今月のはじめに私は「避難の権利」のみを一面的に主張して放射能汚染地の「除染」の課題を危険視、あるいは等閑視する一部の脱原発主義者の主張に疑問を提示する猪飼周平さん(一橋大学教員・社会学)の論を共感こめて弊ブログ上でも紹介させていただきました。

その猪飼周平さんの論とほぼ同様の見解の表明であったり、猪飼さんの論に賛同する記事もいくつか紹介したりもしました。猪飼さんの論の賛同者は猪飼さんのこの補足記事を読んでもさらに増え続けているようです。

今回は震災がれきの処理の問題に関して、そのがれきの処理を頑迷に拒否する市民の姿勢について「脱原発派の人間性が今問われている」としてそうした市民の姿勢に警鐘を鳴らしている徳岡宏一朗さん(弁護士)の論をご紹介させていただこうと思います。いまもっともアクチュアルかつ緊急性の高い問題提起のひとつであろうと思います。

■2500万トンの瓦礫が太平洋を越えアメリカに漂着する 瓦礫を拒否する脱原発派の人間性が今問われている(徳岡宏一朗 2012年2月19日 )
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/3e5626a3bfdd5498ee77cbc94d4b45a9


がれき 


冒頭の写真に象徴されるように、ニューズウィーク誌によると、東日本大震災で津波から出た2500万トン以上の瓦礫がアメリカの海岸に向かっています。

米FOXニュースの電子版によれば、家屋やボート、家具など水に浮く津波被害の残骸の多くがこの春から今後2年をかけてアメリカの海岸に到着すると予想されているのです。

犠牲者の遺骨などが漂着する可能性もあるそうです。

米国立海洋大気庁(NOAA)とハワイ大学によって作られた模型では、「フロートサム」と呼ばれる瓦礫の一帯がハワイ州やカリフォルニア州、またワシントン州に向かっており、2011年12月にすでに最初の漁船用ブイが漂着しています。

日本の環境省は、東北3県からのすべての瓦礫の20%ほどが太平洋に流されたと見込んでいるそうで、ビーチに到着する瓦礫の環境への影響が懸念されるのに加え、津波による犠牲者の遺品や形見がうち上がる可能性もあるということです。

米環境保護庁が大規模になりそうな海岸清掃へ向けての準備を始めているそうです。

米国海洋大気庁の太平洋諸国地域担当キャリー・モリシゲさんは、残骸が福島第一原発事故の発生前に流されたため放射能汚染の心配はないとの見解を同庁のサイトで公表しました。

しかし、アメリカに、世界に漂着するのは原発事故前のがれきだけではありません。

福島第1原発事故で海に流出した放射性セシウム137は、2011年5月末までだけで3500テラベクレル(テラは1兆)に及ぶこと、そのセシウムは黒潮に乗って東へ拡散した後、北太平洋を時計回りに循環し、アメリカ沿岸にも到着すること、そして、今から20~30年かけて世界中の海をまわって日本沿岸に戻るとの予測を気象研究所と電力中央研究所の研究チームが2011年9月にまとめています。

また海に直接出たほかに、大気中へ放出された後に海に落ちたセシウムの量が1万テラベクレル程度あるとみており、総量は1万3500テラベクレルで、これは過去の核実験で北太平洋に残留している量の6分の1に当たるということです。

いかに日本が世界の環境に深刻な影響を与えているかが分かります。

我々の原発推進が、世界中の人々をヒバクシャにするのです。

各地の脱原発運動の人々が、東北からのがれき受け入れに神経質になる気持ちは分かります。

焼却処分にすれば、セシウムが濃縮することは明らかで、今の状態で低線量放射線しかないから安全だというのはナンセンスだからです。

しかし、第1に、東北と言っても広いので、例えば岩手と神奈川なら福島原発からほとんど等距離です。風向きの問題もあるとは言え、横浜でも非常に重いストロンチウム90まで検出されています。

東北由来のがれきを十把一絡げに嫌がるのもおかしいでしょう。

第2に、そもそも、福島原発後、数日でアメリカでも福島原発由来の放射性物質が検出されたくらいですから、日本列島に住む人が皆もうヒバクシャであることを覚悟すべきです。だからこそ、原発推進政策の罪は重いのですが、脱原発派が自分だけ完全な清浄を願うこともまた非現実的なのです。

第3に、脱原発を唱える人は、ヒューマニズムに根ざして、人間本位の考えから原発を拒否しているはずです。なのに、東北の人だけに我慢を強いて、世界中に迷惑をかけて、それでも自分だけは浮かび上がろうとする、そういう心根で、本当に良いのだろうか、という疑問を感じます。

もちろん、子ども達と自身を守るために、ゼロは無理でもできるかぎり被曝を防ごうとする気持ちは私も同じです。これまで、内部被曝の恐怖シリーズなど、このブログの原発推進派の悪行告発の記事の、質はともかく量だけなら、そうそう人後に落ちないはずです。

原発推進派の非人間性は論を待ちません。言語道断。

しかし、京都の五山で陸前高田の薪を送り火として燃やすのを拒否したり、福島の室内で作って保管されていた花火を花火大会で使うのを拒否したあたりから、どうも行きすぎた脱原発派にもおかしなものを感じます。

原発推進の石原大雑把都知事が瓦礫受け入れを言ったりするので、瓦礫受け入れが放射線被曝の過小評価と結びついてしまいややこしいのですが、かといって、とにかく東日本大震災の瓦礫なら一切受け入れ拒否、ということで、本当に良いのでしょうか。

福島の人も東北の人も日本列島のどこに住む人も、同じように幸せに生きられるように考えるのが、エゴではなくエコに生きる本当の脱原発らしい生き方だと私は思うのです。

ちょっとでも被曝量を減らそうとするのは人の親として当たり前の姿勢です。他方、宮城県の瓦礫量は通常の処理でいうと23年分の1800万トン以上だそうです。

これは津波と地震で生じたものです。もし原発事故がなかったら各地で喜んで引き受けたでしょう。だからこそ原発推進派の罪は重いのですが、とにかく瓦礫の処理をしないと被災地が復興が出来ないのも確かです。

早く全原発・核燃施設を廃絶して、その敷地を瓦礫処分場や放射性物質の中間処分場・最終処理場にしていくべきですが、それでは復興にどれだけ時間がかかるか分かりません。

それでも全拒否するのか。我々の前にある問題はシンプルではないのです。
さて、ゆりひななさんの「橋下さんは、ほんまに『独裁者』なんかな~?」という論は、橋下市長がその成立を強行しようとしている「教育基本条例」と「職員基本条例」の背骨にある思想は「新自由主義」の思想であって、その橋下的な「新自由主義」の「本丸」がめざしているものは「『独裁』ではなく、むしろ、全く逆の『(公共サービスの)完全自己責任化』であり、『公』(自治体)の『責任放棄』」というべきである。それを「政治を教育に持ち込む独裁条例反対」、「公務員の『思想信条』をしばる独裁条例反対」などといたずらに叫号罵倒するだけではまんまと敵の撒いた「エサ」の罠に陥ることにしかならない、というものです。それでは大阪市民は逆に「独裁? はぁ~? 何言うてんの」「国旗国歌をないがしろにする先生なんかいらんがな」「仕事せーへんくせに、おいしい給料もらってる公務員もいらんがな」「何でもえーから、筋の通った『公共サービス』してよ」などとかえって反感を募らせるだけだろう、と。

たしかに一理あるご意見ではあります。が、ゆりひななさんの論には「新自由主義」的な価値観と「独裁」という政治形態を対立概念としてとらえているという難点があるように思います。「新自由主義」的な価値観と「独裁」という政治形態、さらにはポピュリズムという政治形態は案外に相性がよいのです。「名前を口にするのもおぞましいけれど、コイズミという一人の凡庸な男」(辺見庸『いまここに在ることの恥』)がこの国の首相だった5年間の時期のことを振り返れば、自ずからそのことは明らかになるでしょう。

コイズミはいうまでもなく「小さな政府」論や「構造改革」論を唱える新自由主義論者の雄としていわゆる小泉旋風を巻き起こし、自民党総裁選に勝利し、賑々しく新首相に就任しました。2001年4月のことです。その当時、コイズミが盛んに口にしていたのは「自己責任」と「民の導入」という例の新自由主義の流行の言葉でした。そして、コイズミは年来の自らの持論である郵政民営化改革を断行しようとしました。しかし、彼の提出した郵政民営化関連法案は身内の反乱を受けて衆議院本会議においては5票差でかろうじて可決されたものの、参議院本会議では最終的に否決されてしまいます。そこでコイズミは民営化の賛否を国民に問うとして衆議院を解散し、郵政民営化に反対した国会議員の選挙区すべてにいわゆる「刺客候補」を送り込みます。この選挙ではときの小泉旋風の強い追い風もあってコイズミは勝利したわけですが、このときのコイズミの政治手法は身内の議員からでさえ「独裁」と非難される体のものでした。左記は独裁と新自由主義とポピュリズムの親和性を示す一例になりえるでしょう。

また、ヒトラーの経済政策は極端なポピュリズム政策でしたが、ケインズ主義を取り入れたものとして経済学史的には新自由主義の対極に位置づけられるのがふつうですが、「公共事業で失業問題を解消」「労働者減税」「老人福祉の大幅な強化」「高等教育の無償化」などなどの福祉政策、ワイマール共和国憲法によって成立した基本的人権や労働者の権利のほとんどはヒトラーが布告させた緊急大統領令によって停止され、戦後はヒトラー政権の発行したライヒスマルクも紙切れ同然になり、ドイツ国民を貧窮のどん底に陥れました。すなわち、国民の経済的貧窮は「自己責任」の問題として処理されてしまったのです。これは見かけ上はケインズ政策であっても実態は新自由主義の「自己責任」政策そのものだったといってよいでしょう。ここでも独裁と新自由主義とポピュリズムの親和性は如実に示されています。

以上は、ゆりひななさんのおっしゃる「(公共サービスの)完全自己責任化」と「『公』(自治体)の責任放棄」という新自由主義の政策を実現させるためには「独裁」という強権が必要だった、という話です。「新自由主義」的な価値観と「独裁」という政治形態は必ずしも対立的な概念ではないのです。

私たちはこのことこそを市民に強くアピールしていく必要がある、といえるのではないでしょうか? そのことに成功すれば、すくなくとも「独裁? はぁ~? 何言うてんの」などという市民の反感の声は大多数の市民にとってはドブ川のせせらぎのようなものにしか聞こえなくなってしまうのではないでしょうか?
ここでは大阪の市井の人で、「落語とハンドメイド、そして平和を愛する3児の母」(自身のブログのプロフィール)であるゆりひななさんの「大阪を先頭に社会が流されていく方向を、『独裁』という言葉に閉じこめたらやばい」という問題提起を手がかりに橋下(ハシズム)現象を受容する側、すなわち当然私たちを含む市民への同じ市民としての説得力のある「ポピュリスト・橋下市長ノー」の発信のあり方はどうあるべきか、という観点からこの問題を考えてみたいと思います。

橋下人形と新自由主義の大実験 その1(「軒づけ日記」ブログ 2011年12月22日)
橋下人形と新自由主義の大実験 その2(「軒づけ日記」ブログ 2011年12月23日)
橋下人形と新自由主義の大実験 その3(「軒づけ日記」ブログ 2011年12月24日)
橋下人形と新自由主義の大実験 その4(「軒づけ日記」ブログ 2011年12月25日)

上記のゆりひななさんの記事は「橋下の本質を、独裁、という言葉でくくってしまうことへの危惧、そして橋下がお先棒を担いでいる新自由主義が放棄する公共性に対抗する新しい公共という対抗軸について、興味深い論考となっています」というコメントを付加されて「堺アピール」ブログ(2011年12月25日付)にも全文転載されていますが、同ブログ管理人氏のコメントに私も同感します。ゆりひななさんの論は、「よい」とか「悪い」とかいうイデオロギー(理念)の問題としてではなく、実際に大阪の庶民は橋下問題をどう見ているか、というラディカルな(「庶民」という根源的なものを基底にした)問題意識の上に立って展開されています。落語を愛する大阪人女性らしい観点と論点の提起だと思います。

しかし、ゆりひななさんの問題提起を検討する前に、私たちはもう一度「橋下大阪市長、府民支持7割」(朝日新聞 2012年2月21日)、「橋下市長の国政進出を期待する64・5%」(産経新聞 2012年2月13日)などなどのメディア各社の世論調査の意味するところについて思いを巡らしておく必要があるように思います。

あれだけの人権侵害も甚だしい戦前の特高警察も顔負けという体の「アンケート」という名の思想調査を業務命令の形で発令して恥じることを知らないポピュリスト・橋下市長への大阪市民と国民の圧倒的な支持にはただただ呆然とするばかりというほかありませんが、そうした異様な橋下人気を下支えしている、いや、それ以上に上げ底している大元凶がほかならないマスメディアの「橋下賛美論」「橋下改革者論」のオンパレードであったという事実。すなわち、この状況は、メディアが「状況の危機を危機として位置づけることができない」(辺見庸『単独発言』)で、逆に第3権力待望論をあおる(“ウォッチドッグ”(権力の監視者)としての役割の放棄)ことで一斉にジャーナリズムの言葉を失った日、辺見のいう“Day of Infamy”(屈辱の日)にたとえることができるでしょう。辺見はこうした状況を「今日的な日本型のファシズム」(同左)と名づけているのですが、そうした事実の意味するところについてです。

マスメディアを含む言論機関の権力への屈服は、私たちの国を後戻りのきかないポイント・オブ・ノーリターン(帰還不能点)のファシズム=十五年戦争の道に突き進ませる萌芽になったのですが、その言論機関の権力への屈服の契機になったのが1918年(大正7年)に起きた白虹事件(大阪朝日村山社長右翼襲撃事件)でした。この白虹事件について当時のインターネット新聞のJANJANに書いたことがありますので、該当部分を少しばかり引用してみます。

 
ゆふいん文化記録映画祭
ゆふいん文化記録映画祭で白虹事件に
ついて話す筑紫哲也さん(ゆふいん文化
記録映画祭プロデューサー 中谷健太郎
さん撮影)

当時、大阪朝日新聞(現在の朝日新聞の前身)は、大正デモクラシーの先頭にたって言論活動を展開していたのですが、その流れの中で、この米騒動も大々的に報じ、時の寺内内閣を追いつめていきます。が、米騒動に関する大阪朝日の記事の中に「白虹日を貫けり」という一句がありました。「白虹貫日」は中国の故事で「革命」を意味します。寺内内閣は、大阪朝日の報道を『朝憲紊乱罪』(天皇制国家の基本法を乱す罪)に当たるとし、同紙に『発行禁止処分』を下そうとします。これがいわゆる白虹事件といわれるものです。/白虹事件は、別名大阪朝日村山社長襲撃事件ともいわれます。白虹事件と機を一にして大阪朝日の村山社長が、新聞社からの帰途、中之島公園内で数名の右翼暴漢に襲われ、『代天誅国賊』(天ニ代リテ国賊ヲ誅ツ)と記した布切れを首に結ばれ、石灯籠にしばりつけられるという事件が起きたからです。このテロリズムを機に、大阪朝日は権力に腰の引けた報道をするようになります。権力とテロリズムに言論機関が屈服したのです。

このように言論機関の“ウォッチドッグ”としての役割の放棄はファシズムへの道へとまっすぐにつらなっています。そのことは私たちはすでに1941年から1945年までの4年間だけで戦闘員犠牲者174万955人、民間人犠牲者39万3000人(wikipedia「太平洋戦争」)という尊い犠牲の上にすでに経験ずみのことなのです。しかし、私たち「少国民」は、もはやそのことを忘れてしまったかのようです。その事態がいまのマスメディアの橋下人気の下支え、あるいは上げ底。「橋下賛美論」「橋下改革者論」のオンパレードなのです。

また、ポピュリズムとファシズムも一体のものです。上記の白虹事件の直接の原因は、同じ1918年(大正7年)に起きた米騒動の大阪朝日新聞の大々的な報道にありました。そして、その米騒動は「日本の歴史上最大の民衆運動」と位置づけられるもので、その後の1932年(昭和7年)の五・一五事件や1936年(昭和11年)の二・二六事件を首謀した当時の青年将校はその蹶起の理由を当時の大恐慌から続く深刻な不況に苦しむ農民、労働者の救済に求めました。政治家と財閥系大企業の癒着による政治腐敗が今日の貧困の原因であり、その政治腐敗を糺すために吾々は蹶起したのである、と。ここにも明らかにポピュリズムとファシズムの一体性を読み取ることができます。「あの時代」(ファシズムの時代)はポピュリズムとともに足音を忍ばせて忍び寄ってきたのです。橋下大阪市長の「暴力」性(「アンケート」という名の思想調査)はこのポピュリズム思想との連関性においても読み取っておく必要があるように思います。

だから、「橋下大阪市長、府民支持7割」(朝日新聞)という事態は「恐るべきこと」であり、「危険きわまりないこと」だといわなければならないのです。

(この項続く)
すでにご存知の方が多いだろうと思いますが、大阪府労働委員会は22日、橋下市長が強行突破を図っている思想調査「アンケート」について、「『(不当労働行為の)支配介入に該当するおそれのある(質問)項目があるといわざるを得ない』として、橋下徹市長らの責任で調査続行を差し控えるよう勧告」(朝日新聞 2012年2月23日)しました。

■大阪市アンケート「違法のおそれ」 府労働委が勧告書(朝日新聞 2012年2月23日)
http://www.asahi.com/national/update/0222/OSK201202220230.html
■大阪市:職員調査 府労委「不当行為の恐れ」 市に中断勧告(毎日新聞 2012年2月23日)
http://mainichi.jp/kansai/news/20120223ddn001010004000c.html
■大阪市職員の組合・政治活動調査に凍結勧告…府労委(読売新聞 2012年2月23日)
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120223-OYO1T00181.htm

大阪市労働組合連合会(市労連)はこの13日に府労委に対し「組合運営に介入する不当労働行為にあたる」として救済を申し立てていましたが、この「職員労働組合側の救済申し立てが認められる可能性が高い」(同上)というのがメディアの報じるところです。

しかし、「アンケート」問題が発生してから上記の報道に至るまでのメディアのこの橋下問題をめぐっての報道ぶりは目に余るものがありました。「この2週間余り、『大阪市職員アンケート調査』をめぐる一連の報道のなかで明らかになったのは、橋下市長が思想調査など国民権利の『破壊者』としてマスメディアから批判されるのではなく、逆に政権交代で行き詰まった国政の政局を打開する『改革者』として評価されるという驚くべき事実」(広原盛明「ハシズムの分析、その11」)でした。

このメディアの退嬰というも愚かなり、とでも蔑みたいその退嬰ぶりの批判については、以下にご紹介する広原盛明さん(都市計画・まちづくり研究者)の論に譲りたいと思いますが、その前に各メディアによって同時期に行われた橋下人気に関する世論調査の結果をご紹介させていただこうと思います。おぞましい限りです。

■橋下大阪市長、府民支持7割 朝日新聞・ABC世論調査(朝日新聞2012年年2月21日)
http://www.asahi.com/politics/update/0221/OSK201202200190.html
■橋下さんらグループの国政への進出を「評価する」60.8 %「評価しない」26・5 %(日本テレビ 2012年年2月12日)
http://www.ntv.co.jp/yoron/201202/soku-index.html
■「大阪維新の会」を率いる大阪市の橋下徹市長の国政進出を「期待する」との回答が64・5%(産経新聞 2012年2月13日)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120213/stt12021311460001-n1.htm
■大阪維新の会が「国会で影響力を持つような議席を取ってほしい」54%(朝日新聞 2012年2月13日)
http://www.asahi.com/special/08003/TKY201202120241.html
■維新の会の国政進出、「期待する」66%(読売新聞 2012年1月15日)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120115-OYT1T00033.htm
■大阪維新の会の国政進出については61・2%が「期待する」と回答、「期待しない」は32・8%(共同通信 2012年2月19日)
http://www.47news.jp/CN/201202/CN2012021901001450.html

この橋下人気はなんに起因するのか? この異様な橋下(ハシズム)現象を打破するためにそのさまざまな理由について考えていきたい、というのが本稿を書きはじめようと思い立った動機ですが、その理由の第一にはやはりジャーナリズムとして朽ち果てたマスメディア批判は必須だと思われます。下記の広原盛明さんの論に見るもはや惨憺たるとしか形容しえないマスメディアのスカスカの「橋下賛美論」、「橋下改革者論」こそがこの異様な橋下人気を下支えしている、あるいは上げ底している大元凶であることが明らかであるというべきだからです。

以下、広原盛明さんの論です。

橋下市長が国民権利の「破壊者」として批判されるのではなく、国政の「改革者」に祭り上げられる理由(ハシズムの分析、その11)(リベラル21 2012年2月24日)

 この2週間余り、「大阪市職員アンケート調査」をめぐる一連の報道のなかで明らかになったのは、橋下市長が思想調査など国民権利の「破壊者」としてマスメディアから批判されるのではなく、逆に政権交代で行き詰まった国政の政局を打開する「改革者」として評価されるという驚くべき事実だった。

 この間の経緯を追ってみると、橋下市長が全職員を対象に政治活動や組合活動に関する「アンケート調査」の実施を表明したのは2月9日、回答期限は1週間後の16日だった。この「アンケート調査」をめぐって大阪市労連が「思想・信条の自由を侵害し、組合運営に介入する不当労働行為だ」として大阪府労働委員会に救済を申し立てたのが13日、続く14日から16日にかけて、「アンケート調査は違憲そのものの思想調査に他ならず、即刻中止を求める」との会長声明が大阪・東京両弁護士会および日弁連から相次いで出された。そして急速に高まる世論の批判の中で、特別顧問の野村弁護士が「調査は当面は凍結する」と記者会見をしたのが17日のことである。

 このように2月9日から17日までの間は、「橋下アンケート調査」をめぐって世論が沸騰したにもかかわらず、マスメディア各紙はほとんどこの話題を取り上げようとせず「ダンマリ」を決め込んでいた。本来ならば、今回の東京・大阪弁護士会および日弁連の会長声明の内容は、各紙とも1面トップに掲げてもおかしくないほどの重要な意味を持つものだ。ところが各紙の取り扱いは片隅のベタ記事に近いもので、これらの声明はほとんど無視されたといってよい。その一方、「アンケート調査」が世論の反撃で“凍結”に追い込まれるに及んで、事態を無視できなくなった18日の紙面から漸く本格的な報道が始まったのである。

 しかしこれに輪をかけてもっと驚いたことには、この間の各紙の論説が「アンケート調査」問題などを全く度外視して、「橋下改革者論」「橋下賛美論」に終始していたことだ。これを掲載順に紹介すると、まず朝日新聞が2月12日に「オピニオン欄」の全面を使って、「インタビュー、覚悟を求める政治」という提灯記事を掲載したのが始まりだ。このインタビューが行われた2月9日は、橋下市長がちょうど「アンケート調査」の実施を表明した当日のことだった。だがインタビューの中のどこを探してもそんな記事は見つからない。

 しかも念が入ったことに、朝日はその後の2月15日、タイトルを見るだけでも恥ずかしい『橋下徹さま、ぜひ第2Rを』という論説をインタビュアー(政治部次長)の写真・署名入りで掲載した。その内容たるや「言われっぱなしでは意味がないが、不毛な論争にはしたくない」との口実で橋下氏に対する一切の批判を避けたことを自ら正当化し、それに乗じておとなしく出た橋下市長を「あえて自分を小さく見えるのは本当の自信がなければできない。橋下氏は首相を狙うのか。(略)橋下さん、第2ラウンドはいかがですか?」と天まで持ち上げる始末だ。

 次は、2月19日の『橋下さんに感謝しよう』という、これまた朝日と同様に恥ずかしい毎日新聞の論説だ。論説委員長自らの執筆とあってどんなことを書くか注目したが、何のことはない。他紙の「橋下改革者論」を紹介する形で16日付の「既成政党への挑戦状」という自社の主張を自画自賛し、「この論が届いたか。16日早速自民党内から対立一辺倒でいいのか、という批判が出てきた。民主党内にも政権与党としてふがいなさを反省する声が聞こえてきた。橋下人気が既成政党の覺醒と正常化につながるのであれば、むしろ感謝しなければならない」とまで言い切っているのである。

(以下、省略。全文は上記URLをクリックしてご覧ください)
【論旨要約】
脱原発主義者を自称する一部の人たちがハシモト的なもの、みんなの党的なものに傾斜する現象について、脱原発と新自由主義的な経済思想には実のところ親和性があること。さらに新自由主義の政党であるみんなの党のマニフェストは「新自由主義」的に読めるのはもちろん「脱・格差社会」的にも読めるという可塑性を持っていることなどの分析を通じて、ハシモト的なもの、みんなの党的なものへの傾斜は、自民党政治的なもの、保守政治的なものの政治回帰に手を貸すことにつながり、結果として脱原発主義者が自らの主張の生命とする脱原発の理念すら裏切ることにしかなりえないことを論証する。

いまやいうまでもないことですが、「脱原発」は福島以後、わが国多数派市民の世論そのものになっている、とみなしてよいことは下記のわが国を代表するメディアの世論調査などを見ても明らかなことだといってよいでしょう。

将来的に「脱原発」賛成74% 朝日新聞世論調査(朝日新聞 2011年6月13日)
「脱原発」70%賛成、共同通信の世論調査(共同通信 2011年7月24日)

それだけにあまりにも当たり前すぎて見逃されているある問題があるように私は思います。それは、脱原発とはなにか? という基本的でもあり、かつ根底的でもある理念の問題です。しかし、その見逃されている脱原発の理念の問題をいうためには、少しく遠回りして脱原発運動とポピュリズムのある種の親和性について述べておく必要があるように思います。仮に大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと規定するならば(「知恵蔵2011」朝日新聞社)、脱原発運動はまぎれもなくポピュリズムの運動です。したがって、脱原発運動の中にポピュリズムの思想、またポピュリズムの弊が入りこまないという法はないのです。

しかし、これもいうまでもないことですが、ポピュリズムの思想はひと色ではありません。辞書的に見ても、ポピュリズムという語には上記の「大衆の基盤に立つ運動」という意味のほかにも「大衆主義」、「民衆主義」(注)、「衆愚政治」、「カリスマ性のある為政者が大衆の評判を集める政策を行ない、内外の危機を煽るなどして民衆を扇動する主義」などさまざまな意味があります(「ポピュリズム」Wikipedia)。ここで私が「ポピュリズムの弊」と言っているのは「民衆を扇動する主義」という意味においてです。現代ではこの用法がもっとも一般的な用法として用いられています。ドイツのヒットラーやイタリアのムッソリーニなどのポピュリズムにこの用法は適用されてきました。

:脱原発運動をポピュリズムというとき、私は、この「大衆主義」、「民衆主義」の意で用いています。

さて、脱原発運動の中にポピュリズムの思想、またポピュリズムの弊が入りこんでいるひとつの例として、私は、先のエントリ記事でも少し触れておいたのですが、これまで「脱原発運動の旗振り役」「脱原発運動の雄」とみなされてきた(そして、いまもみなされている)環境エネルギー政策研究所長の飯田哲也氏の例をあげてみようと思います。飯田氏はこの1月31日にTwitter上でその掲げる「愚民」政策(たとえば一見庶民受けする公務員たたき政策)と言動によって一躍ポピュリスト知事として全国的に名を馳せることになった橋下現大阪市長を絶賛する次のようなメッセージを発信して少なくない脱原発派市民を驚かせました。

橋下徹大阪市長(@t_ishin)を囲む企画の朝生(1/27)をiphoneへの録画で見る。批判サイドが抽象論・形式論・重箱のスミ論に留まっていたのに対し、政策の実質・実現などリアルを問い続ける橋下市長の独壇場。問題意識とアプローチが飯田も全く同じで共感。

しかし、飯田氏が「政策の実質・実現などリアルを問い続ける橋下市長」と絶賛する橋下市長の「リアルな政策」とは、辛淑玉さんが「ウケ狙いの政治の果て」(週刊金曜日748号、2009年4月24日)という論攷で見事に喝破しているように「社会の変化についていけず、被害者感情を募らせている一般大衆の持つねたみやそねみを、八十年代以降のリベラルな社会運動がもたらした制度改革によって社会上昇を果たしたマイノリティに対する攻撃に誘導しようと」すること。「大衆の中にある差別感情を扇動することによって(略)資本の手先となって『大衆の敵』を作り出し、本当の敵から目をそらさせ、日本を政治のガラパゴス化させる」というたぐいの「リアルな政策」でしかありません。事実、橋下氏が08年1月の府知事選挙で公約し、かつ知事就任直後に断行しようとしたのは国家公務員の給与を100とした場合、大阪府の給与水準は全国最低の89になるという「リアル」な大幅な府職員給与の削減政策でした。

この点について、辛淑玉さんは、「彼らの常套手段は『公務員攻撃』だ。カメラの前ではこれがウケる。公務員はその仕事の割に高給を取っているというのがその理由だが、バブルの頃は優秀なやつは公務員になどならなかった。今は、民間の給与水準が低下したために、相対的に地方公務員が給与が高くなっているだけだ。/労働者の組織率が低く、組合運動が弱い地方の民間企業の労働者が資本の攻撃に負けた結果として賃金の崩壊が進んだにもかかわらず、その大衆のうっぷんを地方公務員に対する怨嗟と八つ当たり攻撃にすり替えた。まさにウケ狙いの政治だ」(同上)とやはり見事にその橋下ポピュリズム政策の本質を言い当てています。

メディアもその当時のポピュリズム政治の風潮を「職員の待遇や税金のあり方に疑問を投げかける首長が全国で相次いで生まれている。/08年1月の大阪府知事選で、人件費カットを含む財政健全化を訴えた橋下徹氏が当選。今年4月の名古屋市長選でも、『市民税10%減税』『職員人件費10%削減』などを掲げた河村たかし氏が圧勝した。橋下氏は職員の基本給カットを実施。竹原氏の職員年収公開を評価し、府幹部職員のモデル年収を府のHPに掲載した」(「『職員厚遇』不満が追い風 阿久根市長選で竹原氏再選」朝日新聞 2009年6月1日)などと報じています。

いまや橋下氏のポピュリズム政策は、大阪市職員への思想チェック、業務命令としての組合破壊「アンケート」という憲法違反、地公法・労組法違反も甚だしい法を恐れぬ究極のポピュリズム政策にまで突き進んでいることは大阪市民だけでなく、広く衆人の知るところです。私はかつて竹原阿久根前市長と橋下大阪府知事(当時)の似非「革命」家、ポピュリストとしての著しい類似性を指摘したことがありますが(弊ブログ 2009年6月1日(2010年3月29日)付)、竹原前市長は「自治労は阿久根から出て行ってもらう」と宣言し、事実、阿久根市職員労働組合に対して市庁舎内の組合事務所の明け渡しまで求めましたが、結局、裁判にも負け、選挙にも負けました。いま橋下氏はその竹原氏と同じ末路を歩もうとしているかのようです。ポピュリズムの行き着くところというべきでしょうか。

参考:
おまけとしてこの橋下氏のおのれの敵対者(それも主観的な)への人格攻撃と悪罵だけを取り柄とするおよそポピュリストに典型的といってよい人を貶める作法にのみ長けた語り口もご紹介しておきたいと思います。この1月15日に放送されたテレビ朝日系列の「報道ステーションSUNDAY」における橋下氏と山口二郎氏(北大教授)の討論番組での語り口。その彼の他者に対する人格攻撃と悪罵の連発のおぞましさの性質についてはぽぽんぷぐにゃんラジオのキャスター氏が実に正鵠を射た小気味よい批判をしています。「朝生(1/27)」を視聴しての飯田氏の橋下観といかに雲泥の差があることか(嘆息)。一見(聴)の価値があると思います。ぜひご視聴ください。

橋下市長VS山口二郎教授について。(ぽぽんぷぐにゃんラジオ 2012年1月16日)

飯田氏はそうした橋下氏のポピュリズム政治に「問題意識とアプローチが飯田も全く同じで共感」というエールを送っているのです。その飯田氏の根底的な誤りを指摘することはたやすいことですが、なにゆえに飯田氏はそうした橋下ポピュリズムにいとも簡単に、そしていとも熱烈に共感を示しえるのか。それがここでの問題です。

この点を考える上においてブログ「きまぐれな日々」を主宰する古寺多見さんの考察が参考になります。古寺多見さんは彼のもうひとつのブログ「kojitakenの日記」の2012年2月2日付け記事において「世に倦む日日」ブログの管理人氏の「飯田哲也の橋下徹礼讃は凄まじいな。『問題意識とアプローチが飯田も全く同じで共感』なのだそうだ。こういう人間の『脱原発』は信用できないな。ま、いずれ、橋下徹も渡辺喜美も、再稼働と原発推進へ舵を切るのは確実だが」という飯田氏批判をとりあげて半分同感の意を示しながらも次のように『世に倦む日日』管理人氏の考察の甘さを指摘しています。

この『世に倦む日日』の管理人氏の見通しは甘いと思う。「『脱原発』は左派のもの」という根拠のない思い込みがある。考えてみればすぐにわかることだが、国策で推進しなければ何の経済的メリットもない原発から脱却しようという考え方は、新自由主義と非常に相性が良い。だから、自民党内の新自由主義派である河野太郎や、元経産官僚で「みんなの党」やほかならぬ橋下徹のブレーンである古賀茂明は強力な「脱原発」論者だ。そして、飯田哲也は以前から河野太郎や古賀茂明と懇意である。私は、橋下徹は本気で「脱原発」をやると思う。なぜなら、現在の日本において、「脱原発」ほど国民に熱烈に支持される政策はないからだ。(注)

脱原発と新自由主義思想との親和性。ここに飯田氏に象徴される一部の新自由主義的な発想を持つ(昨今の「みんなの党」ブームを見るとこうした発想を持つ人々がいわゆる革新・リベラルを自称する市民の中にもいかに多いかがわかります)脱原発主義者がハシモト的なもの、みんなの党的なものに傾斜していくことのひとつの解が隠されているように思います。

:しかし、「『世に倦む日日』の管理人氏の見通しは甘い」という古寺多見さんの見通しも私は甘いと思っています。橋下氏は知事時代につくる会の歴史教科書を大阪府の全公立校で採択させようと再三試みていますが、その「つくる会」系2社の公民教科書の記述は「原発推進」で突出しています。このことは橋下氏は「脱原発」よりもつくる会の歴史教科書の採択の方に重きを置いているということを示しています。「世に倦む日日」ブログの管理人氏の「こういう人間の『脱原発』は信用できないな。ま、いずれ、橋下徹も渡辺喜美も、再稼働と原発推進へ舵を切るのは確実だが」という観測はマヌーバーとしての脱原発主義の本質を衝く指摘というべきで必ずしも邪推とばかりはいえないだろうと私は思います。

しかし、これまでいわゆる革新・リベラル的なものの見方を培ってきたことを自負し、そのことにひそかな矜持を持つ市民は決して少なくありません。そうした中で、革新・リベラルを自称する市民がなぜかくもやすやすと新自由主義的なものの見方、ものの考え方の罠にはまってしまうのか?

その罠は、たとえばみんなの党の打ち出すマニフェスト・政策の可塑性にあるのではないか、というのが金光翔さん(批評家)の見方です。金光翔さんはこの点について次のように言います。

「みんなの党」のマニフェストの特徴は、新自由主義というよりも、むしろその可塑性である。すなわち、「新自由主義」的に読めるのは勿論のこと、「脱・格差社会」的にも読めるのである。例えば、労働問題で掲げられている施策は、今の格差社会論の政策的な落としどころと思われるものから、そう外れていない。安全保障に関しても、小国主義的な護憲派からすればもちろん「右」であるが、憲法問題に一切触れていない点に象徴されるように、「リベラル」とでも「保守」とでも言えるようなものになっている。

そして、

もう一つの特徴は、「政治家や官僚の利権」、「特定の業界や労働組合」の「既得権益」の徹底した排除を強調する姿勢である。

このみんなの党のマニフェスト・政策の可塑性(私に言わせれば「可塑性」というよりも「マヌーバー性」というべきものですが)と「既得権益」の徹底した排除(しかし、官僚の「既得権益」の背後に隠然とする大資本の「既得権益」には決して手をつけようとしないのが新自由主義経済思想の特徴です)という「構造改革」の姿勢が、「自民党や民主党が構造改革路線を一時的に後退させていることに不満を持っている層に支持され」る理由であり、いわゆる革新・リベラルといわれる層からも支持されようとしている理由である、と金光翔さんは見ているようです。

上記の指摘以上にここでの金光翔さんの重要な指摘は、みんなの党の結党宣言に掲げられた「脱官僚」「地域主権」「生活重視」というスローガンと、かつての日本新党が立党宣言に掲げた「脱官僚」「地方分権の確立」「生活者主義」というスローガンがまるで「そのまんま」、酷似しているという指摘です。

日本新党は上記の立党宣言のスローガンを掲げて既成政党への有権者の不満を吸収する格好の政治的受け皿の役割を果たし、結党から2か月後の1992年7月の参議院選挙で4議席、その1年後の1993年7月の衆議院選挙では35議席を獲得し、当時の政界再編のキャスティング・ボートを握り、実際に同年8月には長期自民党政権からその政権の座を奪い非自民・非共産の細川連立政権を誕生させました。かつて日本新党が果たしたその役割をいま、みんなの党が担おうとしている。それが金光翔さんの見方といってよいでしょう。

しかし、その有権者の不満の政治的受け皿として政権まで奪取した日本新党が実際に戦後政治の転換の場面で果たした役割とはなんだったか。細川政権が遺したほとんど唯一の政治的実績は大政党に有利で、小政党に不利な「小選挙区制」という悪名高い政治「改革」でした。ここで導入された小選挙区制が後々まで民主政治実現の足かせとなっていることは誰もが知るところです。2大政党制という政治の場面には保守だけがあって、まるで革新など存在しないかのようなヌエのようなぬるま湯的風潮。すなわち一億総懺悔ならぬ一億総保守ともいうべき欺瞞に満ちた風潮が明らかに腐臭を放ち出したのもこの頃からのことです。もちろん、この風潮はメディアも含めてのことです。いや、この風潮を率先してつくり出したメディアの責任は大きいのです。こうして日本は一億総保守化の道を歩きはじめました。誰にも批判されず、もちろんメディアからも批判されず、批判する者はアホかとでもいう風潮の中で・・・ 

辺見庸のいう現代の深刻な目に見えないファシズム化はこうして進行しはじめたのです。その日本新党は細川護熙の国民福祉税構想の頓挫以降急速に求心力を失っていきました。こうして非自民・非共産の細川連立政権は1年に満たない短命政権で終わりました。小選挙区制という戦後政治の選挙制度上の最大の汚点を置き土産として。

その日本新党とみんなの党は単に立党宣言と結党宣言のスローガンが同じというだけでなく、政界再編、大連立という構想においても同じことをしようとしています。さらに金光翔さんは日本新党とみんなの党の政界再編、大連立構想が似ているということだけでなく、新党たちあがれ日本の代表の平沼赳夫氏の保守連立構想とも相似形だと指摘しています。

面白いのは、「みんなの党」結党宣言にあった「触媒」という言葉、上記の平沼の引用文にもあった「坂本龍馬」の比喩が、ここにも表れていることだ。この三者は役割を同じくしている。日本新党が、小沢一郎による「政権交代」劇の最大の協力者であったように、「みんなの党」も、より大きな再編劇で、同じ役割を果たすだろう。(同上)

金光翔さんは、みんなの党の政治戦略は、「みんなの党の党勢拡大→第三極の形成→大連立」というシナリオの達成にある、と見ているわけです。

脱原発主義者を自称する人たちのハシモト的なもの、みんなの党的なものへの傾斜はどこに行くのか? 結局、保守政党同士の大連立というみんなの党の保守連携戦略の思惑を見逃し、結果として民主党政権前までの長きにわたった自民党政治的なもの、保守政治的なものの復活に手を貸すことにしかなりえないだろう、というのが私の結論です。原発推進政治は主に自民党的な保守政治によって構築されてきました。その保守政治的なものの復活に手を貸すことにしかなりえないハシモト的なもの、みんなの党的なものへの脱原発主義者の傾斜は、自らの主張の生命とする脱原発の理念すら裏切るということにしかなりえないだろう、と私は思います。私がはじめに脱原発の理念と言ったのは、そういう単純な道理の問題を言っているのです。
本エントリは「脱原発を掲げた新党結成現象は政治革新の原動力になりうるか? ――私は否定的です。」(2012年1月17日付)の続きということになります。

文化人類学者の中沢新一氏を代表とする新環境政党「グリーンアクティブ」の結成がメディアで話題になっています。

中沢氏ら、脱原発運動で広く連携(中日新聞 2012年2月12日)

文化人類学者の中沢新一氏らが設立を目指してきた脱原発などを目指す運動組織の名称は「グリーンアクティブ」となり、中沢氏が代表を務める。環境政党を志向する政治団体や、地域社会の再興を目指す部門など四つの活動体を置き、従来の政党の枠組みを超えた幅広い運動を目指す。週明けに正式発表する。

中沢氏は昨秋、日本の社会や価値観の転換を目指し、欧米の「緑の党」のような政治団体を設立すると表明していた。ただ既存政党の枠組みだけでは「震災後に突きつけられた価値観の転換や新しい勢力を広く集められない」(中沢氏)と考え、さまざまな人たちの思想や行動を緩やかに束ねるネットワーク体結成へと方向転換した。

中沢氏以外では、社会学者の宮台真司氏、思想家の内田樹氏、タレントのいとうせいこう氏、コピーライターのマエキタミヤコ氏らが参加する。

四つの活動体のうち、政治部門として「緑の日本」(政治団体登録済み)を設置。脱原発や消費税増税反対、環太平洋連携協定(TPP)反対などの政策を軸に、外国の「緑の党」とは異なる日本の自然観を重視した環境政党を目指す。

次期衆院選に独自候補は擁立しない方針だが、理念に賛同する議員や立候補者には支援を示すマークの「グリーンシール」を与える。

以下は、そうしたメディア報道に対する私の感想です。

橋下徹(大阪市長)の違憲、違法、不当、かつ言語道断な業務命令「アンケート」の強要が問題になっていますが、新環境政党「グリーンアクティブ」(中沢新一代表)のメンバーのひとりの社会学者の宮台真司氏は少し前にその知事時代の橋下徹にエールを送っていたようです。

■宮台真司が橋下知事を賛辞
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8664888

橋下徹にエール、といえば最近の環境エネルギー政策研究所長の飯田哲也氏のやはり橋下徹へのエールをすぐに思い出します。飯田氏はTwitterで橋下徹に次のようなエールを送っていました。

橋下徹大阪市長(@t_ishin)を囲む企画の朝生(1/27)をiphoneへの録画で見る。批判サイドが抽象論・形式論・重箱のスミ論に留まっていたのに対し、政策の実質・実現などリアルを問い続ける橋下市長の独壇場。問題意識とアプローチが飯田も全く同じで共感(2012年1月31日)。

上記のような橋下ポピュリズム政治、独裁政治の実態を見れば、なんとも浅はかな橋下エールだと思わないわけにはいきませんが、この程度の人が脱原発の旗振り役、脱原発運動の雄とみなされていた(現にいまもみなされている)のかと思うと、私たちの国の市民運動の浅さ、浅はかさ、すなわち見る目のなさということも含めてさらに情けない思いは倍増します。

さて、その飯田氏に思想的に近いところに位置しているのがタレントのいとうせいこう氏やコピーライターのマエキタミヤコ氏だということになるでしょう。同じ政党を創ろうとしているわけですから(飯田氏はこの「グリーンアクティブ」新党構想にかんではいないようですが)思想的に近いところにいるのは当然だとしても、これまでもなにかにつけてさまざまなイベントをともにすることが多かったように記憶しています。いとう氏やマエキタ氏の橋下観、あるいはみんなの党観を聞いてみたいものです。飯田氏の思想と同じような結果が出るのではないか、と私はひそかに睨んでいます。

逆に本来思想的に遠い関係にあるはずなのに近しいのは如何、というのが中沢新一氏と内田樹氏の関係に関する大田俊寛氏(宗教学。埼玉大学非常勤講師)の指摘です。大田氏は2人の関係について次のように言います。「中沢さんの言説には隠された『反ユダヤ主義』という側面がある。一方、内田さんはユダヤ人の思想家レヴィナスの研究者として反ユダヤ主義についても研究している。その日本を代表する反ユダヤ主義の研究者が中沢さんの『日本の大転換』を読んでその反ユダヤ主義の論理の性質に気づかないのは奇妙なことだ。ましてやその運動に自ら協力するというのはまったく筋が通らないことである」。では、どうして「グリーンアクティブ」を中沢氏と内田氏は一緒に立ち上げようとしているのか? 「内田さんには実は『素朴なオカルティスト』という側面があり、それが中沢さんと共鳴している原因ではないか」というのが大田氏の中沢新一氏と内田樹氏の関係に関する分析です。

こうして見てくると「グリーンアクティブ」という新環境政党の航海前からの前途多難が予想されます。政治学者の後房雄氏(名古屋大学大学院法学研究科教授)の「顔ぶれを見る限り、あまり政治的リアリズムが好きじゃなさそうな人たちが多そうなので、仮に一時は盛り上がっても、定着するかどうかが問題です」という指摘がずいぶんリアルに聞こえてきます。後氏は環境政党の行く末について次のような懸念も表明しています。

80年代に、チェルノブイリ原発事故を経て、日本でも「危険な話」の広瀬隆現象が全国を席巻した時期に、たしか86年の参議院選挙だったと思いますが、調子に乗っていくつものエコロジー・グループが名簿を出して、結局一つも議席を獲得できず、運動自体もしぼんでしまったという前例があることを思い出します。(略)たしかに、緑は思想運動、社会運動という側面が強いですが、それらが持続して影響力を強めるためにも全国的政治勢力として確立できるかどうかが決定的だというのが国際的な教訓です。かつて、ローカル・パーティの連合体を作ろうという動きもありましたが、立ち消えになってしまいました。/それぞれが自分たちなりに運動できればそれでいいというような悪癖を越えて、政治的リアリズムに立った方針を打ち出せるリーダーが生まれるかどうかが注目されます。(現実的に言えば、国会議員5人の政党要件をクリアすることがカギだと思いますが、そういうことを考える人がいるでしょうかね。)

「グリーンアクティブ」の結成の問題については、堀田伸永さんの「脱原発世界会議USTREAM視聴の感想」という次のような指摘もご紹介しておきたいと思います。

次に気になったのは、14日のトークライブが中沢新一氏らの脱原発、環境政党の発足集会のようになっていたこと。/国会の衆参両院に現有議席を持ち、党首討論からは排除されているものの、諸派ではなく公党として、活動している、脱原発を掲げる日本共産党、社会民主党を押しのけてでも、といわんばかりの動きには辟易した。大手広告代理店出身のマエキタミヤコさんの暴走司会にはうんざりした。/日本共産党、社会民主党のこれまでの国会質疑には貴重なものがあり、いくら既成政党否定の人でも学ぶべきことは多くあると思う。

最後にこの件に関する私の論も紹介させていただこうと思います。基本的に紅林さんの論に賛成の立場から記事を書いています。

脱原発を掲げた新党結成現象は政治革新の原動力になりうるか? ――私は否定的です(弊ブログ 2012.01.17)
橋下市長が大阪市職員へ思想チェック・組合破壊「アンケート」を業務命令として発信した件について、先の京都市長選にも立候補した弁護士の中村和雄さんが「今回の全職員に対する記名によるアンケート調査は労働組合の自主的な活動に対する明白で不当な攻撃であり、明らかに違法です」と指摘しています。

中村弁護士は「明らかに違法」な根拠としてアンケートの質問項目に

・組合に加入することによるメリットをどのように感じるか?
・組合にどのような力があると思うか?
・組合に加入しない(脱退する)ことによる不利益はどのようなものがあるか?
・組合費がどのように使われているか知っているか?

「等々,露骨な支配介入と言えるものを含んで」いることをあげています。

つまり、上記の中村弁護士の指摘は、橋下市長の業務命令「アンケート」は労働組合法第7条第1項3号違反という指摘だということになります。

参考:
労働組合法第7条第1項:使用者は、次の各号に掲げる行為をしてはならない。
同第7条第1項第3号:労働者が労働組合を結成し、若しくは運営することを支配し、若しくはこれに介入すること(以下、略)。

また、同アンケートには「正確な回答がなされない場合は処分の対象となりうる」という橋下市長記名の書面も付されているわけですが、上記のように明らかな不当労働行為というべき違法なアンケートに労働者は回答する義務はありません。その回答する義務のない回答について「正確な回答がなされない場合は処分の対象となりうる」とする通達は労働者、労働組合の正当な行為(アンケートの不回答)について「不利益な取扱い」を禁止した労働組合法第7条第1項第1号違反ということにもなります。

参考:
労働組合法第7条第1項:使用者は、次の各号に掲げる行為をしてはならない。
同第7条第1項第1号:労働者が労働組合の組合員であること、労働組合に加入し、若しくはこれを結成しようとしたこと若しくは労働組合の正当な行為をしたことの故をもって、その労働者を解雇し、その他これに対して不利益な取扱いをすること又は労働者が労働組合に加入せず、若しくは労働組合から脱退することを雇用条件とすること。

同じく弁護士(東京)の杉浦ひとみさんは、今回の橋下市長の業務命令「アンケート」は刑法第223条(強要罪)、憲法38条(黙秘権)違反の疑いがあるとも指摘しています。

すなわち、橋本市長の業務命令「アンケート」は「③自らの違法行為について真実を報告した場合、懲戒処分の標準的な量刑を軽減するとしている」が、「③のようにいわれると、質問で聞かれていることは、全て違法なことだという錯覚を起こします。それに乗じて、全てを答えさせることは、刑法的には強要罪、憲法的には黙秘権侵害類似の問題も出てくると思います」、と。

参考:
刑法第223条1項(強要罪):生命、身体、自由、名誉若しくは財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、又は暴行を用いて、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害した者は、3年以下の懲役に処する。

憲法38条第1項(黙秘権):何人も,自己に不利益な供述を強要されない。

また、弁護士(大阪)の中西基さんも橋下市長の業務命令「アンケート」に応える義務はあるかどうかについて、地公法第32条の職務命令は内容および手続上法令に違反しないものなければならないが、今回の職務命令はその内容が明らかに違法なので労働者に「アンケート」に応える義務はない、と指摘しています。さらに中西さんは違法な職務命令に従う義務があるかどうかについての学説を3通り紹介されています。すなわち、

1.重大かつ明白な瑕疵がある職務命令には公定力はない。
2.職務命令に瑕疵があることが明白な場合には服従を拒否しうる。
3.違法な職務命令に従うことはむしろ法令遵守義務に違反する。

さらに「アンケート」の回答を拒否したら懲戒処分(地公法29条)を受けるかどうかについて、また「アンケート」の質問項目別にその問題点も掘り下げています。詳しくは下記を参照。

橋下さんの思想調査「アンケート」についての分析(中西基弁護士)
本エントリは「『小沢支持者批判者の心理構造』という中立を装って小沢擁護の論を説く者への反論」の続きということになります。本エントリは私の左記の反論に反発してあれやこれやと言い募ってきた「ラブレター記事の人権感覚」という論への再反論という構成をとっているからです。しかし、その論は、ラブレターという一見艶なるものに見える問題にかこつけて見当違いに私の「人権感覚」を問題視する実態はおためごかしの民主党擁護論再版にすぎません。しかし、その民主党擁護論再版は、現在の政治状況の負の一面を現代の鈍色の世相の鏡として反映していることも確かです。その負なるものの如何を剔抉しておくことは有意ではあっても無為、無意味ではないでしょう。なお、公開型メーリングリスト上の論争の一端ですから対論争者の実名もそのまま掲げておきます。

林田さん

あなたの「ラブレター記事の人権感覚」という記事は端的にいって私のCML 014520及びCML 014512記事への反論記事だといってよいと思いますが、あなたが言いたいのであろうあれこれの反論の論点には相互に脈絡はみられず、論旨のつかみにくい文章になっています。

それでも、あなたの反論したいという強い気持ちだけはよく伝わってきますので、その意を汲んで、あえて論点を整理すると次の3つに要約できそうです。

第1。かつて東本がCMLに投稿した「ラブレター記事」(正確には「田原牧さんへのラブレター~ひとりの新聞記者」というタイトルの記事。ちなみに初出はインターネット新聞「JANJAN」2006年12月28日付)には投稿者の人権感覚を強く疑わせる内容が含まれている。

第2。福島第一原発事故の放射能汚染への対応策として除染と避難の何れを重視するかで大きな議論がなされているが、東本の論はきわめて特異な論というべきである。その特異性を認識する上でラブレター記事の問題を掘り起こす価値はある。

第3。東本は国民の期待を背負った鳩山由紀夫新首相(当時)への批判的な記事を評価しているが、それは革新政党への票を奪う危険がある民主党を貶めようという類の政治というものに対する根底的な認識不足が為せる業というべきものである。

そのほか私の論理の矛盾なるものを3点にわたって指摘しています。すなわち、続きものの論点とみれば、以下の3点を含む合計6点が私への批判ということになります。

第4。ある点では共産党を支持し、ある点では社民党を支持することを市民の立場で肯定しながら、ある点では民主党を支持する立場を認めない。

第5。福島からの避難を勧める主張を共感が得られないと批判する一方で、避難を強調して除染に否定的な立場を批判することは共感が得られなくても価値があると主張する。

第6。革新勢力や市民派からの新党設立を社民党や共産党の票の食い合いになると否定する一方で、「票の食い合い」という発想を政治意識として問題と批判する。

さて、第1の点から反論していくことにしますが、あなたはその第1の論点の「投稿者(すなわち、東本)の人権感覚を強く疑わせる」理由として「問題は男性の投稿者が女性記者に送るラブレターという表題になっている」ことをあげています。

しかし、ラブレターという語が表題に含まれていて、そのどこが悪いというのでしょう? そのどこに「人権感覚を強く疑わせる」ところがあるというのでしょう?

第1にラブレターという言葉は必ずしも異性間の恋文のやりとりを意味するだけの言葉ではありません。いうまでもなくラブレターは英語のlove letterが日本語化したものですが、その英語の
loveには「(肉親・友人・ペットなどへの)愛、愛情」「(他人の幸福を願う)愛情のこもった関心、善意」などの意味もあります。したがって、ラブレターという言葉には「(肉親・友人・ペットなどへの)愛、愛情をあらわす手紙」という意味もあります。

第2に私はくだんの記事の場合ラブレターという言葉を隠喩(メタファー)として用いています。すなわち、「その時彼がふと窓の外を見ると、一羽の鷹が、強風にも流されず、空中に静止していた」(注1)というたぐいの隠喩の言葉として用いているのですが、左記の文中にある「窓」がくだんの記事で私が用いた「ラブレター」にあたります。私は「ラブレター」という言葉に必ずしも一般的な意味としての異性間の「恋文」という意味にとどまらない敬意や尊敬、熱情などの多層的な意味を被せているのです。文芸評論家の秋山駿の「石」への並外れた偏愛は有名ですが、もちろん秋山駿のこの場合の「石」は人生の隠喩としてのそれです(注2)。また、明恵上人の「島」への偏愛も有名です(注3)。この場合の明恵の「島」も人生の隠喩としてのそれであることは明らかです。そのような隠喩(メタファー)として私はラブレターという言葉を用いているのです。

注1:ウィキペディア「メタファー参照。
注2:ウィキペディア「秋山駿参照。
注3:「紀州が育んだ偉大な明恵上人 島への手紙参照。

第3にラブレターが愛する者に捧げる「恋文」の意味だとして、しかし、愛される者は必ずしも異性とは限りません。「男女二分法・異性愛」という一般世間に流布する視点は、「多様な性」の尊重という現代ジェンダー学の到達点から見れば逆に偏頗な見方でしかありえないことはすでにCML 008970(2011年4月12日付)でも述べていることです。

第4にあなたはくだんの記事のラブレターという表現は「相手の立場からすれば迷惑であり、気持ち悪い」表現であり、「トランスジェンダーの方々にとって最も不愉快」な表現ともいえる、と憶測するのですが、先にくだんの記事の初出の時期を記しておきましたが、この記事はその初出の時期にジェンダー学研究者中心のメーリングリストに最初に発信したものです。そこでの反応はおおむね「田原牧記者のご紹介ありがとうございました。紹介された彼女の著書を取り寄せたいと思っています」というもので、ラブレターという表現に違和を表明する人はひとりもいませんでした。トランスジェンダーの方からも返信をいただきましたが、やはり同様の趣旨での返信でした。

以上、「投稿者の人権感覚を強く疑わせる内容」というあなたの指摘はどのような観点からみても的外れなものだといわなければならないでしょう。

第2のあなたの批判について。批判の第2であなたは東本の論は特異なものと言っていますが、その理由は第5であなたが述べているところのものでしょう。すなわち、あなたは第5で「福島からの避難を勧める主張を共感が得られないと批判する一方で、避難を強調して除染に否定的な立場を批判することは共感が得られなくても価値がある」と東本は主張しているが、その東本の主張は論理的に矛盾している、と言っています。

上記についても2点にわたって反論しておきます。第1に私は「福島からの避難を勧める主張を共感が得られない」などと批判はしていません。左記はあなたの誤読以外のなにものでもありません。私は一貫して「住民の〈避難の権利〉はなによりも第一義的に保証されなければならない性質の〈権利〉というべきものです」と主張しています。私が批判しているのは「避難の権利」のみを主張して福島での「除染」活動全般を否定する論についてです。その際、民主党政府のまやかしの除染政策を批判するのは当然だが、そのまやかしの除染政策と本来ありうべき除染政策とは区別されなければならない。その本来の除染活動を否定してはいけない旨述べています。

第2に「避難を強調して除染に否定的な立場を批判することは共感が得られなくても価値がある」などとも私は言っていません。あなたがこの私が述べたという「共感」云々の発言は、CML 013867(2011年12月26日付)での
「当面『他者の共感を得られる表現』ではないにしても厳しく批判しなければならないことはあります」という私の発言を指してそう言っているのでしょうが、私がここで上記のように言っているのは、やはりあなたの「避難の権利を重視する人々を『脱原発原理主義』とラベリングすることに異常性を感じます。それは決して他者の共感を得られる表現ではありません」(CML 013864 2011年12月25日付)という発言を承けてのもので、「『脱原発原理主義』とラベリングすること」が当面「他者の共感を得られる表現」ではなかったとしても、の意であり、「避難を強調して除染に否定的な立場を批判することは共感が得られなくても」の意ではないことは明らかです。

そして、この場合の「他者」は「脱原発原理主義」と呼ぶに値すると私が考える一部の人を指して「他者」と言っているのであり、その意味するところは、少数の者から「脱原発原理主義」と呼ぶことで当面たとえ共感が得られなくともやむをえないこともある、というものです。私は「避難を強調して除染に否定的な立場を批判すること」が共感が得られない主張だとは思っていません。したがって、この第2のあなたの批判も的外れなものと言っておく必要があります。

なお、補足として言っておけば、「避難を強調して除染に否定的な立場」をとる人に対する批判は少なくない拡がりをみせています。先日私がCMLでご紹介した一橋大学の社会学教員の猪飼周平さんの論もそのひとつですし、古寺多見さんの「原発『リスク厨』とは月とスッポンの猪飼周平氏の論考」というブログ記事もそのひとつといってよいでしょう。なおまた、古寺多見さんは同記事で「脱原発原理主義」という呼び方とはまた違う呼び方で一部の脱原発派の主張を「一部の『脱原発派』の『カルト化』」と名づけています。

第3のあなたの批判について。あなたはまず鳩山元首相を「国民の期待を背負った」元首相であったと評価します。その「国民の期待を背負った」元首相のいる政党とは民主党のことにほかなりませんから、結局のところあなたは民主党という政党そのものも鳩山元首相と同じように「国民の期待を背負った」政党として評価しているとみなして間違いないところでしょう。その「国民の期待を背負った」民主党を「革新政党への票を奪う危険がある」という理由で東本は貶めようとしている。「政治というものに対する根底的な認識不足が為せる業と」いわなければならない、というのがあなたの第3の論点における東本批判です。

しかし、民主党は一定の「国民の期待を背負っ」て政権交代を遂げたことは確かですが、同時に自民党から政権を奪取した直後から次々と「国民の期待」を裏切り続けてきました。

普天間問題公約違反問題、朝鮮人学校の「高校無償化」不適用問題、外国人参政権公約違反問題、夫婦別姓等民法改正公約違反問題、抜け穴だらけの労働者派遣法「改正」問題、米軍思いやり予算非是正問題などなど。現在進行形で脱原発に逆行する原発再稼働、原発推進政策も続行されています。

こうした民主党のていたらくを見て、あなたと同様の主張を展開することの多い石垣敏夫さんでさえ「今の民主党は第2自民党」(CML 014530 2012年1月23日付)にすぎないと匙を投げています。

石垣さんに限らず本CMLでは民主党を評価する人はほとんどいないといってよいでしょう。ただ、その民主党の党員でしかない小沢一郎氏や菅直人氏などを「民主党左翼」としていたずらに評価しようとする向きが一部にありますが、そのことはここでは措いておきます。ともあれ、民主党が現にいまもなお「国民の期待を背負っ」ている政党として評価する人は本CMLではほとんどいないといってよいでしょう。

民主党が「国民の期待」に背離する政策しか持ちえない本質的には保守政党といってよい政党でしかないことを指摘する論攷も数多くあります。ここではその論攷のひとつとしてピープルズ・プラン研究所の武藤一羊さんの「鳩山政権とは何か、どこに立っているのか――自民党レジームの崩壊と民主党の浮遊」(2010年2月16日)という論を紹介しておきます。同論攷で武藤さんは民主党は「自民党レジームからどれほど膨大な負の政治的財産を引き継いだのかを明らかにし、それの清算という困難な仕事に挑戦しようとしない」。「それをしないのは、自民党政権時代につくられた日米関係を変更するつもりがないからである」と、民主党の本質的な保守政党としての限界性を指摘しています。

私の民主党評価の論もいくつかあげておきます。

民主党という政党の正味の評価について革新・刷新派市民・論者の共通項はつくれないものか(上)(弊ブログ 2010年4月27日)
民主党という政党の正味の評価について革新・刷新派市民・論者の共通項はつくれないものか(下)(弊ブログ 2010年4月27日)
■伊藤和子さん(弁護士/ヒューマンライツ・ナウ事務局長)の論攷「沖縄への基地強要は本質的にレイプと同じ」(転載と若干のコメント)(弊ブログ 2011年12月3日)

前記したように鳩山元首相も菅前首相も「国民の期待を背負っ」て登場した宰相であることは一面の事実ですが、その両宰相がその「国民の期待」を見事に裏切った宰相でしかなかったことも下記に少しばかり書いています。

ヤマトゥは沖縄を捨てた 菅新内閣支持率を憤りをもって読む(弊ブログ 2010年6月16日)

以上見てきたように民主党が「国民の期待」を担える政党でないことが明らかである以上、「民主党を貶め」るということではなく、同党が「国民の期待」を裏切ってきたという厳然たる事実に相応して民主党を批判することは、むしろ革新とリベラルを自称する市民としては当然すぎるほど当然な営為といわなければならないでしょう。そして、さらに「国民の期待」を裏切り続けることがもはや明らかというべき同党にいまも一部では続いているいわゆる民主党幻想によって革新票が奪われる危険性があるのであればそれを阻止しようとするのも当然な営為といわなければならないだろうと私は思います。そういう認識がない者にこそ「政治というものに対する根底的な認識不足が為せる業」というセンテンス・パッケージの言葉はふさわしいだろうと私は思います。

あなたの第4の論点である「ある点では共産党を支持し、ある点では社民党を支持することを市民の立場で肯定しながら、ある点では民主党を支持する立場を認めない」という私への批判もまったく当たらない批判であることは上記で述べたことからも明らかです。これ以上の説明は不要でしょう。

あなたの第5の論点についてはすでに第2で反駁していますから繰り返しません。

最後にあなたの第6の論点について。社民党や共産党、また近々結成が予定されている緑の党などの革新勢力間の「票の食い合い」と上記に見たようにいまや保守勢力と定義してよい民主党と革新政党との「票の食い合い」の問題は、真の政治革新、また脱原発政治を実現させることができるかどうかという点でまったく逆方向の関係にある問題群です。その逆方向の問題群を同一方向の問題群として論じようとするのはナンセンス以外のなにものでもありません。あなたの第6の私への批判も的が外れた批判と言わなければならないでしょう。


なべてあなたの私への批判は、ラブレターという一見艶なるものに見える問題にかこつけて見当違いに私の「人権感覚」を問題視しようとする批判のための批判というほかないしろものです。そして、その批判のための批判の近景にある風景はあなたのおためごかしの民主党擁護論再版でしかないということを指摘しておきます。
次に神戸(NO DU! 神戸)の前迫志郎さんの「Re: やってはならない、ずさんな瓦礫処理」という小論に対する私の反論的返信です。

前迫さんの論:Re: やってはならない、ずさんな瓦礫処理(CML 2012年2月6日)

前迫さんの論に対する私の反論

前迫さん

結局のところあなた及びあなたの主張を支持される人たち(一応猪飼周平氏の論にならって、そういう主張を持つ人たちを「避難論者」と呼んでおきます)の主張は、放射能で汚染された福島の地は捨てて、すべての県民は福島県外に避難せよ。国はすべての福島県民を県外に避難させよ、という主張だということになります。

しかし、現実にはそうしたあなた方の主張を実現させることは不可能というべきだから、たとえば児玉龍彦氏(東大教授・東大アイソトープ総合センター長)は「東電と政府は、放射性物質を飛散させた責任を謝罪し、全国土を1ミリシーベルト/以下に取り戻す覚悟を決めて除染予算を組む」こと及び福島県全土の徹底的な除染を提唱しています(「国土を守り国民とともに生きる5項目提案」(30/30頁 児玉龍彦)。

また、小出裕章氏(京大原子炉実験所助教)も、震災がれきの処理問題について「原発から排出された放射性物質はその本来の原発敷地内に戻すのが当然」という立場を貫きながらも、「各自治体は現在の焼却施設にきちんと排気系統に放射能を補足できるようなフィルターなどを取りつけた上で焼くことは私は受け入れざるをえない」という提案をしています(毎日放送「たね蒔きジャーナル」文字起こし ざまあみやがれい! 2011年12月22日)。

しかし、上記にいう「避難論者」の多くは、「除染」や「がれきの受け入れ」という言葉を聞くだけで強い拒絶反応を示し、「除染を推進している」という理由で児玉龍彦氏を早くから「御用学者」扱いし、最近では小出裕章氏も「がれきの自治体受け入れを容認している」という理由で「御用学者」扱いされることも多くなっています。少し前までは児玉氏や小出氏を「神様」扱いしていたにも関わらずです。

いまそうした彼ら、彼女たちの多くが頼りにし、彼ら、彼女たちの「避難」論の柱として依拠もしている人は、わが国の内部被ばく研究の第一人者の肥田舜太郎医師(95歳)です。しかし、その肥田氏も福島県の現実について次のように言っています。

だから福島でああいうことが起こっても、(略)どうしたらいいかというのは本人ができもしないこと、「遠くへ逃げろ」と「汚染してないものを選んで食べろ」と、みんなこの二つだけを言う。現地の人間で実際にそれをできる人は、福島県の人口の一割もいませんよ。もしみんなが移ったら、日本には行く所がありません。(「市民と科学者の内部被曝問題研究会:記者会見記録(その2) 原爆被爆医師の証言(肥田舜太郎氏)より。CML 014746)

その肥田氏も「避難論者」たちの「避難」論、「がれきの自治体受け入れ反対」論の構築に都合が悪くなれば、またしても「御用学者」の汚名を着せられる日も案外近いのかもしれません。

前迫さんは次のように言います。

そうしたら、フクシマの人たちはどうなるのか?/その前に、/何であんな環境に、人が、子どもがまだ居るんですか?/(略)1mSv/年を越える環境に何で人が子どもが、「11ヶ月も」居るんですか?/それが最大の問題だろうとは思いませんか?

ある「科学者」と呼ぶに相応しい人に聞いてみました。/200万人の福島県民は平均4人家族として50万世帯です。/この世帯に脱出費用と当座の新生活資金として500万円。/1年間の生活資金として500万円。/この合計1,000万円を、この50万世帯に仮払いしたとしたら、/天文学的数字で私にはよく判らないのですが、おそらく5兆円だと思います。この国の年間予算が40兆円ですから、そこから先ず1年、フクシマの避難希望世帯に5兆円を仮払いしたら、フクシマの人は脱出可能なのではないか?

おっしゃるとおり福島から脱出しようと思えば、5兆円の脱出資金を政府が融通してくれるというのであれば200万人福島県民の脱出は可能です。

しかし、猪飼周平氏の論の紹介のときにもすでに述べているように、200万人福島県民の多くは福島からの脱出を必ずしも望んではいないという世論調査があり、選挙結果があり、他県から福島へ再び還流するという人口移動の実態があるのです。

■原発震災に対する支援とは何か―福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理(猪飼周平 2012年1月27日)
■猪飼周平さん(一橋大学教員)の論攷「原発震災に対する支援とは何か―福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理」における問題提起に共感する(弊ブログ 2012年2月3日)

すなわち、たとえば「渡利小学校父母と教師の会によるアンケート調査」によれば、「少なくとも比較的積極的に現地に住み続けることを希望する人から、とりあえず住み続けようとしているひと、さらには避難を希望する人まで様々な人がそこに混在しており、積極的にせよ消極的にせよ多くの人びとは土地に留まることを選択しているという」事実が現として存在していること。

また、「このようなことは福島市だけで起こっているのではない。飯舘村は計画避難に対して最後まで抵抗したし、南相馬市では人口約7万人のうち6万人が一旦避難をしたと言われているが、その後順次人びとが戻ってきて、現在では5万人程度まで人口が回復しているとみられている。さらに、11月20日の大熊町長選では、帰還を訴えた現職が再選されている」という事実も現として存在していること。

上記の事実の存在を認めた上で、さらに福島の人々がその地にとどまることを選択していることについて「メディアが安全を煽っているために住民が避難の必要性を認識できないでいるのではないか」と考える人がいるとすれば、猪飼さんの上記の論の「3.福島において営まれている日常生活」の項まで読み進めてください。

そこで猪飼さんは、1)福島県内でも福島県産の食品は回避されている。2)書店では放射能から身を守るためのハウツー本がベストセラーとなっている。3)街中で小学生以下の子どもをほとんどみかけないなどの事実をあげた上で「これらの事実は、福島県民が放射線に関するリテラシーが低いという認識は事実ではなく、一般の国民より高いレベルで、放射線に関する知識をもっているというのが事実であることを示唆している。とすれば、福島の人びとは、そこに住むことが怖くないからそこに住んでいるのではない。そこに住まねばならない理由があるからそこに住んでいるということになる」と考察を深めています(そして、考察はさらに続きます)。

結論として猪飼さんは福島支援のあり方として、「今や汚染地域の汚染状況や放射線被曝のリスクについて最もよくわかっているのは現地の人々だということである。これは、地方自治の基本認識でもある。とするなら、よほどのことがない限り、基本的には住民の判断に基づいて支援策が構築されるべきである」という地域支援の基本原則を述べています。そして、私は、猪飼さんのこの考え方に賛成します。

いわゆる「避難論者」は、自らの「避難」の論を人道的な見地からの絶対不可侵の天賦人権の論のように錯覚しているところはないか? そして、その思いなしの過剰によって、結果として福島に現に住んでいる人たちの意向と考え方を軽視しているということはないか? 十分に反省的に考えていただきたいことです。
この議論は京都(パレスチナに平和を京都の会)の諸留能興さんの「やってはならない、ずさんな瓦礫処理」という小論のCML(市民のML)への転載から始まりました。そして、この議論は、すぐに放射能で汚染された福島からのいわゆる「避難の権利」の主張こそが絶対的な真理であるかのようにみなし、その他の立場を許さないいわばオール・オア・ナッシングというべき論に引き継がれることになりました。そういう論をここでは猪飼周平氏(一橋大学・社会学教員)の「原発震災に対する支援とは何か―福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理」という論攷の指摘にならって「避難こそが『人道』に叶っていると考える傾向がある」という意味で一応「避難論」と呼んでおくことにします。

上記のふたつの論(「ずさんな瓦礫処理」論と「オール・オア・ナッシング」論)の視点は、〈避難〉、また〈震災がれきの自治体移動の禁止〉こそが「『人道』に叶っていると考える傾向がある」という点で共通しており、相補の関係にあるのですが、震災がれきの処理問題と避難の問題は必ずしも同じ問題とはいえません。そこでここでは問題の在り処の錯綜を避けるために左記の論を問題別に(1)と(2)に分けて論ずることにします。なお、本論は先に提起された論の反論の体をとっていますので、先に提起された論については煩瑣を避けるためにその論のURLを示すことに留め、私の反論を主体に書き留めることにします。

まず、京都の諸留能興さんの「やってはならない、ずさんな瓦礫処理」という小論に対する私の反論を先に書き留めておきます。

諸留さんの論:やってはならない、ずさんな瓦礫処理(CML 2012年2月6日)
http://list.jca.apc.org/public/cml/2012-February/014645.html

諸留さんの論に対する私の反論

諸留能興さん(パレスチナに平和を京都の会)のご論攷にはいつも学ばされるところが多く感謝するところ大なのですが、今回の放射性がれき処理問題に関する諸留さんのご意見には若干の異見があります。

ただし、諸留さんの次のようなご認識と問題意識には私も賛成します。

すなわち、「瓦礫問題のポイントは、焼却炉で瓦礫を燃やしても果たして本当に大丈夫なのか?という点です」という諸留さんの問題意識とご認識。また、「この問題を考える上で、ひとつのポイントとなる点は、『バグ・フィルター』の問題があります」という諸留さんの問題意識とご認識には私も賛成します。

しかし、放射性がれき処理の危険性を言うにあたっての諸留さんの「気化する温度である摂氏600度よりも低温の摂氏200度で焼却」しても「セシウム(Cs)の気化は完全には避けられない」「『バグフィルター』を使っても、気化状態のセシウム(Cs)は、全く素通りしてしまう」というご認識をはじめ4点にわたる放射性がれき処理の危険性の問題提起には必ずしも事実に基づかない誤認が含まれているように思えます。私は専門家ではありませんので専門家としての児玉龍彦氏(東大教授・東大アイソトープ総合センター長)の知見を援用させていただこうと思いますが、その児玉氏の知見を援用した上で下記の北神戸「9条の会」サイトの管理人さんは次のような見解を披露されています。

焼却で発生した排ガスは、そのままフィルターに行くのではなく、ダイオキシン類の再発生を抑制したりフィルターを保護するために、まずは重金属類の沸点よりずっと低い200℃まで冷却されるようです。それからそこに活性炭を吹き込んでこれらを吸着させたのち、フィルターを通して除去するそうです。それでも一部が気化してすり抜けてくる水銀などは、さらに排ガス洗浄装置で除くようです。/他にも、有害ガス類を除くための消石灰を吹き込むような工程もあるようです。/さらにこの活性炭での吸着率を高めるために、意図的に重金属類の化合物を作らせるという新たな方法もあるようです。/この工程が想定通り働くのであれば、フィルターに来る前に単体の気体ではなく、活性炭に吸着されているのでフィルターでキャッチできるという話になります。これが、児玉氏が解説していた事だと思います。

なお、上記にいう児玉氏の解説とは次のようなものです。

児玉龍彦氏に聞くと、排気中の放射線量の流量測定器を設置すればセシウム漏れをチェックでき、焼却炉の冷却金属除去システムと組み合わせ、HEPAフィルターをおいて飛灰の除去を徹底するとほぼセシウムは除けるそうだ。消却灰はコンテナにつめ人工バリア型処分場で長期間保管。希望の持てる話だ(金子勝氏のツイートより)

北神戸「9条の会」サイトの管理人さんは上記のことを述べた上で次のような提案をされています。

問題は、この想定通りにセシウムでも働くのか?でしょう。/これを誰もが納得できる形で実験して確かめる事が大事だと思います。/その結果、児玉氏の仰ることが事実だと確かめられれば、被災地にとっても、瓦礫を受け入れる側にしても朗報だと思います。/逆に、NGと分かれば、排ガスから分離する技術はどこで処理しようとも必要ですから、国をあげて研究する必要があります。

放射性がれき処理問題に関する私たちのスタンスのとり方としては上記のような態度こそ望ましい、と私は考えます。したがって、上記のような市民の態度、あるいは市民サイドの姿勢を「放射能に関する無知と非科学的神話への期待・盲信」(諸留さん)などと非難することもまったく当たらないことのように私は思います。

なお、上記と同様の考え方を私も下記で述べています。

■被災地がれきの各自治体の受け入れに反対するという論の「正しさ」について――青木泰さん(環境ジャーナリスト)の論への反論(弊ブログ 2012.01.26)

諸留さんの論に対する私の再反論

上記で私は京都の諸留能興さんの放射性がれき処理問題に関する所見について若干の異見を申し述べておきましたが、その私の異見に対して諸留さんから要旨次のような反論が届きました。

瓦礫焼却問題でも、フィルターがどうのこうのと技術論的なことを議論すること自体、問題の本質をそっちのけの些末な技術論争に参加する気はサラサラありません。/仮に、技術的には100%安全に瓦礫処理が可能だとしても本来、原発から排出された放射性物質はその本来の原発敷地内に戻すのが、当然ですから!/自治体やその自治体住民が「尻ぬぐい」させられること自体がそもそも間違っています。狂っています!(略)こういう考えこそ原子力ムラに群がる学者・技術屋集団の思考と全く同じ思考ですね!/科学技術論にだけ限定させ、責任の所在には一切触れない・・・という無責任さという点でもまさに原発を焼却場に置き換えただけでそっくり、共通してますね。ここまでくると、もう狂っているとしか思えません・・・(2012年2月8日付)

以下は、諸留さんのその反論に対する私の返信です。私信というよりも公の問題に関わっての論争というべきものですからこちらでもご紹介させていただこうと思います。

諸留さん

私は「些末な技術論争」をしようと思ってバグフィルターに関するあなたの論の私として誤認と思える部分を指摘したのではありません。

「本来、原発から排出された放射性物質はその本来の原発敷地内に戻すのが、当然」というあなたのご主張はご主張として(私はあなたのこのご主張には若干の保留はあるものの基本的には賛成です)、あなたの論の誤認として指摘されている部分について根拠のある反証ができないのであればその部分は自身の認識不足であった、と率直に認められるべきでしょう。

問われている問題以外の論点を持ち出して、誤認を含む自説を糊塗しようとする態度は、私には失礼ながら誠実な応対、また真実を追求しようとする者の態度、とは思われません。遺憾、と申し上げておきます。

がれきの処理の問題については、小出裕章氏も、「原発から排出された放射性物質はその本来の原発敷地内に戻すのが当然」という立場を貫かれながらも、「各自治体は現在の焼却施設にきちんと排気系統に放射能を補足できるようなフィルターなどを取りつけた上で焼くことは私は受け入れざるをえないと思っています」という指摘をされています(毎日放送「たね蒔きジャーナル」文字起こし ざまあみやがれい! 2011年12月22日)。

以下、上記の小出発言の該当部分を要約ご紹介しておきます。

もともと放射性物質というものを産業廃棄物処分場に埋めたりするということそのことがいけないことだったわけです。ただもうどうしようもない状況でもう国の方はそれぞれの自治体で勝手に燃やして勝手に埋めろと言ってるわけですけれどもどっちも正しくありません。いま現在の各自治体が持ってる焼却施設で燃やすようなことをすれば放射性物質が空気中に飛散してくる可能性が強いですし、埋めてしまえばもう取り返しがつきませんので、埋めてはいけません。ですから、私は、基本的には今の日本の国の指示にすべて反対です。

ですけれども、膨大にすでに存在してしまっている震災瓦礫をこのまま放置することはできないと私は思っています。いまのまま瓦礫を放置しておけば福島の子供たちに被曝がますます集中してしまうと思いますので、一番大切なことは福島現地に専用の焼却施設を早急に作ってそこで焼くということです。

但し、それだけではとうていもう間に合わない状況がありますので、私は各自治体で引き受けるべきだと実は言ってきています。但し、そのためには国が言っているようなやり方はダメで、現在の焼却施設にきちんと排気系統に放射能を補足できるようなフィルターなどを取りつける必要があります。その上で焼くことは私は受け入れざるをえないと思っています。しかし、出てくる焼却灰は各自治体で埋めてはいけません。

それはもともと福島第一原子力発電所の原子炉の中にあった東京電力のれっきとした所有物がいま汚染物として出てきているわけですから東京電力にお返しするのが筋です。これから福島第一原子力発電所の事故収束のために多くの石棺をつくったり地下に遮水壁を作ったりするために膨大なコンクリートが必要に なりますのでその原料に使って福島第一原子力発電所に持ち帰るというのがいいと思います。
一橋大学で社会学の教員をしている猪飼周平さんがご自身のブログに「原発震災に対する支援とは何か―福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理」という論攷を発表されています。

猪飼さんの論は「専門家としてではなく、自分自身でドブさらいや草むしりするだけでも少しは役立つこともあるだろうくらいのつもりで始めた」という一ボランティアの視点から福島の「現状」を考察したもので、それだけに「現状」を見る目線も地に這いつくばっていて少しも上ずったところがありません。もちろん、学究としてのなどという気負いも衒いも感じられません。自然体の論だと思いました。

猪飼さん自身、ご自身の立場を定義して次のように言っています。

「その意味では、この文章の著者の主要な属性は、有体にいえば、被災地福島の住民の代弁者としての資格をもたないヨソモノの1人であり、かつ原子力や放射線医学に関して専門性を持たないボランティアの1人ということになる。」

ただ、猪飼さんは次のようにも言います。

「私自身は、医療・福祉領域に関わるところで、生活を支援することの意味を理解する、ということを自分の研究テーマの部分としてもってきた社会科学者であるということもあって、福島を中心とする原発震災に遭った人びとの生活をどのように支えることができるのかという観点から、この問題を見てきたということはある。とすれば、もしかすると、私のような社会科学者としての背景を持っている人間だからこそよく見えるということがあるかもしれず、その場合には、私から見えている震災の構図を伝える努力をすることに多少の意味はあるかもしれない。私がこの文章を素人ながらに書いたのはそういう理由からである。この文章をお読みの方には、この点を踏まえてお読みいただきたいと思う。」

社会学者としての猪飼さんの視点にも私は共感するところ大です。猪飼さんの視点は社会学者だからこそのもの、と言い直してもよいかもしれません。問題になっている急所の掴み方が社会学的に鋭いのです。

特に猪飼さんが「2.汚染地域に暮らすか、離れるか」で考察されている部分に私は全面的に共感します。以下、同2の全文を引用します。猪飼さんが福島の「現状」を正確に分析して問題提起されている箇所です。脱原発論者こそ肝に銘じて読むべき猪飼さんの指摘であろう、と私は思います。

「2.汚染地域に暮らすか、離れるか

福島第一原発の事故によって、放射能汚染地域の住民は、汚染地域で暮らすことを選択するか、離れるかの選択を強いられることとなった。2011年10月の統計をみるかぎり、住民票を移した人びとの割合は数%に留まっている。これは、最終的に福島に戻ることを諦めた人びとの数がまだ少数であるということにほぼ対応していると考えられる。また、県外に避難した避難者数は、概ね6万人弱程度とみられている。全体として避難者は15万人程度とみられていることから、県内に避難した人びとが比較的多かったことが想像されるが、今のところ、避難者数を把握することは難しく、正確なところはわかっていない。また状況は時間の経過とともに変化してゆくとも考えられる。だが、いずれの指標をみても、それらは、ひとまず放射能汚染地域の住民の大部分が、避難もせずに現地に住んでいるということを示している。

この結果は、東京をはじめとする域外の人々にとっては意外なものだったといえるだろう。というのも、大手メディア情報などをみても、好んで行われてきたキャンペーンは、たとえば福島市の渡利地区(同市で大波地区と並んで最も空間線量の高い地域の1つ)の住民は避難したいのに避難できず、「自治体に見殺し」にされようとしている、といったものだからである。だが、渡利小学校父母と教師の会によるアンケート調査は事態がもっと複層的であることを示している。調査自体の技術的問題もあって含意を読み取りにくいが、少なくとも比較的積極的に現地に住み続けることを希望する人から、とりあえず住み続けようとしているひと、さらには避難を希望する人まで様々な人がそこに混在しており、積極的にせよ消極的にせよ多くの人びとは土地に留まることを選択しているということである。

このようなことは福島市だけで起こっているのではない。飯舘村は計画避難に対して最後まで抵抗したし、南相馬市では人口約7万人のうち6万人が一旦避難をしたと言われているが、その後順次人びとが戻ってきて、現在では5万人程度まで人口が回復しているとみられている。さらに、11月20日の大熊町長選では、帰還を訴えた現職が再選されている。

なぜ福島の人びとがかくも土地を離れないのか。この理由を知ることは、私たちが福島の人びとに対して何をなすべきかを理解する上できわめて重要なことだが、今のところはっきりしたことが言えるわけではない。ただし、それでもはっきりしていることはある。それは、被曝の危険という、土地を離れる強い動機づけにもかかわらず、多くの人びとがこれまで生活してきた地に依然としてしがみついているということであり、したがって、今次の原発震災へのアプローチは、このことを踏まえた上で行われなければならないということである。

私は福島を離れて避難や移住をした人びとが重要でないと言っているのでは決してない。にもかかわらず、私がここで福島に留まる人びとの存在を強調しているのは、特に、東京を始めとする域外で発言する人びとが、避難こそが「人道」に叶っていると考える傾向があるようにみえるからである。そもそも、今日の論争の構図である「避難か除染か」という2項対立自体、避難する人と留まる人が両方あるという前提を踏まえていない。そして、上のような避難論者は、少なくとも現状では少数派の選択肢に肩入れしている。とすれば、彼らは2重に実態を踏まえていないということになる。その意味では、私たちにとって、まず福島県の人びとが、「遊牧民」的な東京人よりははるかに「定住的」であるということを踏まえることが何より重要であるといえるだろう。」

注:私も猪飼周平さんとほぼ同様の問題意識、問題提起を下記で書いています。よろしければご参照ください。

私たちは「除染」問題とどのように向きあうべきなのか? (弊ブログ 2012年1月4日)
郷党意識とパトリオティズムについて(弊ブログ 2012年1月3日)
■「避難の権利」に関する意見への共産党からの回答(転載)と私の若干のコメント(弊ブログ 2011年12月24日)