを目的とすることはありません」という会田氏の公式メッセージの中の言葉を「誤魔化しだ」と批判する宮本節子さん(ソーシャルワーカー)の「会田誠展」批判の抗議文に賛同した289人のうちの1人の人の会田氏批判に対する私なりの反論と「会田氏は典型的な性差別主義者だ」といまなお主張するポルノ・買春問題研究会 (APP) 関係者の1人の会田氏批判に対する同じく私なりの反論です(原文はジェンダー関係のメーリングリストに発信しました)。

宮本節子さんの「会田誠展」批判の抗議文に賛同
した289人のうちの1人の人に対する反論

> ≪僕は必ず、芸術における屈折表現――僕はそれをアイロニーと呼んでいますが――として使用しています(あるいは、僕個人はこの言葉をあまり使いませんが、『批評的に使用しています』と言い直してもいいのかもしれません)。 けし て単線的に、性的嗜好の満足、あるいは悪意の発露などを目的とすることはありません。≫という言葉は、誤魔化しだと思います

Aさん

私はジェンダー関係のメーリングリストの前便で会田誠氏のお連れ合いでフェミニストアートの画家の岡田裕子さんのこの件に関する「意見」()をご紹介しておきましたが、その中で岡田さんは次のように言っていました。

「はい、わたしはこんな展覧会に呼ばれる作家です。ちなみにブルックリンミュージアムのグローバリズムフェミニズム展は、それはそれで過激な表現が多く見られ、ヌード、流血、自傷等。目玉はジュディシカゴのディナーパーティ、女性器を模した皿が巨大な三角のテーブルに並べられているというもの。性的な表現はむしろフェミニストアートに多いのです。しかしフェミニストアートはポルノを彷彿とさせる表現であっても作者が女性であること、主題の内容などの関係でフェミニスト団体からのクレームはあまり無いように思います。では作者が男性であっても主題によってはそれが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう」

岡田さんによって紹介されている上記のフェミニストアートの女性画家たちも自分たちの「ポルノを彷彿とさせる表現」について問われればおそらく会田氏と同様の見解を吐露するでしょう。「けして単線的に、性的嗜好の満足、あるいは悪意の発露などを目的とすることはありません」、と。(いまはいちいち彼女たちの見解を検証するつもりはありません)

その場合、彼女たちのその発言もやはり「誤魔化しだ」とHさんは批判される用意はありますか?

その用意があるというのであれば上記のHさんの発言はHさんなりの発言として筋がとおります(私とは見解は異なりますが)。

しかし、その用意はないというのであれば、再び岡田裕子さんの問いに戻らなければならないでしょう。「では作者が男性であっても主題によってはそれが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう」、という。

私のこの問いにAさんはどうお応えになられますか?

上記の私の問いへの応えのない会田氏批判は私にはナンセンスとしか言いようがないのですが。

なお、上記の会田氏の発言は今回の抗議(2013年)に対する「誤魔化し」の弁明にすぎない、というご主張であれば、それは違います。これも前々便でご紹介したように会田氏は2008年の時点で今回の弁明と同様のことを述べているからです(「会田誠インタビュー」ART iT (アートイット) 2008年10月号)。すなわち、今回の抗議に対す 「誤魔化し」の弁明ではありえません。

「会田氏は典型的な性差別主義者だ」といまなお
主張するポルノ・買春問題研究会
(APP) 関係者
の1人に対する反論

Bさん

私はこのメーリングリストでの議論で基本的に会田誠氏の作品評価をするつもりはありません。作品評価というものはそれが美術作品に限らず文学作品その他であっても評価が分かれるのが常だからです。そうした作品評価をここで繰り広げてもラチはあきません。

だから私は先ほどのHさん宛てのメールでも次のような問いを立てて質問しました。

フェミニストアートを描く女性アーティストの中にも「ヌード、流血、自傷、ジュディシカゴのディナーパーティの席という設定で女性器を模した皿が巨大な三角のテーブルに並べられているという」「ポルノを彷彿とさせる表現」をモチーフにした作品は多い。(岡田裕子氏)それらの作品を描くフェミニストアートの女性画家たちにも会田誠氏への批判と同様の批判を投げかけますか? と。

同じ質問をKさんにもしてみましょう。あなたが問題視する会田誠氏の「巨大フジ隊員VSキングギドラ」風のタッチの作品は上記で見たように女性アーティストたちによって描かれるフェミニストアートの作品にも多く見られるのです。Kさんならどうされますか? この女性アーティストたちにも会田誠氏批判と同様の抗議の刃をやはり向けられますか?

はじめに私は「基本的に会田誠氏の作品評価をするつもりはありません」と述べましたが、それでも少しのことは述べておこうと思います。

会田誠氏の作品の中には「美しい旗(戦争画RETURNS)」に代表されるこちらの画像に見るような作品も少なくなくあります。


美しい旗 
美しい旗 「戦争画RETURNS」 (1995)


空爆図 
紐育空爆之図 「戦争画RETURNS」 (1996) 

この点について森美術館館長の南條史生氏は次のように述べています。

「森美術館が、日本の重要な現代美術作家である会田誠の展覧会を構成するにあたって考慮したことは、これまで会田が制作した多様な作品を、偏ること無く、できる限り網羅的に紹介することでした。彼の作品は戦争、国家、愛、欲望、芸術などについて、しばしば常識にとらわれない独自の視点を開示しています。そして諧謔(かいぎゃく)と洞察に満ちた会田芸術の本質は、彼の作品の総合的な紹介によってのみ、理解することができると考えています。」(「会田誠展について」 2013年2月6日

上記に関連して「うぶ毛が生え胸がツンとしてくる14歳の少女には奇跡の時間がある!」という上記の「ヒロイン手帳」のインタビュー記事における会田誠氏の発言は「典型的な性差別主義者」としてのそれであるというKさんの会田氏「断罪」発言についても少し触れておきます。結論を先に言っておきますと、会田誠氏の「ヒロイン手帳」での一連の「うぶ毛が生え胸がツン」発言は自身の作品を「精神のメタファー」として解説しているもので直截に彼の「ロリコン嗜好」の志向性を語ったものではない、というのが私の解釈です。

実際に会田氏はART iT誌(2008年10月号)の「会田誠インタビュー」で自身の作品制作のモチーフについて次のように語っています。

「学生時代に着想した『犬』シリーズは、我を殺してひたすら丁寧に描く、という職人的画家のシミュレーションです。タッチはあくまでも高貴さを目指しつつ、しかしモチーフには変態性欲を選びました。そのギャップの味わいを試してみたわけです。近代日本画、あるいは古美術的なものに異質な何かをぶつけて揺さぶってみたい、これが美術家デビュー以前の最初期にあったモチベーションでした。なので、ああいった切断・嗜虐志向は僕自身の趣味というわけではないのです。ロリコン気質はちょっとありますが。このシリーズにはまだ描いていなかった図案があったので、この機会に取り組んでみたという次第です。」

上記に言う「ロリコン気質はちょっとあります」云々の発言はもちろん本音の部分はあるに違いありませんが(深層的には「ロリコン気質」であるかどうかは別として「○○気質」的なものは誰にでもあるでしょう)、冗談、あるいは諧謔(アイロニーとも換言できるでしょう)の要素の方が断然に強い発言と見るべきものでしょう(上記2つの赤字部分はK氏の質問に対応させています)。

この点についてふじいりょう氏は「『会田誠展:天才でごめんなさい』を観て考えたこと」という記事の中で会田誠氏の作風を次のように分析しています。

「なぜ会田氏の作品を展示するのかという問いに対しては、南條史生森美術館館長が明確に述べている。

「会田誠氏は、いま最も注目されている日本の現代アーティストの一人です。彼の作品の主題は、美少女、歴史、戦争、漫画、サラリーマンなど多様で魅力的ですが、そこにはユーモアを交えながらも、社会、政治、文化など私たちを取り巻く状況に対する疑念と批判が内包されています。」

つまり、エロティシズム溢れる作品もエロそのものがテーマなのではなく、社会の反映としての側面が色濃く、そこにこそ価値があるという考え方になるだろうか。個人的にも納得できるし、多くの美術ファンにも受け入れやすい会田評といえるだろう。/例えば、リストカットした少女を中心にアダルトコミックのコマのような絵をコラージュした『モニュメント・フォー・ナッシングⅢ』は、若い女子の性が社会から消費されているのが主題だと、観る者に自明なような表現になっている。これが扇情的な作品であるという批判をするひとがいたとすれば、アートを知らないな、と一顧だにされないと思う。/『PAPS』が槍玉に挙げている連作『犬』シリーズは、裸の少女の両手両足が切断され包帯を巻いて、あたかも犬のような表情を浮かべているのだが、これも自ら傷つけていく精神のメタファー(強調は引用者)に過ぎず、エロティシズムそのものを正面から描いた作品とは言いがたい。/彼の描く裸像は手段であって目的ではなく、彼女たちを通して現代社会を透けて見えるというカレイドスコープのような役割を果たしている(同上)ことこそが、多くの美術関係者や愛好者の支持が高い理由でもある。」(「『会田誠展:天才でごめんなさい』を観て考えたこと」 Blogos 2013年02月01日)
     
そういうことだろう、と私も思っています。

追記(2月10日):上記は会田氏の作品、というよりも美術作品を評価する際の一般論を述べている(あるいは紹介している)ものにすぎません。私は会田氏の作品を必ずしも評価しているわけではありません。私の会田氏作品の評価については、この連載(結果として連載になってしまいましたが)の1回目で「気分が悪く、うそ寒い悪寒のようなものがする」という会田作品に対する私の違和感を述べています(もっとも「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」(岡本太郎『今日の芸術』 1954年)という指摘もあるわけで、そういう意味では私は会田氏の作品の「芸術性」は認めてはいます)。その私の会田氏の作品評価とこの連載で会田氏批判を反批判、その批判の誤りを指摘していることとは別の次元のものであることをお断りしておきます。
前エントリで私は、会田誠展「犬」シリーズ評価をめぐって会田氏のパートナーでフェミニスト・アートの作家の岡田裕子さんのツイッター上での意見()を紹介しておきましたが、その岡田さんの論についてこの5日にあった「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」の主催者の前田朗氏(東京造形大学教授)が主に読解力不足が原因の無理解きわまる反論をしています。

その前田氏の反論の内容はこちらで確認していただくことにして、ここではその前田氏の反論への私の再反論を掲載しておきたいと思います。もちろん、前田氏の無理解の論を放置しておくことの負の影響の決して少なくないことを考えてのことです(前田氏と私との「論争」はフェミニズム問題以外の主題を含めて長年にわたっているので個人的評価への反論も含みますがその点はご容赦ください)。

なお、上記の「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」の報告には主催者側、参加者側の両者から次のようなものがあります。

(1)参加者側:「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」昼間たかし氏と渋井哲也氏の実況を中心としたツイート
(2)同上:「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」実況以外の反応
(3)主催者側(前田朗氏):「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」報告

追記(2月8日):なおまた、この問題については、森美術館と会田誠氏本人が2月6日付けで「会田誠展について」という公式メッセージを出しましたので追記しておきます(会田氏はご自身のメッセージを「あと少し書き足し」たそうです。近日中にアップされる予定のようです)。

さて、前田朗さんの岡田裕子氏批判に対する私の反論は次のようなものです。

(1)を見ると前田さんのご報告(3)にある「パネラーに対する誹謗中傷をしたり、反対意見の女性に駆け寄ってつかみかかったり」した人はどうやら昼間たかしというフリーライター氏のようですね。しかし、このハプニングを逆の見方をしている人がいます。

「さすがに主催者の意見に批判的な人に罵声をあげて掴みかかるとか、主催者が人を議論の対象じゃないと決めつけて退出を命令するとか、討論会と名乗る集会としてはどうなのかなぁという展開になっている『森美術館問題を考える討論集会』」

(1)を見ると「昼間たかし‏@quadrumviro:参加者から「座れ」とヤジが来たので「なにいってんだ!」と言い返すために近寄ったら、精神科の先生に取り押さえられ、前田氏に「出って行って下さい!」といわれ
とあるので(私はこの昼間氏のツイッター発言を必ずしも真だと思っているわけではありませんが)、この逆の見方をしている人は昼間氏が「精神科の先生に取り押さえられ」たところを見て上記のような視野狭窄の感想を述べているのかもしれません。いずれにしても公正な「実況」とはいえませんね(主観が勝ちすぎている)。

次に前田さんの論点に対する感想をいくつか。

> セクシュアリティがからむと頓珍漢な意見を述べて顰蹙を買ってきた東本さんらしい文章です。

「頓珍漢な意見」とか「顰蹙を買ってきた」などというのは前田さん個人のご意見、すなわち主観でしかありませんね。実際に私は前田さん以外からこの問題について「顰蹙を買っ」た覚えはありません。こうしたあなたの主観にすぎないことをさも「客観」のように言うところこそまさに「前田さんらしい文章」というべきところでしょう。

> 第1に、私たちは森美術館を批判しているのであって、NY事情など関係ありません。NYで問題があると思う人はそこで発言すればいいだけのことです。

私が会田誠氏のお連れ合いの岡田裕子さんの意見を紹介しているのはジェンダー関係のメーリングリスト上でのことです。
同メーリングリスト上ではさまざまな会田誠氏批判がありましたので(「森美術館批判」というよりも)、その批判に対するひとつのアンチテーゼとして「こういう意見もありますよ」という程度に岡田裕子さんの意見を紹介しているわけです。「森美術館批判」オンリーのアンチテーゼとして岡田さんの意見を紹介しているわけではありません。また、岡田さんの意見は、フェミニストアートの世界的基準をひとつの例証として日本のフェミニズム運動の限界性を指摘しているもので、岡田さんの意見を単なる「NY事情」の紹介などと矮小化するのは岡田さんの指摘の正しい読み方とはいえないでしょう。

> 第3に、女がやっても批判がなくて、男がやると批判があるのはおかしいという、根本的な無理解を露呈した文章を好意的に取り上げています。(略)セクシュアル・ハラスメントや性差別は、男が女に対して行うから問題なのではありません。権力関係を利用して行うことが基本です。

ここでも前田さんは岡田さんの指摘を矮小化しています。セクシュアル・ハラスメントや性差別の問題は根本的には「権力関係」の問題である、ということはフェミニストにとって常識の部類に属する「知」の問題といってよいでしょう(たとえば村上英吾著「研究者養成課程における権力性と性差別」参照)。グローバリズムフェミニズム展に呼ばれる作家でフェミニストの岡田さんがそうした「常識的知」すら知らないと考える方がむしろ非常識的です。

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グローバリズムフェミニズム展の会場となった
ブルックリン美術館・ミュージアム(NY市)


岡田さんがつぶやいた今回のツイッターでの論はツイッター上の論という制約から「権力関係」の問題まで論を拡張していないだけだ、というように理解するのがふつうの理解というものでしょう(ただし、岡田さんはこの点についてはなにも言及していませんので左記はあくまでも私の推測です)。また、セクシュアル・ハラスメントや性差別の問題は権力関係の問題であるという認識からは「男」や「女」という性的附従性は本質的な問題ではありえませんから「権力関係」の問題として「女がやっても批判がなくて、男がやると批判があるのはおかしい」という批判にも当然なっていくでしょう。それを「根本的な無理解」などという前田さんの論理の方が逆に「おかしい」のです。

> 第4に、そもそもフェミニズムを持ち出していることがお笑いです。(略)一部の人々は会田作品擁護のつもりで、フェミニズム叩きをして、論点すり替えに励んでいます。

私は「フェミニズム叩き」にはもちろん賛成しませんが、宮本節子さん(ソーシャルワーカー)の「会田誠展」批判がジェンダー関係メーリングリストを通じて短期間の間に急速に拡まり、今回のような抗議活動が展開される最大の契機になったのは事実です。私はそのジェンダー関係メーリングリストの参加者のひとりですからそのことは事実をもって立証できます。そして、そのジェンダー関係者の「会田誠展」批判がPAPS(ポルノ被害と性暴力を考える会)の抗議を含めて往々にして的外れな論であることが多い、というのは私がここ数回の弊記事で「引用」という形で間接的に立証していることでもあります。前田さんはその事実を見ておられないようです。

> 第5に、「単純な否定では無く、議論すべき作品である」などというのも、卑劣なごまかしです。森美術館に抗議した「考える会」や宮本節子さんたちは、「単純な否定」などしていません。きちんと議論しましょうと言って、自分たちの論拠を明快に提示しています。それを無視して、「単純な否定」などと虚偽のレッテルを張って非難するのは悪質なデマゴギーにすぎません。

宮本節子さんたちが「単純な否定」などせずに「きちんと議論しましょう」と言っていることは私も承知しています。しかし、私から見ればPAPSの主張には「単純な否定」の主張もあることは否めないことのように思います。たとえばPAPSの下記の主張などは「単純な否定」以前の問題、すなわち誤りというべきものです。

「カナダ、EU諸国、オーストラリアなどの主要先進国においてはすべて、これらは違法な児童ポルノとして処罰の対象になっています」

こちら
のサイトが「フランスで、犬シリーズが収録された書籍が発行されて」いる事実をあげて、上記のPAPSの主張の誤りを端的に指摘しています。

岡田裕子さんの「それが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう」という主張は「悪質なデマゴギー」ではありません。「虚偽のレッテルを張って非難」云々の批判も当然当たりません。逆に両方の非難のどちらとも実のところはあなたに帰すべき問題といった方が適切です。
前田さん

森美術館問題を考える討論集会」はいよいよ本日の開催ですね。実りある議論の応酬を期待しています。

はじめにこの問題の当事者の会田誠さんがツイッターで前田さんにエール?を送っていますので、そのエールをまずご紹介しておきます(すでにご存じかもしれませんが)。

「前田朗さんは僕の展覧会見てくれてないんだろうなあ。なんならタダ券あげるけど。一緒に会場回るのも吝かじゃないよ。18禁部屋、あんなモンほんの一部だから、サラリとでいいよ。戦争画リターンズとか、現代社会扱った作品のところでじっくり話し合おうか。もしかしたら意気投合…ないだろうけど。」

また、以下は、先ほどジェンダー関係のメーリングリストに発信した私の意見です(作家の彦坂諦さんへの反論的返信として書いたものです。)。ご参考までに本日の集会の問題提起者のおひとりとしての前田さん宛としても掲げておきます。
*この件について彦坂諦さんから返信がありました。追記をご参照ください。また、前田朗さんからも「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」の報告があります。追記3として掲げておきます。

彦坂さん

前便のあなたのメールの主旨が何度も読んでみましたが私にはよく掴みきれませんので質問させていただきます。

あなたは前便メールでポール・ニザンの「文学とは読者を『不快にする』ものだ」という言葉を引用した上で次のように書いています。

「だれを「不快にさせる」のか?/きのうそうであったようなおだやかでなにごともおこらない生活が/きょうもあすもつづいていくのだとつゆうたがわず、/その安穏にくびまでどっぷりつかっている/そういうひとびとを、でした」、と。

この「安穏にくびまでどっぷりつかっている/そういうひとびと」とは「『会田某展』という言い方はいかがなものでしょう?」という問題提起をされたⅠ氏ほかの人たちのことを指してそう言っているのでしょうか?(Ⅰ氏のメールへの返信としての「だれを『不快にさせる』のか?」発言ですからそのように受けとめるほかないのですが)

だとすれば、彦坂さんのご認識には私は同意できません。

会田誠」という氏名がはっきりわかっている人のことをあえて「会田某」と言う。そこに会田氏に対する批判の意思が働いていることは明らかです。もちろん批判は自由です。しかし、その批判は、一般に理路のあるものでなければ他者(ひと)の共感は得られません。それをあえて理路とは関係なく「会田某」と不定称形で言う。その言い方には「批判」以前の問題として会田氏をはじめから「貶めよう」とする意志が働いています。

そういう「批判」のありようは「マズイ」のではないか、というのがⅠ氏の問題提起でした。そうした問題提起者を指して、仮に「安穏にくびまでどっぷりつかっている」人の例示としてあげているのならば、そうした評価は正しい評価とはいえないだろう、と私は思います。

なお、ポール・ニザンはサルトルなどの評論を通じて私も名前だけは知っている作家ですが、彼の著作を直接読んだことはありません。「文学とは読者を『不快にする』ものだ」という彼の評言はなんという著作の中での評言でしょうか? ご教示いただければ幸いです。

なお、さらに、私は昨日、会田誠氏の「犬」シリーズ問題の二便として「『犬』シリーズの評価をめぐって(2) 報道と参考記事(重要な指摘)」という記事を書きました。

その中で、私は、フランスでの事例をあげて「カナダ、EU諸国、オーストラリアなどの主要先進国においてはすべて、これらは違法な児童ポルノとして処罰の対象になっています」とするポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)の主張の誤りを実証的に指摘しているサイトの論を紹介しています。これもご参照いただければ幸いです。

なおまた、同記事の中で、会田誠氏のお連れ合いの岡田裕子さんのこの問題についての意見も紹介しています(岡田裕子さんの意見がある、という事実だけはすでに紹介ずみですが)。

その岡田裕子さんの意見は次のようなものでした。

「はい、わたしはこんな展覧会に呼ばれる作家です。ちなみにブルックリンミュージアムのグローバリズムフェミニズム展は、それはそれで過激な表現が多く見られ、ヌード、流血、自傷等。目玉はジュディシカゴのディナーパーティ、女性器を模した皿が巨大な三角のテーブルに並べられているというもの。性的な表現はむしろフェミニストアートに多いのです。しかしフェミニストアートはポルノを彷彿とさせる表現であっても作者が女性であること、主題の内容などの関係でフェミニスト団体からのクレームはあまり無いように思います。では作者が男性であっても主題によってはそれが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう。そのためには実際に作者の展覧会を観る事、画集、著書等熟読したのち議論の場に立つべきで、そうでないと水掛け論で終わってしまい、断絶が深くなる一方かと思われます。そもそも議論のきっかけと成り得るのが美術作品の存在意義のひとつであるでしょうし。以上、会田誠妻つぶやきでした。『妻』と言われると痒いんですが…。美術を志すパートナーだと思ってます。今後も表現の上では、劇団★死期など協力体制を取るものもありますが、個人としては全く主題が対立したものも制作する事もあるでしょうし、お互いにそういう理解のもとで付き合ってます。」(

上記の岡田さんのご意見のうち「性的な表現はむしろフェミニストアートに多いのです。しかしフェミニストアートはポルノを彷彿とさせる表現であっても作者が女性であること、主題の内容などの関係でフェミニスト団体からのクレームはあまり無いように思います。では作者が男性であっても主題によってはそれが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう」という指摘は、いまある多くのフェニミズム団体、あるいは個人(フェミニスト)の思想の欠陥の本質を衝いたとりわけ重要な指摘であるだろう、と私は思っています(実は私も岡田さんのご意見とほぼ同様の思いを長い間抱き続けています)。

追記:彦坂諦さんからの返信。

東本さん、
 
なるほど、そういう受けとりかたもあったのですか。
わたしとしては寝耳に水でしたが、そう言われてみれば、
だれのどのメールに返信というかたちをとるかについても
じゅうぶん慎重にしなければいけないのだと
思いしらされました。軽率でしたね、わたしは。

Ⅰさんそのほかの、あなたがあげておられるかたがたに
向けた発言であると受けとられるかもしれないなどとは
これっぽっちも予想してなかった。
もちろん、わたしの意図はそんなところにはありません、。
したがって、そう「受けとるほかない」ということを前提にした
あなたの批判には関心がありません。

ひとつだけ、
先便では「美術批評をする気はありません」と書いたけれど、
美術批評にかぎらずどのような芸術論もするつもりは毛頭ありません。
うんざりしているのです。

ニザンのやったことは、当時の「術語」で言えば「プチ・ブルジョワジー」に属するひとびとを不快にさせることでした。
わたしが「その安穏にくびまでどっぷりつかっている」と言って暗示しようとしたのは、

白井愛が後半生のすべてをかけて、むなしく刃をつきつけたひとたちです。
このわたしやあなたのことです。

わたしはニザンを「引用」などしていません。
ニザンという作家がその生涯と作品をとおしてやろうとしたことを
わたしのことばでのべたまでです。

典拠をあげるつもりはありませんが、それでも気になるとおっしゃるのなら、日本語で読める文献としては、ジャクリーヌ・ライナー他『今日のポール・ニザン――ポール。ニザン著作集・別巻2』(浦野衣子訳、晶文社1975)の冒頭にあるイヴ・ビュアン「ニザンあるいは不快感」でも御参照あれ。

イヴ・ビュアンのこのエセーには、エピグラフとしてサルトルのことばが
引用されています。この二人の対話のなかで発せられて(いる)ことばです。
「不快感をとり去ってしまえばもう芸術はなくなってしまう」(『クラルテ』1964年3-4月号)
(ちなみに、malaiseは「いごごちのわるさ」とも訳せます。)

ここで発せられたのとおなじ発音のことばがあまりにも浅薄にもちい(ら)れているという気がした(だれがどのようにといった詮索はいたしません)ので、ついつい筆がすべっただけ。

彦坂 諦

追記2:東本(ブログ筆者)の再返信

彦坂さん

特定の人を対象にした返信なのか? それとも「文学とは読者を『不快にする』もの」ということについての彦坂さん流のポール・ニザンの解釈を一般論として述べたものなのか? 彦坂さんの発言の意図は奈辺にあるのか? 私としては量りかねたので「質問」の形をとらせていただきました。が、彦坂さんの発言の意図は私の解釈とは別のところにあった、ということがよくわかりました。私の解釈は誤りであったことをお詫びして取り下げます。失礼の段はご容赦ください。

しかし、ある議論の過程の発言はそこでの議論の文脈と無関係にあるのではない、ということは、彦坂さんにもご留意していただきたいことです。私のような誤解も生じかねませんので。

「不快感をとり去ってしまえばもう芸術はなくなってしまう」(ちなみに、malaiseは「いごごちのわるさ」とも訳せます。)ということばと「おなじ発音のことばがあまりにも浅薄にもちいられている」という「イヤな気分」がくすぶっておられたのですね。そういうことをひとこと書いていただいていれば私も誤解しなかったのですが・・・

東本高志

追記3:前田朗さんからの「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」報告(2月6日)

昨日、「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」を開催しました。簡単な報告です。

私はあいにく風邪をひいていて、しかも、前日から、ネット上ではこの件で私に対する誹謗中傷が飛び交っていましたし、「潰せ」などという書き込みもあったので、やや神経質になりながら開会しました。

途中、会田誠擁護派の男性1名が、パネラーに対する誹謗中傷をしたり、反対意見の女性に駆け寄ってつかみかかったり(他の参加者2名が割って入って事なきを得ました)、罵声を浴びせながらカメラを向けるなど、暴力的な行為があり、騒然とする一幕がありました。主催者の指示を無視し、叫んだり、恫喝をしたりという、妨害行為です。会田誠派はこういう人たちだと言いたくもなりますが、この人物個人の問題です。会田誠氏本人とはまったく無関係の人です。

しかし、他の参加者はとても冷静に対応してくれて、最後まで有意義な会を持つことができました。

前半は、個人として森美術館に抗議した宮本節子さん(ソシャルーワカー)、ポルノ被害と性暴力を考える会の森田成也さんから、それぞれ抗議に至った経過や、ポルノによる性差別と暴力性、ポルノを公共の空間である美術館に展示することの問題性についてお話しいただきました。

続いて、私が「芸術とスキャンダル」について、芸術が結果としてスキャンダルになった時代から、スキャンダルを引き起こしてそれに「芸術」というレッテルを張る時代への変化に触れ、芸術だから何をやってもいいという「芸術特権論」、芸術至上主義のもとで自己目的と化したスキャンダル・アート、勘違いお騒がせアートの話をしたうえで、森美術館問題については博物館法の基本に立ち返ることを述べました。

後半、会場発言では、11人の発言がありました。3人のパネラーに対する疑問や批判的立場からの発言を優先したところ、4人の発言がありました。公共空間を具体的に定義できるのか(電車の中、美術館、一般の出版物など)。スウェーデンでは漫画は児童ポルノに当たらないという判決が出ている。暴力被害と言うが、喜んでいる女性もいるではないか。絵画の場合と言葉による表現など、表現形態によってどこがどう違ってくるのか、などなど。

その後、展示を見た人たちが「犬」シリーズへの批判的感想を述べました。女性差別問題に取り組んでこられた方たちの発言は、宮本さんの報告を補足するとても良い発言になりました。

他方、「15歳の時に初めて見て会田作品のファンになった。東京に出てきて森美術館の展示を見られてとても嬉しかった。この会で、まったく違う見方をする人がいることがわかって、良かった」という発言がありました。暴力の後で騒然とした時に、若い女性がこの発言をしてくれたのはとても良かったです。

終了後、何人もの方から、「こういう時期によく開催してくれた」「とてもいい集会だった」との言葉をかけていただきました。

今回は、1月31日に準備を始めてわずか6日でしたので、討論としては不十分ではありましたが、やってよかったとホッとしています。

感情的対立からヒートアップしがちなテーマで、あえて火中の栗を拾って抗議の声を上げ、パネラーとして発言していただいた宮本さん、森田さんのおかげです。感謝します。

今回不十分だったのは、美術館とは、という討論を詰めることができなかったことです。学芸員や美術評論家のご意見がほしいのですが、準備期間が短すぎました。次回、なんとか第2弾をやりたいと考えています。
前エントリ記事「『犬』シリーズの評価をめぐって」の追記にはこの問題を考えるにあたっての重要な指摘がいくつもあります。そういうしだいで追記の位置では読みすごされやすいので注意を喚起するためにもあらたなエントリを起こすことにしました(追記は項目別に並べ直しました)。

【「『犬』シリーズの評価をめぐって」の主題と要点】

追記1:前エントリ記事での私の意見の主意は、「権威」(この場合は最高裁)から「お前の『作品』は法律違反だ」と断罪された永井荷風はまたあの治安維持法体制下の中でも「時局におもねることのない『断腸亭日乗』を遺した稀有の作家でもあった、というところにあります(一個の例)。会田誠氏の作品の「犬」シリーズが「わいせつ」か否かを主題にしているわけではありません。主題はあくまでも「権威」です。

・「公共空間」(森美術館)という「権威」を問題にする人が逆に暗黙の前提として「時代の道徳観」(世論)という「権威」に依拠してモノを言っていないか(本人はそのことに気づかず「正義」と思いこんでいる)。

・そうした「権威」によって会田誠氏の犬シリーズをただちに「作画によるあからさまな児童ポルノであり、少女に対する性的虐待、商業的性搾取」 に結びつけることは正しいことか?

・「エロ・グロの境界」を描いたからといって作者の思想もそのままエロ・グロということにはならないだろう。

・「エロ・グロの境界」を描くことによって逆にエロ・グロの問題性がかえって浮かび上がってくるということもあるだろう(作者の意図のありなしにかかわらず)。

要は「犬」批判は短絡的ではないか、という問いが主題でもあります。

【報道】

追記2:主に映画情報を掲載しているシネマトゥデイ紙(2013年1月29日)によると、会田誠氏の問題の作品群を含む展覧会を開催している森美術館は、ポルノ被害と性暴力を考える会などの「児童ポルノ・障害者差別を容認している」という抗議を受けて現在その対応を協議しているとのことです。そのなりゆきを注視したいと思います。「会田誠の展覧会に抗議文!児童ポルノ・障害者差別を容認しているとの指摘」(シネマトゥデイ 2013年1月29日)

追記3:J-CASTニュースも1月29日付けで「会田誠展 天才でごめんなさい」への抗議問題を報じています。また、その記事の中で当事者の会田誠氏のツイートも紹介されています。「『首輪の全裸少女』作品に市民団体が抗議 会田誠展は本当に『性差別』なのか」(J-CASTニュース 2013年1月29日)

【会田誠氏の発言】

追記4:会田誠氏のツイートを見てみましたが、なかなか面白い。当然、ここ数日間の「抗議問題」についても触れられています。「(フェミニズムに)片足突っ込んで」いるフェミニストのお連れ合いの岡田裕子さんもご意見を開陳されています()。会田氏によれば、会田さんのお母さんも「頑迷なる初期フェミニスト」だったとか・・・

追記5:会田誠氏自身の「犬」シリーズについての見解。「学生時代に着想した『犬』シリーズは、我を殺してひたすら丁寧に描く、という職人的画家のシミュレーションです。タッチはあくまでも高貴さを目指しつつ、しかしモチーフには変態性欲を選びました。そのギャップの味わいを試してみたわけです。近代日本画、あるいは古美術的なものに異質な何かをぶつけて揺さぶってみたい、これが美術家デビュー以前の最初期にあったモチベーションでした。なので、ああいった切断・嗜虐志向は僕自身の趣味というわけではないのです。ロリコン気質はちょっとありますが。このシリーズにはまだ描いていなかった図案があったので、この機会に取り組んでみたという次第です。」(会田誠インタビュー ART iT (アートイット)  2008年10月号)

【会田作品及び「犬」シリーズの評価】

追記6:会田氏の画風と思想の関係(本文中の「美を考えないで美を生む『会田 誠』」 影山幸一も参照)についての理解には会田氏を評価するサイドの人の記事ですが次の記事も参考になります。「『会田誠 トリックスター』『会田誠 昭和40年生まれ』『会田誠 境界線』『会田誠 津田大介 対談』」(イソザキコム Archive for 11月, 2011

では会田誠は?
アートと何の境界なのだろう。
エロ?テロ?オタク?
そんな疑問には意味はない。
なぜならアートに境界がそもそもないのだから。
        (「会田誠 津田大介 対談より)

追記7:以下の論も有用な論だと思います。ただし、「『PAPS』なる団体から、性暴力展示に対する抗議文が送付されたことで、様相が変わった(参照)。会田作品では1990年頃から既に暴力に晒される少女が登場していたし今更感が拭えない」という部分は私もそう思いますが、「(『PAPS』は)団体の名前を売りたいために有名な芸術家をターゲットにしたのでは、という疑いも感じる」という部分は筆者の思い込みにすぎない誤解でしょう(弊ブログ筆者は『PAPS』に近い人たちに(メーリングリスト上での)知り合いが多いのでほぼそう断言できます)。また、同記事中の下段にある「意見」欄もいちいち例示はしませんが参考になる意見も少なくなく見受けられるように思います。「『会田誠展:天才でごめんなさい』を観て考えたこと」(Blogos 2013年02月01日)

追記8:平野啓一郎‏さん(芥川賞作家)の「犬」シリーズ評価。会田誠さんの『犬』シリーズは、彼の勝手な妄想ではない。古くは高祖の妻呂后が、高祖の死後、寵愛を受けていた戚夫人の「両手足を斬りおとした。その美しい目をとり去った。耳をつんぼにさせ、薬で口をきけなくした。それを厠に置いて『人ブタ』と名をつけた。」(『司馬遷』武田泰淳)とある。」(続く)「僕はむしろ、このサイトに書かれているような都市伝説に基づく作品だと理解していた。そうしたデマに顕在化した欲望が主題となっている。そんなことはみんな分かりきって見ていると思ってたけど、意外とそうじゃなかったというのを今回知った。」(承前

【「犬」シリーズは「児童ポルノ」取締法に抵触するか(諸外国の事例)】

追記9:「犬」シリーズは主要先進国においては違法な児童ポルノとして処罰の対象となるか、についての一考察(すちゃもく雑記 2013-01-28)。その中に「フランスでは犬シリーズが収録された書籍が発行されている」という指摘もあります。「カナダ、EU諸国、オーストラリアなどの主要先進国においてはすべて、これらは違法な児童ポルノとして処罰の対象になっています」とするポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)の主張への実証的反証の提示といえるでしょう。

【パロディとしての「会田誠展」抗議文】

追記10:パロディとしての「会田誠展」抗議文も出ました。批判しようと思えば背広というサラリーマンの象徴としてのイコンを用いて批判することもできる。すなわち、ポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)の抗議は的外れそのもの、というアイロニー。題して「もし森美術館への抗議文をサラリーマンも書いてみたら」。

森美術館館長
南條史生殿

謹啓

私たちは貴館において現在開催されている「会田誠展 天才でごめんなさい」に関して、以下の抗議文を提出するとともに、今回の展覧会に関して下記の要求を申し入れします。

森美術館への抗議文 貴美術館が現在公開している会田誠展において展示されている「灰色の山」シリーズなどの一連の作品に対して、またそれらを公開している森美術館に対して、私たちは以下の強い抗議の意志を表明します。

この「灰色」シリーズで描かれているサラリーマンたちはスーツ姿で遺棄され(しかも六本木ヒルズ商業棟で売られているような高級ブランド品ではなくロードサイド量販店で1着1万円均一で売られているような仕様)、かつて社員旅行で訪れた温泉宿ではじけていたバラ色の人生La Vie En Roseではなくドブネズミのように描かれており、作品名もず
ばり「灰色の山」となっています。さらに、これらの作品の中でサラリーマンは表情が伺えず、このような逆境でさえ社命とあらば受け入れあるいは冷え切った家庭より居心地が良いと思っている、せめてカラオケではブルーハーツで「ドブネズミみたいに美しくなりたい」とがなりたてるサラリーマンの心意気は全く無視されています。

これらはまず第一に、作画によるあからさまなサラリーマン差別であり、サラリーマンに対する職業的虐待、商業的性搾取です。日本においては現在、服装による差別は違法とされていませんが、英国の映画「さらば青春の光」においてはモッズ姿の少年が描かれており、まだ髪がハゲてなかったスティングがセクシーだったこともあってスーツ姿が即ダサイと扱われておりません。日本でもやがてピタTシャツによる経営者が再登場するでしょう。このようなものを貴美術館は堂々と公開しており、これはサラリーマンに対する職業的搾取に積極的に関与するものです。

これらは第二に、サラリーマン=負け組男性を安売りスーツに5足千円の靴下を穿かせQBハウスの10分カットで裁断処理し、サラリーマンを最も露骨かつ暴力的な形で会社に従属させ、オフィス機器以下の社畜として扱うものです。これは、描写を通じた暴力の一形態であるとともに、すべてのサラリーマンの尊厳を著しく傷つける下劣な差別行為です。作者あるいは貴美術館はこのような表現を通じて社会の常識や権威に挑戦しているつもりかもしれませんが、実際にはそれは、小遣い月額3万円以下サラリーマン一般を金銭的に従属的な存在として扱っている社会の支配的価値観に全面的に迎合し、それをいっそう推進するものに他なりません。それは反権力どころか、権力の露骨な行使そのものです。

第三に、これらの作品は、量販店のスーツ装着のサラリーマンに対する差別と侮蔑の行為です。デフレが原因であれ能力主義の結果であれリストラにより収入ないしその一部を失っている人々を愛着ある窓際の事務椅子と一緒くたにして遺棄物扱いすることが許されるでしょうか? これのどこが反権威や反権力なのでしょうか? あなた方は、これらの
作品を当事者が目にすることで、どれほどの深い衝撃と精神的ダメージを受けるかを想像したことがあるのでしょうか?

第四に、このような二重三重に差別的で暴力的である諸作品を、森美術館のような、金満なヒルズ族が女連れで闊歩してそうなリア充施設が堂々と公開し、宣伝し、多数の入場者に公開していることは、このような差別と暴力を社会的に公認し、それを積極的に正当化することであり、社会におけるサラリーマンの小遣い搾取、サラリーマンに対する暴力と差別、窓際族に対する侮蔑と差別を積極的に推進することです。たとえば、アメリカやヨーロッパ、かつて「エコノミック・アニマル」として白人の心胆寒からしめたサラリーマンが、女装したりヴィレッジ・ピープルのような格好もせずに「作品」であることなどありうるでしょうか? あなた方がやっているのはそういうことです。

第五に、作品の中には、不要サラリーマン遺棄をあからさまに描写しているものもあり、これは自治体の廃棄物・リサイクル条例違反にあたる可能性があります。これらの作品はなんだか若者のアベック(※定年間近のサラリーマンはこの用語使用が義務づけられています)が多そうな展望台とセットで入館料1,500円を払わなければ入場できませんが、広く公開されていることに何ら変わりはありません。また中学生以下なら入館料500円を払えばリストラされたサラリーマンの子どもでも鑑賞することのできる状態で展示されており、これは青少年健全育成条例違反にあたる可能性があります。また、「灰色の山」シリーズを含む諸作品は、森美術館の正式のホームページに掲載されており、それは何らゾーニングされておらず、子どもでも簡単にアクセスできるものです。

私たちは、以上の観点から、森美術館による今回の展示に強く抗議するとともに、サラリーマンの尊厳を著しく傷つける諸作品の撤去を申し入れます。また、私たちは、森美術館の高級ブランド推進的立場、その差別性と格差肯定的姿勢、サラリーマンに対する差別推進の姿勢について、今後も広く世間に問題提起していく所存し、下記を要求するものです。

一.「灰色の山」展示に当たっては、「サラリーマンをみだりにいじめたり棄てたりすることは法律で禁止されています」という但し書きを付すること

一.日本政府はハローワーク等の諸機関を通じてサラリーマンのリサイクルに努めており、あくまで一時的な保管場所であることを明記すること。

一.サラリーマン1,000体に1の割合でウォーリーを描き入れること。ただし、同率によりサラリーマン金太郎を描き入れた場合はこの限りではない。


一.サラリーマン10,000体に1の割合で島耕作を描き入れ、「時代によってはうまいことヤレ、かつ逃げ切りができたこと」を明示すること。

一.天気のいい日に布団を干すこと(ただし、紐育爆撃に充てた場合は布団乾燥機による代替を可とする)

           2013年1月30日

サラリーマンの明日と明後日の晩酌を考える会世話人