はじめに個人的な体験から記します。

私は、先日の10月29日に大分市の大手公園(県庁横)であった「さよなら原発 おおいた集会&パレード」に一個人として参加しました。会場では集会に先立って「さよなら原発」(「翼をください」替え歌)など有志によるコーラスが披露されていましたが、その間私は同公園の片隅でしばしたばこを一服することがありました。そのとき、30歳代と思われる子どもを抱えた女性がそれを見つけて私を指差して10数メートル先のところから大声で「おじさん、たばこも放射能物質よ。(みんなも放射能に汚染するから)たばこを喫うのはやめなさい」と命令口調で怒鳴りました。自分は絶対に正義だ、という確信の声に満ち溢れていました。

私は彼女が「たばこも放射能物質よ」というその物質がポロニウムという物質であること。また、そのポロニウムがたばこに微量含まれることから「たばこは放射能物質」というデマゴギー(デマゴギーである所以はこれから述べていきます)が少なからず「拡散」していることを知っていましたから私も大声で「馬鹿なことを言うな」と怒鳴り返しましたが、もちろん怒鳴り合いでことが解決するはずはありません。彼女は集会の司会者にこのことを通報したらしく、司会者の「たばこはマナーを守って喫ってください」というアナウンスが会場に流れました。私は集会に集まっている人たちから20メートルほどは離れている公園の片隅で誰にも迷惑をかけずに一服していただけの話ですから「マナーを守って」などといわれる筋合いはありません。司会者のアナウンスは一般論として聞き流しました。しかし、もしかしたら、彼女は自分の主張が支持されたと主観的にひとり合点しているかもしれません。「たばこには放射能があるから(この会場では)喫ってはいけない」というアナウンスではなかったにもかかわらずです。

私がこのような個人的体験から書き出したのは、3・11以後の反原発運動の高まりの中で、正当でまっとうな反原発の論理と倫理の主張にまじって非論理かつデマゴギーというほかないたぐいの「放射能危険」説が少なからず横行しているように見受けられること。その実態をひとつの具体例として示しておきたかったからです。

もうひとつの例は先に私が指摘したクリストファー・バスビー氏の自己の主観に基づく強引な推論(邪推)でしかない非科学的な放射性がれきに関する発言でした。また、もうひとつの例として「国の暫定基準値の500Bq/Kgは全面核戦争時の食物の汚染上限」という「東北文教大松田浩平教授」のやはり「教授」という<俗権威>を笠に着たデマ情報を挙げることもできます。同情報がデマ情報でしかないことは、その反論を弊ブログにアップしておりませんのでここではご紹介できませんが、上記の「全面核戦争時の食物の汚染上限」というフレーズに着目すればそのデマゴギー性は自ずから明白になるものと思われます。

さて、「たばこ放射能」説を私が「デマゴギー」という理由を述べます。

第1。この「たばこ放射能」説をわが国で流布させるのに「貢献」したひとりにかつて『週刊金曜日』の編集者だった山中登志子氏がいますが、彼女はその論拠として「マイルドセブンに『ポロニウム』 JT『入っていないと言い切れません』」(My News Japan 2007年1月25日)という記事の中で「(ポロニウムがたばこに入っており)1日1~2箱喫煙で胸部レントゲン写真300枚分/年の被曝だ」とするニューヨーク・タイムズの記事(筆者はスタンフォード大学教授のRobert N. Proctor氏)を挙げています。

が、このRobert N. Proctor教授の説は「漂流地点報告」ブログの筆者によって「二年半毎日タバコ吸わないと被曝量はレントゲン一回分に達しません」と理論的に徹底的に論破されています。そして、この「漂流地点報告」ブログの筆者の見解は日本とヨーロッパの多くの科学者の支持を得ています(同上)。

「漂流地点報告」ブログの筆者の引く「喫煙者の実効線量評価―たばこに含まれる自然起源放射性核種―(放射線医学総合研究所 岩岡和輝、米原英典)」には「喫煙者の年間実効線量は0.19 mSv y^-1であり、ICRP.82の介入免除レベルである1 mSv y^-1よりも低い値であった」と記されています。「『介入の免除』とは、被爆による健康に対するリスクが大きくないため、介入を行う必要がないということです」。

すなわち、山中登志子氏がその流布に一役買ったアメリカ起源の「たばこ放射能」説は根拠のない妄説にすぎないものである、ということです。

第2。たばこの葉にポロニウム210が微量ながら蓄積されていることは研究者の誰もが認めている事実ですが、「その大部分は肥料に含まれている天然の放射性元素から生じたもの」(日経サイエンス  2011年4月号)です。また、その肥料は「リン酸肥料」(カリフォルニア大学ロサンゼルス校 Hrayr S. Karagueuzian氏)ということですから、そうであれば「リン酸」は一般に「窒素、リン酸、カリ」といわれる肥料の三大要素ですのでほとんどの作物は「リン酸」を肥料としていることからそのほとんどの作物にはまたポロニウム210も微量ながら蓄積されているということにもなります。たばこの葉だけが特別に矢面に立たされ弾劾されるいわれはまったくないといわなければならないでしょう。たばこの葉に放射能があるというのならばトマトにもピーマンにも、ほうれん草にも小松菜にも、しいたけ、にんじんにも放射能があるといわなければ筋はとおらないはずです。しかし、3・11以前のこととしてトマトやピーマンを食べて内部被曝をしたという話は聞いたことはありません。トマトやピーマンを食べても大丈夫ならばたばこを喫っても放射能の内部被曝という点では大丈夫という理屈にならなければ道理はとおりません。

第3。上述したカリフォルニア大学ロサンゼルス校のHrayr S. Karagueuzian氏の喫煙者の放射能内部被曝説として「喫煙者がタバコに含まれる放射性核種ポロニウム210を吸入してα線内部被ばくすることにより、肺癌の発症率が高まる」(ブロゴス 2011年09月29日)、また「常習的な喫煙者の20~25年間での被ばく量は40~50RADとなった。この被ばく量を、ラドンガスの長期被ばくによる肺癌発症リスクに関する米国環境保護庁(EPA)の概算値に基づいて評価すると、25年間での死亡率は1000分の120~138となる」(同左)という論が最近まことしやかに出回っていますが、第1で述べた「漂流地点報告」ブログの筆者の計算によれば「二年半毎日タバコ(を2箱)吸わないと被曝量はレントゲン一回分に達しません」ということですからその計算に従えば「常習的な喫煙者の20~25年間での被ばく量は」25年間÷2.5年=レントゲン10回分の放射線被曝量にしかなりません。そのレントゲン10回程度の被曝で「死亡率は1000分の120~138となる」ということであるならば、少なくとも10人のうち1人はレントゲン10回程度の検査で死ななければならないという勘定になるわけで、こんな話が通用するならばレントゲンを使用する医者たる者はすべからく廃業に追い込まれざるをえないでしょう。

以上のことに加えてここでは「たばこ肺がん主因」説に対する養老孟司氏の次のような反論も紹介しておきたいと思います。

■過去に例のない大増税、罰則付き法規制が向かう先は「ファッショ社会」か
異論を許さぬ空気を醸成する「禁煙運動」という危うい社会実験(養老孟司 「SAPIO」(小学館)2011年9月14日号)
http://www.pipeclub-jpn.org/column/image/clm_87.pdf

「たばこは健康に悪いかもしれないが、肺がんの主因であるかどうかについては疑問がある。現実に、日本の喫煙率は下がり続けているのにもかかわらず、肺がんの発生率は上昇する一方である。」

「副流煙の問題だというかもしれないが、世界で初めて副流煙の害を唱えたのは元国立がんセンター疫学部長の平山雄氏で、彼の疫学調査には多くの疑問が寄せられ、特に副流煙の害については問題外とされている。」

*平山雄氏の論文を含めて副流煙の害に関する「副流煙の害については問題外」とする養老孟司の指摘の根拠のいくつかは下記の論攷にも示されています。

■受動喫煙問題を再検証する(川原遊酔 2011年4月)
http://www.pipeclub-jpn.org/cigarette/cigarette_detail_34.html
■受動喫煙の疫学の問題点(川原遊酔 2008年3月)
http://www.pipeclub-jpn.org/cigarette/cigarette_detail_17.html
■死亡率は100%(川原遊酔 2007年8月上旬)
http://www.pipeclub-jpn.org/cigarette/cigarette_detail_05.html

以上、私が「たばこ放射能」説をデマゴギーと考えるその一端について述べてみました。

反原発運動の理念と「たばこ放射能」説は決して相容れるものではないと私は考えます。
*本エントリは「問われる科学者の責任」(CML 012745 2011年
10月23日)の返信として書かれたものです。

松元さんがご紹介される諸留能興さんは「核エネルギーの平和利用における原子物理学者を始めとする、科学者・学者たちの責任の問題」に関する論攷で戦後日本の左派の原子力論をリードし実践した原子核物理学者の武谷三男を高く評価し、次のように言っています。

「核兵器は絶対悪であり、その廃絶運動に力を注いだ湯川秀樹でさえ、原子力の平和利用そのものに疑いを挟むことはなく、1960年代には原子力委員の核融合専門部会長を務めた。長年湯川秀樹氏の傍にいた慶応大学名誉教授小沼通二も『(湯川先生は)核兵器廃絶の決意は固かったが、原子力政策の批判を聞いたことはない』と証言している。/その点、同じ原子核物理学者でも、『武谷三段論法』で名高い武谷三男氏は『核エネルギーの平和利用は必ずその軍事利用に通じ、両者の区別は出来ない』と明確に指摘した」(CML 012745 2011年10月23日

しかし、その武谷三男にも「だからこそ」の論理(「被爆国だからこその原子力利用」という論理)の陥穽があった、と加納実紀代さん(日本近現代史研究者)が「ヒロシマとフクシマのあいだ」(『インパクション』6月号)という論攷で指摘しています。

加納さんが指摘する武谷の「だからこそ」の論理とは次のようなものでした。

「日本人は原子爆弾を自分の身に受けた世界唯一の被害者であるから、少なくとも原子力に関する限り、もっとも強力な発言の資格がある。原爆で殺された人々の霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも人を殺す原子力研究は一切日本人の手では絶対行わない。そして平和的な原子力の研究は、日本人がこれを行う権利を持っており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなす義務がある」(「日本の原子力研究の方向」『改造』52年11月増刊号)

加納さんは上記の武谷の「だからこそ」の論理が行きつくところについて次のように指摘を続けます。

「被爆国にもかかわらず、ではなく、被爆国だからこその原子力利用だというのだ。この文章は彼の持論『平和・公開・民主』につながるものだが、広島ではこの部分だけが一人歩きする。武谷の言うように、もっとも原子力の被害を受けた国がもっとも恩恵を受けるべきだとすれば、直接被害を受けた広島こそ権利がある。55年1月27日、アメリカのイェーツ下院議員は、広島に原子力発電所を建設するための予算2250万ドルを下院に提案した。前年9月、アメリカを訪問した浜井信三広島市長が働きかけた結果である。浜井はその理由として、『原子力の最初の犠牲都市に原子力の平和利用が行なわれることは、亡き犠牲者への慰霊にもなる。死のための原子力が生のために利用されることに市民は賛成すると思う』と述べている(『中国新聞』55年1月29日)。原爆という悪は、平和利用という善によって償えるという」(同上

ことになってしまう、と。

「『核エネルギーの平和利用は必ずその軍事利用に通じ、両者の区別は出来ない』と明確に指摘した」(諸留氏)武谷も、「原子力の平和利用」という戦後日本の大衆的・啓蒙的「原子力」言説、すなわち「敗戦による荒廃・焼け跡闇市からの『復興の夢』、『遅れた国』日本の『近代化の夢』があり、そこで期待される『科学の力』『文化国家』への希望と信頼」(「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」2011年10月15日)があった当時の「原子力」言説に抗することができなかった〈時代の子〉であったということでしょうか?

しかし、政治学者の加藤哲郎さんは、加納さんの指摘する武谷の言説は「『だからこそ』に尽くされない重層性があ」ったともいえるのではないか、と次のようにも指摘しています。

「戦後日本の左派の原子力論をリードし実践した武谷三男の言説は、『だからこそ』に尽くされない重層性があり、歴史的にも変化します。『民主・自主・公開』は『原子力研究の原則』で『原子力発電には反対』だったという解釈も成り立ちます。たとえば『原子力とマルクス主義』という論文があり、ソ連の科学技術発展に理論的希望を見いだしながらも(『社会』1948年8月号、『武谷三男著作集』4)、実際にソ連で原子力発電が出発し、日本でも Atoms for Peace から原発導入に入る頃には、「原水爆時代から原子力時代へ」という論理で、未だ技術的には未成熟で「原子力時代」にはほど遠いという実践的批判の立場を貫きます(「『原子力時代』への考え方」『エコノミスト』1955年9月、『武谷三男現代論集』1)。当時の「原子力時代」礼賛論への批判です。」(同上

いずれにしても戦後日本の(加藤哲郎さんは「1954ー55年に原水爆禁止運動と「原子力の平和利用」を同時出発させる戦後日本の心性の両義性の原型は、どうやら戦前からマンハッタン計画まで遡りそうです」と言っています)科学者から市民にいたるまでの大衆的・啓蒙的「原子力」言説の研究はまだ端緒についたばかりです。その端緒についたばかりの戦後日本の「原子力」言説の研究について朝日新聞が次のような記事を書いています。その記事をご紹介させていただいて返信のような、返信のようでもないこの記事をしめくくりたいと思います。


被爆国になぜ原発? 問われる「だからこそ」の論理(朝日新聞 2011年8月3日)

 原爆の被爆国はなぜ原発大国になったのか。福島第一原発の事故を機に、二つの「核」が日本の近代史でどのようにかかわり合ってきたかについての考察が、論壇に登場し始めている。浮上してきた焦点の一つは、被爆国“だからこそ”の論理だ。

 「ヒロシマの遺産がある国で、なぜ簡単に原発を許したのか」。7月23日放映の「朝まで生テレビ!」で、イタリア人ジャーナリストのピオ・デミリアさんが問いかけた。戦前に生まれ、戦後に草創期から原子力開発を担ってきた石川迪夫さん(日本原子力技術協会最高顧問)は、次のように回答した。

 私たちの世代では広島と長崎で原爆を受けた人に原子力の研究者が多いのです。みな「平和利用で」「人が生きる道に使うんだ」ということで原子力に取り組んだのです、と。

 被爆経験が“あったにもかかわらず”原子力を推進したのではなく、むしろ“あったからこそ”進めたのだ、という説明だろう。

 女性史研究者の加納実紀代さんは、「平和利用」の主要論者だった故・武谷三男の言説に「だからこそ」の論理を見いだした(インパクション6月)。日本人は原爆の唯一の被害者だから、平和な原子力を研究する権利を最も持つ。「改造」増刊号(1952年11月)で武谷はそう論じていた。

◆根底に救いと復讐心

 “だからこそ”の論理が広がりを持った背景に、どんな心理があったのか。広島平和研究所の田中利幸さんは世界8月号で説いた。「傷つけられた被爆者だからこそ、『貴方(あなた)たちの命を奪ったものが、実は、癌(がん)を治療するのに役立つのみならず、強大な生命力を与えるエネルギー源でもある』というスローガンは、ある種の『救い』のメッセージとして受けとめられた」

 異なる心理を指摘する論者もいた。評論家の片山杜秀さんは新潮45の6月号で、平和利用の底層には「草の根の復讐(ふくしゅう)心」があったと述べた。核爆弾を使った米国への「恨み」を、同じ核を上手に利用することで果たすこと。「科学で敗れた戦争なら科学で見返そう」である。これも一種の“だからこそ”論だろう。

 原発の「安全神話」が強く信じられてきた日本。神話の起源に“だからこそ”を見たのは歴史学の中嶋久人さんだ。福島第一原発の、ある設置過程に着目する(現代思想6月号)。

 原発は「原子爆弾と同じように危険」だと不安がる現地住民に、東電のある社員はこう語って賛同を得たという。自分は原爆を目撃し兄を原爆で失った、だから皆さん以上に核の恐ろしさを知っている、肉親を失った私は少しでも不安があれば会社の方針とはいえ従わない……。

 「被爆国ゆえに」住民からも現場社員からも、より強い安全神話が必要とされる。そんな日本独特の歴史事情があったのではないかと中嶋さんは示唆した。

 福島にとって原子力とは何だったかを考察し話題を呼んでいる開沼博さん(社会学研究者)の著書『「フクシマ」論』。本では原子力を、「近代の先端」をイメージさせるものと描いていた。

 では、原爆と原発を貫くものは何か。開沼さんは「近代の先端とは、戦争と成長の輝かしさです」と語った。「経済的繁栄や民主化といった成長の輝かしさ、『ファシズムからの解放』『アジアの解放』といった戦争の輝かしさ。それぞれが近代的な理想であり、だから人々は原発と原爆に圧倒的な近代性を見た」

 広島、長崎の被爆者がつくる日本原水爆被害者団体協議会は3・11後の今夏、全原発を順に廃炉にするよう求める明確な「脱原発」方針を決めた。56年の結成以来、原発ゼロ社会を求めてはこなかった組織の、大きな転換だった。

 “だからこそ”の論理を含みこまずには始められなかった日本の原発史。その複雑な実像に迫るためには、高度成長や米国の核戦略を含めた近代史の包括的な再検証が必要だろう。(塩倉裕)

◆原子力の平和利用 
 1953年にアイゼンハワー米大統領が国連で表明した新方針。核技術を米が独占できなくなった状況を受け、医療や発電など原子力の平和的な利用を国際的に進める方向へ転換した。日本での原子力推進が加速するきっかけになった。
滋賀のKさんから下記のコメントとともに「『脱原発』方針に盛り込まず 連合福島が定期大会」という福島民報の記事の転送をいただきました。

Kさんのコメントは以下のようなものでした。

 命よりも電力、闘いよりも組織保持のほうが大切なようだ。今も収束しない原発事故、未曾有の放射能放出事故を前にしても、再び、フクシマを繰り返したいのか、といわざるをえない。労働貴族たちよ、大組織だからこそ、その責任が問われるぞ。

そして、福島民報記事は以下のとおり。

「脱原発」方針に盛り込まず 連合福島が定期大会(福島民報 2011/10/22)

 連合福島の第23回定期大会は21日、福島市で開かれた。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の対応など災害対策を決めたが、脱原発や廃炉といった今後の原発の在り方については踏み込まなかった。

 影山道幸会長はあいさつで「脱原発、原発推進という対立する議論をすべきではない。安心・安全、電力の安定供給、環境、経済性などの視点から中長期的に議論すべき」と理由を説明。「(原発の在り方に関する)議論を中心に据えれば組織の分裂につながりかねない」として理解を求めた。

 連合本部は東電福島第一原発事故を受けてこれまでの原発の新・増設推進の方針を転換し、脱原発を掲げている。連合福島も定期大会で脱原発を掲げることを視野に検討を進めてきたが、組織の分裂のほか、雇用の場の確保や電力を消費する企業活動などにも考慮して運動方針に盛り込むことを見送った。

 運動方針には組織強化や非正規労働者を含めた労働者の賃金底上げなどを盛り込んだ。
【写真】運動方針などを決めた連合福島の定期大会

また、同定期大会の模様を伝える朝日新聞(福島版 2011年10月22日)の記事によれば、連合福島は同定期大会の運動方針に「脱原発」方針を盛り込まなかったばかりか、同連合福島の会長の影山道幸氏は朝日新聞の取材に応じて次のようにも発言しています。

県議会が原発の廃炉を求めた請願を採択したことを
「拙速で容認できない」
と批判した。

まさに「労働貴族たちよ、命よりも電力、闘いよりも組織保持のほうが大切なのか!」、と怒髪天を衝く怒りに駆られる発言といわなければならないでしょう。

連合地方組織の定期大会は福島県のほかにも22日には玄海原発の再稼動が大問題になっている原発立地県の佐賀県で、また24日には敦賀原発と美浜原発、それについ昨日、大飯原発の再稼動を容認する町長声明(注1)が明らかになったばかりの同原発のある原発銀座と称される同じく原発立地県の福井県でも立て続けに開かれ、それぞれ12~13年度の運動方針案を採択していますが、「労働条件の底上げや震災復興への全力傾注を目標」(連合佐賀)にすることや「今後のエネルギーのあり方を検討するか、状況によってはエネルギー政策の委員会を設置する考えを示した」(連合福井)だけで、やはり「脱原発」方針は一切盛り込まれていません注2、注3)。

このような連合(地方組織)の姿勢だからこそ、福井県大飯町長の「大飯原発再稼動」容認声明がいとも簡単に発せられることにもなり、また、佐賀県知事がいつまでも「九電やらせメール問題」での責任をとろうともしないということにもなる、といわなければならないでしょう。

先の4日にあった連合の第12回定期大会での古賀伸明連合会長の「『原発依存低減』への方針転換」の表明(注4)はいったい何だったのか? 労働組合としてのレーゾン・デートル(存立根拠)に関わる「労働貴族たちよ、大組織だからこそ、その責任が問われる」重大局面にいままさに連合は直面している。連合の「労働貴族」を含む彼ら、彼女たちにはそのことに自覚的であってほしい(期待よりも絶望の度合いの方がきわめて大きいのですが)、というのが私の願いです。

注1:「大飯原発、再稼働容認へ 3、4号機で町長表明」(産経新聞 2011年10月25日)
注2:「連合佐賀:エネルギー政策、労組も議論を--定期大会 /佐賀」(毎日新聞(佐賀版) 2011年10月23日)
注3:「会長に山岸氏 連合福井」(産経新聞(中部版) 2011年10月25日)
注4:「連合会長「原発依存低減」への方針転換を表明」(読売新聞 2011年10月4日)
浅井基文さん(政治学研究者、元外交官)がアメリカの核政策の根っこにあるものとわが国の原発問題との関連性について考察されています。「原発問題と日米軍事同盟との密接な関連性に着目する視点がほとんど見られない」という浅井さんの指摘はわが国がいま直面している原発問題の危機を乗り越えるためにもきわめて重要な指摘だと思います。

弊ブログにも転載させていただこうと思います(下部に引用者のコメントあり)。

以下、浅井さんの論攷です。

日米同盟と原発(浅井基文 2011年10月23日)

 *ある雑誌に寄稿する文章です。与えられている字数が少ないので、到底意を尽くせないのですが、原発問題と日米軍事同盟との密接な関連性に着目する視点がほとんど見られないので、ここにそういう視点を紹介しておきたいと思います。なお、今の字数でも与えられた分量をかなり超過しているので、編集の段階でなお削り込まなければならなくなると思いますが、ここでは原文を掲載します(10月23日記)

 福島第一原発に非常事態が発生してから、日本社会では俄然原子力発電(以下「原発」)問題に対する国民的関心が高まってきた。本質的に「欠陥商品」でしかない(そう断定する根拠は後述)原発は廃止しなければいけないと常々考えてきた私からすれば、福島の事態は「起こるべくして起こった」悲劇であるが、私たちは、ただ落胆しあるいは悲憤慷慨するだけで済ませてはならないと思う。即ち、この事態・悲劇から学ぶべきことを正確に学び取り、原発のない日本・世界を実現すること、そしてより根本的には、原発を生みだしたアメリカの核政策そのものを見据えて、日米核軍事同盟そのものを清算する(その意味において戦後日本の政治のあり方を根本から立て直す)こと、そうすることによって二一世紀を子々孫々にわたる人類の持続可能な平和的発展への礎をつくり出す最大のチャンスとすること、要するに「災いを転じて福となす」ことに私たちが全英知を傾注することが今何よりも求められていることだと確信する。

 <起こるべくして起こった福島の悲劇>

 原発は、核分裂エネルギーを利用するという本質において原水爆(核兵器)となんら変わるところはない。唯一の違いは、核兵器が核分裂反応を瞬時かつ無制御で起こさせることで発生する膨大なエネルギー(熱線、爆風及び放射線。ただし、アメリカの公式政策では放射線をことさらに無視・過小評価してきたことは後述)を殺戮・破壊目的に利用することを目的としているのに対し、原発は、核分裂反応を人為的に制御しながら持続的に行わせることで生みだされるエネルギーを利用して電力を生産するという点にある(イタリック強調は筆者)。

 今日主流の座に押し上げられている原発(ウランとプルトニウムの混合燃料を使うプルサーマル原発については、ここでは触れない)に関していうならば、そうした核分裂反応を起こす物質(核燃料)は、ウラン235という放射性物質(ちなみに、発電用には低濃縮ウランを、兵器用には高濃縮ウランを使う)であり、また、核分裂反応は放射線を放出し、使用済み核燃料は様々な放射性物質を生みだすが、その中には長崎型原爆で使われたプルトニウム239を大量に含む。したがって、原発は本質的に核兵器拡散の契機を内在している。最近原発廃止論が高まっていることに警戒感を強めている保守政治家や評論家が、「日本が核兵器開発能力・潜在的核抑止力を持つために原発は必要」という趣旨のホンネ発言を相次いで行うようになった(例:七月一四日の石原都知事、七月一八日の櫻井よしこ、八月一六日の石破・自民党政調会長)のは、彼らの主観的意図はともかく、プルトニウムを「生産」する原発の危険を極める本質を客観的に裏付ける貴重な(?)ものではある。

 とにかくここでのポイントは、核兵器と原発は核分裂エネルギーを利用する技術であり、人体及び環境(人類の生存条件)に深刻な影響を及ぼす放射線・放射性物質を必然的に生みだすということだ。そして福島が重要な意味をもつのは、広島及び長崎においては残留放射線・低線量被曝や内部被曝による影響がことさらに無視・過小評価されてきたのに対し、今回の事態に際してこれらの問題が非常に重大な問題であることがもはや隠し通せなくなった、ということである。

 仮に原発が安全基準をクリアした確立した技術に基づいているとすれば、今回のような福島の事態は起こるはずがなかった。しかし、早くから指摘されてきたように、①核分裂反応により、人体に深刻な影響を及ぼす放射線を出すし、その放射線は無害化できない(放射線が自らを弱めていくのを待つ以外にないが、半減期の長い放射性物質であればあるほど長い期間にわたって放射線被害の危険が持続する)、②発電によって生みだされる放射性廃棄物(及び廃炉される原発)の最終的処分のめどはない(ため込むしかない)、③核分裂反応を完全に人為的に制御することは不可能、という人知では克服し得ない本質的かつ致命的な欠陥を原発は内包している。「原発は致命的な欠陥商品」と言わなければならない理由がここにある。福島第一原発のケースは、そのことを余りにも高すぎる犠牲を生みだして証明したということなのだ。

 <何故「原子力平和利用」神話か?:アメリカの核政策を見きわめる>

 紙幅が限られているので結論をいえば、アメリカの核政策の根っこにあるのは、核(原子力)エネルギーを解放したことは正しかった、広島・長崎に対する原爆投下は正しかった、したがって将来的にも核兵器使用が正当化される場合がある、しかも核兵器・核エネルギーを野放しにすることはアメリカの安全保障を脅かすからできるだけアメリカのコントロール下におきたい、ということだ。そのために日本を含めた同盟国に対して拡大核抑止(「核の傘」)政策を行う(日米安保が核軍事同盟である所以)ことになる。つまり、1945年以来の核政策を将来にわたって堅持するという結論が先にあり、そのためには広島・長崎に対する原爆投下は「犯してはならない誤りだった」ことを絶対に承認しないのだ。逆に言えば、アメリカをしてその核政策を改めさせるための出発点は、アメリカをして広島・長崎に対する原爆投下の誤りを承認させることである。

 多くの被爆者が生存して広島、長崎に放射線被害に苦しんでいることを認めざるを得なかったアメリカがとった政策は、その事実を隠す(原爆がもたらす放射線被害の残酷を極める、犯罪的・反人道的な本質が明らかになれば、そのような兵器を使用したアメリカの戦争責任が国際的に問われることを恐れた)とともに、「核=キノコ雲」のイメージを払拭するために「原子力平和利用」計画(1953年にアイゼンハワー政権が打ち出したatom for peace提案)によって原子力発電を本格的に推進することだった。国際問題研究者の新原昭治氏がアメリカ側の文献に基づいて明らかにしているように、その際に原発の安全性に関する検討が行われた形跡はない(『非核の政府を求める会ニュース』10月15日号)。つまり、軍事核戦略を正当化するための「イチジクの葉」として利用されたのが「原子力平和利用」計画だった。本質的な欠陥商品を「原子力平和利用」の目玉として売り込む政策の必然的な帰結がスリーマイル、チェルノブイリそして福島だったということだ。

 この点でどうしても指摘しておかなければならない事実は、オバマ政権のもとにおいても、以上のアメリカの核政策は微動だにしていないことだ。世界、特に日本においては、オバマのいわゆるプラハ演説(2009年4月5日)以来、オバマは「核のない世界」の実現を目指す大統領というイメージが作り上げられた(その点に関する日本を含めたマス・メディアの責任は実に重い)。しかし、オバマ政権3年余の実績が雄弁に証明している事実は、「核のない世界」はせいぜいビジョンに過ぎず、核抑止力を堅持し、原発推進をはじめとする「原子力平和利用」政策を推進する点でオバマ政権は従前の政権となんら変化はないということだ。

 <アメリカの犯罪的政策に加担した日本と私たちの責任>

 日本の戦後保守政治は、平和及び核にかかわって、いくつかの致命的な犯罪的政策を選択・遂行してきた。それは「仕方なし」の平和憲法・国民主権・民主化の受け入れに始まったが、米ソ冷戦激化を受けたアメリカの対日政策の180度の転換による、日米安保条約締結を引き替えにした独立回復、アメリカの核政策(「拡大核抑止(核の傘)」)の積極的受け入れに集中的に具体化された。原爆体験に基づいて戦争放棄を定め、平和立国の方向性を打ち出した日本国憲法は、戦後保守政治によって一貫して目の敵扱いされてきた。1年余の政権運営が余すところなく明らかにしたように、民主党政治も核・安保政策において自民党政治と何ら変わるところはない赤字強調は引用者

 しかし、広島・長崎が人類に残した最大の歴史的教訓は、戦争はもはやあり得ない・あってはならない政策的選択肢であるということ、福島が今改めて語っていることは「原子力の平和利用」もまたあり得ないということだ。広島・長崎を体験した私たち日本人がなすべきは、アメリカをして核固執政策を改めさせること、そのためにも「核兵器の使用は正当化される場合がある」とする出発点にある発想の誤りをアメリカ自身に認識させることである。そして、「原子力平和利用」という考え方は成り立ち得ない神話であり、私たちは脱原発によってのみ21世紀以後の人類の明るい展望を切り開くことができるということを、日本こそが世界の先頭に立って実践して証明することでなければならない。そのためには、日米核軍事同盟を清算し、平和憲法に基づいて戦後日本政治のあり方を根本から改めることが求められる。福島の悲劇的教訓を生かすのはこの道をおいてほかにはない。

引用者注:

1年余の政権運営が余すところなく明らかにしたように、民主党政治も核・安保政策において自民党政治と何ら変わるところはない」という浅井基文さんの上記論攷中の指摘は、浅井さんと同様にこの1年有余の間の民主党政権の政権運営を観察してきた私の認識とも完全に一致します。さらに同様の認識はメディアなどによって広い概念として「リベラル・左派」と総称されるこれも広い意味での市民階層の間においても広く共有されているところの認識であろうとも思っています。

しかし、そのメディアなどによって「リベラル・左派」と総称されるジャーナリストを含む市民階層の中にはいまなお強行に「小沢政権待望」論を主張する論者も少なくありません。その論者としての彼ら、彼女たちはこれまで盛んに現在の民主党政権、すなわち菅政権や野田政権を批判してきたし、いまもなお猛烈に批判し続けているのですが、なぜか「小沢一郎」という民主党の代表職も幹事長職も務め、「民主党」の大看板を担ってきた政治家だけにはその批判は及びません。逆に上述したように「小沢政権待望」論をぶち上げる始末です。彼ら、彼女たちは「小沢待望政権」を実現するために今度の総選挙でも自らが批判してやまない「民主党」に一票を投じるつもりでしょうか?

民主党政治は原発政策においても核・安保政策においても「自民党政治と何ら変わるところはない」と認識し、かつ判断するのであれば、民主党には今後一切投票しないという態度をとるのが論理整合的な態度というものであり、また必然であるとも思われるのですが、「小沢政権待望」論者の彼ら、彼女たちにはそうした様子は微塵も見られません。そうした「小沢政権待望」論者の姿勢の矛盾がわが国のいまの政治の混迷をつくり出している大きな要因のひとつである、という自覚が残念ながら彼ら、彼女たちには乏しい、というよりも欠落しているようです。真の意味での私たちの国における「思想」と「理念」の復権のためにも私は彼ら、彼女たちのそうした姿勢、態度に根底的な疑問を感じざるをえません。
 
浅井基文さんの論攷に引用者として一言付記しておきたいと思いました。
前回エントリ記事「クリストファー・バスビー氏(ECRR)の東日本大震災がれき処理に関する警告発言について」に2人の人から反論がありました。そのうちのおひとりからは数度にわたって続きものの反論がありました。そのうちの代表的な反論と思われる2通について再反論を書いたのが以下です。
 
なぜ私は前回エントリ記事を書いたのか。そのことがわかっていただける返信にもなっている、と私自身としては思っています。
 
この2通の返信(相手方の固有名詞は省略しています)についてもエントリしておきたいと思います。
 
1通目の反論への返信
私が問題にしているのは、「(政府、環境省が)がれきの処理を全国の行政に依頼しようとしているのは、福島の子どもたちが病気になったときに補償しないですむようにがれきを全国に拡散して、他地域で子どもたちの健康状態が福島と変わらないようにするためである」と断定するクリストファー・バスビー氏の論理です。

このバスビー氏の論理が成立するためには、放射性がれきの処理を引き受けた(仮に引き受けたとして)自治体のほぼ全域の放射能濃度が現在のそれ(「全国の放射能濃度一覧
参照)よりも同処理を引き受けなかった他の自治体よりも著しく、あるいはかなりのレベルで高くなるという現象が一様に生じるということがなければなりません。

しかし、実際にはそういうことは起こりえないでしょう。すでに述べていることですが、放射性汚染物質はその自治体のもっとも人気のない場所に閉じ込められ、それ以上他地域に拡散しない措置がとられるはずだからです。また、そうでなければなりません。当然、その放射性汚染物質を閉じ込めた一帯は「立ち入り禁止区域」ということにもなるでしょう。そうであれば、バスビー氏の上記の論理は成り立たないはずです。

注:ここでは放射性汚染物質を完全に閉じ込めることができない埋め立て処分場や焼却施設などは放射性がれき処理場として当然不適であるということを大前提にして論を進めています。ですから、そういうところを放射性がれき処理場にするということであれば論外のこととして地元住民が猛反対するのは当然のことです。私はそういうことを否定しているのではありません。

そうした成立しえない論理を前提にして、政府、環境省は「福島の子どもたちが病気になったときに補償しないですむようにがれきを全国に拡散」しようとしているなどと三段跳びに飛躍した断定をする。こうした論法はデマゴギーの一種と言えるのではないか。そうしたデマゴギーに似た論法は脱原発の実現のためにも拡めてはいけない、ということを私は言っているのです。この私の論法が「太いリクツ」になっていないとは私は思いません。

ウィキペディアからの引用はバスビー氏のこれまでの論の強引さを傍証するためのものです。

肝心なことは、放射能被曝をどのように回避するかです」。また、「大切なことは、健康被害を回避するには、放射能汚染地域から人間が逃れることしかない、ということです」。また、「放射能に汚染されたガレキを各地に分散させることは、放射能を拡散させることです」というTさんのご指摘については福島のことを考えるとよい知恵はないものか、と悩みあぐねていますが、結論としてそのとおりだと思っています。

だからといって、強引なリクツで成り立つ(と私には思える)バスビー氏の論を否定してはいけない、ということにもならないだろうとも思っています。

2通目の反論
への返信
バズビー氏はあなたと同様の<危惧>を表明しているのではありません。

政府、環境省は「福島の子どもたちが病気になったときに補償しないですむようにがれきを全国に拡散して」いると<断定>しているのです。そして、その<断定>は根拠薄弱な推論に基づくものです。

こうした根拠薄弱な推論でいちいち<断定>されてはたまったものではありません。こういう論理をデマゴギーというのだと私は思うのです。

Tさんは<危惧>と<断定>の違いがおわかりになっていないようです。

水掛け論になってもいけませんので先にウィキペディアを引いて挙げておいた例を再度挙げてみます。

ECRRは英国の核実験退役軍人が国防省を訴えた裁判で原告側に協力している。ECRRのクリス・バズビーは、OurPlanetTVの取材に対してすべてのケースで原告が勝利し、すべての陪審員・裁判官がICRPよりもECRRの基準を支持したと主張している。[8](ウィキペディア『欧州放射線リスク委員会』)

上記は<断定>ですね。上記のような主張を<危惧>とは言いません。

が、実際には核実験と健康被害の関連性を証明することができないとして10の代表事例のうち9までが聴聞を行う以前に棄却されており、ECRRの基準が支持されたと言うことはできない。[9](同上)

上記はバズビー氏の<断定>はうそ、もしくは少なくとも誤りであることを証明しています。

そうではありませんか?

再度、この問題についての私の論を別の角度から繰り返しておきます。

私が問題視しているのはクリストファー・バスビー氏の発言は科学的な判断に基づく発言というべきではなく、自己の主観に基づく強引な推論、それも邪推に近い推論でしかないということです。邪推に近い推論で福島、東北地方の放射性廃棄物処理の問題を云々することは、「できうれば自分の生まれ、育った自分の<根>であるいまの在所にいつまでも居住したい」と心の底から願っているその地方の人びとの心を深く、不必要に傷つける。そういう意味での破廉恥な「風評加害」の論にもなりかねないということでもあります。

「風評被害」の問題は多くの人びとが心を痛めている問題です。私はさまざまなメーリングリストに加入していますが、ただいたずらに(非科学的に)放射能の危険性を言うだけ、自己検証もなくただ「拡散」するだけの論に対する必ずしも脱原発論者ではない人たち、そして理知的でもある人たちの反発の感情はすさまじいものがあることを私は実感しています。この人びとの「風評被害」を憂う感情に非科学的(邪推は非科学的です)に水をさすような論では決してこの人びとから信頼されることにはならない。すなわち、広範な市民の信頼を勝ちとることがなければ実現できないという意味で脱原発を実現させることもできないでしょう。

そういう私の憂いの一環としてのバスビー氏発言への<危惧>なのです。
環境省が全国自治体に要請している「東日本大震災により生じた災害廃棄物」とその放射性がれきの受け入れに関して、先に私は、同省の各都道府県宛て内部通達(事務連絡)に記載されている「(同受け入れを表明した)個別の地方公共団体名は公表しないこと」にするという同省の姿勢は政府機関としての環境省が率先して「情報隠し」を公言することに等しく、政府がお題目的に懸念する「風評被害」をなくすという観点からもまったく逆効果の誤まった姿勢であること。また、この期に及んでもなお「情報」を隠蔽することによってことなきをえようとする政府、環境省の態度は、災害廃棄物と放射性がれきの処理の問題は国民的課題というべきものですが、その国民的課題の解決のためにもまったく逆立した倒錯した態度であることを指摘しておきました。

その放射性がれきの処理の問題に関して、ECRR(欧州放射線リスク委員)のクリストファー・バスビー氏(注1)のがれきに関する次のような発言を援用して「更なる放射能汚染、被曝の拡大」を阻止するために全国の各自治体は「東日本大震災により生じた災害廃棄物」の処理の受け入れを表明するべきではない。がれきの処理の受け入れをしないように自分たちが住む県、市へ声を伝えましょう、という檄(注2)がメールなどによって「拡散」されています。

クリストファー・バスビー氏の放射性がれきに関する発言は次のようなものです。

(政府、環境省が)がれきの処理を全国の行政に依頼しようとしているのは、福島の子どもたちが病気になったときに補償しないですむようにがれきを全国に拡散して、他地域で子どもたちの健康状態が福島と変わらないようにするためである。

しかし、このクリストファー・バスビー氏の立論は、同がれき処理の問題に関する小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)などの発言とくらべてみても乱暴すぎて私には少し以上に疑問があります。そこでクリストファー・バスビー氏の経歴と業績と同氏の所属するECRR(欧州放射線リスク委員会)について少しばかり調べてみました。同氏の発言に対する私の疑問についてはその記述の後で述べることにします。

ウィキペディアの「欧州放射線リスク委員会」によれば、バスビー氏は、「ECRRの科学セクレタリーを務めるとともに反原発政策を掲げるイギリスの環境政党イングランド・ウェールズ緑の党の代弁者」の役割も負っていたようです。私としていささか強引と思える彼の発言はそういう政治的背景とも無縁ではないような気がします(以下、ウィキペディアの記述はすべて「欧州放射線リスク委員会」
より引用)。

ウィキペディアはバスビー氏について次のようにも記しています。

ECRRは英国の核実験退役軍人が国防省を訴えた裁判で原告側に協力している。ECRRのクリス・バズビーは、OurPlanetTVの取材に対してすべてのケースで原告が勝利し、すべての陪審員・裁判官がICRPよりもECRRの基準を支持したと主張しているが[8]、実際には核実験と健康被害の関連性を証明することができないとして10の代表事例のうち9までが聴聞を行う以前に棄却されており、ECRRの基準が支持されたと言うことはできない[9]。現在は原告側が棄却を不服として最高裁で争っている。

8.“内部被ばくに警鐘~クリス・バズビー博士インタビュー”. 2011年8月5日閲覧。
9.“
British atom bomb test veterans lose damages case”.2011年8月10日閲覧。

また、ウィキペディアは、バスビー氏の所属するECRRについても英国健康保護局の次のようなECRR批判も紹介しています。

「ECRRは、2つの調査結果を発表している」がそのうちの一つの「2003年のECRR勧告『放射線防護を目的とした低線量の電離放射線被曝のもたらす健康への影響』(略)は、発表されてまもなく、英国健康保護局(en:Health Protection Agency)による批判が加えられた。同局は、ECRRを『公的機関と関わりのない独自(self-styled)の組織』とした上で、『恣意的であり、十分な科学的根拠を持たず、ICRPについては多くの曲解が見られる』とした

さらにウィキペディアは今中哲二氏(京都大学原子炉実験所助教)の次のようなECRR批判も紹介しています。

ECRRの低線量被曝リスク評価について、反原発派の今中哲二(京都大学)は、ECRR勧告への個人的感想として「セラフィールド小児白血病などのデータを内部被曝によって説明しようという問題提起は、仮説としては面白い」「ECRRのリスク評価は「ミソもクソも一緒」になっていて付き合いきれない」「ECRRに安易に乗っかると、なんでもかんでも『よく分からない内部被曝が原因」となってしまう」と述べている。

実際に今中氏は自らのレジュメ(p11)でもECRRをつぎのように批判、評価しています。

ECRR勧告への個人的感想
セラフィールド小児白血病などのデータを内部被曝によって説明しようという問題提起は、仮説としては面白い。しかしながら、仮説を実証するデータはほとんど示されていないし、リスク評価手法全体に一貫性が認められない


放射能、放射線問題は専門的知見にわたることが多いので素人にはその判断の当否はわかりにくいところがあります。専門家らしい人(ここではバスビー氏のことを指していますが)の意見には信頼できる専門家の意見を対置して考えてみる、というのが素人にとってはベターな方法のように思います。そういう意味で今中氏のECRR勧告に対しての「感想」を援用してみました。

さて、そこでバスビー氏の発言に対する私の若干の疑問について述べてみます。

バスビー氏は上述したように放射性がれきの処理の問題について「(政府、環境省が)がれきの処理を全国の行政に依頼しようとしているのは、福島の子どもたちが病気になったときに補償しないですむようにがれきを全国に拡散して、他地域で子どもたちの健康状態が福島と変わらないようにするためである」と断定しています。

しかし、このバスビー氏の断定は、各自治体において、おそらくもっとも人気のない場所の一箇所(あるいは複数箇所)に閉じ込められるだろう放射性汚染物の放射能汚染が各自治体全域に及ぶかのように措定している点において誤りであること。また、東日本大震災により生じた災害廃棄物のすべてが放射性がれきであるかのように措定している点においても誤りであること(むろん、福島第1原発事故以後放射能汚染は全国に飛散しており、全国のどの地域も多かれ少なかれ放射能汚染の影響を受けています。その意味では放射能汚染度の比較的小さい東北各県の地域と東北各県以外の全国各自治体の放射能汚染度は比較してそう大差のないところもあります(「全国の放射能濃度一覧
参照)。それを均しなみに東北各県の災害廃棄物のすべてが放射性がれきのようにいうのは誤りだろうということです)。その誤まった前提をもって行政当局は「福島の子どもたちが病気になったときに補償しないですむようにがれきを全国に拡散」しようとしているなどと推論しても、その推論はそれこそ「風評加害」の論にはなりえても科学的推論とはとてもいえないこと。それがバスビー氏発言に対する私の基本的な疑問です。

小出裕章氏はこの問題について次のように言っています。

除染という言葉を私たち使いますけれども、決して放射性物質そのものがなくなるわけではありません。どこか別の所に移すということしか私たちはできないわけで、たとえば初めの頃に郡山市が学校の校庭の土を剥ぎ取って市の処分場に捨てに行ったところ、処分場周辺の方々が嫌だと言って断ったそうですね。で、それでしょうがなくてまた校庭に持ち帰って山積みしたということがありましたけれども、そんなことはほんとうはしてはいけないのです。剥ぎ取った土はほんとうはどこか人々が触れないようなところ持っていって集めてそこに埋める。あるいは錘をするということをしなければいけないはずだと思います。では、それをいったいどこにするのかということになってしまうとほんとうにどうしたらよいのかわからないという状態に私自身もあります。(「たね蒔きジャーナル」毎日放送ラジオ 2011年8月18日

見られるとおり小出氏は放射性がれきの処理の問題は福島県マターのあるいは東北各県マターの問題だとは言っていません。自分自身にとっても「それをいったいどこにするのかということになってしまうとほんとうにどうしたらよいのかわからないという状態」だと言っています。放射性がれきの処理の問題、東日本大震災により生じた災害廃棄物の処理の問題は「こんなことが起きないように原発を止めたかった。(しかし、それでも実際に原発事故が起きて放射能が全国、あるいは世界に飛散した以上)今までとは違った世界に生きることを覚悟しないといけなくなった」(「たね蒔きジャーナル」毎日放送ラジオ 2011年6月8日)、そうした全国民的課題というべきなのです。放射能情報の正確な情報開示の上、冷静で科学的な判断のもとに全国民的論議によって決めなければならない課題だといわなければならないでしょう。いたずらに「がれきの処理の受け入れをしないように自分たちが住む県、市へ声を伝えましょう」などと檄を飛ばす問題ではなかろう、と私は思います。

ちなみに私たち市民のこれからの放射能とのつき合い方について、10月17日付けの毎日新聞のコラム「風知草」に面白いことが書かれていました。

曰く。

(医療の専門家の)赤ひげ・木村はこう言っている。「むやみにビビる必要はないが、正しい防御は必要。正しく怖がるべきです」/この夏、京都五山の送り火から、セシウムのついた陸前高田の松材が締め出される騒ぎがあった。これなどビビり過ぎの典型だと木村は言う

注1:ECRR(欧州放射線リスク委員)のクリストファー・バスビー氏はこれまでも本メーリングリストなどにおいてもクリス・バズビーの表記でたびたび紹介されています。

注2:メールなどによって「拡散」されている「がれきの処理の受け入れをしないように自分たちが住む県、市へ声を伝えましょう」という檄(要約)は次のようなものです。

東日本大震災による瓦礫について、環境省は全国の自治体に処理を打診し、各地での受け入れを進めようとしています。瓦礫は放射能に汚染されており、それを、焼却、埋め立等によって処理する事は、更なる放射能汚染、被曝の拡大を引き起こします。

下記はドイツのバスピー博士の瓦礫に関する発言の映像の転送メールです。
バスピー博士の瓦礫への発言等  
http://t.co/cKtgjF7D

<要旨>
瓦礫の処理を全国の行政に依頼する理由として、福島の子ども達が病気になった時に補償しないですむように、瓦礫を全国に拡散して、他地域で子どもたちの健康状態が福島と変わらないようにするため。

子ども達を放射能から守るために、避難と健康維持企画等を公表。
子ども達の健康を第一に、人々が緩慢な死に追いやられるのを防ぎましょう。
瓦礫の処理の受け入れをしないように自分たちが住む県、市へ声を伝えましょう。
政府、各議員へ、瓦礫の拡散の中止の声を届けましょう。

あらゆる方法で、瓦礫の全国拡散を止めましょう!!
環境省が「東日本大震災により生じた災害廃棄物」と放射性瓦礫の受け入れについて、その受け入れを表明した「個別の地方公共団体名は公表しないこと」にするという内部通達(事務連絡)を全国の各都道府県に発送しています。
 
政府機関としての環境省自らが率先して「情報隠し」を公言する驚くべき通達です。
 
環境省は「風評被害」を懸念しているようですが逆です。
 
災害廃棄物と放射性瓦礫の処理の問題は国民的課題というべきものですが、正しい情報開示があってこそ「風評被害」もなくなるのです。この国民的課題を解決するためにも正しい情報に基づく国民的論議は欠かせません。「情報」を隠蔽しようとする政府、環境省の態度は明らかに誤まっています。

https://sites.google.com/site/natrium100mg/

*上記のサイトは個人のサイトのようですが、同サイトの「ガゾウ」の頁を開けば「事務連絡」の現物の写真を確認することができますのでこの「事務連絡」文書は本物だと思います。おそらくこの「事務連絡」を見ることのできる関係者のひとりが同文書の内容に憤りにかられて一種の内部告発を試みたものだと思われます。

いま「憤りにかられて」という私の憶測を述べましたが、政府、環境省には、これまで福島原発から放出される放射線量や風向きなどの正確な情報を「ただちに健康に影響がない」などのウソの理由をつけて隠蔽、もしくは断片的な情報を流すのみで、危険についての基本的な情報を住民に正しく伝達しなかったことが福島県住民の安全圏に避難する権利を阻害し、ここまで原発被害を甚大なものにしていることについての反省は微塵もみられません。

この情報の発信者によれば、いま環境省の担当部署には電話が集中していてつながらない状況だということです。当然のことです。さらに環境省に批判を集中する必要があるように思います。
本エントリはこの16日にあった京都での脱原発集会・デモの報告記の筆者への返信として書かれたものです。

内富さん、昨日(16日)の京都での脱原発集会・デモのご報告ありがとうございます。

15日のプレ企画のシンポジウムと合わせて2日間で合計1210人もの市民が同集会・デモに参加された、とのこと。「変えよう!日本と世界」という脱原発集会の標語にまさにふさわしい京都集会であったことがその熱気とともにこちらにもよく伝わってきます。

同集会に参加された滋賀のKさんからも同集会参加記がメールで送付されてきました。下記に同参加記を転載させていただこうと思いますが(最下部)、同参加記でKさんは鎌田慧さんの講演の内容の要旨を次のように紹介されています。

9.19の呼びかけ人(大江健三郎さんら)は本気で原発を止めるために闘う、原発絶対反対の闘いが原発を真に止めると。ヒロシマで日本は国体護持などと言って戦争をやめなかった。そして、ナガサキを迎えてしまった。今私たちは、フクシマの次に来る原発事故を前にしている。市民こそが先頭に立ち、政党などは、手足になる、そんな運動を展開するときだ。

慙愧の思いに満ちた、それだけに深いノーモア・フクシマの訴えです。

ところで、Kさんの報告では、鎌田さんは「市民こそが先頭に立ち、政党などは、手足になる、そんな運動を展開するときだ」と述べているところが内富さんご紹介の京都新聞の記事では次のようになっています。

原発問題を追及してきたルポライターの鎌田慧さんが講演し、「政党や労働組合でなく、市民が先頭に立って原発反対の運動を拡大しなければならない」と力説した。
(京都新聞「
原発反対、市民先頭に 京で集会、鎌田さんら講演」2011年10月16日)

上記の京都新聞の記事は「政党や労働組合(が先頭に立つの)でなく、市民が先頭に立って」の意で、鎌田さんの同集会での発言の趣旨を誤まって伝えているわけではないのですが、「政党や労働組合でなく」というフレーズを先に立てて書くことによって、意図せずして、同記事は、鎌田さんはあたかも市民と政党や労組との連携、協力関係を否定的に見ている。市民の運動と政党や労組の運動を対立的に見ている、かのような印象を与えるところがあります。実際にそのように受けとめて読む読者も少なからずいるのではないでしょうか。しかし、鎌田さんの同集会での発言の趣旨はKさんの報告にあるように「市民こそが先頭に立ち、政党などは、手足になる、そんな運動を展開するときだ」というものです。

上記、言わずもがなの蛇足を述べたのは、実際に市民の運動と政党や労組の運動を対立的に見る風潮が私たちの運動の一部にあることを私は懸念しているからです。しかし、市民の運動と政党や労組の運動は対立的なものではなく、反原発運動において車の両輪の関係にあるものだと私は思います。

先に私は、原水協と原水禁の統一問題に関して、この5日にあった日本記者クラブでの共産党委員長の志位氏の講演の内容を報じる朝日新聞と赤旗の記事の比較をしてその問題意識の落差について若干の懸念を述べることがあったのですが
、その私の懸念に対して、あるメーリングリストでそうした懸念よりも脱原発の市民運動がいまかつてないほど高揚しているという事実にこそ着目するべきではないのか。そうしてこそ実効的な脱原発政治も期待できるのではないか、という市民の運動と政党や労組の運動を対立的に見る反論のような投稿がありました。以下の文は、その反論に私として応えたものです。市民の運動と政党や労組の運動は対立的なものではなく、反原発運動において車の両輪の関係にあるという私の所論の展開になりえているように思いますので要約して転載させていただこうと思います。

政治的実効力の問題は実効的な政治変革の問題として私の胸の内にも政治的思考の核の問題として常にあり続けています。理念をもっぱらに重視して実効性の問題を疎かに考える、という「現実」軽視型の志向性は私の中にはありません。

私が原水協と原水禁の統一問題を重要視する、重要視しなければならない、と考えるのも、私の思想の根としてこの政治的実効力の問題を重要視しているからです。

いま、フクシマの事故以後「脱(反)原発」の思想と運動は市民的レベルで空前の高まりを見せていますが、そして、その象徴が先の脱(反)原発6万人集会(&デモ)の成功ですが、同集会(&デモ)は市民の脱(反)原発の思想の高まりを象徴するとともに原水協と原水禁が「脱(反)原発」という一致点で集結したその政治結集の成功を象徴するものでもありました。市民だけの単体でも、政党(系)だけの単体でもこの6万人集会(&デモ)の成功は実現させることはできなかったでしょう。ジャーナリストの岩垂弘さんも「9・19脱原発デモ、空前の盛り上がり」(「リベラル21」2011年9月20日付)という評論で「この集会が大勢の参加者を結集しえた理由の一つは、原水禁系の労組と原水協系の労組が初めて『脱原発』で“共闘”できたということにあるとみていいだろう」という感想を述べています。岩垂さんはこの評論では言及していませんが、もう一つの大きな「理由」はいうまでもなく脱原発を願う市民の大結集です。

この二つのことは車の両輪の関係にあって2輪×2輪の四輪があって車ははじめて駆動するのです。私が先の5日の日本記者クラブでの志位共産党委員長の講演を伝える報道について期待交じりの論評をしているのはいたずらに共産党や社民党という「左翼政党」を賞揚しようとするためのものではありません。飛行機は一翼だけでは飛べないもののその一翼がなければまた二翼の一対にもなりえない。「脱原発」という実効的な政治変革を実効的に実現するためにも二翼のうちの一翼の、さらにその一翼の中での統一・協力は欠かせない。その重要性を言うために書いたのが先の私の論評なのです。

ところで、脱原発運動における市民運動の重要性を言うために「市民の思想の方が左翼政治家の懐よりもずっとはるかに根源的な想いと痛みとを抱えている」という認識を語る人がいます。しかし、「市民の思想の方が」「ずっとはるかに」という対置的な認識は「一翼は二翼の一対としてある」という常識としての認識とは相反するものです。一翼への片思いは飛行機を迷走させ、遂には墜落させるということにもなりかねません。そういう意味で私は二翼の運動の連携と協力の大切さを強く思うのです。もちろん、脱(反)原発運動の成功のために。

最後にKさんの「変えよう!日本と世界」脱原発集会参加記を添付しておきます。
反戦・反貧困・反差別共同行動in京都に参加しました。

 9.19反原発6万人集会を成功させた、ルポライター・鎌田慧さんは、今後の行動提起について、12/10日比谷野音集会-2/11全国同時50万人デモ-3/11福島デモ-3/24日比谷野音で1000万人署名総括集会-そして、来年5月か6月に10万人集会を開催して、原発再稼動を止め、全原発を止める民衆運動を展開しようというもの。9.19の呼びかけ人(大江健三郎さんら)は本気で原発を止めるために闘う、原発絶対反対の闘いが原発を真に止めると。ヒロシマで日本は国体護持などと言って戦争をやめなかった。そして、ナガサキを迎えてしまった。今私たちは、フクシマの次に来る原発事故を前にしている。市民こそが先頭に立ち、政党などは、手足になる、そんな運動を展開するときだ。

 ドイツ緑の党会派副代表のベーベル・ヘーン議員は、「工業国ドイツで、原発を止めることを決意した、原発の事故リスクは、想像以上に大きい、放射性廃棄物は処理できない、将来の人々に責任を負わせる無責任な技術と構造がある、大企業がエネルギーを独占し、市民が被害を受ける、そして、ほかに再生エネルギーという方法がある、それは、原発より大きな雇用を生み出せる、原発廃止は、こんな風にいいことしかない。」

 90歳になる瀬戸内寂聴さんは、会場満杯かと思ったが、まだ少ない、若者か少ない、もっともっと集めようと。そして、日本の若者は、福島で(ボランティアで)がんばっているのを見た、まだ大丈夫だ、皆さん、生きることは行動することだ。青春は恋と革命だ、日本は革命を起こさねばならない。脱原発署名で、1000万人の一人になるのは人間の誇りです、と結ばれた。

参加者950人の長いデモは、休日の京都の繁華街・河原町を多くの市民に訴えながら進んだ。

原発再稼動と原発輸出を進めようとする野田政権に対して、京都からの反原発の決定打となった。
日本科学者会議(JSA福岡)核問題研究委員会メンバーの「しんぶん赤旗と共産党は「避難の権利」を擁護すべきです」という10月13日付けの声明はまったく理に適った声明文だと私は思います。そして、その理は抑制されています(つまり、科学者たちの思いの強さを表しています)。

かつ、上記声明は、熱心な赤旗読者だからこそ出せる声明というべきものでもあります。

声明に引用されている「除染が決定的です」という10月10日付けの野口邦和氏の講演会記事や同3日付けの同氏の「福島の放射線量 3年で半減する」というタイトルの文章などはWeb版には出ていませんので赤旗日刊紙の熱心な購読者でなければできない指摘というべきだからです。

そういう意味でも共産党本部には上記の科学者たちの要請について真摯な検討を望みたいものです。

上記声明での要請が共産党本部に受け入れられるかどうかについては私は確かな見通しを述べることはできません。が、今回の科学者たちの要請はイデオロギー的なものではなく(原水禁統一問題はイデオロギー的要素が強いのですが)、純粋に科学的見地からのものですので受け入れられる可能性は決して低くない、というのが私の(希望的な)見通しです。

しばらくこの点について共産党の動向を注視したいと思います。

仮に共産党がこの科学者たちの要請を無視するようであれば、上記の声明でも述べられているように、同党は「この原発災害における被災者支援,人権擁護の活動において決定的で重大な過ちを犯す」ということになり、そのときには共産党への信は決定的に地に堕ちるということにもならざるをえないでしょう。

科学的社会主義の党としての同党の「科学」性がいままさに問われている、と私は考えます。

再説

2011.10.13

しんぶん赤旗と共産党は「避難の権利」を擁護すべきです

JSA福岡 核問題研究委員会メンバー
岡本良治
豊島耕一
本庄春雄
三好永作

貴紙と貴党の福島原発災害と原発問題への取り組みに敬意を表します。しかしながら,現在の政策には,以下に述べるように重大な問題点があるように考えます。

福島県の多くの住民が放射能汚染地域に居住し続けることを余儀なくされています。しかも「放射線管理区域」の定義である「3ヶ月あたり1.3mSv」(時間あたりに直すと0.6μSv)という高い値を超える地域も広範に及びます。このような区域内では,未成年者の就労が法律で禁じられるような環境ですが、未成年者といわず、小児や幼児までもが四六時中この中にいます。しかもこの線量には内部被ばくはカウントされていません。

このような異常な状況に対し、多くの人々が「避難の権利」を求めて闘っています。他人(東電)に生活環境を放射能で汚染されて、それを受忍しなければならない理由などありません。この「権利」はあたりまえ過ぎるほどあたりまえのことです。

しかしながら、「しんぶん赤旗」紙面にも、また三次にわたって出された共産党の「大震災・原発災害にあたっての提言」にも、この権利についての言及はありません。それどころか、例えば、10月10日の「赤旗」の野口邦和講演会記事の「除染が決定的です」という見出しや、10月3日の同氏の「福島の放射線量 3年で半減する」というタイトルの文章などに見られるように、除染のみを一面的に喧伝し、避難の必要性あるいは「避難の権利」の擁護については全く触れていません。

しかし除染の効果が現時点で限定的なのは福島県のサイトでも明らかですし[1]、除染作業に伴う作業者の内部被ばくの危険もあります.除染だけで避難に触れないのは、また除染作業の危険性にも触れないのは、まるで「竹槍で放射能と戦え」と言うに等しいでしょう。

短期間に効果的な除染が出来ないときは、つまり、平常値と大きく違わない程度にまで線量を下げる見込みがない場合は、だれもが「避難の権利」、つまり支援と賠償を伴う避難を実行する権利を持つのは当然です。これは最低限の権利であり、本来は、このような高リスクの地域に対しては、国が責任を持って「義務的避難」をさせるべきと考えます。

この最低限の権利としての「避難の権利」を、貴紙と貴党は明確に支持し主張されるよう要請します。さもなければ、この原発災害における被災者支援、人権擁護の活動において決定的で重大な過ちを犯すことになりはしないかと危惧しております。

[1]
http://bit.ly/rboxE1
------------------
引用した[1]以外の文書と記事へのリンクです.

「提言」
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2011/20110331hisaisyasien_teigen.html
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2011/20110517_daishinsai_genpatsu.html
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2011/20111007_sinsai_genpatsujiko_3th_teigen.html

野口氏の10/3の記事
http://ad9.org/pegasus/nuclear/noguchi111003.gif
同じく10/10の記事
http://ad9.org/pegasus/nuclear/noguchi111010.gif


*JSAは日本科学者会議の略称
佐賀大学教授(理工学部物理科学科)の豊島耕一さんら日本科学者会議・福岡(JSA福岡)の核問題研究委員会メンバー4人が昨日の13日付けで「しんぶん赤旗と共産党は『避難の権利』を擁護すべきです」という意見書を共産党に送ったというメールを豊島さんからいただきました。
 
重要な問題提起だと思います。
 
以下、豊島さんのブログ「ペガサス・ブログ版」(「共産党は「避難の権利」を擁護すべきだ」 2011年10月13日)から転載させていただこうと思います(句読点は日本語の句読点に改めました)。
 
本日(10月13日)朝、JSA福岡 核問題研究委員会メンバー4人の連名で、以下の文書をメールとファクスで「しんぶん赤旗」と共産党に送りました。JSA*福岡 核問題研究委員会は、3.11後まもなく「原発事故緊急対策マニュアル」を発行したグループです。

しんぶん赤旗と共産党は「避難の権利」を擁護すべきです

           JSA福岡 核問題研究委員会メンバー
                   岡本良治
                   豊島耕一
                   本庄春雄
                   三好永作

貴紙と貴党の福島原発災害と原発問題への取り組みに敬意を表します。しかしながら,現在の政策には,以下に述べるように重大な問題点があるように考えます。

福島県の多くの住民が放射能汚染地域に居住し続けることを余儀なくされています。しかも「放射線管理区域」の定義である「3ヶ月あたり1.3mSv」(時間あたりに直すと0.6μSv)という高い値を超える地域も広範に及びます。このような区域内では,未成年者の就労が法律で禁じられるような環境ですが、未成年者といわず、小児や幼児までもが四六時中この中にいます。しかもこの線量には内部被ばくはカウントされていません。

このような異常な状況に対し、多くの人々が「避難の権利」を求めて闘っています。他人(東電)に生活環境を放射能で汚染されて、それを受忍しなければならない理由などありません。この「権利」はあたりまえ過ぎるほどあたりまえのことです。

しかしながら、「しんぶん赤旗」紙面にも、また三次にわたって出された共産党の「大震災・原発災害にあたっての提言」にも、この権利についての言及はありません。それどころか、例えば、10月10日の「赤旗」の野口邦和講演会記事の「除染が決定的です」という見出しや、10月3日の同氏の「福島の放射線量 3年で半減する」というタイトルの文章などに見られるように、除染のみを一面的に喧伝し、避難の必要性あるいは「避難の権利」の擁護については全く触れていません。

しかし除染の効果が現時点で限定的なのは福島県のサイトでも明らかですし[1]、除染作業に伴う作業者の内部被ばくの危険もあります.除染だけで避難に触れないのは、また除染作業の危険性にも触れないのは、まるで「竹槍で放射能と戦え」と言うに等しいでしょう。

短期間に効果的な除染が出来ないときは、つまり、平常値と大きく違わない程度にまで線量を下げる見込みがない場合は、だれもが「避難の権利」、つまり支援と賠償を伴う避難を実行する権利を持つのは当然です。これは最低限の権利であり、本来は、このような高リスクの地域に対しては、国が責任を持って「義務的避難」をさせるべきと考えます。

この最低限の権利としての「避難の権利」を、貴紙と貴党は明確に支持し主張されるよう要請します。さもなければ、この原発災害における被災者支援、人権擁護の活動において決定的で重大な過ちを犯すことになりはしないかと危惧しております。

[1]
http://bit.ly/rboxE1
------------------
引用した[1]以外の文書と記事へのリンクです.
「提言」
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2011/20110331hisaisyasien_teigen.html
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2011/20110517_daishinsai_genpatsu.html
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2011/20111007_sinsai_genpatsujiko_3th_teigen.html
野口氏の10/3の記事
http://ad9.org/pegasus/nuclear/noguchi111003.gif
同じく10/10の記事
http://ad9.org/pegasus/nuclear/noguchi111010.gif

*JSAは日本科学者会議の略称
先に私は「原水禁統一問題を脱原発運動の転換軸と見る朝日新聞記者の視点と赤旗記者の問題意識の欠如にみる報道の落差」(10月6日付)という記事を発信し、そこで5日にあった日本記者クラブでの共産党委員長の志位氏の講演の内容を報じる朝日新聞と赤旗の記事の比較をして原水禁運動統一問題に関してある種の問題提起を試みたのですが、現在の原水禁運動の分裂を深く憂慮し、長年一日でも早いその統一を呼びかけてこられた今年の3月
まで広島市立大学広島平和研究所所長だった政治学者の浅井基文さんがやはり5日の志位共産党委員長の講演を報じる6日付け(インターネット版は5日付)の朝日新聞記事に注目し、ご自身のホームページに「脱原発を目指す上での新しい動き(?)」というクエスチョンマークつきの下記のような論評を書かれていています。

ご紹介させていただこうと思います。

浅井さんの論評を読んで、朝日新聞記者が原水協と原水禁の統一・協力問題を記事にできたのに、なぜ赤旗記者は記事にすることができなかったのか、の私のクエスチョンの一端が理解できたような気がしました。

浅井さんがおっしゃるように志位委員長のこの問題での発言は司会者(記者)の質問に答える形の受身のもので、「朝日新聞が書いているようには明確に原水禁運動の協力にまで積極的に踏み込んだものとは」私にも「受けとめられませんでした」(朝日紙は「原水協や原水禁の流れがあっても、協力ができたらなというのが私たちの願いだ」とカギカッコつきでこの問題での志位委員長の発言が真であるかのような体裁で書いていますが、ビデオで私も確認しましたが同委員長はそういう発言はしていません。

この点、朝日新聞記者のミスリードです)。「もし、この発言に共産党が重きを置いているのであれば、赤旗の紙面でも取り上げていたはずだと」私も「思います」。

しかし、記事の内容は正確な引用、また正確な報道という点で朝日新聞記者の明らかなミスリードではありますが、同記者の問題視点は誤まっていないと思います。瓢箪から駒ではありませんが、ミスリードがかえって幸いして福になることを私は期待したいと思います。

以下、浅井さんの論評です。

■脱原発を目指す上での新しい動き(?)(浅井基文 2011年10月8日)
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2011/index.html

 10月6日の朝日新聞に「原水協と原水禁「協力を」 共産・志位委員長が期待」という見出しの興味ある記事が載っていました。それは、共産党の志位和夫委員長が、5日の日本記者クラブでの講演で、「「原発をなくそうという方向で協力できたら……」と、脱原発で旧社会党系の人たちとの歴史的な対立を乗り越え、連携する必要があると訴えた」という内容のものでした。

 また、その記事の横には、「発言録」という欄があり、社民党党首の福島瑞穂氏が4日に連合会長・古賀伸明氏が「原発のない社会を目指す」と発言したことについて、「連合が「脱原発」の政策転換を打ち出したことは大変大きい」「民主党の支持母体でもあり、政権に影響を与えるものではないか。高く評価したい」と評価する発言を定例記者会見で行ったことも紹介していました。ちなみに、ネットで検索したところでは、古賀会長は4日の連合の定期大会の席上、「最終的には原子力に依存しない社会を目指していく必要がある」と述べたようです。この発言を伝えた記事には、「連合はこれまで原発の新増設推進を掲げていたが、東電福島第1原発事故を受け方針転換した」という説明もありました。上記福島発言は、こういう報道を基にしたものと思われます。確かに、これまで原発推進路線だった連合が「脱原発」に方向転換したとすれば、連合の強い財政的影響力のもとにあった日本原水禁としてもこれからは気兼ねなしに脱原発を含む核廃絶をはっきり言えるようになるわけですから、古賀発言は注目に値します。ただし、ケチをつけるわけではありませんが、報道ぶりを見る限りでは、古賀氏の発言はそれほど歯切れがいいものではなく、「最終的には原子力に依存しない社会を目指していく必要がある」というものですから、手放しの楽観ができるほどのものかどうかはまだよく分かりません。

 とはいえ、日頃から、原水爆禁止運動が分裂していることが日本の核廃絶・平和運動の低迷の大きな原因となっているという認識を表明してきた私としては、志位委員長及び古賀会長の発言に関するこの記事は、とても見逃すことのできないものでした。

 しかし、この志位発言があった日本記者クラブでの同委員長の発言を報じた6日付の赤旗には、朝日新聞が報じた内容は全く触れていませんでした。そこで、日本記者クラブのホーム・ページを見たところ、志位委員長の発言がYou Tubeで全文納められていることを知り、早速聴取しました。

 そこから分かったことは以下の諸点です。

 まず、志位委員長の冒頭発言で、彼が自らこの問題に踏み込んだ発言をしたということではない、ということです。そうではなくて、質疑に入ってから会場からの質問でこの問題が提起され、志位委員長が答えたという内容でした。質問者は4つの問題を提起し、その中の一つが原水禁運動について、脱原発の一点で原水協と原水禁が協力できないのか、という趣旨の質問が提起されたのです。

 これに対する志位委員長の回答は、おおむね次のようなものでした。

 原発をなくそうという一点で大同団結することは望ましい。(脱原発に関しては)世論の広がりがあり、7月7日の明治神宮での集会や9.11の大江健三郎さんなどによる「さよなら原発」集会は、いろいろな立場の人々、市民が6万人も集まる大集会となった。私も一参加者として出席したが、1973年の小選挙区制反対の時以来の、その時をも上廻る大盛況だった。立場の違いを超えて可能な運動をしていくことが望ましい。

 You Tubeを聞きながらのメモですので、必ずしも正確ではない部分もあるとは思いますが、いずれにせよ、朝日新聞が書いているようには明確に原水禁運動の協力にまで積極的に踏み込んだものとは受けとめられませんでした。もし、この発言に共産党が重きを置いているのであれば、赤旗の紙面でも取り上げていたはずだと思います。

 もちろん、私は、以上の志位委員長、古賀会長、福島党首の発言を無視することは適当ではないと思います。なぜならば、脱原発を願う市民的な声の高まりが彼らをしてこのような発言をせざるを得なくしたことは間違いないと思うからです。志位委員長は相変わらず、1963年当時の部分核停条約問題にも言及するなど、日本原水協と日本原水禁との協力促進を考える立場からすれば、「相変わらずだな」と思わざるを得ないことも口にしていました。しかし、福島の事態を受けて目覚めつつある一般市民の「原子力平和利用」神話への疑問の高まりがこれまでの原水禁運動に新鮮なエネルギーを送り込む可能性はあると思いますし、私としては、そういううねりが起こることを期待しながら見守っていきたいと思います。
(10月8日記)
先月26日にあった東京地裁の陸山会事件判決について、「裁判官が自分の推測と推断で事実を認定し、それに基づいて判決を下す。前代未聞のことであり、司法の自殺に等しい」(6日夕の衆院議員会館における小沢氏記者会見発言。産経新聞、2011年10月6日)とする小沢氏の同判決批判の主張とほぼ同値といってよい東京地裁判決批判が小沢氏に親和的なフリージャーナリストやシンパサイザーを中心にしてこのところ連日のように繰り広げられています。

その判決批判の中には耳を澄まして聞くべき批判もなくはないのですが、その判決批判の「論理」の実体はつけたしのようなものでしかなく、おおむね小沢氏擁護のための擁護を第一義にする、すなわち論理的ではない、ためにする判決批判がおおよそのところのように私には見えます。ここでは私のいう論理的ではない小沢氏擁護のための擁護論と、耳を澄まして聞くべき論理的な(後に論証しますが、一見論理的に見えるということでしかありませんが)判決批判を一例づつとりあげて小沢氏を擁護する論の恣意性、主観性の一端を明らめてみたいと思います。

その前に前提として次のことを述べておきます。

それは、今回の小沢氏VS検察・マスメディアの構図に関して、私は検察やマスメディアの姿勢に肯定的ではない、批判的であるということです。検察はおそらく今回の事件でははじめの段階では小沢氏の収賄容疑での逮捕をめざしていたと思います。その収賄容疑での立件が難しくなって途中から政治資金収支報告書の未記載、虚偽記載違反容疑に切り替えて捜査を進めていった。その今回の検察の捜査の手法は別件逮捕の手法というべきであって決して認めることはできません。また、自らの立件案件を有利にするために操作した検察サイドの情報を意図的にマスメディアにリークし恥じない今回の検察のやり口の不法・不当性も厳しく白日の下にさらされなければならないものだ、と思っています。

また、そのことに関連して、マスメディアが検察の下請け機関化してジャーナリズム本来の独自の検証の姿勢を忘却して検察のリーク情報を無批判に垂れ流し続けた姿勢も犯罪的ともいえるほどの重大問題だとも考えています。このことを上智大学教授の田島康彦氏は外国メディアに「ニュース・メディアはウォッチ・ドッグ(権力の監視者)であるべきだが、彼らはガード・ドッグ(権力の番犬)のように振舞っている」(注1。ニューヨーク・タイムズ「日本のメディアは検察庁が流す情報を丸投げ」 2009年5月29日)と語っていますが、まさにそのとおりです。私はこの点において検察もマスメディアも塵ひとつも擁護するつもりはありません。

注1:原文は“The news media should be watchdogs on authority,” said Yasuhiko Tajima, a journalism professor at Sophia University in Tokyo,“but they act more like authority’s guard dogs.”

さて、上記を前提にして、先に論理的ではない論、小沢氏擁護のための擁護論のひとつの例としてフリージャーナリストの上杉隆氏の「もはや関係修復は不可能 小沢一郎氏vs記者クラブメディアの戦い」(ダイヤモンド・オンライン 2011年10月7日)という論をとりあげてみます。先頃CML(市民のML)にも好意的に紹介されていた田中龍作氏(フリージャーナリスト)の「『小沢記者会見』報道のウソを暴く―TBSキャスターの掟破り」(田中龍作ジャーナル 2011年10月8日)という記事とも呼応する論となっているからです。

上杉氏はこの論で「小沢氏のマスコミとの戦いを検証する意味でも、きょうの会見を振り返ってみよう」と言います。しかし、そう言うわりには、その検証の材料としてあげているのは小沢氏の6日夕の記者会見発言を除けば、TBSのNews23のキャスターの松原耕二氏が同記者会見の司会者が「フリーランスの記者の質問を2問ほど受けます」と言っているにもかかわらず「フリーやネット記者を装」うという「姑息」な手段を用いて「質問を始めた」(田中龍作記者)という一件のみです。

そして、この上杉氏の論で問題なのは、そのたった一件の検証材料としての逸話を改ざんしていることです。上杉氏はこの論の前振りで次のように言っていました。「筆者も会見には出席したが、小沢氏の発言の引用については、より公平性を期すため、すべて産経新聞のウェブ版に拠った。さらに、文意のまとまったパラグラフについては省略をしないことにする。(略)それでは、小沢一郎氏と記者クラブメディアの戦いをノーカットで見てみよう」、と。いかにも公平性を装いながら肝心の「検証」の部分では司会者の「フリーの方も含めて質問を受けたいと思います」(17分34秒頃)という発言を「フリーランスの記者の質問を2問ほど受けます」という発言であったかのように改ざん(意図的であろうとなかろうと)した上であたかも記者クラブメディアの一員としての松原氏の発言がアンフェアであったかのように上杉氏の好む言葉で表現すれば「印象操作」しています。

しかし、司会者の発言が「フリーの方も含めて」というものである以上、マスメディア記者の発言は禁止されているわけではありませんので、松原氏が挙手して発言(しようと)したことにはなんの落ち度もありません。それを記者クラブメディアの記者の横やりやアンフェアであるかのように「印象操作」するのはそれこそアンフェアな態度だといわなければならないでしょう。事実、松原氏は司会者が「質問はフリーの人を優先してということなんで」と釈明すると、それ以上発言することは控えています。ここでも松原氏は小沢氏が叱責する「ルール違反」などしていません(注2)。

注2:田中龍作記者は上述の記事で松原氏を「社名も氏名も名乗らずに質問を始めた。フリーやネット記者を装ったのである。姑息と言わざるを得ない」と批判していますが、司会者から「フリーの方も含めて」と許可されての発言である以上、松原氏は「フリーやネット記者を装」うような「姑息」な手段を弄する必要などありません。また「社名も氏名も名乗らずに質問を始めた」のは事実ですが、発言後すぐに司会者の指摘を受けて「ごめんなさい。TBSの松原でございます」と陳謝した上で社名と氏名を名乗っています。私たちも氏名や所属をはじめに名乗るのを忘れていきなり発言をはじめるということはときどきあります。そうした名乗り忘れを記者クラブメディアの記者に限って「姑息」などと臆断して批判するのはこれもまったくアンフェアなことです。批判のための批判、ためにする批判というほかないでしょう。

この件に関する上杉氏のこの記事の最後の言葉は次のようなものです。「フェアな議論はフェアな舞台にしか宿らない。/小沢一郎氏がマスコミを人物破壊を行う『敵』のひとりとみなしている理由はここにある」、と。まったくご都合主義の手前勝手な言い草としか私には見えません。上杉氏の論を小沢氏擁護のための擁護を第一義にする、すなわち論理的ではない論とする私の「理由はここにあ」ります。

次に耳を澄まして聞くべき論理的な側面を持つ東京地裁判決批判の論としてビデオジャーナリストの神保哲生氏と首都大学東京教授の宮台真司氏のビデオニュース・ドットコムのニュース・コメンタリー(2011年10月08日)での対談をとりあげてみます。

神保氏と宮台氏のここでの論の特徴は、法的責任と政治的責任とを峻別して小沢氏の法的責任は推定無罪の原則や法の平等の観点から問われるべき筋のものではないとするものの、小沢氏の政治的責任は決して免罪していないことです。

この点について宮台氏は次のように言っています。

ただある種の一部の国民感情や一部のマスコミの報じ方をあえて擁護することもできないわけではない。つまり、小沢さんは相変わらず4億円の出元については昨日も記者会見で聞かれて「それを知っているのは検察だから、検察に聞いてくれ」見たいな話(をしていますが)(略)この裁判がデタラメで小沢さんが明らかに無罪であるとしても、それとは別にこの4億円について多くの人が知りたいと思っているので、それについての合理的な説明をしてほしいな、と思う人たちがいて不思議はない。(略)小沢さん自身の政治家としての印象操作を首尾よくやるためには「それは検察に聞いてくれ」みたいな言い方で切り抜けようとするのはあまり得策ではないという気がします。4分24秒頃~

そうして神保氏と宮台氏は法的責任と政治的責任とを峻別しているのですが、神保氏は「今回の裁判ではこの事件の中心的な争点となった悪質性については、検察が『合理的な疑いが介在する余地がない』までに証明ができているとはとても言えない。にもかかわらず、『推認』や『合理的』との理由で、裁判所はその主張をほぼ全面的に認め、結果的に推定無罪の原則を逸脱してしまった」と言い、宮台氏は「状況証拠だけで『推認』『推認』『推認』(で成り立っている判決で)ありえない判決」などとして小沢氏の法的責任は問えないとしています。

しかし、神保氏と宮台氏の両氏が小沢氏の法的責任は問えないとするキーワードは「『推認』だけで証拠はない」というものですが、憲法研究者の上脇博之氏は今回の東京地裁判決は「推認」だけでなく証拠に基づいた有罪判決であることを下記の論攷で必要十分的に論証しています。

■「陸山会」裁判の東京地裁判決について(2):「西松建設」違法献金事件(2011年09月29日)
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51618618.html

上脇氏の証拠を挙げた上での論究は以下のようなものです。

(1)「西松建設」自身が自社のHPでOBらでダミーの政治団体をつくる等してその「政治団体からの献金を装って政治家個人の政治団体等に献金することを画策した」ことや同社が「一部の社員に対して特別賞与の名目で金銭を交付し、その代わりに当該社員から年に2回、政治団体への寄附をさせていた」ことを明確に認めているという証拠があること。

(2)小沢氏側と二階氏側にそれぞれ他人名義で寄付をした西松建設の前社長は、有罪の判決が下され、それを受けた二階氏の秘書は他人名義での寄付を受けたとして有罪になっているという明白な事実も存在すること(すなわち、証拠もあること)。

(3)両政治団体の献金は全て西松建設が決定し、同社代表取締役社長(前掲の前社長)らの指示・了承の下、同社総務部長兼経営企画部長らが同社のOBで新政研の名目上の代表者に指示して献金の振込手続きを行わせていたという証拠があること。

(4)小沢事務所の秘書らは2つの政治団体の寄付を西松建設からの寄付であるとして取り扱っていたという証拠もあること。

この「証拠」の問題については、フリージャーナリストの岩上安身氏の「あの水谷建設のヤミ献金を事実認定、推認していく、その辺りがとてつもないと?」という質問に対して、小沢派のジャーナリスト、ブロガー、議員などから神様のように頼りにされている郷原信郎弁護士も「水谷建設のヤミ献金は推認じゃないですよ」「あれは水谷建設のあれ(関係者)が証言しているわけですから。直接証拠があるじゃないですか」と岩上氏の「推認」論をたしなめています(郷原信郎弁護士インタビュー IWJ 2011年10月9日)。

東京地裁判決は「推測と推断で事実を認定」しており、「司法の自殺に等しい」などという小沢派流の俗論は自分の目で判決要旨、判決文の論理の流れをよく読んで、それこそ「検証」してみる必要があるだろう、と私は思います。いたずらな判決批判、小沢氏擁護の論には、今回の政治資金規正法違反事件ではいったい何が問われているのか(もちろん、金権政治というわが国の政治の根幹に深く巣食う暗い闇が問われているわけですが)。その視点が見事に欠落しているものが多い、という印象を私は強く持ちます。
朝日新聞が昨日5日にあった日本記者クラブでの共産党委員長の志位氏の講演を「脱原発へ『原水協と原水禁が協力を』 共産・志位委員長」という見出しをつけて報道しています。

 原発をなくそうという方向で協力できたら……」。共産党の志位和夫委員長は5日の日本記者クラブでの講演で、脱原発で旧社会党系の人たちとの歴史的な対立を乗り越え、連携する必要があると訴えた。
 
 日本の反核運動は、1954年3月の「第五福竜丸事件」を機に始まり、「原水爆禁止日本協議会」(原水協)の発足後、旧ソ連の核実験をめぐる共産党の姿勢を批判した旧社会党・総評系が「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)を結成し、勢力が二分された。
 
 志位氏は講演で、脱原発を目指すには政党を超えた連携が必要だと強調。「原水協や原水禁の流れがあっても、協力ができたらなというのが私たちの願いだ」と述べ、同じく脱原発を掲げる社民党など旧社会党系の勢力に秋波を送った。(朝日新聞 2011年10月5日

一方、赤旗は6日付けで「原発災害、『反省』いうなら責任ある対応を 日本記者クラブ、志位委員長が講演」という見出しをつけて5日の同講演の内容を当然のこととはいえ朝日新聞よりも詳細に報道していますが、その長めの記事の中には同党の志位委員長が語ったという原水協と原水禁の協力問題はワンセンテンス、というよりもワンフレーズも出てきません。赤旗によれば、志位氏はまるでそういうことは語っていなかったかのようです。

朝日新聞を除く他の一般紙はインタネット上で見る限り同日の志位氏の講演は記事にしていないか、記事にしていてもごくごく簡単なベタ記事で、見出しも「共産・志位氏『政権の原発依存あらわ』」(日本経済新聞)、「『首相は原発に固執』=志位共産委員長」(時事通信)といったもの。講演で志位氏が原水協と原水禁の協力問題について語ったなどということは知るよしもありません。この記事を書いた赤旗記者は他の一般紙=商業紙並みの記者の視点でしかものを見ていない、ということになります。すなわち、原水協と原水禁の統一・協力問題の重要性についての問題意識がこの赤旗記者には欠けているのです(編集部によって原水禁統一問題の記述は削られたという可能性もないわけではありませんが)。

私たち共産党外の者にとっては、これが「原発ゼロ」をいう共産党の「脱原発」政策の正味のところか、と多少の疑心暗鬼を持たざるをえません。「脱原発」政治を構築するための一里塚としての原水協と原水禁の統一・協力問題の重要性の認識が末端(赤旗記者は末端とはいえませんが)まで浸透していない結果としての統一・協力問題への視点の欠落がこのような赤旗記者の書きぶりになったとしか判断しえないからです。

「原発をなくそうという方向で(原水協と原水禁が)協力できたら」という志位委員長の思いがほんものであるならば、脱(反)原発のための社員教育ならぬ党員教育をもっと徹底するべきでしょう。私たちが接するのはほとんどの場合末端の共産党員であるわけですから、その末端の共産党員から原水協と原水禁の統一・協力問題への前向きな思いを聞かされて私たちははじめて道筋として共産党を信じようと思うにいたるのです。

赤旗記者にはせめて(批判の多い)朝日新聞記者並みの問題意識くらいは持ってほしかった、というのが今回の朝日新聞と赤旗の記事を読みくらべての私の感想です。
前回のエントリに続くパート3として以下を書きました。
 
私のいまの政治的な閉塞状況―「表現の自由(注:もちろんデモという表現手段も含みます)という基本的な権利そのものを『公共の福祉』への敵対的なこととみなし、こうした権利に露骨に介入する」(小倉利丸「日本のデモに表現の自由はない」2011年9月13日)治安国家的状況―を打破するという意味での最大の関心事は、東京・高円寺でリサイクルショップを経営する松本哉さんや作家の雨宮処凛さんらが参加する「原発やめろデモ」会議が「デモと広場の自由」のための共同声明発表と相前後して日弁連にその救済を求めた反原発デモ参加逮捕者の人権救済の申し立てを同日弁連がどれほどの情熱と熱意をこめて捌きうるか。別の言葉で言えば、万国に認められているデモという表現手段を不当逮捕という国家的暴力で抑圧しようとする警察権力の横暴と日弁連がいかに対峙しうるか、ということです。

そういう意味で先に発信したメールのパート3として『マガジン9』の2011年10月5日号に掲載されている雨宮処凛さんの「『デモと広場の自由』のための共同声明・記者会見。の巻」のエッセー的論攷をご紹介させていただこうと思います。面白くもあります。


「『デモと広場の自由』のための共同声明・記者会見。の巻」(雨宮処凛 『マガジン9』 2011年10月5日

 9月29日、私は有楽町の「日本外国特派員協会」にいた。「『デモと広場の自由』のための共同声明」の記者会見をするためだ。

 この日の記者会見に出席したのは評論家の柄谷行人氏、慶応大学教授の小熊英二氏、一橋大教授の鵜飼哲氏、そして私。

 なんとも豪華なメンバーがこうして一堂に会した理由は、9月11日の「原発やめろデモ!!!!!」で12人が逮捕されるという異常事態に抗議してのものだ。この日の大量逮捕については第203回で書いた通りだが、「そんなメチャクチャな逮捕を許さない」と、こうして「大物知識人」(私を除く)たちが動きだしたのである。

 ということで、会見に先駆けて26日にはサイトに柄谷氏、鵜飼氏、小熊氏が起草した「『デモと広場の自由』のための共同声明」がアップされた。全文はこちらでご覧頂けるのでぜひ読んでみてほしい。

 この共同声明で特に私が好きなのは、今回の原発事故を受け「全国各地にデモが澎湃(ほうはい)と起こってきたことは、日本社会の混乱ではなく、成熟度を示すものです」という点だ。その通りで、今まで、デモをすることが「特殊なこと」だと思われていたこと自体がおかしいのだ。この連載でも何度も触れてきたが、「デモをする権利」は当たり前だけど誰にでもある。前回、イタリアのアンジェロさんがデモを主催したことからも明らかなように、外国人だって申請できる。デモが始まる72時間前までに出発地の最寄りの警察署に申請すればいいだけだ。それだけで、私たちは「意思表示」ができるのだ。憲法21条で保障された、民主主義の基本的権利である。

 しかし、そんなことをこの国のどれだけの人が知っているだろうか? 少なくとも私自身、これほど気軽にできるものだとはメーデーなどで自分自身がデモの実行委員となるまで知らなかった。イラク反戦デモ以前は、デモと言えば「特殊な人たちの特殊な手段」だとすら、思っていた。どんなに素晴らしい権利でも、知られていなければ存在しないことと同じだ。声明には、「民衆の意思表示の手段であるデモの権利を擁護します」という一文もある。デモの権利は、その国の民主主義の度数を図るものだと思う。独裁政権下では、デモをしただけで射殺されることだってあるだろう。それを思えば、この権利は手放してはいけないものだし、「脱原発デモ潰し」にしか見えない大量逮捕など、決して許してはいけないことだと思うのだ。

 さて、そんなことから「『デモと広場の自由』のための共同声明」が出され、私自身も呼びかけ人の一人となり、この日の会見に参加したわけである。会見場に行くと、既に記者席は満席で様々な国のメディア人で埋め尽くされ、何台ものカメラが会見の様子を中継。そんな中、最初に発言した柄谷氏は、日本でデモがなくなった/少なくなってきたのは80年代以降のことであり、それ以前はさかんに行われていたことに触れ、言った。

 「日本でデモが少なくなってきたことと、これほど地震が多い国に54基も原発が作られたことには深い関係があります。それは、原発に反対するという意思表示ができなくなってきたということです」

 その背景にあることとして柄谷氏が挙げたのは、労働組合の弱体化や社会党の消滅、そして90年代に新自由主義体制が確立したことなど。そのことと、原発が大量に作られ続けてきたことにはやはり大きな関係があることを指摘し、こう続けたのだった。

 「地震のあと、外国人は日本人の冷静さを賞賛しました。しかし、同時に不可解でもあったはずです。どうして日本人は抗議しないのか、怒らないのか。しかし、3・11の原発震災以降、デモが始まりました。私は単に原発に反対するだけでなく、個々人がその意志をデモで表現することが重要だと思います。その意味でようやく日本人が意思表示を始めたのだと思います。日本でやっとデモが始まったことに希望を見いだしています。そのきっかけを作ったのは素人の乱の若い人たちです。彼らは新しいデモの形式を作り出した。私は彼らに感謝しています」

 隣でその言葉を聞きながら、なんだか顔がニヤけるのを抑えることができなかった。だって、なんかすごく頭のいい人に「デモをやってる」ってことだけで大掛かりに褒められてるみたいなものではないか! もうこの5年くらい散々デモをやってきたが、けなされたり馬鹿にされたり、果ては近しい人にまで「好きだよねー」と呆れられた経験はあっても褒められたことなど一度もない。それがなんと、柄谷行人氏という、おそらく私には難解すぎて読めない本を書く知識人にものすごく「評価」されているのである。デモやってるってことだけで。

 会見が終わったあと、「いやー、なんか自分がやたらデモばっかしてることがすごい偉いような気がしてきましたよー」と柄谷氏に告げると、「偉いよ!」と言われ、またしても気分が良くなったのだった。これからは、私がデモに行きまくってることを馬鹿にされたら、「そんな私の存在こそがこの国の民主主義の成熟度を表すものなのだ」と反論しよう。しかも、デモにはダイエット効果もある。3・11以降、私は12回のデモに参加したが、炎天下の中歩き続け、躍り続けるデモなどに行きまくったおかげでなんの苦もなく5キロの減量に成功。デモは美容と健康にも効果抜群なのである。「楽しみながら痩せる デモダイエット☆」なんて本を出したら売れるだろうか。柄谷さん、帯コメントとか書いてくれないかなー。

 ということで、改めて「デモ」の大切さを実感したのだが、「自分の頭で考えて行動する」って、人として最低限果たさなければならないことではないだろうか? 逆に私はそうしていなかった頃の自分の方が、よほど異常という気がするのだ。そしてそんな「人任せ」の作法を多くの人がとっていたからこそ、地震大国に世界中の1割以上の原発が集中するというあり得ない状況が放置されていた。貧困問題だって同じだ。「誰かがなんとかしてくれる」。そんなうっすらとした無責任な思いを多くの人が持っていればいるほど、どんな悲劇も放置される。どんな不条理もまかり通る。

 また、私は基本的に人間不信なので、政府とかほとんどの政治家とかをまったく信じてないし信じるつもりもない。だからこそおかしいことには「おかしい」と声を上げ続けたいし、それこそがこの社会に生きる一員としての最低限の「自己責任」だと思うのだ。

 そう、自己責任って、他人を責めて追いつめる言葉ではなく、この社会に生きる大人として、自分がどれほど責任を果たしているか、自らに問う言葉ではないのだろうか。「大人」というと経済的自立ばかりが強調され、また「より多くの利益を生み出す人間」ばかりがもてはやされる世の中だが、私の中での大人の定義はそんなものではない。私の中での大人定義は、自らの頭で考え、おかしいと思うことにはちゃんとおかしいと声を上げ、行動する存在だ。そうして近い未来や遠い未来に理想を描き、そのために変えようという意志を持ち、実際に変えていくために動く存在。この定義は、「経済的に自立してる」くらいよりよっぽどハードルが高いだろう。しかし、そういう大人が増えれば、確実にこの国は変わっていくと思うのだ。そして私はまだまだ及ばないものの、そんな大人になりたいと思い続けてきた。

 さて、この日の会見で述べた通り、「原発やめろデモ」会議では、今回の大量逮捕について、日弁連に人権救済の申し立てをした。おかしいことにおかしい、と声を上げている人は、実はたくさんいるのである。「原発やめろデモ」には今までのべ7万人近くが参加しているわけだし、この日記者会見に登場した知識人たちも今回の逮捕を「おかしい」と思い、それを伝えるために声明を出し、わざわざ海外メディアの前で記者会見まで開いた。もちろん、そんな行動は1円にもならない。そして私は、そんな人たちがとてもカッコいいと思うのだ。

 私には、「こんなふうになりたいな」と思う魅力的な「大人」がたくさんいる。それはとても、幸せなことだと思うのだ。


*改めて<共同声明>が掲載されているサイトと<共同声明>の呼びかけ人とメッセージ募集サイトを下記に記しておきます。

「デモと広場の自由」のための共同声明
http://jsfda.wordpress.com/statement/

共同声明の呼びかけ人とメッセージ募集サイト
http://jsfda.wordpress.com/yobikake/
前回のエントリ記事について下記のような応答がありました。

今回の一連の不当逮捕は、特定の考え方のグループに対する弾圧と見るべきものであって、日本社会であらゆる集会やデモが抑圧されているのではないということ。法の執行者であるはずの警察権力は極めて恣意的な法適用に傾き、憲法で保障された法の下の平等を踏みにじっているのです。そこを、見過ごしてはならないと思います。
 
上記の応答には最近の警察(治安当局)の一連のデモ参加者に対する不当逮捕事件をどのように把捉するか。また、その「デモ参加者不当逮捕」という事件性の本質を私たちとしてどのように理解するべきかというきわめてアクチュアルな問題提起が逆説的な形として含まれているように思います。
 
その問題をレスポンス(応答責任)という形をとって考えてみました。

Mさん、コメント拝見させていただきました。

Mさんが「雨宮(処凛)さんが(記者会見で)指摘するように(特定の考え方のグループに対する)弾圧」と言われるとき、その「特定の考え方のグループ」とはどのようなグループのことを指しておられるのかがよくわからないのですが、仮に「脱(反)原発」という考え方を「特定の考え方」と言っておられるのだとすれば、いまや「脱(反)原発」は各種の世論調査を見ても国民の大多数が志向していることははっきりしていますから(実際の選挙では地縁、血縁、地域利権などさまざまな要素が混入してきますから脱(反)原発派は連敗しているという事情も一方でありますが)、「脱(反)原発」という考え方それ自体を「特定の考え方」ということは適当ではないように思います。

また仮に9月11日の反原発デモの際に逮捕者を出した高円寺のリサイクルショップに集う若者たちのグループのことを「特定の考え方のグループ」と考えておられるのだとすれば、同ショップに集う若者たちの思想は実に多様(「雑種」と形容することもできるでしょう)というべきで、「特定の考え方」というやわなカテゴリーに収斂されうるものではないようにも思います。したがって、こうしたグループのことを「特定の考え方のグループ」とみなすのもやはり適当ではないと思います。

記者会見した雨宮さん自身が3・11以後の反原発デモに参加した人たちのことを以下のように評価しています(ちなみに雨宮さんは記者会見では(確認のため繰り返しビデオを観てみましたが)「(特定の考え方のグループに対する)弾圧」などということは言っていません)。

ほんとうにはじめてデモに参加したという人が圧倒的多数で、20代、30代の人が参加者の中でも圧倒的に多いということです。/3月11日の震災と原発事故が起こるまで原発問題というのは考えたこともなかった、というような方がとても多く参加していて、でもやっぱりその後のいろいろな報道とか国の説明とか聞いて、まったく信用できない。国とか政府の言っていることは全然信用できないから、とにかく自分たちがこれほど原発の当事者だったんだということをあの日以後はじめて気づいてなんとか意思表示を、自分の将来を変えるために意思表示をしなくては、というかなり切実な覚悟を持った若い方が参加しているというそういうデモなんです。

さらに9月11日の反原発デモでは在特会のデモ妨害に抗議しようとしたデモ参加者が逮捕されたわけですが、仮にそうしたデモ参加者の在特会への抗議行動などを「特定の考え方」と言っておられるのだとすれば(そうではないと思いますが)、これもやはり不適切な見方といわなければならないだろうと思います。

総じてMさんの「日本社会であらゆる集会やデモが抑圧されているのではない」という見方は失礼ながら「現実」を正しく見ていない見方といわなければならない
だろう、と私は思います。たしかに事実として「日本社会であらゆる集会やデモが抑圧されている」わけではありませんが(そうなれば大変なことです)、「日本の警察は、(略)表現の自由という基本的な権利そのものを『公共の福祉』への敵対的なこととみなし、こうした権利に露骨に介入する」(小倉利丸「日本のデモに表現の自由はない」2011年9月13日)、そうしたわが国全域での集会やデモへの公権力の不当な介入意志の一環として「今回の一連の不当逮捕」もあった、というのが私の見方、あるいは認識です。

実際にも今回の警察の不当逮捕の具体的な特徴は次の3点に集約できるもののように思います。

1)サウンドカーとデモ隊との間を機動隊が暴力的に切り離し、それに抗議する者を逮捕したこと
2)右翼市民団体のデモ妨害に抗議した者を逮捕したこと
3)デモの主催者を許可条件違反、歩道上まで隊列を広げるなど警察官の再三にわたる警告を無視、などの口実をつくって都公安条例違反の疑いで逮捕したこと

上記の3つの特徴に共通することは、①デモ参加者を「過激な連中」というレッテルを貼って若者の分断を謀っていること②デモの主催者抗議者をみせしめ的に逮捕していることです。しかし、彼らは活動家でもなんでもありません。日本の現在の警察権力日常的レベルの思想として「表現の自由という基本的な権利を『公共の福祉』への敵対的なこととみなし」ており、かつ、そうした権力思想を日常的に所有して(させられて)いる。そうした日常的レベルの権力思想が国家暴力として帰結するところの不当逮捕ということであり、そういう意味で私たち市民の集会をする権利、デモをする権利、表現の自由は公権力という大きな力によっていままさに侵食され抑圧されている、というのが、今回の「デモ参加者不当逮捕」を本質的に捉まえる見方というべきだろう、とは私の認識するところです。
紅林進さんがCML 012190(9月28日付)で発信されている「『デモと広場の自由』のための共同声明」と小林アツシさんがCML 012271(9月30日付)で発信されている9月23日に東京・新宿であった差別・排外主義反対デモの際に警察に拉致された同デモ参加者の不当逮捕事件に関してですが、 すでに小林さんが同不当逮捕事件のあらましを伝える林克明さん(ノンフィクション・ライター)のTwitter情報をご紹介されていますが、同Twitter情報よりもさらに詳細な不当逮捕の実態を林さんがマイニュース・ジャパンに自分の目で見た<怒り>の目撃記事として発信されています。

■暴走する警察 機動隊が新宿デモに乱入、リーダー狙い撃ち逮捕の一部始終(林克明 2011年10月2日)
http://www.mynewsjapan.com/reports/1503

同記事中で不当逮捕時の映像も紹介されていますが、その映像が警察の不当逮捕のなによりの証拠となっています。ぜひご覧ください(ただし、無料記事用に配信されている映像は1分程度の短いものです。が、それでも十二分に罪のない者を逮捕するという警察の公権力行使の不当性を明らめる映像となっています)。

また、柄谷行人さん(文芸評論家、思想家・元法政大教授)、小熊英二さん(社会学研究者、思想家・慶応大教授)、鵜飼哲さん(フランス文学研究者、思想家・一橋大教授)の 「『デモと広場の自由』のための共同声明」(外国特派員協会での記者会見には雨宮処凛さん(作家)も参加)に関しては下記に記事と映像があります。

同記者会見の中で雨宮処凛さんが日弁連にデモ参加逮捕者の人権救済を求める方針を明らかにしていますが、これはとても重要なアクションだと思います。

これまでにも2008年10月の麻生リアリティツアーの際の不当逮捕事件をはじめとして警察のデモ参加者に対する不当逮捕は相当数に上りますが、私が調べた限り、日弁連はこれまでデモ参加者不当逮捕事件については会長声明や意見書を出して抗議表明をしておらず、かつ捜査機関に対する警告や勧告も一度も発したことはないようです。

日弁連が人権の砦を自負するのであれば、日弁連はいま動くべきときだと私は思います。

「『デモと広場の自由』のための共同声明」でも主張されているように「デモは『集会と表現の自由』を掲げた憲法21条において保証された民主主義の基本的権利です」。かつ「全国各地にデモが澎湃(ほうはい)と起こってきたことは、日本の社会の混乱ではなく、成熟度を示すもの」でもあります。「民衆の意思表示の手段であるデモの権利を擁護」するために日弁連はいま動きだすべきときではないでしょうか!

脱原発デモ「抑圧に抗議」 参加者逮捕で柄谷さんら東京新聞/共同通信 2011年9月29日

 東日本大震災から半年の9月11日に東京・新宿であった脱原発のデモ行進で、公務執行妨害容疑などで参加者12人が警視庁に逮捕されたことを受け、評論家の柄谷行人さんらが29日、都内の日本外国特派員協会で記者会見し「デモへの抑圧に抗議する」と訴えた。

 柄谷さんは、慶応大の小熊英二教授、一橋大の鵜飼哲教授らとともに「民衆の意思表示の手段であるデモの権利を擁護する」との共同声明を発表。

 作家の雨宮処凛さんは「今まで動かなかった層がどっと動いたことを警察は恐れたのではないか」と指摘。来週にも日弁連に12人の人権救済を求める方針を明らかにした。

(共同)
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■記者会見における柄谷行人さんの冒頭発言 part.1
http://www.youtube.com/watch?v=xqrT4MmmuQc
■記者会見における柄谷行人さんの冒頭発言 part.2
http://www.youtube.com/watch?v=I-gppwybp4g

雨宮処凛さん(part.1後半)、小熊英二さん(part.2)、鵜飼哲さん(同)の発言については下記をご参照ください。

■「デモと広場の自由」のための共同声明 part.1
http://www.youtube.com/watch?v=4zTMJxfT450
■「デモと広場の自由」のための共同声明 part.2
http://www.youtube.com/watch?v=gYT6bw7tkQg

なお、下記は紅林さんのメールより:

以下のサイトに<共同声明>が掲載されています。

「デモと広場の自由」のための共同声明
http://jsfda.wordpress.com/statement/

また以下のサイトから賛同・呼びかけ人に加わることができます。私もこの声明に賛同し、呼びかけ人に加わりました。

共同声明の呼びかけ人とメッセージ募集サイト
http://jsfda.wordpress.com/yobikake/

なおこの<「デモと広場の自由」のための共同声明>の運動は『全員呼びかけ人運動』ということで、賛同=呼びかけ人ということになるようです。