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吉本隆明を追悼する文が各紙誌に掲載されていますのでご紹介させていただこうと思います。

私は図書新聞と週刊読書人の記事はいまだ未読ですが、文芸誌掲載の追悼文は概ね読みました。

その中で私としては蓮實重彦の「『握力』の人」(「文学界」5月号)という一文にもっとも共感しました。

同じく「文学界」5月号の芹沢俊介さんの「吉本さんとの縁」という一文には吉本の晩年、芹沢さんと吉本が袂別れするいきさつが描かれていて、吉本の晩年はさもありなん、と思わせるものがありました。

最後にインターネット上の吉本追悼文も少しばかり付記しておきます。もちろん、私の気づいたものに限られます。

読んでみて、私とほぼ同年の五十嵐仁さんの吉本論にはあまり賛成できませんでした。五十嵐さんは学生時代にいわゆる新左翼系の学生集団に襲われて片目を喪失していますが、そのルサンチマンが五十嵐さんのこの問題を論じる上での思想の傷跡になっているのかな、と少し残念に思ったものです。失礼ながら五十嵐さんは政治の人ではあるけれども、思想の人ではないな、というのが私の読後感です。

図書新聞(第3058号 2012年04月14日) 追悼特集 さらば! 吉本隆明
橋爪大三郎  日本の思想家・吉本隆明――権力について考え続け、最長不
          倒距離を刻んだ
山城むつみ  大人の論理と子供の感受性と――吉本氏には「子供たちが感
          受する異空間の世界」への感性が並外れてあった
最首悟     思想も実践もわかっちゃいない――繭玉のように表現を紡ぐ
          には、蚕のように静止しなければならない
丹生谷貴志  大河小説としての吉本隆明――この稀代の作家を、疑似原生
          林のようなものとして、遠く崇敬する
栗原幸夫    半世紀の時の向こうに――国を覆っていた党派性の支配にた
          たかいを挑む力業に、声援をおくっていた
月村敏行    「転位」、転向を続けた生涯――吉本さんの死を悼む
長崎浩     思想の自立を妨げた思想家吉本氏の思想の態度が、思想と
          いう言葉を自立させるとともに、思想は魔語となってその後の
         若い人たちの言説を縛る罠となった
三上治     吉本隆明さんを悼む――とても〈さようなら〉なんて言えない
粟津則雄   巨木、ついに倒る――生き生きした好奇心と、長年にわたり積
          み上げ練り上げてきた思考
野村喜和夫  詩人吉本隆明――吉本隆明の「死後の名声」のために
合田正人   壮絶な孤独――吉本が身を置き続けた「境目」は「底なしの深
         淵」にほかならない
金森修     〈疎外〉としての心――吉本隆明追悼
平川克美   世界に単独で対峙する文体――吉本隆明は、近くておよびが
         たい思想家だった
宇野邦一   孤独と母型――ある種の強固なナショナリストでもあった吉本
          隆明
川村邦光   隆明(リュウメイ)先生を弔う――東日本大震災を契機として
          試されている“自立化”
神山睦美   「死の思想家」吉本隆明――吉本隆明追悼
高橋順一   幻想論の最後の堺位――吉本隆明の『共同幻想論』と『最後
         の親鸞』
足立正生   三度現れた大衆主義原像――60年安保闘争が最も高揚して
         いるのに、寒そうにしていた吉本隆明
松本昌次   長いお訣れ――「吉本・花田論争」に対するわたしの選択

週刊読書人(2012年4月6日号) 大塚英志・宮台真司対談 「追悼 吉本隆
                      明」
週刊読書人(2012年4月13日号) 大西巨人氏に聞く 「吉本隆明君のこと」

群像5月号 〈追悼〉吉本隆明
三浦雅士   吉本隆明の悲哀
竹田青嗣   正しさから見放される体験
大澤真幸   「四回戦ボーイ」の原像
山城むつみ   ごく単純なこと一点だけ

文学界5月号 追悼 吉本隆明
蓮實重彦   「握力」の人
芹沢俊介   吉本さんとの縁
大井浩一   最後の取材

■新潮5月号 追悼 吉本隆明
中沢新一   「自然史過程」について
加藤典洋   森が賑わう前に
松浦寿輝   疲労と憤怒
福嶋亮大   ごわごわしたものの手触り

■ユリイカ5月号 追悼 吉本隆明
辻井喬
北川透
瀬尾育生
水無田気流

■現代思想5月号
磯崎新
高橋順一

■インターネット記事から
五十嵐仁の転成仁語(2012年3月17日)  なぜ、誰も吉本隆明の責任を追及
                          しないのか
五十嵐仁の転成仁語(2012年4月9日)    なぜ、誰も吉本隆明の責任を追及
                          しないのか
松岡正剛(千夜千冊 2012年3月16日)    緊急再録吉本隆明さん追悼 『藝術
                          的抵抗と挫折』(吉本隆明)
糸井重里(ほぼ日刊イトイ新聞 2012年3月16日) 糸井重里が3月16日の午
                               後、書いたこと。
宮台真司( ビデオニュース・ドットコム 2012年3月17日) 故吉本隆明氏に贈る
                                   言葉
東本高志(弊ブログ 2012年3月16日) 吉本隆明 死す
東本高志(弊ブログ 2012年3月30日  (続)吉本隆明 死す
いわゆる陸山会(政治資金収支報告書虚偽記載)事件で小沢一郎元民主党代表に無罪判決が出ました。しかし、同判決で小沢氏の「無実」が証明されたというわけではありません。

一般に無罪とは「犯罪の証明が認められない」という司法判断以上のものではない上に、同判決は同裁判の公訴事実のひとつである政治資金収支報告書の虚偽記載について「元秘書らによる報告書への虚偽記載があったと認定し」ており、また、「4億円を記載しないことについて元代表への『報告・了承』があったのかについては『秘書らは自ら判断できるはずはない』と指摘し、元代表の了承を認定」しています(毎日新聞社説 2012年4月27日)。その裁判所の認定が正であることを前提にして以下述べますが、そうした虚偽記載の事実がある以上、たとえ小沢氏と秘書との間に「共謀」が認められなかったとしても小沢氏には政治家、また一般に上司としてもその秘書の虚偽記載を質す責任があることは社会常識として明白で、その政治家としての小沢氏の監督責任、道義的責任まで「無実」ということはできないからです。同判決も無罪判決を出す一方で「共謀共同正犯が成立するとの指定弁護士の主張には相応の根拠があると考えられなくはない」とも指摘しています(産経新聞社説 2012年4月27日)。さらに虚偽記載の4億円の原資の出所についても依然明らかではありません。

しかし、この小沢氏の無罪判決を受けて小沢氏は「復権」し、かつ、小沢派、小沢氏サイドも九死に一生を得たかのような、それだけに従前にも増して強い勢いを取り戻す、あるいは取り戻そうとすることは自明というべきで、それゆえにいわゆる小沢氏信者の信者ゆえの盲信の勢いもいや増していくことになるでしょう。それゆえに私もなおさら注意を喚起しておきたいことがあります。それは小沢氏信者、小沢氏擁護論者周辺のいま現在の醜悪のさまについてです。以下、その一例としてのいまや小沢氏擁護イエロー・ジャーナリズム団体として勇名をはせる自由報道協会とその協会の代表の上杉隆というフリー・ジャーナリストの今日的な醜悪のさまの一報告です。

私は先に自由報道協会が設立1周年を機に今年の1月に創設した「自由報道協会賞」の部門賞に記者会見賞なる「報道」とはまったく異質のアワードをあえて設け、報道する側ではなく、報道される側の政治家としての小沢一郎氏に賞を授与しようとしたことについて(多くの人の批判を受けてその賞の授与は結局断念した模様ですが)、上杉隆氏をはじめとする「自由報道協会賞運営委員会の面々のジャーナリストとしてのセンスと見識を疑」う旨の厳しい批判をしておきました。いや、その自由報道協会の行為はジャーナリズム精神のかけらも見られないおよそジャーナリズムを標榜する団体としてはあるまじき行為というべきものですからあまりにも優しすぎる批判であった、といっておいた方がより適切な表現というべきかもしれません(「『糞バエ』の意地を見せた高田昌幸氏(元北海道新聞記者)の「自由報道協会賞」受賞辞退の弁」弊ブログ 2012年1月28日)。
 
また、自由報道協会代表の上杉隆氏についても、彼の書く記事の信憑性について、もっと端的に言えば、その記事の引用が恣意的に改ざんされていることについて重大な疑義を提示してもいます(「陸山会事件判決 小沢氏擁護論の論理ならぬ『論理』が抱える脆弱性について」弊ブログ 2011年10月11日)。
 
その上杉氏の記事中の引用の改ざんがいっそう決定的に明らかになりました。まず以下の情報をご覧ください。上杉隆氏の夕刊フジの短期連載記事「福島の真実 原発崩壊」の捏造に関する情報です。

上杉隆、夕刊フジで捏造記事か?!(togetter.com 2012年3月27日現在)
 
上記についてbuveryさんが「( →_→) 『捏造なう』」(buveryの日記 2012年4月18日)という記事で上杉氏のその捏造の実態を完膚なきまでに証明しています。
「先日、私が、『福島のプルトニウムは無視して良い』と考えるわけという記事の中で、『プルトニウムフェチ』の人がいると書きましたが、その人の本名は上杉隆と言います。彼の書く放射線関連の記事は、ほとんど間違っていると私は評価していて、それは、別に驚く事ではありません。/しかし、今度ドブレイユさんが引用されているzakzakの記事は、『間違い』ではなく、捏造であると私は思います。(略)私は、上杉隆は、放射能の人体に対する影響について、単に無知であると思っていましたが、コメントを捏造するとなると、話は違う。これは、意図しないとできないことです。だから、放射能についても無知なのではなくて、意図して嘘をついているのではないか、と疑い始めました。(以下、略。全文は上記URL)」

同様の認識は以下でも述べられています。

上杉隆さんの捏造話が洒落にならなくなってきている(BLOGOS やまもといちろう 2012年4月19日)
朝日新聞、NHK、上杉隆氏、岩上安身氏のデマ報道が風評被害を拡大して2次災害を作り出している
岩上安身「お待たせしました!福島の奇形児についてスクープです!」(フェー速 2011年12月4日)
自由報道協会の自壊 (池田信夫blog 2012年1月31日)

少し違った角度からは次のような指摘もあります。

「ウェブ上での原発危機関連の発言で、一つ不思議なのは、小沢派と目されるジャーナリスト(上杉隆ら)や無名のブロガーたちが、危機意識を煽りまくっている(略)、というのが率直な印象なのである。様々な情報・見解を提供してくれている原子力資料情報室(CNIC)のような、それ自体としては有益であろう機関も、青木理や岩上安身のような小沢派ジャーナリストが積極的に関与しているのを見ると、いささか距離を置いて考える必要性を感じざるを得ない。」(「佐藤優の原発問題関連の発言について(4)」金光翔 2011年4月2日付)

「いささか距離を置いて考える必要性を感じざるを得ない」機関、またはメディアとして私は NPJ(News for the Peaple in Japan)、マガジン9、さらには週刊金曜日、世界などの媒体も挙げておきたいと思います。

上出のやまもといちろうさんは言います。「ここまできて擁護できる人はどのくらいいらっしゃるのでしょうかねえ…」、と。

いずれにしても早晩、「小沢派」系ジャーナリストたちは自壊と瓦解をせざるをえないでしょう。いや、一日も早く瓦解させなければ、エセ脱原発とエセ民主主義はこの国の市民運動に否応なく蔓延し、そして、この国の市民運動を決定的に根腐れさせてしまうことになるでしょう。私が強く警告しておきたいことです。
政治批評に常に鋭い視点を提起する金光翔さん(元『世界』編集部、現岩波書店社員)が民主党の「民主党革命」(政権交代)とその後の「反革命」(失政というも愚かな失政)、それと軌を一にする「小沢派左派」の成立について、これもやはり鋭い視点を提起しています。
 
■2010年秋の情勢について(2):言論界における「小沢派」の成立(上)(私にも話させて 金光翔 2010年12月9日)
 
金光翔さんの上記の論は2年前の論になりますが一向に古びていません。CML(市民のML)においては先に「小沢信者批判」に関してそれぞれの肯定、否定のやりとりがありましたが(下記参照)、その「小沢信者」なるものの成立のゆえんについても重要な考えるヒントを与えてくれる論攷になっているように思えます。ご紹介させていただこうと思います。
 
金光翔さんは上記の論の中で「小沢派」の成立について次のように書いています。

 
「「民主党革命」(東本注:2009年の衆院選における「政権交代」劇)を支持したリベラル・左派の多くは、それが失敗であったことを認めるよりも、むしろ、小沢一郎の権力の再奪取により真の「民主党革命」(「小沢革命」)を実現する、ということに期待している。後者の人々にとっては、現状は確かにどうしようもないが、「民主党革命」はまだまだ終わっていないのである。」

 
「佐藤や『月刊日本』周辺の人物あたりが「小沢派右派」である岡本編集長や『金曜日』その他が「小沢派左派」で、必ずしも小沢を明示的に支持していなくても、その政治的主張の論理的帰結が小沢への期待ということになっていたり、人脈が「小沢派」と骨がらみになったりしていれば、広義の「小沢派」と見なすことができよう。その意味で、社民党は典型的な「小沢派左派」であり、『金曜日』の執筆陣なども「小沢派左派」と見なして差し支えないと思う。共産党系の一部の学者や、渡辺治なども広義の「小沢派左派」と見なさざるを得ない地点に来ている。」

 
「リベラル・左派は、今や「国益」志向型に完全に再編されており、今さら「民主党革命」支持は間違っていた、とも言えない(言う勇気がない)。とすると、小沢への期待・親和性をますます強めて、「剛腕」小沢の下で、「民主党革命」をやり直し、自分たちの主張を実現する、という形にならざるを得ない。小沢も、自らの政治的復権のために、マスコミを徹底的に利用しようとしている。そのためには言論界におけるリベラル・左派はまだそれなりの利用価値があるのである。」(太字は引用者)

 
下記のエントリ記事で指摘している「必ずしも事実に基づかない小沢氏評価」と「事実誤認の小沢氏評価」。すなわち「小沢信者」現象といってもよい現象がなぜかくも易々と生じるのか。なぜかくも再生産され続けるのか、という私たち(「小沢信者」ではない人たち)の疑問のひとつの解が上記の論攷には示されているように思います。重要な指摘だと私は思います。
 
「小沢信者批判について」という文章をめぐる市民のML(CML)上のやりとりについて(弊ブログ 2012年4月22日)
 
「さようなら原発」というのであれば、原発推進政党である民主党とも「さようなら」しなければ(「小沢派」も民主党グループである以上その例外ではありえません)決して「さようなら原発」は実現しないことはあまりにも当然すぎる論理の帰結というべきものです。もちろん、同じくこれまで原発を推進してきた旧政権政党としての自民党、公明党などの保守勢力、イデオロギー的には同質のみんなの党、維新の会などなどとも「さようなら」しなければ。改憲問題についても、新自由主義という名の所得格差拡大のポピュリズム政策と「さようなら」するためにも。そうであれば、「民主党革命」(「小沢革命」)に期待することにどんな有意があるというのか。そのことに私たちはいくらなんでもそろそろ気がつきたいものです。手遅れにならないうちに。
市民のML(CML)というメーリングリストに萩谷良氏の小沢信者批判についてという投稿がありました。その投稿をめぐって萩谷氏から批判された山崎康彦氏が同メーリングリストからの退会を表明するということがあり(萩谷氏は「「小沢信者批判」をしたのであって、山崎氏を批判したわけではない旨弁明していますが)、この問題をめぐってCML上で少しばかりの論争のようなものがありました。

 
私はこの論争のようなものの直接の当事者ではありませんが、同メーリングリストで私が用いた「小沢信者」という言葉が同論争のようなもののキーワードとなっており、かつ、その異論・反論の中で陳述されている「小沢氏評価」は事実に基づかないもの(すなわち主観的なもの)も多く、その「小沢氏評価」をそのまま放置しておくことは政治革新の課題を後退させることにもつながりかねないという大きな危惧もあり、私として傍観者的立場を保持することはできないものでした。

 
以下、私として傍観者的立場を保持することはできないものとして書いたものを記録としてアップしておきます。

 
萩谷さんの「小沢信者批判について」というご投稿をめぐってさまざまな異論・反論、あるいは肯定、否定の論が交わされていますが、その中には必ずしも事実に基づかない小沢氏評価もあるように見受けられます。その事実の誤認は事実の誤認自体の問題として正されておく必要があるように思います。それは小沢氏評価以前の問題というべきものだろうと思います。以下、私の気づいた事実誤認(及びその周辺の問題)のいくつかの諸点をピックアップして、なにゆえに私はそれを事実誤認というのか? その所以を明らかにしておきたいと思います。

 
その前に関口さんの指摘される「小沢信者」と「小沢信奉」という語のCMLにおける「初出」の問題に触れておきます。私が調べた限り「小沢信者」の初出はCML 005457(2010年8月31日)、「小沢信奉」の初出はCML 004846(2010年7月6日)です。ただし、CML 005457で用いられている「小沢信者」の語はきまぐれな日々ブログからの引用ですから、私自身の言葉として用いている「小沢信者」の初出はCML 005738(2010年9月26日)ということになります(関口さんの指摘されるCML 009925には「小沢崇拝」という言葉は出てきますが「小沢信者」の初出ではありません)。以下、その用例を摘示しておきますと次のとおりです(2012年3月末まで)。

 
【小沢信者】
■[CML 005457] (higashimoto takashi 2010年8月31日) 終りのはじまりとしての菅VS小沢の対決と妥協 民主党代表選をどう見るか
■[CML 005738](higashimoto takashi 2010年9月26日) 山崎康彦氏の「『小沢幹事長起訴相当』議決は検察審査会法違反」というJanJanBlog記事の誤りを指摘する
■[CML 006166](higashimoto takashi 2010年10月27日) Re: 相も変らぬ、そしてなぜかしら小沢礼賛を続ける市民たちのやりきれない無見識と非論理性
■[CML 006288](higashimoto takashi 2010年11月2日) Re: 最高検へ告発...ユーストリーム
■[CML 009453](higashimoto takashi 2011年5月8日) 福島第一原発事故以後 〈反原発〉の国民的怒りの波に便乗しようとする「研究者」なる者と著名人なる者の正味の正体(2) トンデモ学者武田邦彦の正味の正体
■[CML 015640] (higashimoto takashi 2012年3月12日)古寺多見氏(「きまぐれな日々」主宰者)の論攷「東日本大震災・東電原発事故1周年。原発再稼働の足音迫る」のご紹介(2-2)

 
注:そのほか前田朗さんと山崎康彦さんの論にそれぞれ1回ずつ「小沢信者」という語が出てきますが、私の論の引用としてのそれですから上記の用例の摘示からは省略しています。

 
【小沢信奉】
■[CML 004846] (higashimoto takashi 2010年7月6日)Re: 霞ヶ関の既得権は強固であり、事業仕分けでも小さなものしか出来なかった。
■[CML 005457] (higashimoto takashi 2010年8月31日) 終りのはじまりとしての菅VS小沢の対決と妥協 民主党代表選をどう見るか
■[CML 007023](higashimoto takashi 2010年12月23日) Re: そういえば東本氏、最近とんと音沙汰無し
■[CML 007528] (higashimoto takashi 2011年2月8日)名古屋市長選、愛知県知事選。そして東京都知事選―ポピュリズム政治にサヨナラするために―
■[CML 009925](higashimoto takashi 2011年5月29日) 「小沢一郎民主党元代表が語る『恐ろしい真実』!」という小沢信者の大ボラ

上記の用例の一覧を見れば一目瞭然ですが、「小沢信者」にせよ「小沢信奉」にせよ、あるいは「小沢崇拝」にせよ、その用例のすべては私の論が出自です。しかし、上記の用例を見ればこれも明らかなように私は意味もなく「小沢信者」、あるいは「小沢信奉」という語を使用しているわけではありません。上記のすべての用例には「小沢信者」、あるいは「小沢信奉」というほかない理由が示されています。したがって私はその用法が誤っているとは寸毫も思っていません。そのことを第一に明白しておきたいと思います。

第二に上記第一の問題と関連して石垣さんの山崎氏への「小沢信者」呼ばわり(萩谷氏は山崎氏を「小沢信者」呼ばわりしたわけではない旨述べておられますが、ここで述べることはそのこととは別様のことです)は「名誉毀損」「人権侵害発言」(CML 016507)というご批判はまったく当たらないご批判である、ということを申し述べておきます。

名誉毀損にしても人権侵害にしても、その摘示した事実が「公共の利害に関する事実であること」、また、「真実に合致」する場合は一般に名誉毀損や人権侵害は認められません(たとえばウィキペディア「名誉毀損」参照)。したがって、上記摘示の例に見るように私の論は「事実」に基づく「小沢信者」「小沢信奉」批判というべきものですから、その論を名誉毀損及び人権侵害ということはできません。石垣さんのご批判はまったく当たらない、ということです。一般に「意見には意見をもって対抗すべきである」というのがこういう問題の解決の原則です(同上)。

また、「小沢信者」「小沢信奉」という表現は、たとえば「コミュニスト」「トロツキースト」「自由主義者」「新自由主義者」「小泉ポピュリズム」「石原ポピュリズム」「ハシズム」などなど世に限りなくある政治的なレッテル貼りのひとつというべきものであってそれは表現の自由として認めらているものです(左記の例はマスメディアなどにおいても頻出する用法であることからもそのことは明らかです)。「小沢信者」という用法もそのひとつというべきものです。その表現の自由としての用法を批判されるいわれはないように思われます。なお、「小沢信者」という語をウェブ検索すると約3,030,000件もヒットします。いまや「小沢信者」という語は政治的な普通名詞とみなされるべきものです。その語の使用をもって名誉毀損、人権侵害などと批判するのはそういう意味でもまったく当たらない批判といわなければならないでしょう。

第三に山梨の佐藤袿子さんが「山崎康彦さまへ」(CML 016551)というご投稿で山崎氏について「あなたのように客観的に物事をとらえて発信してくださる方の貴重さを改めて認識しなおしました」と評価されていますが、この佐藤さんのご認識が決して「客観的」ではないことは上記に摘示している2つの例からも明らかだろうと私は思っています。ご検証ください。

■[CML 005738](higashimoto takashi 2010年9月26日) 山崎康彦氏の「『小沢幹事長起訴相当』議決は検察審査会法違反」というJanJanBlog記事の誤りを指摘する
■[CML 009925](higashimoto takashi 2011年5月29日) 「小沢一郎民主党元代表が語る『恐ろしい真実』!」という小沢信者の大ボラ

第四に櫻井智志さん(CML 016521)、豊間根香津子さん(CML 016530)、石垣敏夫さんCML 016532)の小沢氏を「対米従属でなく、アジア、中国、アメリカと等距離外交路線」(CML 016521)の人とみなす小沢氏評価も事実とは遠くかけ離れた主観的な小沢氏評価でしかないことも指摘しておかなければならないでしょう。

この点について2点論拠を示しておきます。

ひとつ目の論拠として菅氏と小沢氏の一騎打ちとなった2010年9月の民主党代表選の告示にともなう菅氏との共同記者会見の席上での小沢氏の発言を例としてあげます。この記者会見の席上で小沢氏は「今、自分の頭にあることを申し上げるわけにいかないが、沖縄も米国も納得できる案は、知恵を出せば必ずできると確信している」と普天間移設問題に関して県外移設の「腹案」があるかのような発言をしました。が、翌日に開かれた日本記者クラブ主催の公開討論会の席では「日米合意を尊重することに変わりはない」という前提を述べた上で「今、具体的にこうするとかという案を持っているわけではない」とあっさりと前日の発言をひるがえしました。このことは前日の普天間の県外移設に関して「腹案」があるかのような発言は小沢氏のハッタリでしかなかったことを如実に示しています。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/435592/(リンク切れ)

さらに上記で小沢氏の言う「日米合意を尊重することに変わりはない」とは、同合意が米国のアジア戦略を優先させた不平等合意であることが明らかである以上、これまでの対米従属路線堅持の姿勢となんら変わるところはないわけですから、その小沢氏の認識を「対等な日米関係」をめざしているとか「対米従属でなく、アジア、中国、アメリカと等距離外交路線」をめざしているなどと評価することも適切とはいえないでしょう。

もうひとつの論拠として政治学者の浅井基文さんの次のような指摘をご紹介しておきます。浅井さんは下記の論攷で2007年の『世界』11月号論文における小沢氏の「ISAF参加合憲」発言は日米軍事同盟体制の堅持を前提にした自衛隊の海外派兵容認発言というべきものであり、同発言は自民党幹事長時代からの小沢氏の持論の焼き直しでしかなく、小沢氏の日米同盟堅持、対米従属路線堅持の思想と姿勢は自民党幹事長「当時とまったく変わって」いないことを論証しています。小沢氏の日米同盟堅持、対米従属路線堅持の思想と姿勢は現在も続いている思想であり、姿勢とみなすべきものでしょう。小沢氏の認識を「対米従属でなく、アジア、中国、アメリカと等距離外交路線」をめざしているなどという評価は事実に基づかない評価というべきです。

民主党・小沢党首のアフガニスタンISAF参加合憲発言(浅井基文 2007年10月10日)
■『新保守主義-小沢新党は日本をどこへ導くのか-』(浅井基文 1993年、pp.110-136)

以上はとりあえずの「小沢信者批判について」をめぐるやりとりについての私の異論・反論です。

岡本厚さんが岩波書店の『世界』編集長を辞任されたということです。

世界 ■『世界』編集後記(岡本厚 2012年5月号)

この岡本厚さんの『世界』編集長辞任に関して元『世界』編集部員の金光翔さんと首都圏労働組合が下記のような声明を発表しています。

声明:岡本厚・岩波書店取締役の『世界』編集長辞任に関して(私にも話させて 金光翔 2012年4月13日)
声明:岡本厚・岩波書店取締役の『世界』編集長辞任に関して(首都圏労働組合 特設ブログ 2012年4月13日)

同声明の中で金光翔さんは岡本厚氏評価について次のように書いています。

「岡本は、佐藤のみならず、佐藤と関係の深い鈴木宗男や、鈴木とつながりが深いとされる小沢一郎らを積極的に『世界』誌面で起用し、擁護する論調の誌面構成を行なってきた。また、民主党への「政権交代」や民主党政権を、他に匹敵する雑誌がほとんどないほど一貫して擁護し続けてきた。佐藤優の積極的起用や右派政治家の宣伝等のこうした岡本の行為は、岡本が自賛するように、『世界』がいまだにマスコミや左派系のジャーナリズム・運動圏に一定の影響があるがゆえに、日本社会に大きな悪影響を及ぼしてきた。」

私も岡本編集長時代の『世界』は「マスコミや左派系のジャーナリズム・運動圏に一定の影響があるがゆえに、日本社会に大きな悪影響を及ぼしてきた」という金光翔さんと同様の認識を持っています。この『世界』の編集姿勢によってどれほどこの国の政治変革の課題が後退し、かつ、日本の市民運動が右傾化していったことか、と憤ろしく、はがゆいばかり、にです。

昔々、私は、『世界』の初代編集長だった吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』という本を読んで感動したことがあります。30数年前に長男が生まれたときその本(岩波文庫)の扉に「○○郎へ お前が中学生くらいになったらこの本を読むとよい 父」などとセンチメントなことを書きつけたこともあります。安江良介編集長の時代のT・K生という匿名の著者の『韓国からの通信』というレポートにも強い影響を受けました。『世界』は私にとってその頃の必需品だったのです。その『世界』がなにゆえに、という憤ろしく、はがゆい思い・・・

以下、金光翔さんと首都圏労働組合執行委員会の「岡本厚・岩波書店取締役の『世界』編集長辞任に関して」という声明の転載です。

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私たち首都圏労働組合は、2012年4月6日にブログ上に発表した「声明:岩波書店の縁故採用に改めて抗議する」において、

「さらに驚くべきことは、役員の一人である岡本厚取締役が、月刊誌『世界』の編集長をも現在、兼任している事実である。『世界』が長年、「平等」や「機会均等」、「反格差社会」といった論陣を展開してきたことは周知のことであるが、今回の事態は、そのような言論活動が内実の伴わないものであったことを誰の目にも明らかにしたと言える。これは、『世界』編集長の前任者である山口昭男代表取締役社長についても同様のことが言える。今後、『世界』や岩波書店が、「平等」や「機会均等」、「反格差社会」といった主張を展開すれば、笑うほかない。」

と指摘したが、そのわずか2日後の4月8日に発売された『世界』2012年5月号の「編集後記」において、岡本は、同号をもって編集長を辞任する旨述べている。
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2012/05/pscript.html

岡本が編集長を兼任し続ける限り、上記の声明文のように、縁故採用の責任者の一人である岡本が『世界』で「平等」や「機会均等」、「反格差社会」といった論陣を展開することへの批判・疑問が生ずることは明らかであり、岡本の辞任には、そのような批判・疑問を回避することが大きな要因として存在すると私たちは考える。しかも、『世界』5月号にも、4月号(3月8日発売)にも、縁故採用問題に関する岡本または『世界』編集部の弁明は一切ないのであって、私たちは、事実上逃亡したといえる岡本の無責任さにただ呆れている。

また、この5月号の「編集後記」で岡本は、「月刊誌という、テレビや新聞と比べ、小さいと思われるメディアでも、志次第では、なお大きな役割を果たしうると言いたいのである。「世界」は、朝鮮半島との関係を大切にしてきた。それは日本自身のためにそれが重要なことだと考えてきたからだ。」「「世界」は思われているより、存在として大きい。」などと自画自賛している。だが、「拉致問題」の解決、「国益」のためには在日朝鮮人に対して差別的に扱ってもよいという論理を、近年、最も精力的にメディアで展開してきた佐藤優の論壇席巻(<佐藤優現象>)について、精力的に後押ししてきた筆頭とも言うべき編集者が岡本であることは周知の事実である(注1)。

岡本は、『世界』誌上で佐藤の「論壇」デビューから一貫して、佐藤を精力的に起用し続け、佐藤を日朝国交正常化に向けて「現実を動か」そうとした官僚と同列視するという詐欺的な行為で、韓国の有力者に佐藤を売り込むことすら行なっている(注2)。

岡本は、佐藤のみならず、佐藤と関係の深い鈴木宗男や、鈴木とつながりが深いとされる小沢一郎らを積極的に『世界』誌面で起用し、擁護する論調の誌面構成を行なってきた。また、民主党への「政権交代」や民主党政権を、他に匹敵する雑誌がほとんどないほど一貫して擁護し続けてきた。佐藤優の積極的起用や右派政治家の宣伝等のこうした岡本の行為は、岡本が自賛するように、『世界』がいまだにマスコミや左派系のジャーナリズム・運動圏に一定の影響があるがゆえに、日本社会に大きな悪影響を及ぼしてきた。

また、2009年10月に出された「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」(注3)では、『世界』執筆者や読者を含めた多くの人々の賛同の下、「(『世界』『週刊金曜日』その他の「人権」や「平和」を標榜する)メディアが佐藤氏を積極的に誌面等で起用することは、人権や平和に対する脅威と言わざるを得ない佐藤氏の発言に対する読者の違和感、抵抗感を弱める効果をもつことは明らかです。私たちは、佐藤氏の起用が一体どのような思考からもたらされ、いかなる政治的効果を持ち得るかについて、当該メディアの関係者が見直し、起用を直ちにやめることを強く求めます。」と主張されているにもかかわらず、岡本はこの呼びかけを完全に黙殺してきた。

また、岡本は、編集長になる以前から、実質的な改憲論である「平和基本法」の『世界』誌上での掲載を積極的に推し進め、編集長就任後も「平和基本法」に沿った「国際貢献」への自衛隊積極活用の主張を繰り返し掲載し、日本の護憲派の、安全保障基本法制定による解釈改憲容認論への移行を積極的に後押ししてきたのであって、こうした岡本の行為に対する90年代以降の多くの批判にもまともに答えようとしていない。

このような行為(不作為)が、岡本がこの編集後記で白々しく語る「朝鮮半島との関係を問うことは、即ち日本の近代のあり方を問うことである。日本社会に染み付いた強固な帝国意識、冷戦意識を問い、それと闘うことである。」などという発言と相反することは言うまでもない。これらの岡本の姿勢には、縁故採用に関する岩波書店の対応と同じく、徹底した厚顔無恥さと無責任さが如実に現れている。

なお、この5月号の「編集後記」は、『世界』の朝鮮問題に関する具体的な主張にはほとんど触れないまま、『世界』が韓国の有力政治家や北朝鮮の外交官に知られている、褒められているといった類の自画自賛に終始しており、これは、岡本の「16年間」の編集長時代の朝鮮関係に関する言論活動が、「平等」や「機会均等」、「反格差社会」といった主題と同じく、内実の伴わないものであったことを示唆している。

辞任したとは言え、編集部長として岡本が同誌の責任者であることは変わらず、また、同誌に対して当分は岡本が大きな影響力を持つと考えられ、また、岡本自身または『世界』編集部は『世界』誌上において何らの弁明も行なっていないから、私たちが「声明:岩波書店の縁故採用に改めて抗議する」において『世界』について述べた見解は、何ら変わらないことをここで明らかにしておく。

(注1)金光翔「朝鮮学校排除問題と<佐藤優現象>」を参照のこと。
http://watashinim.exblog.jp/15677902/
(注2)金光翔「陰謀論的ジャーナリズムの形成(3) 佐藤優の売込みを図る岡本厚『世界』編集長」を参照のこと。
http://watashinim.exblog.jp/10723086/
(注3)「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-23.html

2012年4月13日 首都圏労働組合執行委員会
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私も岡本厚氏及び雑誌『世界』が果たしたここ10年から15年来の負の役割というべきものを下記のような形でいくつか記事にしています。

学者、知識人グループ340人の普天間県内移設反対声明 いくつかの違和感と疑問(市民のML 2010年1月21日)
学者、知識人グループの普天間問題に関するいわゆる第二声明について(弊ブログ 2010年4月26日)
目取真俊さんの「『佐藤優のウチナー評論』を読む」を読む(弊ブログ 2010年6月29日)
この6月にはいま大飯原発の再稼働問題が政治問題化している関西電力の株主総会が開かれます。その同社の保有する全11基の原発を「可及的速やかに廃止する」という全原発廃止提案を含む株主提案を関電の株主総会にぶつける予定の同社の筆頭株主である大阪市(橋下徹市長)の「関西電力株式会社株主提案内容(案)」がこのほど明らかになりましたが、その大阪市の関西電力に対する株主提案について関西大学経済学部教授の森岡孝二さんが若干の論評をしています。是々非々の立場からの全体的に好意的な論評といってよいでしょう。

大阪市の関西電力に対する株主提案について(森岡孝二 働き方ネット大阪 2012年4月11日)

しかし、私は、この森岡さんの橋下「全原発廃止提案」に全体として好意的な論評には、「脱原発」という課題に限っても、橋下ポピュリズムの本質を見極める上でゆるがせにすることができない難点(オポチュニズム=楽観主義)といってよいものが含まれているように思います。

東京造形大学教授の前田朗さんが森岡さんの上記論評に関する感想を私に振ってきたのを契機にしてこの問題に関する私見を若干書いてみました。前田さんの振りとは次のようなものでした。

「(森岡さんの論評に)追加するとすれば、橋下氏は株主総会で勝負しようというのではなく、意識的に選挙スローガンとして打ち出していることでしょうか。/なお、ML上で私と東本さんとが議論をしていました。その際の私の説明が不足していて、すれ違っていましたが、森岡さんの分析には東本さんも納得されるのではないでしょうか。」(市民社会フォーラム 2012年4月12日付)

なお、メーリングリスト上での前田さんと私の議論とはおおよそ次のような議論を指しています。

三度、飯田哲也氏の「脱原発」主張の評価について――前田朗氏の反論に再度応える(弊ブログ 2012年4月9日)

以下、森岡孝二さん(関西大学経済学部教授)の上記論評に対する私の若干の感想です。


前田さんの「橋下氏は株主総会で勝負しようというのではなく、意識的に選挙スローガンとして打ち出している」というご認識、また森岡さんの「脱原発の世論を国政進出の追い風に利用とする『橋下・維新の会』の政治的意図がある」「橋下氏と維新の会の財界よりの新自由主義的な政治姿勢との整合性は明確でなく、今後、財界からの反撃が強まると、腰砕けの骨抜きになっていく懸念があ」る(注1)というご認識には賛成ですが、森岡さんの「(大阪市の株主提案は)よく練られていて筋が通っています」(同左)というご認識はどうなんでしょう? 少し疑問が残ります。


注1:大阪市の関西電力に対する株主提案について(働き方ネット大阪 2012年4月11日)

森岡さんのコメントも掲載されている4月11日付けの読売新聞の「関電は『原発全廃、取締役半減を』大阪市の株主提案決定」という記事(注2)には「株主提案では、自然災害やテロなどについて万全の対策を実施することを前提に、当面の原発稼働を容認する一方、将来的な原発全廃の方向性を打ち出した」とあります。また、4月9日に開催された第4回大阪府市エネルギー戦略会議に提出されたという「関西電力株式会社株主提案内容(案)」という資料にも「原子力発電所を稼働」する条件として(1)絶対的な安全性の確保(注3)(2)原子力発電所の事故発生時における賠償責任が本会社の負担能力を超えない制度の創設(3)使用済み核燃料の最終処分方法の確立という3つの条件が記載されています(注4)。要するに「万全の安全対策を講ずること」を条件に原発再稼働を認める、という株主提案になっています。

注2:関電は「原発全廃、取締役半減を」大阪市の株主提案決定(読売新聞 2012年4月11日)
注3:NHKニュース(「大阪市 関電への株主提案を決定」(2012年4月11日15時53分)によれば、「絶対的な安全性の確保」という表現は「論理的に想定されるあらゆる事象について万全の安全対策を講ずること」と修正されたということです。
注4:関西電力株式会社株主提案内容(案)

しかし、原発の存在自体が危険だというのは脱原発を主張する人たちの共通した認識といってよいものです。その原発の再稼働を条件付きであれ認めるという株主提案をどうして「よく練られていて筋が通ってい」るなどと評価できるでしょうか? それが森岡さんのご認識に対する第1の私の疑問です。

第2の疑問は、大阪市の今回の関西電力に対する株主提案を「原発全廃を求めて行う株主提案」(注1)と上出の「大阪市の関西電力に対する株主提案について」の第一行目に疑いもなく言う森岡さんのご認識に対する疑問です。

たしかに上述の株主提案の第4番目の提案には「 本会社は、脱原発社会の構築に貢献するため、可及的速やかに全ての原子力発電所を廃止する」という定款の条文追加(第45条2項)の提案が含まれています。しかし、ここでも次の同条第3項には「原子力発電所が廃止されるまでの間においては、(略)必要最低限の能力、期間について原子力発電所の安定的稼働を検討する」という原発再稼働を認める項目が周到に追加されています。その提案の全体を「原発全廃を求めて行う株主提案」と評価できるでしょうか? 私はできない、と思います。

ここまでの第2の疑問は第1の疑問の重複といってよいものですが、ここでの問題、すなわち第2の疑問で私が提起している問題は、大阪市の「原発全廃を求めて行う株主提案」は実は東京都の猪瀬直樹副知事と昨年12月に橋下氏が会談した際に事前に合意されていた筋書きに基づく提案でしかない、ということです(注5)。

注5:「橋下氏と共闘し電力会社の『体質』に切り込む」猪瀬直樹・東京都副知事に聞く(日経ビジネス 2012年4月10日)。ここで猪瀬氏は次のように発言しています。「東電の経営体質を変えるようモノを言えるのは、東京都しかない。一方、関西電力については橋下市長にやってもらう。/特に、関電は事故を起こしたわけではないだけに、『原発廃止』ぐらいのことを打ち上げないと、関電をテーブルに着かせることはできない。そうした戦術を昨年12月に橋下市長と会談した際に決めている」。

このことはなにを意味するのか。

猪瀬氏の上司の石原都知事が原発推進論者であることは有名ですが、石原氏はその原発について次のように語っています。「恐怖は何よりも強いセンチメントだろうが、しかしそれに駆られて文明を支える要因の原発を否定してしまうのは軽率を超えて危険な話だ」(注6)。また、大飯原発の再稼働についても、「政府は情報を緻密に持っている。行政の最高責任者の政府が検討して判断したことを誰が否定できるのか。これを是としないと、いったい誰がどうこの国を動かすのか。私は是とする」(注7)と語っています。その石原氏の腹心の部下である猪瀬氏の言う「原発廃止」は所詮ポピュリズムのパフォーマンスとしての「原発廃止」でしかないことは政治文脈上明らかというべきものです。その猪瀬氏と「戦術」を練った上での橋下氏の「脱原発」のぶち上げであってみれば、その「脱原発」政策も大いに疑ってしかるべきだ、と私は思うのです。事実、橋下氏及び橋下ブレーン(大阪府市統合本部特別顧問の面々)のぶち上げる「脱原発」株主提案は再稼働を認める「脱原発」のたぐいにしかすぎないことは上記に見たとおりです。

注6:石原慎太郎 原発に関するセンチメントの愚(産経新聞 2012年2月6日)
注7:維新政治塾に注目 原発再稼働「政府の判断、是とする」石原都知事(産経新聞 2012年4月6日)

さらにその株主提案の再稼働容認の3つの条件のうちのひとつの「原子力発電所の事故発生時における賠償責任が本会社の負担能力を超えない制度の創設」という条件は前エントリで指摘しているとおり「人の尊厳と生命の値段は『会社の賠償責任負担能力』の範囲内で量り売りされる程度のものでしか」なく、「人の尊厳と生命」「よりも株主利益を保守することの方が重要、と言っているに等しい資本の論理丸出しの認識といわなければならないものです。原発事故被害者に対する損害賠償については、下記の日弁連の意見書(注8)も指摘しているように本来、電力会社の現有資産をすべて吐き出した上での上限の定めのない損害賠償が大原則でなければなりません。それが人命を尊ぶという意味でのせめてもの償いということでもあるはずです。それを「会社の賠償責任負担能力」の範囲内などと関電の定款に謳わせようとする。その彼らの倫理意識、いや反倫理意識も私には我慢がならないのです。

注8:東京電力株式会社に対する「資金の交付」による支援の中止を求める意見書(日弁連 2011年12月15日)

私には大阪市の今回の株主提案が「よく練られていて筋が通ってい」るものとも、「原発全廃を求めて行う株主提案」とも思えません。この大阪市の株主提案を「一歩前進」とはいうべきではない。もっと根底的な批判が必要である、というのが私の認識です。そうしなければ原発の再稼働は既定の事実のようになってしまうでしょう。そうした懸念を私は強く持ちます。
みどりの未来(今年の7月には団体名を「緑の党」に改称し、政界進出をめざす予定)の元共同代表で現尼崎市長の稲村和美さんが朝日新聞の「政治時評 2012」(オピニオン欄 2012年3月28日付)で東大教授の宇野重規氏と対談し、あの思想調査アンケートに象徴される反民主主義とプチ独裁政治の人、東京の石原都知事、名古屋の河村市長と並び称されるポピュリスト政治家、大阪の橋下市長を絶賛しています。

政治時評 

 
その朝日新聞の「政治時評 2012」から稲村和美氏の橋下氏評価の該当部分を抜き出すと次のようになります。
 
宇野 大阪市の橋下徹市長も、リスクをとって変革をすると主張しています。
 
稲村 政治に失望していたであろう多くの人たちを、再び政治に引きつけた。すごいと思います。「決められる民主主義」を旗印に、正解がわからない世の中で「僕はこう思う」と言う。抵抗する勢力を徹底的にたたく手法には危うさも感じますが、彼を独裁者にしてしまうか、そうしないかは、橋下市長が投げたボールを有権者、ほかの政治家がどう打ち返すかで決まると思います。
 
宇野 教育や労働組合の問題をみるにつけ、私は危うさを感じますが、既成の政治家にはない言葉のセンスを持ち、多くの人の心を引きつけているのは事実です。
 
稲村 労組や教育関係者の懸念も分かります。彼らが守ってきたものが大切だとも思います。でも、彼らがそれを守るため、橋下市長の論理に対抗できる、時代に合った論理と言葉を持っているでしょうか。問われているのはそういうことです。/小泉純一郎さんの構造改革の時もそうでした。激しい公務員バッシングを止める論理を他の政治勢力は持っていなかった。その結果、守るべき公共まで狭められてどうするのと、いら立っていました。私は「新しい公共」の推進論者です。行政はスリムになるべきですが、公共は大きいほうがいい。担い手は「官」でなくても構わない。尼崎市ではソーシャルビジネスでみを立てたい若者を呼び込み、公共の助けを必要とする人のセーフティーネットの一端を担ってほしいと考えています。
 
上記の言説からも元「みどりの未来」の共同代表の稲村和美氏(尼崎市長)が橋下現大阪市長を高く評価していることは明らかです。上記で稲村氏は一応「抵抗する勢力を徹底的にたたく手法には危うさも感じます」と橋下氏を全面評価するわけではないというポーズをとっていますが、あくまでもポーズにすぎません。橋下評価に関する彼女の本音は「『決められる民主主義』を旗印に、正解がわからない世の中で「僕はこう思う」と言う」」「すごいと思います」というところにあるのは明らかです。橋下べた褒め(全面)評価といってよいでしょう。思想調査アンケートをはじめとする橋下大阪市長の反民主主義施策の危険性を見抜くことのできないきわめて民主主義に鈍感で危険な橋下評価だといわなければならないように思います。
 
以前にもご紹介したことがあるのですが、稲村氏の評価する橋下の「決められる民主主義」について政治学者の浅井基文さんはその本質を次のように喝破しています。
 
私はかつて、拙著『新保守主義 -小沢新党は日本をどこへ導くのか-』(柏書房 1993年)において、小沢の考え方を分析したことがあります。(略)彼が「国内政治の改革」ということで意味したことは、「意思決定がすんなりと行えるような政治の枠組み」(p.157)を作ることであり、かつ、それに尽きていたのです。「つまり、彼の政治改革論の最大の眼目は、速やかに意思決定が行える政治制度を作り出すことにある。そのためには、主義主張が似通い、従って政権交代も行い易い二大政党制が適当だということ」(p.159)だったのです。/そして、それを実現するための選挙制度としては小選挙区制導入が是非とも必要でした。今回のインタビューで、「細川政権で小選挙区制を決めたのは政権交代可能な政治体制をつくることでした。(例を挙げた上で)小沢の考え方が20年来一貫していることを示しています。
 
つまり、小沢にとって重要なことは迅速な意思決定メカニズムの構築であり、「民主主義はいかにあるべきか」ということではないのです。(略)彼にとっては議会制民主主義とは、「(国民が)自分たちの代表を一人選んで自分の意思表示をきちんとするという意味で、その目標と意義は全然変わっていない」ことにあるのであり、そのあとは「主義主張が似通い、従って政権交代も行い易い二大政党制」にすべてを白紙委任するということなのです。/このように見てくると、小沢が橋下の「『決定でき責任を負う民主主義・統治機構』…という主張は全く同感。我が意を得たりだ」と述べた意味が明らかになります。つまり、ポイントは「決定でき責任を負う」点にあるのであり、「民主主義」はお飾りにすぎないのです。橋下のこれまでの言動から判断すれば、橋下における認識も大同小異と見て大過ないでしょう。
 
このような反民主主義の本質を持つ橋下の「決められる民主主義」について稲村氏はまったく理解していません。その橋下の言う「決められる民主主義」が多様な発言の場と少数政党を排除する悪名高い「二大政党制」とセットになっている反民主主義的な理念であることにも当然気がついていません。日本の戦後政治の悪政の成り立ちをまったく理解していない愚かな認識だといわなければならないでしょう。

朝日新聞紙上での宇野重規東大教授との対談を瞥見すると、稲村氏の認識には橋下評価以外にも民主主義の観点からはたくさんの評価できない認識が含まれていることがわかります。

財政的に厳しい時代です。増税の余地も少ないとすれば、サービスを削減するしかない」という現状の自民党→民主党の大企業の利益確保優先の政治・経済制度には決して批判の矛先を向けない現状を肯定したままの二者択一の認識。「国民もそうしたリーダーに変革を託したいのではない」かというこれも反民主主義的な英雄待望論。すなわち、ポピュリズム政治擁護論。「自民党の長期政権が続くなかでは、2大政党による政権交代可能な仕組みがベターだと思いました」という案の定の「二大政党制」擁護論・・・ 彼女の主張はネオリベの主張とほぼ瓜二つです。彼女が橋下市政に違和を抱かないのも不思議ではない、と妙に納得できたりします。

問題は稲村氏個人に限りません。稲村和美後援会「未来へつなぐ尼崎の会」なる市民団体も上記の稲村氏の朝日新聞インタビュー記事について「今をときめく橋元大阪市長に対する考えも、稲村市長らしい言葉で答えております」などと民主主義の課題などなんのそののピンボケの「政治理念」を発露しています。

さらにみどりの未来のホームページ本体にも「3月28日の朝日新聞朝刊15面「オピニオン」の政治時評2012の最終回として、東大教授の宇野重規さんと稲村和美さんの「これからの日本に求められる政治家とは」と題した脱成長時代に求められる政治家像に関する対談が掲載されました。/稲村さんのプロフィールには「日本版・緑の党をめざす「みどりの未来」の共同代表を務めた」とあります。」(2012年3月29日)という記事が上記の稲村和美後援会の「今をときめく橋元(ママ)大阪市長」というほどの露骨さはないもののなにやら得意げに掲載されています。

「緑の党」(みどりの未来)の会員はもちろん、同党、あるいは同団体をこれまで称揚してきた人たちは、この稲村氏の政治認識や政治姿勢をどのように評価するのか。脱原発の新しい政治、新しい民主政治を実現するための新党結成であるというのならば、彼ら、彼女たちにはその明確な応えが求められているといわなければならないでしょう。そのことを闡明しない、闡明しようともしない「緑の党」なる新政党の将来に期待することはできません。そのことを強く申し上げておきます。
あるメーリングリストに「4月15日伊方原発の再稼働に反対する中国・四国・九州市民の合同緊急集会のご案内」という案内文が流れてきました(こちらの「Original Message」部分を参照)。この「ご案内」の実質の趣旨自体にはまったく問題は感じないのですが(というよりも、賛成なのですが)、「西日本各地を講演会で回ってこられた広瀬隆さんの問いかけに答えて」という部分に大きな違和を感じました。広瀬氏の「脱原発」主張に私は以前から「危険」性を感じているからです。その広瀬氏の「危険」性について語ったメールを再録(反論への再反論を含む)、エントリしておきます。

第一信:

伊方原発の再稼働に反対する運動自体には反対ではありません。というよりも当然なことだと思っています。伊方原発の再稼働に反対するために中国・四国・九州の市民が手を取りあって共同・協同しようとすることにももちろん反対ではありませんし、賛成です。これも当然なことだと思っています。

しかし、評論家の広瀬隆氏を「反原発の闘士」「脱原発の雄」のようにみなすかのような風潮は誤まっていると思います。このような風潮は一日も早く終わらせるべきです。広瀬氏を真の脱原発主義者とみなすには彼はあまりにも荒唐無稽な、かつ、大きな疑問符をつけなければならない言説を繰り返し続けているからです。広瀬氏を「反原発の闘士」「脱原発の雄」のようにみなすことからはいい加減に卒業した方がよいと私は思っています。危険です。

広瀬氏のそのあまりにも誤りの多い言説を実証的に検証しているサイトとして次のようなものがあります。

広瀬隆 (東日本大震災)(Skeptic's Wiki 超常現象等に関する懐疑的な情報まとめサイト)

以下、その検証のいくつか。

●広瀬氏の主張の根拠のミスリーディングの指摘(山本隆三富士常葉大学教授)

●広瀬氏が「広瀬隆が警告 原発破局を阻止せよ! 食物連鎖で濃縮 放射能の危険な罠」(週刊朝日 2011年4月8日)という記事で主張する「放射性物質が水鳥の卵で百万倍」のうそ

●広瀬氏が「破局は避けられるか――福島原発事故の真相」(週刊ダイヤモンド 2011年3月16日)という記事で主張する「600℃でメルトダウン」という数字はNHKの誤訳をそのまま引用したもの(広瀬氏の「科学」的精神とは無縁な非科学性)

●広瀬氏の「放射能には酵母菌の入った手作りの生味噌がよく効く」という説(実は娘の店の宣伝にすぎない根拠のない説)

また、ウィキペディアの『広瀬隆』の項目においても広瀬氏に対する次のような批判が紹介されています。

●広瀬隆「危険な話」の危険なウソ」(野口邦和日本大学専任講師/放射線化学・放射線防護学 『文化評論』1988年7月)

●『つくられた恐怖 「危険な話」の誤り』(日本原子力文化振興財団)

●安井至氏(東京大学名誉教授)の広瀬氏の著書『二酸化炭素温暖化説の崩壊』(集英社新書 2010年)批判(「地球の気候当面『寒冷化』」 日本経済新聞 2009年2月2日)。なお、同書で広瀬氏が言及しているクライメートゲート事件については、英国議会による調査報告書(2010年3月)によれば気候研究ユニット(CRU)には捏造などの不正はなかったとされ、調査結果を受け関係者は復職しています。

●朝日ニュースター「ニュースの深層」(2011年3月17日)での広瀬氏の発言に対する北村正晴氏(東北大学名誉教授)の批判( http://getnews.jp/archives/105404 )

私も広瀬氏批判を次のような形で書いています。

■広く共感をえられる論理の構築とはなにか? ――広瀬隆氏の「福島 あんなところ」発言に見られる他者を思いやる共感力が欠如した貧困なる思想としての論理について(弊ブログ 2011年11月6日

第二信(反論(はこちらを参照)への再反論):

前田さん wrote:
第1に、広瀬隆さんの主張が、時に誤り、不正確で、科学的でない場合があること自体はずっと以前からよく知られた事実ですから、広瀬さんを「反原発の闘士」 『脱原発の雄」とみている人はそう多くないと思います。でも、広瀬さんが4半世紀つくってきた運動の基本線が、みんなから受け入れられ、評価されているのだと思います。そして、広瀬さんの活躍のおかげで、原発の問題性を知った人々が自ら学んで、より科学的な判断で運動を継続してきたのではないでしょうか。

「広瀬さんを『反原発の闘士』『脱原発の雄』とみている人はそう多くないと思います」という前田さんのご認識は私の実感と大きく異なります。広瀬さんを「反原発の闘士」「脱原発の雄」と見ている人はかなり多いというのが私の実感です。

こちらの弊ブログ記事で昨年の11月3日に私の地元の大分市で開かれた広瀬氏の講演会の模様のことを書いていますが、この広瀬氏講演会には私の記憶ではこの種の講演会ではこれまで見ることのなかった1000人近くの聴衆が集まりました。そして、その講演会の終わりに45分ほどの質問の時間があったのですが、10人ほどの質問者のうち私を除くすべての人が広瀬氏賛辞の質問に終始していました。

私ひとりが広瀬氏の「福島 あんなところ」発言を問題にする質問をしたのですが、広瀬氏は私の質問に当然のごとく反論しました。が、私から見れば、広瀬氏の反論は話をはぐらかす体のものでまったく反論になっていなかったのですが、それでもその広瀬氏の「反論」には会場から割れんばかりの拍手がありました。おまけに講演会が終わった後、私を追いかけてくる人がいて「あなたの広瀬さん批判は間違っている。あの割れんばかりの拍手がなによりの証拠だ」と言い募られる始末でした。

そのとき、私は、平成17年にあった佐賀県主催の小出裕章VS大橋弘忠プルサーマル公開討論会のときの模様を思い出したものです。あのときあの「プルトニウムは飲んでも大丈夫 」発言の大橋弘忠東大教授の上から目線の発言には会場から万雷の拍手がありましたが(おそらく動員者の拍手でしょうが)、その大橋氏の「いまのところ(プルトニウムで肺がんになって死亡したという)有意だという結果は出ていないというふうに聞いていますけど」という小出氏に対する茶々に小出氏が「こういうものは大変難しいのです・・・」と反論しようとしたときにどっという感じで沸き立った会場からの嘲笑の渦(こちらのビデオの5:33頃)。私はその愚かしい風景に背筋の凍る思いがしたものです。

上記のエピソードは拍手が多いから正しいとは限らないということの格好の例証というべきものです。とまれ、広瀬氏を「反原発の闘士」「脱原発の雄」と見ている人はかなり多いというのが私の実感だということです。さらに私の実感では、「広瀬さんの活躍のおかげで、原発の問題性を知った人々が自ら学んで、より科学的な判断で運動を継続してきた」ということとは逆に、この広瀬氏現象は、私がこのところ批判し続けている脱原発を主張する人たちのある種の現代カルト化現象(軽々しい非合理的な情報の拡散)の遠因になっているような気がしています。だから私は「危険」だと言っているのです。

第2の前田さんの「科学的に正しいとは、何を意味するのか」などという抽象論のレベルの問題はここで問われている問題とは別の問題だろう、ということを申し上げておきます。少なくともここでの問題ではないということ。また、「科学とは、利潤追求のみをめざす総資本の代理人の走狗にすぎない」という「科学」評価も一面的なものでしかありえません。そういう論理で広瀬氏を擁護しようとするのはナンセンスでしょう。

第3のご指摘については、いろいろな立場の脱原発派はいても当然いい、と私も思いますが、そのことと「科学的に正しいとか正しくないとか、そんなことはどうでもいい」ということとは違います。科学的に正しくないことは言うべきではありません。脱原発派の信用を貶めるだけです。そうした指摘をすることを「インチキ科学者」などとそれこそ貶めるのはまさになにをかいわんやといわなければならないでしょう。

第4の点については、小林秀雄が若き日、酒を呑んでプラットホームから線路に転がり落ちたことがあったけれど、ちょうど窪みのところにはまって助かった、という話があります。このことを小林は「おっかさんが蛍になって助けてくれた」と書いています。この話を私は信じます。が、「放射能には酵母菌の入った手作りの生味噌がよく効く」という説は大いに疑問だということを改めて述べておきます(いわずもがなのことですが、第4は冗談の受け応えとして書いています)。
私は前エントリ及び前々エントリ、さらに2月16日付けエントリで一部の(というよりも、「多くの」と言っておいた方がより適切かもしれません)脱原発主義者から「脱原発の雄」のようにもてはやされている飯田哲也氏(環境エネルギー政策研究所長)の「脱原発」主張の危うさ(もっと端的に言えばニセモノ性)を厳しく批判しておきました。

その私の飯田氏批判について前田朗さん(東京造形大学教授・原発民衆法廷判事)から反論があったことは前エントリ記事でもご紹介しておきましたが、さらに前田氏はその飯田氏の「脱原発」主張について、大阪市が関西電力に原発再稼働を認める条件として「絶対的な安全性の確立」「使用済み核燃料の最終処分方法の確立」の要求を突きつけた(読売新聞 2012年4月2日)ことに関連してその要求の起草者のひとりとしての飯田氏を「不可能な条件を突き付けることによって脱原発への道筋を示そうとしている」と高く評価する再反論を試みてきました(市民社会フォーラムメーリングリスト 2012年4月4日付)。

しかし、この前田氏の再度の飯田氏評価も端的に言って私は誤っていると思います。贔屓の引き倒し的評価と言うべきでしょう。

飯田氏に対する以下のような批判と指摘を見ると、飯田氏には過去に原発推進派と自然エネ普及を巡って妥協を重ねた前歴があります。また、事実上、原発をバックアップ電源として使うオバマ米大統領のグリーン・ニューディール政策を称賛する書籍を原発推進派である寺島実郎と共著で出版していたりもしています。

■飯田氏が過去に原発推進派と自然エネ普及を巡って妥協を重ねたり、事実上、原発をバックアップ電源として使うグリーンニューディールを称賛する書籍を執筆していることなどを指摘するサイト:
(1)飯田哲也の原発推進疑惑と、スウェーデンの原発事情についてのあるやりとり
(2)飯田哲也さんは怪しい説(原発業界御用学者リスト@ウィキ)
寺島実郎と飯田哲也の共著『グリーン・ニューディール―環境投資は世界経済を救えるか』
寺島実郎が原発推進論者であることを証する寺島自身の文書『米国のエネルギーパラダイムシフト』

その飯田氏を前田氏のように「脱原発への道筋を示そうとしている」人とみなすことはできません。飯田氏の評価としては、上記の「飯田哲也さんは怪しい説」の最後でvia HootSuite氏が述べているように「飯田氏が環境・エネルギー分野でのイノベーターを自認するなら、高い矜持が求められる。地球環境に取り組むということは、そういうことだ。自らを正さない限り、私は飯田哲也氏を『自然エネルギーブローカー』と呼び続けるであろう」(2012年3月10日付)という評価が適切なところだろうと私は思います。
私は先に本ブログ(2012年1月16日付)において「ドキュメンタリー映画『"私"を生きる』(監督・撮影・編集/土井敏邦)の評価には負の意味で留保するべき点がある」という記事を書きました。本エントリはその記事の続き、あるいは後日譚、それも私から見ていまも続く負の現象(「負」を「負」として認めない)の後日譚ということになります。

この4月1日に神戸市のシネマカフェチェリーという映画館で同ドキュメンタリー映画「“私”を生きる」で描かれる3人の抵抗者たちのおひとりの土肥信雄さん(元都立三鷹高校校長)を迎えて「市民社会フォーラム第25回映画鑑賞会」という映画鑑賞会が催されたようです。

私のこの一文は、同映画鑑賞会を主催された市民社会フォーラムの岡林信一さんの同鑑賞会を終えての次のような感想の弁への違和感の表明ということになります。岡林さんはその感想の弁の中で次のように述べています。上述のような批判があったことを念頭においた上での感想、あるいは反批判ということになるでしょう。

「MLでは、『“私”を生きる』と土肥信雄さんについて、いろいろと意見がありましたが、私も直接ご本人と忌憚ない意見交換をして、ネット上やこの映画だけでは分からなかった、教育現場での言論の自由を守るためにたたかっている真摯な思いを受け止めることができました。/私の印象では、映画で描かれた土肥さん以上に、校長として君が代斉唱不起立をした教師2人を報告せざるをえなかった葛藤が、今日の交流会で伝わりました。」

「土肥さんは卒業式の前に、組合と話し合いして、不起立を決意している教員のリストを知らせてもらって、その人たちは処分されないように式外の要員にまわすことを合意していたとのこと。でも、不起立をした一人は組合との話し合いの情報を知らず、組合が把握していなかった。もう一人は、担任として式に出て不起立することはわかっていたが、通報もなく、かつ本人も不起立を否認したら、土肥さんは都教委に報告するつもりはなかったと。結局、不起立の報告があった。でも、本人が否認してもらえれば、報告しなくて済む。でも本人が認めているならば、法令順守して報告せざるを得ない。(起立したと言ってもらったよかったのにと)/本当に葛藤があったことを強調されていました。/都教委に報告する前にも、処分対象になること二人の教員と事前に話し合い、都教委の審議会でも二人の教員の処分は不当であると報告もした。その一人とは今でも話をする関係を保っている。」(市民社会フォーラムメーリングリスト 2012年4月1日付けより)

上記の岡林さんの感想の弁によれば、土肥さんは、「担任として式に出て不起立することはわかっていたが、通報もなく、かつ本人も不起立を否認したら、都教委に報告するつもりはなかった」と発言されたよしですが、この土肥さんの弁明は、端的に言って彼の自己合理化以外のなにものでもないだろう、と私は思います。そして、その自己合理化の論理にすぎないものを正当な論拠のように言い為すところにとてつもない違和感を私は感じます。

日の丸に向かっての起立は、憲法にも、教育基本法にも、自分の教員としての教育理念にも反する、という思いのもとに確信的に不起立した人がどうして自分のその確信的な行為について「否認」するようなことをするでしょう? また、起 立していないものを「起立した」などとうそを言うことがあるでしょう? そのおのれの確信的な行為を「否認」すること、あるいはうそを言うことは、おのれをおのれ自身で冒涜することと同じことです。そのようなことを確信的に不起立した人がどうしてするでしょう? この土肥元校長の発言には他者の理念への思い遣りが決定的に欠けてい ます。人は理念のためには死を選択することだってありえるのです。戦前の共産党員はまさにそういう状況下に置かれていました。共産党シンパらしい、そして知識階層に属する土肥さんがそういうことを知らないはずがありません。近代的理念の成立する以前の封建時代の世ですら人は恥をさらすよりは死を選択することもあった。そういう人は、武士に限らず、農民にも町人にも決して少なくなかったのです。

そうした他者の理念への敬仰、尊敬の思いがあれば「本人も不起立を否認したら」などいう不遜な言葉は土肥さんの口から決して発せられることはなかったでしょう。他者認識に関して、土肥さんには決定的な認識の不足があるように私には見えます。

土肥さんの「法令順守して報告せざるを得ない」という発言にも私は彼の自己合理化以上の思想を見出すことはできません。職務執行命令の順守ももちろん法令順守であるに違いありませんが、憲法順守、教育基本法順守という法令順守も当然あるのです。憲法、教育基本法という上位の法律と職務執行命令という下位の法令の間に重大な法的齟齬があれば人は法律的にも下位の法令を拒否できるはずです。少なくとも論理的には。そして、日の丸、君が代強制反対の不起立者の多くはそうした論理を武器に闘っているのではないでしょうか。仮に校長として不起立者の都教委への報告義務を破ったとしても多くの不起立教員と同様に土肥さんもそうした論理を武器に闘うことができたはずです。そうした自身の闘いの道筋を放棄しておいて「法令順守して報告せざるを得ない」と言うその彼の思想の中に自己合理化以上の思想を見ることは私にはできません。そこにあるのは前田さんの言われる「『あなた』を切り捨て、『彼ら』を踏みにじりながら、『私』をいとおしむ精神」(「小さなアイヒマンにならないために」CML 2012年2月18日付)でしかないように私も思うのです。

私も土肥氏の個人攻撃をするつもりは毛頭ありませんが、そうした土肥氏を「闘う人」であるかのように描く映画、その上映運動には私はやはり大きな違和があるというほかありません。

追記(2012年4月11日)

私の本エントリの問題提起に呼応して増田都子さんが市民のML(CML)というメーリングリストに下記のような投稿をされています。ご紹介しておきます。

■東本さんに触発され!? FW: 続・ドキュメンタリー映画『"私"を生きる』(監督・撮影・編集/土井敏邦)の評価には負の意味で留保するべき点がある(CML 2012年4月10日)
http://list.jca.apc.org/public/cml/2012-April/016121.html
「島田市の試験焼却結果を考える ~バグフィルターは本当に99.9%取れるのか?~」(注1)という静岡の市民グループ(技術研究者主体の市民グループだといいます)の島田市の試験焼却結果の解析データがあれこれのブログやメーリングリスト上で話題になっていますが、この静岡の市民グループの解析データについて先日来私はいくつかのメーリングリストに私としての批判的な見解を発信しています。議論の参考として本エントリとしてもアップしておきます。

注1:島田市の試験焼却結果を考える ~バグフィルターは本当に99.9%取れるのか?~

その前にひとこと。

私の震災がれきの広域処理問題に関する基本的な考え方は、本来、国が明確にするべき放射性廃棄物の集中管理、がれきの当該地処理という大方針を明確にしない中での震災がれきの広域拡散、また、放射能のさらなる全国的拡散の恐れのあるいまの焼却炉システムのもとでの各自治体の震災がれきの受け入れ、さらには「セシウム完全シャットアウト」型の焼却設備の国としての責任ある検証を怠ったままの震災がれきの焼却処分にはまったく賛成できない、というものです。

が、震災がれきの広域処理反対の論の中には、3・11事故からまもなくして罹患した病気をただ原発被災地の近隣に住んでいたという理由だけでいたずらに白血病だと断定したり(白血病が顕在化するためには少なくとも5年程度以上かかるというのが現代医学の知見です)、大量の放射線を一気に浴びない限り生じない鼻血や血便、下痢、湿疹などの諸症状(これも現代医学の知見です)をすぐに放射能のせいにしたり、あるいは煙草を呑むと放射能にかかるなどというデマ(これもデマでしかないことの論証記事を私は書いています。注2)をまことしやかに拡散したりなどなど不確かな根拠をもとにいたずらに放射能被害の危険を煽り、そのつくられた危険をもとに震災がれきの広域処理反対論の根拠にしている論が少なくなく(というよりも圧倒的に)見られますが、そうした一種カルト化したといってもよい広域処理反対論に接する度に私は今般の脱原発運動の思想的貧困ということを思わざるをえません。

少し調べればすぐにウソとわかるたぐいのウソをウソともデマとも思わずにただ一途に信じきって拡散し続けている人たちの端的にいって現代カルト化現象ともいうべき知性の貧困。私たち現代人(大衆)の知性は、「朝鮮人が井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というデマと流言飛語からあの関東大震災の際の朝鮮人虐殺が始まった、という痛恨の経験からなにごとも学んでいない。あの時代の暗愚の知性から一歩も前進しえていない、ということをつくづく痛感せざるをえません。これでは人々は脱原発の理念を信用しなくなるだろう。人々を真の脱原発理念とはまったく逆向きのベクトルの方向に向かわせることにしかならないだろう、と私はこのような現象を激しく憂うるものです。

注2:反原発運動の高まりに乗じたあらたな禁煙ファシズムの論理 「たばこ放射能」説のデマゴギー性について(弊ブログ 2011年10月31日)

さて、以下、いくつかのメーリングリストに発信した本論の転載です。転載は返信の返信を重ねたため3部に分かれます。

(1)
標題と同様の情報メールは昨日、私の地元のメーリングリストにも流れてきました。

以下、その情報メールの真偽について述べた私の返信メールの要旨です。あなたの情報メールへの疑問の提示にもなりえていると思いますので転載させていただこうと思います。

なお、私の下記の応信(転載文)とあなたの標題の問題提起には論点に若干のズレがありますので、その点については転載文の下に若干のことを追加的に述べておきます。

以下、転載文:

ご呈示の木下黄太氏のブログの「島田市のガレキ焼却でバグフィルターで40%のセシウム137が取れていません」という断言の真偽について検討してみました。

木下氏がそのように断言する根拠となった計算式はこちらにあります。

(1)神奈川を瓦礫から守る会 バグフィルターで99.9%は嘘!島田市実験焼却結果。
(2)島田市の試験焼却結果を考える 計算過程の表

一方その計算式のもととなった島田市と静岡県の放射能濃度測定結果はこちらにあります。

(3)島田市放射能濃度他測定結果
(4)静岡県 災害廃棄物の試験焼却における放射能濃度測定結果

両者を比較して計算式の妥当性を検討してみましたが、その計算式に用いられている数値及び計算結果の数値には誤りは認められません。

が、問題は、「ごみピットの323445Bqと原灰の209380Bqの差分はどこへ?」という問題を立てた((2)の4頁)上での「ガス・飛灰として出ていく Cs137=343445-6698=336747(336747Bqのセシウム137がガス・飛灰として出ていく )」(同5頁)という結論部分です。

この結論部分は(3)島田市放射能濃度他測定結果の「試料名:排ガス(1号炉)」「試料名:排ガス(2号炉)」(7頁)の「煙突 放射性セシウム 不検出(煙突出口部分からはセシウムは検出されなかった)」という表の記述と矛盾しますし(島田市の「放射能濃度他測定結果」はウソである、と仮定しない限り)、下記(5)の島田市放射能濃度他測定結果の考察とも矛盾します。

(5)島田市放射能濃度他測定結果の数値を検討する

(5)の考察は島田市の「公表値は正しい」ということを前提にして考察されています。「意図的に隠していると考えると公表値も疑わしくなり」、計算そのものが成り立たないからです。

それでも木下黄太氏が紹介される「静岡グループの技術研究者」と同様に物質収支の計算式を用いて「混焼用ゴミの放射能量 331,400 Bq でしたから、溶融原灰になった時点で、331,400 -268,800 = 62,600 Bq の放射性セシウム(放射能全体の19%程度)が途中で消えてしまったことになります」、と数値は若干異なりますが「静岡グループの技術研究者」とほぼ同様の計算結果を導いています。

しかし、(5)の考察者と(2)の「静岡グループの技術研究者」とでは結論が異なります。(2)の「静岡グループの技術研究者」の結論は「ガス・飛灰として出ていく Cs137=343445-6698=336747」というものでしたが、(5)の考察者の結論は「おそらく大半は燃料室以降のボイラ、減温塔、集塵器の内部に付着したのではないでしょうか」というもの。すなわち、「40%のセシウム137がガス・飛灰として大気中に出ていく 」わけではない、というものです。常識的に見て、私は(5)の考察者の結論の方が正しいと思います。

木下黄太氏の「島田市のガレキ焼却でバグフィルターで40%のセシウム137が取れていません」という言説の流布は単に危険を煽るだけのガセネタのたぐいである、というのが私の判断です。

(2)
この件について、あなたは次のように書かれています。

「集塵器入口のCs137は排ガス量を考慮すると、135830Bq(排ガス量17000m^3/hr)、159800Bq(排ガス量20000m^3/hr)となるが、煙突の検出限界が集塵器入口より高く、集塵器入口の測定値とほとんど変わらないので、最大で115600Bq(排ガス量17000m^3/hr)、136000Bq(排ガス量20000m^3/hr)が不検出となる。」

しかし、不検出=NDとは測定誤差の3倍以下のことをいいます。つまり、放射能は自然放射線によるバックグラウンドがあるため、何もサンプルを入れなくても測定したら値が出てきます。測定というのは必ず誤差を含むので、バックグラウンドを何度も測定して、その測定による測定誤差を求めます。そのバックグラウンドの測定誤差の3倍を検出限界値、3倍以下をND=不検出といいます。

注:バックグラウンド及び検出限界値、またND=不検出についてはこちらにわかりやすい例が示されています。

その測定誤差の範囲内で正確な値を検出できないからND=不検出といっているところに「煙突の検出限界が集塵器入口の測定値とほとんど変わらないので」という理由で無理やり集塵器入口の測定値を当てはめるというのはあまりにも乱暴な計算のしかたといわなければならないでしょう。集塵器は文字どおり塵を集めるところで、この集塵器に高性能の排ガス処理装置(バグフィルター)が備わっていて排煙中の放射性物質をほぼ100%除去できるといわれている(検証が必要ですが)わけですからこの集塵器通過前の放射能の値から除去率をはじき出すというのは乱暴な計算のしかたという以前にナンセンスな計算方法といわなければならないでしょう。

したがって、木下黄太氏の「島田市のガレキ焼却でバグフィルターで40%のセシウム137が取れていません」という言説の流布は単に危険を煽るだけのガセネタのたぐいである、という私の判断はやはり変わりません。

がれきの広域処理反対のためには、正当でそれゆえに説得的な反対理由が必要だと思います。がれき広域処理反対論であればどのような論でも援用してもよい、ということにはもちろんならないと思います。

(3)
私が「常識的に見て」と言っているのは2つの点からそう言っています。

第1は島田市が公表している「放射能濃度他測定結果」は「必要なはずの数値が不足している」ということはあっても基本的にその公表数値は正しいだろうということを前提にしているということです。地方自治体という公的機関が誰もが見ることのできる同自治体のホームページ上に明証的に公表しているものです。当然、この公表数値は専門家の目にもとまるわけですからそこにウソがあればすぐにバレてしまうでしょう。ウソをつくにしてもそういう稚拙なことはまずしないだろうし、できもしないだろうということがあります。測定機関としての 株式会社静環検査センター及び日本環境衛生センターも信頼のおける測定機関です。そこの測定結果にまずウソや誤りはないだろうということもあります。だから、焼却施設の1号炉と2号炉の煙突出口部分からはセシウムは検出されなかったという公表値は真と見てよいだろうというのが私が「常識的に見て」と考える第1の理由です。

第2に上記(3)の田代環境プラザの「溶融処理フロー」図を見れば明らかなように搬入ごみは溶融炉を経て燃料室、ボイラ、減温塔、集塵器という経路をたどって焼却、分解されていきます。この過程でそれぞれの装置の内部に付着したと見るのが「常識的」な見方というべきであろうということです。
前田さん、第1と第2と第5の点についてのみ少しばかり応答しておきます(注1)。

注1:前田朗氏(東京造形大学教授・原発民衆法廷判事)の往信についてはこちらをご参照ください。

第1の脱原発共闘(という言い方がふさわしいかどうかという問題はさておいて)においてネオリベなどなどの「脱原発」主張をどのように評価するかという問題は難しい(決して易しくはない)問題です。具体的にいえば古賀茂明や飯田哲也、河野太郎などなどの新自由主義者の脱原発」主張をどのように評価するかという問題、ということになるでしょう。この点については前便メールの最後でも少し触れておきましたが、私は、大雑把な言い方ですが、「共闘できるところは共闘して構わない」、ということだろうと思っています。「構わない」という表現はむろん積極的肯定論ではありません。なぜ、積極的肯定論ではありえないのか? これも前便メールで少し触れておきましたが、私にはやはり「いつ、どこで足を掬われることになるかわからない」という彼らに対する強い不信の念と危惧の念が拭えないからです。その不信と危惧の念がおのずから「構わない」という消極的表現になりえている、ということです。

さて、その私の不信と危惧の念の中身について少し触れておきますと、彼らが新自由主義者であれなんであれ、また、「脱原発」志向であれなんであれ、結局のところ彼らの所属する政党、ないしは彼らがシンパシーを抱く政党であるところの自民党、みんなの党、あるいは橋下・維新の会、さらには民主党は詮ずるところ「原発推進」政党にしかすぎないということです(注2)。

注2:「政治家を原発推進政党(民主党)の議員を含めて「人物本位」で候補者を擁立しようという呼びかけは正当か?」(弊ブログ 2012年1月7日付)参照

その「原発推進」の政党に所属していて、あるいはその政党を支持する「脱原発」志向、「脱原発」主張とはなんなのか? 私には理解できないことです。彼らの政治理念の問題としてその矛盾を私は決して軽視することはできません。個人の理念と政党の理念に矛盾があるとき、これまでの政治史を振り返る限り個人の理念は必ず潰されていきます。そういうことがわかっていて(わかっているはずです)「原発推進」の政党に留まっているというのは結局のところ彼らには真の「脱原発」の意志はないものと私は判断せざるをえません。その矛盾に気がつかないふりをしているところに私は彼らの政治家、あるいは評論家としての重大なマヌーバ―性を見る思いがするのです。また仮にそういうことがわかっていないでただ「脱原発」「脱原発」と言って騒いでいるだけだとすると、彼らはあまりにも能天気なお坊ちゃんというほかありません。そういう意味でも彼らに私は信を置けません。そういうしだいで、「ネオリベでも脱原発ならOK」というのはなかなか危険な言い方、難しい問題、決して易しくはない問題だと私は思わざるをえないのです。

第2の飯田哲也氏の評価に関していえば、前便で私は「1日の会議では、NPO法人『環境エネルギー政策研究所』所長の飯田哲也特別顧問と、古賀茂明特別顧問の両委員が、それぞれ『再稼働の8条件』を提示」云々というSankeiBizの報道を紹介しておきましたが、飯田氏の「脱原発」志向の姿勢については、左記の報道を一瞥するだけでも十分だろうと私は思っています。彼の「脱原発」は所詮いろいろ条件はつけたとしても「原発再稼働」を許容する程度の「脱原発」主張でしかないことは明らかだということができるからです。ここでは私は飯田哲也氏はほんものの脱原発主義者とはいえない、ということを言っています。彼が橋下の思想調査アンケートをどのように思っているかということはここでの評価に関しては無関係です。ただ、「飯田さんが強制や思想調査をしているわけでは」ないとしても、彼がその反民主主義性において際立つ思想調査アンケートを強行する橋下ブレーンの一員になっていることはその橋下の反民主主義とプチ独裁の手法を許容しているからにほかならない、ということになるでしょう。そういう意味でも飯田氏は評価できません。

第5の「再稼働の8条件」の中身の問題について若干のことをいえば、前便でご紹介した読売新聞の4月2日付け記事によれば、その「8条件」の中には「同社の定款を変更・追加し、『原発事故の賠償責任が会社の負担能力を超えない』ことを盛り込む」という項目が含まれています。なんとも違和感のある項目です。この項目は、人の尊厳と生命の値段は「会社の賠償責任負担能力」の範囲内で量り売りされる程度のものでしかない。そういうことよりも株主利益を保守することの方が重要、と言っているに等しい人よりも経済に重きを置く資本の論理丸出しの認識といわなければならないでしょう。ネオリベの面目躍如の「非思想」というべきところでしょうか。このような項目の追加要求をして恥じない人物群は私は軽蔑しても、信を置くことは断じてありえません。
これまで私は、橋下徹(大阪市長)と古賀茂明(大阪府市統合本部特別顧問)の「脱原発」主張のほんもの性には大きなクエスチョンがある、ということを事実をあげて繰り返し述べてきました(注)。にも関わらず、橋下と古賀、さらには飯田哲也の「脱原発」政策をほんものの「脱原発」政策であるかのように(大阪市の思想調査アンケートは民主主義破壊的というべきだが、橋下、古賀の「脱原発」政策は評価できる、というがごとき)称揚する人たちが少なからずいました。

注:下記参照。
(1)脱原発主義者を自称する人たちのハシモト的なもの、みんなの党的なものへの傾斜について(弊ブログ 2012年2月16日)
(2)ある「脱原発」主義者との問答――「原発推進」政党の民主党やみんなの党に投票するという「脱原発」主義者を脱原発主義者といいえるのか?(弊ブログ 2012年1月19日)

たとえば上記の(1)で私は橋下の「脱原発」政策について、「橋下氏は知事時代につくる会の歴史教科書を大阪府の全公立校で採択させようと再三試みていますが、その「つくる会」系2社の公民教科書の記述は「原発推進」で突出しています。このことは橋下氏は「脱原発」よりもつくる会の歴史教科書の採択の方に重きを置いているということを示しています。「世に倦む日日」ブログの管理人氏の「こういう人間の『脱原発』は信用できないな。ま、いずれ、橋下徹も渡辺喜美も、再稼働と原発推進へ舵を切るのは確実だが」という観測はマヌーバーとしての脱原発主義の本質を衝く指摘というべきで必ずしも邪推とばかりはいえないだろうと私は思います」と述べています。

しかし、橋下、古賀の「脱原発」政策について大いなるクエスチョンは提起しえても、彼らの「脱原発」政策のマヌーバー性についての決定的な言質の提示が不足していたため(それはもとより彼らが本音の核心部分を隠蔽したまま「脱原発」政策を唱えていたことに起因するわけで、マヌーバー性のマヌーバー性たるゆえんであるわけですが)、彼らの「脱原発」主張のマヌーバ―性を証明するまでには到っていませんでした。

しかし、ここにきて彼らの「脱原発」主張は、いまだ「条件つき」という化粧を凝らしているものの、やはり原発再稼働を認めるたぐいの「脱原発」主張でしかなかったことが明確になりました。

橋下市長、大飯再稼働「1次評価だけでは無理」(読売新聞 2012年4月2日)
「福井県おおい町の大飯原子力発電所3、4号機の再稼働について、大阪府と大阪市の「エネルギー戦略会議」は1日、同原発から100キロ以内にある自治体と安全協定を締結し、同意を得ることなどの8条件を政府や関西電力に求める方針を了承した。(略)橋下徹・大阪市長は「大飯原発の再稼働は現時点で反対ストレステストの1次評価だけでは(再稼働は)無理」と述べた。」(注:条件が整えばOKということです)。

橋下市長「原発止まって明日あさって死ぬわけではない」 大飯再稼働に反対(SankeiBiz 2012年4月2日)
「一方、1日の会議では、NPO法人「環境エネルギー政策研究所」所長の飯田哲也特別顧問と、古賀茂明特別顧問の両委員が、それぞれ「再稼働の8条件」を提示。大阪府域も対象となる大飯原発から80~100キロ圏内について、住民同意を得て自治体と安全協定を締結すること-などを条件にすることを盛り込んだ。」(注:やはり条件が整えばOKということです)。

「原発止まって明日あさって死ぬわけではない」などという言説だけを見れば、いかにも橋下は「脱原発」を主張しているかのように見えますが、実は橋下、古賀、飯田の「脱原発」主張は、真の「脱原発」ではなく、「原発容認」の主張でしかないということを私たちは心して観察しておく必要があるように思います。

もちろん、それでも部分的共闘は可能です。共闘できるところは共闘して構わないわけですが、彼らが真の脱原発主義者ではありえないことは心しておく必要があるように思います。そうでなければいつか、どこかで足を掬われることになりかねないと私は思います。